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フィアット500大作戦!!

2012-08-10

Le Mans Classic 2012  1GRID 1923 - 1939+ Entrants Part 6

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1930 Talbot 90 PL 2
Talbot 2276cc 4cyl.

 Talbotは自動車創成期のフランスのメーカー Clément-Bayardを輸入販売する英国の企業として、1903年に Charles Chetwynd卿によって設立された。1905年には部品をフランスから輸入して組み立て Clément-Talbotブランドとして売り始めた。第1次大戦中は救急車の製造に携わっていたが、1919年にパリに拠点を置く英国資本のメーカー Darracq(Alfa Romeoはこの Darracqのライセンス生産から始まった)により買収され、Darracqが製造したクルマを Talbot-Darracqブランドで販売した。後に Sunbeam-Talbot-Darracq (STD)に編成されたが、1935年には破綻。フランス工場は Anthony Lagoが買取、高級車メーカー Talbot-Lagoとなる。

 1916年にスイス生まれのエンジニアである Georges Roeschが Talbotの設計主任となるが、彼はその時代のエンジンが騒々しいオーバーヘッド・カムシャフトとスーパーチャージャーの組み合わせであることに不満を抱いていた。もっとシンプルになりやしないか。。。
 高回転なエンジンを実現するために、非常識な高圧縮比と超軽量の部品を組み合わせてハイパワーのエンジンを完成させた。実際、最初に完成した小さなOHV4気筒エンジンは、既製の Talbot-Darracqレーシング・エンジンよりも高いパフォーマンスを記録し、彼の考えが正しかったことを証明することとなる。STDの Louis Coatalenはそのエンジンに感銘を受け、1925年に Roeschを工場に送り出す。そこで彼は騒音の少ない高性能車の実現を果たすこととなる。
 生み出された新型の Talbot 14/45は保守的なラダー・フレームであったにもかかわらず、ボディのデザインはクリーンであり、搭載された6気筒エンジンはローラーベアリングを使用していた。バルブの駆動はギアによるもので、騒々しいチェーンを排除することにより、より高回転のエンジンを実現した。またスモール・ボアを実現したので結果的に税金も安くなったのである。
 1930年のル・マンに参戦した Talbot 90 PL 2は、その流れを汲む4気筒エンジンで90馬力という高出力を武器に8リッター・クラスの Bentley Speed Six相手に善戦する。
 英国人 Arthur W. Foxと Charles Nichollによるチームの#15と#16が3〜4位を占めることとなった。



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1931 Talbot 105
Talbot 3400cc 4cyl.


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1934 Talbot 105
Talbot 3400cc 4cyl.


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1934 Talbot 105
Talbot 3400cc 4cyl.

 1930年のル・マンが予想以上の結果に終わったことに Roeschは喜び、翌年のル・マンには戦闘力をアップした 140馬力のマシンを投入、スーパーチャージャーで過給したアルファメルセデス相手に善戦。前年と同じ Arthur W. Fox / Charles Nichollによるチームの#11 Tim Rose-Richards / Owen Saunders-Davies組により3位でフィニッシュしている。
 最終的には 160馬力までパワーアップされ、長年にわたってレースの覇者となった。1935年に STDは破綻、Talbotはレース参戦を止めることとなる。買収先の Rootesグループが中止を決定したのであった。その後 Talbotが独自のクルマを造ることはなくなった。
 ル・マンに Talbotで参戦、好成績を収めた Arthur W. Foxと Charles Nichollのチームは、1935年のル・マンに Lagonda M45R Rapideで参戦、見事優勝を果たしている。

2012-08-08

Le Mans Classic 2012  1GRID 1923 - 1939+ Entrants Part 4

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1927 O.M. 665 Superba
O.M. 1991cc 6cyl.

 O.M.( Officine Meccaniche=機械製作 )は 1918年にイタリアはミラノに設立された自動車メーカー。元々は鉄道機材を製造していた2社が合併して1899年に設立された会社である。イタリア自動車創成記のメーカー Brixia-Zust社工場を1918年に傘下に収めて自動車メーカーとしてスタートした。1938年に FIATに乗っ取られ、乗用車の製造は止めざるを得なくなり商用車や鉄道機材メーカーとして存続することとなる。1975年に IVECOに吸収されたが、フォークリフトの製造メーカーとして現在も存在している。
 1923年、665 Superbaの製造を開始。このクルマは当時の自動車レースで Lancia Lambdaと共に目覚しい戦績を残し、欧州各地で評判となる。しかしながら、ツーリングカーとして設計されたにもかかわらず進歩的な Lancia Lambdaと比較すると、 O.M. 665 Superbaは当初からスポーツ・カーとして設計されながら著しく保守的なものとなっている。クルマ自体は 1922年の直列4気筒搭載 O.M. 469がベースとなっており、新開発の55馬力 サイド‐バルブ直列6気筒エンジンの冷却方式は熱サイフォン水冷装置であった。ホイールベースが 2800mmのSと 3100mmのNの2タイプがあり、排気量も当初は1991ccであったが、後に2200ccに拡大されている。軽快なボディはCarrozzeria Touringによるもの。
 1925年のル・マンに於いてワークス・チームの#29と#30が4〜5位でフィニッシュしている。翌1926年のル・マンでもワークス・チームの#17と#18が前年同様の4〜5位となっている。
 その26年のル・マンで4位となった 665 Superbaを操った Ferdinando Minoiaは、1927年の記念すべき第1回 Mille Migliaで見事に優勝。O.M.ワークス・チームは Lancia Lambdaを抑えて1〜3位を独占した。

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Minoia Morandi's O.M. winner of the 1927 Mille Miglia.


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1935 Alfa Romeo 8C 2300
Alfa Romeo 2300cc Supercharged 8cyl.

 Vittorio Janoによる傑作。1931年1934年、4年連続でル・マン優勝という栄光のマシン。
 1935年のル・マンでは、Pierre-Louis Dreyfusチームの#12が Pierre-Louis Dreyfus / Henri Stoffel組が惜しくも総合2位3リッター・クラス1位となっている。これには落ち度があった。アルファ・ロメオの計測係が周回数の計算を間違えてトップを走っていると勘違いしてしまったのだ。これに気づくのがあまりにも遅く、優勝したLagondaとの差である約4マイルを縮めることはできなかったという。
なお、同レースにはあの Luigi Chinettiもプライベート・チームを率いて、自ら 8C 2300のステアリングを握っていたのだが、他車とクラッシュして36位でリタイアとなっている。


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1938 HRG 1500
Singer 1500cc 4cyl.

 HRG ( HRG Engineering Company )は、1936年設立された英国の自動車メーカー。 3人の共同設立者、Major Edward Halford, Guy Robins , Henry Ronald Godfreyの頭文字から HRGと名付けられた。
 1935年、Ron Godfreyは Brooklandsでのレース仲間 Major Edward Halfordに、スポーツカーの開発を持ちかける。翌1936年、英国自動車メーカーの Trojanに在籍していた Guy Robinsを3人目のパートナーとして HRGがスタートした。
 第1号車は Meadow社製エンジンを搭載したもので£395となった。これは Aston Martinの半値以下で、車重も450kg以下とポテンシャルは高かった。
 1938年にはOHVの Meadow社製エンジンから、OHCの Singer社製に乗せ替えられた。同年のル・マンに於いて、Ecurie Lapin Blancチームの#31がPeter Clark /
Marcus Chambers組によって10位でフィニッシュ。英国車としてはトップの成績であった。



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1934 Austin 75 S
Austin 746cc 4cyl.

こんな小さいのもル・マンに出ていたとは。1934年のル・マンで H. Bridgman Metchimチームの#54が H. Bridgman Metchim / C.H. Masters組によって27位でリタイアとなっております。

2012-08-03

Le Mans Classic 2012  1GRID 1923 - 1939+ Entrants

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1935 Lagonda LG45
Meadows 4469cc 6cyl.


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1936 Lagonda LG45
Meadows 4469cc 6cyl.


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1937 Lagonda LG45
Meadows 4469cc 6cyl.


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1937 Lagonda LG45
Meadows 4469cc 6cyl.

 Lagonda LG45は1935年のル・マン24時間に於いて、Arthur W. Fox & Charles Nichollチームの#4 Johnny Hindmarsh / Luis Fontés組によってAlfa Romeo 8C 2300を振り払い、堂々優勝の栄冠を勝ち取ったクルマ。同年、W.O. Bentleyの指導のもとにセミ・ワークスの Fox & Nicholls チームに4台が納車されている。内2台は当時のル・マンの規定で4シーターとされ、後の2台はスポーティーな2シーターとなっている。
 ル・マン・スペシャルはAlan Hessに貸与され、雨のBrooklandsサーキットに於いて連続1時間の速度記録104.4 miles/hを記録。英国最速のクルマとなった。
 その後、Frank Freelyの架装により LG45 Rapideという名のロード・ゴーイング・バージョンが25台制作された。この Rapideは、今日アストン・マーチンの高級4ドア・サルーンの名として引き継がれている。
 


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1938 Lagonda V 12
Bentley 4469cc V12.
Lagonda V 12は 1939年のル・マン24時間に於いて、総合で3位と4位、5リッター・クラスでは1‐2フィニッシュでクラス優勝している。V12エンジンは DOHCで180馬力、最高速度は 160km/h以上。
Brooklandsでの500マイル・レースに於いてBentleyを打ち負かし、大いに溜飲を下げたと言われている。



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1929 Chrysler 75
Chrysler 4086cc 6cyl.
 Chryslerの創業は1924年。創業4年目の1928年にはル・マンに参戦。72が3‐4位を占めた。75は、1929年のル・マン24時間に於いてフランス人ドライバー Henri Stoffel
/ Robert Benoist組により6位入賞となっている。




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1931 Invicta S-Type
Meadows 4469cc 6cyl.


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1931 Invicta S-Type
Meadows 4469cc 6cyl.

 Invictaは英国のスポーツ・カー・メーカー。1924年にレーシング・ドライバーであり、エンスージアストでもあった Captain Albert Noel Campbell Macklinが設立した。
彼が目指したものは、Bentleyや Rolls-Royceのような良質のスポーツ・カーを造ることであった。この野心的な計画を実現するために、裕福な実業家 Oliver と Philip Lyleの支援を受けることになる。
 1925年に最初に世に送り出された Invictaは、Coventry Climaxの4気筒エンジンを搭載。その後直ぐに Meadows社の直列6気筒 2.5リッター・エンジンを搭載するようになった。 Macklinの指示により、ロング・ストロークでトルク重視となっていた。次の年には3リッターに拡大、最終的に排気量は4リッターとなった。それにより高性能となったが、高価なクルマとなった。しかしながら、レースとスポーツ・カーを好む富裕層の支持を得て、業績は順調であった。
 Invicta社で一番有名なモデルは、1930年Olympia Showに出展された S-Typeである。その特徴は 'underslung'と称された、当時としては画期的に低いシャシーにあった。 Reid Railtonによって設計されたシャシーは、リア・アクスルをシャシー・フレームの上に設置することにより、車高を低くしたものだった。これを採用するクルマは以前から存在していたが、走行性能向上のために量産車に採用されるのは初めてのことだった。
 S-Typeは市販車としてデビューする前年の 1929年のル・マン24時間に参戦。13位でリタイアとなったが、その後、コンペティションで活躍し、1931年の Monte Carlo rallyでは、あの Donald Healeyの操縦により、英国車として2度目の優勝をもたらし、 Raymond Mays (後の ERA と BRMの創設者)は Brooklandsサーキットで数々の記録を打ち立てた。
 レースでの勝利によって名声を打ち立てた S-Typeであったが、 Macklinの「良質なクルマを提供する」という信念により、1台1台が厳選された部品によって組み立てられ、尚且つシャシーは当時としてはオーバー品質のニッケル・クローム鋼を採用していたのが経営を圧迫、それでなくても世界恐慌直後の30年代は高額なスポーツ・カーが売れる時代ではなくなっていたのである。
会社は 33年には生産中止に追い込まれ、モーター・スポーツに名を残した S-Typeは総生産台数77台で短い生涯を終えることとなった。



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Donald Healey celebrates winning the 1931 Monte Carlo Rally alongside his victorious 4.5-litre Invicta S-Type.

2012-07-03

James Young Ltd Coachbuilders

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 James Young社は1863年、London Road, Bromleyにて創業。馬車の製造を生業としていた。
 1908年、地元選出の国会議員のために初めてクルマのボディを架装。1921年からは Bentleyのボディを架装するようになる。他に Alfa Romeo, Sunbeamそして Rolls-Royceも手がけるようになった。1925年の London Motor Showでは自社ブースを設けるまでに成長した。
 しかし、1937年にはロンドンの Rolls-Royce dealer Jack Barclayに買収されてしまう。第2次大戦中は航空機の部品を製造、工場は爆撃を受けてしまい、これまでの財産のほとんどを失ってしまう。戦後、ボディ製造は再開され、最後の自動車ボディは 1967年に造られた。


これから紹介するカタログは、Bobさんが60年代に直接請求して手に入れた貴重なカタログである。

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この項つづく。

2012-05-11

The Legend of Tazio Nuvolari Part 4

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Ansaldo*1 4CS




 Nuvolariは1921年の春から、本格的に4輪のレースに顔を出すようになった。この頃乗ったクルマは、Bianchiや Ansaldoである。
 数年間、あまりぱっとしない成績の初心者時代を過ごしてから、1924年に Genovaで開催されたレースで初優勝を遂げた。Nuvolariの Bianchiは、ライバルと比べて性能が劣るクルマでありながら、あれよあれよという間に、一流レーサーたちの Alfa Romeoを抜き去り、2位に 48秒の差をつけて優勝した。新聞記者たちはこぞって、この新人の将来に注目した。
 新聞記者たちの期待は裏切られることは無かった。この初優勝をきっかけにして、Nuvolariの快進撃が始まったのである。同年、モーターサイクルでもイタリアの国内チャンピオンとなっている。


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1925 Alfa Romeo P2


 翌1925年、MONZAでイタリアGPが開催されることとなった。当時、イタリアで最も速いマシンは Alfa Romeo P2であった。2年前に Enzo Ferrariによる画策によって FIATから引き抜かれた天才技師 Vittrio Janoによる傑作マシンである。Janoが傑作GPマシンであった FIAT 804/805の基本設計を忠実に取り入れて熟成させたマシンが速くないわけがなかった。
 その P2のテスト・ドライブを行うチャンスが Nuvolariにも回ってきたのである。グランプリ開催前にテストは行われた。走り出してすぐに、Bianchiとの違いはハッキリとわかった。
「なるほど、こいつは良いクルマだ」
 Monzaを数ラップした後に、拙いことに Nuvolariのいつもの悪い癖が出てしまった。
「もっとスピードが出そうだ。このマシンの限界を試してみよう」
 再び Nuvolariは、P2をスタートさせた。1周、2周と、次第にスピードを上げて、8周目に鋭いカーブを曲がった時だった。突然、ギアボックスが破損した。
 すぐにクラッチを切ったが、クルマのスピードを抑えることは出来なかった。車体はスピンして、コース脇の立ち木に後部から激突した。
 救急隊が駆けつけた時、グシャグシャに潰れたクルマは転覆し、5、6m離れたところに、Nuvolariが投げ出され、気を失っていた。
「 Nuvolariが死んだ!」
 不吉な噂が、関係者の間で広まった。
 しかし、Nuvolariは病院で意識を取り戻していた。全身に包帯をグルグル巻き付けられ、まるで古代エジプトのミイラのような姿で病院のベッドに横たわっていたのである。
「1ヶ月は絶対安静だ。その後、再びレースに出場できるかどうか、わからない」
 医者は冷酷な診断を下した。
「先生、家には知らせないでください。その代わり、叔父の Giuseppeを呼んでほしい」と、Nuvolariは頼んだ。病院からの急報で Giuseppeがクルマで駆けつけてきた。
「だいぶやられたな。これじゃ、来週のレースは諦めることだ」
 Giuseppeは、白い丸太のようにベッドに転がっている Nuvolariを見て呟いた。来週の月曜日には、モーターサイクルのグランプリが行われる予定だった。Nuvolariは、その優勝候補にあげられていた。
「叔父さん」
 小さな声を絞り出して、Nuvolariは言った。
「来週のレースまで、あと7日あるよ」
「そうだ、その意気だ!」
 Giuseppeは哀れな姿に成り果てた甥っ子を力づけるつもりで言った。心の中では1週間ぐらいで怪我が治るとは思っていなかった。
 ところが、レース当日の朝、Nuvolariは起き上がり、医者に頼んだ。
「包帯を巻き直してくれませんか? モーターサイクルに乗れるように」
「その体でレースに出るつもりなのか? 死んでしまうぞ」
 医者は呆れ返っていた。
「とにかく、お願いします」
 Nuvolariが、あまりに強引なので、医者は根負けしてしまった。
「勝手にしたまえ。その代わり、君がどうなろうとも、私は責任をもたんぞ」
 Nuvolariは無謀にもサーキットに現れた。包帯を巻き直したといっても、怪我が治ったわけではない。モーターサイクルに跨り、両手でハンドルを握り、両足でペダルを踏むフォームをとったきり、体を動かすことは出来なかった。
 旗が振られ、レースが始まった。車体の振動で、全身が気の遠くなるほど激痛が走った。しかし、Nuvolariは神業とも思えるほどのスピードで完走し、誰もが疑った優勝を成し遂げた。
「奇跡のミイラ男、モーターサイクル・グランプリに圧勝!」
地元の新聞は、Nuvolariの闘志を讃えたが、「狂気の沙汰だ!」と、彼の無鉄砲な出場を非難する声も多かった。


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*1:The company was founded in 1919 following the conversion, after the First World War , one of the most important Italian engineering companies, the ' Ansaldo . The name comes from Giovanni Ansaldo ( 1 819 - 1,859 ), owner from 1853 of Giovanni Ansaldo & C company initially specialized in the construction of locomotives, ships, and military means. After the First World War, the company launched a restructuring to survive it civil and tried the way of motoring. The house Ansaldo motorist suffered a first major crisis in 1921 following the bankruptcy of the Italian Discount Bank , the largest shareholder, so that the 7 March 1923 changed its name to Ansaldo Cars SA. The crisis of 1929 and especially the inability of management to understand the needs of the market at the Ansaldo lead to the liquidation. In 1932 the company was absorbed by the OM , but the crisis continued. A null served a new name change, so that later on all equipment and facilities will be transferred to the Officine Viberti and cars Ansaldo was never mentioned.