ドン・ウィンズロウ東江一紀訳『犬の力』

メキシコの麻薬撲滅に取り憑かれたDEAの捜査官アート・ケラー。叔父が築くラテンアメリカの麻薬カルテルの後継バレーラ兄弟。高級娼婦への道を歩む美貌の不良学生ノーラに、やがて無慈悲な殺し屋となるヘルズ・キッチン育ちの若者カラン。彼らが好むと好まざるとにかかわらず放りこまれるのは、30年に及ぶ壮絶な麻薬戦争。米国政府、麻薬カルテル、マフィアら様々な組織の思惑が交錯し、物語は疾走を始める。

 というあらすじの2010年版「このミステリーがすごい!」海外編第一位獲得作品。本編574+467頁の大長編。神業めいた軽快さで長さを感じることなく読み終える。「疾走を始める」という惹句は本物。あらすじを見ると、なんとなーく重苦しい話に思えるんだけれども、重さやべたつきは一切ない。実に湿度の低い爽快な暑さが漲っている。たまに顔を出すラモスというキャラクターが実にいかした奴で、銃を片手に手荒な捜査を繰り広げるのだが、頭の中で再生されていたのは、バックス・バニーみたいな動きをするおっさんのアニメキャラだった。あとパラーダという神父もよかったなあ。この1000頁は長くないので、ぜひともみんなが読むといいなと思う。
 ストーリーの核になるのは、アートとアダンの出会いから最後の対決までの物語。メキシコのボクシングジムで知り合ったふたりは友情を育み、やがてそれが憎悪へと変じて、互いを叩きのめすための終わらない戦いに身を投じていく。友人同士がやがて敵になり殺し合うというストーリーを聞くと、俺は必ず『アドルフに告ぐ』を思い出しちゃうのだけれど、さっきも言ったようにこの作品にはあのような重さは皆無だ。ひたすたひたすらに戦い続けていく。
 個人的にはこの作品は「文章で描くジャンプ漫画」(ただし往年の。最近のジャンプ漫画イメージがないので一応付け足し。)だと思った。ドラゴンボールを探せでも、トーナメントを勝ち上がれでもいいが、大体の場合それはバトルシーンを描くための設定に過ぎなくて、見せたいのは戦いの場面であり、その部分のテンションが非常に高い、というのが、俺の持っているジャンプ漫画のイメージだ。『犬の力』にとっては、そのドラゴンボールが麻薬撲滅になる。いくつものミッションといくつものピンチといくつもの銃撃戦といくつもの陰謀が世界を舞台に続いていく。戦いのパノラマだ。読者はひとつの質問だけをずっとし続けることになる。「それでどうなるの?」どうなるかは解ってもなお戦いは続く。それで、すぐにまた同じことを訊ねるはめになる。「それでどうなるの?」。まさに子供のときのジャンプ体験の再来だ。下巻のあらすじ紹介にある「希代の物語作家ウィンズロウ、面目躍如の傑作長篇」という煽りは本当だった。こいつは物語を読む楽しみの一番根源的なところをばっちり刺激してくれる。下巻の400頁を過ぎて「ああ、もうすぐ終わっちゃう」なんて思ったのは、初めてかもしれない。いやあ、面白かった!

 ……ただね、たったひとつだけ問題を感じた。『このミステリーがすごい!』 一位作品でありながら、ちっともミステリーじゃないと思うんだよね、これ。面白いからいいじゃんと言われれば「そうだねえ」で済ましちゃうところではあるけれど、「ミステリーか面倒くさそうだ」と敬遠されたらもったいないな。頭なんか一度も使わずに読める作品なんだよなあと、読みながら何度か思った。出版社も悩んだ挙げ句にミステリーに振り分けたんだろうとは思うんだけども、ミステリー紹介本のランキング1位になったり、翻訳ミステリー大賞受賞したりしてるってのは、どうなんだろう。俺がそのランキング見て、これを読んだら、騙されたが全然別の観点からすっげえ面白かったからまあ良しとしようと思ったんじゃないかという気がする。何人殺されたか、憶えてないくらい人が死に、誰が殺したのかは明らかで、どう殺したのかは問題にならない話なんだもん。

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