銃の国からやってきた

銃の国からやってきた
アイアン・ジャイアント』を見ねば、観ねば、と思いつつスルーしていたのですが、せっかくの正月休みだったので思い切って観た。99年の作品だから15年越しに宿題を一つ片づけたことになる。
一言でいうと兵器が自我を持った瞬間、兵器である事を止める映画。

時代設定がよい。
57年なので55年に結成されたワルシャワ条約機構の二年後という設定なので、核やいわゆる「知らない誰か」に対する恐怖感に説得力がマシマシ。
ついでに冒頭、宇宙空間でスプートニクが地球を横切っていくけど(スプートニク計画は57年開始)これもよい。スプートニク計画は元々弾道ミサイル打ち上げ用に開発されたんだけど、これが宇宙からやってくるアイアン・ジャイアントの存在と見事にダブる。一方で開発者や(政治的存在を除く)関係者は無邪気な宇宙への憧憬や畏怖の念から衛星打ち上げ計画を運用したはずで、これもやはり宇宙からやってくるアイアン・ジャイアントの存在と見事にかぶる。
深読みしすぎかも知らんけど、時期的にこんなにバッチリ合ってるんだから、そら考察もしたくなりますわ。
設定の時点でこの映画は勝っている。
ストーリーも映像もえらく骨太で狭窄物がなく、頭に入って綺麗に記憶に残る。無駄がないので腐りにくいんですな。この脚本ってものすごい理想的な脚本のひとつなのではないかしら。これは短編にも出来るくらい。
自我を獲得した瞬間に死なねばならぬアイアン・ジャイアントに涙するも、最後まで観てるとオマケもあるし、こりゃ新年にいいものを観たなあ。

トニー・ジャー!弐
ぼくの頭のなかでは『マッハ!』も『トム・ヤン・クン!』も区別がついていない。ああー、トニー・ジャーがパンツ一丁で敵をぶん殴っている、とだけしか認識できない。なのでぼくの中ではこの両者は同一のもので主人公は別々ではなく、トニー・ジャートニー・ジャーが色んな世界線で活躍しているのだ!
そんなジャーの『マッハ!弐』を観る。
製作者(ジャー)が稚拙な妄想を身体を張って全力で体現した結果、本来想定していたもの以外の何かが画面から放出されている。受け手も期待していたものとは違うものを受信してしまい、圧倒されるという得体の知れない映画に仕上がっている。この作品は武闘派映画の様式美コテコテであり、それらの再確認作業をするだけの映画なのにもかかわらず、一部で観客の認識を大きく上回ってしまう。

幼いトニー・ジャーは村を突然襲った敵国の捕虜になり、殺されかけたところを謎の武闘集団に助けられる。集団の長に才能を見込まれたジャーは武闘集団の村で復讐の修行をするのだが、その村がすごい。
トムクルの『ラスト・サムライ』のケン・ワタナベ村のように自給自足している雰囲気なのだが、この村にはムエタイ功夫の使い手はもちろんのこと、中東のアサシンや酔拳の使い手、ついでに日本の居合剣士など、世界中の武術家が勢ぞろいしているのだ! 中東のアサシンはターバン巻いてるし、日本の剣士はちゃんと着物来て虚無僧の恰好してるよ。この村でトニー・ジャーは育てられ、結果として世界のあらゆる武術をマスターするのだ!

ストーリーは極めてシンプル。前半、修行パート、中盤、回想パート、終盤、復讐パートの三種類。これだけ!

今回もスタントマンなし。ジャーがムエタイの膝蹴りをかまし、敵をフッ飛ばす。するとその先にはグラグラと煮え立ぎっている巨大な鍋が! 修行の為に爆走する象の群れの背中を駆けまわえるジャー。この辺でぼくは「あれ? 俺は『トム・ヤン・クン!』観てるのか?」と錯覚に陥りました。

概要だけかいつまんで説明するとバカ映画でかつ、制作時のジャーの我儘っぷりがなにかと取り沙汰される作品なのだが、百分間、一切飽きることなく観られるのは評価されてもいいと思う。これってすごく難しい事だと思う。少なくともジャーは映画の作り方を知っている。

逆襲のシャア
レコンギスタやってるし、昔だったら正月の朝くらいには『F91』か『逆襲のシャア』を地方局が流してくれていたのだが、今年はなかったので自発的にやった。
冨野らしく、アニメの様式美を保ちつつも一言で説明できない作品。「シャアってガキね〜」で済むといえばそうなのだが、細部に手が行き届いていますわ。


日常系もしくは新ジャンルか? これ?
桜Trick』をぼちぼち消化。これ日常系? いや、原作は読んでます。しかし、百合クラスタのぼくからしたらこれは百合作品以外のなにものでもないのですが、ネットでは所々、この作品を「日常系」「新ジャンル」扱いしようとして悩んでいる発言が散見されます。
多分、この作品の外見にダマされて「日常系」枠に突っ込もうとすると、確実にカテゴリーエラーを起こして「好みの日常系じゃない」とか「適当な要素をかいつまんで適当な新ジャンルをデッチあげ、そのなかで扱う」みたいな結果になってしまうと思うので、慌てず騒がず、百合という扱いでいいんじゃないですか。だって百合にカチッとハマる作品なんだもの。『マリみて』みたいな過剰な演出はないけど(その辺に「日常系」と言われてしまう原因がありそう。あと異性愛者が観ても、不快に感じる要素をかなり排除している。共学とかね。男性視聴へのアピールもすごいし。『きらら』掲載というのも大きいと思う。『きらら』は『恋愛ラボ』アニメ化の時もそのステロから百合とヘテロの区別がつかなくなり、まとめサイトの後押しを受けて(とほほ)一部のユーザーが勝手に炎上した。「『桜Trick』は「日常系」か「そこから派生した新しい何か」発言もその現象に似ている)。

事あるごとに女の子同士がくっついたり、ラッキースケベではなく能動的にキスしたりで、お互いに気分が高揚してディープキスに移行する描写って日常系とは言わないでしょう。普通に考えて。そりゃ、百合、もしくはズカっと言うとレズビアンでしょう。百合っていう意見ももちろんあって、ぼくもそりゃそうですよね、と思います。

質問:
日常を謳歌している女子高生達が同性に明確な恋愛感情を抱いており、作品上でも表明しています。過剰なスキンシップやディープキス、それらによって少女達が性的興奮を催す描写が頻繁に挿入されます。作品自体も女性同性愛者の心理描写に全体の八割近くを費やしています。

注)製作サイドはこの作品を宣伝する際に「百合」や「レズビアン」とカテゴライズしたりアナウンスしていません。

これは日常系アニメですか? それとも新しいジャンルのアニメでしょうか? もしくは百合でしょうか? ひょっとしてレズビアン


今回の艦これ!
アニメ。長門が指揮とってて、むっちゃんが秘書官ポジションなのか! もしくはハマーン・カーンが提督。

旅行
和歌山旅行からは旅行に行っていないのだが、とりあえずまた広島あたりに旅行に行きたくなってきた。瀬戸内海。何故そんなに広島の瀬戸内海にこだわるのかといえば、それまでにも親に連れられて旅行には行ったことはあるものの、最初に自発的につーか、イチからジュウまで全部自分で手配して行った最初の旅行が広島-鳥取旅行であり、また旅程も夏の海岸線地方と滅茶苦茶好条件だった為に、あの旅行は出発から高速、目的地、ホテル、旅館、料理となにからなにまで最高に美しく、いまでも思い出す面白さだったのだ。仕事が異常につまらかったので、その辺もあるかもしれない。
という訳でぼくの趣味に旅行が加わったのはあの時の広島-鳥取旅行の楽しさをもう一度味わいたいが為にやっているようなものなのだ。
旅行に限らず読書、映画、アニメ、音楽と最初あたりに遭遇したものが非常に面白かった為に、あの瞬間をもう一度味わいたくて何度もやっているようなもの。しかし残念ながらいまとなっては面白かったのはなんの本なのか、どんな映画だったのか、誰の音楽だったのか、思い出すことは出来ない。
なので忘れないうちに書いておく。ぼくの旅行原体験は広島の瀬戸内海と鳥取日本海である。

百合の原体験
といえばまず間違いなく『マリみて』なのだが、よくよく思い返すと決定的な打撃を受けたのはそれ以前の紺野キタである。百合っていうよりはレズの特性ついたのは『少女セクト』だな。当時は紺野キタの諸作品や、あと竹本泉の過去作を古本屋で発掘するだけで結構満足だったので、2chに百合スレが立って「このライトノベル作品には仲のいい女の子同士が手を繋いでいる描写があって……」とかいう情報のシェアには、あんまり反応しなかったというか、そこまで飢えている感じはなかった。この辺に年季の入った百合オタ、つまり腐女子への劣等感は感じますかね。純粋に彼女らとは決定的に対等になれないっていうのは根底にありますよ。何時まで経っても百合に関しては後輩の気分ですかね。先輩。