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フィアット500大作戦!!

2017-03-15

MONACO HISTORIQUE 2016  Lister Bristol  1955

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1954年、レーシングドライバーであり、ケンブリッジの鉄工所の経営者であるブライアン・リスターがオリジナル設計の車両を開発したことからリスターの歴史が始まった。
クーパーに触発され、ラダータイプのスペースフレームシャシーを持ち、ド・ディオンアクスル、インボードドラムブレーキという構成の軽量な車両であった。この頃の他のビルダーと同様に、改造したMG製エンジンとトランスミッションを使用した。
ドライバーには「隻腕の名手」アーチー・スコット=ブラウンを据え、オウルトン・パークでのデビューレースに臨んだが、パワー不足が目立った為にすぐにブリストル製2リッターエンジンに交換。更にいくつかの改良を施して、シルバーストーンでの英国グランプリのサポートレースに出走した。リスター・ブリストルは2リッタークラスではあっさり優勝、総合でも5位入賞を果たした。ジャガー・Cタイプに負けることはなく、上位にはアストンマーティンのワークスカーしかいないという快挙であった。この年、数々のレースに出走し、マセラティクーパー、ロータスやブリストルなどのライバルに対して勝利を重ねる。(以上 Wikipediaより)

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2016-06-23

MONACO HISTORIQUE 2016  GORDINI T11/15

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1947 GORDINI T11

 1899年、Amedee Gordini は、イタリアはボローニャ地方の非常に貧しい家庭の四男として生まれた。農園で働いていた父親は彼が8歳のときに亡くなったため、11歳になると学校を辞めて、最初は農業労働者、その後は馬車や自転車の修繕をして一家生活を支えた。その後、キャブレターで有名となる Eduardo Weberと親しくなり、 Isotta-Fraschini製の航空エンジンの製造とテストに携わっていた Alfieri Maseratiと仕事をすることになる。
 後に、単身パリに移住を果たし、フランス国籍を取得していた。

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 1935年フィアットはフランスでの高課税対策として、フランス国内で製造する目的でシムカ社を設立。SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )という意味。ゴルディーニはシムカから資金援助を受け、シムカ車のチューニングとレース活動を開始する。
ゴルディーニは大成功を収め、なかでもフィアット1100のフランス版、シムカ8をベースに、ゴルディーニは、当時としては空力的な2シーター・レーシングボディを架装。このモデルは速かったようだ。
 
 第二次大戦後、ゴルディーニはフランスで最初に成功したレーシング・コンストラクターとなった。そのマシンが Simca-Gordini T11である。大戦後の荒廃したフランスで新たなマシンを設計することは困難を伴った。資金もない中でエンジンを新設計するがパワーは望めなかった。そこでゴルディーニはボディの軽量化で挑戦し、資金調達も僅かなもので新型マシンを投入する。それが Gordini T11のあらましである。

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 エンジンの設計は1944年から開始。直列4気筒、1100ccのシムカ製エンジンがベースとなった。ツインキャブレターにより、6000回転で75馬力を叩き出すまでチューンされた。1948年には110馬力にまでパワーアップされている。いずれにしても元は小排気量の小さなエンジンだった。

 シャシーはその小型のエンジンを囲むように構築された。葉巻型のボディのノーズには卵型にデザインされたラジエターとオイルクーラーが備わっている。

 サスペンションはフロントが半独立懸架、リアは古典的なリジッドだった。ブレーキは4輪ドラムで冷却フィンが追加されている。

 ドライバーシートに座るとわかることだが、本当にボディが小さいことを実感できる。ステアリングを握ると、肘がボディの縁に触れる位置にある。シートの後方は丸みを帯びた小さな燃料タンクだ。

 1気筒当たり点火プラグは1本、マグネトーひとつ、そして4速ギアボックスと、拍子抜けするほど本当に何の変哲もないエンジンとメカニズム。しかしながらマシンは軽く、回頭性は高かった。実際にマシンはファンジオを含むレーシング・レジェンドたちによって無視できないポテンシャルを現していった。天候の良いサーキットでは、よりパワフルなアルファ・ロメオと競り合うことができたのだった。
 1948年のモナコGPではJean-Pierre Wimilleにより2位となっている。


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1952 GORDINI T15

 1950年に新しく組織されたFIAによるF1グランプリレースが設定され、その規定に沿ってT11のエンジンをアップデートしたのがT15である。すなわち直列4気筒エンジンは排気量1500ccとなり、スーパーチャジャーにより過給されることにより160馬力と大幅に戦闘力は高められた。
 ゴルディーニのチームはプリンス・ビラやポール・フレールをドライバーに迎え入れた。しかしながら結果はかんばしくなく、F1最初の開催年である1950年の勝ち点3ポイントが最高得点であり、その後は走るシケインと化していたのである。

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2015-05-28

1932  DATSUN Type11 Phaeton どちらが日本最古なのか???

座間にある日産のヘリテージコレクションにある 1932年 DATSUN Type11 Phaeton。
1959年11月に開催された第6回全日本自動車ショーの会場で公式に一般公開されて以来「現存する最古のダットサン」として紹介されてきたようだ。

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現存する最古のダットサン車。ダットサン車は1931年に発売され(10型、495cc、10ps/3700rpm)、市販1年目は約10台が生産され、32年には11型として約150台が生産された。
その後1933年に自動車取締令が改正されて750ccに排気量アップされ、車種は4人乗セダン、クーペ、フェートン、ロードスター、ライトバン、トラックの各種が製造された。
1935年には横浜工場でシャシーからボディーの一貫生産が加わり、大阪工場との並行生産で、年間3800台を生産する当時としては画期的な大量生産車となった。
当時ダットサン車は、
1)国産車である
2)値段が安い(価格:1350円)
3)日本の道路事情に適している
4)燃料費が安い
5)無免許で運転できる(当時気筒容積が750cc以下の自動車は運転免許が不要だった)
など、の特徴が認められ、自家用車やタクシーとして需要が急速に増大し、「ダットサン」の名称は「小型車の代名詞として使用されるほどに普及した。また、アメリカ、スペイン、ポルトガル、インド、ブラジル等の世界各国にも輸出された。(当時の輸出実績、1934年44台、35年53台、36年87台)

https://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-5.html

ところが、ところが、昨年11月末に行われたトヨタ博物館 クラシックカーフェスティバルには、これまた「現存する日本最古のダットサン」として11型フェートンが展示されていたのだった。

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↑トヨタ博物館がレストアし所有する個体である。

さてさて、日産とトヨタが所有するダットサン11型フェートン。どちらが現存する最古のダットサンなのか。
答えはトヨタ自動車博物館所有の個体が日本最古なのだ。

日産ヘリテージコレクションが所有する個体のプレートには「戸田鋳物自動車部大阪工場 DATSUN 12427」とある。戸田鋳物とは現在の日立金属の前進で、戸畑鋳物株式会社のこと。これが 1933年にダット大阪工場を70万円で購入。戸田鋳物自動車部大阪工場となった。
トヨタ自動車博物館がレストアした個体のプレートには「ダット自動車製造株式会社 DUTSUN 車体番号9174」とある。ダット自動車の存在期間を考慮すると、トヨタ自動車博物館の個体のほうが現存する最古のダットサンであることは明白である。

伝え聞くところによれば、「貴重な現存する最古の11型」であり保存状態も良好だったようだ。遺族は礼儀としてというか、当然買ってくれるだろうと考え日産に声をかけたのだが、値段で折り合いがつかなかったそうな。いろいろあってトヨタ博物館が引き取るに到った経緯のようだ。

遺族が日産に提示した買い取り料は数百万という良心的なものだったようだが、そんな金額ならゴーン会長のポケットマネーで楽に買うことが出来ただろう。
予算など日産には事情があったのだろうが、会社にとって大切なものであろう「現存する最古のダットサン」を手に入れるチャンスを逃してしまったのは事実である。

2014-12-18

1935 Hispano-Suiza K6 30CV 6cyl

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1935 Hispano-Suiza K6

The Hispano-Suiza name reflects the luxury car manufacturer's oriigin as a joint endeavor between a Spanish capitalist and a Swiss automobile designer. The bare chassis of the vehicle on display was imported by Lord Naoyasu Nabeshima,the 13th head of the Nabeshima family,who designed the body and had it built and mounted by japanese craftman. It took them about six months to complite the job. Given that Hispano-Suizas customarily carried coachworks designed by renowned European coachbuilders,the vihicle on show with a body designed by the owner himself is all the more exceptional.

 戦前、ヨーロッパの高級車といえばフランスに叶うものはなかった。なかでもイスパノ・スイザは、第1次大戦の航空機エンジンをベースに開発したエンジンを自動車に搭載し、そのロールスロイスを凌駕する進歩的な設計と圧倒的なパフォーマンス、そしてスポーティーさで社交界の華でもあったのである。
 スペインとスイスを意味するイスパノ・スイザ(La Hispano-Suiza de Automóviles Fábrica)の社名は、スペイン人資本家と創業者によってパリでスカウトされたスイス人技術者の協力により生まれたことを表している。
 K6は 1934年のパリ・オートサロンにて発表された。もちろんベアシャーシの状態である。ボディはカロジエによって豪華絢爛なボディが架装されるからだ。1934年から1938年にかけて、204台のシャシーがパリの工場から世に送り出された。搭載されたエンジンは直列6気筒 OHV 4900cc。
 この個体は、戦前、旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主である鍋島直泰がベアシャーシでパリから取り寄せ、渋谷は松濤の邸宅にて職人を使い架装させたもの。欧州のカロジエたちにも劣らない堂々としたデザインは、ホイールベースが3700mmを超える長大シャシーの成せる技とも言えよう。

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2014 TOYOTA AUTOMOBILE MUSEUM CLASSIC CAR FESTIVAL in JINGUGAIEN

2014-01-26

C.S. Rolls & Co. 1905

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これは貴重な、ディーラーであった C.S. Rolls & Co. 1905年の Rolls-Royceカタログ復刻版。
Bobさんのコレクションです。


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「世界一静かな2気筒エンジン」

 貧しい粉挽きの息子として生まれたマンチェスターの若い電気技師、Frederick Henry Royceが初めて自動車を製作したのは彼が40歳の 1904年のことであった。それは2気筒2リッターの10HP車であったが、エンジンのスムーズで静粛なこと、信頼性の高いことでは当時のいかなる車より傑出していた。直列2気筒 2000cc 吸気はオーバーヘッド、排気はサイドのバルブギアを持つ。クランクにはバランスウェイトがボルト締めされ、理想的な振動対策が行われている。電気系統はトレンブラー高圧コイルとバッテリーによるもの。そしてガバナー付の精巧なキャブレターは、当時としては最も進んだ設計で、エンジン回転の適切なコントロールができた。当時の2気筒車が、スピードのコントロールをもっぱらギアボックスに頼っていたことを考えると、このクルマの柔軟性はまさに画期的なものであった。「世界一静かな2気筒エンジン」というコピーに偽りはなかったのである。3段ギアボックスで最高速度は約60km/hであった。すでに1号車からラジエターグリルにはパルテノン神殿のデザインが用いられていた。
 シャシーはフランスの DECAUVILLE車を模したものとなっている。

 Henry Royceが終生追い求めた理想は、単なる性能ではなく、考えうる最良の方法と最高の材質を用いて、最も良心的な車をつくることにあったのである。価格は、製品が出来上ってしまってから自ずから定まった。Royce車の優秀性にまず魅せられた一人が、当時すでにモータリストの先駆者*1として名高かった裕福な貴族の子息 Charles Stewart Rollsであった。1号車の静粛性にいたく感動した Sir Rollsは直ちに、Royceの製作するすべての車を販売する契約を結んだ。しばらくは両者は別会社の形で Rolls-Royceブランドの自動車の製造・販売を行った。1906年、皮肉にも貧乏人と貴族の出会いにより、ここに偉大なる Rolls-Royce Limitedが生れたのである。


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 Sir Rollsの指示により、Royceは1年以内という驚くべき短期間で3気筒15HP型、4気筒20HP型、および6気筒30HP型を設計している。それを成し得たのは、エンジンの基本が同一で、部品が大幅に規格化されていたからであった。4気筒20HP型は2気筒10HP型のシリンダーブロックを2個並べたものであり、6気筒30HP型は2気筒エンジンを3基並べた形を採っていたからである。

 2気筒10HPと4気筒20HPの2台は自走でパリサロンの会場に向かい展示された。会場ではRolls-Royceの静粛性やスムーズさにパリ社交界の人たちは驚かされた。それまで2流と考えられていた英国車のイメージを激変させたのである。Rolls-Royceは同サロンで特賞を受賞しただけでなく、会場にて27台もの受注を得たのであった。

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カタログの最後は、王様、皇太子、公爵、男爵...etc.
きらびやかな Rolls-Royceのオーナーの名が記されている。

*1:彼は当時、世界で最も技術的に進んでいたフランス車の Peugeotや PANHARDを乗り回して都市間レースに参加していた。