『足踏みミシン』

『足踏みミシン』
 日本の地を踏んだ最初のミシンは、アメリカ総領事ハリスが徳川将軍家定の奥方に献上したものだと言われている。国産品の第一号は、大正十四年上野松坂屋で市販されたパインミシン(のちの蛇の目ミシン)。しかし戦前の日本市場の九割までを占めていたのは舶来のシンガーで、その名がミシンの代名詞ともなっていた。
 そのシンガーも、和服時代の日本での普及には相当の苦労があった。何とか光が見え出したのは、活動重視の〝あっぱっぱ〟が大流行し出した大正末期。女学校の制服が洋装となり、モガ・モボたちが銀座をかっ歩するようになってからだ。
 とは言っても庶民の中にまでミシンが行き届くには、その後も相当の時間を要した。
 昭和二十年代に入っても、わが家の周辺でミシンを持つ家庭は限られていた。洋裁を志す人たちは、その限られたミシンを借り歩いていた。毎度毎度では気が引けるからと、保有者の何軒かを順繰りに借り歩く人も稀ではなかった。
 当時のモノの貸し借りは、今より頻繁だった気がする。電話を先方の燐家に掛けて呼び出してもらうことはしばしばだったし、「ごめん。お味噌切らしちゃって…」とか「膨らし粉を少しばかり…」みたいな言葉もたまに聞こえた。