『てのひら怪談2』を1/10読みながら(その8回目)

「問題教師」貫井

八百字という短さは読者より書き手にとっていっそう“短い”のではないか。なんとなくそう思うんですが、たとえば私は短歌もつくるけど、短歌とくらべて二十倍以上の字数があるから書くのが楽かというと、全然そうではない。むしろ短歌より字数が足りないと感じるくらいです。
小説(で必ずしも括れないかもしれないけど、「怪談」であることが要求する物語性のある散文、くらいの意味)で八百字というのは相当な短さで、何を残し何を諦めるかという判断を書き手は絶えず迫られるところがあります。私の体感だと小説が小説として十全なものになるのは千字くらいからで、それ以下では小説として必ず何かが欠ける。だから千字未満の散文を小説として読ませる場合、その欠けた部分をどこにもってくるかという戦略抜きでは書けないようなところがあります。充分に小説である、といえないところでいかにその不足を処理するか。欠落が目立たぬようカムフラージュするか、あえて欠落を晒して見せつけるのか、そういう一作ごとの戦略じたいが読ませどころという側面があると思うのですね。


「問題教師」という作品は、このような「八百字という十全でなさ」を“肉声の語りの取り留めのなさ”を差し出すフレームとして発見している、といえるのではないかと思います。
飲食店の隣のテーブルから聞こえてくる声をそのまま採録したような語りは、そういう場面では大抵そうであるように、肝心な情報が不足し、余計な情報にまみれています。八百字というフレームが、たまたま聞こえてきた会話をその字数分だけ記録する媒体であったかのように、ひと続きの時間として切り取っている。
それは冒頭ですでに「ええーまた最初からあ?」と一度途中まで語られたことが示されており、あるいはそのことも語り手の緊張感を奪っているのか、話は目の前で聞き手の食べているポテトから、そのポテトを提供している企業を取り上げた映画へと脱線する。ようやく戻ったかと思えばメールに気を取られて無言となり、肝心の恐怖体験は聞き手の笑いに腰を折られながらようやく語り終えたものの、およそ怪談として十全な姿を示してはいません。このノイズからかき集めた部品を読者が組み立てなおしても、いわゆる“怪談”はおそらく部品不足でどこか欠損しているはずです。しかしそもそも“怪談”も所属するわれわれの現実とはそういうものなんですね。だからカットを割られていないシーンを見ているように現実の感触が読者には伝わる。
小説として十全でない形式を、形式に合わせて半ばあらすじ化した物語、骨組みをむき出した物語の保存のためには使わないという判断。そうではなく物語としてはたとえ不完全であっても、われわれの現実の豊かさ(あるいは複雑な貧しさ)を八百字分だけ無傷で切り取ってみせるためにこの形式を使うという判断が、ここには見て取れるわけです。
だが物語としての欠落は、逆説的にこの作品に怪談性を補填してもいる。怪談は語らないことで語るというジャンルでもあるからです。また目の前でポテトを食べながら相槌を打っているはずの聞き手の声が、作中に一度も響かないこともかすかに不安に思えなくもない。言葉以外に頼るもののない環境では、隣のテーブルで私の耳を釘付けにしているお喋りの主が、じつは連れなどいない一人客でない保証はどこにもないからです。


ところで八百字、原稿用紙二枚というルールは作品の全体に適用されるものではありません。募集要項には明記されていないけど、公募文学賞では暗黙の了解として字数(枚数)の規定はあくまで本文のみを対象としている。つまりタイトルは適用範囲外なんですね。
とはいえ本文に収まらない分を、そのままタイトルとして盛り込めるかといえば中々そうはいかない。そんなことをすればきわめてバランスの悪い作品になるからです。タイトルと本文の関係というのは微妙なもので、そもそもタイトル中の一文字と本文中の一文字は重さがまるで違う。タイトルもまた作品の一部であるどころか、作品の中でもきわめて特権的な文字列なのであって、そのたった数文字で本文を生かすも殺すも自在というか、掌編ならタイトル次第で同じ作品が傑作にも凡作にもなりうるくらいです。
だから私はいつも悩みつつ、つい無難なタイトルを選びがちで、タイトルで勝負に出るなんてことは滅多に考えない。『てのひら2』を眺めてみても、タイトルの付け方ではっとさせられるものは少ないと思う。私の「客」なんてその最たるものですが、物語の中心にあるものをそのまま持ってくるか、別のよく似た言葉で言い換えているものがほとんどなんですね。いわばごく軽いネタバレのようなタイトルの付け方であり、もちろんそれはそれでふさわしい場合もありますが、全体に無難、おとなしいやり方という印象は受けるのです。この特権的な文字列を本文の外からいかに響かせるか、というたくらみに積極的な例は多くない。
しかし凝ったタイトルの逆効果というのもあるわけで、それよりは無難に付けたほうが少なくとも邪魔にはならないだろう。という姑息な判断を私などはするわけです。


でも小説として、怪談として十全でない形式は、その埒外にあるこの文字列にもっと注目し役割を与えることを要求しているのではないか。
たとえばタイトルと本文の関係にどこかねじれがあることで、この短さの外へ作品が広がり出す効果を上げられるのではないか。不自由なフレームを超えられるのではないか。そのようなことを「問題教師」を単行本で読み直したときに感じたのです。
この作品は『てのひら2』中で数少ない、タイトル−本文間にねじれのつけられた作品です。本文を読み終えるとふたたびタイトルを読み直してしまう腑に落ちなさ、タイトルが単に本文の見出しや要約ではなく、本文とは別人がタイトルだけを呟いているような奇妙なずれが生じており、作品の怪談性の根拠のひとつがそこにあるんですね。
事実、ここには二人の語り手がいるのだともいえる。若い女性と思われる人物のひとり語りで本文は成り立っていて、それは作中の特定の誰かに向けられた語りなので、ここには読者に語りかけるという意味でのナレーターは存在していません。つまりタイトルだけが実際に別人、というか別の“声”で語られていることになる。本文にはまるで姿を見せないナレーターがタイトルだけをぽつりと、読者に向けて呟いている。そこで生じている本文内容とのずれ(タイトルに反して本文では教師の「問題」性が主題になっていない)がここに二つの別の“声”が存在しいることを際立たせている、ということです。
あるいはノイズの多い混沌とした会話体の本文と、そこから引き剥がすように身をねじったタイトルとが奇妙にあやういバランスを取っている。それら全体が作品として差し出されているということですね。八百字という小説=怪談としての十全でなさを、外から批評的に照らす言葉とのセットで小説=怪談としてプレゼンテーションしているということです。そのためにタイトルまでを十全に使いきっている。
こうした一種の倒錯に身を乗り出していく書き手の過剰さこそ、定型をもつ表現(八百字という字数制限は単なる上限というより定型に近いと思う)を単に手軽なアマチュア文芸に眠らせておかないために必要なものです。定型に凭れれば誰でもそれなりに巧く見せられるとか、小器用であることが才能に見せかけられるといった退廃の蔓延を予防するのは、過剰な書き手の存在だと思う。タイトルを二度読ませるために八百字を費やしたかにさえ見える、この身のよじり方こそが、定型を安眠させぬため内側から揺さぶっているはずなんですね。それだけのポテンシャルをもった作品なのだということです。