もしもマリリン・モンローとアインシュタインが出会っていたら〜映画『マリリンとアインシュタイン』

■マリリンとアインシュタイン (監督:ニコラス・ローグ 1985年イギリス映画)


セックス・シンボルと呼ばれた往年のハリウッド女優マリリン・モンロー相対性理論を生み出した天才アルバート・アインシュタインが出会っていたら、どんな会話が繰り広げられるのだろう…という架空の物語がこの『マリリンとアインシュタイン』です。この二人の他にもモンローの夫だった名野球選手ジョー・ディマジオ、そして"赤狩り”で歴史にその悪名を残すジョセフ・マッカーシー上院議員も登場し、物語にかかわっていきます。
舞台は50年代のNY、アインシュタインが宿泊するホテルの部屋に、ひょんなことからマリリン・モンローが現れるのです。物理学の天才学者と肉体美を売りにするハリウッド女優、まるで水と油のように思えるのですがそうではありません。モンローはつっかえながらも自分の理解している範囲で特殊相対性理論とはどういうものなのか、アインシュタインの前で語ります。モンローは彼女なりのインテリジェンスを持っていたにもかかわらず、"セクシー女優”という肩書きを持つばかりに世間から自らのインテリジェンスを評価されないことに不満を持っていたんですね。そんなモンローをアインシュタインは目を細めながら見つめ、楽しそうに理論の補足をしてゆくんですね。この、"モンローが解説する特殊相対性理論”のシーンは、モンローとアインシュタインの掛け合いも含め、フィクションというものが再現できる芳醇な想像力に満ちていて、屈指の名シーンということができるでしょう。
そしてそこに現れるのが嫉妬に狂ったモンローの夫ディマジオ、さらにアインシュタインを反共産主義の道具として使おうと脅しをかけるマッカーシーなのです。もちろん、歴史上にこの4人がひとところにいた事実はありませんが、それではなぜこの物語でこの4人の邂逅を描こうとしたのでしょう。それは、アメリカ50年代を代表するこの4人のそれぞれが胸の内に抱える喪失感を描くことによって、アメリカの歴史上最も豊かで輝きに満ちていたはずの50年代をその【喪失感】というキーワードで批評しようとしたのではないのかと思うんです。
モンローは世間の持つイメージと本当の自分との乖離に悩み、さらに子供を生める体ではなく、望みながらも幸福な家庭を築けずにいた。アインシュタインは自らの理論が原子爆弾という恐るべき兵器に流用され多くの人命を奪ったことに悩んでした。ディマジオは野球選手としては一流でも一般人としては単なるボンクラでしかない自分の知性の低さに劣等感を抱いていた。そしてマッカーシーは誰にも好かれる子供時代を持つ自分が、今や蛇蝎の如く忌み嫌われる政治家になってしまったことに密かに苦悩していた。そしてこの4人の喪失感と苦悩が交差しながら、映画はそのクライマックスに禍々しいまでに美しく幻想的なカタストロフの様子が用意されます。
アインシュタイン、モンロー、ディマジオマッカーシー、類稀なる知性、類稀なる美貌、類稀なるスポーツ能力、そして反共・資本主義礼賛という類稀なる"狂信"。これら、当時の世界で類稀なる豊かさを誇っていた栄光の50年代アメリカを代表し象徴する者たちの、その喪失と虚無、それは、続く60年代におけるアメリカの、挫折と失墜を予期し、または用意した巨大なる"空洞"だったのではないでしょうか。この映画『マリリンとアインシュタイン』の原題は「インシグニフィカンス」(=無意味なこと)、全ての栄光がやがて無意味なものと化してゆくこと、映画は、それを描こうとしていたのかもしれません。


マリリンとアインシュタイン [DVD]

マリリンとアインシュタイン [DVD]