君よ鬼神たれ、女神たれ〜映画『ダバング 大胆不敵』

■ダバング 大胆不敵 (監督:アビナウ・シン・カシュヤップ 2010年インド映画)

I.

インド映画を観始めて最初の段階でその評判の高さを知ったアクション映画『Dabangg』。インドでは2010年に公開され、その続編も既に公開済みで、これは是非観なければと思っていた矢先、『ダバング 大胆不敵』というタイトルで日本公開が決定、これは輸入盤DVDではなく劇場で観るべきだ!と首を長くして待つこと数か月、公開初日の7月26日、ようやくその映像を体験することができた。

主人公の名はチュルブル・パンデー(サルマーン・カーン)。幼い頃父を亡くし、継父と腹違いの弟との不和の中で育った彼は、成長して警官となっていた。滅法腕っぷしのいい正義漢ながら、悪漢から金を巻き上げる汚職警官でもあった彼は、ある日ラッジョー(ソーナークシー・シンハー)という名の女性と出会い、彼女を見初めてしまう。しかしアル中の父親を心配する彼女は、チュルブルの願いを簡単に聞き入れることができなかった。一方、チュルブルに事あるごとに煮え湯を飲まされていた悪徳政治家スィン(ソーヌー・スード)は、チュルブルを亡き者にせんと企み、チュルブルと仲違いする弟マッキー(アルバーズ・カーン)を巻き込んである計画を実行しようとしていた。

この『ダバング』、予告編や前評判などから「法律なんてお構いなしの暴れ者デカが、問答無用で悪漢をぶちのめしてゆく痛快B級アクション」と想像していたのだが、実際観てみるとその予想の半分は覆された。まず、主人公チュルブル・パンデーが、勧善懲悪を成すだけの単純なキャラではない、という部分、そして、派手なアクションが大幅に盛り込まれてはいるけれども、その物語は「家族の絆」を主軸として描かれたものである、という部分だ。

II.

主人公チュルブル・パンデーは正義を愛する男だが、だからといって清廉潔白な聖人君主というわけではない。強盗をぶちのめし、二度とするなと言い含めて逃がしはするが、その代わり彼らから取り戻した金の上前をはねる。犯罪者相手の恐喝は当たり前、偽の証拠をでっち上げて逮捕に持ち込もうとするし、法律無視で叩きのめした相手に上司から謝罪を求められても慇懃無礼に返すだけだ。こういった警官仕事だけではなく、チュルブルの金を持ちだして結婚式を挙げた弟の元に乗り込み、その会場を乗っ取って自分の結婚式を挙げたりもする。このチュルブルという男は、奇妙に善悪が混沌とし、時として暗い情念を吐き出してしまう男なのだ。

しかしそれでも、彼はアンチ・ヒーローやダーティー・ヒーローとしてだけ描かれているわけではない。では彼はどんな男なのか?というと、非常に強い信念と情熱を持ちながらも、それを表に上手く出すことができない不器用者なのだ。それは彼のいつも浮かべているしかめっ面によく表れている。喜怒哀楽を上手く表わせないのだ。彼の言動はいつもぶっきらぼうだし、唐突だ。それは、「上手く言えない」からなのだ。それを「男らしさ」と勘違いしているのだ。そして「上手く言えない」彼は、そのもどかしさから暴力的になるし、的外れな正義を振りかざすし、逆にひょうきんにお道化て見せたりもする。

そして『ダバング』の家族を描く映画としての側面だ。それは幼い頃から続く継父と腹違いの弟との確執、そして母親への大きな愛情だ。その確執は悪徳政治家スィンの陰謀の標的にされ、チュルブルと継父・弟との溝は次第に深いものとなり、そして母親はその心労に倒れる。チュルブルは肉親への愛憎がない交ぜとなった複雑な心境に至るも、ここでも彼の不器用さが災いし、その溝を自ら修復不可能なものとしてしまう。もう親でも子でもない、そう言い渡されたチュルブルだが、スィンの魔の手は彼の家族の命まで脅かそうとし始める。そしてその葛藤を振り払い、チュルブルは遂に立ち上がるのだ。

III.

一人のアクション・ヒーローに、ここまで陰影に富んだ性格付けを成した作品があっただろうか。この一言で言い表せない複雑さを持ったキャラクターだからこそ、主人公チュルブル・パンデーは血肉を備えた一人の人間として観客の前に立ち現れ、そして観客は最初戸惑いながらも、次第に彼のそんな人間性を、いびつながらもどこか憎めない部分を愛してしまうのだ。そして、その彼がいよいよ憤怒に燃え最後の戦いに挑むとき、これまでの物語で培われてきた彼への熱い共感が、巨大なる感情の渦となって物語のスペクタクルをどこまでも高みへと持ち上げてゆくのである。

チュルブルは跳ぶ、重力など存在せぬかのように。チュルブルは駆ける、世界で最も早い獣のように。彼の剛力は全てのものをなぎ倒し、石壁さえも破り、敵を高々と宙へ放り投げる。鬼神の如く、という言葉があるけれども、この時チュルブルはまさしく活殺自在の鬼神なのであり、それはヒンドゥーの破壊創造神シヴァそのものだ。そう、インド映画は、その画面の中で疾風迅雷の活躍を見せるヒーローに、ヒンドゥーの神を重ね合わせているに違いないのだ。この時、一介の警察官でしかなかったチュルブルに、鬼神が宿るのである。

神であり鬼神であるチュルブルは無敵であり、ゆえに「恐れるものは何もない(=Dabangg)」、そして悪を成すものは徹底的に叩き潰す、なぜならその勧善懲悪こそが神意だからである。そのチェルブルが愛し愛されるヒロイン・ラッジョーはその美しさと慈愛ゆえにまた女神なのであり、それはシヴァの妻であり金色の肌を持つパールヴァティーと呼びならわすこともできるだろう。そして映画を賑わす勇壮な歌と艶やかな踊りは、そんな神々への祝福であり祝祭なのだ。君よ鬼神たれ、女神たれ。映画『ダバング 大胆不敵』は、一人の不器用な男が一柱の鬼神となって暴れまわり、その神意を顕す祝祭映画だったのだ。