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2012-02-08

ginyu2012-02-08

聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実

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 もう一ヶ月も前に見たのだが、戦争映画を2本続けてご紹介。


 本作の真珠湾攻撃の場面はアメリカ映画「パールハーバー」と見比べたら面白いだろう(しかし「パールハーバー」の内容をすっかり忘れた)。「トラトラトラ」も再見したくなったのでちょっと調べてみたら、完全版はブルーレイで間もなく販売になる。


 本作の山本五十六が善人すぎると思うが、実際にこのように穏やかで愛嬌のある優しい人だったのだろうか。陸軍はバカで海軍は先見の明があったというステレオタイプは相変わらず。しかしその海軍の中にあってもやっぱりバカは存在する。その、海軍の中の馬鹿は軍令部総長永野修身。日米開戦派はことごとく馬鹿という設定になっている。

 実際、山本五十六が避戦派だったのは有名な話で、一刻も早い講和を常に望んでいたのは確かなようだ。アメリカに留学した経験のある山本は、アメリカと戦う不利を充分承知していた。だからこそ、奇襲作戦しか勝ち目がないと知っていたのだ。


 この映画は山本五十六を徹底的に温厚で先見の明のある人物として描いている。だから彼に愛人がいたとかいうような都合の悪い話は一切出てこない。家庭にあっては優しい父であり、妻をいたわり、一皿のカレイの煮つけを家族6人で分けて食べる慎ましい態度を見せる。煮つけを一切れずつとりわけ、長男から始まって末っ子にまで与えると、「はい、お母さん」と妻の皿に一切れを乗せ、最後に残った骨とわずかな身を自身が食べる。なんという涙ぐましくも微笑ましい一家団欒の姿だろう。小さな卓袱台を家族が囲んで貧しい食事を共にする、物がなかった時代の食事のほうが美味しそうなのはなぜだろう。こういう、失われた家族の食事風景が好ましく思えるのは、我が家が最近個食化しているからか。

 考えてみれば海軍の軍人である山本五十六はほとんど家に居なかったであろうし、たまに家族全員で食事をするときぐらいはあのように楽しそうに慎ましく礼儀正しく、質素な食べ物を精一杯ご馳走のように味わうのが唯一の贅沢であったのだろう。

 アメリカとの戦争に反対し、日独伊三国同盟に反対し続けた軍人が、いざ開戦となると果敢な奇襲作戦に打って出るという一種の博打をしかけたのは、山本が博打好きであったことからも説明できるのだろう。首相が短期間に何人も交代し、「無敗の帝国」との慢心のうちに取り返しのつかない戦争へと突っ走っていった当時の日本が、原発安全神話の上に胡坐をかき続けてきた日本の今の姿と重なって見える。

 ところで、劇場用パンフレットを読んでみたが、どこが「70年目の真実」なのかさっぱりわからなかった。真珠湾攻撃に関してはもはや「新説」は登場しないだろう。太平洋戦争勃発から70年を過ぎて、日本がどのように無謀な戦争に突入していったかを知る世代も完全に少数派となった。軍隊内部の確執として、また世論を煽った新聞界への批判を通して戦争を自己批判するのも一つの反省の方法として有効だろう。しかし、総力戦として日本が戦時体制に突入したその状況は、山本五十六一人を描けば事足りるわけではまったくない。と同時にまた矛盾するようだが、戊辰戦争で廃墟と化した郷里長岡の物語を聞いて育った山本が、戦争とともに個人史を重ねていく姿に、彼の非戦軍人としての原点があることも忘れたくない。彼は軍人であった。戦争を避けたい軍人、しかしひとたび戦火を交えるとなると軍人は戦をせねばならない。戦わない軍隊など実は存在しないのだ。自衛隊と称する軍隊も、いざ戦争になれば戦わねばならないだろう。どんなに平和を希求しても、軍隊が存在する限り平和は軍事力でしかもたらされない。その苦しい矛盾をどう止揚するのか。

140分、日本、2011

監督: 成島出、プロデューサー:小滝祥平、脚本: 長谷川康夫、飯田健三郎、音楽: 岩代太郎

出演: 役所広司、玉木宏、柄本明、柳葉敏郎、阿部寛、吉田栄作、椎名桔平、益岡徹、原田美枝子、香川照之

2012-01-29

ginyu2012-01-29

サラの鍵

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 「黄色い星の子供たち」と同じ題材なのに、深さがまるで違う。「サラの鍵」にはベンヤミンの歴史哲学が横たわっている。「黄色い星の子供たち」を見たときには感動したし、それなりの良品だとは思ったが、「サラの鍵」を見てしまうと、前者の平板な作りが目についてしかたがない。「黄色い星」は感情に訴える作品だが、「サラの鍵」は知性を刺激する。

 真実を知ることが人を不幸にすることは大いにありえる。それでもジャーナリスト歴史家は、払っても真実を暴こうとする宿痾に冒されているものなのだろうか。それがジャーナリストの性(さが)なのか。

 隠された記憶を暴き、過去の傷と向き合う。戦争犯罪と向き合うとは、そういうことなのだろう。そして戦争の記憶とは、決して戦場の記憶だけには限らない。戦争加害の意味もまた、誰かを肉体的に殺傷したということだけにはとどまらない。戦時下にあっては、多くの人が多かれ少なかれ戦争犯罪に加担、あるいは黙認した。この映画は、記憶の奥深くにしまい込まれた真実を暴き、そのことによって傷つきながらもそこからしか人々は未来に向かって歩み出せない、その苦しみと希望を描く。


 1942年7月パリのユダヤ人狩り。それはフランス警察が行ったことだった。ナチスの要請に対し、その要請を上回る残酷さを以てフランス政府は応えた。子どもを含む13000人が逮捕され、数日間をヴェル・ディヴ(冬期競輪場)に閉じ込められて劣悪な環境で過ごし、その後、パリ郊外の収容所を経てアウシュヴィッツへと送られた。生き残ったのはわずか400人と言われている。

 物語はその7月16日、パリのアパートの一室から始まる。幼い姉弟は早朝にドアを乱暴に叩く音で飛び起きた。ユダヤ人一斉検挙の朝、とっさに10歳の姉サラは4歳の弟ミシェルを秘密の納戸に隠した。「必ず迎えに来るから、出ちゃだめよ」と鍵をかけて。すぐに戻ってくるつもりだった。すぐに戻って来られるはずだったのだ。だがしかし…。

 そして場面は2009年へ。パリ在住のアメリカ人ジャーナリスト、ジュリアがヴェルディブ事件について記事を書くこととなる。偶然にも、夫の祖母から譲られたアパートにベル・ディヴ事件の被害者一家が住んでいた事を知り、何が起きたのか、真実を知ろうとする。だが彼女の真実への旅は、夫一家の「罪」を問うことになるかもしれぬ苦悩への始まりだった…。

 1942年と現在とを往還する物語は、舞台をパリ、ニューヨーク、イタリアと大きく移動し、ミステリー仕立ての展開が観客をぐいぐい引き込んでいく。

 本作は、国民的な「記憶喪失」に抗う試みであると共に、戦後世代にとっての新たな事実との出会いを模索するものである。無知は罪なのだ、とジュリアは思う。知らなかったこと、知らされなかったこと、それを暴き、真実へとたどりつきたい。だがそれは決して過去の罪を糾弾するためではない。

 本作を見ると、映画「愛を読む人」で戦犯裁判被告となったハンナが、裁判長に「あなたならどうしましたか?」と尋ねた場面を思い出す。「サラの鍵」には、今を生きる人々が高見に立って過去を断罪するのではなく、現在をそして未来をどう生きるのかを我が身に翻って考え直させる再帰性(反省的知性)がある。それがまさにユダヤ人哲学者ベンヤミンの歴史哲学テーゼであった。

 過去に囚われた女性の生き方そのものが変わってしまう、それほどまでに過去の記憶は亡霊のようにジュリアの前に突然現れ、彼女をわしづかみにした。しかし、亡霊は決して彼女を不幸にしたわけではない。

 ラストシーン、わたしたちは記憶が語りつがれ希望へと変わる瞬間に立ち会うだろう。心震えるその場面をぜひ劇場で。

「希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている」(W.ベンヤミン)。

(試写会で鑑賞。機関紙編集者クラブ(http://club2010.sakura.ne.jp/index.html)の『編集サービス』誌のために書いたものに加筆しました)

ELLE S'APPELAIT SARAH

111分、フランス、2010

監督・脚本: ジル・パケ=ブランネール、製作: ステファーヌ・マルシル、製作総指揮: ガエタン・ルソー、原作: タチアナ・ド・ロネ、共同脚本: セルジュ・ジョンクール、音楽: マックス・リヒター

出演: クリスティン・スコット・トーマス、メリュジーヌ・マヤンス、ニエル・アレストリュプ、エイダン・クイン、フレデリック・ピエロ、ミシェル・デュショーソワ

 映画鑑賞後に原作を読んだ。映画は原作のよさを余すところ無く映像にした素晴らしい作品であることを今さらにながらに確認できた。と同時に、原作は映画が掬い取れなかった部分、とりわけジュリアの心の襞をすみずみまで描いて、中高年女性には胸に迫るものがある。映画よりもいっそう、ジュリアの内面が細かく描写されているので、夫婦の危機や葛藤がよく理解できる。


 原作と映画の違いをいくつか挙げてみると、ジュリアの立場が原作と映画では逆。原作のジュリアは7.16のユダヤ人狩りを知らなかった。また、原作では弟ミシェルは自分の意志で納戸に隠れるが、映画ではサラが隠したことになっていて、いっそうサラの自責の念が強くなるように設定されている。さらに、原作では夫ベルトランが大変男前で魅力的に描かれていて、浮気もしている。映画ではあまり冴えない中年男。ベルトランの人物像がかなり異なるのは、映画の限られた上映時間にドラマを収めるため、極力人間関係をややこしくしないために刈り取ったのであろう。原作ではベルトランが皮肉屋のフランス人を代表し、その異質な部分にアメリカ人であるジュリアが我慢できなくなっていく経過が興味深い。夫と夫の家族への違和感、異文化への嫌悪が徐々に大きくなっていくジュリアの心理が他人事とは思えず、引き込まれていく。

 過去の記憶が亡霊のように突然襲いかかり、「現在の私」の生活を根こそぎ変えてしまう。物語のミステリアスな風味をいっそう高める、この「過去の力」が、原作ではいっそうリアルに描かれている。


 ここで忘れてならないのは、名前の持つ意味だ。名前の重要性、名の持つ力と言い換えてもいい。途中まで、サラの名前は小説の中に登場しない。やっとサラという名前が登場するとき、彼女は悲劇のユダヤ人としての生を歩み出す。サラという名前が旧約聖書に由来する、典型的なユダヤ名であることが大きな意味を持つので、これから本書を読む人は基礎知識として持っていてほしい。


 本書のテーマは決して目新しくない。だが、構成がすぐれているため、最後まで読ませる力のある作品だ。結末は映画を見て知っているというのに、やはり感動して泣いてしまった。


書誌情報

サラの鍵 / タチアナ・ド・ロネ著 ; 高見浩訳. 新潮社, 2010. (新潮クレスト・ブックス)

2012-01-15

ginyu2012-01-15

無言歌

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 今年初めての劇場映画がこれって、暗すぎたような…。


 1960年、中国はその名と裏腹の「大躍進」時代にあった。百家争鳴の自由な言論が赦された一時期、一転して毛沢東は「右派」を粛清し始めた(「百花斉放・百家争鳴」→「反右派闘争」)。この映画は、「右派」として断罪され、ゴビ砂漠の辺境の地で「労働改造」を強いられた知識人たちの苦難の物語。

 前半はほとんどドキュメンタリーフィルムかと思えるほどに淡々と退屈な映像が続く。退屈、と書いたが、描かれていることは目を覆いたくなる(実際に、ある場面では目をしっかりつぶっていた)壮絶な飢餓だ。

 チャン・イーモウの「活きる」(1994年)でもこの時代の悲劇は描かれていたが、「活きる」のようなわかりやすく情緒的な作風とはまったく異なり、乾ききった本作では悲劇の情景が棘を刺すような心の痛みを伴って「ただそこにある尊厳の破壊」として描き出される。クールな描写では、飢餓の悲惨さは伝えられるが、彼らがほとんど寝たきり状態なので、その凍てつく寒さや労働の過酷さが伝わりにくい。砂漠は美しく、その美しさと裏腹に人間はちっぽけな虫けらのように死んでいき、死体は仲間に食われる。

 彼らが虫けらのように思えるのは、その住まいが地下壕の穴倉だというのも一因だ。まるで蟻の巣のように、砂漠の乾いた土の下に掘られた細長い室(むろ)。寝床は土で出来ていて、ずらりと並んだ布団に包まったまま、一人また一人と死んでいく。

 大自然と人間の営みの矮小さとの落差が大きすぎて、さらに映像が語る状況も言語を絶しているため、これが政治の結果なのだ、という「悲劇性」が前面化しない。戦争による飢餓も強制収用所の飢餓も政治犯への弾圧もすべてがフラットに見えてしまう。悲劇の原因は様々であっても、現象面は同じ、ということなのだろう。いつの時代も、どんな国にあっても、人の命と尊厳を奪うのは、強制収用、強制労働、飢餓、病気…。

 極限の状況にあっても人は理性を保てるだろうか。愛を貫けるだろうか。映画は後半、ようやく動きをみせて、「ドラマ」らしきものが立ち上がる。絶望の中でも未来に賭けて脱走を試みる者達がいる。彼らに未来はあるのだろうか。死に瀕した師を見捨てることのできない若者は……。


 この映画が中国政府の許可を得て撮影されたものではないこと、したがって中国国内では上映できないこと、そのことだけでも、中国内の困難な状況が根本的には解決されていないことがわかる。

 あまりにも淡々とした映画なので、一切の感傷を寄せ付けない。最後に朗々と謳われる悲歌「蘇武牧羊」すら「悲しい」というよりは「寒々しい」。

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夾辺溝

THE DITCH

109分、香港/フランス/ベルギー、2010

監督: ワン・ビン王兵)、原作: ヤン・シエンホイ

出演: ルウ・イエ、ヤン・ハオユー、シュー・ツェンツー、リャン・レンジュン

2012-01-13

ginyu2012-01-13

クリスマス・ストーリー

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 スウェーデン人のベルイマン監督が好んで描きそうな題材を、フランス人監督が描くとなるほどこうなるのか、とその国民性の違いが歴然と現れて興味深い一作。もちろんこの二者の違いは個性の差なのだが、つい国民性かと思いたくなる。


 家族どうしの憎悪ほどやっかいなものはない。血のつながりは否定しようもなく、互いの嫌悪を隠そうが言い募ろうが、「血」は間違いなく存在の上にのしかかる。


 ある一家の物語は、その長男の早すぎる死、わずか8歳(だったか?)での葬儀の場面から。白血病で逝った長男の不在の現前が一家の上には永遠の影を落とす。骨髄移植しか助かる道はなかったのに、家族の誰もがドナーとして適合しなかったのだ。

 やがて年が経ち、一家の母が息子と同じ白血病に罹っていることが判明する。母は既に60歳を過ぎているが、今なお美しい。クリスマスには息子や娘一家が孫を連れてやってくるのが楽しみなおばあちゃんだ。母=ジュノンは、一族全員の検査を求め、自分に骨髄液を提供してくれるドナーを探していた。見つかった適合者は2人。一人は心を病む17歳の孫、もう一人は互いに嫌いあう次男アンリだった。

 一族の要は母ジュノンで、彼女のあけすけな台詞が一家の複雑な人間関係を表している。「息子でも、嫌いな息子と好きな息子がいるのよ」。母と息子の嫌悪、姉と弟の憎悪、一族の中の秘められた恋、さまざまな人間模様がクリスマスを前後に一気に見えてくる。


 深刻な家族劇であるにもかかわらず映画のタッチは軽快であり、アニメを使った説明やら、登場人物が突然カメラ目線で独白する画面やらとさまざまな手法を使って「異化効果」に余念がない。


 母ジュノンを中心点に置いた群像劇は、それぞれの事情が軽やかに描かれる。長い間秘めた恋も、心を病む少年の苦しみも、ごった煮のモチーフとして配置されている。着地点はどうつけるのか、と心配になるような拡散的な物語には、ついに着地点らしきものが見当たらない。家族の憎悪が消えてみなの絆が強まり、めでたしめでたし、と単純なお話にならないところがおフランスの諧謔か。(レンタルDVD)

UN CONTE DE NOEL

150分、フランス、2008

監督: アルノー・デプレシャン、製作:パスカル・コシュトゥー、脚本:アルノー・デプレシャン、エマニュエルブルデュー、音楽: グレゴワール・エッツェル

出演: カトリーヌ・ドヌーヴ、ジャン=ポール・ルシヨン、アンヌ・コンシニマチュー・アマルリックメルヴィル・プポー、イポリット・ジラルド、エマニュエル・ドゥヴォスキアラ・マストロヤンニ

2012-01-07

ginyu2012-01-07

エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン

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 年末母子3本立ての3本目がこれ。


 スペインのバルセロナから高速道路に乗って車で2時間、カタルーニャ地方の海辺にある三ツ星レストランが席数45のエル・ブリである。エル・ブリのことはほとんど知らずにこの映画を見に行ったものだから、その辺鄙さにも驚いたし、毎年1年のうち半年は休業するという参勤交代の大名みたいなお気楽営業にもびっくり。さらに、休業中はお気楽どころか新しいメニューを開発するために厨房スタッフが缶詰になって研究に余念がないことにも驚き、何よりもその研究の過程がまるで理科の実験みたいなのに4度驚く。さらに、エル・ブリのオーナーシェフ、天才フェラン・アドリアが「客を驚かせろ。驚きのない料理はダメだ」と言い募るのを観て驚き、出来上がった料理を見て六度驚く。これだけ驚いたらさぞや疲れたろう、はい、その通り。途中、かなり寝てしまいましたよ。


 生唾ものの美味しそうな料理が出来上がる過程を楽しめるのだろうと思っていたら大間違いで、メニュー開発は食材を蒸したり真空パックにして汁を抽出したり粉砕したり、料理を作っているというよりも材料のカタログを作っているようで、まったく美味しそうに見えない。それどころか何を作っているのかもわからない。


 興味深かったのは、フェランが電子データを失くしたシェフをしかりつける場面。すべてのレシピがPCに画像とともにデータアップされているのだが、チーフシェフがそのデータを失くしてしまったのだ。紙媒体の記録は残してあるので困ることはない、と言うチーフを叱り付けてフェランが言う。「すべてのデータをPCに残せ。200もレシピがあるんだぞ。とても覚えられない。記録しろ、すべて記録しろ!」

 天才フェランにとって記録がいかに重要かがわかるエピソードだ。彼は自身の勘に頼って調理するのではなく科学的根拠に基づいて調理しているのではなかろうかと思わせる。だがこの映画にはほとんど解説的な文言が登場しないため、一つずつの場面の意味はいまいち判然としない。カメラはあくまでエル・ブリのスタッフの姿に密着し、彼らをクローズアップすることでエル・ブリの秘密に迫ろうとする。


 エル・ブリは2011年7月31日を以って閉店した。その突然の閉店公表に全世界が驚愕したというが、フェラン・アドリアはエル・ブリを料理研究財団へと作り変えるのだそうだ。何しろエル・ブリでは客一人あたり35皿の料理が提供される。コースの時間は4時間を超えるのだ。観ているだけで目が回りそうな忙しさなのだから、あれを何年も続けるのは疲れすぎるだろう。毎年すべてのメニューを一新し、二度同じ料理を食べることは誰にもできないという。45席しかないレストランの従業員は50人以上。客より多いというのがまたまた驚きだ。その厨房とホールのすべてを統括するのがフェラン・アドリア。


 エル・ブリの料理は前衛的すぎて、一瞥ではいったい何の料理なのか素材は何なのか、どんな味がするのかまったく想像がつかない。中には「あれは遠慮したい」と思うようなカクテルとか料理もある。まあ、40皿近く出てくるのだからいやなものは食べなくてもいいんだろうけど。

 フェランは日本の食材にいたく惹かれているようで、柚子をヨーロッパに広めたことはつとに有名だそうだ。あとは、オブラート。これを日本で知って薬を飲むのに使っているのを見たフェランは驚き、食材として使うことを思いつく。フェランの真似をする料理人たちがこぞってオブラートを使うことを覚え、今では成田空港の薬局には必ず大量のオブラートが置いてあって、ヨーロッパのシェフたちが買っていくとか。しかしあれは美味しそうに思えない。オブラートをレストランで出されてもねぇ…。


 氷とみかんの皿を見て、わたしとYは思わず「冷凍みかん!」とささやきあった。日本ではかつて、駅の売店には必ず置いてあった冷凍みかんとゆで卵が懐かしい。あれは旅の友として欠かせないものなのだ。やはりフェランはこれを日本で知ってさっそく取り入れたのだそうで。あとは、抹茶を茶せんで立てたり、やたら和のテイストが多いのには驚いた。


 フェランは飽くなき好奇心と探究心で次々と食の常識を破壊していった。常に革新を続けるフェランの姿に喝采を贈る人は多いだろう。確かに彼は天才なのだろうし、その独創性と努力にはただ脱帽するしかない。しかし、常に新しい驚きを、といい続けた日には終わり無き革新の無間地獄に陥るのではないか。

 常に新しいものを。常に、常に、驚きを、新しく、便利に、新機能、新機軸、新規開拓、新しく…。と言い続けるのは資本主義の論理そのものだ。常に新たな資本を投下し、利潤を回収し続けないと倒れてしまう自転車のような恐るべきシステム。そんなシステムにわたしたちは疲れているのではなかったのか。


 エル・ブリの革命的な料理はたぶん、一生に一度かせいぜい2度食べればもう充分なのだ。わたしは毎日梅干と味付け海苔を食べていたって飽きたりしないし、4回続けて同じ料理を食べても飽きない。日々の料理というのは革新することに眼目があるのではなく、日々変わらぬ美味しいものを心を込めて作り、感謝しつつ食することに意味があるではなかろうか。


 エル・ブリの料理は非日常の極みで、それはそれとしてその存在には意味があるだろうが、このような料理人の姿勢を手放しで礼賛することには違和感を覚える。

 長い伝統を守り、細やかに手の込んだ丁寧な作りで供される日本料理にわたしは一番惹かれる。創作しすぎの創作料理は疲れる。どんな味がするか想像もできないエル・ブリの料理を見ても食欲はそそられない。それよりも美味しそうなお好み焼きやたこ焼きのほうがよっぽどいいってもんです。

EL BULLI: COOKING IN PROGRESS

113分、ドイツ、2011

監督: ゲレオン・ヴェツェル

2012-01-06

ginyu2012-01-06

宇宙人ポール

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 年末母子3本立ての2本目。しかし、Yはこれを観ずに「ミラノ、愛に生きる」を観て、「期待外れ。普通の映画やった」とやや不満顔。わたしのほうは宇宙人のコメディを観て笑っていたが、途中少し寝てしまった。

 

 アメリカというところはUFOのメッカである。昔から、米軍が宇宙人を匿っているとか、空飛ぶ円盤が落ちてきたとか噂がたくさんあるのだが、なぜか円盤が着陸・墜落するのは砂漠の真ん中だったりする。なんで大都会の真ん中に落ちてこないのか、不思議でたまらない。

 しかし、そういう田舎に落ちてきた(らしい)おかげで、格好の観光スポットになっているのだ。嘘か真か、UFOオタク御用達ルートなるものがあって、わが主人公たちもイギリスからわざわざそのルートを旅するためにやってくる。

 イギリスからやって来た冴えない中年男二人組、イラストレーターのグレアムとSF作家クライブはクリンゴン語を話すほどのSFオタク。西海岸のサンディエゴで毎年行われるコミコンの会場にやってきて、大はしゃぎ。その後、キャンピングカーを借りて中西部を東に走る。エリア51という空軍基地の側を通り、UFO専用カフェ・モーテルに立ち寄る。これ、本当にあるらしいが、UFOマニアが集まる人気スポットだとか。ネバダ州の砂漠の中にポツンと建っているカフェだけれど、マニアには有名だという。

 で、このおとぼけ2人組は道中でエイリアンを拾うことになる。拾ったエイリアンは1947年宇宙船が墜落して米軍につかまっていたのだが、脱走してきたという。本人は客扱いされていたつもりが、実は監禁されていたということに気づいて逃げ出したのだが、アメリカ暮らしが長いものだから、すっかりアメリカナイズされてしまって、イギリス人であるグレアムたちのほうがよっぽどエイリアン(異国人)なのである。ポールと名乗る宇宙人は、故郷に帰るので、手助けしてほしいと二人に頼み込み、その横柄で厚かましい態度で二人の車に居座る。

 だが、そのポールを追って謎の捜査官達が車で近づいて来ていた。追いつ追われつのデッドヒートの上に、さらにキリスト教原理主義者が経営するモーテルに立ち寄ったのをきっかけに、ルースという少々薹(とう)の立った娘を誘拐する羽目になり、彼らの道行きはいっそうややこしいことになる…。



 笑いとカーチェイスと宇宙人と恋愛と、ごった煮のむちゃくちゃな話。面白いのは、ポールが長らくアメリカにいる間に様々な影響力をアメリカ文化に及ぼしていた、という「事実」。これ、割と衝撃的(笑劇的)なのでお楽しみ。

 全編、SF映画へのオマージュ満載なので、いくつ気づくかも楽しみの一つ。宇宙人が(見た目以外は)全然宇宙人らしくないというカルチャーショックや、SFオタク自虐ネタぶり、キリスト教原理主義への冷笑、最後にあっと驚く登場を果たす某俳優やら、笑いどころも満載。頭使わないで楽しめる映画なので、お奨め。こういう、異文化遭遇ものは面白いジャンル。イギリスから見たアメリカ人はエイリアンよりも異質である、という皮肉が込められていると読んだが、これはうがちすぎか。

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PAUL

104分、アメリカ、2010

監督・脚本: グレッグ・モットーラ、製作: ニラ・パークほか、製作総指揮: ライザ・チェイシンほか、音楽: デヴィッド・アーノルド

出演: サイモン・ペッグニック・フロストジェイソン・ベイトマン、クリステン・ウィグ、ビル・ヘイダー ハガード、シガーニー・ウィーヴァー

声の出演セス・ローゲン ポール

2012-01-05

ginyu2012-01-05

幕末太陽傳

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 長男Y(大学2年生)と一緒に年末に観た3本立てのうち、1本目はこれ。本当は「サルトルボーヴォワール」を加えた4本立ての予定だったのだが、母息子ともに寝過ごしたのであえなく断念。


 実にけたたましい映画だ。最初から最後まで突っ走り通し。主役フランキー堺はこのときまだ20代とはとても思えない中年ぶり。彼は病人の役なのに始終小気味よく動き回り、その早口のしゃべりと動きの敏捷さ軽やかさで、幕末の不穏な空気をもお笑いに変えて時代を疾走する。まさに、米軍占領から解き放たれた新生日本の息吹と全盛期にあった映画界の鼻息の荒さを象徴するかのような作品だ。


 時代劇なのに現代の(といっても昭和32年)品川の風景から始まる。今の人間の目から見ればこの現代の風景じたいが歴史遺産だから、珍しくて懐かしくてしょうがない。当時赤線地帯と呼ばれた品川の100年前は、北の吉原と並ぶ遊郭街だった。その品川宿にある相模屋という遊郭が物語の舞台。そして、ほとんど最後まで舞台はこの遊郭から外へ出ない。ほとんど室内劇であるにもかかわらず、テンポのよさと室内とはいえ高さを意識したカメラの動きゆえ、狭苦しさを感じさせない展開。

 ストーリーは江戸の落語をいくつも繋ぎ合わせたものというだけあって、登場人物はよくしゃべる。一つずつのエピソードに実にうまくオチがつけてあるので、そのたびに場内からは大きな笑い声が聞こえてくる。映画館の中でひたすら笑っていたのは中高年男性だったようだ。観客は圧倒的にお年寄りが多かったので、うちのYがおそらく最年少か。

 相模屋には高杉晋作ら長州藩士が長居をしている、という設定で、ここで様々に歴史的事件が起きるのである。高杉が作ったといわれている都都逸三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」も披露される。この高杉を石原裕次郎が演じているのだが、大根役者である。フランキー堺の天才ぶりと比較するのもおこがましいほど下手だ。

 この映画に登場する女性たちは皆強欲で、生への執着心が強く、女郎という境遇を逆手にとってのし上がろうという抜け目ない者たちばかり。それは戦後を逞しく生き抜いた昭和20年代の女たちの姿に重なるのだろう。主人公の居残り佐平次は正体不明の町人だが、異様に頭がよく機転が利き、知識も豊かである。胸の病を治すのが目的なのか、海沿いの品川宿に居座ることを決め込んでいる。この佐平次の咳が「太陽伝」という明るい映画に一点の不吉な翳りを落とす。死を背中に貼り付かせたような佐平次の明るさは、光と影が表裏一体のものとして作品に底流していることをチラリ、チラリと観客に思い出させる。

1957年という時代をうかがわせるような作風だといえば深読みしすぎか。


 圧巻のアクションシーンは、遊女二人の大立ち周り。殴る引っかく蹴りを入れる、ものすごい格闘にはただ唖然、役者がみな全力投球で動き回っていることがよくわかる、ハイテンションの映画だ。

 最後の最後、映画は遊郭を離れて、佐平次をも解き放つ。その疾走はいずこへ。いや実に面白かった。

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110分、日本、1957

監督: 川島雄三、製作: 山本武、脚本: 田中啓一、川島雄三、今村昌平、撮影: 高村倉太郎、音楽: 黛敏郎、助監督: 今村昌平

出演: フランキー堺、左幸子南田洋子、石原裕次郎、芦川いづみ市村俊幸金子信雄、山岡久乃、梅野泰靖岡田真澄菅井きん小沢昭一

2012-01-04

ginyu2012-01-04

トスカーナの贋作

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 『贋作』という新刊書を上梓した作家の講演会の場面から始まり、延々と堅苦しい講演を聞かされているのにもかかわらず、まったく飽きない。イギリス人作家ジェームズ・ミラーを演じたウィリアム・シメルの艶のある響く声、滑舌のよい英国アクセントにあっという間にわしづかみにされる。見るからに知的で、優しそうなハンサム、ナイスミドルの典型のようなウィリアム・シメルがこの作品の大きな魅力。何よりも声が素晴らしいと思っていたら、作品鑑賞後に見たメイキングで彼がオペラ歌手であることを知って合点がいった。


 舞台はイタリア、トスカーナの小さな町。英国人ジェームズが新刊の宣伝のために訪れた地で、骨董品店のフランス人女主人(ジュリエット・ビノシュ)と出会う、というだけのお話。彼女はジェームズの講演会を中座するという、まったく失礼千万な振る舞いなのに、その彼女からの誘いに応じてジェームズは彼女の店を訪れる。

 巻頭の講演会の場面の見事な演出、カメラの動きはまさに至極の名人芸。ここから最後まで、映画は台詞が延々と続く。しかも、ジェームズと彼女の会話だけでほぼ成り立っているという地味な作品なのに、見事なカメラによってまったく飽きない。それどころか、英語、仏語、イタリア語が飛び交う会話の中に込められた企みや感情が見事に露出・溶融して、観客を偽者と真実のあわいへと迷いこませていく、まことに心憎い作品である。


 二人はドライブしながら贋作について語り合う。そのフロントガラスには美しいトスカーナの風景が映りこみ、観客の目を奪う。

 ジェームズは言う、「すべてのものが贋作だ。「モナリザ」すらジョコンダ夫人のコピーだ。本物はジョコンダ本人だけだ」と。二人の知的な会話はすべて英語で。しかし、感情が高ぶるとフランス語が飛び出す。

 

 二人が立ち寄ったカフェで、店の女主人に夫婦に間違えられたのをきっかけに、二人は夫婦を演じるゲームを始める。結婚15年を迎えた夫婦。倦怠期にあり、「妻」は夫が仕事ばかりで夫婦らしさがないとなじる。それに応えて「夫」は「15年も経てば関係は変わるのだ。いつまでも同じわけにはいかない。だからといって愛していないわけではない」と言う。二人は激昂し、机を叩いて罵りあう。

 この偽の夫婦の会話があまりにもリアルで、観ているうちに「この二人は本物の夫婦じゃないのか」と思えてくる。最初から最後まで二人の関係は謎に包まれていて、ミステリアスだ。贋作について語る作家が偽の夫婦を演じるうちに、何が偽者なのかわからなくなる。観客はどこかの時点で映画に騙されていると気づくが、それがどこなのかわからない。そして、そもそも騙されているのかどうかもわからない。凡百のミステリーに勝る、なんという複雑怪奇で知的な企みに満ちた作品だろう。

 作家の前に登場したときから胸を大きくはだけたドレスで彼を誘惑する魂胆が見え見えの彼女に対して、ジェームズが躊躇いがちに距離を置く姿が微笑ましい。やがて二人はその距離を縮めていく。そして、午後9時の列車で帰国する作家のタイムリミットは近づく……。



 異国イタリアで出会ったフランス人とイギリス人、二人が知的な会話を交わす様子を長回しのカメラで追いかける展開は「恋人までの距離ディスタンス)」(1995年)のようであり、またその続編である「ビフォア・サンセット」(2004年)を思わせる。偽の夫婦を演じる男と女、という設定は「身も心も」(1997年)のようであり。これらの秀作にさらに加えるならば、本作はなんといってもウィリアム・シメルの魅力。彼が目の前に居てうっとりしない女性はいないだろう。これからはウィリアム命。

 それにしても、女は感情と欲望に素直で、男は尻込みし慎重になる。女は蠱惑的で男は論理的。女がフランス人で男が英国人だから、ということもあろうが、男女の見事なステレオタイプが描かれる。しかしこれが嫌味にならず、むしろどこか特別な人々という感じがした巻頭から、後半一気にどこにでもいる普通の中年夫婦になっていく様が見事だ。

 そして、この後半の展開を引っ張るのがジュリエット・ビノシュの演技。ウィリアム・シメルの魅力について語ったならば、ジュリエット・ビノシュの演技力についても語らねば。さすがにカンヌ映画祭女優賞を受賞した演技である。偽の夫婦を演じる女性を演じる、という複雑な演技を要求されるこの作品で、彼女は熱演している。熱演しすぎて、素人演技のはずの偽夫婦が迫真の夫婦喧嘩に変わっていく。だから観客は「この偽夫婦は本物の夫婦ではないか」と錯覚していく。映画はますます混迷を深め、ミステリアスな闇へと沈んでいく。ウィリアム・シメルの演技はあくまで「受け」であり、ジュリエットが演じる彼女の欲望に引きずられつつ魅惑されつつ現実を忘れられない忘れたくない戻らねばならない、という迷いを残す。それゆえまだ楽な演技かもしれないが、ビノシュの演技は「錯乱」一歩手前までの幻惑を秘めてエロスの世界へと男を蠱惑せねばならない。

 主役二人の会話でほとんどが成り立っているこのような作品において、誠に素晴らしい演技を見せてもらった。何度見直しても惹きこまれる。(DVD)

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CERTIFIED COPY

106分,フランス/イタリア,2010

監督・脚本:アッバス・キアロスタミ、製作:マラン・カルミッツほか、製作総指揮:ガエタノ・ダニエレ、撮影:ルカ・ビガッツィ

出演:ジュリエット・ビノシュ、ウィリアム・シメル、アドリアン・モア

2012-01-03

ginyu2012-01-03

蜂蜜

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これから暫くは年末にアップする時間がなかった作品を棚卸し。総ざらいして去年のベスト作品の感想を締めくくりたい。まずはユスフ三部作の最後の作品、「蜂蜜」。ベルリン国際映画祭金熊賞受賞作。

 深い森の木立に木漏れ陽が煌くオープニング、そのあまりの美しさにCGで描いたのではないかと思うほど。その後、最後までこの映画のあまりの映像の美しさと色の深さに胸を震わせながら鑑賞。

 CG疑惑が沸き起こるほどの巻頭の場面はどうやって撮ったのだろう。 

「卵」「ミルク」があまりにも退屈だったのでレンタルDVDをすぐ返却してしまったことを後悔。ユスフ三部作の1、2作が下敷きとなっていると思われる場面がいくつかあるので、やはり前作を見ていたほうが面白みが増したことだろう。第1作を見ている観客ならば、ユスフ少年が将来は成功した詩人になることを知っている。この三部作は時間を遡っていくため、最後の「蜂蜜」がユスフの子ども時代を描いている。


 「蜂蜜」でのユスフは6歳の、吃音のある少年。そのために教室では本をうまく読み上げられないが、ユスフの賢さを知っている教師は彼を目にかけようとする。

 ユスフの家は急坂に貼り付くように建っている養蜂兼業農家だ。彼の父は森へ蜂蜜を採集に行くことで生計を立てており、母は農作業と家事に勤しむ。ユスフ少年は父の手助けをしてよく働く。映画は淡々とユスフ一家の毎日の営みを描く。そこでは父子が自然に力を合わせて労働に精出す姿が描かれ、とても好ましい。児童労働禁止云々という言辞が無意味に思えるような勤労少年の姿だ。子どもはこのように親の手伝いをして大きくなるのだ。だからこそユスフは、父が蜂蜜を取りに行ったきり帰ってこないと、家を守る責任が自分にかかってくるのでは、とその責任を密かに引き受けるようになる。

 いや、そんなことは映画では一言も語られない。台詞はほとんどなく、ユスフの内面はなにも描かれない。にも関わらず、ユスフの不安や嫉妬や心配や憧れや責任感が画面からあふれ出て、手に取るように感じられ、痛々しいほどだ。よく学びよく働く少年は、さらによく母を支え、飲めないミルクも我慢して飲むようになり、一歩ずつ確実に成長していく。教室でのユスフ少年の孤独、自尊心、恥じらい、父と共に働く歓び、そのいずれもが言葉ではなく映像を通して直に観客に伝わってくる。


 少年の大きな瞳が不安にかられて潤んでゆく緊張感と喜びに輝く躍動感のどちらもが静かに静かに描かれていく、心が洗われるような秀作。映像の美しさにはただ嘆息。


 けなげで愛らしく、懸命に家を支えようと努力する賢く優しい少年の物語に弱い人には特にお奨め。(レンタルDVD)

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BAL

103分、トルコ/ドイツ、2010

監督・脚本: セミフ・カプランオール、共同脚本:オルチュン・コクサル

出演: ボラ・アルタシュ、エルダル・ベシクチオール、トゥリン・オゼン

2012-01-02

2011年のベスト

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 年末年始を39度近い高熱にうなされて過ごすという失態のため、年末に見た映画の感想をアップすることができませんでした。とりあえずは去年のベストを発表しておきます。こんなもの発表して何の役に立つのかと思いますが、知りたいとおっしゃってくださるありがたい友人たちがいるので、とりいそぎ新年の挨拶代わりに。

 昨年観た映画は、映画館で112本(試写会を含む)、DVDで50本、合計162本。

 で、ベスト10本は。

  1. サラの鍵 
  2. イリュージョニスト  
  3. ゴーストライター 
  4. トスカーナの贋作 (DVDで)
  5. ベニスに死す (午前十時の映画祭 間違い。リバイバル上映)
  6. 4デイズ
  7. 海炭市叙景     
  8. エンディング・ノート
  9. ソーシャルネットワーク 
  10. トイ・ストーリー2 (DVDで)

 作品の完成度から言えば、「ベニスに死す」「ゴーストライター」「トスカーナの贋作」がトップ。原作の良さが作品に反映したのは「サラの鍵」。被写体に共感したのが「エンディング・ノート」。テーマに惹かれるのが「4デイズ」。撮影に嘆息したのが「海炭市叙景」。総合的にうまい!と思わせる娯楽作が「ソーシャル・ネットワーク」。美しい映像、心の琴線に触れるお話は「イリュージョニスト」「トイ・ストーリー2」のアニメ2作。好きな作品はどれか、と尋ねられれば、「イリュージョニスト」「トイ・ストーリー」(全作)、「トスカーナの贋作」「サラの鍵」「愛する人」「RED レッド」「マネーボール」など。

 ベスト10には入らなかったけど、映像の美しさに見惚れたのが「蜂蜜」。地味な作品だけれど、お話ともども素晴らしかった。

 音楽の使い方のうまさに感動したのは「英国王のスピーチ」「ソーシャル・ネットワーク」「ソウル・キッチン」など。もともとミュージカルだから「サウンド・オブ・ミュージック」の楽曲が素晴らしいのは言うまでもない。

 あといろいろ言いたいことはあるが、語り始めると止まらないのでこの辺で。

 なお、「サラの鍵」は、機関紙編集者クラブの『編集サービス』誌の原稿のためにマスコミ試写で鑑賞したものなので、このブログへは同誌の了解を得て掲載します。


以下、感動した、心に残った作品を順不同に。

 

 こうやって見ると、午前十時の映画祭で観た映画には外れがない。やはり名作というのはいつ見ても感動するものである。これがきっかけになっているのか、最近、旧作のリバイバルがちょっとしたブームのように思う。手軽にDVDで観られる時代だからこそ大きなスクリーンで感動を新たにしたいもの。 

<2011年に観た全作品>

冷たい熱帯魚;卵;木洩れ日の家で;未来を生きる君たちへ;幕末太陽傳;僕がいない場所;蜂蜜;復讐捜査線;風と共に去りぬ;八日目の蝉;塔の上のラプンツェル;誰がため;大地のうた;大河のうた;大樹のうた;大鹿村騒動記;太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−孫文の義士団;素晴らしい一日戦場にかける橋;戦火のナージャ;川の底からこんにちは;赤い靴;生き残るための3つの取引世界侵略:ロサンゼルス決戦;人生万歳!;勝手にしやがれ;山猫;山川菊栄の思想と活動 姉妹たちよ、まずかく疑うことを習え;三池 終わらない炭鉱(やま)の物語;三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船;再会の食卓;月に囚われた男;義兄弟;奇跡;監督失格;甘い生活;完全なる報復;岳;海炭市叙景;黄色い星の子供たち;猿の惑星:創世記ジェネシス);英国王のスピーチ;宇宙人ポール;隠された日記 〜母たち、娘たち〜;異国の出来事;暗殺の森;愛する人;わたしを離さないで;リミット;リトル・ランボーズリアル・スティール;ラスト3デイズ 〜すべて彼女のために〜;ライフ ―いのちをつなぐ物語―;やさしい嘘と贈り物;ヤコブへの手紙;やがて来たる者へ;モンスター上司;モンスーン・ウェディング;モールス;みんな元気;ミルク;ミッションインポッシブル/ゴースト・プロトコル;ミッション:8ミニッツ;ミスター・ノーバディ;ミケランジェロの暗号;マネーボール;マイ・バック・ページ;ベニスに死す;ブンミおじさんの森;ブローン・アパート;ブルーバレンタイン;ブラック・スワン;プチ・ニコラ;ファンタスティック Mr.FOXヒトラーの審判 アイヒマン、最期の告白;ヒットマンズ・レクイエム;ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える;パレルモ・シューティング;バビロンの陽光;はなればなれに;ハウスメイドパイレーツ・オブ・カリビアン/生命(いのち)の泉;ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人;ノルウェイの森;ネスト;トロン;トランスフォーマー3 ダークサイド・ムーン;トスカーナの贋作;ドクトル・ジバゴ;トゥルー・グリット;トイ・ストーリー2;デザートフラワー;ツリー・オブ・ライフ;ツーリスト;チョイス!;タンタンの冒険 3D;ソフィアの夜明け;その街のこども;ソーシャル・ネットワーク;ソウル・キッチン;スリーデイズ;スモーク;ずっとあなたを愛してる;スカイライン 征服;シリアスマンジュリエットからの手紙;シベールの日曜日;シチリア!シチリア!;シザーハンズ;シェルブールの雨傘しあわせの雨傘;サラの鍵;さすらいの女神(ディーバ)たち;サウンド・オブ・ミュージック;ザ・ロード;ザ・ライト エクソシストの真実;ザ・ホークス ハワード・ヒューズを売った男;ザ・ファイター;ザ・タウン;ゴッドファーザー Part2;コクリコ坂から;ゴーストライター;ゴースト・ドッグクロッシングクリスマス・ストーリー;きみはペットキッズ・オールライトキス&キルカンパニー・メン The Company Men;カルテット!;エンディング・ノート;エル・ブリの秘密;エリックを探して;ウソから始まる恋と仕事の成功術 ;ウォール街ウォール・ストリート;ウォーリアー&ウルフ;ウェイクアップ!ネッド;イリュージョニスト;アンノウンアンチクライスト;アンストッパブル;アリス・クリードの失踪アジョシアジャストメント;SUPER 8/スーパーエイト;RED レッド;E.T.;BIUTIFUL ビューティフル;5デイズ;4月の涙;4デイズ; 武士道シックスティーン; 太陽に灼かれて;信さん・炭坑町のセレナーデ; 噂のモーガン夫妻; ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士パーマネント野ばら;トラブル・イン・ハリウッド; BOX 袴田事件 命とは ;1911

2011-12-26

ginyu2011-12-26

ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル

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 期待していたところは期待通り。期待していないところも期待通り(?)。


 劇場用パンフレットを見て、改めて前3作を振り返ってみた。ほとんど忘れているけれど、やはり最初のデパルマ監督作が印象深い。トム・クルーズが天井から吊り下げられるシーンの緊張感は歴代映画ベスト10に入るのではないか。今度のMI4でもこの場面にオマージュを捧げるような設定がある。

本作でのクライマックスはドバイの超高層ビルブルジュ・ハリファ=828メートルをトム・クルーズがぶら下がる一連のシークエンス。これ、ほんとうに本人が演じたらしいので、いったい保険金いくら掛けたんやろう、と余計なことが気になる。京都駅ビルのエスカレーターに乗るだけで足が震えるわたしのような人間には、あんなスタントを何億円積まれてもやる気は起きないが、トム・クルーズは自分でやってしまうのである。確かに超高層ビルを素手でよじ登るとか、ロープにぶら下がって人間振り子になって窓に突入するとか、見所満載なので、観客には面白いけど、やってるほうはほんとうに大変。撮影するのも大変。

 今回は、冒頭からのアクションシーンの連続、クライマックスのブルジュ・ハリファビルでのアクション、さらには砂嵐の中のカーチェイスなどなど、見所は満載で、最後の立体駐車場での立体パズルのような動きのある場面まで、アクションシーンについては文句なし。ただし、ストーリーはおざなりで、敵役の凄味やリアリティはほとんどない。どこかで見たことがあると思ったら、「ミレニアム」のミカエル・ニクヴィストが悪役の親玉ではないか。随分太ってしまって貫禄たっぷりであるが、敵としては物足りない。核テロリストという設定じたいは今やリアリティ満載かもしれないが、その目的や組織の実態など、ほとんど描写をすっ飛ばしているので、大人の知性に訴えるようなミステリアスな部分はない。

 要するにこの映画に何を期待するかによって評価は分かれるのだが、ひたすら派手で高さのあるアクションを見たい人には超お奨め。しかし、秘密兵器が次々繰り出されるところは007みたいだし、チームプレイの妙と頭脳を使ったIMFの働きが見たい人には不満だろう。わたしのように、アクションが連続すると退屈してしまう人間はつい途中で眠くなり…。少々寝てしまったではないか(~_~;)。

 トム・クルーズ演じるイーサン・ハントに妻がいることになっていたなんて、すっかり前作を忘れている。しかもその妻の話題が口の端に上るのだが、彼ら夫婦は既に一緒にいない。そのこともイーサンの表情の暗さの一因だろう。ま、最後にいろいろあるのでお楽しみ。トム・クルーズの「手裏剣ロボット走り」(勝手に命名)は笑える。そろそろアクションもしんどくなる歳なのによく鍛えています。

MISSION: IMPOSSIBLE - GHOST PROTOCOL

132分、アメリカ、2011

監督: ブラッド・バード、製作: トム・クルーズ、J・J・エイブラムス、ブライアン・バーク、脚本: ジョシュ・アッペルバウム、アンドレ・ネメック、クリストファー・マッカリー、音楽: マイケル・ジアッキノ

出演: トム・クルーズ、ジェレミー・レナーサイモン・ペッグポーラ・パットン、ミカエル・ニクヴィスト、ウラジミール・マシコフ、レア・セドゥー

2011-12-11

ginyu2011-12-11

1911

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 期待していなかった分、とても面白かった。大河ドラマの総集編みたいだとかいう批判も読んだが、どうしてどうして、わたしにとっては充分面白かった。それは、中国近現代史のおさらいとして。

 社会の教科書や中国史の本や当時の新聞記事など、とにかく文字ベースでしか知らなかった辛亥革命を映像で見られたことがなによりの成果。ここまですさまじい戦闘だったとは、これでは「プライベート・ライアン」ではないか。考えてみれば内戦であろうが国と国との戦いであろうが、命をやりとりしているのだから、前線は悲惨なことになっているのは間違いない。

 5回も孫文を演じているというウィンストン・チャオ、やっぱりそっくりなので感心してしまった。

 黄興の妻になった徐宗漢はたいそう美しい人だが、革命軍の中では要するに「ハウスキーパー」だったようだ。日本共産党のハウスキーパー問題もあったように、この頃の女性活動家は家事サービスと性サービス担当者であり、結局のところ、男たちの革命の銃後を守るしかなかった。この映画ではそういった存在に異議申し立てをすることもなく、自由と解放を謳った革命でも女性は解放されていないことを暗黙裡に物語っている。もっとも、それは製作者たちが意図しない物語であろうが。

 無私無欲の人として描かれている孫文の理想とした社会が果たして実現したのかどうか、最後は中華共和帝国万々歳の国策映画になってしまっているところが笑ってしまうが、今の人民中国も孫文の志を継いだ子孫という自負があるなら、きちんと直接選挙による国政選挙ぐらいはしてもいいんじゃなかろうかね。 

 ところで本作も図書館映画である。本の虫と呼ばれた孫文は亡命先のアメリカ(?)で図書館に通っている。閲覧席で朝食のトーストを齧りながら新聞を読んでいるシーンがあるが、閲覧席で飲食可能だったのだろうか。

 

辛亥革命

122分、中国、2011

総監督ジャッキー・チェン、監督:チャン・リー、脚本:ワン・シントン、チェン・バオグァン、音楽:ティン・ウェイ

出演:ジャッキー・チェン、リー・ビンビン、ウィンストン・チャオ、ジョアン・チェン、ジェイシー・チェン

2011-11-29

ginyu2011-11-29

暗殺・リトビネンコ事件

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大阪のW選挙が終わって考えることは「独裁者とその腰巾着」。独裁者の名前はすっと出てくるのだが、腰巾着の名前がまったく思い出せない。それは大阪で言えば某維新の会代表と新大阪府知事某、といえるか。いま、ロシアの独裁者はプーチンで、その茶坊主は誰かという話は面白おかしく語れるかもしれないが、この映画に描かれたことが真実だとすれば、笑っていられるようなことではない。

 先日わたしの旧友がメールを送ってくれた言葉に、次のようなものがあった。

「日本人って「独裁」でも強く引っ張っていってくれる人が好きなんでしょうか? 私はロシアがそうかなと思っていましたが」

 

 元ロシア連邦保安庁(FSB)中佐だったリトビネンコがプーチン大統領を批判してイギリスに亡命し、ロンドンで謎の放射性物質中毒死を遂げたことはそれほど旧聞には属さないだろう。当時からプーチンの差し金による暗殺だと言われていたが、実際はどうなのか? この映画を見ることで新しい驚愕の事実が現れるのだろうか。

 結論からいえば、この映画を見たところで、既視感の強い「事実」だけが露わになるのみだ。暗殺事件の謎に迫るというサスペンスはどこにもない。最初から犯人はプーチンに決まっていて、そのことを強く印象づけるための状況証拠を積み上げているに過ぎない。だから、「動かぬ証拠」によって積み上げられた<真実>はどこにも描かれていなかった。

 

 とはいえ、だからといってこの映画が見るに値しないかといえばそんなことはない。なるほど、官僚制秘密警察国家はこういうことをやるのか、という証言が次々と露わになる。しかし、「ロシアの成人男子の半分が服役経験を持つ」などという話は本当だろうか? もともとこの映画はリトビネンコが暗殺されるはるか前からネクラーソフ監督がインタビューを続けて蓄積してきた映像から成り立っている。そのインタビューでリトビネンコは正義感の強い愛国者として登場する。彼は正義感が強いからこそ、チェチェン戦争でテロ事件を捏造するFSBのやり方が許せなかったのだという。リトビネンコの一方的な証言・告発だけでは、政権を揺るがせる証拠能力に乏しいのではないか。現にプーチンはまんまと逃げおおせている。

 ソ連が崩壊した後のアノミー状況は各種の報道で知っていたが、本当だろうかと思われるような驚くべき証言がいくつもあった。曰く、ロシアの将校が兵士たちを「奴隷」としてチェチェンのマフィアに売り飛ばしたとか、一個連隊ごと売り飛ばされたとか、すべてが金がらみの話である。しかし、リトビネンコの証言を含めて、ほとんどの証言には証拠書類などが存在しない。唯一、食糧輸入に絡むプーチンの汚職については文書が提示されていた。

 この映画に登場するわたしと同い年の女性ジャーナリストアンナ・ポリトコフスカヤが印象深い。力強い言葉でプーチン批判を繰り広げる彼女は、後に暗殺された。美しく知的なアンナは、独立系新聞の記者だった。命の危険を顧みず、権力批判を繰り広げた彼女の勇気に感服する。

 最後に最も興味をそそられたのは、晩年にリトビネンコが亡命先のロンドンでイスラム教に改宗したという事実だ。ここをもっと掘り下げてもらいたかった。このことが何を意味するのか、この映画からはつかみにくい。

 ところで、ネクラーソフ監督はドイツ語フランス語・英語が話せるのか? だとしたらすごい。そうではなくて通訳が入っている部分を編集でカットしたのだとしたらその技術はさらにすごい。 (レンタルDVD)


暗殺・リトビネンコ事件(ケース)

REBELLION THE LITVINENKO CASE

110分、ロシア、2007

監督: アンドレイ・ネクラーソフ

2011-11-26

ginyu2011-11-26

山猫

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 午前十時の映画祭で。

 かつて退屈でたまらなかった舞踏会のシーンが今回はさらに引き伸ばされて延々1時間以上! しかし、サリーナ公爵の諦観と絶望を描くにはこれだけの長さが必要だったのだとつくづく思う。若い頃には理解できなかったことが今なら分かる。二十歳の頃に見たときはビスコンティの映画はどれもこれもが冗長でこってりと画面が重厚でゲップがでそうな感じがしたのだが、今見ると、その重厚さが好ましい。


 所詮、革命は下層民には不可能だ。いまだかつて下層民による窮貧革命など存在しただろうか? マルクスレーニンインテリゲンチャだった。レーニンの父は貴族に列せられている。サリーナ公爵は貴族でありながら、シチリア島の革命に心を馳せていた。しかも彼は革命後の腐敗もすべて見据えていた。何も変わらない。そう、何も変わらないのだ。



 1860年ガリバルディの赤シャツ党はシチリア島を占領する。サリーナ公爵の大事な甥っ子タンクレディ義勇兵に応募して、ガリバルディの軍隊で戦う。しかし、所詮タンクレディの目論みは立身出世でしかなかった。シチリアを支配してきた大貴族の一族として、タンクレディは叔父サリーナ公爵に実の息子以上に可愛がられている。彼は抜け目無く革命軍に参加し、ほとぼりが冷めると国軍の将校としてシチリアに戻ってくる。しかも、サリーナ公爵の娘(タンクレディの従姉妹)の愛を知りながら、絶世の美女を一目見るやたちまち恋に落ちる。絶世の美女は新興ブルジョアジーの一人娘、アンジェリカ

 

 野心に燃え、下心を持つ抜け目ない美青年タンクレディをアラン・ドロンが好演。美しくもどこか暗い影りを見せるキャラクターにぴったりだ。アラン・ドロンにはこういう癖のある役が似合う。所詮、正義の味方の明るさはない。サリーナ公爵を演じたバート・ランカスターは貫禄たっぷりで、惚れ惚れする。没落する貴族階級の行方を誰よりもよく自覚し、タンクレディを金持ちの娘と結婚させようとする狡猾さをもちながらも、その威厳にはひれ伏したくなるような重みがある。

 豪華絢爛の舞踏会の場面、延々と続くダンスパーティの倦怠には濃厚なクリーム入りのソースがたっぷりかかったフランス料理を食べた後のような胃もたれ感がある。

 その中にあって一人純白のドレスに身を包むアンジェリカの美しさは、彼女のあまり品のよろしくない振る舞いと相まって、独特の肉感をかもし出す。清楚なドレスに身を包みながら、妖艶だ。わたしにはクラウディア・カルディナーレよりもタンクレディの従姉妹のほうが美しいと思えるけど…。



 ビスコンティの計算しつくした美術の色使い、調度、カーテンの柄や食器、床のゴミにまでこだわった画作りにただため息。



 イタリアはこの後、農民運動と労働運動の台頭に拮抗すべくファシズムが沸き起こる。そのことを予感させるような暗いラストシーンだ。イタリアの中にあって飛び地のように存在するシチリア島、そのマージナルな存在に興味がそそられる。シチリアを舞台にした映画が多いのは、ここに複雑な歴史が存在し、ドラマを生みやすいからだろうか。

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IL GATTOPARDO

186分、イタリア/フランス、1963

監督:ルキノ・ヴィスコンティ、製作:ゴッフリード・ロンバルド、原作:ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーサ、脚本:スーゾ・チェッキ・ダミーコ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、エンリコ・メディオーリ、マッシモ・フランチオーザ、ルキノ・ヴィスコンティ、撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ、音楽:ニーノ・ロータ

出演:バート・ランカスター、アラン・ドロン、クラウディア・カルディナーレ、リナ・モレリ、パオロ・ストッパ、ジュリアーノ・ジェンマ、オッタヴィア・ピッコロ

2011-11-25

ginyu2011-11-25

ミッション:8ミニッツ ; 月に囚われた男

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 主人公も観客もいきなり不可解な事態の中に放り込まれる。疾走する列車の中でふと目覚めたコルター・スティーブンス大尉は、自分が別人の名前で呼ばれることに驚く。いったい何が起きたのか? 目の前の席に座っている魅力的な女性は自分の恋人なのか友人なのか? 全然知らない女なのに親しげに話しかけてくるではないか。そして事態はあっと驚く爆破事故へとつながり…。



 このオープニングは痛快。いきなり観客を謎の世界に巻き込んでいき、次々と謎を畳み掛けてくる。スティーブンス大尉はどうやら何かの大きな実験台にさせられているらしい。彼の任務は爆破犯を捜すこと。そのために彼に赦された時間は8分間。8分の間に列車爆破犯を見つけなければ、次の爆破テロを阻止できないのだ。



 なにやら異様な仕掛けがあるらしい、この8分間のミッション。ワクワクしながら見ているうちに、だんだんとSFパラレルワールドの話から恋愛ものへとシフトしていく。何度も同じ場面を繰り返し、そのつど少しずつ展開が変化していく。結果はいつも同じなのに、解釈が変わっていくという点が「羅生門」のようだが、そもそもなぜ大尉が他人の振りをして過去の出来事の中に入っていけるのか? その仕掛けが徐々に分かってくるのだが、わかってくると今度は「なぁんだ、変なお話」と納得いきかねるようになる。



 何よりも一番納得できなかったのは、ラスト。このタイムパラドクスはいけませんねぇ。これはどうやら元々の脚本にはなかったらしい。



 同じ場面を繰り返すという設定がなかなか興味深い。人は何度も何度も生き直すことができればいい、と願うものだろうが、実際には生きなおした結果は微妙に別の人生になってしまっている。しかも、この映画では場面を繰り返すごとに切なさが高まる。主人公をめぐる人間関係のドラマがきちんと書き込まれているからだ。スティーヴンス大尉を虜にしていくミシェル・モナハンの明るく屈託の無い表情も実にいいし、対してもう一人の女性、軍人であるヴェラ・ファーミガの演技も実に味わい深かった。苦悩の表情を浮かべるヴェラの演技力にも感心したが、彼女の声が実に魅力的なことに気がついた。落ち着いた低い声は無機質なようでいて、相手を安心させる力がある。



 ダンカン監督はデビュー作「月に囚われた男」のときと関心が変わっていないようだ。人間のアイデンティティや記憶に興味があってこのような映画を作るのだろう。テーマは珍しくもないけれど、設定が斬新でかなり面白かった。ただ、巻頭の興奮が徐々に薄れていき、最後は疑問符がつく終わり方になるのは残念。



 この映画を見ていると、テロを防止するためには被疑者人権などまったくお構いなし、という状況があながち絵空事とは思えない。むしろ、映画を見ているうちにこちらまでついつい、「そいつが怪しい、しょっ引けばいい」と安易な気持ちに傾いてきて、怖くなる。

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 というわけで、ついでなのでダンカン監督のデビュー作「月に囚われた男」についても。上記「ミッション:8ミニッツ」で興味がわいたダンカン監督はデビッド・ボウイの息子なのだというではないか、驚いた。


★月に囚われた男

 お前の代わりなんていくらでもいるんだよ!と言われて首を切られる労働者がこの国でも後を絶たない。「私のかけがえのなさ」は誰が、何が、担保してくれるのだろう? そんな、近代人の叫びを描いた物語は珍しくはない。テーマは決して目新しくはないのだが、その切なさが胸に沁みる。

 物語の舞台は近未来。3年契約の掘削作業に従事するため、たったひとりで月へと旅立った作業員が遭遇する不可解な事故の数々。彼は孤独と引き換えに賃金を得ることになるが、地球に残した妻との連絡も機械の故障で成り立たなくなり、孤絶感を高めていた。そんな月面作業も間もなく終わろうとしていたとき、彼は事故を起こしてしまう。意識が戻ったときに彼が目にしたものは、自分そっくりの別の作業員の姿だった…。

 全編「2001年宇宙の旅」にオマージュを捧げたような美術(白い宇宙船!)には、ダンカン・ジョーンズ監督の趣味がよく現れている。静かに進む物語。自分が何者なのかわからなくなる不安と恐怖。誰もが胸を締め付けられるような思いに囚われるのではなかろうか。小品だが、佳作。(レンタルDVD)

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MOON

97分、イギリス、2009

監督: ダンカン・ジョーンズ、製作: スチュアート・フェネガン、トルーディ・スタイラー、脚本: ネイサン・パーカー、音楽:クリント・マンセル

出演:サム・ロックウェル、ドミニク・マケリゴット、カヤ・スコデラーリオ、