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フィアット500大作戦!!

2017-03-29

MONACO HISTORIQUE 2016 Veritas RS 1948

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BMW製、直列6気筒、1,971奸¬鵤隠横馬力

ベリタスは西ドイツの 第二次世界大戦直後に設立されたスポーツカーとレーシングカーの会社で、創業者はエルンスト・ループ 、 ゲオルグ・マイヤー 、ローレンツ・ディートリッヒ。最初に顧客であり、ホッケンハイムのレースで勝ちたいと考えていた Karl Klingから供給された戦前のBMW 328のエンジンやパーツを使い、BMW-Veritasを完成させました。 このクルマは1947年に納車され、その後1947年にドイツの2リッターチャンピオンになりました。 ほんの数台が作られた後、BMWからの異議にしたがい、クルマは単にVeritasとして知られるようになりました。

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2017-03-23

アリババの洞窟にて

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関東某所にあるHさんのガレージ。ご友人と3年かけて自作したというガレージには20台以上のクルマとモーターサイクルが隠されていた。

Hさんは1966年頃の20代半ばに、吉祥寺に住んでいた五十嵐平達氏の自宅を訪ね、自動車博物館を作りたいという夢を話したそうだ。五十嵐さんは賛同され、助言をされたそうだ。「日本車を保存するのは日本人がやるしかない」と。そしてこうも言った「自動車趣味を突き詰めると歴史にたどり着く」。その後、五十嵐さんがトヨタ自動車博物館の立ち上げに関わっていった。


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富士自動車 フジ・キャビン・スクーター。
スクーターに屋根とドアをつけたクルマ。エンジンは立川工場製のガスデン2サイクル122cc、5.5馬力。まさに雨に濡れないスクーターだったのだ。
この個体は運転席側にしかドアがない。自動車ショーで展示された個体らしい。

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ボディはFRPのモノコック。FRPといえばロータス・エリートが有名だが、これはエリートに先駆ける2年前の1955年発表。シトロエンDS並みの驚きだったのではないか。デザインは戦前にダットサンのデザインをされていた富谷龍一氏。シフトレバーが座席右側にあることに注意。

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住之江製作所 フライング・フェザー
デザインはフジ・キャビンと同じ富谷龍一氏。エンジンも富谷氏の設計で空冷V型2気筒OHV350奸12.5馬力。これをRRで搭載する。やけに大きなホイールは19インチ。シトロエン2CVと同様にバネ下重量を軽くするためだ。二人乗りで、ハンモックシートや巻き上げ式のキャンバストップなど、シトロエン2CVの影響は大きかったようだ。軽いクルマを目指したが、車重は400キロにもなってしまい最高速度は60キロ程度だったらしい。ヤナセが販売もしたが、いかんせん1955年の日本で30万円もするクルマを買える大衆はいなかった。金持ちは大型のアメリカ車を乗り回していた時代だった。

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富士産業(後の富士重工)ラビット・スクーターS12
135cc空冷4ストローク単気筒エンジンを搭載。軍用機生産で食べていた中島飛行機が富士産業になり、苦肉の策で生き残りをかけて生産したのがスクーターだった。1948年ごろの個体。

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LANCIA FLAVIA SPORT ZAGATO
国際自動車が当時輸入した個体。ただし前オーナーがオーバーヒートに悩まされた結果、ボンネットにはオリジナルには無い熱抜きのルーバーが作られている。Hさんによれば同じFWDでもスバル1000の方が運転が楽しいとのこと。フラビアは重たいらしい。

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戦前、横浜のフォード日本工場で生産されたトラック。ボディは木骨。ベルトのお化けのようなのを下げて窓を開けるようになっている。

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ダットサン・スポーツ DC3
1952年というトラックとバスだらけの日本にあって、戦前のダットサンをベースにMGのようなクルマを作りたいという情熱は買いますね。ボディデザインはオオタ自動車の太田祐一氏。限定50台で価格は83万5千円。大卒初任給が8,000円ぐらいの時代です。

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ダットサン・デリバリーバン DV—5

自治体の役所で使っていた個体のようです。商業車の残存率は極端に低いので貴重な個体です。しかもDV−5は1954年の一年間しか生産されなかったのでなおさら珍しい。価格は67万円でした。

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これは1925年製のインディアン。アメリカのモーターサイクルです。
Hさんのおじさんが開業医をしていて診療用に使っていたそうです。

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錆だらけのモーターサイクルが戦前のDKWのRT125。その隣のレストアされたピカピカのがヤマハのYA−1。
実はヤマハはDKWに許可を得ないでフルコピーでYA−1を製造販売していたのです。
いま何も知らない日本人が中国製コピーを馬鹿にして留飲を下げているような風潮がありますが、それは天に唾するようなものだということですね。

2016-06-23

MONACO HISTORIQUE 2016  GORDINI T11/15

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1947 GORDINI T11

 1899年、Amedee Gordini は、イタリアはボローニャ地方の非常に貧しい家庭の四男として生まれた。農園で働いていた父親は彼が8歳のときに亡くなったため、11歳になると学校を辞めて、最初は農業労働者、その後は馬車や自転車の修繕をして一家の生活を支えた。その後、キャブレターで有名となる Eduardo Weberと親しくなり、 Isotta-Fraschini製の航空エンジンの製造とテストに携わっていた Alfieri Maseratiと仕事をすることになる。
 後に、単身パリに移住を果たし、フランス国籍を取得していた。

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 1935年、フィアットはフランスでの高課税対策として、フランス国内で製造する目的でシムカ社を設立。SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )という意味。ゴルディーニはシムカから資金援助を受け、シムカ車のチューニングとレース活動を開始する。
ゴルディーニは大成功を収め、なかでもフィアット1100のフランス版、シムカ8をベースに、ゴルディーニは、当時としては空力的な2シーター・レーシングボディを架装。このモデルは速かったようだ。
 
 第二次大戦後、ゴルディーニはフランスで最初に成功したレーシング・コンストラクターとなった。そのマシンが Simca-Gordini T11である。大戦後の荒廃したフランスで新たなマシンを設計することは困難を伴った。資金もない中でエンジンを新設計するがパワーは望めなかった。そこでゴルディーニはボディの軽量化で挑戦し、資金調達も僅かなもので新型マシンを投入する。それが Gordini T11のあらましである。

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 エンジンの設計は1944年から開始。直列4気筒、1100ccのシムカ製エンジンがベースとなった。ツインキャブレターにより、6000回転で75馬力を叩き出すまでチューンされた。1948年には110馬力にまでパワーアップされている。いずれにしても元は小排気量の小さなエンジンだった。

 シャシーはその小型のエンジンを囲むように構築された。葉巻型のボディのノーズには卵型にデザインされたラジエターとオイルクーラーが備わっている。

 サスペンションはフロントが半独立懸架、リアは古典的なリジッドだった。ブレーキは4輪ドラムで冷却フィンが追加されている。

 ドライバーシートに座るとわかることだが、本当にボディが小さいことを実感できる。ステアリングを握ると、肘がボディの縁に触れる位置にある。シートの後方は丸みを帯びた小さな燃料タンクだ。

 1気筒当たり点火プラグは1本、マグネトーひとつ、そして4速ギアボックスと、拍子抜けするほど本当に何の変哲もないエンジンとメカニズム。しかしながらマシンは軽く、回頭性は高かった。実際にマシンはファンジオを含むレーシング・レジェンドたちによって無視できないポテンシャルを現していった。天候の良いサーキットでは、よりパワフルなアルファ・ロメオと競り合うことができたのだった。
 1948年のモナコGPではJean-Pierre Wimilleにより2位となっている。


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1952 GORDINI T15

 1950年に新しく組織されたFIAによるF1グランプリレースが設定され、その規定に沿ってT11のエンジンをアップデートしたのがT15である。すなわち直列4気筒エンジンは排気量1500ccとなり、スーパーチャジャーにより過給されることにより160馬力と大幅に戦闘力は高められた。
 ゴルディーニのチームはプリンス・ビラやポール・フレールをドライバーに迎え入れた。しかしながら結果はかんばしくなく、F1最初の開催年である1950年の勝ち点3ポイントが最高得点であり、その後は走るシケインと化していたのである。

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2016-06-14

MONACO HISTORIQUE 2016  1948 TALBOT-LAGO Type 26 Course

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 戦前に開発されていた技術と部品によって作られていたにもかかわらず、TALBOT-LAGO 26Cは戦後のグランプリ・レースを6年間も戦い続け、1.5リッター、スーパーチャジャーで武装されたアルファ・ロメオやマセラティ相手に善戦した。あの Louis Chironらが26Cで参戦している。
 エンジンは4.5リッターのDOHCと3基のストロンバーグ・キャブレターにより280馬力を叩き出している。ギアボックスはWilson gearboxで所謂 Preselector gearbox。
 この個体はイタリア人レーサーの Franco Comottiにより1948年度のグランプリレースに11回参戦した。 Comottiはブレシアに生まれ、ムッソリーニのファシスト党に支配されたイタリアに我慢できず1936年にフランスに亡命し、戦争中にナチス・ドイツ支配下のイタリアに潜入して拘束され死刑判決を受けたが、レジスタンスに助けられたという数奇の運命の人物。

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ステアリングコラムに取り付けられているシフトレバーに注意。

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2015-04-29

野沢三喜三さんの自動車人生  その2  1916(大正5)年の自動車大旅行

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 ニューヨークにある、アメリカで最も古い吊り橋の一つであり、同時に鋼鉄のワイヤーを使った世界初の吊橋でもあるブルックリン橋。ハリウッド映画にもしばしば登場する有名な橋だ。この橋を設計したドイツ系アメリカ人 John Augustus Roeblingの息子Ferdinand Roeblingによって設立されたのが Mercer。彼の息子の Roebling IIはマネージャーとなっている。
 元々は Roebling IIの友人である William Walterがニューヨークで1902年に設立した自動車メーカーthe Walter Automobile Companyを引き継いだものだ。その時に会社を Walterがニュージャージー州メーサー郡に所有していた使わなくなった醸造所に移設して Mercerとしたのだった。

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 1910年に世に出した Type 35R Raceaboutは有名なクルマで、直列4気筒 4,800ccのエンジンは55馬力を発生、最高速度は 110km/hにも達した。向かうところ敵なしで、アメリカ国内で行われた6つの公式レースの内5レースに勝利している*1

 その Type 35R Raceaboutで1916(大正5)年に自動車による旅行を果たしたのが野沢三喜三さんなのである。

 以下、野沢三喜三さん本人の談より。

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豊橋市内を行く野沢三喜三さん(左)の Mercer Type 35R Raceabout

 大正4(1915)年の秋のことだった。大正天皇の即位式をあてこんで、アメリカから自動車競争の一行がやってきた。Mercerという競走用の車を4台持ってきたが、日本では競技場もないし、自動車競争に興味をしめす人も少なかったので、一行は買える旅費も無くなって立ち往生してしまった。それを私は聞いたので、4台の車を1万円(現在の貨幣価値で約930万円)で全部買い取ってしまった。このときは商売よりも、競走用のハイ・スピードの車に興味があったからである。
 Mercerは110キロのスピードをもっていた車だが、当時の日本にはそんなスピードを出せる道路はどこを捜したってない。60〜70キロのスピードをだしたら、乗っている人はもちろん、見ている人も「生死の境の速さ」といって驚異の目をみはった時代だ。翌、大正5(1916)年の1月、私はこの車で名古屋の親類までドライブを試みた。東京〜名古屋間約360キロに4日間を費した旅だった。
 第1日は東京から箱根宮の下まで。第2日は静岡まで、この間には富士川がある。そのころの東海道には自動車が渡れるような橋がなかったので、川の手前で汽車に積んで次の駅まで輸送した。第3日は浜松までいったが、大井川ではまた苦労した。川にそって下っていくと藤枝から御前崎のほうにいく軽便鉄道の鉄橋があった。その線路の横に付いているガタガタの人道を恐る恐る渡った。橋の渡り賃は40銭か50銭だった。人の渡り賃は1銭か2銭のころだから、たいした金額だが、橋番は橋を壊されはしないかと思うらしく、いい顔はしていなかった。天竜川は河口に橋があったが、これも名ばかりの橋で、橋杭の上に板を渡し縄でしばったものだった。競走用の幅の狭い車が渡るのは、ちょっとハンドルをきり違えたら、車輪が落ちてしまうほどちゃちなものだったが、ここでも橋銭を50銭とられた。名古屋に着いたのは4日目の夕方だった。
 名古屋から知多半島の常滑というところの野間のお地蔵様を観に行ったのだが、名古屋にフォードのハイヤーが2台あったので、それも一緒に常滑までドライブした。その頃は自動車が珍しいものだったので、止まったが最後、車だというので人が集まり、人垣から抜けるのがひと苦労だった。市販の道路地図なんぞなかったから、陸軍参謀本部の地図を参考にしたものだ。

*1:唯一敗れたのはインディ500。