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フィアット500大作戦!!

2016-06-23

MONACO HISTORIQUE 2016  GORDINI T11/15

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1947 GORDINI T11

 1899年、Amedee Gordini は、イタリアはボローニャ地方の非常に貧しい家庭の四男として生まれた。農園で働いていた父親は彼が8歳のときに亡くなったため、11歳になると学校を辞めて、最初は農業労働者、その後は馬車や自転車の修繕をして一家の生活を支えた。その後、キャブレターで有名となる Eduardo Weberと親しくなり、 Isotta-Fraschini製の航空エンジンの製造とテストに携わっていた Alfieri Maseratiと仕事をすることになる。
 後に、単身パリに移住を果たし、フランス国籍を取得していた。

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 1935年フィアットはフランスでの高課税対策として、フランス国内で製造する目的でシムカ社を設立。SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )という意味。ゴルディーニはシムカから資金援助を受け、シムカ車のチューニングとレース活動を開始する。
ゴルディーニは大成功を収め、なかでもフィアット1100のフランス版、シムカ8をベースに、ゴルディーニは、当時としては空力的な2シーター・レーシングボディを架装。このモデルは速かったようだ。
 
 第二次大戦後、ゴルディーニはフランスで最初に成功したレーシング・コンストラクターとなった。そのマシンが Simca-Gordini T11である。大戦後の荒廃したフランスで新たなマシンを設計することは困難を伴った。資金もない中でエンジンを新設計するがパワーは望めなかった。そこでゴルディーニはボディの軽量化で挑戦し、資金調達も僅かなもので新型マシンを投入する。それが Gordini T11のあらましである。

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 エンジンの設計は1944年から開始。直列4気筒、1100ccのシムカ製エンジンがベースとなった。ツインキャブレターにより、6000回転で75馬力を叩き出すまでチューンされた。1948年には110馬力にまでパワーアップされている。いずれにしても元は小排気量の小さなエンジンだった。

 シャシーはその小型のエンジンを囲むように構築された。葉巻型のボディのノーズには卵型にデザインされたラジエターとオイルクーラーが備わっている。

 サスペンションはフロントが半独立懸架、リアは古典的なリジッドだった。ブレーキは4輪ドラムで冷却フィンが追加されている。

 ドライバーシートに座るとわかることだが、本当にボディが小さいことを実感できる。ステアリングを握ると、肘がボディの縁に触れる位置にある。シートの後方は丸みを帯びた小さな燃料タンクだ。

 1気筒当たり点火プラグは1本、マグネトーひとつ、そして4速ギアボックスと、拍子抜けするほど本当に何の変哲もないエンジンとメカニズム。しかしながらマシンは軽く、回頭性は高かった。実際にマシンはファンジオを含むレーシング・レジェンドたちによって無視できないポテンシャルを現していった。天候の良いサーキットでは、よりパワフルなアルファ・ロメオと競り合うことができたのだった。
 1948年のモナコGPではJean-Pierre Wimilleにより2位となっている。


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1952 GORDINI T15

 1950年に新しく組織されたFIAによるF1グランプリレースが設定され、その規定に沿ってT11のエンジンをアップデートしたのがT15である。すなわち直列4気筒エンジンは排気量1500ccとなり、スーパーチャジャーにより過給されることにより160馬力と大幅に戦闘力は高められた。
 ゴルディーニのチームはプリンス・ビラやポール・フレールをドライバーに迎え入れた。しかしながら結果はかんばしくなく、F1最初の開催年である1950年の勝ち点3ポイントが最高得点であり、その後は走るシケインと化していたのである。

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2011-08-17

Goodwood Festival of Speed 2011 JAGUAR'S LE MANS CHALLENGERS Part4

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1960 JAGUAR E2A
直列6気筒 DOHC 2Valve 2997cc 293ps/6750rpm

 1960年のル・マン。既に JAGUAR はレース活動を辞めていたが*1、そのマシンはプライベート・チームに供給され、後方支援は続けられていた。この年のル・マンではEcurie Ecosse の Jaguar D-Type の他に、Briggs Cunningham による JAGUAR E2A が出場していた。このマシンは4月に行われた LE MANS TEST DAY にて4分46 秒(198.4/h)の最高ラップ・レコードを記録し、1957年 Mike Hawthorn がFerrari 335S で出した、3分58.7秒(200.96/h)に接近、その秘められたポテンシャルは Ferrari の脅威となっていた。
 これこそ“Jaguar E-Type”のプロトタイプに他ならない。その完全なアルミ合金モノコック・ボディは、非常に滑らかな美しいシェイプで、従来の D-Type をはるかに凌駕するものがある。
 エンジンは排気量が減少されている。アルミ製シリンダブロック及びクランクケースで、これに乾式鋳鉄ライナーが入る。DOHC 直列6気筒、7ベアリング、2,997cc、
圧縮比10:1、シリンダー・ヘッド、コンロッドにも特殊合金を用い、軽量化されている。Lucas 製インジェクション(市販モデルはSUキャブ3基、265ps/5500rpm,圧縮比9:1)で293ps/6750rpm。潤滑はドライサンブ式、ギアボックスは前進4段フルシンクロ。ブレーキは Dunlop のディスク(サーボ無し)、リアはインボード式、ホイールは Dunlop アロイ・ホイール,センターロック。
 D-Type に見られなかったものとして、モノコック・シェルがリアまで延長されたことが挙げられる。これによりリアには独立懸架を採用し、マウントを確実なものとした。これはD-Type の古典的なソリッドアクスルに対し、非常な進歩となった。またリアのインボード・ディスクの冷却ダクトを備えることが可能となった。エンジン、ミッション、フロント・サスペンションは、前部のサブフレームに取付けられている。

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レースは初めから Ferrari 250 TR59/60 が優勢で、これを追って Aston Martin DBR1/300, Jaguar D-Type の激しい首位争いが続き、レース開始4時間後、Paul Frère/Olivier Gendebien 組を先頭に、2位3位に Ferrari、Ron Flockhart/Bruce Halford の Jaguar D-Type は1周遅れて4位、さらに1周の差でRoy Salvadori/Jim Clark の Aston Martin DBR1/300,注目の JAGUAR E2A は初めから不調であったが、それでも10位にあった。
 その後早期に3台の Ferrari、1 台の Maserati Tipo 61 Longtail がリタイアとなった。8時間後、トップの2台は変らず、Aston Martin DBR1/300 が先頭の Ferrari 250 TR59/60 より2周遅れ、2位の Ferrari 250 TR59(同じく2周遅れ)が接近して3位、Jaguar D-Type は5位となった。1 位との差は、すでに2周と開く。26日早朝4時 Jaguar D-Type は4位をキープしているが、先頭 Ferrari 250 TR59/60 に4周の差をつけられており、レースはすでに半分を経過、多少のあせりが見え始めた。ダークホース“E2A”はインジェクターの損傷を起すなどして長時間のピットストップで、ますますペースが乱れ、26日未明1時35分、遂にピストン損傷が原因となり、85ラップを終えた所でリタイアダークホースの期待は完全に破れ去った。
 もはや希望は Jaguar D-Type にあるのみ。前半4位を保ち、後半の追込みを期待したが、不幸にもクランクシャフト損傷の致命傷を負うに至り、26日朝5時20分にエンジン・ストップ、3年前(1957)の、あの記録すべき、Jaguar の大勝利の夢を再現する事は出事得なかった。結局レースは Ferrari 250 TR59/60 が最後まで、他車を寄せ付けず、終始独走し、1,2,4,5,6 位を独占、3,9 位にAston Martin DBR1/300、8位に Chevrolet Corvette で Ferrari の圧倒的な勝利に終った。出場車55台の内、完走車25台、優勝した Ferrari 250 TR59/60 は4193.1劼鯀破、平均速度は174.7/hであった。



*1:レースを辞めた理由は1957年の2月12日に起こった大火である。夕方の5時45分にタイアの倉庫から出火し、組立て工場と完成車の検査工場、それに倉庫を焼いた。JAGUAR社の人々は燃えさかる建物に踏み込んでは完成車を運び出したが、遂に内張りに火のついた車が運び出されるに及んで断念せざるを得なくなった。創業者 William Lyons 自身がコヴェントリー消防署の署長に命令して、1 番消火のしやすい地点で延焼を噴い止めた。
 300台ほどは救い出されたが、完成してアメリカヘ向けて輸出される予定で船積みを待っていたXK140,マーク供ぅ沺璽爾覆匹多数焼け、揖害は350万ポンド(現在の価値で約350億円)にも達した。しかし鎮火するとすぐブルドーザーが駆けつけ、穴の開いた屋根は修繕され、崩れ落ちた壁は応急手当てをされた。不幸中の幸と言うのか、燃えたのは1/4ほどでそれも組立てと検査の建物だけで、製造工場は残った。古いJAGUARの工場を買ったダンロップが救助の手を差し出し、テストはその工場で行われることになった。驚くべきことに早くも36時間後には火災後初の生産車がライン・オフしたのである。そして4月の始めには元の生産ペースに戻った。
 しかし火災の約1月前に写真で発表された新スーパー・スポーツ XK SS (在庫がだぶついたD-TYPEをベースにしている)は、遂に生産されることはなかった。また XK150 もドロップヘッド・クーペとフィクストヘッド・クーペのみが最初市販され、最も基本的なオープン2シーターは約1年も発売が遅れてしまうこととなる。これも恐らく火災のためだったのであろう。
 火災に際してエリザベス女王は Sir William Lyonsにお見舞の電報を打たれたと言われている。