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フィアット500大作戦!!

2014-10-31

1956 O.S.C.A. 750S

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 1938年、3兄弟が経営するマセラティに大きな経営上の変化が訪れる。マセラティ兄弟によって運営されていた会社に外部からの資本が創業以来初めて参入したのだった。とくに経営危機があったのではない。4Cや6CMがレースで好成績を収め、グランプリの名門である Alfa Romeoと肩を並べるほどのコンペティターとなるほどにマセラティの経営は順調だったからだ。
 資本参入したのは Adolfo Orsi。製鉄業から工作機械、農耕機械、電気機器、果ては都市交通業まで手広く広げた企業グループのオーナーであり、マセラティ乗っ取りを企てたのだった。
 初め Orsiが狙ったのはスパークプラグ部門(Candeli Maserati)だったが、それが自動車と切り離せないことを知り、レースの覇者であるマセラティの名声がビジネスに利用できると考えた彼は、ボローニャのマセラティ買収を思いついたのだった。残された3兄弟(元々は6人兄弟だった)の Ernesto Maserati(末っ子で技術マネージャー)と Ettore(5男)と Bindo(次男、元イソッタ・フラスキーニのテストドライバー)はこの申し入れを真剣に考えた末、遂に1938年の初めにそれを受け入れ、この誇り高い兄弟の工場、Officine Alfieri Maseratiを Orsiの手に引渡したのである。Adolfoは息子 Omer Orsiをその社長の座に据え、マセラティ3兄弟は特別待遇の社員になった。
 本社は創業地ボローニャからモデナへ移され、マセラティの新しい歴史が始まった。元々グランプリで優勝しても、大抵のチームがシャンパンの海の中でその勝利を祝っているというのに、マセラティ兄弟だけが汚れたブルーのオーバーオールに身を包んでじっと喜こびを噛みしめるように、次のレースのための車の整備に没頭する姿がよくみられたほど、兄弟はレースに情熱を注いでいた。金策の心配のなくなった3兄弟は歓喜して新しいグランプリ・マシーンの設計に取掛り、ポンテヴェッキオ工場の明かりが消えることはなかったのだった。新しく設計された3リッターのモノポストは、強豪のドイツ陣を打ち負かすことはなかったが、北米に送られたマシンは見事に 1939と 40の2年連続、苛酷なことで知られるインディアナポリスのメモリアル・デイ500マイル・レースに見事連続優勝している。
 第2次大戦中もマセラティの名声は兄弟とともにあり、戦争終結とともに見事に返り咲いた。フォーミュラの変更とともに1.5リッターのマセラティはレースで注目され、戦争直後無敵を誇ったアルファ・ロメオの出場しなかったレースにはほとんどすべて勝利を収めた。
しかし常に独立自尊心を失わない3兄弟は遂に 1948年重要な決心をした。Orsiと関係を改善する代りに、彼等は彼等自身の仕事をすることにしたのである。彼等には永年の経験に裏付けされた頭脳があったし、Orsiとの契約でマセラティの名を使うわけには行かなかった。そこで彼等はボローニャに帰って手頃な小さな工場をもち、それにO.S.C.A.( Officine Specializzate Costruzioni Automobiliの略)という名を冠した。兄弟がもっていたのは旋盤などの最小限の工具とそれに彼等の頭脳と技術、そして彼等の名声……それがすべてであった。それからのO.S.C.A.はマセラティ時代のような派手な栄光は無かったが、無数の国内レースにおびただしい勝利をものにするとともに、1950年の Mille Migliaには Fagioli / Diotallevi組の Osca MT4 1100がクラス優勝しているし、1954年にはLloyd / Moss組の Osca MT4 1450が大排気量車を敵に回して Sebring 12 Hoursで優勝している。これは耐久レース史上最大の番狂わせのひとつと言われている。

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 耐久レースのスポーツ750クラスとスポーツ-850クラスを対象とし 1956年にデビューした、O.S.C.A. 750は(Type S187)、直列4気筒、DOHC 750cc 70馬力のエンジンを搭載、車重430kgのボディを最高速度180km/hまで引っ張った。Lotus 11や Lotus 17、 Fiat-Abarth、 DB HBR4や Moretti 750s、そして無数の Stanguelliniの良きライバルとして、欧州はもちろんのこと北米のレースでも活躍した。
 de Tomasoと Colin Davisの乗る O.S.C.A. Sport 750 TNは 1958年のル・マンで総合11位で750ccクラス優勝し、 Index of Performanceを獲得している。

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O.S.C.A. の指定オイルが Shellであったことに注意。

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2014-10-13

Saab 92 1951

 スウェーデンの SAABは、 Svenska Aeroplan AB(スウェーデン語で"スウェーデン航空機会社")の頭文字を並べたもので、スウェーデン政府の意向により、国防のための航空機製造会社として、機関砲で有名なボフォース社の傘下で1937年に設立された。ユニークな設計で有名な飛行機が多い。

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SAAB B17(1941)
最初に生産された航空機は単発の爆撃機 B17。ユニークなのは主脚カバーが急降下爆撃時のダイブブレーキとして作動すること。

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SAAB J21(1943)
SAAB初の戦闘機は意欲的な推進式。しかも脱出装置付き!

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Saab J35 Draken(1955)
スウェーデン初のマッハ2級戦闘機。2つの三角形を二重に組み合わせたデルタ翼という他に例のない独特な主翼を持ち、高速道路から離陸できる短距離離着陸性能と高速性能両立させた傑作戦闘機だ。

D
ドラケンのプロモフィルム。映像に出てくるクルマはもちろんSAABだ。


さてクルマの話に戻そう。SAABは戦後を見据え1944年から、SAAB 90旅客機とSAAB 91軽飛行機の開発にとりかかっていた。90、91と続く92。それは同社初の自動車だった。
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SAAB 92 001(1947)
1947年に完成した試作車001は、水冷2気筒2ストロークのエンジンを横置きに搭載し、3段ギアボックスを介して前輪を駆動するFWDという当時としては珍しいレイアウトで、たぶん同じレイアウトの先駆者である戦前の DKW F9を徹底的に研究した結果であろう。それを如何にもヒコーキ屋が設計したと思わせる理想的な流線型の先進的なモノコックボディでくるんでいた。ボディのデザインは風洞実験もして確かめている。ラジエターはウォーターポンプを省略したサイフォン式。サスペンションはトーションバーでリアは独立式だった。

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DKW F9 Prototype(1939)

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Saab 92 (1951)
水冷直列2気筒2ストローク 764cc 25ps/3800rpm MAX 100km/h
試作車発表から3年、1950年に発表された生産モデルは、さすがに試作車の理想主義的なスタイルは崩れてしまっているが、当時のヨーロッパの小型車の中で最も空気抵抗の少ない乗用車であったはずだ。Aピラーの角度が45度というのに注目。この当時の一般的な乗用車が垂直から30度未満であったのに対し、如何にも空力の良さそうなデザインだ。
その後92は足回りの良さもあって、ラリーで活躍することになる。

2013-07-20

赤羽は昼間っからディープだ

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もともと赤羽は宿場町として有名であつた舊岩淵宿であり、舊岩淵宿が舊赤羽村などと合併した際の町名は舊岩淵町とされてゐた。然し、當驛周邊は次第に經濟的に發展するやうに成り、かつ知名度から見ても、驛名と成つた「赤羽」と云ふ地名は「岩淵」よりも有名に成つて今に至る。


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今囘は、職場の同僚である元リーゼントの暴走族、いまや薄つぱげの鳶の親父に案内してもらつた。
先づは、有名な「まるます」。勿論、朝からやつてゐる店で朝から常連で滿員。
店内は俺のオフクロの世代の元お姉さんが對応。鳶の親父お勸めの鯉コクとアライからスタート。
ビールはサッポロと云ふのが札幌生まれの自分にとつては嬉しい。夜勤明けで腹が減つてゐたので、大きなメンチカツとライスを注文。大滿足で店を後にした。


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恐ろしく古さうな喫茶店は永久に閉店した儘のやうだ。


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赤羽もアキバのやうな風俗が、、、。


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昭和30年代(1950年代)からキャバレー ハリウッドを創業し、日本の大衆のためのキャバレー文化を根附かせたキャバレー太郎こと福富太郎。其の彼がオーナーの赤羽店である。

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「まるます」に寄つたお客が次に立ち寄る率が高いのが此の店。
此處は「まるます」と違ひ、喫煙は許可されてゐる。爺さん、息子、孫と3世代で店を切り盛りする立ち飮み屋だ。
つまみは1皿150圓臺と云ふ安さ、種類も豐富だ。
http://akabaneikoi.web.fc2.com/


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過去、日本人は世界一、自由の女神の僞物を多數作つてきた。
最近は絶滅したかと思はれたが、どつこい赤羽に生きてゐるのであつた。

2013-03-27

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路

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 1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産はトヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ、残業拒否の闘争を展開。特に1950年には朝鮮戦争が勃発、あらたに特需景気が起こると、会社の業績もあがったが、組合の要求も強くなった。1950〜1952年まで毎年、春と秋の年2回の賃上げ、夏と冬のボーナス闘争が執拗に繰り返されていた。つまり年間を通して2ヶ月前後は賃金闘争に費やされていたのだった。
 このような時代に、塩路は入社したのだった。まさに日産は、給料の良い一流会社であった。ただ、当時、明治大学から日産に入社した先例は、ほとんどなかった。他の一流企業同様に学閥主義が支配していたからだ。そこで塩路はわざと明治の学生服を着て人事部長の猪股良治(後の日産ディーゼル副社長)に直接面会した。
そして初対面の人事部長にたいし、
「受験だけは差別待遇をせずに、平等に取り扱ってもらいたい」
と3日間にわたり、頑強に食い下がって、ようやく受験に漕ぎつけたのだった。この時、塩路は日本油脂を辞め、失業手当で食いつないでいた。彼としては背水の陣であった。結局、私学の夜間部出身で、学歴には不満があるが、学校の成績も悪くないということで採用となった。
塩路は、
「あのとき、猪股さんがいなかったら、自分は日産に入社できなかった」
と述懐している。採用の結果、塩路は横浜工場の経理課に配属された。
 おそらく彼が採用されたのは、日本油脂時代に「資本家のイヌ」とレッテルを貼られたことが幸いしたのだと推測される。当時、日産経営幹部がなにより危惧したのは、共産党員であり、組合活動者であった。塩路を採用するにあたって、当然、その前歴は調査されたはずである。特に夜学の苦学生は、普通科の学生に比較して、家庭、思想、素行などで、採用する側は、そうとう神経質になっていたはずだ。日産自動車と日本油脂は、旧日産コンツェルン会社ということで、塩路の日本油脂時代の素行調査は、積極的に計らってもらえたはずだ。「資本家のイヌ」と共産党員に避難されていた過去が、組合活動に悩む人事部長の関心をひいたのであろう。
 果たせるかな、塩路は日産に入社してわずか1ヶ月後に、総評自動車日産支部の組合活動が、かつての日本油脂よりも、多数の共産党員で占められていることを知った。
そこで塩路は組合幹部を訪ね、
「デマで、われわれ善良な従業員を迷わすな」
と直談判した。当時、彼は苦学して夜学を卒業した以上、いつまでも下っ端ではなく、係長、課長、部長と、将来の重役を夢見ていた。それだけに、賃上げ、ボーナス闘争以外に目的を持たない組合運動に不満が持たれた。しかし、日本油脂と違い、同じ労組でも、総評自動車日産支部のスケールは大きかった。入社1ヶ月の新入社員の反抗を、表立って取り上げることはしなかった。
しかし、組合大会の時、塩路が顔を出すと、どこからか、
「この中に、日経連*1の回し者がいる」
といった声がでた。
塩路は立ち上がった。
「まわし者とは何だ」
と激しく言い争ったのである。この件で、塩路は入社早々に、組合幹部はもちろん、一般社員にも顔を覚えられることとなった。
 1953年夏、日産は4ヶ月にもわたる歴史的な労働争議を体験した。そして、この争議の過程で、第2組合ができ、結局、この第2組合の勢力増大で、第1組合が敗北、大争議も終焉を迎えることとなる。第2組合は、1953年8月30日に、正式に結成されたが、このとき塩路は組合内の会計部長という役職に就いた。第2組合とはいえ、組合委員の大半は塩路の先輩となり、組合幹部は大先輩である。それにもかかわらず、塩路が一躍会計部長として組合幹部に抜擢されたのは、それだけ、塩路の活動が積極的であり、第2組合幹部、後に委員長となる宮家愈から注目され評価されたからだった。特に日本油脂の労組時代に塩路が築いていた、海員組合の和田春男とのコネクションは大きかった。第2組合活動の資金源となったからである。
 御用組合と総評から批判された第2組合であったが、積極的に労働者自らが経営に参加する「経営協議会制度」を会社側に提案した。賃金闘争だけではない、経営の民主化にも貢献していた。塩路はそこで若手の座長となっていた。1955年1月23日には、販売や部品製造も合流した自動車労連を結成、地方の販売会社も次々とオルグし、労組を結成していった。もちろん労組が結成されていない関連企業が多かったから、オルグには苦労が多かったようだ。塩路はそれで全国行脚をし、多くの経験をしたようだ。
 
 1961年3月、塩路は日産労組の委員長に選ばれた。

この項つづく。

*1:日経連は労働問題を大企業経営者の立場から議論・提言する目的で結成された組織。加盟企業のほとんどが経団連と重複しており、日経連は労使間の対立の収束とともに役割を終えつつあるとの理由から統合された。

2013-02-08

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part1

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 昨日書いた富士重工もそうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ。モータリゼーションの息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた60年代初頭の日本にあって、そのラインナップに小型大衆車が無いというバランスを欠いていた。常日頃、「ピラミッド理論」によって底辺から顧客をつかみ、その後に高価格車にステップアップしてもらおうとした東洋工業の2代目社長である松田恒次のような経営センスを持った者は、プリンスにはいなかった。日本では元が飛行機屋であった自動車メーカーは、生産コストを度外視した技術偏重に陥りがちだったようである。同じく飛行機屋であったBMWが、1950年代末に深刻な経営危機にあったときに、小型大衆車の700を販売して業績挽回をしたのとは対照的であったと言えよう。


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 1965年6月1日の朝刊に踊った見出しに、今と違って自動車に関心が高かった日本の読者は驚いた。日産とプリンスとの合併が数段抜きの大きな活字で発表されていたからである。
 両社の合併発表は前日の5月31日午後3時、大手町のパレスホテルで行われた。日産社長の川又克二とプリンス自動車社長の小川秀彦が、翌年末までに、両者が合併するとの覚書に調印したのであった。そのあと同ホテルで、両社長に、プリンス自動車会長の石橋正二郎が加わり記者会見が行われた。その席上、合併比率は日産1対プリンス2、合併にさいしては、プリンス社名の継承、代理店・協力工場の商標の尊重、合併に伴う混乱の回避など、具体的な問題についても協調されていると発表された。調印にさいしては、通産大臣の桜内義雄、興銀頭取の中山素平、住友銀行頭取の堀田庄三の3人が立ちあった。
 当然のことだが、この日、プリンスで働く者たちに動揺が広がった。彼らは合併に関し、何も聞かされていなかったのだ。
 しかし、トヨタの首脳部は、合併のニュースに驚かなかった。端的にいって、プリンスとの合併話は日産よりも3ヶ月早く、通産省から持ちかけられていたからである。もちろん問題は重大であり、トヨタ側は、トヨタ自動車工業会長の石田退三、同社長の中川不器男、同副社長の豊田英二、それに、トヨタ自動車販売社長の神谷正太郎の4人が慎重に協議した。その結果トヨタは断ったのであった。
 トヨタの次に話が持ちかけられたのは、当然のことながら業界ナンバー2であった日産であった。
 合併発表の直後、神谷正太郎は、
「予想はしていた。しかし、こんなに早く調印までもちはこばれるとは思わなかった。業界再編成到来の厳しさを、あらためて痛感している」と語っている。
 製造側であるトヨタ自動車工業の3人と、販売側の神谷正太郎とは意見が異なったようである。最終的には、プリンスの経営内容に疑問を感じた石田退三会長の合併反対の強硬意見に対し、製造側の3人は、賛成せざるを得なかったということらしい。

 日産とプリンスの合併ニュースは、欧米でもセンセーショナルに報道されたという。60年代に入って急速な進歩を遂げた日本の自動車産業。日産はVWに肉迫する生産台数となっていたからだ。

この項つづく。