『ねじまき少女』と『ダールグレン』読んだ

■ねじまき少女(上)(下) / パオロ・バチガルピ

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

石油が枯渇し、エネルギー構造が激変した近未来のバンコク。遺伝子組替動物を使役させエネルギーを取り出す工場を経営するアンダースン・レイクは、ある日、市場で奇妙な外見と芳醇な味を持つ果物ンガウを手にする。ンガウの調査を始めたアンダースンは、ある夜、クラブで踊る少女型アンドロイドのエミコに出会う。彼とねじまき少女エミコとの出会いは、世界の運命を大きく変えていった。
聖なる都市バンコクは、環境省の白シャツ隊隊長ジェイディーの失脚後、一触即発の状態にあった。カロリー企業に対する王国最後の砦“種子バンク”を管理する環境省と、カロリー企業との協調路線をとる通産省の利害は激しく対立していた。そして、新人類の都へと旅立つことを夢見るエミコが、その想いのあまり取った行動により、首都は未曾有の危機に陥っていった。新たな世界観を提示し、絶賛を浴びた新鋭によるエコSF。ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞などSF界の賞を総なめにした作品。

パオロ・バチガルピの近未来SF小説『ねじまき少女』は奇妙なタイトルではあるが非常にスリリングな物語だ。近未来の世界を舞台に物語は遺伝子組み換え作物の利権を巡る欧米巨大コングロマリットと小国タイの対立、そして蔓延する疫病の恐怖、さらにタイ政府内におけるパワーゲームとそれが生むクーデターの予兆を中心に語られる。主要登場人物は白人ネジマキ工場オーナー、その使用人の中国人難民、"虎”と恐れられる環境省の防疫隊隊長、そして日本から訪れタイで遺棄されたアンドロイド=ねじまき少女。これら所属する国家も来歴も生きるための指標もなにもかもが違う者たちが、それぞれの思惑の中で熱病に侵されたかのごとくハイテクと貧困の国タイの街を駆け抜け、生き、そしてまた死んでゆく。資源枯渇と食糧不足、そして疫病の流行により瀕死となった世界を舞台にしたこの物語は、しかし決して世界の終末やパニックを描くことを主軸としてはいない。全世界的な危機を迎え、大規模なパラダイム・シフトを余儀なくされた世界が、どのようなグロテスクなものに変貌してしまったか、そしてその世界がどこへ向おうとしているのかを、東南アジアの国タイを舞台に据え、微視的な視点から描いたのがこの物語となる。この物語の世界観は非常にユニークなものであると同時に実に異様だ。熱帯の国タイ、その倦んだような熱気と溢れんばかり植生、そして欧米とは全く異なる文化体系というエキゾチズム溢れるロケーションが、物語の異様さ・奇怪さになお一層拍車を掛ける。遺伝子工学やアンドロイド少女が登場しながらも殆どの人々は最下層の生活を送り、そして精霊や悪霊の存在が信じられ人々の心に神秘的な言葉を呟く。ここでは西洋的な合理主義が通用しない、というよりも相手にされておらず、あくまで東南アジアの流儀で物事が進む。そういった異質さがこの物語に新鮮な驚きを与えているのだ。なにもかもがグロテスク、そしてなにもかもが鮮烈。熱帯に咲き乱れれる目も彩な原色の花々とその葉の下で蠢く醜い毒虫のように。これはもう大傑作と言い切っていいだろう。ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞、キャンベル記念賞。

■ダールグレン( I )( II ) / サミュエル・R・ディレイニー

ダールグレン(1) (未来の文学)

ダールグレン(1) (未来の文学)

ダールグレン(2) (未来の文学)

ダールグレン(2) (未来の文学)

都市ベローナに何が起きたのか―多くの人々が逃げ出し、廃墟となった世界を跋扈する異形の集団。二つの月。永遠に続く夜と霧。毎日ランダムに変化する新聞の日付。そこに現れた青年は、自分の名前も街を訪れた目的も思い出せない。やがて“キッド”とよばれる彼は男女を問わず愛を交わし、詩を書きながら、迷宮都市をさまよいつづける…奔放なイマジネーションが織りなす架空の都市空間を舞台に、性と暴力の魅惑を鮮烈に謳い上げ、人種・ジェンダーのカテゴリーを侵犯していく強靱なフィクションの力。過剰にして凶暴な文体、緻密にして錯乱した構成、ジョイスに比すべき大胆な言語実験を駆使した、天才ディレイニーの代表作にしてアメリカSF最大の問題作。

随分前だったがやっと読んだディレイニーの『ダールグレン』。1975年刊行だが、SFマガジンであれの初紹介を読んだのは自分がまだ中学生のときだった。しかも冒頭とラストのネタバレもしっかりしていて、そしてなぜかそれをいまだに覚えていた。当時から結構話題になっていたがSFマガジンでも「なにしろ分厚い、長い」という事以外はよく伝わってなくて、それもなぜか強く記憶に残っている。さて伝説のSF作品と呼ばれるこの小説、実の所、それほど面白く読めなかった。そもそもディレイニー小説自体、以前からとっつき難くて『ノヴァ』ぐらいしか読んでいなかったが、この小説でもディレイニーの魅力がさっぱり伝わらなかった。いわゆるニューウェーブSF期に流行った自己内面を外界に投影したインナースペースな御話なのだが、結局読まされるのはディレイニーという人の強烈な自意識だけなのだ。半ば自叙伝的な側面も持つこの小説、ディレイニーの半生に存在するボヘミアな生活ぶりやディレッタントな文学趣味を「さあどうだ」とカードを切りながら見せつけらているようで、1975年当時にはディレイニー自身のカリスマ的な人気とあわせそれらはビザールな面白さを醸し出していたのかも知れないが、今現在読むと完全に風化した風俗小説としか思えない。つまりは不良ぶったモラトリアム小説でしかなく、もったいぶった文学小説もどきでしかなく、SF小説としては完全に失敗している。まあダールグレンの呪縛を解くにはダールグレンを読むしかないともいえるので、完読したということのみが成果だった。