のんのんばあとオレ / 水木しげる 

のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)

のんのんばあとオレ (講談社漫画文庫)

”のんのんばあ”はまだ小さな子供だった頃の水木しげるに、妖怪や精霊たちの棲む”目に見えないもうひとつの世界”を垣間見せた人だった。つまりそれは、世界というものは不思議に満ちているのだということ、自分達はその世界に生かされているのだということ、そして自分というものもその不思議の一つである、ということを示してくれたことなのだと思う。生命というものは不安定なもので、世界は目に見えるものだけが存在しているわけではない。それが”不思議”ということだ。不思議であるからこそ人はそれを敬うのではないか。畏敬とはそういう心のことをいうのではないか。人へも、自然に対しても。そして愛する、ということも、それと似たもののようなことのような気がする。

そんなとても豊かな心に溢れたのんのんばあではあるけれども、前回読んだ『水木サンの幸福論』に書かれていた現実ののんのんばあは、決して幸福な人生を歩んだ人ではなかったようだ。のんのんばあは二十歳の頃、水木の祖父の家に女中奉公しにきたのだが、その後ぐうたらな男と駆け落ちし、ひどい目に遭ってまた水木の祖父の元へ戻ってきたのだという。哀れんだ水木の祖父が彼女に家を建ててやり、その後「拝み手」と呼ばれる祈祷師の男と結ばれるが、祈祷を頼む人は僅かで、家々を回って米や野菜を恵んでもらうことも多かったという。その夫も亡くなり、一人で生きなければならなくなったのんのんばあは、近所の家で賄や掃除の手伝いをしてなんとか生計をたてていたのだそうだ。言ってみれば、赤貧の人生を歩んだ哀しい女性だったのだ。

今の世の中でこれを考えるとどうだろう。怪しげな宗教を信奉する夫を持ち、かと言ってそれに寄り付くものも無く、貧しさのあまり無心をしに近所の家の玄関をくぐり、夫が亡くなった後もやはり周りの家々に日銭を稼ぐ為に訪れる。子供たちには不気味な化け物の話ばかりして、本人には宗教以外救いを求めるものが無い。そんな貧困が糊のように張り付いた老婆。同情はされるだろうが、むしろ疎ましがられたり、厄介がられることのほうが多いのではないか。現代の社会では、のんのんばあのような存在を受け入れられるような器はむしろ小さいような気がする。逆に言えば、そんなのんのんばあが地域社会の一員としてきちんと存在が確立され、受け入れられていた過去の境港という町が、いかにおおらかなものだったかがうかがう事が出来る。つまりこののんのんばあの物語は、のんのんばあのやさしさや心の豊かさを通して、当時の時代のおおらかさを描いたものなのだろう。

それに、なにしろ、当時はみんな貧しかったのだ。貧しさゆえに助け合うこともあれば、貧しさゆえにもうどこにも立ち行かれないこともあっただろう。だから、”昔はおおらかでよかったんだ”などと紋切り型の口調で言うことは出来ない。この『のんのんばあとオレ』では幼少時の水木と彼が出会う3人の少女との淡い恋情も描かれるが、そのどれもが、貧しさゆえに悲しい結末を迎えることとなるのだ。最初に登場する”近所の馬車屋の松ちゃん”はハシカをこじらせて亡くなった。肺病を病み療養に来た千草さんは美人で頭の良い子供であったが、水木が彼女にプレゼントしようと絵を描いていた最中に、やはり病気が悪化して亡くなった。不思議なものを見、水木と幻想を共有する吉川美和さんは、人買いに買われて遠い土地へと旅立っていった。豊かであれば、そして現在のような医療技術があれば、彼女らは決してこのような不幸な目に遭わずに済んでいた筈だ。

だからこの『のんのんばあとオレ』は現代と比べてどちらが幸せなのかなどというお話なのではない。どちらにしろ水木は、もう帰ってこない時間を慈しむ様にこの物語を描く。それを懐かしさの為ではなく、水木自身の魂の雛形であるからこそ、描かなければならなかったものなのだろう。そして、決して覆すことの出来ない辛い現実を前にした時、水木は幻視する。この世のものではない美しく不思議な世界を。全てが豊かで愉悦に満ちた世界を。光り輝く極楽浄土と永遠の幸福が待つ十万億土を。ここに見えている、寂しく辛い現実だけが本当の世界なのではない。救済と安らぎの待つ世界がどこかにきっとある。そしてそれが、のんのんばあが水木に教えたことだったのである。