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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20131113(Wed)

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■天使エスメラルダ: 9つの物語 / ドン・デリーロ

天使エスメラルダ: 9つの物語

島から出られないリゾート客。スラム街の少女と修道女。第三次世界大戦に携わる宇宙飛行士。娘たちのテレビ出演を塀の中から見守る囚人。大地震の余震に脅える音楽教師―。様々な現実を生きるアメリカ人たちの姿が、私たちの生の形をも浮き彫りにする。四人の訳者によるみずみずしく鮮明な9篇。1979年から2011年まで。現代アメリカ文学の巨匠、初の短篇集。

現代アメリカを代表する作家といえば「トマス・ピンチョンフィリップ・ロスコーマック・マッカーシードン・デリーロ」なのだそうだが、どれもそれほどきちんと読んでいなくて、トマス・ピンチョンは途中で挫折したしコーマック・マッカーシーは読んだけど辛気臭くて嫌いだし、フィリップ・ロスドン・デリーロは読んですらいない。しかしこのドン・デリーロ、先ごろデヴィッド・クローネンバーグで映画化された『コズモポリス』の原作者ではないか。いやあ『コズモポリス』、能書きばかり多い上に主人公は変態という妙な映画だったなあ、でもなんだか記憶に焼き付いて離れない映画だったなあ。

確かにドン・デリーロ、存在こそ知ってはいたが、訳出されている作品が少ない上に殆ど絶版、なかなか縁遠い作家だったのだが、このたび短編集が訳出されたというのでちょっと読んで見ることにした。収録作品は1979年から2011年まで描かれた全9作。すらすら読める、なんていうのとは逆の、非常に歯応えのある文章の作品ばかりで、そして物語に最初に設定された世界や状況に対し、そこに登場する人物たちがなにか他のことばかり考え、その状況からどんどん逸脱してゆく、といった意識の流れを描く作品が多く感じた。

例えば『天地創造』はいずこかの南国で飛行機に乗れずにこの土地を離れられない男女の物語だが、この状況にもかかわらず焦燥とも諦念とも違う些末な会話ばかりが繰り広げられる。『第三次世界大戦における人間的瞬間』では宇宙ステーションに乗り込んだ二人の男が世界大戦中の地球を見下ろしながら、どうにも観念的な会話ばかりしている。『ランナー』では目の前で嬰児誘拐を目撃した男女が会話の食い違いばかり気にしていて、『バーダー・マインホフ』では美術館で赤の他人の男に作品解釈について論議を吹っ掛けられた女が、なぜかこの男にアパートに上がり込まれて困る、なんていう謎展開を見せる。『ドフトエスキーの深夜』にいたってはどんどん逸脱してゆく会話自体が主役だ。『痩骨の人』は映画館通いの男がストーカーになっちゃう、という話だけれど、その行為と描かれる思考の流れがどこかで乖離している。

目の前に存在するこの世界は、拭うことの出来ない確固たる現実だ。それは巨大な世界であり、膨大な数の人間と莫大な数のモノと絶大な量の情報を内包しており、そしてそれらが途方もないテクノロジーによって、圧倒的なパワーとスピードでダイナミックに動いている。それは止まることの無い強大なシステムであり、世界を覆うひとつの自動機械だ。にもかかわらず、その世界を目の前にしている自分は、限定された肉体と限定された思考と限定された生命の中に閉じ込められた、いわば一滴ほどの存在でしかない。この、巨大な世界と、矮小な自分との、乖離。ここにいる自分は、それとは隔絶されているという、離人症めいた感覚。もしくは、関わりたくとも、触れることもできないほど遠くにあるように思えてしまうような感覚。現実と意識との捻じれ。ドン・デリーロのこの短編集の諸作品を読んで思ったのは、この離人症的な現実乖離感覚だ。

それは『槌と鎌』において顕著だ。経済犯罪者ばかりが入所する刑務所で、主人公と入所者たちは世界の金融危機を伝えるニュースをまんじりともせずに眺める。かつて不正なマネートレーディングで巨大な世界経済のシステムそのものを意のままに動かしていた彼らが、今は刑務者としてそのシステムから疎外され、そのシステムが崩壊する様を絵空事のように眺めている。いや、かつてそのシステムに加担したものとして、それが単なる絵空事ではないにしても、今やそれは隔絶した他所の世界の出来事なのだ。つまりこの物語では「乖離」というテーマが現実世界と刑務所という具体的な形となって描かれているという訳なのだ。

そんな作品の中で表題作『天使エスメラルダ』だけは一種異色である。ブロンクスの、「あたかも中世と変わりない悲惨と貧困が覆う」貧民街の浮浪者たちのもとを、主人公である教会修道女の女が救済のために訪問し続ける。そんな中、一人の浮浪少女の暴行殺害事件が起こるのだが、ある日その少女に関する「奇跡」のニュースを主人公が耳にする。ここでデリーロは、「貧民街の浮浪者」という社会から疎外され乖離した人々に、救済という形で積極的に関わろうとする。即ち他の作品のように「乖離」そのものをスタティックに描くのではなく、ダイナミックにその状況を変質させていこうとしているのだ。だからこそここで垣間見せる人間的要素は読む者の胸を打つ。やはりひとつ抜きんでた名作であるといえるだろう。

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