アッチェレランド / チャールズ・ストロス

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)

アッチェレランド (海外SFノヴェルズ)

■《シンギュラリティ》を迎える世界

21世紀初頭から24世紀にかけて、テクノロジーにより変容してゆく人類と、【特異点】=シンギュラリティが導いた驚異的な未来世界を描き出したチャールズ・ストロスのサイバー・パンク・宇宙SF。「アッチェレランド」とは音楽用語で"だんだん早く"という意味であり、加速度的に変容してゆく人類の進化の様子を言い表している。物語は3章に分かれ、第1章の主人公・マンフレッド・マックスから3世代を経た彼の子孫を通じて物語は語られてゆく。物語は次のような構成になっている。

◆第1部:離昇点(スロウ・テイクオフ)
天才的な知性を持った主人公マンフレッド・マックスは、自らの豊富なアイディアを無償提供し、新たなる経済形態・エコノミクス2.0を興そうと奔走していた。しかしプライベートでは押しかけ女房との離婚訴訟でてんやわんや。そんなある日彼は3光年先から送られてくる知性体らしきものからの電波の存在に気付く。

◆第2部:変曲点(ポイント・オブ・インフレクション)
木星コロニーを統治するマックスの娘・アンバーは外宇宙から届いた電波を頼りに、アップロード精神となって地球から3光年先に浮かぶ褐色矮星ヒュンダイ+4904/-56への探索の旅に出る。そこでアンバー一行を待っていたものはある構造物と異星の超AIだった。そして地球ではネットワークにアップロード化されたポスト・ヒューマンによる《特異点》を迎えつつあった。

◆第3部:特異点(シンギュラリティ)
土星コロニーに住むアンバーの息子・サーハンは再受肉体として現れた祖父マンフレッドと母アンバーに手を焼いていた。折りしも人類は内惑星を解体し太陽を雲の層のように覆う《特異点》後のポスト・ヒューマンによって駆逐されつつあった。人類は太陽系を捨てて外宇宙に移住するべきなのか。

■サイバー・ギークの為のSF

第1部、主人公マンフレッドが装着する眼鏡型のヘッドアップ・ディスプレイが常時ネットワークにアクセスし、大量の情報を高速で検索しながら、あたかも主人公の拡張された外部記憶・思考装置として機能する描写が実にサイバーパンクしていて楽しい。考えてみれば常にネットに接続しながら生活しているというのはネットオタクには日常的な光景で、それが面倒な操作無しに常に知覚できるというのは夢のような世界であるかもしれない。第1部はそんな高度に洗練されたネットワーク・テクノロジーの未来を描いているのと同時に、コンピュータ・ギーク、ネットオタク垂涎の"夢のオモチャ"をもっともらしく描いているところが可笑しかったりする。それはヘッドアップ・ディスプレイを盗まれた主人公が痴呆状態に陥ってしまう、なんてエピソードの皮肉さからもうかがえる。ネットオタクの末席に割り込ませてもらっているオレとしても、この"夢のオモチャ"のキラキラ輝く魅力と、「お前らってほんとネットが好きだよな!(俺もだけど)」という作者の皮肉がくすぐったくてしょうがなかった。この第1部だけなら「アッチェレランド」は今年度NO.1のSF作品として諸手を挙げてお薦めするだろうことは間違いない。

しかしこの物語は未来テクノロジーを謳歌する様のみを描いたものではない。マンフレッドの押しかけ女房、なにしろこいつがクセモノで、彼女の登場で物語はいきなり下品で下世話なドタバタへと乱調してゆくのだ。このハズシ方がまさにイギリス作家チャールズ・ストロスの面目躍如といったところで、泥沼の離婚劇と親権を巡る骨肉の争い、さらにはいけすかない親への子供らの苛立ちは、サイバーパンクな近未来世界を犬も食わない生臭いものに変えてしまい、それはなんと人類がデータベース化されひとつのデータとして生きる物語終章までずっと繰り返されるのだ!人類の未来だの宇宙の超知性だの気宇壮大なテーマを描いているようにみえて、その中身は数世紀に渡る夫婦喧嘩と親子喧嘩だったというこの馬鹿馬鹿しさ!実は作者チャールズ・ストロスはこれがやりたかったためにこの難解で凝りまくったお話を書いたのだとしか思えない。

■宇宙を覆う巨大ネットワーク

第2部以降、主人公達が宇宙に飛び出してからは若干物語はトーンダウンする。宇宙空間と宇宙で生活する人類の描き方によると思うんだが、従来的な宇宙SFと比べてもどこか見劣りするのだ。これは作者の描写力の足りなさというよりも、全ての世界は情報と演算が横溢するものとして捉えたこの物語世界では、なーんにもない宇宙空間は単に退屈なものでしかなく、じゃあ何やってるかというと宇宙コロニーやスペースシップの中に篭って大量の情報と戯れまくっているのだ。即ち、宇宙というものの茫漠さや距離感が描かれていない、というか、興味が無いから描いていないのである。なんだか外惑星軌道の世界を描いていても人間同士の距離感は窮屈だし、超高密度集積回路の中にぎゅうぎゅうに多数の人格データを詰め込んで数光年先の宇宙へと飛び出したはいいが、やってることはバーチャル・リアリティ空間でああでもないこうでもないと言っているだけだし、全く宇宙に行ったって殻に篭ってデータとネットワークの話しか出来ない困ったオタク振りなのである。

そういった意味で、"データ化された人類の裔"を描いたものとしてはイーガンの「ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)」あたりを超えるものは無いのだけれども、量子論的世界観から導き出された空想で生み出されるイーガンSFとは別の、チャールズ・ストロスがかつて学んだコンピュータ・サイエンス的な見地から、"情報化された宇宙""ネットワーク化された宇宙"を描き出しているところがこの物語のポイントとなるだろう。即ち、インターネットの誕生がこの地球上の距離を限りなく狭くしたように、ネットワークで結ばれたストロス的な宇宙空間はバッファが存在する限りどこまでも狭く、そのバッファの存在を演算素(コンピュートロニウム)*1という架空の物質で宇宙を覆うことにより可能にしたのがこの物語世界なのだ。だからこそこの「アッチェレランド」の世界はどことなく窮屈で、逆に存在する空間を(そして自己という存在を)どこまでも情報とその処理で埋め尽くしたいという欲望に満ち満ちている。言うなれば宇宙空間の中でムーアの法則を究極まで推し進めた物語、それがコンピュータとインターネット世代の為のSF、「アッチェレランド」なのだと思う。

*1:地球内惑星軌道内の全ての惑星を解体し、その物質を1原子あたり1ビットの演算能力を持つ演算素(コンピュートロニウム)に変換、それにより物質全てが演算能力を持ち、その超大な演算能力が《特異点》を起こす、それが「アッチェレランド」の世界なのである。