Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20151030(Fri)

[][]ボンベイな映画を3作観た〜『Bombay』『Salaam Bombay!』『Bombay Talkies』 ボンベイな映画を3作観た〜『Bombay』『Salaam Bombay!』『Bombay Talkies』を含むブックマーク ボンベイな映画を3作観た〜『Bombay』『Salaam Bombay!』『Bombay Talkies』のブックマークコメント

"ボンベイ"は現在ムンバイと呼ばれているインド最大の都市の旧称だ。インド亜大陸の西海岸に位置し、映画産業が盛んなことから"ボリウッド"という言葉の元ともなっている。今回はこの旧称ボンベイの名を冠した3作のインド映画、『Bombay』『Salaam Bombay!』『Bombay Talkies』を観てみることにした。こうして3作続けて観てみると、それぞれにインドという国の縮図が現れていて面白い。『Bombay』はインドの宗教対立を題材にし、『Salaam Bombay!』はインドの貧困問題を取扱い、そして『Bombay Talkies』はインドの映画愛がそのテーマとなっているのだ。

■宗教対立が生んだ暴動の只中で翻弄される家族〜映画『Bombay (ボンベイ)』 (監督:マニ・ラトナム 1995年インド映画)

f:id:globalhead:20150821143853j:image

物語は南インドの村に住む二人の男女の出会いから始まる。二人の名はシェーカル(アルヴィンド・スワミー)とシャーイラー(マニーシャー・コイララ)。愛しあう二人だったが、それぞれにヒンドゥームスリムであった為に、彼らの恋愛を家族は決して許しはしなかった。二人はボンベイへと駆け落ちし、双子の子をもうけて幸せに暮らしていた。しかし、そのボンベイの街に、ヒンドゥームスリムとが対立する暴動が巻き起こってしまうのだ。映画は前半を二人の出会いと幸福な結婚生活を、後半を暴動の最中、家族がばらばらとなり、死の恐怖に追い立てられながら彷徨う姿が描かれてゆく。監督は『Dil Se.. (ディル・セ 心から)』(レビュー)のマニ・ラトナム。

劇中描かれる暴動は1992年のイスラム寺院破壊事件に端を発する実際の大惨事を元にしており、この時は2000人以上の市民が犠牲になったのだという。インドにおけるヒンドゥー/ムスリムの宗教的対立はかねてから非常に根深いものとなっており、この暴動の後も2002年に「グジャラート暴動」が発生し、これなどは映画『Kai Po Che』(レヴュー)で再現されていたのが記憶に新しい。この作品で描かれる殺戮にまみれた暴動もまた地獄図の様子を呈し、しかもそれがそれほど遠くない過去にインド最大の都市で起こったことである、といった点が恐ろしくも感じる。例えば想像して観て欲しい、東京のど真ん中で暴動が起き、何千人という死傷者が出る、という状況を。しかもそれが何度も繰り返される、ということを。

しかしこの作品は暴動の破壊的恐怖のみを取り上げたものでは決して無く、むしろこのような痛ましい事件を乗り越えてのヒンドゥー/ムスリムの融和を描こうとする。主人公二人に生まれた双子にそれぞれヒンドゥー名とムスリム名が付けられていることは象徴的であるし、また、最初は猛烈に反対していた二人の親が、信教の垣根を超えて歩み寄ろうとする描写などにもそれは現れている。そして作中ではインド映画らしい美しい歌と踊りが盛り込まれ、作品テーマの持つ重苦しさを緩和し、決して陰鬱な物語としてはいないのだ。前半のロマンスと幸福な結婚生活展開は若干退屈ではあるが、後半への対比として用意されたものなのだろう。それにしてもヒロインを演じたマニーシャー・コイララ、美しい女優ではあるが『Dil Se..』と同様に薄幸キャラだというのは、やはり薄幸顔だからなのだろうか…。

■スラムに生きるストリート・チルドレンの悲しみ〜映画『Salaam Bombay!(サラーム・ボンベイ!)』(監督:ミーラー・ナーヤル 1988年インド/イギリス/フランス/アメリカ映画)

f:id:globalhead:20150818160525j:image

映画『Salaam Bombay!』はボンベイのスラム街の、その底辺で生きる人々を描いた作品だ。ここに登場するのは、売春婦、ポン引き、売人、ヤク中、かっぱらいなどであり、その殆どが貧困に喘ぎ、明日のない暮らしを営んでいる。主人公はそんなスラム街で寝起きするストリートチルドレン、クリシュナ(シャフィーク・サイード)。彼の眼を通し、インド最大の都市の暗部を浮き上がらせてゆくのだ。

物語は冒頭から陰惨だ。年端もいかぬ少女が売春宿に売られ、嗚咽を上げながら宿へと引き摺られてゆくのだ。主人公クリシュナはそんな町でチャイを売り、雀の涙ほどの給金を貯めながらいつか母がいるはずの故郷に帰る日を夢見ている。この作品では実際のストリートチルドレンをオーディションし、主人公演じるシャフィーク・サイードもその一人だという。また、実際のスラム街にカメラを入れ、その現実を描いたという部分で、当時のインド映画では画期的なものであったのらしい。この辺は監督がドキュメンタリー映画出身であること、製作がインドのみならず、英・仏・米が関わっていることにも如実に表れているだろう。ただそのせいか、"貧しい国"インドを"豊かな"先進国側から見た作品のようにも思えてしまった。

この作品はインドの現実の一端を切り取り、それを真摯に描くことにより、どうしてもその【悲惨さ】ばかりに注視させてしまう作品になっているが、しかしそういった【悲惨さ】の中にあっても、なんとしても生き抜こうとする主人公少年の強い生命感は、この作品を決して陰鬱なだけのものにしていないのは確かだ。だから、もう少々救いがあってもよかったのではないかと思う。

■インド映画100周年を記念して製作されたオムニバス〜映画『Bombay Talkies』(監督:アヌラーグ・カシュヤプ/カラン・ジョーハル/ゾーヤー・アクタル/ディバーカル・バナルジー 2013年インド映画)

f:id:globalhead:20150821150856j:image

2013年にインド映画生誕100周年を記念し、4人の監督によって作られたオムニバス映画がこの『Bombay Talkies』だ。それぞれ4作の監督と主演、物語の粗筋はざっとこんな感じ:

1作目:カラン・ジョーハル監督…ある新聞社を舞台にしたゲイ青年と編集者夫婦との物語。映画的キーワードは「往年の映画名ソング」。主演・ラーニー・ムカルジー。

2作目:ディバーカル・バナルジー監督…ひょんなことから映画の通行人役をすることになった男はかつて役者志望だった。主演・ナワーズッディーン・シッディーキー。

3作目:ゾーヤー・アクタル監督…カトリーナ・カイフが大のお気に入りの少年(ナーマン・ジャイン)は、彼女になりきる為に女装をして踊る。カトリーナ・カイフが実際に出演。

4作目:アヌラーグ・カシュヤプ監督…病気の父を元気付ける為はるばるアミターブ・バッチャン邸に訪れた男(ヴィニート・クマール・シン)の物語。実際にアミターブが顔を出す。

オムニバスということからそれぞれは必然的に短編映画のサイズになるが、この「短編映画で何が表現できるか・またはしたいのか」と「そこにどう"映画"を絡めるのか」が本作を担った監督たちの課題ということになるだろう。その中でカラン・ジョーハル監督とゾーヤー・アクタル監督がトランス・ジェンダーをテーマに選んだのは、長編インド映画ではなかなかテーマとして盛り込むことの難しいテーマだという部分があったからなのだろうが、同時に新奇さを狙っただけということも考えられる。要するに"飛び道具"だよなあと思えたのだ。同じテーマが被るのはどうにかならなかったのか。

一方ディバーカル・バナルジー監督作はまだこのオムニバスの主題に則っていたと思う。たかが通行人でしかない役柄に役者志望者の持つメソッドをあらん限り盛り込もうとする主人公が愛おしく、主演のナワーズッディーン・シッディーキーは実にいい仕事をしていた。最後のアヌラーグ・カシュヤプ監督作は無遠慮に有名俳優に取り入ろうとする主人公の態度が個人的に苦手だった。でも実際のインド人って割りとこんなものなのかなあ。逆に言うならここまであけすけに演じた・演じさせた部分では成功している作品なのかもしれない。

どちらにしろどの作品も「映画愛」こそ伝わるが「インド映画生誕100周年」という"お祭"の為の作品としてはちょっと華が無く、むしろそれぞれの監督の短編作品の力量を吟味するオムニバスになっていると感じた。しかしその【華】となるのが実は4作が終わった後のエンディング・テーマ「Apna Bombay Talkies」だ。ここでは往年のインド映画大スターたちの姿がモンタージュされ、さらに現代のインド映画大スターたちが代わる代わるにテーマ・ソングを歌う。これは盛り上がること必至だろう。むしろこのエンディング・テーマこそが本体で最初の4作は付け足しのように感じてしまった。

20151029(Thu)

[][]ボンベイ連続爆弾テロ事件を描くセミ・ドキュメンタリー〜映画 『Black Fridayボンベイ連続爆弾テロ事件を描くセミ・ドキュメンタリー〜映画 『Black Friday』を含むブックマーク ボンベイ連続爆弾テロ事件を描くセミ・ドキュメンタリー〜映画 『Black Friday』のブックマークコメント

Black Friday (監督:アヌラーグ・カシュヤプ 2007年インド映画)

f:id:globalhead:20151001171051j:image

映画『Black Friday』はインドで実際に起こった連続爆破テロ事件の全貌を追うセミ・ドキュメント作品だ。主演はケー・ケー・メーナン、それとチョイ役でナワーズッディーン・シッディーキーが出演している。原作はフサイン・ザイディーによるルポルタージュ「Black Friday」。

1993年3月12日金曜。ボンベイ(現・ムンバイ)市内13ヵ所で連続爆弾テロが発生、証券取引所、エア・インディア本社ビル、高級ホテル、パスポートオフィス、政党事務所などが次々と爆破される。これにより257人の命が奪われ、713人が負傷するという大惨事となる。ボンベイ警察は直ちに捜査本部を設置、警察副長官ラーケーシュ(ケー・ケー・メーナン)を陣頭指揮としてテロ組織壊滅に動き出す。絶え間ない捜査の中、一人また一人検挙されてゆくテロ構成員。そして首謀者の名として浮かびあがってきたのは、タイガー・メモン(パヴァン・マロートラー)というマフィアの名、さらにパキスタンの関与の可能性だった。

映画は冒頭からテロ犯によりボンベイ各地の建造物が次々と爆破され、人々がそれに巻き込まれてゆく様子が描かれる。当時のニュース映像も使われ、そこに映し出される夥しい死体の山はあまりに凄惨だ。こうして映画は緊張感を孕みながら徹底的にシリアスに描かれてゆく。その描写はあくまで中庸であり、警察側、テロリスト側どちらにも加担せず、事件を客観的に見極めようとする。その中で目を惹いたのは警察側の冷徹さ、凶悪と思われたテロ構成員たちの単純さと迂闊さだ。

国家を脅かす凶悪なテロ犯が相手とはいえ、警察側は情け容赦ない拷問により自供を強要する。インドでは1993年当時ですら警察による拷問は当たり前だったのだろう。インド警察の拷問は(フィクションではあるが)映画『スラムドッグ$ミリオネア』で初めて目の当たりにして驚いた記憶があるが、ドキュメンタリーでここまであからさまだと「まああちらの国だとそんなこともあるのだろうなあ」と諦観しつつ観てしまう。取調室は常に赤い照明が煌々と灯されているために画面全てが真紅で染め上げられ、一層異様さが醸し出される。

一方テロ組織の目的はなんだったのか。それは1992年のイスラム寺院破壊事件に端を発し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒とが血で血を洗う抗争を繰り広げたボンベイ暴動が原因だった。この暴動では2000人以上の市民が犠牲になったが、その殆どはイスラム教徒だった。暴動により家族を失ったイスラム教徒のマフィアたちが、タイガー・メーモーンをその首領として復讐のテロを企てたのがこの連続爆弾事件だったのだ。1992年のボンベイ暴動は映画『ボンベイ』でも描かれており、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒との根深い憎悪と反発が連綿と続いていることが分かる。

とはいえ、タイガー・メーモーンの下に集ったのはどこか間の抜けた田舎マフィアであり、事件後タイガー・メーモーンが身を隠したばかりに統率力を失ったマフィアたちは次々と検挙されてゆく。結局彼らはタイガー・メモンの捨て駒だったのだ。警察に追われ逃亡生活の中憔悴してゆくテロ犯たちの姿はあまりにも哀れである。そのタイガー・メーモーンにはパキスタンからの爆薬と武器の提供があったことが判明したが、パキスタン側はこれを否定している。映画では描かれないがタイガー・メモン(ヤクブ・メモン)は94年に逮捕され、2015年7月30日に絞首刑となっている。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151029

20151028(Wed)

[][]ボンベイ闇社会に翻弄される兄弟の愛と確執〜映画『Parinda』 ボンベイ闇社会に翻弄される兄弟の愛と確執〜映画『Parinda』を含むブックマーク ボンベイ闇社会に翻弄される兄弟の愛と確執〜映画『Parinda』のブックマークコメント

■Parinda (監督:ヴィドゥ・ヴィノード・チョープラー 1989年インド映画)

f:id:globalhead:20150910094139j:image

『Parinda』は貧しい生い立ちに生まれ、一人はマフィアに、一人は一般人へと成長した二人の兄弟の愛と確執を描くノワール・ムービーである。主演は『24 -TWENTY FOUR-』『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』などでも活躍する世界的インド映画スター、アニル・カプール。悪の道に走った兄をジャッキー・シュロフ、マフィアのドンに『Khamoshi: The Musical』(レビュー)の聾唖役が印象深かったナーナー・パーティカル。ヒロインをインド映画名女優マードゥリー・ディークシトが演じる。また監督のヴィドゥ・ヴィノード・チョープラーは『きっとうまくいく』『フェラーリの運ぶ夢』の脚本/原案/製作、『PK』の製作などにも携わっている。

父の死によりボンベイで路上生活を余儀なくされていた幼い兄弟、カラン(アニル・カプール)とキシャン(ジャッキー・シュロフ)。キシャンはカランに立派な教育を受けさせるため、自らは暗黒街に身を落としていた。カランはそんなことも知らず留学先のアメリカから帰郷し、久方ぶりの故郷でかつての友人であり、現在警官を勤めるプラカシュ(アヌパム・ケール)と再会を果たす。だがプラカシュはカランの目の前でマフィアの襲撃に遭い死亡、ショックの中警察の捜査に協力するカランは、そこで兄キシャンがマフィアの一員であることを知らされ驚愕する。キシャンに食ってかかるカランだったが、兄の心を理解し、さらに自分にもマフィアの仕事を手伝わせてくれ、と持ちかける。だがそれは、マフィア組織に友人を殺されたカランの復讐の為だった。

二人の兄弟が一人はマフィアに、もう一人は堅気の人間に、というプロットはアミターブ・バッチャン主演の映画『Deewaar』でも観ることができるが、それは単純な善悪の対立であり、それを通し兄弟愛と親子愛を高らかに謳い上げるのがテーマとなっていた。しかしこの『Parinda』では、貧しさの中家族の生活を守る為悪の道に進む男、という骨子こそは『Deewaar』と一緒なれど、堅気の筈の弟が黒社会に足入れし、さらに復讐の為マフィア組織の構成員を一人また一人と屠ってゆく、という思いもよらない展開を見せる。この物語にあるのは大渦のようになってうねる悲劇の中心へとどんどんと引き寄せられてゆく兄弟の暗黒のドラマであり、捻じれまくった運命のもつれが生み出す残酷な結末なのである。

さらにこの作品ではマフィアのボス・アンナの、じわじわと沁みだしてくるような狂気の様が凄まじい。アンナは声を荒げるでもなく暴力を振るう訳でもなく、いつもヘラヘラと口の端を曲げ、角を立てぬように口当たりのいい言葉を吐く。だが、もちろん目は決して笑っていない。そして表情も変えずに冷酷な決定を下すのは常に彼なのだ。このアンナ役であるナーナー・パーティカルの迫真の演技が素晴らしい。兄弟の確執と陰惨な運命を描くこの作品は、ナーナー・パーティカルの恐るべき演技により、なお一層その闇の深さを際立たせているのだ。この作品で彼が国家演技賞を獲得したというのも頷けるはずだ。また、映画は全編でクラシックの交響曲が使われ、物語の持つ悲劇性をなお一層重々しく彩っている。

D

20151027(Tue)

[][]狂おしき情念の果てに〜映画『Gangster』 狂おしき情念の果てに〜映画『Gangster』を含むブックマーク 狂おしき情念の果てに〜映画『Gangster』のブックマークコメント

■Gangster (監督:アヌラーグ・バス 2006年インド映画)

f:id:globalhead:20150811094823j:image

2006年公開のインド映画『Gangster』はギャングの情婦と三角関係になってしまった男を描くサスペンス・スリラーだ。副題に『A Love Story』とつけられており、愛の狭間で狂おしく揺れる男女の情念とその残酷な運命とを描いてゆく。この作品は『Queen』が大ヒットしたカンガナー・ラーナーウトのデビュー作でもある。また、この作品は殆どが韓国でロケされており、一味もふた味も違うインド映画となっている。

《物語』銃弾に撃たれ病院に緊急搬送された二人の男女。二人には何があったのか。アーカーシュ(イムラーン・ハーシュミー)は韓国にあるバーで歌うシンガーだった。彼はバーで謎めいた美女シムラン(カンガナー・ラーナーウト)と出会い、恋に落ちる。しかし、愛し合うようになってからも、自らの素性を語りたがらず、何かを忘れようと酒に溺れるシムランをカーシュはいぶかしく思っていた。そんなシムランに電話が掛かってくる。「一週間に一度しか電話をくれないなんてどういうことよ!」涙ながらに相手をなじるシムラン。その電話の相手は、シムランの愛人であり、指名手配犯でもあるギャングのダヤー(シャイニー・アーフージャー)だった。

映画『Gangster』は全編に渡って強烈な情念がほとばしる物語だ。そしてその情念はどこまでも暗く湿った悲しみに満ちている。ギャングの情婦を愛してしまったアーカーシュ、シムランへの愛を貫くため組織を抜けようとあがくダヤー、そんな二人の愛に板挟みになり引き裂かれてゆくシムラン。それぞれの愛の地獄に落とされた3人のその情念が、画面を蒼白く燃え上がらせる。作品内に横溢する感情表現の激烈さ、シンガー、アル中、愛の破綻と絶望といったキーワードから、最近日本でも公開されたインド映画『愛するがゆえに(Aashiqui2)』を個人的に思い出させたが、『Gangster』ではさらにクライム・サスペンスならではの暴力と殺戮が展開し、その闇の深さはいやおうなしに物語を悲劇へと駆り立ててゆく。

映画のロケーションは韓国なのだが、最初気付かなくて「インドにしては随分淡白な街並み…というか日本ぽくない?」と思って観ていたら、看板がハングル文字だったので「ここは韓国だったのか!」と驚いてしまった。まあ映画の最初で説明されてたのを普通に見落としてたのかもしれん…。そしてこの映画は韓国を舞台としている部分で、一時流行った無国籍なインド映画といった画面構成を持つ。オレなんかは「無国籍なインド映画」を観ると「インド映画じゃなくてええやん…」と思ってしまうし、実の所物語自体には韓国である必然性はない。ないのだが、物語自体はロケーションそのままに韓国映画を思わせるウェットで苛烈な感情の奔流によって覆われ、このロケーションは大正解だったかもしれない。

しかも、この物語はそれだけでは終わらないのだ。ギャングの情婦と三角関係になった男の悲恋物語…と思わせて、物語は後半思いもよらぬ衝撃の展開を迎えるのだ。これには正直驚かされた。単なる三角関係メロドラマなら「勝手にしろよ…」と思ってしまうオレではあるが、ことの真相が明らかになった時、その衝撃に「これは一級のサスペンスじゃないか」と確信させられた。そしてその残酷さ、悲痛さはクライマックスにおいて極限まで引き絞られ、凄まじいまでの絶望の色で画面を染め上げるのだ。その巨大な感情のうねりの様には圧倒させられた。こうしてその緊張は哀切に満ちたラストへと放たれてゆくのである。この作品がデビュー作となるカンガナー・ラーナーウトは実に堂々とした演技を見せ、その表情のキツさも物語に十分マッチし、後にヒット作女優となる片鱗をうかがわせていた。

D

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151027

20151026(Mon)

[]ジジババ怖い!〜映画『ヴィジット』 ジジババ怖い!〜映画『ヴィジット』を含むブックマーク ジジババ怖い!〜映画『ヴィジット』のブックマークコメント

■ヴィジット (監督:M・ナイト・シャマラン 2015年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20151024151212j:image

■シャマラン映画を劇場で初めて観た

実はシャマラン映画を一度も劇場で観たことがない。あの『シックス・センス』からウィル・スミスのオレ様映画『アフター・アース』まで、ほとんど全てのシャマラン映画は、レンタルでしか観たことがないのだ(ただし『ハプニング』と『エアベンダー』だけは観ていない)。オレの中でシャマラン映画が一段落ちる、というわけでもない。だいたいのシャマラン映画は、面白く観ているからだ。ではなぜ劇場で観ていないのかというと、シャマラン映画に関するネガティヴキャンペーンがうるさくて、それに関わりたくないのと、それとシャマラン映画は、殆どがたったひとつのモチーフだけで物語が形造られていて、そこに多少の物足りなさを感じていた部分があった。

そんなオレだったが、今回この『ヴィジット』、劇場で観た。確かに予告編を観たら面白そうだった、というのはあるが、それでも、これまでのシャマラン映画よりも面白そうに思えたから、という訳でもない。ただ、観てはいないが評判の芳しく無かった『エアベンダー』と、SF好きのオレですらつまらなかった『アフター・アース』という大作2本を経て、小品のサスペンス・ホラー作品という原点回帰を果たしたシャマランに、なにか「厄が落ちた」という印象を受けたのだ。それと併せ、ここ最近インド映画ばかり観ているオレが、「そういえばシャマランはインド人だったな」ということを思い出し、この辺でちょっとした新たな興味が湧いた、という部分があったように思う。

■田舎の祖父母に会いに行った姉弟が遭遇する怪異

そんなわけで劇場で観た『ヴィジット』、これが、普通に面白かった。そして、十分にホラーらしい怖さを持っていた。普通に、というのは、とりたてて「大傑作!」とか「必見!」とかいうつもりもないけれども、少なくとも、お金を払って劇場に足を運び、それに見合った満足を得られる程度に、きちんとよく撮られたホラー映画だった、ということだ。

映画の粗筋は、「田舎の祖父母に会いに行った姉弟が遭遇する怪異」といったものだが、この作品のとてもよかった所は、「いったいどうしてこんなことが起こっているのかわからない」という不気味さを描いている、という部分だ。姉妹の会った祖父母は、最初はとても優しく暖かく二人を迎えるが、そのうち、どうもこの祖父母というのが、様子がおかしい、ということに姉弟が気付いてしまうのである。夜中になると一人暗闇で人外のような行動をとっていたり、離れの小屋で呆然としていたりする姿を、姉弟は見てしまうのだ。老齢による痴呆がはいっているのかもしれない、と最初は説明されるのだが、それでも、どうにも不気味すぎるのだ。いったい祖父母にはなにがあったのか、何を隠しているのか、ということで物語は語られてゆく。

■曖昧模糊とした不安

今作『ヴィジット』は、最近何となくサスペンス・ホラー・ジャンルをあまり観る気がしなくなっていたオレでも、興味を抱き楽しんで観られる映画だった。昨今のホラー・ジャンルに食傷したのは、「霊」とか「ゾンビ」とか「気の狂った殺人者」とか「神と悪魔のオカルト対決」とか、観る前からなにが物語られるのか分かっているものばかりだからだ。それらは、ショッカーとして先鋭化し鮮烈な印象を残すけれども、「曖昧模糊とした不安」というホラーがもうひとつ得意とする表現には欠けている。映画『ヴィジット』は、この「曖昧模糊とした不安」をきちんと描いている、といった点で面白く観ることができたのだ。いったい今、何が起こっているのか?なぜ、こんなことが起こっているのか?その「なぜなのか分からない、理解ができない」という気持ち悪さ、薄気味の悪さが、映画『ヴィジット』では描かれているのだ。

そういった「なぜ、どうして」を、自分の中で理由を見つけようとしながら、考えながら観られる部分がいい。物語の中ではさりげなく様々なキーワードが散りばめられており、その中にはミスリードを促すものもあるのだろうけれども、それらキーワードを拾いながら、「これはどんな物語なのか」とあれこれ想像してしまうのだ。「あ、これはこんなオチへ持って行こうとしているのか」「しかしこんなオチだと陳腐かも」「あ、しかしこのオチはシャマラン映画で一回使っているから無しだな」などとオチの持って行き先を予想するのが楽しかった。

この物語の真相にはもちろん触れないが、その「真相」とそこから導き出される結末それ自体よりも、そこに至るまでの「謎」と「不可解さ」の持つ恐怖を堪能するのが楽しめる作品だった。それらはホラーらしい扇情的なものではあるが、扇情的過ぎて物語に破綻をきたすことのない、きちんとしたシナリオに基づいて作られている。やたらグロテスクさや肉体破損に走ることもない。そして、どことな黒い笑いもある。さらに主人公姉弟の性格設定もしっかりしており、それぞれの個性に味を持たせている。映画『ヴィジット』は、シャマランのそういった堅実さを如実に示した作品として評価できるのではないか。

D

20151023(Fri)

[][]国境を越え迷子の少女を送り届ける男の物語〜サルマン・カーン主演映画『Bajrangi Bhaijaan』 国境を越え迷子の少女を送り届ける男の物語〜サルマン・カーン主演映画『Bajrangi Bhaijaan』を含むブックマーク 国境を越え迷子の少女を送り届ける男の物語〜サルマン・カーン主演映画『Bajrangi Bhaijaan』のブックマークコメント

■Bajrangi Bhaijaan (監督:カビール・カーン 2015年インド映画)

f:id:globalhead:20151015172505j:image

■迷子の少女を救え!

迷子になってインドに取り残されちゃったパキスタン人少女を、とっても人のいいおっさんがパキスタンの生家に届けるため大奮闘しちゃう!?というとっても”はあとうおおみんぐ”なドラマです。主演はあのサルマン・カーン、ヒロインにカリーナ・カプール、共演としてナワーズッディーン・シッディーキー。監督は『タイガー/伝説のスパイ』、そして今年公開された『Phantom』のカビール・カーン。この作品は今年公開されて大ヒットを飛ばし、現在『PK』に続き歴代第2位の興行収益を記録するほどになっています。

物語はパキスタンの寒村に住む口のきけない少女シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)が、母親と共にインド巡礼に行くところから始まります。シャヒーダーはちょっとしたことから帰りの列車で途中下車してしまい、そのまま列車は発車、一人インドに取り残されてしまうのです。迷子になった彼女が目を留めたのが祭りで絶賛ハッチャケ中の男パワン(サルマン・カーン)。しつこくついてくるシャヒーダーにパワンは最初戸惑いますが、口もきけず警察もまともに相手にしない彼女を哀れに思い家に連れ帰ってしまいます。恋人ラシカー(カリーナー・カプール)と共にシャヒーダーの家を確認しようとするパワンでしたが、遂に彼女がパキスタンから来たことを知ってしまいます。ビザもパスポートも無いため故国に帰ることのできないシャヒーダーのため、パワンは彼女を連れ国境を超えること決意します。それは不可能とも言える旅の始まりでした。

■サルマン兄貴、ちょっと太ったんじゃ…

とまあこんなお話なんですが、まず一言言いたいことがあります。この映画のサルマン兄貴、相当貫禄がついてます。要するにメッチャ太ってます。なんかもう、ブクブクッって感じで体がまあるくなってます。そんななので、動きや喋りがどうにも【まったり】しちゃってます。踊りのシーンもありますが、どことなく太極拳やってるふうにも見えてしまいます。一番悲しいのは首の後ろに脂肪がついて二段首になっている部分です。太ったサルマン兄貴、なんだかサンジャイ・ダットに似てます。極楽とんぼの加藤浩次に見えないこともありません。まあこんなこと書いているオレも太っているので、太ったことを悪し様に書く事はできませんが、「あのチュルブルさんも年取るとこんななっちゃうんだー」という一抹の寂しさは拭い切れません。

実の所今作の『Bajrangi Bhaijaan』も、『Jai Ho』、『Kick』と続いてきた「思いやりに溢れた善意の人サルマン兄貴」路線の延長です。体に不自由がある人物を登場させてそれに手を差し伸べる主人公を演出するという手口も一緒です。『ダバング』シリーズ成功後に国民的大人気スターとなったサルマン兄貴が「強くてかっこいいスーパースター」であるだけでなく「高潔で仁徳に篤い人格者」のステータスを映画の登場人物に重ね合わせて打ち出そうという目論みなのでしょう。ただまあラジニカーントあたりとか見ていると意外とインドの映画スターというのはそういうものを求めている、あるいは求められるのかもしれません。それにサルマン兄貴、交通事故の件もあるしなあ。

■善意一筋の夢見がちな男と、それを支える現実的な男

ただ、どちらにしろ「いい人」なだけの主人公が活躍するドラマにはどうも興味が湧きません。別に道徳の授業を受けたくて映画を観ているわけではないからです。では今回の『Bajrangi Bhaijaan』はどうか?というと、確かに「いい人」のごり押しという臭みはあるものの、サルマン兄貴演じるパワンが殆ど「天然」と言っていいほどの馬鹿正直な男で、観ている側はその「隙だらけ」のキャラを「しょうがねえなあ」と受け入れてしまうんですよ。要するに、そんなに、悪くないんです。パワンは善意に溢れてはいるものの、同時にあまりに愚直で純朴過ぎる男として描かれます。危険な国境越えを何も考えずに決意し、さらにその方法すら無為無策です。鉄条網に覆われた国境の柵を、銃を持った兵隊たちを、パワンはどうやって突破するのか?そこに作戦や計略なんかないんです。彼はその純朴さだけを頼りに、それらを乗り越えてゆくんですよ。

しかしそれだけだとやはり「いい人の巻き起こしたいい話」というリアリティ希薄な美談にしかなりません。この物語をピリッと引き締め、リアリティをもたらす存在、それが実はナワーズッディーン・シッディーキー演じるパキスタン人ジャーナリスト、チャンドなんです。そもそもナワーズッディーンのあの南インド顔がなにしろリアリティそのものです。無為無策で特に何も考えずに行動している愚直なパワンの陰で、ああでもないこうでもないと眉間に皺寄せ七転八倒し、パワンの行動を支えている男、チャンド。彼のじたばたぶりがこの物語に可笑しさをもたらし、彼の現実的な対処方法とその尽力が結局のところ最後に物語の突破口となります。「美談」というどこかふわふわした物語に一本芯を通しているのが彼なのですよ。お約束通りとはいえ非常に感動的なクライマックスをこの物語は迎えますが、この感動は実の所サルマン一人ではなく、ナワーズッディーンの存在感があったからこそ引き立ったように思えます。

D

20151022(Thu)

[]パンドラの箱がもたらす災禍〜バンドデシネ『オリュンポス』 パンドラの箱がもたらす災禍〜バンドデシネ『オリュンポス』を含むブックマーク パンドラの箱がもたらす災禍〜バンドデシネ『オリュンポス』のブックマークコメント

■オリュンポス / ジェフ・ジョンズ&クリス・グリミンガー (著), ブッチ・ガイス (イラスト)

オリュンポス

大学のプログラムを終え、エーゲ海でダイビングを満喫する考古学部教授ゲイル・ウォーカーと彼女の学生たち―ブレント、レベッカ、サラ―は、海底から年代物の壷を引き上げる。ところが、その壷を手にした瞬間から、さまざまな災厄が彼女たちに降りかかる。突然、嵐が訪れ、武装集団が彼女たちの船を襲い、一同は見たこともない島に座礁してしまう。そしてそこには、あろうことか、ギリシャ神話の怪物たちがあふれかえっていた!これらの災いは壷の呪いに他ならなかった。それは、なんと、かの有名な“パンドラの箱”だったのだ―。はたして彼女たちは無事現実世界に戻ることができるのか!?

「海の底から壺を引きあげたらエライことになっちまったぜ!?」という物語、『オリュンポス』であります。エーゲ海で考古学の授業を兼ねてダイビングしていた教授と学生たちが、なんだかとっても古そうな壺を引きあげちゃうんですね。で、それが実はパンドラの箱だった!?というのがこの物語なんですね。教授と学生の乗った船は嵐に襲われるわ武装ギャングに襲撃されるわ挙句の果てに高波に飲まれて気が付くと見知らぬ島…そしてそこはギリシャ神話の怪物たちが跋扈する島だったのですよ!ここはどこなのか?そしてどうすれば現実世界に戻れるのか?といった感じで物語は進んでゆきます。

ここで「パンドラの"箱"の筈なのに出て来るのはどうして"壺"なの?」と思われる方もいらっしゃるでしょう。自分もそう思いました。調べてみたところ、どうやら本来は"壺"らしいんですね。

箱に関しては本来は甕である。ヘーシオドスの著書『仕事と日』の文中では、古代ギリシア語: πίθος(ピトス(壷、甕))という表記がされている。これがパンドーラーの箱について触れられている最古の書物だと言われる。

最初に「箱」と記述されたのは、ルネサンス時代、ロッテルダムのエラスムスがパンドーラーの物語をラテン語で叙述した際、ピトスの訳語としてラテン語: pyxis(ピュクシス)を用いた際であり、これ以後、「箱」の語が用いられるようになった。

Wikipedia:パンドーラー

ほうほう、なるほど勉強になるものですね。

襲い掛かるギリシャ神話のモンスターと人間たちとの戦いが次々に描かれます。登場するモンスターはお馴染みのキュクロプス、ミノタウロス、メデューサ、シーサーペントなど盛り沢山。この辺、オレなんかはレイ・ハリーハウゼンが特撮を担当した『アルゴ探検隊の大冒険』なんかを思い出しちゃいましたね。若い方なら『タイタンの戦い』や『タイタンの逆襲』あたりを思い浮かべるでしょうか。そうそう、『アルゴ探検隊』でも出てきたあの骸骨戦士も登場するのでお楽しみに!

確かに、こういった先達があるので、「今更ギリシャ神話のモンスターかあ」と思われるかもしれませんが、相手となるのは現代の人間であり、さらにマフィアの一味もいるものですからマシンガンでモンスターと戦っちゃう、なんて場面も登場して案外新鮮ではありませんか。同時に、ダイビング中だった女学生もいるものですから、ビキニ姿や袖なしヘソ出しTシャツの若い女性がいつも画面を闊歩しているのでこれはこれで目の保養なのですよ。

モンスターとの戦いばかりではなく、考古学専攻の教授や学生がギリシャ神話の知識を駆使して危機を乗り越え脱出の方法を導き出してゆくといった部分にも面白さがあります。100ページ程度といった長さの物語にこれだけたくさんのモンスターを登場させそれと戦い、さらにドラマも展開してゆくのでこれは上手にまとめたものだなあと感心させられましたね。それと、こういった物語ですので従来的なバンドデシネと比べるとアクション主体で話がストレートな分サクサク読めて楽しめるといった部分もありました。パンドラの箱(壺)は人類の災いが詰まったものとされますが、それを開封したらなぜ異次元の島に行っちゃうのか?というのも最後で説明されていますのでお楽しみに。

アルゴ探検隊の大冒険 [DVD]

アルゴ探検隊の大冒険 [DVD]

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151022

20151021(Wed)

[]最近ダラ観したDVDやらBlu-rayやら 最近ダラ観したDVDやらBlu-rayやらを含むブックマーク 最近ダラ観したDVDやらBlu-rayやらのブックマークコメント

■ジュピター (監督:ラリー・ウォシャウスキー、アンディー・ウォシャウスキー 2015年アメリカ映画)

これなあ、プロダクション・デザインの段階では結構悪くなかったんだと思うけど映像化した段階で徹底的に安っぽくなっちゃったんだろうなあ。『クラウド・アトラス』も相当作り物臭さが濃厚で辟易したが、監督のウォシャウスキー姉弟はこの辺のセンスが全く枯渇したとしか思えないな。少なくとも現代VFXの知識に乏しいんじゃないのか。お話もヤングアダルト路線の陳腐なもので、そしてなにより登場人物の顔がみんな下品。

プリデスティネーション (監督:マイケル・スピエリッグ 2014年オーストラリア映画)

タイムパラドックスSFとして思いつけるアイディアを徹底的に出し尽くしました!といっていいぐらいに練り込みまくった驚愕のタイムパラドックスSF。R.A.ハインラインの原作短編『輪廻の蛇』は1958年執筆という実に60年近く前の作品だが、作品として優れているとはいえ、これを今映画化しようとした製作者側の英断にも頭が下がる。完成度からもうかがえるように、これもひとえに原作に対する愛情や敬意があるからなんだと思う。

■ザ・デッド:インディア (監督: ハワード・J・フォード、ジョン・フォード 2013年イギリス映画)

ザ・デッド インディア [Blu-ray]

ザ・デッド インディア [Blu-ray]

今度はインドでゾンビだぜ!という『ゾンビ大陸アフリカン』続編作品。でもアフリカもインドも「荒野にゾンビ」という絵づらは変わんなくて、最初「あれ?間違って1作目また借りちゃった?」などと思ってしまった。内容も「まったり徒然ゾンビ紀行」という部分は一緒で、これ2作目作る意味があったのか?とも思ったが、実を言うとこの徒然ぶりは意外と悪くない。また、前作が軍人が主人公だったのが今作は一般人という部分で展開の違いはある。

■ワイルド・スピード SKY MISSION (監督:ジェームズ・ワン 2015年アメリカ映画)

まあ、もともと大味なシリーズなんだが、派手になればなるほどその大味さもさらに際立つ、という内容のお話でした。なんといいますか、赤看板の居酒屋チェーン店で1000円で発泡酒飲み放題!冷凍食品食い放題!とか出されても、いや別に腹いっぱいとかいらないしその倍出してもいいからちゃんとしたもの飲み食いさせてよ、といった気分だな。

博士と彼女のセオリー (監督:ジェームズ・マーシュ 2014年イギリス映画)

スティーブン・ホーキング博士の半生を描く!と言うことで、難病を発症しつつも不撓不屈の精神で最新宇宙理論を生み出していく、という展開はほうほう言いながら観ていたのだが、途中からどうにも赤裸々な夫婦のシモを巡る生臭い話になってゆき、「なんじゃこりゃ!?」と思ってたらこの作品、博士の離婚した元嫁の本が原作なのね…。まあそれがリアリズムっていわれたらその通りなんだが、そうじゃなくて博士の知性のひらめきの根本にあるものとかそういうのを観たかったんだけどな。宇宙理論的なイメージ映像も挟まれることは挟まれるが、雰囲気止まりで物足りないんだよな。

■ナイトミュージアム/エジプト王の秘密 (監督:ショーン・レヴィ 2014年アメリカ映画)

『ナイトミュージアム』の続編かあ、と思ったら、これってシリーズ3作目だったんだね…2作目観たっけ…。どちらにしろ舞台をアメリカのスミソニアン博物館から大英博物館に移した、というのが非常に成功していて楽しむことができた。まあ毒にも薬にもならないファミリームービーなんだが、こういうのもたまにはいいではないか。

■メイズ・ランナー (監督:ウェス・ボール 2014年アメリカ映画)

ヤングアダルト作品原作だけあって10代の男の子だけが中心の世界が描かれてて、ああ、この迷宮の中の居留地って10代の閉塞感とモラトリアムを描いたものなんだね、と分析した段階で全てが終わってしまう物語ではある。しかし血気盛んな男の子だけで何年間も閉鎖的なコロニーに住むのって性処理はどうなってたんだろうか…とシモのほうばかり考えてしまった。

■殺し屋チャーリーと6人の悪党 (監督:クリフ・ステンダース 2014年アメリカ/オーストラリア映画)

殺し屋チャーリーと6人の悪党 [DVD]

殺し屋チャーリーと6人の悪党 [DVD]

サイモン・ペッグ主演のブラック・コメディ風味なクライム・ストーリー。そこそこ練られた脚本とはいえ、やはりサイモン・ペッグが出ていなければ興味はわかなかっただろうし、サイモン・ペッグが出ていなければそんなに楽しむことはなかっただろうな…と思わせるレベルではある。

■龍三と七人の子分たち (監督:北野武 2014年日本映画)

『龍三と七人の子分たち』観たがすいませんちょっとナメてました。俳優とシナリオが素晴らしい。ギャグが殆どすべらない。老人が主人公のドラマはヨーロッパ映画にすら思える。暴力だけが見せ場ではない北野映画として、これはひょっとしたら最高傑作かもしれない。この作品はアメリカやヨーロッパでリメイクしても違和感がない。過去の栄光にすがる老人たちが一花咲かせる物語として成熟しさらに老成した社会ならではのペーソスを生み出せる。ただしアメリカなら最後はウェットになるだろうしヨーロッパならもっとスラップスティックになるだろう。そしてペーソスだけで押し通すのかと思わせた。クライマックスで北野映画らしくとんでもなく狂ってくれる。この意表の付き方がいい、そしてまたもや笑わせるのだ。クライマックスのあのカーチェイスは、ひょっとしたら日本映画最高のカーチェイスかもしれない。

トゥルー・ロマンス (監督:トニー・スコット 1993年アメリカ映画)

監督トニー・スコットで脚本クエンティン・タランティーノのこの作品、実は今まで観ていなかったのである。きっと主演のクリスチャン・スレーターの猿顔が嫌いだったからだと思う。しかし今現在こうして観てみても実にこの頃のタランティーノらしいシナリオで楽しむことができた。極度に残虐かつ極度に躁的で誰も彼も何も考えてないという。主人公が娼館に殴り込みかけるシーンでは「こいつの『タクシードライバー』のトラビスじゃんかよ」と思ってしまった。どん底にいる筈の連中が軽やかに生きている様が(何も考えてないからだが)素晴らしい。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151021

20151020(Tue)

[]秋の久正人祭り開催中 秋の久正人祭り開催中を含むブックマーク 秋の久正人祭り開催中のブックマークコメント

行楽の秋、食欲の秋、芸術の秋と秋にはいろんな楽しみがありますが、忘れちゃいけない久正人の秋!なんと久正人のコミック作品3作がこの秋にドドッ!!と発売されたのですよ!いやあオレも長年漫画を読み続けてきましたが、一人の漫画家の新作コミックが一度に3冊出されるなんて初めての体験ですね。これはもう今、久正人がキまくっている、ということの証拠ですね。知ってる方はとっくに読んでいるでしょうが、知らない方はこれを機会に読むがいいのだと思うのですよ。

ノブナガン (6) / 久正人

ノブナガン(6) (アース・スターコミックス)

ノブナガン(6) (アース・スターコミックス)

まずはノブナガン』第6巻。平凡な日本の女子高生・小椋しおが偉人の力を受け継いだ仲間と一緒に恐竜みたいな謎の生物「進化侵略体」と戦う、SFバトルアクション作品なんですが、なんと!今作で最終刊だというではないですか!?聞いてないよ!?滅亡か勝利かというぎりぎりの瀬戸際で戦うこの物語、いったいどうやって畳むんだ!?と思ってたら見事なエンディングを迎えていて感涙してしまいました。作者あとがきにも書かれていましたが、久正人の長編が打ち切りとかではなくちゃんと終わるのってこれが初めてなんで、作者の「終わらせ方の妙味」をしみじみと堪能させてもらいました。パチパチパチ。

■エリア51 (11) / 久正人

エリア51  11 (BUNCH COMICS)

エリア51 11 (BUNCH COMICS)

お次は『エリア51』第11巻。モンスターや神話の神など世界中の異形を集めて隔離した、アメリカ51番目の州「エリア51」で探偵業を営む真鯉徳子(通称「マッコイ」)の活躍を描いた作品なんですが、いやこれも11巻目とは長いですね。しかも全然アイディアが尽きないのが凄いですね。神々同士の戦いやエリア51消失の危機などスケールの大きな事件を幾つも経てきて、ここまで大風呂敷拡げたらインフレ起こさないか、とか思ったのは杞憂で、”伝説の異形存在”の個性を巧く生かしながら手を変え品を変え様々なエピソードを紡いでゆく手腕は、もうこのテの作品書かせたらこの人が1番だな、と思わされますね。

■ジャバウォッキ―1914 (1) / 久正人

ジャバウォッキー1914(1) (シリウスKC)

ジャバウォッキー1914(1) (シリウスKC)

そして最後に『ジャバウォッキ―1914』第1巻。あのジャバウォッキ―が装いも新たに帰ってきた!という新シリーズなんですが、物語は前作の主人公であったリリー・アプリコットの子供たちが主人公となり、またもや地球を奪い返そうと企む恐竜種族と戦う!といったお話なんですね。前作では19世紀末のサイバーパンクな世界観が魅力でしたが、今作では第1次世界大戦中の時代が舞台になっており、そういった世情のきな臭さも加味されているという訳なんですよ。一読して思ったのは、絵が相当整理されている、ということでしたね。久正人はもともと相当個性的な絵柄をしているんですが、アングルやコマ割りを弄り過ぎてときどき何描いてるんだか分かんないなんてことがあったんですが、この作品ではそれがすっきりまとめられて分かり易いんですよ。まあ作品の量産化によって簡略化せざるを得なくなった、という部分もあるかもしれませんが、逆にそれが功を奏しているんですよ。今後の展開が楽しみなシリーズですね!

20151019(Mon)

[]殺して殺して殺しまくったれ!〜映画『ジョン・ウィック殺して殺して殺しまくったれ!〜映画『ジョン・ウィック』を含むブックマーク 殺して殺して殺しまくったれ!〜映画『ジョン・ウィック』のブックマークコメント

ジョン・ウィック (監督:チャド・スタエルスキ 2014年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20151018144420j:image

■ぶっ殺しまくりなんだ!

暴漢に愛犬を殺されたキアヌ・リーブス扮するジョン・ウィックさんという方が、復讐を胸にとにかく敵を殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しまくる、という映画です。

この映画、なにしろ殺します。殺しまくります。どのくらい殺すかというと、もう殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しまくるというぐらい殺しまくります。

ジョン・ウィックさんがなぜこれほどまでに沢山殺せるのかというと、実はジョン・ウィックさん、もともと裏社会でも伝説となっているほどの腕利きの殺し屋だったからです。だった、というのは既に引退していたからなんです。素敵な女性を見つけて結婚して、幸福な生活を歩むために普通の人間に戻ったんですね。しかしその奥さんが病気で死んでしまい、ジョン・ウィックさんは一人ぼっちになってしまいます。そして奥さんは死ぬ直前に一匹の子犬を「私の代わりに愛してあげて」と遺したんです。そんな愛犬を殺されたらジョン・ウィックさん、怒るに決まってるじゃないですか。しかも愛犬を殺したのがなんと裏社会を牛耳るマフィアのドンのバカ息子。相手に取って不足ではありません。殺れ!殺ったれやジョン!

■美しく殺せ!

しかしただ殺しまくる映画ならゴマンとあります。たった一人で死体の山を築く鬼神のような主人公というのならあのランボーさんがいるじゃないですか。なんたってランボーさん、たった一人でアフガンでソ連の一個中隊全滅させましたからね(じゃなかったっけ?)。そんなランボーさんとジョン・ウィックさんは何が違うのか?というと、ジョン・ウィックさんの殺し方はスマートでスタイリッシュなんですね。とってもかっこよく相手をぶっ殺すのですよ。ランボーさんが重戦車の如く相手を叩きのめすのだとしたら、ジョン・ウィックさんはダンサーのように敵を射止めてゆくんです。その動きはあたかも日本蕎麦をツツッツツッと啜り上げるかのように流れるように滑らかなんです。なんか変な例えですね。

こんな美しい殺し方が本分ですから、ガサツで泥臭い方法の殺し方なんか登場しません。敵を大量にぶっ殺したかったら爆発物なりロケットランチャーなり使えばいいのかもしれませんが、そんな小汚い殺し方など善しとしないんです。基本は銃、そして体技で相手を倒します。敵もそれに合わせて銃と体技で向かってきます。伝説になるほどの殺しのエキスパートを相手にするのですから、敵のマフィアも最初の襲撃の段階でジョンさんを家ごと爆破するなり焼き討ちに掛けるなりすりゃあいいじゃないかと思いますし、ジョンさんの居所が知れているなら車に爆発物仕掛けるって手もあるんじゃないのか、とは思いますが、流れるように滑らかにぶっ殺すジョンさんの為に相手も流れるように滑らかにジョンさんにぶっ殺されなければならないので、そういう訳にはいかないんです。これはコンセプトの問題、ということですね。

■狂ったマシーン

しかし観てて思ったんですが、伝説の殺し屋というだけあってぶっ殺し方が手際よいジョンさんですけど、そもそもジョンさんのターゲットはマフィアのバカ息子、それとまあその取り巻き2、3人の筈なのに、ジョンさんそこに辿り着くまでに長々と苦労し過ぎです。殺し過ぎだし自分も傷つき過ぎです。伝説の、と言われるぐらいならピンポイントでそつなく相手をさくっと屠るなんてことができないんでしょうか。なんかこれじゃあ最高の料理の腕を持ちながらレシピを知らない料理人みたいじゃないですか。技術はあっても方法論が欠けているのではないでしょうかジョン・ウィックさん。まあしかし、映画自体はゲームのとっても上手い人がアクション・ゲームですいすいと敵を倒してゆく様子を横で眺めているような爽快感があります。

つまりこの爽快感は、熟練した技を見せられることの爽快感なんですね。この時ジョンさんは一個の戦闘マシーンと化しているんですね。マシーンの如く正確で効率的に相手を倒してゆくんですよ。そもそも、最高の殺し屋であったジョンさんは、情け無用で人を易々と殺す、という魂のない機械であったわけなんですよ。それが、愛する女性ができたことで、魂を取り戻し人間へと復活するんですが、その愛する者を失うことでまたマシーンに戻ってしまう、というのがこの物語なんだと思いますね。しかも今度はコマンドが発動したまま停止することが無い、そして手当たり次第に殺戮というジョブを繰り返す、そういった、狂った機械の悲しさ、恐ろしさがこの物語の本質なんではないか、とちょっと思いました。いや、単なる思い付きですけど。

D

20151016(Fri)

[][]最新日本公開インド映画を網羅した『インド映画完全ガイド』が発売されたのであなたは読むがいいのです。 最新日本公開インド映画を網羅した『インド映画完全ガイド』が発売されたのであなたは読むがいいのです。を含むブックマーク 最新日本公開インド映画を網羅した『インド映画完全ガイド』が発売されたのであなたは読むがいいのです。のブックマークコメント

■インド映画完全ガイド マサラムービーから新感覚インド映画へ / 松岡環(監修・編)夏目美雪+佐野亨(編集)

インド映画完全ガイド マサラムービーから新感覚インド映画へ

◎"マサラ・ムービー"?"新感覚派"?

「インド映画キテルらしいけど、興味はあるけどどんな映画あるか分かんないし、どれが面白いか分かんないし、そんな一所懸命探すのも面倒だし、いったいどうすりゃいいの?」と思われてるそこのアナタ。そうそう、アナタです。そんなアナタに絶好な本が発売されました。これです。『インド映画完全ガイド』。サブタイトルは「マサラムービーから新感覚インド映画へ」。

「マサラってインドカレー屋で聞いたことあるな。インドだしカレー映画って理解でOK?」と思われましたか。いやカレー映画でも問題ありません。一応知ったようなことを言うとマサラとは「南アジアの料理における用語で、様々な香辛料を粉状にして混ぜ合わせた物」のことで、つまりマサラのようにいろんな要素が混ぜこぜになった映画のことを指します。それは恋愛!アクション!感動!驚異!笑い!当然歌と踊り!その他もろもろ!のオールインワン・ムービーということです。昔の日本の正月映画もこんなものでした。老若男女誰でも楽しめにっこり笑って劇場から出ていける。そんな映画のことです。

一方「新感覚インド映画」ってなんなんでしょう。それは先に挙げた「マサラ・ムービー」の範疇から外れ、シナリオや構成に重きを置き、さらに「歌わない踊らない」という現代のインド映画の潮流です。ハリウッド映画的になってきたとも言えますが、インド映画はハリウッドを学習しつつも別にハリウッドを目指しているわけでは無いのでこの言い方はちょっと正確ではありません。むしろ「高度経済成長下における都市部の観客のニーズ」ということなんですが、こういうメンドクサイ文言はオレも単なる受け売りだし特に忘れて構わないです。知ってもらいたいのは「今や歌って踊ってばかりいてなんだか知らないけどダラダラと長いインド映画ばかりじゃなくなってきてるんですよ」ということです。

◎最新日本公開インド映画作品ガイド

この『インド映画完全ガイド』は主に日本で最近まで公開されたインド映画を中心に構成されています。ごく最近の作品はDVDやBlu-rayで入手可能だし、当然レンタルで観ることもできます。ただしちょっと古い作品だとソフトのリリースはあったものの現在廃盤というものが多く、これはレンタル店でしつこく探すしかありません。どちらにしろ、日本語字幕、あるいは吹き替えのある、容易に観ることのできるインド映画作品が並べられています。同時に、紹介されているインド映画スターも、これも日本公開作のある有名スターが中心となっています。

こういった構成から、この『インド映画完全ガイド』はあくまでインド映画のスターターガイドというものになっており、これからインド映画を観られる方にはとても分かり易く情報の網羅された本になっています。逆に言うなら、さんざんインド映画を観てきた方にとっては知っていることばかりで残念ながら新鮮味が乏しいかもしれません。海外からインド映画輸入DVDを購入して視聴しているようなコア・ファンには、むしろ「インド映画の膨大な海」から珠玉の作品の数々を選び出し紹介するような書籍が必要かもしれません。というかそういう本があったらこのオレが欲しいぐらいなのですが、まあニーズの数を考えると出版は難しいだろうナァ…ということは容易に想像できます。

そういった部分で、この本は最新インド映画ガイドではあっても"インド映画「完全」ガイド"ではないのですが、執筆者サイドにも構成に対する葛藤はあったかと思います。2000円程度の購入しやすい価格でカラーページの多い200ページ程度のボリュームを持つムック本で出来ることの限界というのはやはりあるのです。また、インド映画理解をまともにやろうとすると、その文化や歴史、文学、宗教のありかたのみならず、地勢や言語・人種・人口構成、経済成長推移まで動員して観なければならならないという、おそろしくハードルの高いものになってしまいます。もうこうなってくると学問の領域であり、それはそれで楽しかったりはするのですが、「映画を楽しみたい」という純粋さからは一歩離れたものになってしまいます。

それを補うものとして、この本では4章以降に「インド映画の全貌」「インド映画の多様な要素」「インド映画を知るためのデータと資料」という章が用意されています。ここでは1作1作の映画紹介を離れ、より専門的に、しかも簡易にインド映画の全体像とその潮流の行方を語ってゆきます。多分執筆者の方々は「この短さではとても語れない」ことをどれだけ短く分かり易く書くのかに腐心されたことでしょう。しかしこの4章以降にこの本の真価が発揮されています。短くはありますが、ここにこそ「完全」ガイドへの試行錯誤が見え隠れするのです。こういう本は、やはり売れなければなりません。そして、売れることで、内容が改訂されさらに充実した2版、3版が出版されることを夢見たいと思います。

※Amazonでは「インド映画完全ガイド ボリウッド・フィルムに首ったけ」というタイトルで紹介されていますが実際は「インド映画完全ガイド マサラムービーから新感覚インド映画へ」です。

◎内容紹介

ムトゥ 踊るマハラジャ』以降のインド映画を、その変化を踏まえつつ分析し、歌って踊るマサラムービーだけでない「新感覚インド映画」とも呼ぶべき、現在の多様な魅力を紹介する。見るべきインド映画、インド映画の大スターたち、インド映画の歴史、データと資料など、盛りだくさんの内容。


【目次】

序章 いま、インド映画が来てる!

第1章 インド映画のここに注目!

第2章 インド映画のスター

第3章 見ておきたいインド映画ベストセレクション

第4章 インド映画の全貌

第5章 インド映画の多様な要素

第6章 インド映画を知るためのデータと資料


【著者について】

インド映画字幕翻訳者。インド映画研究の第一人者。大阪外国語大学インド・パキスタン語科卒。『ムトゥ 踊るマハラジャ』ほかの字幕翻訳を担当。


内容(「BOOK」データベースより)

あらゆる娯楽要素を盛り込んだ典型的な「マサラムービー」の時代から転じて、インド映画はより多様性を見せ始めた。これらの「新感覚」インド映画は、新たな魅力で幅広い観客層を魅了しつつある。日本で一大ブームとなった『ムトゥ 踊るマハラジャ』以降のインド映画を、その変化を踏まえつつ分析し、『きっと、うまくいく』『マダム・イン・ニューヨーク』『めぐり逢わせのお弁当』『女神は二度微笑む』等に見られる新たな魅力と、多様性の全貌を紹介する。

20151015(Thu)

[]最近聴いたエレクトロニック・ミュージックその他 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックその他を含むブックマーク 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックその他のブックマークコメント

◆Music Complete / New Order

New Orederによる9枚目のフル・アルバムはピーター・フック脱退、MUTE移籍を経た10年振りのものとなる。エレクトロサウンドを前面に押し出した、とあるが、ピーター・フック脱退による変化はよく聴くとそこここに現れていて、全体的に低音が乏しくモコモコと濁った音をしており、New Order独特の透き通った狂気は鳴りを潜め、ある意味バーナード・サムナー名義の別バンドと言われても納得してしまうような音だ。う〜んまあキャリアを存続させるためにはしょうがないとは言えるが、楽曲の良さは少なくとも落ちた。 《試聴》

◆Hit N Run: Phase One / Prince

前作『Art Official Age』の余り物を集めたということらしいが、山ほど楽曲を持つプリンスにとっては別に珍しいことでもなんでもなく、コンセプト性は希薄だがクオリティはプリンス印のお墨付きなので文句言わずに聴くのが吉というものである。

◆µ20 (20 Years of Planet Mu) / Various

f:id:globalhead:20151013155319j:image

UKのエレクトロニック・ミュージック・レーベル《Planet Mu》が20周年を記念してリリースしたレーベルコンピ全50曲入り。ジューク/ポスト・ダブステップ/シンセ・ウェイヴ/ヴェイパー・ウェイヴ/ニューエイジなど、エレクトロニック・ミュージックの最先端部分を体験できる。 《試聴》

◆Nobody Knows Remixes / Joris Voorn

Nobody Knows Remixes

Nobody Knows Remixes

今年2月にリリースされたJoris Voornのアルバム「Nobody Knows」のリミックス・アルバム。彼らしい静謐の中に躍動を感じさせるミックス。 《試聴》

◆Obsidian / Benjamin Damage

Obsidian

Obsidian

テクノ・レーベル「50 Weapons」の最後のリリースとなったBenjamin Damageの最新アルバム。Benjamin Damageはこのアルバムについて「僕が今まで好きになったいろいろな音楽の思い出のコレクションを、変形、再構築し、テクノのフルレングス・レコードにしたもの」と語っている。 《試聴》

◆Defected In The House Miami 2015 / Various

Defected In The House Miami 2015

Defected In The House Miami 2015

UK/ヨーロッパのアッパーなクラブシーンをリードするDefectedレーベルの恒例ミックス・アルバム。AmazonのD/L版では70分程度のミックスが3曲とノン・ミックス40曲、全8時間25分で¥1500とたいへんお得。 《試聴》

◆Deliverance Series No.3 / Shackleton

Deliverance Series No. 3

Deliverance Series No. 3

ダブ・ステップ/ベース・ミュージック・プロデューサー、Shackletonのニューシングル。安定のディープさ。 《試聴》

◆Limp Biscuit Anthem/Touching Me / Gerry Read

Limp Biscuit Anthem / Touching Me [Explicit]

Limp Biscuit Anthem / Touching Me [Explicit]

ハウス/ベース・ミュージック・プロデューサー、Gerry Readのニュー・シングル。歪んだミックスが面白い。 《試聴》

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151015

20151014(Wed)

[]最近読んだコミック/『誰でもないところからの眺め』『孤独のグルメ(2)』『プリニウス(3)』『監獄学園(18)』 最近読んだコミック/『誰でもないところからの眺め』『孤独のグルメ(2)』『プリニウス(3)』『監獄学園(18)』を含むブックマーク 最近読んだコミック/『誰でもないところからの眺め』『孤独のグルメ(2)』『プリニウス(3)』『監獄学園(18)』のブックマークコメント

■誰でもないところからの眺め / いがらしみきお

誰でもないところからの眺め

誰でもないところからの眺め

人間やめますか? それとも生き物やめますか? 生存本能を揺さぶる物語 大震災から4年、見えないところから壊れ始めているこの世界。気付かずに暮らすあなたが正気なのか。逃げ出そうとあがく彼らこそが正気なのか。いがらしみきおが、あなたの理性と感性と、そして何より生存本能を揺さぶる

――藻谷浩介(『里山資本主義』『デフレの正体』)

不安と不安と不安と、そしてその先の針のような希望と。リアルってこういうことをいうんだと思う。

――しりあがり寿(漫画家)

震災から数年経った東北の地。余震がしだいに強まり、住民たちに異変が生じていく……。いがらしみきおの最高傑作。

「神性の存在」に鋭く迫ったいがらしみきおの長編『I』(レヴュー)は、そのクライマックスにおいて著者自身も体験した東日本大震災を物語の中に持ち込み、「悲痛な運命の中ですら神の存在を認めなければならぬのか」という部分まで切り込もうとしていた。いがらしにとって、長編『I』は当初の抽象的なテーマから目の前でまさに起こっている悲惨をどう受け止めねばならないのかという現実的なものへと変更を余儀なくされた作品であり、透徹した作品であったにせよ、その"ぶれ"が、長編『I』をどこか煮え切らない作品へとさせてしまっていた。

そして改めて世に問うたのがこの『誰でもないところからの眺め』である。舞台は震災後の東北であり、なお続く余震に人々は不安を覚えながら生活している。そしてそこに、得体の知れない怪異が起こり、そして住民たちの精神に、奇怪な変異が起こってゆく、というものを描いている。ここでいがらしは、社会性に縛られ身動きのできない人間の姿と、直観の赴くまま生きようとするいわゆる"ノマド"としての人間の差異を描こうとする。それは一言でいうなら従来的な人間性へのアナーキズムであるのだろう。多分いがらしは、不安を抱えながらそれを押し殺して生きざるを得ない人間とそうせざるを得ない人間社会へのアンチテーゼを描きたかったのだろう。

だがしかし、得体の知れない怪異を始めとする描写は結局思わせぶりで終わっており、"ノマド"として生きる人間たちの姿には何ら説得力が無い。つまりテーマの煮詰め方がまだまだ甘いのだ。これは東日本大震災の悲惨というものがいがらしの中でいまだ対象化できないからということではあるが、だがしかし、あのような悲惨が、それほど容易く対象化することなどできない、いやむしろ、そもそも対象化などという行為が不可能でしかない、ということの表れでもあるのだ。だからこそいがらしはもだえ苦しむ。そのもだえ苦しむ表現者としての「現在」がこの作品なのであり、そのいがらしの苦悩を追体験する、というのがこの作品の正しい読み方なのではないかと思う。

孤独のグルメ(2) / 久住昌之, 谷口ジロー

孤独のグルメ2

孤独のグルメ2

累計80万部突破の異色グルメマンガ待望の第2弾が18年ぶりに登場!あの井之頭五郎が帰ってきた! 男が一人で淡々とメシを食う姿を描いた人気ハードボイルド・グルメマンガの新作がいよいよ登場。おでん、ラーメン、ピザ、ブリ照り焼き定食など、今回もゴローがさまざまなメニューを食いまくります(なんと初の海外出張も!)。巻末には平松洋子氏のエッセイも収録。

孤独のグルメ』の2巻、前作から18年ぶりだそうだ。1巻目刊行当時は久住昌之+泉晴紀コンビによる「泉昌之」マンガが好きだったのでその延長で読んだのだが、谷口ジローの絵自体はそれほど得意ではなかったので、奇妙な違和感と新鮮さとが合わさった読後感だった。基本的には「どうということのないものに異様にこだわる」久住のセンスを谷口の端正な絵でもって描くことによりミスマッチを狙う、というコンセプトの作品なんだろうな、と受け止めた。

そのコンセプトの成功はその後のこの作品の絶大な評価で証明されたが、しかしコンセプト自体はそれで完結したのだと思う。久住がその後も大衆食堂や酒場を題材にあれやこれやの作品を生み出しながら、あれほど売れた谷口コンビでの『孤独のグルメ』だけが出されなかったのは、久住にとって『孤独のグルメ』的な手法が既に「終了した」ものだからだったのではないか。まあ単に谷口とのスケジュールが合わなかっただけかもしれないが。この2巻が久住的センスにはブレがないものの、1巻目の緊張感が薄く、泉昌之描く『食の軍師』よりも情報量が少なく、さらに1巻目の焼き直し程度のものにしか思えないのは、1巻目のヒットによる周囲の要請につき合わされる形で久住が関わったからだろうと想像されるのだが。

それにしてもこの2巻目も売れているようで、近所の書店では売り切れ状態だった。その代り『孤独のグルメ 巡礼ガイド2』とかいうよく見ないと間違えそうな本が置いてあり、なにかバッタモノ商法で引っ掛けるつもりなのかと思ってしまった。だいたい『孤独のグルメ』の殆どの物語はたまたま立ち寄ったどこかの街のたまたまふらっと入った食堂の食べ物を全力で食うことを描いた作品なわけで、そんな店のモデルをわざわざ探して訪れるというのはちょっと違うんじゃないかと思ったが。あ、しかしオレ、まるます屋は行ったな…。

■プリニウス(3) / ヤマザキマリ, とり・みき

『テルマエ・ロマエ』のヤマザキマリと異能の漫画家とり・みきによるコラボ・コミック『プリニウス』、第3巻を迎えてやっと確信したがやっぱりこの作品野心的ではあるが失敗作なんじゃないだろうか。それぞれに知的な漫画家同士が知的ゆえに気を使いあって物語の舵取りが出来ていないように感じるのだ。全体的にはとり・みきの幻想趣味が目立つとはいえ、かといってとり・みきらしい崩壊感覚に結びつくことなく、ヤマザキの博学はかの時代のローマを詳らかに描写するけれども散漫に過ぎて物語の核が定まらない。ローマ風俗と奇怪な博物趣味を表現することには成功しているけれども物語としてのダイナミズムには著しく欠ける。決して悪くはないんだが絶賛には至らない。両氏とも好きな漫画家だけにその辺が物凄く惜しいし勿体無く感じるんだが。

監獄学園(18) / 平本アキラ

いやー、これまで相当にお下劣お下品だったこの物語ですが、この18巻に来て、「えええ!?とうとうここまでやっちゃうの!?いいの!?いいの!?」という段階へと突入しています。これまでもエロでしたが、こうなるともう殆どエロマンガです。しかしこの作品の凄いのはとことんエロなのにセックスが存在しない、というとんでもないことをやり抜いているということですね。この一線だけを絶対超えない部分でギャグマンガとして凄いんですね。しかし「メデューサ」て。「メデューサ」てなによ。

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151014

20151013(Tue)

[][]IFFJ/インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン2015で『ラムリーラ』と『バン・バン!』を観た IFFJ/インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン2015で『ラムリーラ』と『バン・バン!』を観たを含むブックマーク IFFJ/インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン2015で『ラムリーラ』と『バン・バン!』を観たのブックマークコメント

f:id:globalhead:20151013081925j:image

■(老体に鞭打ち)5時間ハシゴしてきたIFFJ

先日12日の祝日はヒューマントラストシネマ渋谷で開催されている「IFFJ(インディアン・フィルム・フェスティバル・ジャパン)2015」に行って参りました。

IFFJは「インドと日本で映画の共通プラットフォームを提供することを目的として創設」されたもので、要するに「字幕付きのインド映画ヒット作をみんなで観ようじゃないか!」というフェスティバルなんですな。最近では日本でもインド映画の公開作も増えてきており、ヒット作も生まれていますが、それでも紹介本数はまだまだ微々たるものです。さらに一般のお客さんへの浸透はまだまだみたいで、日本側の興行主もインドでヒットしたからといってホイホイと日本でロードショー公開をしてくれなくて、それでこういったフェスを開くことによりできるだけインド映画の日本公開を増やそうと頑張られているということなんです。いやホント、面白い日本未公開インド映画はまだまだゴマンとあるのですよ!これを観ないなんてもったいない!!

IFFJの趣旨・スケジュールはHPを参照して頂くとして、とりあえず会期は東京が10月9日(金)〜10月23日(金)、そして大阪が10月10日(金)〜10月22日(木)となっております。上映作品や内容などは侍功夫氏による「唄って踊るだけじゃない!インド映画の祭典【IFFJ】観賞ガイド」を読んでいただければガッツリ頭に入るかと思いますので是非お読みになられてください。

さて実を言うと個人的にはフェスで上映されるインド映画作品の殆どは輸入盤のDVDで視聴済みのものばかりで、最初は「まあ、あえて行かなくてもいいかなあ…」とは思ってたんですが(それと限定公開のフェスって苦手なんですよ)、ツイッターのインド映画クラスタの皆さんの盛り上がり方にほだされ、気が付いてみたらチケット発売日に2枚も取っていた…という訳だったんですよ。しかも同日に連続2本!インド映画は長いから2本連続だと約5時間!オレも映画のハシコはしたことが無いわけでは無いんですが、さすがに5時間は未体験の領域であり、さらに50過ぎのヨボヨボのオッサンなんで様々な体調が気にかかること必至ではありました…。最近腰とか悪いし…。しかしそんな弱音を吐いていたらツイッターで「(私は)12時間ぶっ通しでもまだ生きてますので大丈夫ですよw」という檄を飛ばされ、これはもう否が応でも頑張んなきゃならならないじゃないですか!?

という訳でグダグダ言いつつ行って参りましたIFFJ。この日観たのは『銃弾の饗宴-ラームとリーラ』、そして『バン・バン!』。

■銃弾の饗宴-ラームとリーラ (監督:サンジャイ・リーラー・バンサーリー 2013年インド映画)

f:id:globalhead:20151013085053j:image

もうね。この『銃弾の饗宴-ラームとリーラ(以下ラムリーラ)』、もんのすごく思い入れのある作品なんですよ。レビューについては以前ここで書いたんですが(まあ今読むと生硬でつまらない文章です)、「ロミオとジュリエット」の物語をインドの架空の街に置き換えた作品なんです。

なにより、インド映画のことなんてまるで知らない頃に、「インド映画ってちょっと面白そうだから輸入盤DVDでも買って観てみっか」と思って購入した1本だったのですが、この『ラムリーラ』を観て、そのあまりの素晴らしさに「インド映画すごいインド映画何かとんでもないことになっている」と呆然としてしまい、それから今に至るまでひたすらインド映画ばかり観るようになった切っ掛けとなる1作だったんです。まさにオレをインド映画に開眼させた1本、ということが言えるでしょう。

何が凄かったかって、なにしろ、とことん、美しい!!百花繚乱に乱れ咲くディープ・インディアな美術がひたすら素晴らしい!そして衣装を始めとする美術も素晴らしかったんですが、作品内で登場する今まで見たこともなかったインドの祭りの光景に度肝を抜かれた!そこに登場するインドの神々を模した姿に唖然となった!なにしろ、全てが、初めてだったんですよ。もう、なにがなんだか分かんないんですよ。分かんないけど、どこまでも、圧倒されるんですよ。そして、なんだか分かんないのに、ひたすら楽しいんですよ!参照すべき情報の無い頭脳に物凄い量の未知の視覚情報が入ってきて、そこでもう、すっかり思考停止状態になって、そこで映画作品にひれ伏した、という状態でした。これ、洗脳となんら変わらない精神状態でしたね。そう、『ラムリーラ』にオレは、洗脳させられたんですよ!

美術云々と書きましたが、実は真っ先に「ヤラレタ」のは、主演であるランヴィール・シン演じるラームの登場シーン、そこから続く歌と踊りのシーンでした。もはや「有り得ない」としか言いようの無い頭の悪そうな展開に「なんなのこれ!?アホなの!?バカなの!?死ぬの!?」と超高速でツッコミを入れながらそのあまりに馬鹿馬鹿しい楽しさに「ああでも…ステキ…ウフンもうどうにでもして…」と身も心も征服された、というオレだったんですんね…。要するに、「ただキレイなだけの映画ではない、同時に相当アホっぽい」ということなんですね。もうなにしろ、これ(↓)ですよ!?

D

つまりこの作品は、高い芸術性と高い大衆性、高尚さとバカバカしさ、聖俗と清濁、トラデショナルとポップなチープさ、それらが併記されながら混沌として提示される、というものだったんですよ。そしてこの混沌は、実はインドそのものとも言えるではないですか。

さて観た当時は気付かなかったのですが、ラームとリーラの両家の対立は、「ロミオとジュリエット」におけるモンタギュー家とキャピュレット家の対立を単純に移し替えたものと一見思わされますが、そこで何故タイトルに「銃弾」とあり、両家が凄惨なまでに銃器によって殺し合っているのか、というと、実はあの物語はヒンドゥー/イスラムの対立を抽象的に描こうとしたものだからなんじゃないだろうか、と思わされました。サンジャイ監督は芸術家肌なので現実の問題を生々しくは取り扱いませんが、こういった形で自国内の「抗争」を自作に投射したのではないのでしょうか。

■バン・バン! (監督:シッダールト・アーナンド 2014年インド映画)

f:id:globalhead:20151013095643j:image

もう1作はハリウッド映画『ナイト&デイ』をリメイクしたインド版痛快アクション『バン・バン!』(レビューはこちら)。気軽に観られる作品で、ということで選びましたが、この作品も結構好きな作品です。なにしろ挿入歌「Tu Meri」が素晴らしい!このイントロを聴くだけでオレの頭はほわほわと空に昇ってゆくようです。この曲が流れるダンス・シーンも最高に素敵でかっこよくてロマンチック。さらになんだか「ぷっ」と笑っちゃうようなセンスもあるんです。自分は滅多に映画のサントラを買うほうではないのですが、『ラムリーラ』とこの『バン・バン!』のサントラはとてもお気に入りで、買ってよく聴いてました。

内容はなにしろスパイ・アクションなんですが、そこに「白馬の王子さまみたいな逞しく素敵な男性との出会いを夢見る地味で能天気な女性」という要素をコメディ・タッチで挿入することにより独特のテイストを醸し出してるんです。この"白馬の王子"ラージヴィールをリティク・ローシャンが演じ、"夢見る女性"ハーリーンをカトリーナ・カイフが演じています。ハーリーンはラージヴィールに振り回されながら次第に彼に恋してゆくのですが、物語の視点がハーリーン側にあるために「こんな普通な私にこんなスゴイ男性が!」という胸の高まりを、観客側も共有する形になるのですよ。

いやこれ、女性観客なら問題ないんですが、男のオレですら、段々と「ラージヴィールに…抱・か・れ・た・い」と思わされてしまう所が、なんともややこしいのですよ!?つまりオレはカトリーナになってリティクに抱かれたい、と思ってしまうということなんですよ!?そしてリティク・ローシャンがあまりにイイ男であるがため、「それも悪く無いな…」と頭をよぎってしまうんですよ!?

この作品のリティク・ローシャンの筋肉美、凄いです。ボリウッド俳優は皆筋肉ムキムキな俳優ばかりですが、特にリティクは「写真のパース狂ってねえか」と思わされるような異様に逞しい筋肉しています。もうこんな(↓)なんですよ!?

f:id:globalhead:20151013103246j:image

今回のIFFJ、お客さんの7、8割は女性客だったのですが、映画でリティクが上半身裸になりその筋肉を見せつけるたび、女性客の皆様が「いやんうふん」と身をよじり悶絶する様子が場内から伝わってきて一種独特の体験でしたね。まあそんなこと言ってるオレのほうも実は「いやんうふん」と身をよじり悶絶してましたが!リティクは以前から確かにイイ男俳優だとは思ってましたが、劇場の大きい画面で観るとそのカッコよさがまたひとしおなんですよ!無精髭の浮かぶ顔の毛穴までしげしげと眺めることが出来ますよ!そんな訳で「やっぱり映画はDVDばっかりじゃなく映画館の大きい画面で観るべきだな!」としみじみ思ったオレでありました!

20151009(Fri)

[][]【インド名作映画週間その5】深い幻想に彩られたある踊り子の悲恋の物語〜映画『Pakeezah』 【インド名作映画週間その5】深い幻想に彩られたある踊り子の悲恋の物語〜映画『Pakeezah』を含むブックマーク 【インド名作映画週間その5】深い幻想に彩られたある踊り子の悲恋の物語〜映画『Pakeezah』のブックマークコメント

■Pakeezah (監督:カマール・アムローヒー 1971年インド映画)

f:id:globalhead:20150708175502j:image

【インド名作映画週間】と銘打って何作かのインド古典名作映画を観たが、その中で最も感銘を受けたのが実はこの『Pakeezah』だ。ムガル朝時代の北インドを舞台に、親子2代に渡り身分違いの恋に引き裂かれてゆく踊り子を描いた作品である。またこの作品はもともと夫婦であった監督と主演女優の離婚により完成まで14年の歳月が要したことや、その主演女優が映画完成後に病死したことなどでいわくつきの作品でもある。この辺りの紆余曲折は2014年公開のインド映画『Xposé』の題材ともなっているのだという。日本未公開作ではあるが、2008年に銀座エルメスで『パーキーザー 心美しき人』の邦題で上映会が成されている。ちなみにタイトル「Pakeezah」とは「純粋な心」の意であるらしい。

ムガル朝時代、北インドのラクナウ。夫の家族から疎まれ家を出たナルギス(ミーナー・クマーリー)は失意の中、一人の女の子を産んで死亡する。サーヒブジャーン(ミーナー・クマーリー二役)と名付けられたその子は17年後、美しい踊り子として成長していた。しかし死んだ母への思いと籠の鳥のような踊り子の生活に彼女は心が沈みがちだった。そんなある日、金持ちの男と乗っていた船が象に襲われ、一人岸にたどり着いたサーヒブジャーンは、岸辺に建つ小屋で人心地付いていた。その小屋に森林レンジャーの男サリム(ラージ・クマール)が訪れ、サーヒブジャーンの姿を見て驚く。サリムは以前電車のコンパートメントで眠る彼女の姿を見かけ、その美しさに魅了されていたのだ。

この物語に感銘を受けた、あるいは興味深く観ることのできた幾つかの点を箇条書きにしてみたい。

1.踊りが素晴らしい…踊り子が主人公であり、またその踊り子の社会が描かれるという点から、作品の中で演じられる踊りも非常に芸術性の高いものを見ることができる。インド舞踏には暗いのだが、調べるとこの作品で演じられる踊りはカタックと呼ばれるもので、北インド、ガンジス川流域を中心に伝わるインド四大古典舞踊の一つであるらしい。足に沢山の鈴をつけて踊るのが特徴であるらしく、それはこの作品でも再現されている。もちろん歌と音楽も素晴らしい。

2.美術が素晴らしい…踊り子たちの舞台がある町では、遠景のそこここで踊り子の女性がクルクルと舞い踊っており、どこかシュールレアリズム絵画のようですらあった。また、当時インドを統べていたムガル朝はイスラム教が主教であるため、建物や屋内装飾がイスラム建築とイスラム様式で施されており、この部分が目新しかった。同じムガル帝国を扱った『Mughal-e-Azam』は息苦しいまでの装飾過多を見せていたが、この作品ではシンプルに徹していた。もちろん衣装と装飾品も美しい。

3.撮影が素晴らしい…こういった美術もそうだが、作品内に時折映し出されるインドの情景、自然の光景が美しい。夕闇の中黒いシルエットとなって走る蒸気機関車、青々とした巨大な入道雲の下に佇む東屋、轟音を為して落ちる瀑布、ヨットの浮かぶ水辺を染める茜色の夕焼け。また、屋内においても踊りのシーンではシンメトリーで室内が映され、それに庭先の噴水から吹き出す水流の弧の映像が被さる場面など非常に幻想的だった。

4.象徴主義的な映像…この作品で驚かされたのは映像のそこここにシンボリックで暗喩的な描写を挟むことにより主人公の心理や状況を説明するいわゆる象徴主義的な映像作りが成されているという部分だった。例えば主人公の部屋にある鳥籠に蛇が忍び込もうとする映像がある。これは籠の鳥となって生活する主人公に邪な者が近づくという分かり易い暗喩である。主人公は夜毎部屋の向こうの線路を走り抜ける機関車を憧憬の目で見つめている。それは気にかかる男性との出会いがあった機関車であるのと同時に、ここを離れどこか遠くに旅立ちたいと願う主人公の心理を表したものだろう。また、先に触れたインドの美しい自然の情景は、どれも踊り子の社会から抜け出し素晴らしい男性と出会ってからのものであり、主人公の伸びやかな気持ち、膨らんでゆく希望を美しく広大な自然の映像に託したのだろう。その後踊り子社会に連れ戻された主人公の部屋のベランダには糸の切れた凧がぶら下がり、これも主人公のその時の状況を表しているのだろう。このように注意深く画面を見ると様々な示唆に富む映像なのだ。

あれこれ褒めそやしたが、作品自体は古いものなので最新のインド映画のように観てしまうとキャラクターの在り方や物語展開の唐突さなどで見劣りする部分があると思われるので注意されたい(ただし踊りのシーンは格別だ)。古典を観るときは古典を観る気構えが必要に感じる。また、自分はDVDで視聴したが、フィルムの汚れ、画面のブレが多く、時折変色などもあったことは報告しておく。

ここまで明言は避けていたが、主人公をはじめとする踊り子たちはただ単にパフォーマーとしてのダンサーのみを生業にしているのではなく、「金持ち相手に踊りを披露することでパトロンを得る」ことで生活を成り立たせているように思えた。いわゆる「風俗」であり、"春をひさぐ"こともその中に含まれていたのだろう。また、踊り子が「身分の低い女性の商売」という部分もあっただろう。踊り子という一見煌びやかな世界にいながらも、彼女らの暮らしにはどこか侘しさがあったに違いない。だからこそ主人公はこの生活を抜け出したいと切に願っていたのだろう。同時に、この作品に横溢するどこか気だるげな退廃性は、そういった含みがあったからのように思う。

主人公と森林レンジャーの男サリムの最初の出会いは、電車で眠る主人公の足を見たサリムが、「とても美しい足なので、汚れるから地面を踏まないでください」という置手紙を残したことから始まっていた。そしてその足首にはカタックの鈴が付けられていた。この鈴は、ある意味「踊り子という(身分の低い)職業」を他人に如実に示してしまうものであると同時に、主人公にとっての足枷という意味合いもあるように思えた。そしてクライマックス、心破れた主人公はその足を血で汚しながら踊り狂う。踊り子の要であり、そして愛する人との出会いのきっかけになった自らの足を汚すことは、それは自分自身の全否定であり、絶望からだったのではないだろうか。このように映像の中に様々な意味づけをしてゆく様子が受け取れるといった部分でも秀逸な作品だった。

D

20151008(Thu)

[][]【インド名作映画週間その4】インド映画史に燦然と輝く超弩級の歴史絵巻〜映画『Mughal-e-Azam』 【インド名作映画週間その4】インド映画史に燦然と輝く超弩級の歴史絵巻〜映画『Mughal-e-Azam』を含むブックマーク 【インド名作映画週間その4】インド映画史に燦然と輝く超弩級の歴史絵巻〜映画『Mughal-e-Azam』のブックマークコメント

■Mughal-e-Azam (監督:カリームッディーン・アースィフ 1960年インド映画)

f:id:globalhead:20150703112100j:image

ムガル!ムガル!ムガル!映画『Mughal-e-Azam』は16〜19世紀後半までインド亜大陸を支配した偉大なるムガル帝国の、ある一時代を描いた大歴史巨編である。なにしろなにからなにまで凄い映画だったが、まず初っ端からして凄い。なんと空からインド亜大陸が降りてきて「私はインドだー」と語り始めるのである。

ここで腰を抜かしているうちに映像はムガル帝国宮殿の中に入り、赤青緑とありとあらゆる色彩が瞬く宝石と、金に銀に白金にと光り輝くきらびやかな宮廷内部が映し出されるのである。そしてそこに集う者たちはそれら金銀宝石を豪奢にまとう王族たちなのだ。この絢爛豪華な衣装と舞台美術がなにしろ度肝を抜く。この映画は通常映画1本製作する予算のさらに15倍の予算を掛けて作られたというからこのとんでもない舞台美術に掛けられた予算の物凄さも予想がつくだろう。

そしてそこで物語られるのは、ムガル朝第3代皇帝ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバルの息子ヌールッディーン・ムハンマド・サリームが、踊り子へ禁じられた恋をしたばかりに巻き起こる、父子の対立とそれが発展したことによる大戦争なのだ。つまりは大帝国の規律と威信をたったひとつの愛と天秤にかけた男の壮大な悲恋の物語なのだが、まあ大げさな親子喧嘩といえないこともない。

とはいえインド映画美術の粋を凝らしたその映像は一見の価値があることには間違いない。それは既に美しさを通り越してサイケデリックですらある。映像上の色彩の奇妙な滲み方などはアバンギャルドであると同時にキッチュにすら感じさせる(後述するがデジタル彩色の為らしい)。このドラッギーともいえる色彩と美術が生み出す酩酊感から、オレはセルゲイ・パラジャーノフのソ連映画『ざくろの色』やアレハンドロ・ホドロフスキーのカルト映画『ホーリー・マウンテン』を思い出してしまった。

インド映画史に燦然たる歴史を刻み付けた超弩級ともいえるこの作品は、数々の驚くべき伝説を残している。また当初モノクロでリリースされたこの作品は2002年にインド映画初のデジタル着色がなされ公開された。この辺りの内容についてはインド映画といえばこのブログ、『これでインディア』さんの2004年11月分記事におけるここここなどを参考にされたい。

ただしひとつふたつ重箱の隅をつつくと、殆どの場面でカメラがフィックスで撮られているため、妙に息苦しく感じる。多分セットの広さが限られているんでパンしたりできなかったんだろうなあ、とは想像できる。それと劇場公開時ではワイドスクリーンによる映写だったのだろうが、自分の購入したDVDはビスタ・サイズで上下トリミングする以前のスタンダード・サイズで収録されていた。ワイドスクリーン収録のDVDもあるようなのでこれから視聴される方、購入される予定のある方は注意が必要だ。

D

20151007(Wed)

[][]【インド名作映画週間その3】『Sholay』『Guide』 【インド名作映画週間その3】『Sholay』『Guide』を含むブックマーク 【インド名作映画週間その3】『Sholay』『Guide』のブックマークコメント

■盗賊に襲われた村を救え!マサラ・ウェスタン・ムービー『Sholay』!

Sholay (監督:ラーメーシュ・シッピー 1975年インド映画)

f:id:globalhead:20150331172842j:image

インドで最も有名な映画は何か?というとまずこの『Sholay』が挙げられるのだという。1975年に公開され空前絶後の大ヒットとなり、その後8年のロングランを続けたこの作品は、インド映画の皇帝ことアミターブ・バッチャンの人気を決定付けた主演作でもある。そしてその物語はというと、ハリウッド映画『荒野の七人』を下敷きにした大マサラ・ウェスタン・ムービーなのだ。ただしヒーローとなるのは7人ではなくヴィール(ダルメンドラ)とジャイ(アミターブ・バッチャン)のチンピラ二人組。映画は冒頭から爆走する蒸気機関車を襲撃する盗賊一味とヴィール&ジャイ・コンビのスピード感溢れる大戦闘で幕を開ける。このシーンから既にウェスタン・ムービーの雰囲気ムンムンで大いに盛り上がるのだ。

この時の二人の戦いぶりを知っていたある村の村長が、二人を探し出すところから物語は本題に入る。そう、その村は山賊の襲撃に悩まされており、ヴィール&ジャイを用心棒として雇おうとしていたのだ。かくして一つの村を中心に、山賊と村人、ヴィール&ジャイの、一進一退の大攻防戦の幕が切って落とされるのだ。山賊の首領ガッバル・シン(アムジャード・カーン)はサディスティックなサイコ野郎で、仲間だろうがなんだろうがなぶり殺しにしまくるところがオソロシイ。このガッバル・シンにかつて家族を皆殺しにされ、両腕を奪われた村長の回想シーンは、そこだけ残虐ホラーと化してしまったかのような惨たらしさで観ていて固まってしまった。しかもその村長の復讐方法は香港映画か!?と思わせる奇想天外さで、この映画のなんでもありぶりをうかがわせる。

それとは別に合間合間でヴィール&ジャイのやんちゃな放蕩ぶり、恋の駆け引き、歌と踊り、そして村祭などが挿み込まれ、インド映画らしいちょっと緩めの賑やかさで盛り上げられてゆくのがまた嬉しい。実はヴィール&ジャイはもともと犯罪者で、機関車に乗っていたのも護送中だったからだし、この村にもム所から出所した後だったりする。こんな社会の鼻つまみ者が、次第に村の人々に馴染み、信頼を得て正義へと目覚めてゆく過程がカッコいいのだ。そしていよいよ山賊たちの襲撃シーンでは、ヴィール&ジャイの八面六臂の大アクションが展開だ! 山場はいくつも設けられ、物語は非常に緩急豊かで、古い映画なれどなかなかに魅せてくれるのだ。

見所はあれこれあるが、特に後半の、山賊の騎馬隊による村娘の馬車の追跡シーンなどは、そのスピード感はもとより、「まだ続くのか!?」と途中で思ってしまうほどの長さで描かれており、そのしつこさが異様な緊張感を画面にもたらしてゆくのだ。さらに囚われた村娘が山賊の首領ガッバルに踊りを強要され、怪我をおして舞い踊るシーンもまた異様に長い。ここでもその長さがガッパルの狂気と、死と隣り合わせの踊りという恐怖感をあおってゆく。これらあり得ないようなバランス配分の演出が強く印象に残った。これらの、技巧に頼らず「ひたすらとことん描く」という部分にこの作品の真骨頂があるのだろう。まあそもそも長い映画なので、中盤のキャッキャウフフシーンが若干ダレるのは致し方ない。

D

■聖者に祀り上げられた一人の男の贖罪の物語〜映画『Guide』

Guide (監督:ヴィジャイ・アーナンド 1965年インド映画)

f:id:globalhead:20150618140120j:image

刑務所から出所したばかりの男ラジュ(デーヴ・アーナンド)は奇妙にひょうひょうとした悟りめいた人生観を持っていた。インドの様々な地方を彷徨う彼はある村に立ち寄るが、その忌憚のないものの見方から聖者に祀り上げられる。実はそんな彼にも紆余曲折する過去があった。考古学者に虐げられているその妻ロージー(ワヒーダー・ラフマーン)を救い出し、彼女の得意な舞踊の技を引き出して引きも切らぬ名舞踏家へと成長させたのだ。しかし慢心したラジュは詐欺を働き、そして刑務所に入れられたのだ。さてラジュを迎え入れた村は深刻な旱魃に悩んでおり、ラジュに雨を降らせて欲しい、と哀願するのだが…。

映画『Guide』は一人の男の中に混在する俗性と聖性を、その原罪と贖罪の在り方を描こうとする作品だ。考古学者のガイドだった男が、後に村人を救うガイド〜導き手となる、といったダブルミーニングのタイトルも面白い。ラジュはその罪を乗り越え達観した人生観を持つ男として生まれ変わるが、だからといって聖者というわけではない。当然ながらそんな彼に雨など降らせる能力などないにも関わらず、村人たちは藁をもすがる思いで彼に助けを求める。そこでラジュが決断したこととはなんだったのか。

この映画のクライマックスではインド映画らしい宗教観が凄まじいまでにほとばしり、神を乞い求めることの偉大と神秘が描かれてゆく。ただし中盤までの殆どはラジュとロージーとの出会いと幸福、その終焉が中心となり、ひとつのラブロマンスとして観ることもできる。この部分は今観ると若干紋切り型に過ぎるように思えるが、この辺は古い映画なので致し方ないかもしれない。

D

20151006(Tue)

[][]【インド名作映画週間その2】『Amar Akbar Anthony』『Deewaar』 【インド名作映画週間その2】『Amar Akbar Anthony』『Deewaar』を含むブックマーク 【インド名作映画週間その2】『Amar Akbar Anthony』『Deewaar』のブックマークコメント

■固い絆で結ばれた、俺たちインドの3兄弟!〜映画『Amar Akbar Anthony』

Amar Akbar Anthony (監督:マンモーハン・デサイ 1977年インド映画)

f:id:globalhead:20150601104325j:image

悪党のたくらみにより一家離散してしまった父母、そして3人の兄弟が時を経て再び巡り合い、最後に3兄弟が悪党を成敗しに行く、という痛快娯楽作です。そしてこの3兄弟の名前となるのがタイトルのアマル(ヴィノード・カンナー)、アクバル(リシ・カプール)、アントニー(アミターブ・バッチャン)、固い絆で結ばれた俺たちインドの3兄弟!というわけなんですな。ちなみにそれぞれの名前はヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒のものだということらしい。3つの宗教が合体しているわけですからこれが強力じゃないわけがありません。

離散した家族はまず父ちゃんが行方不明、母ちゃんが失明、3兄弟は物心付く前に引き離され成長したお互いの顔が分からない、という設定になっていて、彼らが知らず知らずに出会いお互いの素性を知ることになる、というのがこの物語のミソなんですが、なんだか全員もとから近所に住んでいたようにしか見えなくて、それが今になって初めて「あなたは僕のお母さん!」「あんたは俺の兄弟!」とかやりあっているのがなんだかちょっと可笑しかったりします。そもそも悲惨な運命から始まる物語なのに、中盤は3兄弟のヤンチャぶりやら恋愛模様やらがこれでもかと描かれ、それぞれの個性を印象付けるんですが、あんまり脱線しすぎるので「お前ら悪党への復讐忘れてないか…」と若干不安になるのも確かです。

そしてやっと後半、彼ら家族を不幸に追いやった悪党を特定し、鬼ヶ島に向かう猿と犬と雉の如く悪党の住処へと乗り込む3人なんですが(ちょっと待て桃太郎はどこだ)、この時も変な変装して登場し、「ア〜マ〜ルアクバ〜ルアントニ〜」という耳について離れない主題歌と共に歌ったり踊ったりしつつ暴れるものですからもう訳が分かりません。こんな具合に親の愛、兄弟愛、勧善懲悪とインド映画らしいテーマが散りばめられた傑作でした。それにしても↑に挙げたポスター画像、なんかポッカコーヒーっぽくない?(特にアミターブ!)

D

■善と悪の道に分かれた俺たちインドの2兄弟!〜映画『Deewaar』

Deewaar (監督:ヤシュ・チョプラ 1975年インド映画)

f:id:globalhead:20150604084013j:image

『Amar Akbar Anthony』が固い絆で結ばれたインド3兄弟を描いた物語だとすると、この『Deewaar』は善と悪という別の道を歩んでしまったインド2兄弟の物語となります。二人の兄弟の名はビジャイ(アミターブ・バッチャン)とラビ(シャシ・カプール)。労働組合長だった二人の父は、会社に脅され従業員に不利な条件を呑んでしまったことに呵責を覚え失踪、二人は極貧の中、母に守られ成長してゆきますが、ビジャイは黒社会に足を踏み入れ、ラビは警察官へと、全く違う人生を歩んでしまうんです。

しかしビジャイが悪の道に入ったのは、父を脅した資本家と、父に汚名を着せて攻め立て、さらにその息子である彼に「泥棒の息子」という入れ墨を彫った愚か者たちへの怒り、即ち汚れきった社会への怒りからだったんですね。さらに金を儲けて苦労し通しだった母へ良い暮らしをさせたい、という愛情からでもありました。二人の兄弟が善と悪に分かれて対立するというシナリオはハリウッド映画や韓国映画でもありそうなものですが、この『Deewaar』が一味違うのは、二人の間に「母」という強烈な情緒の中心が存在しているという部分です。

ビジャイがマフィアの一員と知った母親はなんとかしてビジャイに足を洗わせようとし、ラビにはビジャイを逮捕しないように働きかけるのです。設定だけ取り上げるとハードでダークな物語となってしまう所を、この「母の愛」により、物語は非常にエモーショナルなうねりを生んでゆきます。この作品もまた、母の愛、兄弟の愛を中心に描いた、インド映画の王道的なテーマを持つ作品だということが出来るでしょう。そしてなにしろ、マフィアとして生きるアミターブのアクション・シーンが格好いいんですね。またこの作品は1981年にラジニカーント主演で『Thee』というタイトルでリメイクされています。2004年にはアミターブ・バッチャン主演で同じ『Deewaar』というタイトルの映画が製作されていますが、こちらの内容は別物です。

D

20151005(Mon)

[][]【インド名作映画週間】WEBサイト「Timeout London」の選ぶインド映画ベスト10作品を観る 【インド名作映画週間】WEBサイト「Timeout London」の選ぶインド映画ベスト10作品を観るを含むブックマーク 【インド名作映画週間】WEBサイト「Timeout London」の選ぶインド映画ベスト10作品を観るのブックマークコメント

インド映画も新しい作品はだいたい観たので、そろそろ古い名作といったものを観てみようかと思ったわけである。しかし"名作"と呼ばれる作品とはどういったものなのだろう?例えば一般的に「世界の名画ベスト10」だの「100」だのといったものがあっても、それは選者の母集団の嗜好と基準によって様々になる。だから見る人が見ると「あれが入ってない、これが入ってない」ということが往々にしてある。これがハリウッドやヨーロッパの映画だと「これはこういうタイプの人が選んだランキングなのだな」ということは割と分かるが、インド映画となると情報が少なく、どのように観ていけばベストなのかが判断できない。

今回"インド名作映画"の基準としたのはWEBサイト「Timeout London」の【The 100 best Bollywood movies】である。ただやはりこのランキングにも賛否があるようで、「インド映画通信」さんの「物議をかもす「ボリウッド映画トップ100」」という記事では「インディアン・エクスプレス」紙がこのランキングにあれこれいちゃもんを付けているといったことが報告されている(というかこの「インディアン・エクスプレス」紙も文句があるなら自分の所のランキングを載せるべきだと思うが)。ただまあオレ個人はインドの古い映画なんて全く知らないド素人だし、ひとつの指針として観るには十分機能すると判断してこのランキングから採ることにした。そして今回はこのサイトのインド映画ベスト100作品から上位10作を選んで視聴し、簡単なレヴューを書いておこうと思う。以下がそのベスト10作品となる。

1. Sholay (1975)

2. Mughal-e-Azam (1960)

3. Mother India (1957)

4. Dilwale Dulhania Le Jayenge (1995)

5. Pyaasa (1957)

6. Guide (1965)

7. Deewaar (1975)

8. Lagaan (2001)

9. Pakeezah (1972)

10. Amar Akbar Anthony (1977)

ただしこのうち、『Dilwale Dulhania Le Jayenge』『Lagaan』は既に視聴済みで感想も更新してあるので、今回は残り8作品の感想を書くことにする。8作品は5日間に分けてランキングに関係なく順不同で更新する。では行ってみよう!

[][]【インド名作映画週間その1】『Mother India』『Pyaasa』 【インド名作映画週間その1】『Mother India』『Pyaasa』を含むブックマーク 【インド名作映画週間その1】『Mother India』『Pyaasa』のブックマークコメント

■苦難の人生を力強く生きるインドの母〜映画『Mother India』

Mother India (監督:メーブーブ・カーン 1957年インド映画)

f:id:globalhead:20150626131401j:image

1957年に公開され、インドの古典的名作として絶大なる評価を受ける映画『Mother India』は、インドの農村に嫁入りした一人の女の苦難の生涯を描く壮絶な大叙事詩だ。

主人公ラダは貧しい農家に嫁ぎ、辛い農作業も夫との愛で乗り切っていたが、悪辣な高利貸からの借金、事故による夫の両手切断、その夫の失踪、洪水による農地消失と次々に不幸が舞い込む。しかしラダは残された二人の子供と力を合わせ、ようやく安定した生活を手にした。だが息子の一人ビルジューは彼らを貧困に追いやっていた高利貸に暗い怨念を抱いていた…というのが物語となる。

これでもかとばかりに次から次へと襲い掛かる不幸と苦難のドラマは嵐のように観る者の心を翻弄し、それを歯を食いしばって乗り越えてゆく主人公ラダの姿に誰もが心奪われるはずだ。その逞しさと強靭な忍耐力はひたすら感嘆させられるが、その力の源となっているのは、ひとえに夫と子供たちへの強烈な愛情ゆえなのだ。貧困と労苦、そして母の愛を描くこのドラマは非常に普遍的で根源的な人間の業と性を描いており、圧倒的な情感でもって観る者を組み伏せる。

そしてどんな不幸の中にあっても、泥と汗にまみれ髪振り乱していても、主人公ラダは神々しいまでに美しい。どんな時であろうと、多くの者にとって「母」とは美しい属性なのだ。「インドの母」とは文字通り母であると同時に、聖なる地母神であり、母なる国インドそのものを体現したタイトルなのだろう。主演を演じるナルギスは当時名を馳せたカリスマ的な大女優だったそうだが、一人の娘から妻、母、そして老婆と演じ切り、圧倒的な存在感を醸し出していた。

D

■不世出の詩人と二人の女の恋〜映画『Pyaasa』

Pyaasa (監督:グル・ダット 1957年インド映画)

f:id:globalhead:20150601103557j:image

類稀なる才能を持ちながら世間にも家族にも顧みられない不遇の詩人と、その美しい詩の世界に魅せられ、作者である彼に恋をした一人の娼婦、さらに上流階級の妻との物語である。インド映画の巨匠、グル・ダット監督が世に送り出し、その代表作となったばかりでなく、2005年にはタイム誌による「映画史上の名作100選」の1本に選出されたというインドの古典的名作だ。

50年以上も前の作品であり、白黒で製作されているのだが、その深いモノトーンの味わいがどこか夢幻の世界を映し出しているかのようにすら感じさせ、詩人が主人公ということもあってか詩的な映像を見せる。こういった、しっとりとしたヨーロピアンテイストな画面作りが非常に印象的だったのだが、これは当時のインド文芸映画が意外とネオ・リアリズモ全盛時代のイタリア映画を目指していたのではないか、と想像した(実際もう一人のインド映画巨匠サタジット・レイもネオ・リアリズモの影響下にあったという)。

また、本編で披露される主人公の詩も心に直接響いてくるような美しく生の哀歓に満ちた作品ばかりで、この映画の魅力の一つとなっている。オレらしく下品なことを言うなら「やっぱり孤高な文士ってモテるんっすねえ」というお話でもある。それとなにぶん古い映画なので内容が紋切型に見えるのとテンポが緩く感じるのはいたしかたないか。

D

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151005

20151004(Sun)

[]V8ヒャッハー!ゲーム『マッドマックス』で爆走なんだッ!? V8ヒャッハー!ゲーム『マッドマックス』で爆走なんだッ!?を含むブックマーク V8ヒャッハー!ゲーム『マッドマックス』で爆走なんだッ!?のブックマークコメント

f:id:globalhead:20151004145317j:image

ゲーム版『マッドマックス』が発売されたので既にマッドがマックスな状態でプレイしている。ヒャッハーッ!

ところで映画『マッドマックス 怒りのデスロード』で膨大なファンを得たこのシリーズだが、今『マッドマックス』といえば「V8!V8!V8!」なのだろうか。オレのように『マッドマックス』といえば脊髄反射で「ヒャッハーッ!」と言ってしまうような人間は既に絶滅危惧種なのだろうか。そもそも「ヒャッハーッ!」は『マッドマックス』じゃなくて『北斗の拳』のほうじゃねーの?とか正論を突き付けられるのだろうか。まあ「ヒャッハー的世界観」ということで大目に見てはもらえないだろうか。

さてゲーム版『マッドマックス』は映画そのもののストーリーを踏襲しているのではなくいわばアナザー・ストーリーということで展開する。舞台となるのは「Planes of Silence」、主人公マックスはスカブロス・スクロタス率いるウォーボーイズに襲われ愛車を奪われるが、機械工チャムと出会い新たな車マグナスオプスを駆って復讐の戦いを開始するというものだ。一応スクロタスはイモータル・ジョーの息子という設定になっているのらしい。

ゲームは最近この手のゲームの主流となっているオープンワールドで構成され、広大な荒野のあちこちに点在する敵の拠点を叩き潰してゆくのがゲームの目的となる。プレイヤーは主人公マックスとなり自らの戦闘スキルと戦闘マシン・マグナスオプスとをスキルアップさせていきながらゲームを進めてゆく。このスキルアップの為のポイントとなるのはスクラップを集めることで、これがRPGでいう所の経験値代わりとなる。マシンを爆走させながらV8ヒャッハー!な壮大なアクションを展開させてくれるのかと思ったらチマチマと屑鉄集めをしなければ進行がままならないというマックスが不憫である。

買って早速プレイしてみたが、面白すぎて具合が悪くなるほどやってしまった。まあよくある「荒廃した未来世界が舞台のオープンワールドゲーム」なんだが一所懸命マッドマックスぽくしようと頑張ってて印象悪くない。この「荒廃した未来世界が舞台のオープンワールドゲーム」といえば例えば『Fallout3』なんかもそうだが、それよりも荒廃した未来世界で戦闘マシンを駆りながら繰り広げられるFPSゲーム『RAGE』(レビュー)に感触が近い。ポスト・アポカリプスのモラルもテクノロジーレベルも退行した世界が舞台となったこのゲームは、実際の所映画『マッドマックス』がイマジネーションの元となっているのだろうが、さんざん本歌取りされた後に真打登場となるとゲーム『マッドマックス』も分が悪い部分もあるかもしれない。

しかしゲーム『マッドマックス』の『マッドマックス』らしさというのは資源の徹底した枯渇、というゲーム設定に反映している。スクラップを拾いながら車両をバージョンアップさせるというのもそれらしいが、まず車の燃料を確保しなければならないし、体力(HP)回復の為に水源を探して水筒に詰めその水を飲む、というのも実にそれらしい。当然弾薬も希少で、戦闘の中心とはならず、ウォーボーイズらとの戦いは基本的に拳骨によるバトルとなる。このバトル・アクションはゲーム『バットマン』と同じシステムを踏襲している。

それとやはり『マッドマックス』といえばカーアクションだ。荒廃した大地をぶっとい排気音を鳴り響かせながら突っ走るのはやはり爽快感が強くマッドマックス気分が上がってくる。走行中にはウォーボーイズのミュータントカーが襲い掛かり、これを粉砕するためのカーバトルも繰り広げなければならない。映画同様ウォーボーイズが車に乗り込んでくるので、これを叩き落すのも醍醐味だ。また、時々『怒りのデスロード』みたいな嵐が襲ってくるところも芸が細かい。

こんな具合にオープンワールドゲームとしては標準的な完成度で、飛び抜けた所はないにしても、『マッドマックス』な雰囲気は存分に味わうことができるゲームだ。だから『マッドマックス』好きには好意的に受け入れられるんじゃないだろうか。オレなんかはこの間までやっていた(まだクリアもしていない)「MGSV」でステルスやらされ過ぎて溜まったフラストレーションをこの『マッドマックス』で解消している気がする。修理改修した自分の車を見たマックスが「V6だと?!V8じゃないとはどういうことだ!?」と怒り狂うシーンとかニマニマして見られますよ。

D

20151002(Fri)

[][]ブサメン男の不可能な恋の行方〜映画『Pyaar Impossible!』 ブサメン男の不可能な恋の行方〜映画『Pyaar Impossible!』を含むブックマーク ブサメン男の不可能な恋の行方〜映画『Pyaar Impossible!』のブックマークコメント

■Pyaar Impossible! (監督:ジュガル・ハンスラージ 2010年インド映画)

f:id:globalhead:20150415145136j:image

『Dhoom』シリーズで愛嬌のあるブサメン、アリーを演じて一部で絶大なる人気を誇る(?)ウダイ・チョープラが主演をはったラブ・コメディです。今回ウダイが演じるのはイケテないブサメン…ってやっぱりブサメンかよ!?そんなブサメン・ウダイの相手役となるヒロインがかつてミス・インド2000にも選ばれた美人女優プリヤンカ・チョープラ。いやー、気の遠くなるような美女と野獣ぶりではありませんか!ちなみにこの作品、製作・脚本もウダイが担当しており、自らのブサメンぶりを天高らかに歌い上げるといった困った内容になっております。いいのか、ウダイ。

《物語》アメリカの大学に通うアバイ(ウダイ・チョープラ)はダサダサオタクのキモメンでしたが、大学一の美女アリーシャ(プリヤンカ・チョープラ)にメロメロでした。しかしたびたび羽目を外し過ぎるアリーシャに父親が激怒、彼女は大学を去ることになり、アバイの恋は終わったかに見えました。それから7年。フリーのプログラマーとして活躍するアバイは画期的なソフトウェアを開発しますが、投資家のバルン(ディノ・モレア)に騙し取られてしまいます。バルンがソフトを売り込もうとしているシンガポールの会社に乗り込んだアバイでしたが、なんとその会社で出会ったのはあのアリーシャだったのです。

ウダイとプリヤンカの夢のような悪夢のような共演を楽しみにして観てみました。物語が始まりダサダサな格好で現れたウダイの姿が既に泣かせます。なにもそんなに自虐的にしなくたっていいじゃないかウダイ…でもそんなけなげなウダイになぜか萌える…。そんなウダイが「不可能な恋」をしたのがプリヤンカ。この作品でもプリヤンカさん可愛いです。美しいです。こんな全く釣り合わない、というかあまり釣り合ってほしくない恋のドタバタがこれから始まるのか、と思ってたらあっという間に大学のシーンは終わってなんと7年後というからびっくりです。うーん、こんな美人が7年も独り身でいるわけないじゃん…。

これから待つであろうウダイの絶望的な運命を固唾を呑んで見守っていたら、なんとプリヤンカはバツイチ子持ちになってたんです!この辺の微妙にリアルな設定がいい。プリヤンカはウダイの顔を覚えていなくて、そしてひょんなことからウダイはプリヤンカの娘の子守りとして彼女の家に通うことになってしまいます。そして徐々に二人の仲は接近するように見えて、そこにライバル登場!なんとそのライバルというのがウダイからソフトウェアを奪ったにっくき投資家!こうして物語は恋のライバル撃退と奪われたソフト奪還、さらに自分の正体を明かせないウダイの恋の行方が絡み合いながら動いてゆくんですね。

ブサメンとかキモメンとかオタク野郎とかイケテないとかダサダサとか酷い言いかたしましたが、中盤からのウダイ、実はなかなかキュートなんですよ。冴えないとはいえ優しげで繊細、前に出るタイプではないにせよ思いやりに満ちてるんです。インド映画じゃマッチョでイケメンの男優ばかり見せられるので、こんなキャラクターが意外と新鮮なんですよ。男は顔じゃない、優しさなんだ…もうこの辺で観ているオレなんかウダイに感情移入しまくりですよ!だいたい考えてみればオレだってブサメンオタク野郎じゃないか!そうか、オレはウダイだったんだ!それが分かった瞬間にオレもうこの映画にハマリまくりですよ!ウダイがプリヤンカを見つめるとき、オレもまたプリヤンカを見つめ、ウダイがプリヤンカへの愛に悩むとき、オレもまたプリヤンカへの愛に悩んでいました!ああ!プリヤンカ!

作品的に見るなら、ライトで小奇麗にまとまり過ぎているきらいがあり、インド映画臭があまりしないといった部分こそあるにせよ、むしろハリウッドや日本のラブコメを観るぐらいのつもりで観れば問題ないんじゃないですかね。そもそもウダイのキャラクター自体が壮絶にインド臭させてますから、いい具合に中和されてるんじゃないでしょうか。そんなわけでこの『Pyaar Impossible!』、自分はたいそう面白く観ることが出来ましたね。

D

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20151002

20151001(Thu)

[][]エスコート・ボーイになったらウハウハだったッ!?〜映画『Desi Boyz』 エスコート・ボーイになったらウハウハだったッ!?〜映画『Desi Boyz』を含むブックマーク エスコート・ボーイになったらウハウハだったッ!?〜映画『Desi Boyz』のブックマークコメント

■Desi Boyz (監督:ローヒット・ダーワン 2011年インド映画)

f:id:globalhead:20150506232639j:image

不況で職を失った二人の男が切羽詰ってエスコート・ボーイ(出張ホスト)を始めたら、引く手あまたでウハウハ状態だったが!?という2011年公開のコメディ作品です。主演はアクシャイ・クマールとジョン・エイブラハム、この二人のいかがわしいホストぶりがなにしろ見所です。ヒロインにディーピカー・パードゥコーンというのも嬉しいですね。また、サンジャイ・ダットとアヌパム・ケールも出演し、とてもいい味を出してます。

《物語》2009年、世界大不況到来。ロンドンで共同生活を営む親友同士、ジェリー(アクシャイ・クマール)とニック(ジョン・エイブラハム)にもその波は襲い、二人は職を失ってしまう。再就職のあても無く、ジェリーは面倒を見ている甥の親権を失いそうになり、ニックは交際相手であるラディカー(ディーピカー・パードゥコーン)との結婚に危険信号が点灯する。そんな時見つけたのが男性エスコート・クラブ「デーシー・ボーイズ」。怪しげなオーナー(サンジャイ・ダット)の強力プッシュでジェリーはその仕事を始め、嫌がっていたニックも結局参加して、いつしか二人は売れっ子ホストに!?しかし、そんな仕事をしていることがばれ、再び二人の立場は危うくなってしまう!?

不景気のあおりを食って困窮した男たちが、お金の為だとばかりに性産業に勤め口を見つけちゃう、というお話は1997年公開のイギリス映画『フル・モンティ』を思い出しますね。あの作品では鉄鋼不況により職を失った6人の男たちが意を決して男性ストリッパーになるんですが、それが女性客に大受けしちゃう!という物語でした。この『Desi Boyz』では主演の二人がエスコート・ボーイになっちゃうんですが、やってることはぶっちゃけ男娼なんですね。映画では客の女性たちから「うふ〜ん素敵な夜だったわ」とか言われるシーンがあるだけですけれども、これってかな〜りキワドイっちゃあキワドイんですよね。しかしそれを嫌らしくなくさらっと描いているのも好感が持てました。

そしてそんな仕事にえいやあ!とばかりに飛び込み、あまつさえ人気者になっちゃうアクシャイとジョン・エイブラハムの開き直りっぷりが痛快なんですよ。そんな彼らがこれみよがしにセクシー全開で踊りまくるダンス・シーンは派手派手かつグラマラスでとても楽しく、この作品のハイライトとなっています。このダンス・シーン自体が彼らのキワドイお仕事の暗喩となっているのでしょう。店主を演じるサンジャイ・ダットは、もともとサンジャイ自身が怪しげなのでこれはもうずっぱまりの配役、そんなに出番は多くないにもかかわらず目立っておりました。

にもかかわらずこの物語、後半がダメなんです。そんな仕事をしていることを知られた二人の男が、エスコート・クラブを辞め、失った信頼を取り戻そうと頑張っちゃうんです。ジェリーは大学教育をやり直し始め、ニックは怒り心頭のラディカーをもう一度振り向かせるため誠心誠意説得をします。ただこの展開、生真面目なばかりでたいして面白くないんですね。つまりこの映画、男性エスコート・クラブ「デーシー・ボーイズ」に二人が勤めているのが前半だけで、後半そこを辞めちゃったばかりに尻すぼみになっちゃうんですよ。ディーピカーも結局後半つんつんしているだけで上手く生かし切れていなかったのが残念だったなあ。

D