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フィアット500大作戦!!

2015-06-14

1936(昭和11)年の自動車生活

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1935 DUTSUN Type-14 Roadster



戦争直前である1936年の自動車保有台数は 126,248台(日本統計協会『日本長期統計総覧』1999)。道路総延長は 906,003キロで舗装率は僅か 1,24%。現在の 1,207,867キロ 舗装率80%*1とは大違いであり、自動車はほとんどが商用車のトラックやバス。乗用車を所有している人達はごく一部のスノッブな人たちでしかなかった。

ここに紹介するのは雑誌『話』*21936年11月号に掲載されたコラムである。

筆者の島津保次郎は下駄用材商と老舗海産物商「甲州屋」を営む一家の次男として生まれ、家業も継がずに根っからの映画好きが高じて、映画に手を染めたばかりの松竹が創設した松竹キネマ蒲田撮影所に入社する。コラムを書いた頃はメロドラマが得意で顧客を呼べる監督として知られていたようだ。



自動車と肉体


島津保次郎

 去年の暮、半年がかりで自動車の試驗を受けて免許をもらつた時はさすがに嬉しかつた。其れから毎日運轉してゐる。此のお陰で種々違つた社會の面にもふれる事が出來た。
 人間は全く何でも經驗するものだ。先づあの試驗である。私は實科は五囘目、學科は二囘目でパスした。あとで人に聞いてみると成績の好い方なのださうだ。少し得意に成つた。私のやうな年寄り、と言つても自分ではまだ青年の積りだが多少頭がうすいので、決して禿げと混同されてはこまる、薄いのだ、人はオヤジオヤジと言ふ……其のやうな初老者は受驗者には珍しい。皆二十代の若い人達許りだ。然も皆が皆あまり上等でない風態をして受驗にやつて來る。自分もなんだか張りつめた氣持ちに成る。他の連中は殆どすべて食ふために自動車運轉免許證を取りに來るのだから、第一眼の色が違ふ。然もさうした人達が落第して、遊び半分の私が合格するなんて皮肉な話だ。悲劇だ。考へやうによつては、いい年をしてこんなことをやる私の方が喜劇かもしれぬ。いづれにしても骨が折れた。中學校の試驗よりも難しかつた。實科よりも法規の試驗が大變だつた。私程の年に成ると記憶力は目だつて減退する。其れに數百の問題を暗記するなんて竝大抵のわざでない。公然と自動車が乘りまはせるやうに成ると全く翼の生えたやうな氣がした。
 仕事の合間も時々氣ばらしにドライブをやる。其の點大船はありが度い。片瀬までドライブウェイがあるし茅箇嵜の海岸道路は絶好だ。赤松の防風林と渚の間のアスファルトは十五間位の幅がある。然も天氣の好い日は正面に冨士山が聳えてゐる。全くファンク映畫*3を地で行くあれだ。江ノ島まで20分……音にきく此の島の美しさは格別である。
 自動車運轉のコツはエンジンを自分のものとする事だ。肉體の一部とする事だ。技術で運轉するやうではまだ素人である。本能で運轉しなければならぬ。道を歩いてゐて二本の足の重心に心をくばる人はゐない。自動車の運轉に於てもハンドルやギアなど、またロウやセコンドやトップの使ひわけなどに意識をもつやうではまだ駄目である。道を歩くときの足に對する如く、ひとりでに手足が動かなくてはならぬ。と大きな事を言つても、勿論まだ私は其処まで行つてはならない。唯今更乍ら技術の肉體化と言ふことを痛切に感じた儘である。ピアニストもタイピストも運轉手も、キャラメル女工も其の點では同じことだ。
 熟練した運轉手は運轉臺に坐つてエンジンの微妙な音によつて自動車自體の健康状態を感じる。タイヤに入つてゐる空氣の分量までわかる。此處まで達するのはひとへに訓練である。映畫の仕事もこんな風に行くといいと思ふ。勿論或程度までは映畫テクニックの肉體化と言ふことは考へられる。ところが繪や音樂なんかと違ふから不便だ。尤も藝術創作と言ふものはすべて技術の肉體化の上に築かれるものだ。若し熟練のみによつて價値を決めるなら、タイピストもピアニストと同じく藝術家でなくてはならぬ。唯違ふのは其の上に出來上がる。いや其れを下から持ち上げる思想が尊いのだと思ふ。自分の熟練に自負してはならない。私が大分運轉に馴れて來たのである。人は此れから要心しろ、と言つて呉れる。よく泳ぐ者よく溺ると言ふ譯なのだ。
 自動車の運轉でも本職の方でも私は此れを警戒しなければならないと思ふ。映畫の仕事でも、私は一通りの熟練工である。馴れた運轉である。自負ではなくさう考へても好いだらう。だが事故を起こしやすいのは此れからなのだ。
 さう自らを戒めてゐる。


このコラムが書かれた翌年の1937年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋での日中両軍の小衝突を発端として、日中は全面戦争状態に突入することとなり乗用車を乗るためのガソリンは配給制となる。以降『贅沢は敵だ』などとの国民相互監視体制のもとに大日本帝国は破滅の道を転がり堕ちることとなる。


島津保次郎は敗戦直後の1945年9月18日に胃がんにより東大病院で亡くなった。享年49歳であった。

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1936 DUTSUN Type-15 Roadster

*1:因みに欧米各国はほぼ100%となっている。

*2:月刊誌文藝春秋の前進とも言える雑誌。

*3:獨逸の山嶽映畫の巨匠アーノルド・ファンクのこと。作品で日本で有名なのは『新しき土』。1937年公開の日獨合作映畫で、新しき土とは滿州帝國のことを暗喩してゐる。

2015-05-28

1932  DATSUN Type11 Phaeton どちらが日本最古なのか???

座間にある日産のヘリテージコレクションにある 1932年 DATSUN Type11 Phaeton。
1959年11月に開催された第6回全日本自動車ショーの会場で公式に一般公開されて以来「現存する最古のダットサン」として紹介されてきたようだ。

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現存する最古のダットサン車。ダットサン車は1931年に発売され(10型、495cc、10ps/3700rpm)、市販1年目は約10台が生産され、32年には11型として約150台が生産された。
その後1933年自動車取締令が改正されて750ccに排気量アップされ、車種は4人乗セダンクーペ、フェートン、ロードスターライトバン、トラックの各種が製造された。
1935年には横浜工場でシャシーからボディーの一貫生産が加わり、大阪工場との並行生産で、年間3800台を生産する当時としては画期的な大量生産車となった。
当時ダットサン車は、
1)国産車である
2)値段が安い(価格:1350円)
3)日本の道路事情に適している
4)燃料費が安い
5)無免許で運転できる(当時気筒容積が750cc以下の自動車運転免許が不要だった)
など、の特徴が認められ、自家用車やタクシーとして需要が急速に増大し、「ダットサン」の名称は「小型車の代名詞として使用されるほどに普及した。また、アメリカ、スペイン、ポルトガル、インド、ブラジル等の世界各国にも輸出された。(当時の輸出実績、1934年44台、35年53台、36年87台)

https://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-5.html

ところが、ところが、昨年11月末に行われたトヨタ博物館 クラシックカーフェスティバルには、これまた「現存する日本最古のダットサン」として11型フェートンが展示されていたのだった。

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トヨタ博物館がレストアし所有する個体である。

さてさて、日産トヨタが所有するダットサン11型フェートン。どちらが現存する最古のダットサンなのか。
答えはトヨタ自動車博物館所有の個体が日本最古なのだ。

日産ヘリテージコレクションが所有する個体のプレートには「戸田鋳物自動車部大阪工場 DATSUN 12427」とある。戸田鋳物とは現在の日立金属の前進で、戸畑鋳物株式会社のこと。これが 1933年にダット大阪工場を70万円で購入。戸田鋳物自動車部大阪工場となった。
トヨタ自動車博物館がレストアした個体のプレートには「ダット自動車製造株式会社 DUTSUN 車体番号9174」とある。ダット自動車の存在期間を考慮すると、トヨタ自動車博物館の個体のほうが現存する最古のダットサンであることは明白である。

伝え聞くところによれば、「貴重な現存する最古の11型」であり保存状態も良好だったようだ。遺族は礼儀としてというか、当然買ってくれるだろうと考え日産に声をかけたのだが、値段で折り合いがつかなかったそうな。いろいろあってトヨタ博物館が引き取るに到った経緯のようだ。

遺族が日産に提示した買い取り料は数百万という良心的なものだったようだが、そんな金額ならゴーン会長のポケットマネーで楽に買うことが出来ただろう。
予算など日産には事情があったのだろうが、会社にとって大切なものであろう「現存する最古のダットサン」を手に入れるチャンスを逃してしまったのは事実である。