東京オリンピックと南関東競馬(1)

 先週の大井ナイターのメインを飾ったのは、今年で50回目の節目を迎えた東京記念(SⅡ)。もともとこのレースは1964年の東京オリンピック(開催:10月10日〜同24日)を祝って1着賞金250万円――この年は東京ダービーが1着賞金400万円、東京大賞典が同700万円。中央競馬では東京優駿の900万円が最高額だった――のサラブレッド系4歳以上古馬ハンデ戦として新設された重賞で、実際第1回が開催されたのはオリンピック開会式もいよいよ間近にせまった10月6日のこと。この年の南関古馬戦線の中心は中央から船橋・谷口源吾厩舎に転厩して第1回報知オールスターCと東京大賞典を勝ったオリオンホース――61年の有馬記念勝ち馬・ホマレボシの全弟でもある――だったが、そのライバル格の川崎・小笠原円之助厩舎所属ロイヤルナイトが同馬に対して唯一の勝ち星を得たのがこの一戦だった。このレースはその後も1977年まで「東京オリンピック記念」の名で施行され、翌1965年には「日本刀」メイヂヒカリの代表産駒にして種牡馬入りも果たしたオーシャチが勝ち、1967年には圧倒的支持を受けた中央転入前のヒカルタカイをトヨカメオーが下すなど、東京大賞典へ向かう長距離路線のステップレースとして定着。歴代の勝ち馬をみてみればそのレベルの高さは一目瞭然であり、代表的なものを挙げただけでも酷量と戦いながら旧9歳まで現役を続けた悲劇の名馬ヤシマナシヨナル、怪物・タケシバオーの最高傑作たる南関東三冠馬ハツシバオー東京王冠賞キングハイセイコーの3冠達成を阻止すると、このレースでもテツノカチドキを競り落としジャパンカップで2着したロツキータイガー、宇都宮から始まって東海・東北・南関東を転戦しNARグランプリ年度代表馬2回のダイコウガルダン、同じく北関東は高崎出身で、やはり南関東を経て高知に至るまで日本中を渡り歩いたヨシノキング、アブクマポーロサプライズパワーとともに90年代後半の南関東競馬を背負って、全国の強豪らと激戦を繰り広げた南関東「準」三冠馬コンサートボーイ、日本におけるボワルセル系最後の活躍馬であるマキバスナイパー、中央から南関東に来て一変、牝馬の身でありながら帝王賞を衝撃的な逃げ切りで制したネームヴァリュー、そして近年のボンネビルレコードとマズルブラスト、ルースリンド……1990年からほぼ同時期にグランドチャンピオン2000が新設され(2001年廃止)、またダート2400という条件がもはや時代遅れのものになって久しいとはいえ、未だに名ステイヤーを輩出するレースであり続けている。今年は前年度のダービー馬・プレティオラスが大外から差し切る派手な競馬で優勝したが、これらの先輩らに恥じない成績を期待したいところだ。あ、いや、やっぱりそこまでの高望みはいたしませんから、せめて東京大賞典掲示板くらいにはお願いします、はい。まったく、昔みたいに3000でやればまだまだ中央の馬ばかりにいい顔なんてさせな……いえいえ、なんでもございませんってば。

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 しかし、先の東京オリンピック南関東競馬との関わりはこの記念競走だけではない。高度経済成長のまっただ中とはいえ、まだまだ日本が貧しかった時代のこと。オリンピック開催を成功させるべく無理矢理にでもインフラを整えようと挙国一致の体制がとられていたが、その分選手の強化費用がどうしても後手に回ってしまう。自国開催にも関わらずメダル獲得数が過去より落ち込んでは、さすがに大恥もいいところだ。傾斜生産方式よろしくメダルが計算できる種目に資金を集中的に投下する方針がとられたが、なにはともあれその金が足りない。日経連会長・石坂泰三氏が率いたオリンピック資金財団が当初の目標としていた予算17億円――インフレもあり、最終的に選手強化費は23億円にまで及んだ――に対し、国庫からの援助金ほか諸々を含めても10億円までが限界だった。そこで目をつけられたのが、当時売上を飛躍的に増加させていた大井をはじめとする南関東公営競馬。オリンピックの強化費強化費の残り7億円のうち3億円を、競馬開催からの収益金によって補おうというわけである。戦後、地方自治体の財政再建と戦災復興のために始まった公営競技の存在理由を考えるとき、これは願ってもない大役であろう。こうして、合計7開催を数えることになる、オリンピック特別競馬が開催される運びとなった。

1964年・東京オリンピック開会式。まー、こういう雰囲気は個人的にはあまり好きではない。
 ちなみに公営競技によるオリンピックへの協力というのは、じつはこれが最初の事例というわけではない。蛇足ではあるけれど、この問題についてあまり詳しい記述に出会ったことがないので書き残しておくことにしよう。1956年のメルボルン・オリンピックにおいてはオリンピック後援特別競輪が大阪中央(1962年廃止)・名古屋・川崎・後楽園(1972年廃止)の4場で計8日間開催され、選手派遣費用約1億3000万円のうち7800万円――選手会や施設所有者からの寄付も含む――を調達するという大戦果を収めている。しかし単純に成功とは言いがたく、というのも前回のヘルシンキ・オリンピック時も後援競輪開催にも強硬な反対を示していた日本ラグビー協会が、これに抗議する意味合いから日本体育協会を一方的に脱退しまったのである。ラグビー協会側の理屈は「アマチュア・スポーツ団体としての立場を守るために脱退する。オリンピックは健康で明朗、清らかな祭典である。選手の派遣がギャンブルで裏付けられるようでは困る」というもの。事前にIOC側へアマ・プロ規定上問題がないことの確認まで取っていた体協側としては完全に面子を潰された格好で、「寄付を募れというが、秩父宮記念館の予算3000万円をすぐ集めると豪語して見せたラグビー協会側からして、実際にはその1割も集められていないではないか。無責任な議論はお断りだ」と相手の痛いところを突いて反論。統括団体が脱退したことを理由にラグビーの国体参加を認めるべきではないという決議まで出したものだから、ラグビー協会側は完全に進退に窮してしまった。さらにはラグビー協会の分裂を狙ってか、地方支部のうち独自に代表を組織したいものにはこれを検討するという声明まで出す徹底ぶり。けっきょく国体には「特別参加」を認めるという形で手打ちとなったが、のちのちまで双方に痼りを残す後味の悪い騒動となってしまった。ちなみに、派遣費用はけっきょく最後の最後まで2000万円近く不足し、天皇皇后両陛下からの「金一封」の下賜や、在日外国人らによる1000万円近い寄付金によって、なんとか参加までこぎ着けている。まあ現実的な問題を無視した理想論ではあったとはいえ、1950年の2度に渡った鳴尾競輪場での大騒擾事件以来「狂輪」とも書かれた競輪の一般的イメージは地を這っている有様だったのだから、ラグビー協会側への同情の余地もないことはないか。そもそもとして、ラグビーはオリンピックと関係ないしね。

今では、「KEIRIN」はオリンピックの正式種目にまでなりました。ちなみにオリンピックへの競輪からの資金援助は現在でも続いている。
 そんなわけで、この東京オリンピックにおいては競輪に代わって南関東競馬が、その資金調達を請け負うこととなったのである。開催自体は大井競馬場での特別区主催となるが、ここで問題となったのが日程をどこに設定するかということ。というのも当時の南関東競馬はとにかく開催しさえすれば必ず儲かる状況で、結果として1年のうち開催が休みとなるのは中央競馬のダービー開催日のみ――全ての競馬人の祭典として、この休催は60年代後半まで残っていた――という過密スケジュールで連日競馬を続けていた。また当時は重複開催も行わない方針であったから、ほか3主催者と協議してどうにか日程を捻出しなければならない。そのためオリンピック競馬について4主催者の協議機関である関東地方競馬組合に議題が提出された当初は、難色を示す委員も多かったという。それが大井側の地道な運動に加え、当時の同組合定例議会で議長を務めていた自民党所属の都議会議員・荒木由太郎氏らの働きかけもあって、通常6日で1開催のところを5日開催に短縮する日程を大井が4回、ほか3主催者がそれぞれ2回ずつ新たに設け、それにより5日開催2回分の日程を確保することでまとまった。開催中は特別区のみならず神奈川・埼玉・千葉の各県の旗も併せて掲揚するほか、開催業務にあたっても各場から課長級の人員が参画する。日程は第1回が4月25日〜29日の8回大井競馬、第2回が10月19日〜23日の21回大井競馬にそれぞれ内定している。ただし、これらの決定がなされた直後の3月2日、平塚市営競馬を開催中だった川崎競馬場にて人気馬の除外周知が徹底しなかったことに端を発する騒擾事件が発生。川崎競馬場は2ヶ月間の開催自粛を余儀なくされ、そのため生じた開催日程変更により第二回については1日分日程が後ろ倒しになり、実際は10月20日から24日までの開催となっている。

 ちなみに、先ほど名をあげた荒木由太郎氏というのは白井新平以上に怪しげな人物で、南関診断士さんの記述によると住吉会の頂上団体・住吉一家の幹部でもあったとのこと。専門紙『勝馬』の創刊に関わった後は『ダービーニュース』の社長に納まり、無茶苦茶ともいえる早刷り攻勢で同紙のシェアを押し上げた。都議としては1965年に収賄容疑で前代未聞の都議会自主解散の関係者となり、実際に実刑判決も受けている。住吉会は元々博徒系の暴力団なので大井競馬場創設時からある程度の関係は当然あったのだろうけれど、なんというかまあ、時代を感じさせるエピソードである。

1961年度4月〜12月の南関東競馬開催日程。『競週地方競馬』1961年3月号より引用。

<話が横道にそれている内に長くなったので続く。明日中には続きを書く、たぶん。>