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懐かしの昭和20年代かねこたかし

2017-01-30

『サーカス』

15:41

サーカス

 日本初のサーカスは、1864年『アメリカ・リズリーサーカス』による横浜での興行であった。それまでの日本でも曲芸興行は行われていたが、どれも芸種別に一座を組んでの公演だったので、多様な芸を一堂に会したサーカスは大きな反響を呼ぶこととなった。日本人によるサーカス一座は、1899年の『日本チャリネー座』がその最初で、その後、大正末から昭和にかけて、木下大サーカス、有田サーカス、シバタサーカスなどが誕生している。

 サーカスは各地巡回興行で、ぼくの町にもやって来た。その興行が伝えられた時、ぼくたち子どもは緊張した。謂れのない偏見が、ぼくたちを包み込んでいたからだ。親は往々にして重い言葉を軽く言う。例えば「いつまで遊んでいるの! 人さらいにさらわれたらどうするの!」─と。夕闇が迫るころまで遊んでいた子の殆どが、親からこの言葉を聴かされている。それがどんなに恐ろしかったか。「人さらいにさらわれるとサーカスに売られ、毎日酢を飲まされる。そして体がフニャフニャになったところで、厳しい芸を仕込まれる」と言うのである。妻は二十年程前『サルティンバンコ』をぼくと観るまで、「少なからずサーカスを忌避していた」と明かしている。

2017-01-24

『野良犬』

09:28

『野良犬』

 穏やかな日の多摩川は、奥多摩から運ばれる水がゆったりと、また雪解け季節ともなると、気持ち滔々と流れていた。水際の砂地ではカニが戯れ、小穴を掘るとハゼ釣りの餌となるゴカイが幾らでも手に入った。

 とても気持ちの良い川だったが、時々悲しい漂流物があった。木箱であったり段ボール箱であったり。中に居るのは子猫や子犬だった。大抵は流れの早い川の中央部だったから、多摩川大橋の欄干から見下ろすだけで救助は出来ない。間もなく羽田沖の海に出る。そしてどうなるか? 想像するのも悲しかった。

 岸辺のものは陸に上げたが、その後は野良にするだけのこと。野良犬は狂犬病の危険があるから、絶えず役所の職員によって駆除されていた。針金の輪を首に掛けられキャンキャン鳴き叫ぶ犬。流れて行っても救われても、運命の扉は開かない。

 ぼくは、たまさか救助した漂流箱の犬一匹を家に連れ帰った。親はぼくの懇願を、渋々ながら受け入れてくれた。晴れて家族となった子犬に、ぼくはエスと名付けた。なぜエスにしたかは覚えていない。エスはたった一年で、鼻から膿を流して死んだ。泣きながら庭に穴を掘って埋めた。ぼくにとって最初の家族の死。忘れられない。

2017-01-19

『野外映画会』

16:19

『野外映画会』

 夏休み中の昼下がりの校庭に、二本の長いポールが運び込まれる。ぼくはこの時点からワクワクし始める。ポールに白い布幕が張られ、それが校庭の中央に立つ。映画のスクリーンだ。この主催の主がどこだったかは忘れたが、夏の夜の野外映画会は毎年行われた。

 上映作品は、二流館から三流館を隈なく廻って来たと思われる、相当古いものが多かった。多分、只か只同然で借りて来た作品群だったのだろう。雨かと思うほどのキズがあったり、時にはフィルムがプッツリ切れることもあった。そんな時は何フィートか飛ばして上映を再開させるわけだが、見ている方も只見だから、文句も言わずに再開を待った。

 スクリーンは校庭の中央だから、観客の一割ほどは裏から見ていた。ぼくも大抵裏から鑑賞する爐悗酋覆り組瓠N△篭いていて寝そべっても見られるからだが、少し困ることがある。野球の場面ではバッターが打って三塁方向に走り出すし、看板は読めないし、チャンバラは全員が左手で刀を振り回して異様な雰囲気。だけどそんな小さな不都合が、今や想い出の中で犢ヅ垤腓量瓩箸覆辰討い襦

2017-01-11

『赤バットと青バット』

18:30

赤バット青バット

 赤バットと言えば巨人川上哲治青バットと言えばセネターズ大下弘野球ファンなら誰でも知っていることなのに、そのバットが実際に使われたのは、昭和二十二年の一シーズンだけだった─ということまで知っている人は少ないと思う。

 二人の色付きバットの始まりは、運動具メーカーから川上が赤バットの提供を受けたこと。それを見た大下は、対抗心からか自らのバットに青い塗料を塗った。弾丸ライナーの川上対ホームラン量産の大下。色彩バットの競演はファンを魅了させたのだが、ボールに塗料が付着するとの苦情が審判団から出て、一シーズンの命となった。

 二人の活躍はその後も続いた。ぼくは巨人ファンだったから、現役時代の川上の試合は何度か見ている。川上のファーストミットは他の一塁手のものより小ぶりだった。多分特注だろう。(大選手は、攻守に探究怠りないのだなあ)と感銘の記憶がある。

 昭和三十一年から三年続いたのは、巨人西鉄という同一カードの日本シリーズ巨人の四番が川上、西鉄の四番は大下だった。結果は西鉄驚異の三連覇。三年目には長嶋が巨人ルーキーとして登場。それを見届けたように川上はそのシリーズを最後に現役引退。大下も翌シーズンを最後に現役から退いた。

2017-01-05

『野原の子どもたち』

08:42

『野原の子たち』

 ぼくたちが野原に立つと、誰からともなく子犬のようにジャレついて、転がし合うのが常だった。野は絨毯のように柔らかく、赤チンの要らない遊び場だった。

 女の子たちは、咲き誇るレンゲソウの花の中に身を埋め、首飾りを編んでいた。シロツメグサの茎を連ねた花冠も作っていた。幸運を呼ぶという四つ葉のクローバーを、必死に探している子もいた。

母は毎年春がやって来ると、ヨモギの新芽を積んで草餅をつくってくれた。つくしん坊やわらびも、春の食卓には載った。今に残る母の味だ。

 時代はコツコツ廻って六十年。野原の子たちは消えてしまった。

 先日、同世代の仲間三人で那須岳経由・南月山に登った。山頂で仲間持参のウイスキーをカチンと合わせたら、たまたま通りかかったこれまた同世代と思える御仁が、「おや、お祝いですか?」と問う。「ええ、ぼくの誕生日の前祝いです」とぼくが答えたら、御仁、リュックから自身が採取して作ったという四つ葉のクローバーのしおりを取り出し、「では、幸運をあなたに」とプレゼントしてくれた。これ、往年の野に親しんだジイちゃん同士を繋ぐ発想─ということだろうか。有り難く頂いた。

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