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フィアット500大作戦!!

2017-03-23

アリババの洞窟にて

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関東某所にあるHさんのガレージ。ご友人と3年かけて自作したというガレージには20台以上のクルマとモーターサイクルが隠されていた。

Hさんは1966年頃の20代半ばに、吉祥寺に住んでいた五十嵐平達氏の自宅を訪ね、自動車博物館を作りたいという夢を話したそうだ。五十嵐さんは賛同され、助言をされたそうだ。「日本車を保存するのは日本人がやるしかない」と。そしてこうも言った「自動車趣味を突き詰めると歴史にたどり着く」。その後、五十嵐さんがトヨタ自動車博物館の立ち上げに関わっていった。


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富士自動車 フジ・キャビン・スクーター。
スクーターに屋根とドアをつけたクルマ。エンジンは立川工場製のガスデン2サイクル122cc、5.5馬力。まさに雨に濡れないスクーターだったのだ。
この個体は運転席側にしかドアがない。自動車ショーで展示された個体らしい。

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ボディはFRPのモノコック。FRPといえばロータス・エリートが有名だが、これはエリートに先駆ける2年前の1955年発表。シトロエンDS並みの驚きだったのではないか。デザインは戦前にダットサンのデザインをされていた富谷龍一氏。シフトレバーが座席右側にあることに注意。

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住之江製作所 フライング・フェザー
デザインはフジ・キャビンと同じ富谷龍一氏。エンジンも富谷氏の設計で空冷V型2気筒OHV350奸12.5馬力。これをRRで搭載する。やけに大きなホイールは19インチ。シトロエン2CVと同様にバネ下重量を軽くするためだ。二人乗りで、ハンモックシートや巻き上げ式のキャンバストップなど、シトロエン2CVの影響は大きかったようだ。軽いクルマを目指したが、車重は400キロにもなってしまい最高速度は60キロ程度だったらしい。ヤナセ販売もしたが、いかんせん1955年の日本で30万円もするクルマを買える大衆はいなかった。金持ちは大型のアメリカ車を乗り回していた時代だった。

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富士産業(後の富士重工)ラビット・スクーターS12
135cc空冷4ストローク単気筒エンジンを搭載。軍用機生産で食べていた中島飛行機が富士産業になり、苦肉の策で生き残りをかけて生産したのがスクーターだった。1948年ごろの個体。

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LANCIA FLAVIA SPORT ZAGATO
国際自動車が当時輸入した個体。ただし前オーナーがオーバーヒートに悩まされた結果、ボンネットにはオリジナルには無い熱抜きのルーバーが作られている。Hさんによれば同じFWDでもスバル1000の方が運転が楽しいとのこと。フラビアは重たいらしい。

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戦前、横浜のフォード日本工場で生産されたトラック。ボディは木骨。ベルトのお化けのようなのを下げて窓を開けるようになっている。

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ダットサン・スポーツ DC3
1952年というトラックとバスだらけの日本にあって、戦前のダットサンをベースにMGのようなクルマを作りたいという情熱は買いますね。ボディデザインはオオタ自動車の太田祐一氏。限定50台で価格は83万5千円。大卒初任給が8,000円ぐらいの時代です。

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ダットサン・デリバリーバン DV—5

自治体の役所で使っていた個体のようです。商業車の残存率は極端に低いので貴重な個体です。しかもDV−5は1954年の一年間しか生産されなかったのでなおさら珍しい。価格は67万円でした。

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これは1925年製のインディアン。アメリカのモーターサイクルです。
Hさんのおじさんが開業医をしていて診療用に使っていたそうです。

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錆だらけのモーターサイクルが戦前のDKWのRT125。その隣のレストアされたピカピカのがヤマハのYA−1。
実はヤマハはDKWに許可を得ないでフルコピーでYA−1を製造販売していたのです。
いま何も知らない日本人が中国製コピーを馬鹿にして留飲を下げているような風潮がありますが、それは天に唾するようなものだということですね。

2013-03-27

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路

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 1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産トヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ、残業拒否の闘争を展開。特に1950年には朝鮮戦争が勃発、あらたに特需景気が起こると、会社の業績もあがったが、組合の要求も強くなった。1950〜1952年まで毎年、春と秋の年2回の賃上げ、夏と冬のボーナス闘争が執拗に繰り返されていた。つまり年間を通して2ヶ月前後は賃金闘争に費やされていたのだった。
 このような時代に、塩路は入社したのだった。まさに日産は、給料の良い一流会社であった。ただ、当時、明治大学から日産に入社した先例は、ほとんどなかった。他の一流企業同様に学閥主義が支配していたからだ。そこで塩路はわざと明治の学生服を着て人事部長の猪股良治(後の日産ディーゼル副社長)に直接面会した。
そして初対面の人事部長にたいし、
「受験だけは差別待遇をせずに、平等に取り扱ってもらいたい」
と3日間にわたり、頑強に食い下がって、ようやく受験に漕ぎつけたのだった。この時、塩路は日本油脂を辞め、失業手当で食いつないでいた。彼としては背水の陣であった。結局、私学の夜間部出身で、学歴には不満があるが、学校の成績も悪くないということで採用となった。
塩路は、
「あのとき、猪股さんがいなかったら、自分は日産に入社できなかった」
述懐している。採用の結果、塩路は横浜工場の経理課に配属された。
 おそらく彼が採用されたのは、日本油脂時代に「資本家のイヌ」とレッテルを貼られたことが幸いしたのだと推測される。当時、日産経営幹部がなにより危惧したのは、共産党員であり、組合活動者であった。塩路を採用するにあたって、当然、その前歴は調査されたはずである。特に夜学の苦学生は、普通科の学生に比較して、家庭、思想、素行などで、採用する側は、そうとう神経質になっていたはずだ。日産自動車と日本油脂は、旧日産コンツェルン会社ということで、塩路の日本油脂時代の素行調査は、積極的に計らってもらえたはずだ。「資本家のイヌ」と共産党員に避難されていた過去が、組合活動に悩む人事部長の関心をひいたのであろう。
 果たせるかな、塩路は日産に入社してわずか1ヶ月後に、総評自動車日産支部の組合活動が、かつての日本油脂よりも、多数の共産党員で占められていることを知った。
そこで塩路は組合幹部を訪ね、
「デマで、われわれ善良な従業員を迷わすな」
と直談判した。当時、彼は苦学して夜学を卒業した以上、いつまでも下っ端ではなく、係長、課長、部長と、将来の重役を夢見ていた。それだけに、賃上げ、ボーナス闘争以外に目的を持たない組合運動に不満が持たれた。しかし、日本油脂と違い、同じ労組でも、総評自動車日産支部のスケールは大きかった。入社1ヶ月の新入社員の反抗を、表立って取り上げることはしなかった。
しかし、組合大会の時、塩路が顔を出すと、どこからか、
「この中に、日経連*1の回し者がいる」
といった声がでた。
塩路は立ち上がった。
「まわし者とは何だ」
と激しく言い争ったのである。この件で、塩路は入社早々に、組合幹部はもちろん、一般社員にも顔を覚えられることとなった。
 1953年夏、日産は4ヶ月にもわたる歴史的な労働争議を体験した。そして、この争議の過程で、第2組合ができ、結局、この第2組合の勢力増大で、第1組合が敗北、大争議も終焉を迎えることとなる。第2組合は、1953年8月30日に、正式に結成されたが、このとき塩路は組合内の会計部長という役職に就いた。第2組合とはいえ、組合委員の大半は塩路の先輩となり、組合幹部は大先輩である。それにもかかわらず、塩路が一躍会計部長として組合幹部に抜擢されたのは、それだけ、塩路の活動が積極的であり、第2組合幹部、後に委員長となる宮家愈から注目され評価されたからだった。特に日本油脂の労組時代に塩路が築いていた、海員組合の和田春男とのコネクションは大きかった。第2組合活動の資金源となったからである。
 御用組合と総評から批判された第2組合であったが、積極的に労働者自らが経営に参加する「経営協議会制度」を会社側に提案した。賃金闘争だけではない、経営の民主化にも貢献していた。塩路はそこで若手の座長となっていた。1955年1月23日には、販売や部品製造も合流した自動車労連を結成、地方の販売会社も次々とオルグし、労組を結成していった。もちろん労組が結成されていない関連企業が多かったから、オルグには苦労が多かったようだ。塩路はそれで全国行脚をし、多くの経験をしたようだ。
 
 1961年3月、塩路は日産労組の委員長に選ばれた。

この項つづく。

*1:日経連は労働問題を大企業経営者の立場から議論・提言する目的で結成された組織。加盟企業のほとんどが経団連と重複しており、日経連は労使間の対立の収束とともに役割を終えつつあるとの理由から統合された。

2013-03-15

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part5 幻の川又追放人事

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 川又が、労組に対し信頼をおいていたのには、大争議以外にも理由がある。1955年に起きた、幻のクーデターだ。もちろん、日産の社史からは抹殺された事件だ。

 大争議での疲弊と、その直後の不況を克服した日産。ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春。日産の経営内部では株主総会に向けて陰謀が企てられようとしていた。後に社長となる石原俊の企みによる川又の追放工作であった
 赤坂の弁解橋の料亭「清水」や、いまはない「中川」等を使い、浅原社長を擁して役員と部長クラスの秘密会議が行われていたのだった。そして彼らは、「川又は労働争議を解決したことで、いい気になり、赤坂で遊び呆けている」とのデマを流した。それを真に受けて興銀は、川又専務を日産から出すことに了解した。
 1955(昭和30)年5月1日メーデーの日の午後、川又の甥である田辺邦行(設計部長、後に日産車体常務)が塩路の家を訪問してきて、「大変だ、川又さんが飛ばされると」いう。「争議を解決して、新しい労使関係で日産の再建に協力し合ってきた片方の旗頭が、こんどの株主総会で社外に出される」というのだ。
 塩路は機転を利かせて、直接、宮家委員長に伝えるよう頼んだ。
 翌日の組合首脳部緊急会合で、日産争議を乗り切った会社側のリーダー川又が讒言で飛ばされることが報告された。しかも、川又の追放を企んだ連中は、争議中は渦中から逃げて傍観を装った輩だった。
 塩路の指示で横浜工場のラインは組合員によりストップされた。その間、宮家委員長が興銀に乗りこみ、「川又専務を追い出すのなら、我々が守った会社は我々が潰す、いまラインが止まっているが、いつまで止まるかわからない」と直談判した結果、興銀は組合側の要求を受け入れることとなった。
 石原は、川又の家に訪問、応接間にて「川又さん、あんたね、もうこうなったら、日産車体でも貰って、おとなしく引き下がった方がいいよ」と脅していた。しかも両足をテーブルにのっけながら。石原は平取締役の経理部長であった。その彼を部長にしたのは川又である。まるで飼い犬に噛まれたようなものであった。
 何れにしても、組合側の行動により、石原による川又へのクーデター工作は失敗に終わった。石原はこのとき43歳、この企てでは岩越忠恕常務も社外に出し、大館常務を社長にした後、40代で自分が社長になることを目論んでいたようだ。それから22年もの長きの間、社長になる65歳まで、クーデターを妨げた者への逆恨みを秘めて隠忍自重の日々を石原は過ごすことになる。

この項つづく。

2013-01-18

GUIDE to The MOTOR INDUSTRY of JAPAN 1961 edition Part 1

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1959年にデビューしたブルーバード。初めて前輪は独立懸架となった。ギアボックスはコラムの3段、下り坂では簡単にフェードするブレーキが弱点であった。

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1960年にデビューしたセドリック。中身はほぼ AUSTINである。ボディは日産初のモノコックであった。写真下のカスタムは、60年秋に小型車規格の拡大に伴い、センターピラー後方で100mm延長して後席スペースを拡大、通常の1500ccエンジンではなく、1900ccエンジンを搭載している。ギアボックスは4段だったが、当時、このクラスの需要の大半を占めるタクシー業界からは、変速が面倒だと評判が悪く、クラウンのようには売れなかった。

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このダットサン・フェアレディは北米輸出専用車。400台が売れたと言われている。ボディは東洋紡によるFRP製。中身はブルーバードであった。

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日本名コロナ(2代目)。当初は当時の酷い日本の道路事情に対し、華奢なリアサスペンションがタクシー業界に不評であったが、年々頑丈に改良されていった。

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1955年に、日本初の乗用車専用設計車としてデビューしたクラウンは、流石に翌年のモデルチェンジを控え、古臭いデザインとなっている。写真上の背景に写るラテンクオーターに注意。

2012-12-04

TOYOTA MUSEUM CLASSIC CAR FEST  1954 Bentley R-type Continental By H.J.Mulliner

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第二次大戦後、 Bentleyが史上初めて製作したスタンダードサルーン、Mk VI/R Typeをベースに製作された伝説的グランド・トゥアラー。
圧縮比 7.25:1へと高められ、SUツインキャブを装着するなど、軽くチューンナップした直列6気筒アルミニウム・ヘッドのF型エンジンを、アルミ製の空力的なボディに搭載。ギアボックスは4段。3速で 161km/hまで加速し、4速での最高速度は 193km/hに達するという、4座クーペとしては当時の世界最速モデルであった。そしてそれは、瞬く間に高性能ラグジュアリー・カーの代名詞となる。

208台が製作された内の193台には、H.J.Mulliner製の最も有名かつ魅力的なプレーンバック・クーペが架装された。R-R傘下時代の Bentleyでは間違いなく最高傑作とされている。

今回の出品車は1954年に製作、同年のロンドン・ショーの H.J.Mullinerブースに出展された個体である。


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R-Typeの優れた独創性が大きな成果を収めたにもかかわらず、Bentleyと Rolls-Royceのモデルの合理化は、容赦ない効率でなおも続けられた。1955年までには、Rolls-Royceの Silver Cloud とボディスタイリングだけが違う BentleyのSシリーズのように、Bentleyの独自性は無残にも失われていった。

10年もの長い間、コーチビルダーによる Continentalの2ドア、4ドアモデルだけが、Rolls-Royceのスタイリングとは無縁の Bentleyモデルとして造られた。