祝・花輪和一の新作作品集2冊同時刊行!!


花輪和一の新作作品集がなんと2冊同時に発売され、ファンとしてはびっくりしたのと同時に2冊も新作が読めて嬉しい事この上ない。
花輪は日本の中世〜近代を舞台にした怪奇幻想譚を得意とするが、その作品のテーマは単に怪異のみを描くものではなく、その怪異を通して人の持つ"業"の深さを浮かび上がらせようとする。そこで描かれるのは人の残酷さ、人の運命の残酷さ、その救いようの無さだ。ただし花輪は同時に、その救済も描こうとする。しかしその救済は、子供のように無私であることだったり、現世利益を期待せず全ての願望も欲望も捨て去ることだったり、動物のようにただ生きている実感だけを信じる事だったり、非常に宗教的である分、おそろしくストイックでギリギリのものだったりする。即ち花輪世界における救済は、非常に難易度の高い救済なのだ。しかし難易度が高いからこそ、よじれまくった【因業】を断つ最終兵器と成り得るのだ。

■風童(かぜわらし)/ 花輪和一

日本の戦国時代を舞台にしたと思われる連作短編集。主人公は農家の使用人で祖母と暮らす幼い少女。いつもの花輪作品に登場する平べったい顔の不細工なあの少女だ。主人公少女は花輪世界の【純粋さ】の象徴として描かれるが、その彼女の目に映る村の人間たちの生活はどこまでも貧しくあたかも煉獄の如き過酷で救いようのない世界に生きている。幼さゆえに人の生の無慈悲さを困惑しながら受け止める少女だが、そんな彼女のもとに不思議な精霊が現れ、彼女を導く。この精霊が「風童(かぜわらし)」と呼ばれるものなのだろう。そして彼女に自然の不思議に触れさせ自然の美しさを目の当たりに見せる。実の所自然の不思議さも美しさも、人の不幸を消し去ることなど決してできはしない。しかしその不思議と美しさにふと心を奪われた時だけでも、人は無私になれる。ただそれだけのことであり、それ以上のものでもない、ただ、自分はこの自然の中で生き、そして死んでゆくだけの存在でしかない、そんなことが、作品を通してじわじわと伝わってくる。ただ生きているだけの自然が、不思議さと美しさに満ちているのなら、ただ生きているだけの人の生でさえ、不思議さと美しさに満ちているのではないか。そんなことをこの作品は語りかけてくるのだ。

■みずほ草子(1) / 花輪和一

日本の明治初期の農村を舞台にしたと思われる連作短編集。ここでもやはり花輪作品でお馴染みの不細工少女が主人公だが、「風童(かぜわらし)」と違い狂言回し的な存在である。彼女の村で暮らす人々は牛馬のように働き、そして誰もが貧しい。貧しく、食うや食わずで、何がしかの疾病に容易く罹り、いつか動物のように野垂れ死ぬ。そんな社会の中で憎しみや悲しみや恨みや高慢さがいつもどこかで渦を巻き、その【因業】はヘドロのようにドロドロと塊を無し、それがこの物語では【怪異】となって形を成す。そしてこの作品集の救いようのない話の多くは農村の不条理で暴力的な因襲によるものであり、その息が詰まるような閉塞感が悲劇を生み出す。特に姥捨てをテーマにした「山女」の残酷さと遣り切れなさは花輪作品の真骨頂だろう。しかしそんな因襲への「因果応報」とも呼ぶべき復讐をスカッと描いた作品、その因習からの逃走を描いた作品も見られ花輪作品の肯定的な部分もきちんと読む事が出来る。