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フィアット500大作戦!!

2017-03-29

MONACO HISTORIQUE 2016 Veritas RS 1948

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BMW製、直列6気筒、1,971奸¬鵤隠横鞠藁蓮

ベリタスは西ドイツの 第二次世界大戦直後に設立されたスポーツカーとレーシングカーの会社で、創業者はエルンスト・ループ 、 ゲオルグ・マイヤー 、ローレンツ・ディートリッヒ。最初に顧客であり、ホッケンハイムのレースで勝ちたいと考えていた Karl Klingから供給された戦前のBMW 328のエンジンやパーツを使い、BMW-Veritasを完成させました。 このクルマは1947年に納車され、その後1947年にドイツの2リッターチャンピオンになりました。 ほんの数台が作られた後、BMWからの異議にしたがい、クルマは単にVeritasとして知られるようになりました。

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2016-06-23

MONACO HISTORIQUE 2016  GORDINI T11/15

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1947 GORDINI T11

 1899年、Amedee Gordini は、イタリアはボローニャ地方の非常に貧しい家庭の四男として生まれた。農園で働いていた父親は彼が8歳のときに亡くなったため、11歳になると学校を辞めて、最初は農業労働者、その後は馬車や自転車の修繕をして一家生活を支えた。その後、キャブレターで有名となる Eduardo Weberと親しくなり、 Isotta-Fraschini製の航空エンジンの製造とテストに携わっていた Alfieri Maseratiと仕事をすることになる。
 後に、単身パリに移住を果たし、フランス国籍を取得していた。

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 1935年フィアットはフランスでの高課税対策として、フランス国内で製造する目的でシムカ社を設立。SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )という意味。ゴルディーニはシムカから資金援助を受け、シムカ車のチューニングとレース活動を開始する。
ゴルディーニは大成功を収め、なかでもフィアット1100のフランス版、シムカ8をベースに、ゴルディーニは、当時としては空力的な2シーター・レーシングボディを架装。このモデルは速かったようだ。
 
 第二次大戦後、ゴルディーニはフランスで最初に成功したレーシング・コンストラクターとなった。そのマシンが Simca-Gordini T11である。大戦後の荒廃したフランスで新たなマシンを設計することは困難を伴った。資金もない中でエンジンを新設計するがパワーは望めなかった。そこでゴルディーニはボディの軽量化で挑戦し、資金調達も僅かなもので新型マシンを投入する。それが Gordini T11のあらましである。

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 エンジンの設計は1944年から開始。直列4気筒、1100ccのシムカ製エンジンがベースとなった。ツインキャブレターにより、6000回転で75馬力を叩き出すまでチューンされた。1948年には110馬力にまでパワーアップされている。いずれにしても元は小排気量の小さなエンジンだった。

 シャシーはその小型のエンジンを囲むように構築された。葉巻型のボディのノーズには卵型にデザインされたラジエターとオイルクーラーが備わっている。

 サスペンションはフロントが半独立懸架、リアは古典的なリジッドだった。ブレーキは4輪ドラムで冷却フィンが追加されている。

 ドライバーシートに座るとわかることだが、本当にボディが小さいことを実感できる。ステアリングを握ると、肘がボディの縁に触れる位置にある。シートの後方は丸みを帯びた小さな燃料タンクだ。

 1気筒当たり点火プラグは1本、マグネトーひとつ、そして4速ギアボックスと、拍子抜けするほど本当に何の変哲もないエンジンとメカニズム。しかしながらマシンは軽く、回頭性は高かった。実際にマシンはファンジオを含むレーシング・レジェンドたちによって無視できないポテンシャルを現していった。天候の良いサーキットでは、よりパワフルなアルファ・ロメオと競り合うことができたのだった。
 1948年のモナコGPではJean-Pierre Wimilleにより2位となっている。


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1952 GORDINI T15

 1950年に新しく組織されたFIAによるF1グランプリレースが設定され、その規定に沿ってT11のエンジンをアップデートしたのがT15である。すなわち直列4気筒エンジンは排気量1500ccとなり、スーパーチャジャーにより過給されることにより160馬力と大幅に戦闘力は高められた。
 ゴルディーニのチームはプリンス・ビラやポール・フレールをドライバーに迎え入れた。しかしながら結果はかんばしくなく、F1最初の開催年である1950年の勝ち点3ポイントが最高得点であり、その後は走るシケインと化していたのである。

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2015-04-29

野沢三喜三さんの自動車人生  その2  1916(大正5)年の自動車大旅行

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 ニューヨークにある、アメリカで最も古い吊り橋の一つであり、同時に鋼鉄のワイヤーを使った世界初の吊橋でもあるブルックリン橋。ハリウッド映画にもしばしば登場する有名な橋だ。この橋を設計したドイツ系アメリカ人 John Augustus Roeblingの息子Ferdinand Roeblingによって設立されたのが Mercer。彼の息子の Roebling IIはマネージャーとなっている。
 元々は Roebling IIの友人である William Walterがニューヨークで1902年に設立した自動車メーカーthe Walter Automobile Companyを引き継いだものだ。その時に会社を Walterがニュージャージー州メーサー郡に所有していた使わなくなった醸造所に移設して Mercerとしたのだった。

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 1910年に世に出した Type 35R Raceaboutは有名なクルマで、直列4気筒 4,800ccのエンジンは55馬力を発生、最高速度は 110km/hにも達した。向かうところ敵なしで、アメリカ国内で行われた6つの公式レースの内5レースに勝利している*1

 その Type 35R Raceaboutで1916(大正5)年に自動車による旅行を果たしたのが野沢三喜三さんなのである。

 以下、野沢三喜三さん本人の談より。

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豊橋市内を行く野沢三喜三さん(左)の Mercer Type 35R Raceabout

 大正4(1915)年の秋のことだった。大正天皇の即位式をあてこんで、アメリカから自動車競争の一行がやってきた。Mercerという競走用の車を4台持ってきたが、日本では競技場もないし、自動車競争に興味をしめす人も少なかったので、一行は買える旅費も無くなって立ち往生してしまった。それを私は聞いたので、4台の車を1万円(現在の貨幣価値で約930万円)で全部買い取ってしまった。このときは商売よりも、競走用のハイ・スピードの車に興味があったからである。
 Mercerは110キロのスピードをもっていた車だが、当時の日本にはそんなスピードを出せる道路はどこを捜したってない。60〜70キロのスピードをだしたら、乗っている人はもちろん、見ている人も「生死の境の速さ」といって驚異の目をみはった時代だ。翌、大正5(1916)年の1月、私はこの車で名古屋の親類までドライブを試みた。東京〜名古屋間約360キロに4日間を費した旅だった。
 第1日は東京から箱根宮の下まで。第2日は静岡まで、この間には富士川がある。そのころの東海道には自動車が渡れるような橋がなかったので、川の手前で汽車に積んで次の駅まで輸送した。第3日は浜松までいったが、大井川ではまた苦労した。川にそって下っていくと藤枝から御前崎のほうにいく軽便鉄道の鉄橋があった。その線路の横に付いているガタガタの人道を恐る恐る渡った。橋の渡り賃は40銭か50銭だった。人の渡り賃は1銭か2銭のころだから、たいした金額だが、橋番は橋を壊されはしないかと思うらしく、いい顔はしていなかった。天竜川は河口に橋があったが、これも名ばかりの橋で、橋杭の上に板を渡し縄でしばったものだった。競走用の幅の狭い車が渡るのは、ちょっとハンドルをきり違えたら、車輪が落ちてしまうほどちゃちなものだったが、ここでも橋銭を50銭とられた。名古屋に着いたのは4日目の夕方だった。
 名古屋から知多半島の常滑というところの野間のお地蔵様を観に行ったのだが、名古屋にフォードのハイヤーが2台あったので、それも一緒に常滑までドライブした。その頃は自動車が珍しいものだったので、止まったが最後、車だというので人が集まり、人垣から抜けるのがひと苦労だった。市販の道路地図なんぞなかったから、陸軍参謀本部の地図を参考にしたものだ。

*1:唯一敗れたのはインディ500。

2015-03-17

エンパイヤ自動車商會 リンカーン 1920年代のカタログから。

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柳田諒三氏は 1913(大正2)年5月、東京市日本橋区呉服町18番地にインパイヤ自動車ガレージを設立し、アメリカ製エンパイヤ自動車を5台輸入した。他に同クロー自動車などを販売し、レンタカー業も始めている。「インパイヤ」は正確には「エンパイヤ」とすべきだったが、電話帳がイロハ順だったので開業当時は「インパイヤ」としたが、インパイヤの語呂が淫売屋に聞こえることから、まもなく「エンパイヤ」に改められた。創業9年めの 1922年10月にはエンパイヤ自動車商會としてフォード、リンカーンのディーラーとなった。
現在も自動車部品商社として続いている。
http://www.empire.co.jp/

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リンコン車の本質

 リンコン自動車自動車産業の生産しうる最逸品を御要求になる上流社会の方々や富裕な方々の為に特製された立派な高級車であります。

 リンコン車は最良の乗り心地と最美の調度を期待さるる方々の御気に召す用に制作してあります。

 故に此の車は斯る人々の社交上の地位に相応しい計りでなく、所有者の奥ゆかしい人柄を聯想させるのであります。

 V型8氣筒エンヂンの動力は如何なる場合に於いても真綿の如き柔らかさを持って車を動かします。リンコンのV型エンヂンは他の九十度型と異なり、六十度の角度に出来て居ります。本エンヂンの創始者リランド父子は飛行機のエンヂンにつき實驗中、エンヂンの角度を縮めることは風の抵抗を少なくするために必要であることに氣附きました。其後の實驗に於いてエンヂンの角度小と言ふ事は、運轉の靜滑を増大する利益があることを發見しました。これはどう言ふことかと言ふと、六十度角度の氣筒は點火時が不揃ひである為に、定時的の振動が全く無いからであります。

 米國自動機關協會の方式で算出しますと、リンコン車のエンヂンの馬力は39.2でありますが、實際の力は此の数字の約3倍に達します。此の驚く可き力は1時間85哩の速力で車を驅り得るのであります。無論斯様な高速力を出す必要はありませんが、いざと言う場合には何時でも出し得るのであります。リンコン車の登攀能力に到っては奇蹟と申すに足ります。他車がギーアを中速に入替えて喘ぎ喘ぎ登る坂路も、リンコン車は高速ギーアの儘で悠々と遣つてのけるのであります。

 リンコン車の軸間(ホ井ール ベース)は136寸でありますが、旋回の半徑は右廻りで21尺、左廻りで24尺に過ぎません。若し夫れ街角迂回の容易さに至つては、ずつと車体の小さい車と異なる處はありません。

 リンコンを操縱することは大なる悦樂であります。ドライブを樂しむ人達は其の操縱輪(ホ井ール)を握る事に快心微笑を禁じ得ません。又自ら操縱すると言ふ事はリンコン車が如何に自由自在な車であるかを知る唯一の方法であります。リンコン車に六式ブレーキを装置しますと、如何に交通頻繁な路上でも最も安全な車となります。車を停め様と思へば一瞬間で出來ます。


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 カタログの巻末にはリンカーンを購入した名士の名が綴られている。

●福沢駒吉 (1891年(明治24年)1月5日 - 1945年(昭和20年)3月18日)
「電力王」と呼ばれた実業家福澤桃介の長男で、福澤諭吉の孫にあたる。父の電気事業に参加したほか、化学工業を起して東亞合成化学工業(現・東亞合成)初代社長となった。

●古河虎之助(1887年1月1日 - 1940年3月30日)
日本の実業家。古河財閥創業者古河市兵衛の実子で、3代目当主。爵位は男爵。位階勲等は正四位勲三等瑞宝章。紺綬褒章受章。号は風可。古河財閥を多角化させ、総合財閥に発展させた。

●岩崎小弥太(1879年(明治12年)8月3日 - 1945年(昭和20年)12月2日)
日本の実業家で、三菱財閥の4代目総帥。男爵。

●渋沢栄一(1840年3月16日 - 1931年11月11日)
江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、日本資本主義の父といわれる。理化学研究所の創設者でもある。
正二位勲一等子爵。雅号に青淵(せいえん)。

●瀧川儀作(1874年)12月8日 - 1963年1月31日)
日本の実業家、政治家。瀧川辨三の養嗣子。旧姓梶岡。
瀧川辨三が発展させた東洋燐寸株式会社社長を引き継ぎ日本のマッチ王と呼ばれる。

●錢高作太郎
建設会社 錢高組の創始者。

●田中栄八郎
日本の製紙王と言われた大川平三郎の実弟。

●小笠原 長幹(1885年3月2日 - 1935年2月9日)
最後の小倉藩主小笠原忠忱の長男。伯爵。
1897年(明治30年)3月、家督を相続する。学習院大学卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学。帰国後に式部官、1918年(大正7年)貴族院議員となる。1920年(大正9年)に陸軍省参事官、1922年(大正11年)に国勢院総裁、その後行政制度審議会委員などを歴任する。

●田村新吉(1864−1936年)
明治-昭和時代前期の実業家,政治家。
文久3年12月17日生まれ。明治17年アメリカ留学。24年カナダのバンクーバーに貿易店をひらく。36年本店を神戸にうつし欧米,中国などにも業務を拡大した。日加合同貯蓄銀行社長,神戸商業会議所会頭。大正4年衆議院議員(憲政会),14年貴族院議員。大坂出身。

●竹島源蔵
創業1823年、今も大阪日本橋にある大源味噌の三代目。

2014-10-13

Saab 92 1951

 スウェーデンの SAABは、 Svenska Aeroplan AB(スウェーデン語で"スウェーデン航空機会社")の頭文字を並べたもので、スウェーデン政府の意向により、国防のための航空機製造会社として、機関砲で有名なボフォース社の傘下で1937年に設立された。ユニークな設計で有名な飛行機が多い。

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SAAB B17(1941)
最初に生産された航空機は単発の爆撃機 B17。ユニークなのは主脚カバーが急降下爆撃時のダイブブレーキとして作動すること。

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SAAB J21(1943)
SAAB初の戦闘機は意欲的な推進式。しかも脱出装置付き!

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Saab J35 Draken(1955)
スウェーデン初のマッハ2級戦闘機。2つの三角形を二重に組み合わせたデルタ翼という他に例のない独特な主翼を持ち、高速道路から離陸できる短距離離着陸性能と高速性能両立させた傑作戦闘機だ。

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ドラケンのプロモフィルム。映像に出てくるクルマはもちろんSAABだ。


さてクルマの話に戻そう。SAABは戦後を見据え1944年から、SAAB 90旅客機とSAAB 91軽飛行機の開発にとりかかっていた。90、91と続く92。それは同社初の自動車だった。
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SAAB 92 001(1947)
1947年に完成した試作車001は、水冷2気筒2ストロークのエンジンを横置きに搭載し、3段ギアボックスを介して前輪を駆動するFWDという当時としては珍しいレイアウトで、たぶん同じレイアウトの先駆者である戦前の DKW F9を徹底的に研究した結果であろう。それを如何にもヒコーキ屋が設計したと思わせる理想的な流線型の先進的なモノコックボディでくるんでいた。ボディのデザインは風洞実験もして確かめている。ラジエターはウォーターポンプを省略したサイフォン式。サスペンションはトーションバーでリアは独立式だった。

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DKW F9 Prototype(1939)

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Saab 92 (1951)
水冷直列2気筒2ストローク 764cc 25ps/3800rpm MAX 100km/h
試作車発表から3年、1950年に発表された生産モデルは、さすがに試作車の理想主義的なスタイルは崩れてしまっているが、当時のヨーロッパの小型車の中で最も空気抵抗の少ない乗用車であったはずだ。Aピラーの角度が45度というのに注目。この当時の一般的な乗用車が垂直から30度未満であったのに対し、如何にも空力の良さそうなデザインだ。
その後92は足回りの良さもあって、ラリーで活躍することになる。