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銀幕閑話 Twitter

2016-09-16

第601回「写真家荒牧万佐行さんの仕事」

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 新聞社で働いていたので、カメラマンの知り合いは多い。中には一緒に海外へ行った人もいれば、若くして亡くなった方もいる。この9月16日から都内3カ所で「中国文化大革命50年と今日 荒牧万佐行写真展」が開催される荒牧万佐行さん(75)とは、お付き合いが長いだけでなく、互いに職場が変わってからも食事を誘い合うなど親しくさせていただいている大先輩だ。

 写真展の案内はがきには、文革中の1967年に北京で三角帽子をかぶせられた実権派の幹部がトラックでひきまわされ、すれ違った人民解放軍兵士の乗ったトラックから歓声が上がる生々しい写真や、上海では騒然とした中でも深夜ともなれば黄浦江の河口近くで仲良く語り合う2人連れの写真と、さらには、ほぼ同じ場所で撮った現代の高層ビル群を望む家族連れの写真まで並び、この50年の中国の変わり様に改めて感心させられた。おそらく、これら貴重な写真は中国でこそさらに希少性が高いのではないだろうか。

 はがきに添えられたA4サイズ1枚の「中国文化大革命50年と私」と題された案内状には、警戒中の公安に腕を掴まれ「何を写した! パスポートを見せろ」と言われ、取り囲んだ群衆からも「われわれの問題だ」「フィルムを出せ」と脅されたことが紹介されている。まるで映画の様な緊迫した場面だ。

 これらの写真は毎日新聞やサンデー毎日、カメラ毎日等に掲載され、67年度写真協会新人賞を受賞。当時、フリーカメラマンだった荒牧さんは、この取材が縁で毎日新聞に迎えられた。

 荒牧さんとは朝刊の「ひと」欄では何度もご一緒したが、思い出深いのは93年6月、ホウ・シャオシェン監督にインタビューするため台湾に一緒に渡ったときのことである。

 名作「悲情城市」は、1945年の日本敗戦から49年に国民党政府が台湾に渡り台北を臨時首都にするまでの4年間を、林家一族の姿を通して描いた一大叙事詩。ホウ・シャオシエン監督は89年、本作でベネチア映画祭金獅子賞を受賞している。

 世界における台湾映画の名声を確立した同監督には何として会いたかった。狙っていたのは当時所属していた日曜版で人気を集めていた「名作映画を歩く」のコーナーだ。1面から中面の見開きまでオールカラーの計3ページ分を埋めるため、取材に熱が入り、当初約束していた1時間では全く足らず、気が付いたら3時間を超えていた。こちらの熱意が監督に伝わったのだろうか。

 インタビュー中に、荒牧さんがそっと耳打ちし、「この話は面白いよ、日曜版だけでなく夕刊でも連載しようよ」という声に励まされたことも良かったかもしれない。監督の太っ腹で人情味ある対応と、荒牧さんの的確なアドバイスに感激したことは言うまでもない。

 荒牧さんにはほかでも驚かされた。この出張は1週間を予定していたが、台湾に着いて3日目には「紀平君、もう予定の写真は全部撮って来たよ」と目を輝かせてホテルの部屋に戻ってきたのだ。もちろん、それですべてが終わったわけではなかったが、「仕事は速く」を心掛ける姿勢には真摯なものを感じた。

 帰国後も取材でお世話になった人たちのすべてに写真と礼状を早々に送ってくれた。原稿の推敲を重ねるあまり、礼状一つ出せないことにもどかしい思いでいただけに、大いに助けられた。

 荒牧さんは、ニュース写真だけでなく、伊勢神宮円覚寺など神社仏閣での仕事も多数手がけられている。性格の異なる取材対象だが、ガッツと人当たりのいい笑顔ですぐ相手の懐に飛び込んでしまう性格の良さが役に立っているのだと推察している。

 久しぶりに荒牧さんの作品を見に行こうと思っている。

 毎日新聞日曜版の「名作映画を歩く」に掲載の「悲情城市」は新聞社がデジタル編集に移行する前の1993年7月25日掲載なので、ご興味のある方は図書館の縮刷版でぜひとも御覧頂きたい。夕刊の「この人と」で4日連続で掲載されホウ・シャオシェン監督インタビューは93年8月23〜26日の掲載。【紀平重成】

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写真(クリックすると拡大)

  1. 先輩から届いた「中国文化大革命50年と今日 荒牧万佐行写真展」の案内はがき
  2. 写真展の内容を紹介する案内状
  3. 1993年6月、台北の漢口街で3時間の取材の後、街を一緒に歩くホウ・シャオシェン監督(右)と筆者(中央)=荒牧万佐行さんが撮影した現物のコピー
  4. 悲情城市」のDVDパッケージ


「中国文化大革命50年と今日 荒牧万佐行写真展」

㈰9月16日〜22日 東京銀座5 フレームギンザサロン

㈪10月3日〜15日 プレスセンター日本記者クラブ9Fラウンジ

㈫10月25日〜28日 毎日新聞社1Fアートサロン
 

2016-09-13

第600回「チリの闘い」

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 近年では「光のノスタルジア」「真珠のボタン」の連作で知られるチリのパトリシオ・グスマン監督が、東西冷戦下の70年代前半、世界で初めて自由選挙で誕生した社会主義政権アメリカの支援する軍事クーデターによって崩壊する一部始終をカメラに収めた記念碑ドキュメンタリー作品だ。

 アジェンデ政権がキューバとの国交を回復したり、銅鉱山などの有力企業を次々と国有化し、大地主を追い出す農地改革を推し進めると、保守層や富裕階級は多数を占める議会やスト、テロで激しく抵抗し国論は二分された。監督は「二度と撮ることのできない映画」と述懐しているが、観客にとっても「おそらく二度と見ることのできない作品」と言えるだろう。

 映画はクーデターをきっかけにフランスへ亡命したグスマン監督が、奇跡的に持ち出されたフィルムを元に、1975年製作の第1部「ブルジョワジーの叛乱」、76年製作の第2部「クーデター」、78年製作の第3部「民衆の力」の3部作にまとめた。計263分、4時間半に近い超大作だ。

 見どころは無数にある。たとえば冒頭とラストで2度出て来る大統領府(モネダ宮)が爆撃によって崩落していく様子や、アウグストピノチェトを議長とする軍事評議会4人のメンバーがテレビに出演しクーデターには理があると軍事政権発足を高らかに宣言する場面だ。

 どちらも歴史的な瞬間であり貴重な映像と言えるかもしれないが、このように偶然撮ることができた映像もさることながら、最初からきちんと計画を立てて、しかも粘り強くカメラを向け続けた末に勝ち取った核心を突く映像の数々はずしりと手ごたえがある。

 保守派がトラック輸送業者に指示し長期ストでチリ全土の物流を止めようとした時、労働者は自分の工場の車を提供して日常生活に必要な食料や生活用品を運んだ。それを別の労働者や住民が地域に分配していく。あるいは工場や農場を自主管理し、闘争方針を話し合う。まるで大小さまざまな自治政府が次々に生まれて行くかのように。

 そうかと思うと、富裕層の豪華な家具や棚からこぼれ落ちそうなほどワインボトルが溢れかえるアパートメントで住人が口汚く大統領派をなじる光景も対照的で印象深い。

 カメラは残酷なほどこの国の現実をあぶり出す。アジェンデ大統領を支持する労働者階級を含む貧困層は“新大陸発見”前から住んでいた先住民系やその混血による子孫も多く、一方野党とはいえ議会の多数派を占める保守派は現に豊かな生活を享受し続けるスペインをはじめとするヨーロッパ系の子孫なのだ。70年に自由選挙による奇跡の政権奪取はあったものの、基本的に保守派貧困層による権力闘争が繰り返され、差別構造がなお張り巡らされていることが映像を通じて理解できる。

 鉱山で、デモ行進が続く街角で、あるいは集会の喧騒の中で、カメラは人々の熱い声を拾っていく。73年3月の議会選挙では「だれに投票する?」との問いに「共産党候補だ」「今までで一番いい政府だ」と将来に期待する声が多く寄せられていたが、わずか半年後の9月のクーデターが近づくころには、「何をすべきだと思いますか」という問いに、鉱山労働者は「すべてを掌握する以外に道は残っていない。政府はもう反体制派を一掃すべきだ」と武力行使による解決を示唆する声も記録されている。

 勇ましい声というよりも追い詰められての発言といってもいいだろう。そしてその後の結果を知っているだけに、見る者は切ない気持ちに捕らわれるのだ。

 クーデターは2001年の米同時多発テロと同じ9月11日に行われたのは何かの因縁だろうか。ちなみに私の誕生日も同じ日。テロクーデターといった忌まわしい暴力による力の行使の記憶を払しょくできるほどの希望に満ちた記念日にしたいといつも願っている。

 「チリの闘い」は渋谷ユーロスペースにて公開中、以下全国順次公開【紀平重成】


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写真(クリックすると拡大)

  1. 「チリの闘い」の一場面。演説するサルバドール・アジェンデ大統領 (C)1975, 1976, 1978 Patricio Guzman
  2. 大統領を支持する人々に笑顔がはじける (C)1975, 1976, 1978 Patricio Guzman 
  3. 高揚感に酔いしれる人々 (C)1975, 1976, 1978 Patricio Guzman
  4. アジェンデ大統領の写真を掲げてデモ (C)1975, 1976, 1978 Patricio Guzman
  5. とうとう起きたクーデター (C)1975, 1976, 1978 Patricio Guzman

【関連リンク】
「チリの闘い」の公式サイト
http://www.ivc-tokyo.co.jp/chile-tatakai/

2016-09-02

第599回「将軍様、あなたのために映画を撮ります」

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 観客を感動させる高い水準の映画を作りたいからと、あろうことか権力者が敵対国の人気女優と一流監督を拉致するという前代未聞にして最悪の脚本。だが妖しい魅力を放つその“ドラマ”は実行に移され成功したかに見えたが、夫妻の死を賭けた亡命劇でとん挫する。当初は駒の一つにすぎなかった監督が自ら主演の一人を演じつつドラマを改変するという逆転劇だ。このサスペンス映画さながらの物語はすべて実話。映画の虜になった二人の男と一人の女優による葛藤の日々が関係者の証言と映像により稀有のドキュメンタリーに生まれ変わった。

 作品の主な登場人物は北朝鮮の権力者キム・ジョンイル韓国の著名監督シン・サンオク、同じく国民的女優チェ・ウニの3人。1978年の事件発生当時、いずれも韓国では知らぬ者など皆無の有名人だった。

 最初に消息を絶ったのは当時韓国ではトップ女優だったチェ・ウニだ。姿を消したのは旅行先の香港。後に北朝鮮の工作員による拉致と判明するのだが、その8日後に北朝鮮の南浦港の埠頭に上陸した。「お疲れ様でした」というねぎらいの声に振り向くと、そこにはキム・ジョンイルがにこやかに立っていた。

 チェ・ウニの失踪に驚いた元夫のシン・サンオク監督は彼女を探しに香港へ向かうが、彼もまた拉致される。監督は元妻が同じ北朝鮮にいることも知らずに逃亡を繰り返した。特別収容所から出された彼がようやくキム・ジョンイル主催のパーティーでチェ・ウニと再会したのは、実に5年後のことだった。

 映画は3人の中で唯一存命しているチェ・ウニ自身や当時事件を調査した元CIA職員などの関係者へのインタビューをもとに綴られていく。どれも貴重な証言だが、中でも圧巻はシン監督が秘密裏に記録したキム・ジョンイルとのやりとりの入った録音テープだ。

 拉致の動機としてキム・ジョンイルが語る肉声が興味深い。「北朝鮮の映画は泣くシーンばかり」「韓国の映画が大学生なら、我々は幼稚園レベルだ」。映画マニアとして「ゴジラ」や「男はつらいよ」シリーズを始め世界中の映画を知り尽くしているキム・ジョンイルにとって、チェ・ウニやシン・サンオクの二人は映画論を戦わせる格好の相手だったろう。

 録音テープには、こんなものもある。映画制作を依頼され精力的に動き出したシン・サンオクがつぶやく。「ここ(北朝鮮)は嫌いだが、お金の心配はいらない」。

 こんな声も入っている。「代表作品を仕上げるまでは、帰れと言われても帰れません」という監督にキム・ジョンイルが「そうですか」と答える。

 帰国を約束されていたのか、それとも本心を隠してのご機嫌取り発言だったか。

 興行成績を心配することなく、自由に作れる環境にのめり込んでいったシン・サンオク監督の姿が浮かび上がる。同じ拉致被害者の身ながら、国に残した家族のことを心配するチェ・ウニとは対照的だ。それでも彼女は韓国時代の監督経験を生かし「帰らざる密使」を北朝鮮で撮って、チェコ国際映画祭で審査員特別監督賞に輝いている。

 シン・サンオクの方は約3年の間に17本の作品を送り出した。戦争大作や、日本の特撮スタッフを呼んでの怪獣映画プルガサリ 伝説の怪獣」。海外の映画祭で受賞する作品も含まれれていた。

 2人は86年、ウィーンのアメリカ大使館に駆け込み、アメリカ亡命。その後99年、約20年ぶりに韓国帰国している。シン・サンオクはアメリカへ渡った際に、北朝鮮に行ったのは自発的亡命ではないと語ったが、今なおそれを疑う人もいるという。様々な解釈が可能なだけでなく、映画の魔力が詰まった作品と言えるだろう。

 「将軍様あなたのために映画を撮ります」は9月24日よりユーロスペースほか全国順次公開【紀平重成】

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写真(クリックすると拡大)

  1. 将軍様あなたのために映画を撮ります」の一場面。会見するシン・サンオク監督と女優のチェ・ウニ (C)2016 Hellflower Film Ltd/the British Film Institute
  2. キム・ジョンイルとの会談後3人で記念撮影(左からシン・サンオク、キム・ジョンイル、チェ・ウニ) (C)2016 Hellflower Film Ltd/the British Film Institute
  3. 若き日のチェ・ウニとマリリン・モンロー (C)2016 Hellflower Film Ltd/the British Film Institute
  4. 撮影に臨むチェ・ウニ(中央) (C)2016 Hellflower Film Ltd/the British Film Institute
  5. 永住帰国後、チェ・ウニの胸に去来するものは何か…… (C)2016 Hellflower Film Ltd/the British Film Institute


【関連リンク】
将軍様あなたのために映画を撮ります」の公式サイト
http://www.shouguneiga.ayapro.ne.jp/

2016-08-26

第598回「海峡を越えた野球少年」のキム・ミョンジュン監督に聞く

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 かつて、夏になると日本の球児が甲子園に集まるように、ほぼ同時期に在日コリアンの少年たちが韓国に渡り祖国の高校野球大会に出場していた。1956年から42年間に620人。その中には、後にプロ入りして3000本安打の偉業を達成した若き日の張本勲さんもいた。日韓両国の民間交流の歴史に光を当てたキム・ミョンジュン監督に聞いた。

 在日同胞チームのメンバーは、開催時期が夏の甲子園と重なるため、予選敗退で甲子園に出場できなかった球児の中から毎年選抜していた。映画では、在日コリアンのチームが準優勝した3回のうち1982年出場の元球児たちを追っている。

 −−この年のメンバーを探し出し、プロ野球の始球式に招いたのはなぜですか?

 「82年は韓国でプロ野球が始まった年です。もともと韓国の野球は毎年海を渡ってくる在日同胞の洗練されたプレーに刺激されて発展してきたという側面があります。ですからプロ野球開始の記念すべき年だけは高校野球大会の決勝をソウルの新しいチャムシル球場で開催しました。他の年は別の野球場でした。ドキュメンタリーは昔の記録だけを見てもあまり面白くありません。現在とどうつなげるかが大事です。82年はプロ野球の原点なので、韓国野球に貢献した620人の代表としてその年のメンバー14人を招待し、もう一度マウンドに立ってもらうことで恩返ししようと考えました」

 −−この企画には元球児の皆さんは賛成してくれたのでしょうか?

 「アポイントメントをとったところ、なぜ自分たちみたいな普通の人間を撮ろうとするのか。詐欺ではないのかと散々言われました」

 −−映画の中でも、そんな会話が交わされていましたね。

 「はい。撮影中も彼らは疑心暗鬼で。始球式のために韓国の球場に来た時に初めて実感が湧いたそうです」

 −−そうすると最初に声をかけてから実際に撮影OKの返事をもらうまでどれぐらいの期間がかかりましたか。

 「長かったです。名簿を調べたり電話をして交渉したりするのに2年ぐらいかかりました」

 −−でも判断が良かったと思うのは、朝鮮総連系のキム・グンさんを最初に見つけ出したことですね。そこから口コミで広がり、それで成功したのだと。

 「運が良かったですね」

 −−彼は非常にざっくばらんで、細かいことを気にしないフランクな人ですね。

 「そうです」

 −−彼にとっても大変良い機会だったのでしょうか。

 「自分の娘さんが高校時代に祖国訪問で北朝鮮に行ったことを話したので、僕も行ってきたよと話したところ、話が通じないんです。そこで彼は娘さんに映画を見せて、ああ、うちのオヤジはこういう立派なことをやったのかとようやく理解できたそうです」

 −−家族にもいい影響があった、それぞれの方にドラマがあったというわけですね。

 「映画でも出てきますが、ピッチャーとして出場したヤン・シチョルさんは82年に初めて祖国の土を踏んだ時、韓国語が話せないのかと言われ、日本でも韓国でも差別されるのか、在日はそういう運命なのかと思ったそうです。彼は始球式で勇気をふるい在日の代表と思って投げました。そして、自分たちがこの30年余り抱いていた祖国へのしこりが解けた瞬間だったと言います」 

 野球という共通する文化があるから、いろいろ熱く語ることができる。前述のキム・グンさんのように「ふるさとの風や匂い」を感じながら野球をして感動することもできるということだろう。

 −−映画を撮って野球が好きになりましたか?

 「今は野球の大ファンです。撮影当時(13年)は野球に詳しくなかった。彼らにインタビューするには専門知識が必要ですね。周りの野球ファンに相談したら、自分の好きなチームを作れと言われました。毎日毎日、勝ったらうれしい、負けたらウーンていう感じで」

 −−それは今もですか?

 「変わってないです」

 −−どこのチームですか?

 「釜山のロッテです(笑)」

 「海峡を越えた野球少年」は8月20日よりポレポレで公開【紀平重成】


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写真(クリックすると拡大)

  1. キム・ミョンジュン監督(2016年8月5日、東京都渋谷区内で筆者写す)
  2. 満員の球場で試合に臨む在日コリアンの選手 (C)2014 INDIESTORY Inc.
  3. 帽子を取って整列する在日コリアンのメンバー (C)2014 INDIESTORY Inc.
  4. 今はどっしりした体型の元球児たち (C)2014 INDIESTORY Inc.
  5. 整列した参加チーム。在日同胞の名前が見える (C)2014 INDIESTORY Inc.


【関連リンク】
「海峡を越えた野球少年」の公式サイト
https://www.facebook.com/yakyusyonen/

2016-08-22

第597回「不思議惑星キン・ザ・ザ」

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 カルト的な人気を誇るSF作品が帰ってきた。原題も「KIN-DZA-DZA」(キン・ザ・ザ)とシンプルでいいが、邦題は内容をズバリ言い表し、しかもリズミカルで力強い。もう見る前から期待感が膨らむこと間違いなしの作品である。

 内容を紹介する前から少々入れ込んでしまったが、旧ソ連時代の1986年の完成試写会では、評論家から散々こき下ろされたというから、世の中分からないものである。変わり種すぎて理解されるのに時間がかかったのか、それとも時代の方が変わり理解され出したのか。即断はできないが、おそらく後者だろう。公開時期に注目すると見えてくるものがある。

 時はソ連崩壊5年前の1986年。市民は旧弊がはびこりモラルも腐敗している体制にウンザリし、自由を求めていたはずだ。不満のはけ口を探し、それを押しとどめようとす
障壁に少しでも弱い部分があれば、それを突き破り、たちまち奔流となって吹き出す状態だったに違いない。

 その時公開されたのが本作品だ。内容を紹介しよう。

 建築技師のマシコフは、帰宅直後に妻からマカロニを買ってきてほしいと頼まれ街に出る。街角でバイオリンを抱えた見知らぬ青年に「あそこに自分は異星人だという男がいる」と声をかけられる。面倒だと思ったマシコフは警察に任そうと提案するが、青年は「裸足で寒そうだから」と譲らない。仕方なく自称異星人の男に近づくと、男は「この星のクロスナンバーか座標を教えてくれ」と訳の分からないことを言う。それには取り合わないで、マシコフが男の手にあった空間移動装置のボタンを押した途端、マシコフと青年は地球から遠いキン・ザ・ザ星雲のプリュク星へとワープしていた。

 まず製作国が、いまは存在しないソ連と、国の名前の変わったグルジアというところが何となくSF風である。ソ連は91年末に崩壊しロシアに、一方グルジアは同国の要請を受けた日本が2015年に国名をロシア語表記から英語表記のジョージアに変えている。

 そして86年の最初の試写では途中で席を立つ人がいたり、撮影所に抗議の手紙が殺到したりと多難な出足。手紙の内容も「政府はなぜあんなクズに金を費やしたのか」「監督のやつ、人気俳優をよくもあんな駄作に使えたものだ」と手厳しいものばかりだった。しかし公開してみると反応はまったく逆で、1570万人が押しかけた。日本で言えば超大ヒット作である。

 中でも若者は映画館から出てくると、異星人たちが挨拶の際に両手を「ハ」の字状にだらんと下げながら「クー」と言うのを真似したという。とりわけパトカーを見かけようものなら、故意にポーズをとって「クー」と叫んだというから、これは挨拶というより、若者特有のからかい、あるいは体制側への反発の意思表示だったのかもしれない。

 それにしても宇宙船が釣鐘型で、地上の砂ぼこりを噴き上げることなくふわっと着陸したり、中から現れた異星人たちがマシコフら2人をほぼ身ぐるみはがして立ち去ったのに、マシコフが気を取り直してたばこを吸うためマッチを擦った瞬間、釣鐘型宇宙船が舞い戻りマッチを必死に欲しがるという展開は、まるでドタバタ喜劇を見ているかのように笑える。

 宇宙船はこうあるべきという先入観を見事に肩透かしし、マッチ1本で宇宙船のエンジンが買えるという設定も観客の常識をはぐらかす。そうかと思うと、この星には演奏する際に檻(おり)の中に入らないといけないという奇妙なルールがあり、人々はその制約に慣らされている様子が描かれる。

 見方によっては「周りの常識を疑い声を挙げろ」「我々は本来自由なんだ」とのメッセージを監督が込めた作品なのかもしれない。そして人々が社会を疑わずにこのまま行けば映画で描かれるようなぼろを身にまとい、ガラクタの金属に囲まれた暗い社会になると警告しているようにも見える。ドーピング問題に揺れる今のロシアを見ていると、風通しのいい社会を作ることの大切さを改めて思う。

 30年前の作品だが、今見ても新しく、様々な見方が可能な作品だ。

 同作品は89年に都内で開かれた「ソビエトSF映画祭」で紹介され、2001年にニュープリントで劇場公開。今回はデジタルリマスター版での公開となる。

 「不思議惑星キン・ザ・ザ」は8月20日より新宿シネマカリテほか全国順次公開【紀平重成】

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写真(クリックすると拡大)

  1. 不思議惑星キン・ザ・ザ」の一場面。ぼろをまとった異星人たちは「クー」と挨拶してくるが…… (C)Mosfilm
  2. 釣鐘型の宇宙船がふわりと舞い降りてきた (C)Mosfilm
  3. プリュク星には2種類の人がいて差別があった (C)Mosfilm
  4. 地球に帰ることをあきらめない二人 (C)Mosfilm
  5. 音もなく浮き上がる宇宙船 (C)Mosfilm


【関連リンク】
不思議惑星キン・ザ・ザ」の公式サイト
http://www.kin-dza-dza-kuu.com/