英語圏での面白いポルノ(の目的で書かれた)小説に出会った事が無い。やたらfuckやcunt、cockなどのスウェア・ワードを乱用しているだけという印象である。あと、スパンキング(尻叩き)が多い。
Fuckという言葉は日常に溢れ返っているけれど、本来の意味合い、性交場面で使われる事で、その言葉に魂が宿るのであろうか。それは日本語でも同じ。乳幼児への授乳システムとして「おっぱい、おっぱい」と言うのと、愛撫を受けながら、その言葉を言わされるのでは、同じ響きでも全くテクスチャアが異なる。
私は罵倒の言葉としてのfuckを滅多に口にしない。非英語圏の人間が使うと、まるで覚えたての、大人がいい顔をしない言葉を連呼する子供のように滑稽だから。言葉と感情が繋がっていないのだ。その言葉を発するまでの感情的なプロセスが、その言葉を母国語として育った人間とは全く違う。なので日本人がセックスをしながら英語でcock、pussy言って自分を辱めようとしても、興奮するものではない。エキシビションだのアルジブラと言っているのと、感情的には大差ない。禁欲の敬虔さと劣情の深さは同胞である。子供の頃から禁じられられて来た言葉のほうが、引火性が高い。
官能小説がツマラナイという話を友達としていたら、ヴィクトリア時代の秘本を勧められたが、結局スパンキングばっかり。尻叩きへのロマンスは、宗教的な性への抑圧と何か関係があるのだろうか。公共の場で女性は脚を見せるのを禁じられていた時代に、ドレスやらペチコートやらを何枚も捲り上げて施す体罰は、屈辱と服従の象徴であり、権力のへの(女性側からの)憧憬だったのかもしれない。欲望にも当時のドレスのようなレイヤーが存在し、今でも西洋人の暗部に根深く宿っているということなのか。尻叩きにはサッパリ興味が無い私にはわからない世界だ。
"Everyone should have K."
若かりし日、新婚時代に仲間と一緒にピクニックに行ったときに、無邪気に遊ぶ私(K)の姿を見て、ある友達が夫に呟いた言葉だそうだ。恐らく人生に於いて、私が言われた最高の褒め言葉である。
その友人は数年後、帰らぬ人となった。テレビとビデオが付きっぱなしの居間で、口にオレンジを銜え、首をネクタイで中途半端に括った状態で発見されたそうだ。他殺の可能性もあるとみて捜査されたが、結局「事故死」と判断された。そんな死に方、フィクションの世界でしか起こらないと思っていたので、私達はたいそう衝撃を受けた。
その言葉を口にしたとき、彼は私を欲しかったのだろうか。もし彼も私を持っていたら、このような人生の終わり方をしなかったのだろうか。
カウンセリングなるものを二回受けた事がある。寝椅子に横たわり、なんてことはしない。基本的に自分から喋るように誘導され、喋っているうちに、視線の位置を調節。そのうち「ああ、こうしたら一寸楽になるかもしれない」と出口をまさぐり始める。
ここに戯れ言を書き始めたのも、セラピューティックな目的がある。カウンセリングではノートをとるように勧められた。不安が襲いかかってきたら、その時の主観的「心情」と、かなり頑張って客観的「事実」を考え、並べてメモする。そこらへんの辻褄の合わなさを考えるチャンスを自分に与えるのだ。
吐き出した言葉を自分で客観的に反芻し、浄化していく。そんな感じの事をここでは書いて行きたい。別に愚痴るのではなく、頭の中を整理する為に馬鹿げた言葉を並べ繋いでいくだけだが。
私は言葉が異常に好きだ。英語も面白い。日本語は英語より遥かに表現豊かだ、なとど知った風な口きく輩も居るが、もーちょっと英語を勉強してから言えよな、と思う。そもそも言語の甲乙を比較するなど意味が無い。言葉はそれぞれの土壌で培われ、熟成したもの。文化であり、魂である。そこらへんの背景を無視して単なるツールとして使おうとするから、訳のわからない事になるのだ。
いくら英語に全身浸かった生活をしていても、やはり私には日本語のほうが心に響き易い。私は言葉を聞きながらでないと、なかなか到達できない性癖があるのだが、日本語で囁かれたほうが遥かに効果的である。相手の発音が可笑しくて、笑ってしまいフリダシに戻ることもあるけれど。相手に変な日本語ばかり覚えさせて、いざ家族に会う時など口を滑らせないかとハラハラしたり。
言葉はセックスに似ている。時として絶望的に人を退屈させ、時として救いがたく人を魅了し、時として絶対的に人を支配する。上手い事を言っているようで過去の他人の言葉を焼き直しているような薄っぺらい人より、言葉は少なくても的確にツボを突いてくる人のほうが魅力的だ。体は老い衰えようと、言葉は一生、魂に官能を与え続ける。
数日振りに朝まで通して眠った。前日がほぼ徹夜だっただめ、10時間死んだように眠る。お前は乳飲み子か、と言うくらい夜中に頻繁に目を覚ます日が続き、疲労気味だった。私には甘い乳をくれる母的な慰めは無い。
日本に行き、帰ってくる度に私は軽く精神を患う。自己の同一性を失い、バランスを壊す。何故私は、ここに居るのか。失ったものと得たもの。どちらが重要なのだ。私は、私は…。
日本に居る間、プラットホームで電車を待つのが怖かった。誰かが目の前で身を投げるのではないかと。夢に何度も出てきては私を揺り起こす、あのむごたらしい風景。
朝食をとるのも久しぶりであった。シリアルに牛乳をかけたもの。食べる行為とは、こんなに退屈なものであったのか。「うしのちち、うしのちち」とリズミカルに頭の中で唱えながら、普段の10倍くらい噛みしだき、観念して飲み込む。
性的に興奮していると、食欲が無くなるんですってね、と乳首を摘んでみるが不快に痛いだけだ。
今年に入って、ベルトの穴が2つ縮んだ。もうすぐ3つ目になる。何もしていないのに。ジーンズを買替えて間もないので、ユルユルになっても騙し騙し履いているが、庭で洗濯物を干しているとき、ストンと足首まで落ちてしまった。その滑稽さが愛おしく、すこしそのままでいた。指輪もクルクル回る。小林晃の脂ぎった顔が頭に浮かぶ。痩せるのが嬉しく無いといえば嘘になるが、これは異常だ。病気なのだろうか。
朝食後、洗面所の鏡をみて「醜い顔」と思う。腫れた瞼、赤い眼球、目の下の隈、不透明な肌、伸び切った眉。普段ならイラッとくるところ、客観的に「醜い顔だなぁ」と暫し見つめる。が、眼球の奥の辺りが痛い。10時間も寝たのに。
仕事中、口がやたらに乾く。どうやら脱水症状気味のようだ。侮れないな、泪。
一人になりたい時に限って、夫は不必要に優しい。私が萎れてベッドに横たわっていると、足をマッサージしてくる。体を触られたくないのは、私が心を閉ざしているからであって、拒絶する訳にもいかず、好きにさせる。でも揉みながら喋るのに夢中になるものだから、お押す指に力が入らず。溜息が出るのは、気持ちが良いからではない。
その癖、私が喋りだすと眠くなり、話の途中で寝て仕舞う。何だろう。私は何かマヌーサ的なガスを口から吐くのであろうか。それとも、耐え難く退屈な女なのか。