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フィアット500大作戦!!

2013-07-20

赤羽は昼間っからディープだ

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もともと赤羽は宿場町として有名であつた舊岩淵宿であり、舊岩淵宿が舊赤羽村などと合併した際の町名は舊岩淵町とされてゐた。然し、當驛周邊は次第に經濟的に發展するやうに成り、かつ知名度から見ても、驛名と成つた「赤羽」と云ふ地名は「岩淵」よりも有名に成つて今に至る。


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今囘は、職場の同僚である元リーゼントの暴走族、いまや薄つぱげの鳶の親父に案内してもらつた。
先づは、有名な「まるます」。勿論、朝からやつてゐる店で朝から常連で滿員。
店内は俺のオフクロの世代の元お姉さんが對応。鳶の親父お勸めの鯉コクとアライからスタート。
ビールはサッポロと云ふのが札幌生まれの自分にとつては嬉しい。夜勤明けで腹が減つてゐたので、大きなメンチカツとライスを注文。大滿足で店を後にした。


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恐ろしく古さうな喫茶店は永久に閉店した儘のやうだ。


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赤羽もアキバのやうな風俗が、、、。


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昭和30年代(1950年代)からキャバレー ハリウッドを創業し、日本の大衆のためのキャバレー文化を根附かせたキャバレー太郎こと福富太郎。其の彼がオーナーの赤羽店である。

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「まるます」に寄つたお客が次に立ち寄る率が高いのが此の店。
此處は「まるます」と違ひ、喫煙は許可されてゐる。爺さん、息子、孫と3世代で店を切り盛りする立ち飮み屋だ。
つまみは1皿150圓臺と云ふ安さ、種類も豐富だ。
http://akabaneikoi.web.fc2.com/


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過去、日本人は世界一、自由の女神の僞物を多數作つてきた。
最近は絶滅したかと思はれたが、どつこい赤羽に生きてゐるのであつた。

2013-04-29

旧石川組製糸西洋館

 四輪驅動車の御意見番である石川さんに誘はれて、入間市にある舊石川組製絲西洋館を見學した。

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 石川組製絲とは、石川幾太郎が明治26年(1893)に創始した製絲會社である。當初はわづか20釜の坐繰製絲(手工業)でスタートしたが、明治27年にはいち早く蒸氣力を利用した機械製絲に切り替へ、日清・日露戰爭の戰時景氣に乘つて瞬く間に經營規模を擴大した。
 最盛期には、現在の入間市に3工場、狹山市に2工場、川越市・福島縣・愛知縣・三重縣などに各1工場を持ち、昭和6年(1931)には生絲の出荷高で全國6位を記録するなど全國有數の製絲會社に成長した。なほ、海外との取引が多かつた事から、ニューヨーク五番街にも事務所を設置してゐる。
 然し、關東大震災や昭和恐慌、其れに生絲に代はる化學纖維(レーヨンなど)の出現などの影響により經營不振に陷り、昭和12年(1937)に倒産した。


http://www.city.iruma.saitama.jp/bunkazai/seiyokan_sekai.html


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 西洋館は、幾太郎が取引先のアメリカの貿易商を招くに当り、「豊岡をみくびられてはたまらない。超一流の館を造って迎えよう!」と決意し1921(大正10)年に建設した迎賓館である。
 設計は東京帝国大学(現在の東京大学)で建築を学んだ室岡惣七(むろおかそうしち)が、建築は川越宮大工関根平蔵(せきねへいぞう)がそれぞれ担当している。
 建物は西洋風木造建築である。2階建ての本館は、外観が化粧煉瓦張(けしょうれんがばり)で、屋根はヒップゲーブル(半切妻造)、洋瓦葺となっている。また、平屋建の別館は、本館と接続しており、外観は本館と同じ化粧煉瓦張だが、屋根は寄棟造である。
 館内は、戦後進駐軍に接収され改造を受けた箇所もあるが、全体的に当時の様子を良くとどめている。


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柱でヘアピンのやうに曲がつてゐる手すりは、驚異の一本物です。職人技が光りますね。

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西洋と日本のハイブリット。

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壁紙にもシルクが使はれた贅澤なもの。

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惜しむらくは、建物や調度品の痛みが激しい事。迚も一地方都市のレベルでは維持も無理であらう。よつて一般公開は年數囘のみと成つてゐる。

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現地までの移動には、石川さんが整備した骨董自轉車で。意外にも乘り心地もよく、乘りやすい自轉車でした。

2013-03-05

東京・愛宕 NHK放送博物館 Part2

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1926年(大正15年)12月25日、高柳健次郎(後の日本ビクター副社長)が濱松高工にてブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。此れは、其のテレビ傳送實驗裝置の再現展示。映し出されたのは「イ」の文字だつた。

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ヒトラーの伯林オリンピックで世界初のTV中繼が行はれたが、戰前の幻の東京オリンピックでも、其れを實現しようと日本でも實驗が行はれた。此れは1939年にNHKが開發したTVカメラ。翌年の1940年4月13日と14日に、NHK放送技術研究所のスタジオから生放送されに行はれたTV實驗放送であり日本初のTVドラマである『夕餉前』(ゆふげまえ)が放送された。感度の低いTVカメラだつたために、照明があまりにも強烈で出演者の髮や衣裝が焦げてしまふことから、ドラマの時間も15分と決められた。

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1939年、日本製反射テレビ。ブラウン管が長いので垂直に置いて、鏡で映し出す仕掛け。

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通信機で有名な亞米利加・ハリクラフター社から1952(昭和27)年に發賣された17インチテレビ受信機。1953(昭和28)年本放送開始時、抽籤でのテレビ受信契約第1號のテレビでもある。非常に高價で、大學卒の初任給が5千圓だつた當時、28萬圓もした。今の貨幣價値で1千萬圓を越す。

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昭和天皇がTV放送開始時に使つてゐたTV。亞米利加製。

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三菱製 6CT-388型 カラーテレビ受信機(1964)
電子レンジのやうな奇妙なデザイン。電子銃ではなく、赤青緑と別々のブラウン管で映し出し、鏡で合成して見せると云ふ代物。勿論、普及しなかつた。

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1957(昭和32)年のNHKのTV番組表。まだTVの受信契約は50萬世帶にすぎなかつた。

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『ブーフーウー』(Boo Foo Woo)は、1960年(昭和35年)9月5日から1967年(昭和42年)3月28日までNHK綜合テレビで放送されてゐた。子供の頃によく見てゐた。おねえさんがかばんの中からブーフーウーの小さな人形を取り出して、舞臺の上の子ぶたたちの小さな家の前にセットする事から始まる。冩眞左隅の大きなハンドルは壁に取り附けられてゐて、此れを廻してネジを卷くと舞臺の上の三匹が動き始める。此處から場面は着ぐるみに變はるが、此の變化は子供心に不思議であつた。

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人形劇『ひよつこりひようたん島』の人形と、其の聲優たち。有名どころが一杯だ。
若山弦藏、瀧口順平、藤村有弘、中山千夏、青島幸男、楠トシエ、谷幹一、、、。

2013-03-04

東京・愛宕 NHK放送博物館

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23區内に有る貴重な山、愛宕山。標高が25.69m。まあ、山と云つても丘ですがね。
トンネル手前左脇の裏參道を登つていくと、、、

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NHK放送博物館がある。1956年に、世界最初の放送專門のミュージアムとして、“放送の故郷”であるところの愛宕山に開館したらしい。なかなかモダーンな建物だ。

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1925(大正14)年3月22日朝9時30分、東京芝浦の東京放送局假放送所から、日本のラジオ第一聲が流れた。その當時の建物を再現。

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男女仲むつまじく、レシーバーでラジオを受信の圖。たぶん警官に見つかつたら、風紀紊亂罪で逮捕ですな。何故レシーバーなのかと云ふと理由があるわけで…。

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當時のラジオ受信機。ラッパ型のスピーカー附きは舶来製で、家一件の値段と同等でしたから、貧乏人には夢の夢だつたんですな。因にスピーカーと本體の値段は同じださうです。

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1939年製レコード録音機。同盟國ドイツのテレフレンケンのモノを日本でコピーしたパチモンですな。
これで録音されたのが…。

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恐れ多くも、玉音放送のレコード盤です。これを沮止しようと急進的な青年將校の奪還行動があつたのは有名な話。天皇が戰爭やめたと云ふのを沮止しようとしたのですから。右翼にとつて昭和天皇なんぞ、シンボルでしかなかつたことの證明です。

この項つづく。

2013-01-15

The age of occupied Japan Part 2

 ジョンソン基地の將校たちはハイドパーク内に家が用意されたが、兵士たちは民間の家を借りてゐた。然し、近隣住民とのトラブルなど問題が起こり狹山市も惱んでゐた。其処で住宅供給公社のやうなものを設立、ハイドパーク下にへばりつくように廣がる土地に米軍兵士專用の賃貸住宅を建設した。

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はっぴいえんど解散後、ソロ活動を始めた細野の一枚目のアルバムである。
このアルバムは、当時埼玉県狭山市のアメリカ村(航空自衛隊入間基地がアメリカ空軍のジョンソン空軍基地があった頃に基地所属の軍関係者の住居が建ち並んでいる場所で基地が返還された後、それらの家は安価な賃貸料で貸し出された)と呼ばれていた場所(御丁寧に裏面に住所がローマ字で狭山市鵜ノ木にあったと書かれている。)にあった細野の自宅に16トラックの録音機材を持ち込んで作られた。
バック演奏のメンバーは、1972年末まで小坂忠とフォー・ジョー・ハーフで活動していた林立夫、松任谷正隆、駒沢裕城のほか細野と共にはっぴいえんどで活動していた鈴木茂だった。
その後、細野は、林、松任谷、鈴木とキャラメル・ママ(活動途中ティン・パン・アレイに改称)を結成する。
細野は、後にこのアルバムについて「狭山での生活を詰め込んで作った」と語っている。