一角獣・多角獣 / シオドア・スタージョン

一角獣・多角獣 (異色作家短篇集)

一角獣・多角獣 (異色作家短篇集)

異色作家短編集の第三巻はシオドア・スタージョン。文章のせいなのか相性が悪いのか、どうもオレはスタージョンというのがとっつき悪くて、『人間以上』は読んだがそれほど印象に残ってない。『不思議のひとふれ』も買ってはみたもののどうも頁を繰る気にならない。この短編集『一角獣・多角獣』は復刻前は稀少本としてマニア垂涎の的だったそうだがお手並みはいかに。
やはり読後感が一番強かったのはスタージョンの短編の中でも有名な作品である『孤独の円盤』『ビアンカの手』だろう。小さな円盤に付きまとわれたある女性の孤立と疎外の物語である『孤独の円盤』は切なさに満ちた結末を見る。あまりにストレートなメッセージ性を持っているので青臭く感じもするが、「孤独」というものに向き合うことを知った多感な青年期にいる方が読めば、胸に強く残る物語になるに違いない。『ビアンカの手』は、白痴の少女の美しい手に恋をしてしまった男の異常で歪んだ愛の物語である。愛が単なる執着でしかないことを暴いたこの物語は暗くおぞましい終焉を迎えることとなる。
ただ、全編を通して思ったのは、スタージョンの物語と云うのは《関係妄想》の物語だということだ。自分と他者との生々しく現実的な関係と云うよりは孤独な個人の求める”妄想”としての他者だ。『孤独の円盤』も『ビアンカの手』も自らが生み出した観念性と恋をし、または離反する。だから例えば『熊人形』(喋る人形の熊)にしても『ふわふわちゃん』(喋る猫)にしても自己完結した想像上の他者でしかなく、『一角獣の泉』の御伽噺のようなロマンチックさは理想化された非現実的な他者を描いたものだろうと思うし、究極の理想の女性と出会う『めぐりあい』はその立場が逆転した物語で、雌雄同体の生命体を描く『反対側のセックス』は”シジジィ”と云う言葉をキーワードにした自己完結性そのものがテーマのようなお話である。
これらは、孤独さが求める「自分の事を本当に判ってくれる筈の誰か」を様々な形で創出したものに他ならないような気がする。しかし勿論、そのような都合のいい他者などは存在せず、結局人は傷つきながらも自分と他人との折衷点を見出して生きていかなければならない。そこには理想も夢想もない現実的な人間関係があるだけだ。しかし現実的であろうとする行為は時には疲弊を産むこともあるだろう。スタージョンの物語と云うのはそんな魂の為のサンクチュアリなのかもしれない。
後半の三作はまた趣が異なる。『監房友だち』はとあるインディーズ・カルトホラー映画を連想させる設定のストレートな怪奇譚。『死ね、名演奏家、死ね』はジャズ・バンドの花形スターに嫉妬したひとりのメンバーの殺意の物語だが、音楽を題材としたミステリというところが面白い。そして殺意の矛先が奇妙な方向へとずれてゆくところが独特だ。『考え方』は”呪い”についてのお話だけれど、最後のオチへの持って行き方は、スタージョンの創作の視点がいつも他者と違う方向から向けられているのを伺わせて興味深い。