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フィアット500大作戦!!

2015-04-04

野沢三喜三さんの自動車人生

由緒ある日本の自動車クラブ SCCJの会員であった野沢三喜三さんは、明治、大正、昭和と日本の自動車創成期からその販売に携わった人である。その人生は正に日本の自動車の歴史であり、また日本の自動車エンスーの歴史でもある。

最近手に入れた資料から、彼の自動車人生を紹介しよう。



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 ガソリンエンジンで走るドイツのNSU単車に乗ったのが1909(明治42)年。私が19歳の時。その頃は自動車も少なかったが、単車はもっと少なかった。最高速度は60km/hまででたが、そんなにだすことはめったになかった。40〜50km/hで飛ばすと、道行く人は驚いて立ち止まって見る。服装は普通の洋装で、帽子はその頃流行し始めた鳥打帽(ハンチング)、幅上げ靴(ブーツ)を履いて、手には当時としてはたいへん高級品だった英国製の皮手袋をはめる。ちょっといかすスタイルだった。そんな出で立ちで、ある日さっそうと帝国ホテルの前に差し掛かった。道路は平らといっても土がむき出しになった路面で*1帝国ホテルも有名なライトが設計する前のものだったが、ちょうどその玄関あたりで、ひょっとしたはずみでスリップして、見事横倒しになってしまった。怪我はしなかったがロンドン製の手袋も泥だらけ、洋服も破れてしまった。いまならば単車がスリップしたぐらいでは、通りがかりの人は横目で見るぐらいだが、その頃は大事件とばかり人だかりがして、痛いやら恥ずかしいやら、単車はこりごりと思ったものだった。

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 それから間もなくのことだった。イギリス Belsizeという自動車を買った。その頃の私は、別にカミナリ族でもカーマニアでもなかったが、父の貿易商を手伝っていたので商売上から単車や自動車を手がけるようになったのである。
 Belsizeは最高速度40km/hぐらいだった。自動車教習所なんぞ当時はなかったから、運転方法は仕様書など見て考えるよりほかなかった。陸揚げして荷解きした横浜港の岸壁で、ああでもない、こうでもないといじくり回して、やっと動いた時は、ゾクゾクするほど嬉しかった。荷解きに立ち会った税関の役人やお巡りさんが、試乗させてくれ、と言って乗り込み、私もいささか得意になって、横浜の街を何回も走ったものである。それから東京の家まで運んだのだが、途中、芝の御成門まで来るとオーバーヒートして停まってしまった。東京まで乗ってきた連中で調べたが、どうしても原因がわからない。
 2、3日の間は、道の端にほっておいたが、やっとのことで運転のベテランに来てもらって動かした。いま考えればおかしいが、原因はラジエターのバルブ・コックの締めすぎか何かだった。
 その頃の東京〜横浜間の道は昔からの東海道で、道幅も狭く、むろん舗装などしていない。雨が降れば泥んこ、晴天が続けば砂埃が舞って、40km/hのスピードで自動車が走ると、しばらくは目も開けられない。自動車にはいつもスコップやツルハシ、鉄板、丸太、縄などを乗せておいて、泥にはまりこんだら、すぐに七つ道具を取り出して引っぱったり押したりしたものだった。

*1:当時は舗装している道路は大変に珍しいものだった。

2013-01-17

世襲企業 大東自動車の失敗 Part 7  欠陥エンジン

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 バンケル研究所を傘下におくNSUの創業は 1873年。元は編み物機械の製造会社であった。1892年にはモーターサイクルの製造を開始。1905年には自動車製造に進出。その後、1932年に自動車部門は FIATに買収された。高性能なモーターサイクルと、そのエンジン製造で世界的な名声を得てきた由緒あるメーカーである。自動車製造は 1957年に小型車の PRINZを発表して再開された。
 しかしながら、自動車の製造規模を比べると、大東自動車よりも一回り小さなメーカーであった。たとえば特許契約時の資本金はNSUの 16億円に対して、大東自動車は 80億円。従業員も 7000人対 9000人。これが 1965(昭和40)年になるとさらに差がついて、資本金は 58億円対 253億円。従業員もNSUの1万1千名に対して、大東自動車は1万8千名にふくらんでいく。
 西ドイツ南部の Neckarsulmに到着した直治たちは、町のホテルで荷を解くと、その足でNSUへ挨拶に行った。
 約100万ドルの特許料を受け取っていたから、研究所側も一行を温かく迎え、技術指導員を選んで、大東自動車の技術研修団にたいして、ロータリー・エンジンについて各分野ごとに技術説明を行うこととなった。最初に辰雄が訪ねたときの、実験室テストでの、運転中のエンジンの上に2マルクの銀貨を直立させても倒れないという、驚異的な振動の少なさを立証するテストや、試作品であるスポーツカーの走行テストを、研修団の一行にも同じようにやってみせた。
 研修団は、研究所が完成させたというロータリー・エンジンを基にした、分解、組立、調整などについて、徹底的な研修を受けた。ともかく自動車用としては夢のエンジンであった。
 だが大東自動車技術陣のトップ頭脳を集めた研修団だけに、研究所の結構ずくめな説明、指導の過程で、当然の疑問が沸き起こってきた。
「これだけの優れたエンジンを、NSUはなぜ大量生産しないのか?」
「近いうちに、、、量産体制になるでしょう」
 技術指導員は曖昧な答えで逃げようとしたが、苛立った技術研修団の1人が、なにか技術的な問題が残っていて、それで量産に移れないのではと、正面きって質問した。約100万ドルもの特許料をとった手前もあって、技術指導員も初めは否定していた。
「そんなものはあるがずがない」
「何も問題がないというのなら、我々は日本へ帰って、このエンジンの大量生産に入ってもよいのですね」
 研修団メンバーの最後の念押しで、研究所側もとうとう隠しきれなくなり、未解決な問題があると打ち明けた。
「実はハウジング内にチャターマークという波状摩耗ができます」
 ハウジングロータリー・エンジンの心臓部である。心臓部で解決のつかない欠陥があって、夢のエンジンもなにもあったものではない。
 それで100万ドルの特許料をせしめたわけだった。
 さすがに研修団のメンバーも、呆れて二の句がつげなかった。説明通りなら、大東自動車は欠陥の解決されていない未完成エンジンを売りつけられたことになる。だが、さらに驚いたのは、技術指導員の次の一言だった。
「肝心な秘密を打ち明けた以上、今日から日本の大東自動車の皆さんも我々の仲間です。同士として、チャターマークの解決に力を貸してください」
 金を騙し取っておいて力を貸せという。
 チャターマークというのは、ローターとアペックスシールが擦れてできる傷で、この現象が出ると、エンジンの出力は低下し、耐久力が問題になるだけではなく、ハウジングの密封ができなくなり、オイルが流れ込んだりして白煙を吹き、エンジンの性能がゼロ同然になってしまうはずだった。
 驚くべき欠陥エンジンのロータリー・エンジン、、、どうすべきか、その夜、直治たちはホテルの部屋で額を集めて相談した。

2011-11-27

トヨタ博物館 クラシック・カー・フェスタ 神宮外苑

去年に引き続きの見学。会場で配布された無料パンフには参加車両のデーターがきちんと掲載されており、某イベントの有料500円パンフとは大違いでありました。

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1955 Citroen 2CV
オーナー氏とは、去年の同イベントを当無礼ログにアップして知り合いとなりました。会場ではイギリスの飯の話で盛り上がりました。

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1971 NSU Prinz 4L
これは珍しい。今回のお気に入りです。RRの空冷直列2気筒 OHV 598cc 30ps。最高速120km/h。NSUと言えば、ナチス・ドイツのケッテンクラートを思い出します。
オーナー氏のブログが興味深い。
http://notsure.jugem.jp/?cid=3

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1960 FIAT 600 D

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1969 OPEL GT
オーナー氏が42年前に三越デパート本店から購入された1台。当時の価格が255万円也。大卒初任給が5万円ぐらいの時代です。