日産とプリンス 合併の裏で。。。Part6 プリンス自販の酷い内容を見抜いていたトヨタ

 桜内通産大臣は、プリンスの合併先として最初にトヨタを選んだが、断られてしまった。しかし、それで断念せず、日産自動車との合併を画策する。そのターゲットは社長の川又克二自身であった。そこで順序として、桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ねた。興銀は日産のメインバンクであり、それを背景に興銀から送り込まれたのが川又克二社長である。中山、川又とも1929年に旧制東京商科大学(現一橋大)を卒業、興銀に入行したが、中山が若くして才能を見出され、人事、調査部長を歴任、1947年には、早くも理事に就任したのに対し、川又は、地方に回され、しかも途中、陸軍主計幹部候補生として徴用されるなどして、戦後興銀に出社すると、与えられた辞令は融資部次長で、同期の中山が理事に抜擢され、輝かしい未来が約束されていたのとは対照的、まさに天国と地獄であった。
 川又自身は、その頃のことを次のように語っている。
「戦争末期における4年間の軍隊生活で、世の中の悲惨な面には飽き飽きした。これからは金でもあれば牛か馬を相手に牧場でもやって、のんきに暮らしたいと、そんな気でいたのだから、事務処理などまっぴらだった。なた豆のキセルで刻みを吸いながら、新聞、雑誌ばかり読む生活が3、4ヶ月もつづいた。銀行のほうでも、そんな私に愛想をつかしたのか、昭和21(1946)年3月、広島支店長を命ずるという辞令をもらった。(中略)やっとの思いで、軍隊から解放され、家族と一緒にやれやれと思っているやさきである。支店長はよいが、原爆で戦争の最大の被害地になった広島へ行けというのだから、正直なところうんざりした。辞令を破って捨ててしまおうかと思った」
 1947年、川又は興銀の融資を背景に、日産自動車の常務に就任する。本来の目標である興銀理事にはなれず、追い出された形である。だから、川又の心の奥深くでは、必ずしも興銀は嬉しい古巣ではなかったようである。目標を達しえず、追い出されたところである。それだけに、「俺を見損なった興銀ではないか」と言った、一種の敵愾心があったようだ。
 このような事情があるため、まず桜内通産大臣は、中山興銀頭取を訪れ、中山の意向を確かめたのだった。
 中山素平は「財界の鞍馬天狗」の異名も持つ男だが、合併当時は、海運、証券業界の再編に成功、 山一證券の経営危機に際し、日銀特融を主張し、田中角栄蔵相の決断を引き出すきっかけを作ったのも中山であった。積極的に再編成を仕掛けていた中山が、桜内の合併話に賛成するのは当然のことであった。その根回しが済んだあとで、桜内は川又に会った。川又は日産自動車の社長であると同時に日本自動車工業会会長でもある。合併が正式発表されたとき、川又は新聞記者に対し次のように語っている。
「かねて、桜内通産相から懇請されていたため、日産とプリンスの合併交渉を進めていた。あくまでも対等の精神で合併することに決めて、通産相に仲人役をつとめてもらった。このような形で、今後とも、自動車業界の再編、強化が促進されることを望んでいる」
 最初、桜内が大臣の身でありながら、プリンスの大株主である石橋正二郎と、トヨタ自動車会長の石田退三をプリンスホテルの一室に招致、合併話を持ち出したのに、石田がにべもなく断ったことは、秘めたる事実である。断った理由のうち、具体的に言えることは、後日、日産とプリンスの合併比率が1対2から1対2.5に変更、見方によると、日産側に、あえて約束違反をなさしめたが、この原因を、トヨタ側は、このとき早くも察知していたからである。それは、プリンス自動車販売の内部に隠された赤字である。
 プリンス自動車販売は、いわゆる未公開会社であった。だから一般に、その内容は公表されていなかったが、赤字が最低50億円から100億円、ある筋の見方では「赤字100億円以上」の声が高く、石橋正二郎もその額に驚いたくらいである。また住友銀行専務の高橋吉隆と興銀常務の梶浦英夫が、両社の内容を検討したとき驚いたのは、プリンス自販の莫大な赤字であったといわれている。
 トヨタ自動車では、自動車業界の再編成問題に対処、何年か前から、三井銀行出身の社長・中川不器男直轄の「トヨタ特捜班」ともいうべき調査機関ができていた。一時、合併を噂されていた、いすゞ自動車日野自動車はもちろん、プリンス自動車の内容も、特捜班の手で、洗われていたはずである。それで、プリンス自動車はともかく、プリンス販売会社が、このような弱体では、合併しても将来大きな重荷になると判断した。つまり、トヨタは、プリンス合併によるデメリットを重要視し、合併を拒否したのだ。
 これに反して、日産の川又社長は、この話に食いついた。いわゆる質より量をである。プリンスを合併することで、トヨタに数字的に肉薄、日本一の日産への悲願に、大きく近づけると判断したからである。

この項つづく。