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フィアット500大作戦!!

2017-03-29

MONACO HISTORIQUE 2016 Veritas RS 1948

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BMW製、直列6気筒、1,971奸¬鵤隠横鞠藁蓮

ベリタスは西ドイツの 第二次世界大戦直後に設立されたスポーツカーとレーシングカーの会社で、創業者はエルンスト・ループ 、 ゲオルグ・マイヤー 、ローレンツ・ディートリッヒ。最初に顧客であり、ホッケンハイムのレースで勝ちたいと考えていた Karl Klingから供給された戦前のBMW 328のエンジンやパーツを使い、BMW-Veritasを完成させました。 このクルマは1947年に納車され、その後1947年にドイツの2リッターチャンピオンになりました。 ほんの数台が作られた後、BMWからの異議にしたがい、クルマは単にVeritasとして知られるようになりました。

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2014-10-13

Saab 92 1951

 スウェーデンの SAABは、 Svenska Aeroplan AB(スウェーデン語で"スウェーデン航空機会社")の頭文字を並べたもので、スウェーデン政府の意向により、国防のための航空機製造会社として、機関砲で有名なボフォース社の傘下で1937年に設立された。ユニークな設計で有名な飛行機が多い。

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SAAB B17(1941)
最初に生産された航空機は単発の爆撃機 B17。ユニークなのは主脚カバーが急降下爆撃時のダイブブレーキとして作動すること。

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SAAB J21(1943)
SAAB初の戦闘機は意欲的な推進式。しかも脱出装置付き!

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Saab J35 Draken(1955)
スウェーデン初のマッハ2級戦闘機。2つの三角形を二重に組み合わせたデルタ翼という他に例のない独特な主翼を持ち、高速道路から離陸できる短距離離着陸性能と高速性能両立させた傑作戦闘機だ。

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ドラケンのプロモフィルム。映像に出てくるクルマはもちろんSAABだ。


さてクルマの話に戻そう。SAABは戦後を見据え1944年から、SAAB 90旅客機とSAAB 91軽飛行機の開発にとりかかっていた。90、91と続く92。それは同社初の自動車だった。
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SAAB 92 001(1947)
1947年に完成した試作車001は、水冷2気筒2ストロークのエンジンを横置きに搭載し、3段ギアボックスを介して前輪を駆動するFWDという当時としては珍しいレイアウトで、たぶん同じレイアウトの先駆者である戦前の DKW F9を徹底的に研究した結果であろう。それを如何にもヒコーキ屋が設計したと思わせる理想的な流線型の先進的なモノコックボディでくるんでいた。ボディのデザインは風洞実験もして確かめている。ラジエターはウォーターポンプを省略したサイフォン式。サスペンションはトーションバーでリアは独立式だった。

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DKW F9 Prototype(1939)

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Saab 92 (1951)
水冷直列2気筒2ストローク 764cc 25ps/3800rpm MAX 100km/h
試作車発表から3年、1950年に発表された生産モデルは、さすがに試作車の理想主義的なスタイルは崩れてしまっているが、当時のヨーロッパの小型車の中で最も空気抵抗の少ない乗用車であったはずだ。Aピラーの角度が45度というのに注目。この当時の一般的な乗用車が垂直から30度未満であったのに対し、如何にも空力の良さそうなデザインだ。
その後92は足回りの良さもあって、ラリーで活躍することになる。

2013-09-30

1947 Stabilimenti Farina Fiat 1100 Spider

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直列4気筒 OHV 1089cc 32ps/4400rpm

Stabilimenti Farina*1に在籍していたミケロッティのデザイン。
見事、1947年のconcorso d'eleganza di Villa d'Esteに於いて受賞しています。


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*1:ピニンファリーナ創設者バチスタ・“ピニン”・ファリーナの兄ジョバンニが経営していたボディ・ショップ(1919-1953)。

2013-03-08

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part2 川又が日産社長となった背景

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 日産の川又社長が、労務対策に関して大いに自信があったのには理由がある。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務として送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗り出さねばならなかったからだ。
 1947年7月といえば、まさに敗戦後2年目の混乱期である。当時、日産自動車は日産重工業と称していたが、現在と比べれば、その地位は問題にならないほど小さかった。川又自身も、広島支店で興銀本店から日産入りの電話による辞令を受けたとき、日産重工業とはどんな会社か、すぐには思い出せなかったほどだ。
帰宅後、婦人に、
「たしか、クルマを造っていた会社だよ。昔、鮎川義介さんが、やっていた会社で、ダットサンを造っていたそうだ。いまでも、そういうものを造っているんだろう」
と答えている。
 その日産常務に就任したが、前歴に照らし合わせ、担当は経理となった。当時の日産は、経理担当の役員が欠けていた。それもそのはず、戦時中は親会社の日本産業から、万事支持を仰ぎ、直接指揮する必要がなかったのだ。
 ところが、川又が初めて出社すると、会社側は、労組と賃金交渉の最中であった。川又は否応なく、その席上に出された。社長の箕浦多一は、いわゆる2代目であるが、財閥解体による首脳部の追放で、取締役総務部長から、一躍社長に抜擢されたばかりで経験がなく、経営の才能も疑問が多い人物であった。これに対し川又は、箕浦に比較して、風采からして貫禄があり、社長のように見えた。しかも、天下の興銀から送り込まれたのだった。それで、翌日から組合幹部は、社長を無視して、新任の経理担当常務と交渉するようになったのである。
 争議は拡大した。しかし社長の箕浦は、問題局面収拾の能力に欠いていた。そこで川又は、箕浦に対し、重役の改造、充実の人事を進言、結局川又が専務となり、実権を掌握したのだった。箕浦は、川又から重役の改造人事を進言されるや、直ちに辞意を漏らすぐらいに臆病な男であったから、1949年9月、会社側が1760人のリストラを発表、組合側の行動が一段と先鋭化してきたと知るや、高血圧で倒れてしまった。それで川又が社長代理となり、事実上の総指揮官として、陣頭指揮にあたったのだ。

2013-02-13

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part6 プリンス自販の酷い内容を見抜いていたトヨタ

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 桜内通産大臣は、プリンスの合併先として最初にトヨタを選んだが、断られてしまった。しかし、それで断念せず、日産自動車との合併を画策する。そのターゲットは社長の川又克二自身であった。そこで順序として、桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ねた。興銀は日産のメインバンクであり、それを背景に興銀から送り込まれたのが川又克二社長である。中山、川又とも1929年に旧制東京商科大学(現一橋大)を卒業、興銀に入行したが、中山が若くして才能を見出され、人事、調査部長を歴任、1947年には、早くも理事に就任したのに対し、川又は、地方に回され、しかも途中、陸軍主計幹部候補生として徴用されるなどして、戦後興銀に出社すると、与えられた辞令は融資部次長で、同期の中山が理事に抜擢され、輝かしい未来が約束されていたのとは対照的、まさに天国と地獄であった。
 川又自身は、その頃のことを次のように語っている。
「戦争末期における4年間の軍隊生活で、世の中の悲惨な面には飽き飽きした。これからは金でもあれば牛か馬を相手に牧場でもやって、のんきに暮らしたいと、そんな気でいたのだから、事務処理などまっぴらだった。なた豆のキセルで刻みを吸いながら、新聞、雑誌ばかり読む生活が3、4ヶ月もつづいた。銀行のほうでも、そんな私に愛想をつかしたのか、昭和21(1946)年3月、広島支店長を命ずるという辞令をもらった。(中略)やっとの思いで、軍隊から解放され、家族と一緒にやれやれと思っているやさきである。支店長はよいが、原爆で戦争の最大の被害地になった広島へ行けというのだから、正直なところうんざりした。辞令を破って捨ててしまおうかと思った」
 1947年、川又は興銀の融資を背景に、日産自動車の常務に就任する。本来の目標である興銀理事にはなれず、追い出された形である。だから、川又の心の奥深くでは、必ずしも興銀は嬉しい古巣ではなかったようである。目標を達しえず、追い出されたところである。それだけに、「俺を見損なった興銀ではないか」と言った、一種の敵愾心があったようだ。
 このような事情があるため、まず桜内通産大臣は、中山興銀頭取を訪れ、中山の意向を確かめたのだった。
 中山素平は「財界の鞍馬天狗」の異名も持つ男だが、合併当時は、海運、証券業界の再編に成功、 山一證券の経営危機に際し、日銀特融を主張し、田中角栄蔵相の決断を引き出すきっかけを作ったのも中山であった。積極的に再編成を仕掛けていた中山が、桜内の合併話に賛成するのは当然のことであった。その根回しが済んだあとで、桜内は川又に会った。川又は日産自動車の社長であると同時に日本自動車工業会会長でもある。合併が正式発表されたとき、川又は新聞記者に対し次のように語っている。
「かねて、桜内通産相から懇請されていたため、日産とプリンスの合併交渉を進めていた。あくまでも対等の精神で合併することに決めて、通産相に仲人役をつとめてもらった。このような形で、今後とも、自動車業界の再編、強化が促進されることを望んでいる」
 最初、桜内が大臣の身でありながら、プリンスの大株主である石橋正二郎と、トヨタ自動車会長の石田退三をプリンスホテルの一室に招致、合併話を持ち出したのに、石田がにべもなく断ったことは、秘めたる事実である。断った理由のうち、具体的に言えることは、後日、日産とプリンスの合併比率が1対2から1対2.5に変更、見方によると、日産側に、あえて約束違反をなさしめたが、この原因を、トヨタ側は、このとき早くも察知していたからである。それは、プリンス自動車販売の内部に隠された赤字である。
 プリンス自動車販売は、いわゆる未公開会社であった。だから一般に、その内容は公表されていなかったが、赤字が最低50億円から100億円、ある筋の見方では「赤字100億円以上」の声が高く、石橋正二郎もその額に驚いたくらいである。また住友銀行専務の高橋吉隆と興銀常務の梶浦英夫が、両社の内容を検討したとき驚いたのは、プリンス自販の莫大な赤字であったといわれている。
 トヨタ自動車では、自動車業界の再編成問題に対処、何年か前から、三井銀行出身の社長・中川不器男直轄の「トヨタ特捜班」ともいうべき調査機関ができていた。一時、合併を噂されていた、いすゞ自動車、日野自動車はもちろん、プリンス自動車の内容も、特捜班の手で、洗われていたはずである。それで、プリンス自動車はともかく、プリンス販売会社が、このような弱体では、合併しても将来大きな重荷になると判断した。つまり、トヨタは、プリンス合併によるデメリットを重要視し、合併を拒否したのだ。
 これに反して、日産の川又社長は、この話に食いついた。いわゆる質より量をである。プリンスを合併することで、トヨタに数字的に肉薄、日本一の日産への悲願に、大きく近づけると判断したからである。

この項つづく。