ずいずい

昨日は荒れていたオレなのであった。しかし「オレは荒れている」などと臆面も無く言うメンタリティもかなり考えものだが、荒れる時は荒れるんだよ、ケッ。
かのように田舎のチンピラの如くやさぐれていたオレは、ミキシでのニックネームを「赤タイツ男」などとインチキ極まりないものに変え、数少ないマイミクの皆さんに大いに顰蹙を買い、さらに「かにみそ たろう」などと開き直って追い討ちをかけ、孤立感をなおさら深めるのであった。ドツボである。チャツボである。とっぴんしゃんである。

ところでふと「ずいずいずっころばし」とは何の意味があるのかと疑問に思ったオレである。
童謡というのは実は結構深い意味があったりする。例えば「花いちもんめ」は「花=花代=女郎屋」であり、「ふるさとまとめて」「花」「一匁」とは、田舎から一匁で女郎屋に売られる少女の唄なのである。だから人買いが「あの子が欲しい」「この子じゃ判らん」と値踏みしているのだ。
で、調べると「ずいずいずっころばし」には「大名行列の前に出ると切り捨てにされるから間違っても飛び出しちゃいけないよ」という意味があるらしい。「茶壷」とは大名行列で、そして「おっとさんが呼んでも おっかさんが呼んでも」飛び出してはいけない、飛び出すと「とっぴんしゃん=切られる」と子供を諭しているということらしいのだ。なるほど。「俵の鼠が米食ってちゅう」はよくわからんが権力者への暗喩なのかもしれない。
そういえば荒俣宏の「帝都物語」でも「カゴメ」は魔除けの意味があるとか言ってたな。籠の目、要するに隙間は複数あるからそれに鬼が気をとられるので、その隙に逃げるというわけだ。星印も同様の意味で魔除けなのだとか。つまり「カゴメカゴメ」は現世と異界のはざかいについての唄で、「うしろの正面」に立つのはもちろん鬼=異形なのである。

さて、やさぐれていたオレはその日めったに立ち上げないメッセを立ち上げていたのだが、その日に限ってなぜか素敵な方の訪問があり、奇妙に癒されたのであった。よくあるのだがオレは気分の荒れているときほど思わぬ人に声を掛けられ、気を休めてもらうことが多い。そしてその人たちは別にオレが荒れてるからといって声を掛けてくれた訳でもない。いつもたまたまなのである。こういう時は捨てる神あれば拾う神あるということなんだな、としみじみ思う。なんだか感謝の気持ちでいっぱいである。こういうのは何がしかの形でお返ししたいと思う事はあるけれど、いつも果たせてはいない。ただこんなウツケモノでもかまって貰える、というのはそれだけでも幸せな事なのかもしれない。

オミット

困った事に世の中のほとんどの事の興味がない。TVも新聞も見ないし、ネットでたわけたニュースを漁るのももうしなくなった。日記にはいろいろな事を書いているように見えるが、これは無益な消費行為の結果をネタにしているに過ぎず、消費行為の為の消費行為を繰り返しているだけなのである。かつては「引きこもりのデブヲタ」などと自分を賤しめてみたものの、実はもはや引きこもりでもデブでもヲタでもない。オレは誰かと言うと単なるその辺の勤め人である。特殊でも特別でもない。ただどこか世界と自分とは関係なく、さらに自分は自分とは関係ないという離人症めいた乖離の感覚があったりする。

カルカル

オタクとサブカルなんて論議があるのらしいけれど、かつてヲタでサブカルの一味だった自分としては、もはやどうでもいい事のように感じる。「好きな事は好きな事でいいんじゃない?」としか思えないことを、なぜプライドまで持ち出して語るのだろう?ユリイカなる雑誌がどれほど影響力があり権威のあるものかは知らないけれど、権威なんてどうでもいいじゃない?そしてヲタとは孤独な遊びであるからこそ喜びがあるのだから、集団で権力的に振舞う段階でそれはなにか別のものに変質しているのではないか?価値観などもはや等価なのだから、ヲタもサブカルも何一つ特別なものではなく、それはパーセンテージが多いか少ないかというだけの問題だ。だから「オタクVSサブカル」なんて対立させてみるのは、単にどちらに権威があって権力的であるか、という話題でしかない。それ、なんか、意味があるのか?
確か橋本治が言っていたと思うんだけど、サブカルチャーなんてもはや存在しないんだよ。「サブ」と自ら貶めることでメインなものと差別化することが問題なのであり、そしてもはや「上位の」文化なんていう権威は存在しないのだから「サブ」なんて語る必要なんかないじゃない。少数派である事に妙な特権意識を持っていたのかもしれないが、少数派でなくなってしまったら、いったいどうするつもりなんだろう。
大塚幸代さんがブログHibiで言っていた、「日本にカウンターカルチャーなんてない、売れてるものとマイナーなものしかないんだ」と言う言葉がこの話題の一番正鵠を突いている発言だと思うんだけど。