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フィアット500大作戦!!

2011-07-30

Goodwood Festival of Speed 2011 F1 THE COSWORTH YEARS

 偉大なる非凡なエンジン、FORD-COSWORTH DFV。これを搭載していない可哀そうなライバルの奮闘を横目に、彼らは空力の追及や新しいシャシーの設計に集中することができた。

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1967 BRABHAM-REPCO BT24
V8気筒 SOHC 280ps/7800rpm

 FIAは1966年から3リッターにレギュレーションを変更、フェラーリを除き、他のチームは適当な3リッターのエンジンを保有していなかった。経営難に陥りながらも主要な英国チームにエンジンを供給していた COVENTRY-CLIMAX は親会社 JAGUAR の命によりF1エンジンの供給を止めてしまっていた。
 Jack Brabham はライバルが苦戦する中、現実的な選択で成功を収めることになる。即ち、非力であっても信頼性が高いエンジンでレースを勝ち抜くと言うものであった。彼は市販乗用車に搭載されている軽合金製のV8エンジンを探した。早くエンジンを造るためである。Oldsmobile のV8とトヨタのV8が候補に挙がり、オーストラリア出身の Brabham のためにこのエンジン制作を引き受けていたオーストラリアの部品メーカー REPCO との検討の結果、ROVER が生産用3.5リッターV8に Oldsmobile のV8のブロックを使用し成功しているのを評価し、Oldsmobile のブロックをベースにすることが決定した。トヨタに関してはブロックの剛性に懸念があり却下されたのである。
 完成したエンジンは280馬力と非力ではあったが、ライバルが手をこまねいていたので充分戦闘力のあるものであった。搭載されたシャーシは、旧型の鋼管スペース・フレームであったが、REPCO 製のエンジンは軽かったので制限重量そこそこの512圓杷爾泙辰拭4粟した BT19 によって Jack Brabham は1966年度の世界チャンピオンを勝ち取った。
BT24 は点火系を Lucas のコイルから、同じく Lucas のトランジスター点火方式に改良され、310ps/7800rpmにまでパワーアップされた。これにより、1967年度の世界チャンピオンはチームメイトの Denis Hulme のものとなったのである。

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1968 LOTUS-COSWORTH 49B
V8気筒 DOHC 4Valve 2993cc 415ps/9500rpm 
 1966年度のグランプリを迎えるにあたって、Colin Chapman は苦悩していた。頼りの COVENTRY-CLIMAX がグランプリ・エンジンの生産中止を決定したため、新規定の3リッター・フォーミュラーに対して勝てるエンジンを失ってしまったのである。66年度は BRM の奇抜なH16型エンジンを買い受けて走る予定だったが、開発は進まず、たとえ搭載しても重く複雑なH16では苦戦することが予想された。
 そこで Chapman は FORD に対し、COSWORTH が3リッター・フォーミュラー・エンジンを開発するために強力な資金援助をしてくれるよう説得した。インディーにおける LOTUS の成績が良かったこともあり、この提案は受け入られることになる。つい数年前まで、大衆車 FORD ANGLIA のエンジンを自社チューンしてFJのユーザーに提供していた小さな町工場のCOSWORTH は FORD から25万ドルに及ぶ資金援助と技術援助を得て、グランプリ・エンジンの設計を開始し、短期間で名機DFVを完成させた。1967年のデビューから80年代の初頭まで、長きにわたってF1を席巻したエンジンであり、その寿命の長さはこれからも破れらることはないであろう。
 元ホンダF1の監督であった中村良夫さんはDFVを次のように評している。

 フォード・コスワースDFVはこのように非常に常識的なエンジンであり、別に際立った特徴もなく、無理した理念のコジツケもない。
 ただしボルト1本に至るまで設計者キース・ダクワースのエンジンの思想が一貫しており、その彼のエンジン思想は職人的といえるまでに実戦的であって、プロフェッショナルとしての裏づけと理論がある。
 大企業メーカーが、多くのエンジニア達を動員して作り上げる場合、とかく変なアマチュアリズムに流れやすい(場合によれば自己満足のために、場合によれば上層部に迎合するために)、そのようなエンジンとはハッキリ一線を画した本格的なプロの作ったエンジンである。(著書『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より) 

 エンジン自体をシャシー構成強度メンバーとして考えられており、大型のエンジン・マウント・メンバーを介して、前部モノコック・シャーシに強固にボルト付けされている。北米の Chaparral で一般化されたウィングをリアに装備しているのも新しいところだ。
この個体は1968年、Graham Hill のドライブにより世界チャンピオンを勝ち取ったマシンそのものである。
 Colin Chapman がインディーに出場したチームのスポンサーシップを学んで、それをF1GPに持ち込んだのも、このマシンが最初である。それまでF1マシンは国ごとに色が決められていた。英国ならブリティッシュ・グリーンだったのを、ゴールドリーフというタバコの塗装にしてチーム名も GOLD LEAF TEAM LOTUS としてしまった。これ以降、F1はタバコ会社の走る広告塔になってしまうのだ。

CLASSIC TEAM LOTUS からの参加。
余談ではあるが、ロータスはケチ臭く、終始ロープを張って一般客が近寄って撮影するのを拒絶していた。終始フリーだったアルファ・ロメオとは大違いの対応であった。

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2011-07-22

Goodwood Festival of Speed 2011 GARAGISTE GRAND PRIX CARS

 1960年代のF1グランプリは、55年ル・マンでの悲劇によりメルセデス-ベンツがレースから撤退し、事実上フェラーリ以外は、Cooper,Lotus,BRM といった英国の小さなチームが主役となっていった。
「能力と経験に優れた、かつレースに限りない情熱をもったプロフェッショナルな人達がグランプリを勝ち得るクルマを作ろうと意欲し、そして実際にグランプリの舞台の主役として躍り出てきたのを(私は)“戦後のグランプリの新しい波”といっているのである」(元ホンダF1チーム監督、中村良夫)
 戦前から続く、フロント・エンジンは早々に駆逐され、ミドシップ・エンジン、モノコック・シャシーの時代がやってきたのだ。


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1960 PORSCHE 718
空冷水平対向4気筒 DOHC 1498cc 150ps/7800rpm
 F2に挑戦したポルシェ初のフォーミュラー。成功した550RSKのエンジンとコンポーネンツを利用搭載している。1960年度はR R C Walker Racing Team の Stirling Mossにも貸与、ワークスには Jo Bonnier ,Graham Hill をドライバーに迎え、見事同年のF2チャンピオンシップを獲得した。
 PORSCHE MUSEUM GOH による参加。

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R R C Walker Racing Team Porsche 718 drive by Stirling Moss


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1963 LOTUS-CLIMAX 25
CLIMAX製 V8気筒 DOHC 2Vlve 1495cc 195ps/9500rpm

 1950年代後半、クーパーによって確立された、マルチ・チューブラー・スペース・フレーム形式、ミドシップ・エンジンというグランプリカーの設計的な常識は、早くも1962年ロータス25のモノコック・シャーシによって鋼管スペース・フレームを色褪せたものにしてしまったのである。
 アルミ合金板を応力外皮として使い、強度部材のすべてを板金リベット結合構成とする、軽くて強いモノコック・シャーシの構成は必ずしもロータスのコーリン・チャップマンが初めて手がけたものではなく、1954年のジャガーDタイプ、1955年のBRMなどもすでにモノコック形式が試用されている。ただしいずれもテスト段階で終わってしまった。
 チャップマンとすれば、誰でも自由に買える、性能が一定である、クライマックス・エンジンを使ってグランプリを勝つためには、軽くて小さくてロードホールディングの良いシャシーを作る以外にはないと判断したのである。
 1961年、1.5リッター・フォーミュラーの最初の年はクライマックスFPF直4シリンダーの1.5リッター縮小版を使わざるを得ず、ロータス21の鋼管スペース・フレームをの旧タイプそのままとした。しかし62年、新しい本格的な1.5リッターV8シリンダーのクライマックスFWMVの開発が間に合うことがわかったとき、ロータス25のモノコック構成に踏み切ったのである。
 シャシー・フレームそのものは鋼管スペース・フレームの21にくらべて約5圓侶變眠修靴得られなかったが、鋼管フレームが必要とするアルミ合金の燃料タンクは、左右のモノコック・シェル内に航空機式の合成ゴムのバッグを入れるだけで足り、配管その他の部品が不要となって約25圓侶變眠修棒功しただけでなく、シャシーの捩り及び曲げ剛性は鋼管フレームにくらべてはるかに高くなった。
 剛性の高いモノコック・フレームに、後輪を長い2本のラジアス・ロッドで位置決めすることによって、すぐれた安定性と操舵特性を確保することができたのである。(中村良夫著『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より)

 1963年度のF1グランプリに於いて25は、ウェーバーキャブからルーカスのインジェクションに替えられたクライマックスFWMVエンジンと Jim Clark により10戦中、7度の優勝でワールド・チャンピオンに輝いた。
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1965 BRM P261
V8気筒 DOHC 2Valve 1498cc 220ps/11750rpm
 1962年のF1チャンピオンとなったBRMと Graham Hill は1963年シーズンの序盤に苦戦することになる。 V8エンジン搭載のP57は優位にレース展開を運ぶことができたが、先進的なモノコック・シャシーの Lotus Climax 25 により影が薄くなってしまった。BRMが採用するスペースフレーム・シャシーよりもロータスのモノコックの方が軽く剛性が高かったのだ。
 長くBRMの設計を手掛けていた Tony Rudd は自身の解釈でモノコック・シャシーの P61 を開発した。アルミ合金板で構成されたロータスのシャシーと異なり、ジュラルミン合金板を応力外皮とするシャシーを開発した。シャシー前部はバルクヘッドを構成しており、後部は鋼サブフレームにより、エンジン、ギアボックスとサスペンションをサポートするように設計されている。1.5リッターエンジンは200馬力前後までパワーアップされ、自社開発の新型6速ギアボックスが組み込まれた。P61 は63年の6月にデビューし、シーズン中の優勝は Graham Hill による2勝に留まった。問題はシャシーの柔軟性の欠如だった。
 改良された P261 は 64年の開幕戦モナコGPでデビュー。 Graham Hill は最速ラップを記録し優勝、チームメイトの Richi Ginther も2位となった。しかしチャンピオンシップはわずか1ポイント差でフェラーリの John Surtees が獲得。コンストラクターズチャンピオンも3ポイント差でフェラーリに奪われる結果となった。
 65年度はエンジンが220馬力に改良され、ドライバーも Richi Ginther に代わり、若い Jackie Stewart がチームに参加。BRMはコンストラクターズチャンピオンで2位を獲得。チャンピオンシップでも Hill と Stewart はそれぞれ2位と3位になった。

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グッドウッドでは、the Tasman Series に P261 で参戦した Richard Attwood が乗りこみ、ファンの喝采を受けていた。
 

2011-07-20

Goodwood Festival of Speed 2011 FRONT-ENGINED GRAND PRIX CARS

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1951 ALFA ROMEO TIPO 159 "ALFETTA"
直列8気筒 DOHC 1479cc スーパーチャージャー 425ps/9000rpm

 戦前のヴォアチュレット(小型クラス)として Gioacchino Colombo に率いられた技術陣によって設計された Typo 158 を戦後の主任技術者 Orazio Satta によって2段過給に改造されたGPマシン。
 1950年設立されたFIAによって世界選手権が設定された年、TIPO 158 は驚くべきことに全戦全勝の圧倒的強さを誇り、見事、Nino Farina が初代世界チャンピオンの栄誉に輝いたのである。しかし、この年すでに新興のフェラーリは無過給自然吸気の4.5リッターGPカーを出走させており、戦前派のアルファ・ロメオは時代遅れのものになりつつあった。
 翌年、TIPO 158 は425馬力にパワーアップされ、その代償としての燃費低下に備え、運転席後部の燃料タンクの大型化のため後輪をスウィング・アーム形式からド・ディオン型式に変更された。それが TIPO 159 である。結果として燃費が1/ℓという大食らいになり、ピット回数が増えて勝利が遠のくという矛盾を抱えてしまっていた。フェラーリの猛追を受けながらも、かろうじて最終戦のスペインGPにて Juan Manuel Fangio が勝利することにより、2年連続世界チャンピオンGPカーとなり、アルファ・ロメオ最後のチャンピオンF1マシンとして末長く人々の記憶に残るものとなった。
 Museo Storico Alfa Romeo からの参加。


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1953 BRM V16 P30 MK2
V16気筒 DOHC 2Valve 1487cc スーパーチャージャー 525ps/12000rpm(ただしベンチテストの結果、実際は430ps程度)
 BRM(British Racing Motors)は英国の自動車メーカーの一部が共同してレース・エンジンを開発しようという合意の元に設立された。戦前、小型ヴォアチュレットのレーシング・エンジンを製造していたERAから Peter Berthon を得て、1.5/4.5リッター・フォーミュラーに搭載するエンジンの開発をはじめていた。それが完成しグランプリの舞台に登場したのが1950年。1.5リッターのV16気筒は超高回転型となり、12000rpmという当時の常識を相当に上回る意欲的なものであった。しかし、最も特徴的だったのはロールスロイス製の遠心式スーパーチャージャーを搭載していることであった。設計上は過給圧力3.0気圧以上を目指し、エンジン出力が600馬力以上になるはずであった。しかし、実際には600馬力を発生することはなく、エンジン・テスト・ベンチ上での525馬力が最高であった。
 実際、グランプリ・レースでの戦績は無残なもので、1950〜1952年を通じて完走したのは51年の英国GPただ1度だけだったのである。
 これは、採用された遠心式スーパーチャージャーの特性が自体が、激しい加減速やアイドリングもない航空機エンジンに適切なものだったからである(レーシング・エンジンには容積型のルーツ“繭”式が適切とされていた)。エンジンのパワーバンドがほぼ最大回転数の付近のみという、コントロールが非常に難しいマシンとなってしまったのだ。
 このマーク2では、ディスク・ブレーキの採用、ド・ディオン方式のリア・アクスル、ラックアンドピニオン方式のステアリングなど改良が行なわれたが、勝利をもたらすことはなく、消え去っていった。
 The Donington collection からの参加。


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1954 LANCIA D50
V8気筒 DOHC 2Valve 2489cc 260ps/8200rpm
 偉大なる設計者 Vittrio Jano によるランチア最後のGPマシン。設計のコンセプトは“小さく、短く、低く、軽い”GPマシンを造ることであった。シャシーは鋼管スペースフレームで、エンジン自体をシャシーの強度メンバーとして積極的に使用、燃料タンクはサイド・ポンツーンに搭載するなど、先進的な設計思想を持っていた。
1954年にランチアが経営難でF1GPから撤退、フィアットのお膳立てで引き継いだフェラーリはエンジンのパワーアップと燃料タンクを尾部タンクに変更する改良を行い、1956年に見事、ファンジオの4度目の世界選手権を勝ち取ることになる。

2010-10-01

お払い箱だったガスタービン車

94年に生産が終わった“XJ-220”から、ジャガーが16年ぶりに発表したスーパーカー“C-X75”


基本的に電気モーターで動くのだが、バッテリーへの充電には、95ps/80000rpmを発生する2個のガス・タービン・エンジンを使うところが肝だ。これにより航続距離は900辧▲僖侫ーマンスも0-100km/h加速3.4秒、最高速330km/hとスーパーカーに相応しいスペックとなった。

ガスタービン・エンジンとは、簡単に言えばジェットエンジンのことだ。タービンという風車を何段も備えて空気をかき込んで圧縮、その高圧の空気に燃料を吹きつけて点火、燃焼させて高温で膨張したガスにして噴き出し、その反作用で前進するという仕組みだ。高圧の燃焼ガスでまた別のタービンを回して、その軸から動力を取りだすのがターボシャフト。これが、いまではヘリコプターや軍艦にも使われている。米軍の主力戦車М-1にも採用されている。

“C-X75”はバッテリーへの充電用としてガスタービン・エンジンを使っているが、かつては駆動用としてクルマへの搭載が考えられた時代もあった。


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“1954, Fiat Turbina”
220ps/22,000rpm 最高速度249.395/h


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“1956,RENAULT ÉTOILE FILANTE”
270ps/28,000rpm 最高速度308.85/h



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“1965, ROVER BRM”
150ps/39,000rpm
英国人としては、これでもカッコ良く仕上げたクルマ。1965年のルマン24時間に参戦、ドライバー“Jackie Stewart”と“Graham Hill”によって10位となった。



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“1967, STP Oil Treatment Special”
1967年の“INDY 500”に参戦。550psを発生する“Pratt&Whitney”製エンジンはコクピットの左に配置された。インディ500は左回りのオーバルを凄まじいスピードでただグルグル回るだけのバカみたいなレースだからこれで良かったのだ。550psのパワーを受け止めるために4輪駆動となっている。
レースは圧倒的な速さを見せつけながら残り3周、ギアボックスの故障でリタイアとなりました。


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“1968, HOWMET TX”
GEがヘリコプター用に試作した330psエンジンを搭載、耐久レースにエントリーしたが、ルマン24時間では事故と故障で38位に終わっている。


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“1968, LOTUS 56”
またもやインディに挑戦したガスタービン4輪駆動車。450psのエンジンは普通にミドシップに置かれております。ウェッジシェイプそのもののデザインはまさにミニカーの様。レース結果も燃料ポンプの故障でリタイアとなったそうな。

ガスタービンはスロットル・レスポンスが悪いし、エンジン・ブレーキが効かない、燃費が悪く(特にアイドリング時でも数万回転するのだから仕方なし)、高温の排気ガスが出るし、ゴミや埃を吸い込むと御釈迦になっちまう……なんだかんだで、現在に至るも市販車として発売できないってこった。

2010-09-02

BRM・H16・Type75 ENGINE

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BRM(British Racing Motors)は往年のグランプリファンにとって懐かしい響きをもっている。いかにも英国紳士風の口髭を生やしたドライバーのグラハム・ヒル(Norman Graham Hill)を思い出す方も多いだろう。あのジャッキー・スチュワート(Sir John Young "Jackie" Stewart OBE)もBRMでグランプリにデビュー“脅威の新人”と呼ばれた。

それまで不遇だったBRMが突如62〜65年のシーズンで新開発したインジェクター付きのV8エンジンP57を開発、1962年シーズンを席巻することとなる。長いBRMの歴史の中で最も成功したエンジンだ。オーソドックスでアマチュアリズムが無いBRMであった。チームメカニック出身のドライバー、グラハム・ヒルが9戦中4勝を挙げ、ロータスのジム・クラークを振り切りワールドチャンピオンとなり、コンストラクターズとの2冠を達成した。1965年までの4年間はロータス(クラーク)対BRM(ヒル)のライバル対決がF1界の中心となり、ヒルはモナコGPを3連覇し「モナコ・マイスター」と讃えられた。

そして66年、3リッターの新しいレギュレーションに対して、BRMは水平対向8気筒を2段重ねとしたH型2クランクの16シリンダー・エンジンを開発したのだが…

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 水平対向8シリンダーを上下に組み合わせた形といってもいいし、並列8シリンダーを左右に組み合わせた形といっても良い。
 たしかに意欲的な企画であり、BRMとしては600馬力という高出力を最終段階では発揮することを期待していたようであるが、結果としては、BRMではなく、BRMからエンジンを購入したロータスが、ジム・クラークのドライブで、66年のUSグランプリ(ワトキンスグレン)で1勝をあげているだけである。


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結果的には、66年67年の2シーズンを走っただけで、BRMはこのH16を中止して、オーソドックスなV12シリンダーにスイッチした。
 従って必ずしも成功したエンジンとは言い難いけれど、非オーソドックスな意欲作であり、再びこのように複雑な構成をもったエンジンは生まれてこないであろうことを考慮して、とりあげることにした。
 ブラバムのレプコが、非力ではあるけれども、非常に実質的な、かつ職人的なプロフェッショナルなエンジンであって、2シーズンにわたる世界選手権を確保しているのにくらべて、BRM・H16はどちらかというと現実離れした夢を追ったようなエンジンであり、意欲だけが浮遊した観である。
 いうなればアマチュア的であった。
 当時BRMのチーフ・エンジニアをしていたトニー・ラッドが直接の担当者であったことは間違いないが、H16の構想そのものはトニー・ラッド自身なのか、あるいはアルフレッド・オーウェン*1の妹ジーンの夫君であるルイス・スタンレー氏なのか、あるいはBRMの創設以来BRMと共に在ったレイモンド・メイズ氏であったのか、明確ではない。初期の実りなきV16プロジェクトを相当強引におし進めていたレイモンド・メイズ氏の発案ではなかったのか、と私は考える。
 一度メイズ氏自身のお話を聞かせていただこうと思っていたのであるが、そして私は拝眉の機を得ていたのであるが、とうとう聞きそびれたまま、先年メイズ氏は他界されてしまった。



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68.5亰臓50.8个離椒◆Ε好肇蹇璽をもった水平対向8シリンダーを上下に重ね合わせた構成であるが、構造的にはむしろ2クランク・シャフトの並列8シリンダーを左右に結合したというべき形である。
 左側並列8シリンダー・ブロックに2本のクランク・ベアリング・キャップ(計10ケ、上下クランク間隔は約180)が締めつけられ、この左ブロックに右側の並列8シリンダーが組みつけられている。従って左ブロックの方が右ブロックよりも厚く、分割面は2つのクランク・センターを結ぶ面ではない。
 上下クランクは中間歯車を介して歯車結合されており、下側クランクが動力取り出しとなっているが、これは中間ギアからも、あるいは上側クランクからも出力軸取り出しが可能な構造としている。
 出力が500馬力となった時点で、その大馬力を効果的に吸収するために、4輪駆動形式とすることが設計当初から考えられており、このための動力軸取り出しも考慮されている。
 ただし、実際には500馬力到達は希望でしかなく、従って4輪駆動は実現していない。


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上下クランクは各々直4シリンダー形式のフラット・クランク(位相差180°)であって、2つのクランクには90°の位相差がつけられている。
 従って2シリンダー同時爆発となる。
 理論上の慣性力は相殺されるけど、剛体ではなく弾性体であるエンジンは、実際には振動で相当悩まされていた。ギア・トレインにもその因があったように思われる。
 交角約50°の2バルブ方式であり、性能向上型の4バルブ方式は検討だけで終わった。
 冷却水系統、ルーカス吸入管燃料噴射、ルーカス・トランジスター点火方式は、すべて各々左右の並列8シリンダーが独立した形で、左右にわかれている。ラジエターも3分されていて、左は左並列8シリンダー用、右は右並列8シリンダー用、中央は油冷却用となっている。
 2クランク・ボックス構成なので、エンジンはコンパクトにまとまっていて、高さ及び長さについてはシャシー適合性充分であるが、幅は約870个任△蝓3.0リッター・グランプリ・フォーミュラーとしては過大であった。従ってV12のイーグル・ウェズレークのようにスリムで優美なボディ構成は不可能であり、幅広のズングリ型のモノコックとならざるを得なかった。
 エンジン単体重量も約190圓箸いΑ3.0リッター・フォーミュラーでの最重量級のエンジンの一つである。
 ギアボックスはBRM自社製の82型と称する6速で、クラッチは整備性向上のために中空歯車軸を通して最後部に配置されている。
 モノコックシャシーはエンジン前部まででおわり、リア・バルクヘッドにこのH16ボックス・エンジンがガッチリとボルト結合されて、エンジン自体がシャシー後半メンバーとなっている。


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 1966年デビュー時に圧縮比12.5で、420ps/10750rpmと称されている。ただし、この時BRM・H16は5年継続プロジェクトで最終的には12000rpmで500馬力以上、目標は600馬力と呼号されているので、この420馬力も多分に希望的な数字であったのかもわからない。排気系は各4シリンダー・ブロックが4→1の4本パイプ構成であり、排気音はどちらかというと重い音であり、1.5リッターV8のような乾いた音ではなかった。即ち脈動効果利用は充分ではなかったはずである。

 なお、2クランクのボックス構成エンジンは、モーターサイクルでは“Ariel”のスクエア・4シリンダー 1000ccがあり、航空ピストン・エンジンでは“Napier Sabre”の水平12シリンダーを上下に組合わせたH24シリンダーがあった。いずれも戦中ならびに戦後の英国産であり、2クランクは英国特産であるのかもわからない。
 結果からだけ見れば、H16という複雑で重い構成が何故採られたのか、そこにはハッキリとした必然性がないと思われるが、しかし技術開発は一つのチャレンジであり、3.0リッター・フォーミュラーの中で異彩を放つエンジンであったことは疑問の余地はない。
(以上引用は 中村良夫著『レーシングエンジンの過去・現在・未来』より)

BRM・H16は4輪駆動を想定したエンジンであったが、当時のタイアのレベルからして当然の帰結であった。1966年モンツァでデビューしたホンダRA237はおそらく世界初の400馬力オーバー・マシーンであったが、履いていたグッドイヤーは400馬力に耐えられずトレッド・ラバー剥離をおこして樹木に激突している。
後にロータス63やマトラ、コスワースが4輪駆動車を開発したが満足した結果を得ることは無かった。その後タイアの技術レベルは飛躍的に向上し、80年代の1000馬力を超えるエンジンパワーを後2輪で充分支えることが出来るようになった。現在に至るまで4輪駆動の必然性は無きものとなっている。


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SCX“BRM P261 Graham Hill”
このモデルは1971年に“SCALEXTRIC”から発売されていたクルマの復刻版である。“SCX”は当時スケレの下請けだった。

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*1:British Racing Motorsは第二次世界大戦直後の1945年に、技術者のレイモンド・メイズとピーター・バーソンにより創設された。イタリア車やドイツ車が席巻していたグランプリレースにイギリス製のフォーミュラカーで参戦し、英国自動車工業界の威信を示すことを謳い、開発資金の出資を募った。

航空用エンジンから発想を得たスーパーチャージャー付きV16エンジンは開発が難航し、1950年F1世界選手権開幕に間に合わず、地元イギリスGPでデモ走行を行うに止まった。翌1951年のイギリスGPでデビュー(5位入賞)したが、選手権が翌年から2年間はF2規定で行われたため、このエンジンは国内レース以外に使い道がなくなってしまった。チームは共同出資者のひとりであるアルフレッド・オーウェン卿に買収され、新たに直4エンジンを開発し、1956年からF1に再挑戦した。