ニュートンズ・ウェイク / ケン・マクラウド

ニュートンズ・ウェイク (ハヤカワ文庫SF)

ニュートンズ・ウェイク (ハヤカワ文庫SF)

この間英国SF作家のチャールズ・ストロスの作品を読み、そこそこ面白かったのでもう一作読もうかなあ、などと思っていたら灸洞さんがケン・マクラウドのこの作品を紹介してくれて、同じ英国作家だし同じ《シンギュラリティ(特異点)後の世界》を扱っているというので、ちょっと寄り道して手を出してみました。物語の背景はこんな感じ:
(1)21世紀後半、自己進化を遂げたAIは”特異点”を突破、”後人類”となって人類に反旗を翻し”強制昇天”と呼ばれる大戦争を巻き起こした挙句どっかに行ってしまう。
(2)300年後、人類は”後人類”の残した超科学をサルベージして文明を再建、銀河系の様々な惑星に移り住んでいる。
(3)しかしその人類もAO(元アメリカらしい)、KE(元日本や中国らしい)、DK(元北朝鮮とかカンボジアらしい)、カーライル家(元イギリスらしい)といった派閥に分かれ、お互いの利権を狙って睨み合っている。
(4)さらに”帰還派”と呼ばれる連中は、”強制昇天”時に”後人類”によって魂をデータ化され肉体を消滅させられた人々の復活を望んでいる。
…で、物語はカーライル家が訪れたとある惑星で、謎の遺跡に眠る戦闘機械を起動させてしまう所から始まるんですな。なんかごちゃごちゃしてますが、分かります?

最初はSF活劇風にドンパチ始まり期待させますが、その後なんだかパーティーだのフォーク・コンサートだのオペラだのが続き、「これってスペーズオペラって触れ込みじゃなかったっけ?」などと肩透かしを食わされます。あとは(3)で紹介したセクトの覇権争いの様子がずっと描かれてるって事ぐらいかなあ。覇権争いとは言っても、『デューン』のアトレイデ家とハルコンネン家の陰謀術策渦巻くドロドロした骨肉の争いみたいなのとは違って、「金で解決出来ることは金で解決する」といった極めてドライな争いです。セクトにより思想信条の違いはありますが、これだとて「商売になる相手かどうか」が問題にされるだけで、思想そのものが敵対するといった事はありません。武力行使はありますが、基本となるのはやはり経済的な動機とその優位であり、戦闘が起こっても優劣が分かった時点で結構淡白に終了し、怨恨だの復讐だのといった情緒も介在しないんですね。

こんな中で英国が出自となっているカーライル家が他の派閥と競り合い、または盟約を結びながら自らの経済基盤を死守せんと争う様は、殖民と貿易を活動目的としながらも軍事介入も行っていた、かつての大英帝国東インド会社がモデルになっているのでしょうか。それとも現代の経済戦争が元になっているのでしょうか。少なくともここには、第2次世界大戦や東西冷戦、ベトナム戦争、昨今の対テロ戦のような、冷徹な殲滅戦の影がありません。勿論戦争というものは基本的には経済的な理由がそこにはありますが、マクラウドの描く戦争はこの”経済”といった面をとても重視している事がユニークだと思いました。

それと、(4)における”強制昇天”させられデジタル的に囚われた犠牲者の魂を開放する、といった”帰還派”の動きというのは、よく考えると新約聖書ヨハネ黙示録なんですよね。最後の審判のその時に死せるものが皆甦り、神の審判の後永遠の生命が保証されるか地獄に落とされるというあれですね。そして《シンギュラリティ後の世界》とは旧約聖書における”楽園の追放”であるともとれます。物語そのものも、生のバックアップが可能になり、何度でも復活する事が可能な世界だという設定なのですが、これがヒンドゥー教における輪廻なのだとしたら、”帰還派”の目指す復活は極めてキリスト教的であり、ラストの、デジタル化された魂たちが自らに下した決断は、輪廻を断ち切り涅槃へと解脱するといった部分で仏教的なんですね。

そしてこれらの事態を引き起こす大元となった”後人類”とは即ち”神”ということになるのでしょう。つまり世界中の宗教観を集大成したような設定になっているんですね。ただこの”後人類”はバックストーリーには現れても物語そのものには姿を現しません。全てを超越したものに対し人類はその掌で踊るだけだ、ということなのでしょうか。ですから物語の中心は人間同士の抗争ということになっています。経済戦争をSFに託しながらも、この『ニュートンズ・ウェイク』は神と人間の相克がその底流にあるのかもしれません。ただ物語的には長さの割りに読み飛ばせるセンスですが、もうすこし興奮が欲しかったかなあ。