Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20111007(Fri)

[]これぞ映画だ。〜エミール・クストリッツァ畢生の傑作映画『アンダーグラウンド』 これぞ映画だ。〜エミール・クストリッツァ畢生の傑作映画『アンダーグラウンド』を含むブックマーク これぞ映画だ。〜エミール・クストリッツァ畢生の傑作映画『アンダーグラウンド』のブックマークコメント

■アンダーグラウンド (監督:エミール・クストリッツァ 1995年フランス・ドイツ・ハンガリー映画)

f:id:globalhead:20111002163613j:image

エミール・クストリッツァは狂騒の映画監督だ。彼の映画にはいつもブガチャカブガチャカとブラスバンドの演奏がけたたましく鳴り渡り、わんわんにゃあにゃあがーがーと動物たちがあちこちをそぞろ歩き、登場人物たちはいつもドタバタと右往左往し、物語は悲劇と喜劇、幸福と不幸の間を目まぐるしく往復する。躁的で、猥雑で、破天荒で、素っ頓狂で、ハチャメチャだ。そしてそのカオスの果てに、映画は「でも、人生って、案外捨てたもんじゃない」というメッセージを残して終わる。そんな一発逆転ホームランみたいな人間賛歌がクストリッツァの持ち味だと思っていた。そしてそんなクストリッツァ映画が大好きだった。

しかしこの映画『アンダーグラウンド』は違っていた。クストリッツァは怒っていた。猛烈に怒っていた。クストリッツァは悲しんでいた。猛烈に悲しんでした。「人生捨てたもんじゃない」だなんて、一言もさしはさむ余地の無い映画だった。むしろ、この世界には、死と破壊と、怒りと憎しみしか無いんだ、とさえ言っているような映画だった。クストリッツァを怒らせ、悲しませていたものは何だったのだろう。それは、クストリッツァの故国、ユーゴスラヴィアの崩壊だ。この映画『アンダーグラウンド』はユーゴ内戦のさなかに撮影されたものであり、クストリッツァの描く、ユーゴスラヴィアへの壮大なエレジーなのだ。

物語はドイツ侵攻の始まった1941年のユーゴスラヴィアの首都、ベオグラートから始まる。主人公の名はマルコ、共産党員でパルチザンの彼は、実は裏商売の得意な山師だった。ドイツ空爆により焼け野原になった街で、マルコはドイツ軍を逃れてきた人々をたらしこみ、自らの屋敷の地下に彼らを住まわせる。その中にはマルコの友人クロも含まれていたが、地上の世界でマルコはクロを闘争の殉死者に仕立て上げ、さらにクロが恋していた女優のナタリアをも奪っていた。そんなことも知らぬクロと地下の住人たちに、マルコは武器を作らせてはそれを売って儲けを上げていた。戦争はいつしか終わっていたが、マルコは地下の住人たちに「外ではいまだに戦闘が続いている」と嘘を教え、そしていつしか"アンダーグラウンド"での彼らの生活は20年に及ぼうとしていた。そんなある日、"アンダーグラウンド"で結婚式が執り行われることになる。そこに出席したナタリアは、マルコに「もう嘘をつき続けるのは嫌だ」と告げるが…。

映画は3章に分かれるが、これらはユーゴスラヴィア国家の運命と"アンダーグラウンド"社会の人々の運命とが密接にリンクした構成になっている。第1章「戦争」はドイツ侵攻が始まりマルコが人々を地下室に住まわせるようになるまで。これは第2次大戦終戦を経てユーゴスラヴィア連邦人民共和国の設立までを表す。第2章「冷戦」はその地下で人々が20年にわたり生活し、そしてマルコが私腹を肥やしてゆく様子が描かれる。これはユーゴが非常に安定した社会主義国家として成功していた時期と被さる。第3章は再び「戦争」、ここでは破綻した"アンダーグラウンド"と離散した住人たちを待つ運命が描かれる。そしてこれはユーゴ内戦により再び悲劇の戦火が広がる様子にリンクするのだ。即ち、"アンダーグラウンド"は、小さなユーゴスラヴィアのことだったのだ。

映画は、そういった政治性、歴史性を背負いつつも、そこで描かれるのは、流転する国家という運命に翻弄される人々の、滑稽で悲痛な生き方そのものなのだ。主人公マルコは嘘を塗り固めて人々を地下に幽閉し私腹を肥やすという悪人だ。その妻の座についたナタリアはその時その時の力のある男に取り入る薄っぺらな女だ。そしてマルコにもナタリアにも騙され続ける男クロは考えの足りない単なる馬鹿者だ。主要人物三者三様にそれぞれが愚かで、他者に、あるいは自分に対しての嘘つきで、そして「でも根は善人」などという救いなどこれっぽっちも無い者たちだ。にもかかわらず、彼らは、物語全篇を通して、どこまでも哀れな人間たちにしか見えない。なぜならそれは、彼ら全てが、歴史性というものの犠牲者だからだ。場当たり的な、都合の良い方便だけで塗り固められた人生。それは、信じるものが何も無い、という人間の人生だ。そして彼らに信ずることが出来ない人生を歩ませたのは、彼らの生きる、根無し草のように移ろい続ける国家の不確かな存在性からなのだ。

そしてこの不確かな国家を模倣した地下世界で、クストリッツァの狂騒は"たが"が外れたかのように爆発を起こす。中盤のハイライトである結婚式シーンからその爆発は奔流となって連鎖反応を起こし始める。クストリッツァ印のブガチャカと賑やかなブラスバンドの音は次第に強迫的で攻撃的なものと化して行き、祝宴の席で浮かれ踊る人々はあたかもジェームズ・アンソールの群集画の如き非現実的な表情を見せ、その中で遂に露呈したマルコの嘘に、地下世界は破滅的な崩壊を起こす。地下世界の崩壊と共に現実の諸相も崩壊を見せ、ここから映画は悪夢と現実が溶け合い、時間と空間が綻びを見せ、真実と虚実が逆転を起こし、彼岸と此岸が混ざり合い、崇高なるものと醜悪なるものが同じ画面に並ぶという凄まじいイマジネーションの奔流を見せ付ける。それはあたかもガルシア・マルケスの如きマジック・リアリズムであり、さらにフェリーニの如き猥雑さに溢れていて、タルコフスキーの如き詩情を湛えており、そしてホドロフスキーの如き奇怪さに満ちている。

全てが死と破壊の闇の中に消え去ったクライマックスを経て、ラストに待つ夢を見せられているかのような、あるいは長い悪夢からようやく目覚めたかのような、どこまでも美しく、どこまでも悲しい情景に辿り着いたとき、これこそが映画芸術であり、映画というものが真に持つ力の凄まじさであると気付かされるだろう。打ちのめされた。本当に打ちのめされた。苦痛に満ちた歴史性を夢幻の如き圧倒的な映像美で描ききったその手腕に。これぞ映画だ。『アンダーグラウンド』は、映画史に残る作品であると同時に、人類史にも残るであろう畢生の傑作映画だ。

f:id:globalhead:20111003223301j:image

f:id:globalhead:20111003223300j:image

f:id:globalhead:20111007122021j:image

D