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フィアット500大作戦!!

2014-12-06

国営昭和記念公園 昭和の時代展から Part 2

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1963 NISSAN Blue Bird Type-311

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1963 SUBALU 360 CUSTOM

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1970 NASSAN LAUREL Hardtop

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1970 HONDA 1300 77

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1965 Mitsubishi Minica

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1968 Prince Skyline 2000GT-A

2014-10-12

川上完メモリアル in 湯沢  ヒコーキ少年 川上完さんの愛車たち

今年の5月7日に67歳という若さで突然この世を去った、川上完さんへの追悼の気持ちを込めて、クルマ好きのミーティングが新潟県の湯沢にて開催された。クルマと飛行機をこよなく愛し、ミニカーコレクターとしても有名だった彼を偲びつつ、彼が愛したたくさんのクルマとともに楽しく、和やかにお別れをしようという主旨のイベントには、川上さんの人徳のなせる業から、宿泊先のホテルは貸し切りとなり、多くのクルマと人が集うこととなった。生憎の台風一過であったが、貴重なクルマが雨ざらしとなりながらも参加してくれて、参加した皆は心ゆくまで川上完さんのことと好きなクルマのことを語り合っていたようだった。

川上さんはヒコーキ少年として有名だった。

何を隠そう、僕は小学生の頃から「ヒコーキ少年」なのだ。とは言っても、CGの小林彰太郎さんのように、グライダーの操縦や学徒動員の経験などまったくない、ただのデータオタクなのだが、そんなデータオタクが、ひょんなことから三菱ジープJ3Rを手に入れ、続いてスバル360なんぞを揃えてしまったから、さあ大変、本人は三菱製“零戦”と中島飛行機製“隼”の末裔を入手したと大喜びしてしまった。こうなると、次はスウェーデンのサーブあるいは英国のブリストル、あわよくば、フランスのヴォワザンなどと夢はふくらむばかり。
(川上完 著『もうフツーのクルマは愛せない』より)



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SUBARU 360

この360を購入したのが1972年、川上さんが26歳の時である。既に三菱製のジープJ3Rに乗っていたが、幌からの雨漏りが酷く、「雨傘代わり」に中古で購入したものだった。友人の紹介で、お医者さんのセカンドカーが程度もそこそこで5万円(当時の大卒初任給ぐらい)ということで、クルマも見ずに雨の降る夜中にクルマを引き取りに行った。
引き取りから帰った翌日、お天道さまの下でクルマを見たら、そこには見るも無残な姿が。赤と言われていたボデイは、長年風雨に晒されていたせいでほとんど渋柿色になっており、プラスチック製のリアウィンドウは雨に濡れている間は後ろが見えていたが、乾いてしまうと摺りガラス状態で視界はゼロ。雨漏りのために3センチほど水がフロアに溜まっている。ルーフのシールがやれていたようだ。エンジンを掛けようとしたらスターターが回らない。バッテリーも駄目。思い出したのだが、昨晩帰る途中にギア鳴りもしていたし、ハブベアリングからも異音がしていた。ブレーキの効きも甘かったような、、、。
その後、レストアにお金がかかって、総費用は新車を買えるものとなってしまった。
しかしながら、その後はセカンドカーとして現役を維持。リペイントを2回、エンジン交換2回、サスペンション交換を1回しているらしい。奥さんにプロポーズしたのもこの360の中だったという。

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Nakajima Ki-43 Hayabusa

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SAAB 96

ブガティックの阪納誠一さんが川上さんをひやかして言っていたそうです。
「カンちゃん、いつまでそんなゴキブリみたいなクルマに乗っているんだ」
色はコックローチ ブラウン。ホイールキャップは100円ショップで売っている植木鉢の受け皿。まさに川上完スペシアル。

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ヘッドライトワイパーが横に作動することに注意。

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SAAB J35 Draken

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フロントグリル内の大きな『B』のエンブレムは川上さん手製のもので、銀紙を貼っています。川上さんだから許される行為。


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Bristol 406

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Bristol bow fighter


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2013-02-07

富士重工の悲哀

 富士重工は長年、「技術あって経営なし」と言われた企業だった。戦時中は中島飛行機として軍の支配下にあって自由なことはできなかった。戦後は、支配者が興銀*1に変わっただけである。その後は日産と興銀の政争の場と長年されてきた。自動車の事を何も知らない興銀の関係者が社長のあと、日産からは日産ディーゼルからの出向による商用車しか知らない人間が社長に。。。GMに売却された後に、現在、トヨタと提携関係になっている。GM以降、やっと御主人様がクルマを理解している者となったのである。

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 スバル360は富士重工が初めて世に送り出したクルマであったが、その前に試作車でスバル1500という幻のクルマがあった。モノコックボディなどの先進的な技術を盛り込んだクルマで、世に送り出されていれば間違いなく、クラウンやセドリックも苦戦するだろうとも言われていた。そのクルマを握りつぶしたのが興銀である。その理由は、興銀が当時、通産省と並んで興銀自動車ビジョンというものを描き、日産を中心として富士重工といすゞを加え、トヨタに対抗する一大勢力を作ろうという構想を練っていたからだ。スバル1500はその構想から外れているということで、極めて官僚的な都合で潰されたのである。
 最近ではスバル製のトヨタ86の例が象徴するように、富士重工は自主的にクルマを開発して世に問うたことが少ないと言い切る人もいるほどだ。同じく技術を重んじる企業としてのホンダとは大きな違いがある。なんだかんだ言っても、自分たちの作りたいものを作ってきた社風(最近はトヨタ化しているのかもしれないが)がある。
 しかし、富士重工はそうではなかった。クルマが大好きな本田宗一郎のようなトップはいなかった。長い間、自動車のなんたるかを知らない人間がトップに天下って座ってきたのである。技術のレベルから言えば、スバルホンダと同格の自動車メーカーに成れたはずだ。しかし、ここまで差が開いてしまったのは、ひとえに経営者の責任ということだろう。
 富士重工には、旧郵政省から送り込まれた社長などという者もいた。
 1963年、当時「技術あって経営なし」と言われた厄介者の富士重工を抱えていた興銀は、どこか買い手がいないか探していた。興銀というところは、会社を育ててやろうというのではなく、業界を大切にする天下国家の思想をもとに、買い手探しに翻弄することからスタートしたのだ。
 誰を社長に推すかとなったときに、当時、興銀の頭取であった中山素平が、郵政省から天下りして電電公社(現NTT)の副総裁となっていた横田信夫という男に目をつけた。その理由とは。。。
 当時、スバル360を製造していた富士重工にとって、電電公社というのは360の最大の御得意さんであった。しかも横田は電電公社の人事で浮いているという状態であった。それであれば、横田を社長にもってくれば電電公社との関係も密になって、軽自動車の販路拡大にも有効だと睨んだのであった。。。
 ただし、郵政省出身の横田だけでは心もとないと、お目付け役に興銀から大原栄一という男を送り込んだ。ところが驚いたことに、大原は興銀を辞めずに富士重工へ天下ってきたのである。興銀の役員が富士重工の副社長も務めていたのだ。当然のことながら給料は興銀と富士重工から二重に支給された身分であった。大原が興銀を辞めたのは1970年に富士重工の社長に就任してから2〜3年後で、実に10年もの長きにわたって興銀役員と富士重工の役員を兼務していたのである。
 そういう酷い状態で大原時代が過ぎ、次に日産から佐々木定道という人物が送り込まれてきた。この男は、当時の日産の社長であった石原俊のライバルであり、日産との協調などがうまくいくわけがなかった。その後任に、再び興銀から田島敏弘が天下ってくる。彼は興銀の副頭取までいった男なのだが、カメラと自動車が好きなだけで、富士重工の経営再建などできるわけはなかった。。。案の定、後任には日産から河合勇が送り込まれている。
 その後は、皆さんも知っての通り、スバルはトヨタの軍門に下ることとなった。
 もし、富士重工が御主人の顔色を伺うことなく、のびのびとクルマ作りを行っていたなら、ホンダを脅かす存在になったのではないだろうか?
 

*1:現、みずほ銀行・みずほコーポレート銀行の前身。中島飛行機時代から融資していた。

2013-01-24

GUIDE to The MOTOR INDUSTRY of JAPAN 1961 edition Part 2

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初代スカイライン。ボディのプレスが貧弱で、新車時から波打っていたという、まるで80年代のフランス車のような品質であったらしい。エンジンは4気筒 OHV1.5リッターでシンクロの4段ギアボックスであった。リアサスペンションはドディオンアクスル(ただしバネはリーフだった)を奢っていたのがプリンスらしいところ。しかしながら悪路だらけの当時の道路事情ではタクシー業界には不評で、クラウンの敵とは成り得なかった。

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写真上から、三菱500、日野コンテッサ、マツダR360クーペ。

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1958年に発売された、日本が世界に誇るスバル360。後に発売されたフィアット500と比べても遜色ない。

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早すぎたステーションワゴン。ほとんどが商用車として使われたのであろう。

2012-03-25

1967 4th NIPPON GRAND PRIX 公式プログラム 自動車の広告から

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SUZUKI FRONTE 800
ミケロッティ風のボディは社内デザイン。サイドウィンドウに曲面ガラスを採用したのも日本車初のことだった。
エンジンは水冷2ストローク直列3気筒785cc、これで前輪を駆動する日本初の小型FF乗用車であったのだ。しかしながら63年の東京モーターショー発表から発売されたのが遅れに遅れて2年後の65年。遅れた理由が興味深い。そもそもスズキは「フロンテ800」を売って儲けようなどという気はなかったという。60年代初頭、貿易自由化対策として既存の自動車メーカーの合併・整理統合を進め、小型車への新規参入を制限しようとする旧通産省の動きに対し、小型車市場進出の意思を示すアドバルーンとして造られたという経緯がある。そのために小型車ではあるがほとんど手作りの少量生産で、その総生産台数は約3年半の間にわずか2717台と、小型乗用車としてはフェラーリ並みの異例な生産数となっている。


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HONDA N360
若者に大人気となった軽自動車。67年の春に発売されたが、その3ヶ月後には10年の長きにわたって軽自動車のベストセラーだったスバル360をトップの座から引きずり下ろしたのである。


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DAIHATSU Compagno Spider
800ccのエンジンは 1000ccに、ソレックスのツインキャブとパワーアップされたが、如何せん価格が高すぎた。ライバルのトヨタ・スポーツ800やホンダS600と比べて10万円も高かったのだ。


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SUBARU 1000
フランス車の味わいをもつデザイン、そして技術者の理想が投入されたメカニック。


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MAZDA FAMILIA COUPE
日本では小型乗用車初の SOHCエンジンを搭載している。


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MITSUBISHI COLT 1500
日本初のチルト・ステアリングを装備。他に見るべきところは???