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フィアット500大作戦!!

2017-04-10

MONACO HISTORIQUE 2016  Ferrari 246 DINO 1960

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The Ferrari 246 F1 was a Ferrari racing car built for the Formula One World Championship of 1958. The regulations for 1954–1960 limited naturally aspirated engines to 2500 cc and for the 1958 season there was a change from alcohol fuels to AvGas.

The 246 used a 2417 cc Dino V6 engine with a 65° angle between the cylinder banks. This was the first use of a V6 engine in a Formula One car, but otherwise the 246 was a conventional front-engine design. The Ferrari 246 was good enough to win a World Championship for Mike Hawthorn and a second place in the Constructors' Championship for Ferrari.

The Ferrari 246 was not only the first V6-engined car to win a Formula One Grand Prix, the French Grand Prix at Reims in 1958, it was also the last front-engined car to win a Formula One Grand Prix. This occurred at the 1960 Italian Grand Prix at Monza, where the major British teams boycotted the race.

In 1960, the Ferrari 246 designation was also used for the first mid-/rear-engined Ferrari, the 246P Formula One car (using same Dino V6 engine of 2417 cc), and then again in 1966 for Ferrari's first three-litre era Formula One car.

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2017-04-07

MONACO HISTORIQUE 2016 Scarab F1 1960

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Scarab was an all-American sports car and open-wheel race car constructor from the United States featuring cars designed and built by Tom Barnes and Dick Troutman for Reventlow Automobiles Inc, owned by Lance Reventlow. The Chevrolet 283 CI V-8 engines were built by Traco Engineering (Jim Travers and Frank Coons, nicknamed "The Whiz Kids").

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Troutman and Barnes built sports cars for amateur road racing in the USA in the 1950s. Chuck Daigh drove the Scarab sports car to victory in the 1958 Riverside International Grand Prix, beating a field of international factory teams including famous race car driver Phil Hill and the Ferrari Team. The Scarabs won the SCCA National Championship in 1958 and two of the cars were sold in 1959 while Reventlow's race car (the only left hand drive car) was converted for his personal use on the street. Carroll Shelby drove one of the Scarab sports cars to victory at the Continental Divide Raceway in Castle Rock, Colorado, setting a new course record.


Scarab 1960 Formula One car on display.
Scarab made an ill-fated entry into Formula One during the 1960 season with front-engined cars which by then were nearly obsolete. The engines in these front-engined cars were 4-cylinder units similar in layout to the Offenhauser, but entirely of Scarab's own design penned by Leo Goossen of Offenhauser, and later Meyer-Drake fame. They featured desmodromic valve gear similar in design to that found on the Mercedes F1 engine of the 1950s and were built and maintained by Travers and Coon. The engines were the shortcoming of the team as the desmodromic gear could not cope with the large amount of movement in the engine block and would consistently pull the valves too far closed resulting in valve failure. Scarab participated in five Grands Prix, entering a total of nine cars. Reventlow and his chief mechanic Chuck Daigh drove the blue and white liveried cars. Both Scarabs were entered in the Grands Prix of Monaco (where they suffered hydraulic brake fluid aeration problems and did not qualify for the race), Holland, Belgium, and France (where both Daigh and Ginther experienced oil starvation issues resulting in burnt bearings), while only Daigh's car was entered in the final race of the 1960 F1 season, the American Grand Prix at Riverside, California (the Scarabs' home track). Daigh finished because he had to keep the engine RPMs under 6000 to prevent fuel delivery problems (vapor lock) on the hot southern California day and, in doing so, did not encounter the mysterious oil starvation issue that occurred closer to 7000 RPM that had plagued the Scarabs previously. Daigh, while entered in the Dutch Grand Prix, did not race due to qualification/appearance payment issues.

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2017-03-23

アリババの洞窟にて

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関東某所にあるHさんのガレージ。ご友人と3年かけて自作したというガレージには20台以上のクルマとモーターサイクルが隠されていた。

Hさんは1966年頃の20代半ばに、吉祥寺に住んでいた五十嵐平達氏の自宅を訪ね、自動車の博物館を作りたいという夢を話したそうだ。五十嵐さんは賛同され、助言をされたそうだ。「日本車を保存するのは日本人がやるしかない」と。そしてこうも言った「自動車趣味を突き詰めると歴史にたどり着く」。その後、五十嵐さんがトヨタ自動車博物館の立ち上げに関わっていった。


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富士自動車 フジ・キャビン・スクーター。
スクーターに屋根とドアをつけたクルマ。エンジンは立川工場製のガスデン2サイクル122cc、5.5馬力。まさに雨に濡れないスクーターだったのだ。
この個体は運転席側にしかドアがない。自動車ショーで展示された個体らしい。

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ボディはFRPのモノコック。FRPといえばロータス・エリートが有名だが、これはエリートに先駆ける2年前の1955年発表。シトロエンDS並みの驚きだったのではないか。デザインは戦前にダットサンのデザインをされていた富谷龍一氏。シフトレバーが座席右側にあることに注意。

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住之江製作所 フライング・フェザー
デザインはフジ・キャビンと同じ富谷龍一氏。エンジンも富谷氏の設計で空冷V型2気筒OHV350奸12.5馬力。これをRRで搭載する。やけに大きなホイールは19インチ。シトロエン2CVと同様にバネ下重量を軽くするためだ。二人乗りで、ハンモックシートや巻き上げ式のキャンバストップなど、シトロエン2CVの影響は大きかったようだ。軽いクルマを目指したが、車重は400キロにもなってしまい最高速度は60キロ程度だったらしい。ヤナセが販売もしたが、いかんせん1955年の日本で30万円もするクルマを買える大衆はいなかった。金持ちは大型のアメリカ車を乗り回していた時代だった。

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富士産業(後の富士重工)ラビット・スクーターS12
135cc空冷4ストローク単気筒エンジンを搭載。軍用機生産で食べていた中島飛行機が富士産業になり、苦肉の策で生き残りをかけて生産したのがスクーターだった。1948年ごろの個体。

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LANCIA FLAVIA SPORT ZAGATO
国際自動車が当時輸入した個体。ただし前オーナーがオーバーヒートに悩まされた結果、ボンネットにはオリジナルには無い熱抜きのルーバーが作られている。Hさんによれば同じFWDでもスバル1000の方が運転が楽しいとのこと。フラビアは重たいらしい。

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戦前、横浜のフォード日本工場で生産されたトラック。ボディは木骨。ベルトのお化けのようなのを下げて窓を開けるようになっている。

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ダットサン・スポーツ DC3
1952年というトラックとバスだらけの日本にあって、戦前のダットサンをベースにMGのようなクルマを作りたいという情熱は買いますね。ボディデザインはオオタ自動車の太田祐一氏。限定50台で価格は83万5千円。大卒初任給が8,000円ぐらいの時代です。

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ダットサン・デリバリーバン DV—5

自治体の役所で使っていた個体のようです。商業車の残存率は極端に低いので貴重な個体です。しかもDV−5は1954年の一年間しか生産されなかったのでなおさら珍しい。価格は67万円でした。

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これは1925年製のインディアン。アメリカのモーターサイクルです。
Hさんのおじさんが開業医をしていて診療用に使っていたそうです。

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錆だらけのモーターサイクルが戦前のDKWのRT125。その隣のレストアされたピカピカのがヤマハのYA−1。
実はヤマハはDKWに許可を得ないでフルコピーでYA−1を製造販売していたのです。
いま何も知らない日本人が中国製コピーを馬鹿にして留飲を下げているような風潮がありますが、それは天に唾するようなものだということですね。

2017-03-13

Škoda Felicia (1959–64)

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驚いた。
少し前に小林彰太郎さんによるCG創刊前の記事を読んでいたのでクルマは知っていたが、まさか日本で現存していたとは…。
1961年、港区榎坂町にあった朝日自動車が輸入した個体。Feliciaはハードトップと折りたたみ式の幌が選べたが、日本に輸入されたのは幌だけだったようだ。サスペンションは前がコイルのダブルウィッシュボーン、後が横置きリーフのスイングアクスルによる4輪独立懸架。エンジンは4気筒OHV 1,089侫張ぅ鵐ャブレターで53HP/5,000rpm MAX 135km/h。4速フロアシフトだがシフトパターンは通常と違って1速が右上となる。
小林さんによれば、エンジンをかけると、高めのアイドリングでボディ全体が揺れるほど振動したようだ。しかしブリッピングするとエンジンは軽く回り、「各ギヤで思わずフルスロットルまで踏み込みたくなる」ような良い印象だったようだ。

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左から燃料計(小林さんは極めて不正確と評していた)、160km/hまでの速度計(オドメーターはキロ単位しかない)、水温計。
シートは当時としては充分にバケットシートの形状。後席は狭く、荷物置き場のサイズ。

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ロードクリアランスがかなり高いことがわかる。これぐらいなければ、当時の酷道といわれた日本の道路ではムリがあったらしい。チェコもそれぐらい酷かったのかもしれない。サスペンションは日本車よりも固めで堅牢と小林さん。

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「もちろんスポーツカーではないし、2/4座オープンボディの制約から、完全な実用車でもない。しかし、活発な運動性能と、数々のおもしろい構造的特徴を備えた、丈夫な車であることが、この短いテストを通じて確実に知り得た」
小林彰太郎さんの結論だ。

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2016-06-23

MONACO HISTORIQUE 2016  GORDINI T11/15

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1947 GORDINI T11

 1899年、Amedee Gordini は、イタリアはボローニャ地方の非常に貧しい家庭の四男として生まれた。農園で働いていた父親は彼が8歳のときに亡くなったため、11歳になると学校を辞めて、最初は農業労働者、その後は馬車や自転車の修繕をして一家の生活を支えた。その後、キャブレターで有名となる Eduardo Weberと親しくなり、 Isotta-Fraschini製の航空エンジンの製造とテストに携わっていた Alfieri Maseratiと仕事をすることになる。
 後に、単身パリに移住を果たし、フランス国籍を取得していた。

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 1935年、フィアットはフランスでの高課税対策として、フランス国内で製造する目的でシムカ社を設立。SIMCAとは「自動車車両車体工業会社」(Société Industrielle de Mécanique et Carrosserie Automobile )という意味。ゴルディーニはシムカから資金援助を受け、シムカ車のチューニングとレース活動を開始する。
ゴルディーニは大成功を収め、なかでもフィアット1100のフランス版、シムカ8をベースに、ゴルディーニは、当時としては空力的な2シーター・レーシングボディを架装。このモデルは速かったようだ。
 
 第二次大戦後、ゴルディーニはフランスで最初に成功したレーシング・コンストラクターとなった。そのマシンが Simca-Gordini T11である。大戦後の荒廃したフランスで新たなマシンを設計することは困難を伴った。資金もない中でエンジンを新設計するがパワーは望めなかった。そこでゴルディーニはボディの軽量化で挑戦し、資金調達も僅かなもので新型マシンを投入する。それが Gordini T11のあらましである。

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 エンジンの設計は1944年から開始。直列4気筒、1100ccのシムカ製エンジンがベースとなった。ツインキャブレターにより、6000回転で75馬力を叩き出すまでチューンされた。1948年には110馬力にまでパワーアップされている。いずれにしても元は小排気量の小さなエンジンだった。

 シャシーはその小型のエンジンを囲むように構築された。葉巻型のボディのノーズには卵型にデザインされたラジエターとオイルクーラーが備わっている。

 サスペンションはフロントが半独立懸架、リアは古典的なリジッドだった。ブレーキは4輪ドラムで冷却フィンが追加されている。

 ドライバーシートに座るとわかることだが、本当にボディが小さいことを実感できる。ステアリングを握ると、肘がボディの縁に触れる位置にある。シートの後方は丸みを帯びた小さな燃料タンクだ。

 1気筒当たり点火プラグは1本、マグネトーひとつ、そして4速ギアボックスと、拍子抜けするほど本当に何の変哲もないエンジンとメカニズム。しかしながらマシンは軽く、回頭性は高かった。実際にマシンはファンジオを含むレーシング・レジェンドたちによって無視できないポテンシャルを現していった。天候の良いサーキットでは、よりパワフルなアルファ・ロメオと競り合うことができたのだった。
 1948年のモナコGPではJean-Pierre Wimilleにより2位となっている。


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1952 GORDINI T15

 1950年に新しく組織されたFIAによるF1グランプリレースが設定され、その規定に沿ってT11のエンジンをアップデートしたのがT15である。すなわち直列4気筒エンジンは排気量1500ccとなり、スーパーチャジャーにより過給されることにより160馬力と大幅に戦闘力は高められた。
 ゴルディーニのチームはプリンス・ビラやポール・フレールをドライバーに迎え入れた。しかしながら結果はかんばしくなく、F1最初の開催年である1950年の勝ち点3ポイントが最高得点であり、その後は走るシケインと化していたのである。

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