Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20160229(Mon)

[]百年を遡るある男の理想と挫折と新たなる希望の物語〜『SOY!大いなる豆の物語』 百年を遡るある男の理想と挫折と新たなる希望の物語〜『SOY!大いなる豆の物語』を含むブックマーク 百年を遡るある男の理想と挫折と新たなる希望の物語〜『SOY!大いなる豆の物語』のブックマークコメント

■SOY!大いなる豆の物語 / 瀬川深

SOY! 大いなる豆の物語 (単行本)

有名大学は卒業したものの就職したIT企業を一年半で退社した原陽一郎。バイトと、友人と始めたゲーム制作で食いつなぐ彼のもとに、ある日、仰々しい紋章入りの封筒が届く。それはとある穀物メジャーのCEO、コウイチロウ・ハラの遺産管財人となることを依頼する手紙であった。南米ハラ家のルーツは果たして陽一郎につながるのか。陽一郎の謎解きの旅は、東北地方から満州へ、パラグアイへ、明治から現代へと大きく展開し、世界のすべてを塗りかえ、彼の人生もまた大きく変わっていく。彼を、彼らを動かしたもの、それこそが大豆だった。豆に導かれ、時空をまたいで展開する壮大な物語と、そこに連なる、ある情けない男の崩壊と再生を描く。

I.

日本人作家の小説はまるで読まないオレなのだが(理由はあるが説明がややこしくなるから書かない)、瀬川深・作によるこの『SOY!大いなる豆の物語』は、そのタイトルを見てなにか気になるものがあったのである。いや、オレは別に食うこと以外で「豆」に特別な興味があるわけでもない。そのタイトルの付け方だ。「豆」の物語だろうということは分かる。それは分かる。しかしなぜ「大いなる豆の物語」だけではなくその頭にわざわざ「SOY!」と付けるのだ。これでは「豆!大いなる豆の物語」と言っているようなものではないか。「豆」が被っている。いや間違っているという訳ではない。そうではなく、わざわざ「SOY!」と被せる著者に、どことなく茶目っ気を感じてしまったのだ。!マークからは著者の微妙なポジティビティすら感じる。さらにこの『SOY!大いなる豆の物語』、てっきり豆に関するドキュメンタリーだと思っていたら、実は小説なのらしい。豆の小説?主人公が豆なのだろうか。豆を蒔いたら天まで伸びて冒険の旅に出るのだろうか。そんなわきゃあない。

物語のほうは↑で引用した"BOOKデータベース"のコピペを読んでもらうといい。主人公はどこにでもいそうな27歳の青年だ。で、この青年・原陽一郎の元にある日南米に拠点を置くとんでもない大企業から封書が届くところから物語がはじまるのだ。企業の名はSoyysoya、世界を股に掛け従業員10万人を擁するという巨大な穀物流通商社なのだという。そんな大企業が平凡な青年にいったい何の用事があるというのか。実はSoyysoyaのCEOであるコウイチロウ・ハラなる人物が亡くなり、その遠縁と思しき原陽一郎クンに遺産管財人の任が委託されたというのだ。大企業CEOの遺産!こりゃスゲエ!もう人生ウヒャウヒャじゃん!などとオレなんかは思ったが、実際に遺産管財人というのは「相続人の存在、不存在が明らかでないときに相続財産の管理をする者」のことらしく、要するに「オメーもしくは誰かがホントに相続人かどうか調べやがれ」というものなのらしい。で、この原陽一郎クンは、「遺産は絶対俺のもん!ウヒャウヒャ!」とかいうことなど決して思いもせず、「困った…メンド臭い…」という限りなくネガティブな思いでコウイチロウ・ハラと自らの接点を探るべく、原家のルーツを辿るため生家のある東北へと飛ぶ、というのが冒頭である。

II.

そしてそこから展開するのは、百年を遡るある男の理想と挫折と新たなる希望の物語である。「新たなる希望」といってもスターウォーズではない。だが砂漠の惑星タトウィーンから宇宙へ飛び出したルーク青年と"ある男"とはどこかで被るのかもしれない。物語では、その男がなぜどんな理由で理想を掲げたのか、そして何に挫折したのか、さらになにをよすがとして新たな希望を燃やしたのかが徐々に明らかにされてゆく。その大元になるのは日本における「東北」という地の特殊性である。その苦難と苦闘の歴史である。そしてそれを、コウイチロウ・ハラと思しき人物だけでなく、原家のルーツに内在した物語としても描いてゆく。つまり、主人公・原陽一郎クンは、コウイチロウ・ハラの足跡を辿りながら、同時に、自分が誰であり、何であるのかを、自分の血の中にどのような歴史が眠っていたのかを、次第に知ってゆくというわけなのだ。

その歴史性を含めた物語の中心にあるのは穀物を代表とする「食」である。その食を生産する上での歴史であり文化であり、それがこの現代においてどのような問題点を抱えているかということである。そしてこの物語において「食」に象徴して代入されるのが【豆】であった、というわけなのだ。作者はこれらを、膨大な情報と該博な知識から詳らかにしてゆく。そしてそれはただ羅列されるのではなく、チャランポランな主人公・原陽一郎クンがその探求の旅の中で次第に明らかにされてゆく事実として描かれ、そして読者はその追体験として、大いなる豆と食と東北の歴史の全貌を知ることとなるのだ。

III.

こんなこの小説を一言のジャンルで言い表すのは難しい。若者の内面的成長を描いた教養小説でもあり、食の生産とそれにまつわる東北の地の遍歴を描いた歴史小説でもあり、グローバル化した食流通の弊害を描く現代的な社会派小説であり、それら全てを俯瞰した情報小説でもある。総じて言うなら、それら全てが絡み合い関連し合った、「今ここにある世界と、この世界がどのようにして成り立ったのか」を描く複合小説だと思えばいいのかもしれない。

それは作者の、登場人物全てにおける、詳細に余りある描写からうかがえるのだ。この物語では、殆どどの登場人物であろうと、ここまで書く必要があるのかと思わせる量の、その人物のあらん限りのバックボーンが書き込まれる。それらは物語大筋とは関係ないにせよ、しかし、確かにこの世界にその人物は存在しており、そして世界の何がしかの部分とコミットしている、ということを描き出そうとしているように思えてならないのだ。我々は一人で生きているのではなく、他人とのなにがしかの関わりによって生きている。そして、世界は、歴史は、これら一人ひとりの「個」の繋がりによって生成され成り立っている。主人公・原クンのルーツ、【豆】を代表する作物のルーツ、そして東北のルーツ。それら全ては「何がどう関わりあって"今"があるのか」ということだ。「グローバル化」という巨大で融通の利かない冷たい自動機械の中に世界は今あるのかもしれないけれども、しかしそれでも我々は、お互いの小さな繋がりの中で生きている、生きていける存在であり、その関連性の中にこそ「人の生」はあるのだ、作者は、この小説の中でそれを言い表したかったのかもしれない。

SOY! 大いなる豆の物語 (単行本)

SOY! 大いなる豆の物語 (単行本)

20160226(Fri)

[][]インド貴族の屋敷を舞台にしたボディダブル・ストーリー〜映画『Prem Ratan Dhan Payo』 インド貴族の屋敷を舞台にしたボディダブル・ストーリー〜映画『Prem Ratan Dhan Payo』を含むブックマーク インド貴族の屋敷を舞台にしたボディダブル・ストーリー〜映画『Prem Ratan Dhan Payo』のブックマークコメント

■Prem Ratan Dhan Payo (監督:スーラジ・バルジャーティヤ 2015年インド映画)

f:id:globalhead:20160217135150j:image

I.

煌びやかな貴族の宮殿を舞台に、ある理由から王子様と平民の男が入れ替わっちゃう!?というインド映画『Prem Ratan Dhan Payo』(以下PRDP)です。2015年暮れに公開され、『Bajrangi Bhaijaan』に次ぐ年間第2位の大ヒットを記録したと共に、数々の賞にも輝きました。主演は『ダバング 大胆不敵』『Bajrangi Bhaijaan』のサルマーン・カーン、『ミルカ』『Raanjhanaa』のソーナム・カプール。監督のスーラジ・バルジャーティヤはこれまで『Maine Pyar Kiya』『Hum Aapke Hain Koun..!』『Hum Saath Saath Hain』といった映画でサルマーンと組んでおり、この『Prem Ratan Dhan payo』は4作目のコラボレーションとなります。

《物語》王である父を既に亡くしていたプリータムプルの王子ビジェイ(サルマン・カーン)は戴冠式が近付き、フィアンセのマイティリー王女(ソーナム・カプール)とも会うことになっていたが、彼の心は重かった。異母弟妹であるアジャイ(ニール・ニティン・ムケーシュ)とチャンドリカ(スワラー・バースカル)との間に王族ならではの暗い確執を抱えていたのだ。

そして異母弟であるアジャイは義弟のチラグにそそのかれアジャイの暗殺計画を遂に実行する。アジャイは命こそ助かったが意識不明となり、大臣であるジワン(アヌパム・ケール)は秘密裏にアジャイを古城で看護するが、戴冠式は4日後に迫っていた。

一方気のいい舞台俳優のプレム(サルマン・カーン2役)は憧れのマイティリー王女を一目見たくてプリータムプルに訪れていた。そんなプレムをたまたま見かけた王室警護長官のサンジェイは驚きに大きく目を見開く。なんとプレムは王子と瓜二つだったのだ。サンジェイとジワンはプレムを説得し、プレムを王子の替え玉として戴冠式に挑ませようとする。

II.

f:id:globalhead:20160219134501j:image

贅を尽くした絢爛豪華なインドの宮殿、そこに暮らす煌びやかな衣装のインド貴族たちの物語。映画『PRDP』はこんな、あたかもアミターブ・バッチャン主演の『家族の四季 愛すれど遠く離れて』のような古式ゆかしいトラディショナルなインド家族ドラマが再演されたものを予想させます。そしてその物語は日本でも公開された某有名大作や『Rowdy Rathore』、はたまた『Humshakals』といった、インド映画では割とよく見かける「そっくりさん登場!」なボディ・ダブルネタでもあるんです。

こういった部分から、斬新さよりもインド人映画観客のお馴染みの要素を散りばめ、安心して観られるオールドスクールな大衆娯楽作品を目指した作品なのだろうなと思わせます。さらに主演がインド映画界屈指の大ヒット・メーカーであるサルマーン・カーンでヒロインがソーナム・カプール。こういったコンサバティブな要素で構成された物語であるからこそインドで実際に大ヒットしたのも頷けるし、確かに相当に面白く出来ているのは間違いないのですが、しかし物語を見守っているとそれだけではない作品であることも段々と気付かされてくるんです。

まずこの物語では「王=家父長」という「中心」が既に失われていて、それで「王国」が「空洞」になっているんです。「空洞」だからその周辺があれやこれやと乱れて、さらに後継ぎである王子=次の「中心」がまたしてもロストする。そんな中で残された者たちがどうしよう…と担ぎ出したのは外部から担ぎ出された「替え玉=ハリボテ」なんだけど、その「ハリボテ」は「中心」の役割なんか実はしゃらくさくて、同時に「ここは空洞だ!」ということを看過してしてしまう。このとき「ハリボテ」は「中心」でも「周辺」でもなく、あくまでも「外縁」の視点から、即ち市井の気のいい一人のあんちゃんの優しさから、混乱を取りまとめようとする。「ハリボテ=プレム」はいわゆるトリックスターなんですね。

その「ハリボテ=外縁=トリックスター=プレム」の働きかけによってみんな目が覚めてもう一度自分たちはまとまろう、というのがこの物語なのだと思う。なんでもいいから新しい「中心」をこさえて現状維持しちゃえ、という話ではないんですね。要するにトラデショナルな物語に見えながら「家父長」という「中心」が失われたことによりこれまで構成されていた「ヒエラルキー」が破綻してしまった、それによりバラバラになった者たちがもう一度手探りで繋がり合って「未来」のことを考えよう、という事なんですね。なにが言いたいのかというと、『PRDP』はこれまで「家父長」が絶対だったインド映画で、「家父長」の存在しない家族がどうやってもう一度まとまりあうのか、という新しい視点を持った作品だと思うんですよ。

III.

f:id:globalhead:20160219134502j:image

もちろん『PRDP』は大衆的な娯楽作品としての側面も十分優れています。ロケーションと衣装、歌と踊りも十二分に美しく、目を楽しませてくれます。主演のサルマーン・カーンは『ダバング 大胆不敵』以来ついてまわったマッチョ・キャラの呪いを前作『Bajrangi Bhaijaan』からようやく払拭し始めましたが、今作ではそれが花開き、ここ最近では一番優れた演技とキャラクターを見せてくれているのではないでしょうか。また、ヒロインのソーナムも相変わらず美しいのですが、それだけではなく、登場時の心の中の翳りを感じさせる演技としての精彩の無さを、主人公プレムとの愛によって次第に表情豊かで感情に溢れたキャラクターに変化してゆく様に絶妙なものを感じました。そしてサルマーンとアヌパム・ケールの掛け合いがこれまた心憎いほどに楽しく、物語をより温かく豊かなものにしています。また、思いやりに満ちた物語のクライマックスをアクションでしっかり締めていてメリハリも抜群でした。

そしてなによりこの物語を盛り上げるのはプレムとマイティリー王女とのロマンスでしょう。最初結婚に乗り気ではなかったマイティリー王女はプレムの真心に触れることで彼への想いを強くします。しかしそれは王子ビジェイに成りすましたプレムなのです。一方プレムもマイティリー王女を愛しながら、自分が別人を偽っているという明かすことのできない嘘をついていることに苦悶します。この映画はこうして「嘘に嘘を塗り固めたことの顛末」というインド映画らしい展開を迎え、胸締め付けられる鮮やかなクライマックスへとひた走ってゆくのです。

Prem Ratan Dhan Payo Trailer

D

Prem Ratan Dhan Payo Title Song (Full VIDEO)

D

20160225(Thu)

[][]全篇結婚式だらけのインド版結婚狂想曲!〜サルマーン・カーン主演映画『Hum Aapke Hain Koun…!』 全篇結婚式だらけのインド版結婚狂想曲!〜サルマーン・カーン主演映画『Hum Aapke Hain Koun…!』を含むブックマーク 全篇結婚式だらけのインド版結婚狂想曲!〜サルマーン・カーン主演映画『Hum Aapke Hain Koun…!』のブックマークコメント

■Hum Aapke Hain Koun…! (監督:スーラジ・バルジャツヤー 1994年インド映画)

f:id:globalhead:20150925111104j:image

インド映画も名作良作凡作駄作とあれこれ観てきましたが、この作品はそんな中で「なんかよく分かんないけどスゲエ…」と唖然とさせられた作品なのでありますよ。

サルマーン・カーンとマードゥリー・ディークシトが主演した1994年公開の映画なんですが、その「スゲエ」は「スゲエ面白い」の「スゲエ」というよりは「こんなもん作ってあまつさえ大好評大ヒットしてしまうというインド人の国民性がスゲエ、おまけにヤヴァい」であり、日本人であるオレとしては内容の面白さよりもそんなインド人のヤヴァいメンタリティに気圧されまくってしまう、そういった「スゲエ」なんですな。

で、どういう内容なのかというと、全部で3時間以上あるインドらしい長い映画なんですが、その3分の2から4分の3ぐらいは殆ど結婚式シーンという映画なんですよ。つまり上映時間3時間のうち2時間ぐらいが結婚式シーンということなんですね。いやまあインド人が結婚式大好きというのは心得ているつもりだし、実際の結婚式も1週間も続いちゃうとか相当なことも聞いてますが、まさか映画でここまでやっちゃうのか、という感じなんですよ。

そしてもちろんただ結婚式やってるわけじゃない。そこにインド映画十八番の歌と踊りがこれでもかこれでもかと盛り込まれているんですよ。幾らインド映画とはいえ通常なら物語の合間に歌と踊りが盛り込まれるものですが、この映画は歌と踊りが延々と続き、その合間に思い出したかのように物語が挟まれるんです。というか物語なんて殆ど無い!一応製作者もこれじゃあアカンと思ったのか、最後の30分ぐらいで思いっきり駆け足で物語が展開します。起承転結で言うと「起」が2時間半ぐらいあって、残りの「承転結」が30分で語られるというあり得ない構造をしているということなんですよ。

あんまり歌と踊りだらけなので調べてみたら、この作品のサントラ収録曲は全14曲71分というインド映画サントラでも破格の長さで、要するに映画の3分の1は歌ってるか踊ってるかその両方かということになるんですよ。しかもこのサントラは大ヒットを飛ばし1000万枚も売れた…というデータを読んだんですが100万枚の間違いじゃないのか!?オレの見方が間違ってるのか!?本当に1000万枚なのか!?(こちらの1994年参照)

これだけスゴイ映画なものですから、インド映画史的にも破格の存在となっています。それまでボリウッド作品はTVに押されて凋落傾向にあったらしいのですが、この作品と翌年公開されたあの『DDLJ』で観客数が40%もUPしたのだそうです。さらに10万ルピーの売り上げで「ブロックバスター」と呼ばれていたボリウッド作品でしたが、この映画の驚異的な売り上げにより興行成績20万ルピーでブロックバスターであると底上げされたのだとか。またインド映画監督カラン・ジョハールはこの作品が彼の人生を変えた映画作品の一本であると述べ、『Kismet(1943)』『Mother India(1957)』『Mughal-e-Azam(1960)』『Sholay(1975)』と並ぶインド映画作品であると絶賛しています。

これ、要するに「徹底的な多幸感をどこまでも徹底的に描く」作品だと思うんですね。しかも”結婚式”というインド人なら老若男女誰でも楽しめるテーマでそれを可能にしているんですね。つまりこの映画は「最大多数の最大幸福」を映画の中で実現してしまったともいえるわけなんですよ。それがインド人ならではのメンタリティに負うものであるとはいえ、やはりこういう作品を生み出しそれを圧倒的に大勢の人が観て大好評で迎い入れる、そういったインド映画の独特さに、やっぱりインド映画スゲエ、としみじみ思わざるを得ないんですよね。なにしろ日本人が観て楽しめるかどうかは別なんですが、「物凄いインド映画を観てみたい」と思われた方は一度お試しされてもよろしいのではないでしょうか。

D

20160224(Wed)

[][]金持ちのボンボンが労働者階級の女性に恋をして…映画『Maine Pyar Kiya』 金持ちのボンボンが労働者階級の女性に恋をして…映画『Maine Pyar Kiya』を含むブックマーク 金持ちのボンボンが労働者階級の女性に恋をして…映画『Maine Pyar Kiya』のブックマークコメント

■Maine Pyaar Kiya (監督:スーラジ・バルジャーティヤ 1989年インド映画)

f:id:globalhead:20151202142646j:image

■金持ちのボンボンが労働者階級の女性に恋をして…

金持ちのボンボンが労働者階級の女性に恋をして…という1989年公開のインド映画です。主演はこの作品がデビュー第2作目となる非常に初々しいサルマーン・カーン、ヒロインにバギャーシュリー。監督は『Hum Aapke Hain Koun..!』(1994)で再びサルマーンを主演に据えたスーラージ・バルジャーツヤー。サルマーン最新作『Prem Ratan Dhan Payo』(2015)もこの監督ですね。それとあとこの物語、一羽の鳩が主役を食う勢いの大活躍をします…!?

《物語》田舎町に住む機械工カランは愛娘スマン(バギャーシュリー)の結婚資金を稼ぐ為ドバイへ出稼ぎに行く。その間、スマンはカランの幼馴染で資産家のキシャンの屋敷に預けられることになる。キシャンには息子のプレム(サルマーン)がおり、スマンとプレムは次第に惹かれあってゆく。しかしキシャンは自分の息子と身分違いの娘との恋に激怒、丁度ドバイから帰ってきたカラン共々侮辱した挙句追い帰してしまう。プレムは父のそんな態度にブチ切れて家を飛び出し、カランの元の訪れてスマンとの結婚を懇願する。だが侮辱されたカランはそれを許さず、スマンと結婚したければ一ヶ月で2000ルピー稼いで来い、と言い渡す。そしてプレムの血の滲むような努力の日々が始まる。

■初々しい主役と可憐なヒロイン

まあこんなお話なんですが、途中から「なんかに似てるなあ?」と思ってたら、恋した女性のために金持ちのボンボンが農村で働く2013年のプラブデーヴァ監督作『Ramaiya Vastavaiya』(レヴュー)なんですね。実際プラブデーヴァ監督はこの『Maine Pyaar Kiya』にインスパイアされたようですが、『Maine Pyaar Kiya』自体も『I Love You』というタイトルのベンガル映画のリメイクなのだそうです。どちらにしろ「困難を乗り越えて結び合う恋」といったオーソドクスなインド映画のプロットを持っており、安心して観られる作品でした。

映画のほうは前半でプレムの家を舞台にスマンとプレムが友達感覚のつきあいから次第に恋へと発展してゆく様子を、後半ではスマンとの結婚のためにトラック運転手や採石場で汗水たらすプレムの努力の様子が描かれてゆきます。プレムを演じるサルマーン・カーンはデビューしたてということで実に若々しく初々しく、そして結構な美男子なんですね(今でもイイ男ですが)。最近のサルマーンさんよりもシュッとしてて、『ダバング 大胆不敵』前後の筋肉ムキムキという程でもないんですが、それにしてもなんだか意味もなく半裸をさらしたがるところがサルマーンさんらしくていいですね。

一方ヒロインを演じるバギャーシュリー、この作品以外にヒット作はなかったのらしいのですが、少なくともこの作品ではとても素敵なインド女優なんですよ。インドの女優さんはいずれ劣らぬ美人揃いで見るたびに驚かされますが、そんななかでこのバギャーシュリー、特に図抜けて美人というわけではないんですけれども、雰囲気とか立ち振る舞いにとても惹きつけられるものがあるんです。それは一言でいうなら可憐さ、ということでしょうか。小柄でちょっと幼い感じが、他のインド女優と違ってなんだか可愛らしいんですね。育ちが相当良い方なのらしいですが、とても朗らかな笑顔や喋り方は、そもそもこの方の素なのではないかと思ってしまいました。

■そしてハトは飛び立った!?

物語は1989年作品という時代こそ感じさせますが(著作権の怪しいアメリカン・ポップスがガンガンかかります…)、『Hum Aapke Hain Koun..!』で見せられたスーラージ監督らしい賑やかな演出のせいで決して退屈しないんですね。前半のコミカルさもいいんですが、主人公が愛を勝ち得るために生傷だらけになって働く後半はなかなか盛り上がるんですよ。それだけではなく、主人公を陥れようとする悪漢すらも現れて大立ち回りが演じられます。この映画でのサルマーンさんは『ダバング』みたいに無敵なわけではないのでボコボコにされます。それでも歯を食いしばって立ち上がる主人公の姿がいいんですね。

それにしてもこの作品、中盤から一羽のハトが主人公カップルの周りになんだかまとわりついているんですよね。悪漢に銃で撃たれようとしていたのを助けた、というのもあるんでしょうが、それにしてもこんなにハトをフィーチャーしたがるとはジョン・ウーの影響でもあるのでしょうか…。と思ってたら最後でその理由が明らかになります!(以下ネタバレです)クライマックス、悪漢に谷底に落とされロープ一本でぶら下がる絶体絶命の主人公とヒロイン!悪漢はナイフを取り出しロープを切り始めた!そこへ!かつてその悪漢に苛められたハトが飛んできて「くるっくー!」と鳴きながら悪漢をつつき倒し、悪漢は断末魔を上げながら谷底に!メデタシメデタシ!

D

20160223(Tue)

[]積読していたSF小説をあれこれ読んでいた第2弾! 積読していたSF小説をあれこれ読んでいた第2弾!を含むブックマーク 積読していたSF小説をあれこれ読んでいた第2弾!のブックマークコメント

以前更新した『30年以上積読していた古いSF小説を中心にあれこれ読んでいた。 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ』の第2弾です。今回も30年モノの積読SFを読んでみました。ちなみに「積読シリーズ」はとりあえず今回まで!

ノーストリリア / コードウェイナー・スミス

時は“人間の再発見”の第一世紀。銀河随一の富める惑星ノーストリリアで、ひとりの少年が地球という惑星を買い取った。少年は地球へやってきて、なみはずれた冒険を重ねたすえに、本当にほしいものを手に入れて、無事に帰ることができた。お話はそれだけだ。さあ、これでもう読まなくていい!ただ、こまかいところは別。それは、この本のなかに書いてある。ひとりの少年が出会った真実の愛と、手に汗にぎる冒険の日々が…。人類補完機構の驚異の世界。

人類の辿る長大な未来史を描く「人類補完機構」シリーズの中心となる長編作品『ノーストリリア』、これも10代の頃に積読していた1作だ。コードウェイナー・スミスは「きらびやかな遠未来描写」などと評されることが多いが、これがどう「きらびやか」なのか少年時代のオレにはピンと来なかったのだ。まず初っ端の、舞台である惑星ノーストリリアの描写からからして単なる田舎惑星であり、主人公となる少年にもどこにも感情移入できなかったのが当時躓いた理由だ。しかしこれが今読んでみるとするすると読めてしまうのだから積読というのは面白い。なにしろ30年以上の積読となるが。そして読み終えて判ったのは、実はこの作品が、のどかで恵まれた酪農地帯である田舎から、殺伐とした都会へ飛び出してきた少年の至る精神的遍歴を、SF世界へと移し変えて描いたビルドゥングス・ロマンだった、ということだ。そして作者の描く世界における"下級民"は多分非西欧社会人を指しているのだろうし、それに対する共感を描くのは、作者が外交官というグローバルな視点を持っていたからだろう。ただしこの作品がそういった単純なアレゴリカルなドラマに終わらないのは、作者の"幻視"する世界が、異様であり奇妙に歪んでいる、といった点だ。特に顕著である肉体の変異、苦痛といった描写は、作者のなにがしかの身体的・内面的苦痛の発露だったのではないか。作者の視点にはどこか健常でないことによる苦痛と共感が存在しているように感じる。だからこそ作者は大いなる"幻視"でそれを乗り越えようとしていたのではないか。

■鋼鉄都市 / アイザック・アシモフ

鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)

鋼鉄都市 (ハヤカワ文庫 SF 336)

警視総監に呼びだされた刑事ベイリが知らされたのは、宇宙人惨殺という前代未聞の事件だった。地球人の子孫でありながら今や支配者となった宇宙人に対する反感、人間から職を奪ったロボットへの憎悪が渦まく鋼鉄都市へ、ベイリは乗り出すが……〈ロボット工学の三原則〉の盲点に挑んだSFミステリの金字塔!

SF界の3巨頭といえばアシモフ、クラーク、ハインラインだが、実はこのうちアシモフとクラークは殆ど読んでいなかった。特にアシモフに関してはこれまで読んだことがあるのは長編『停滞空間』ただ1冊である。この『鋼鉄都市』も、10代の頃購入してその筆致にどうにも乗れなくて頓挫した1冊だった。10代の頃、科学畑の人間は文章が下手だ、などという一つも根拠のないことを勝手に思っていたのである。だいたいSFなんざ殆ど科学畑の人間が書いていたのにも関わらずだ。まあ若さゆえの無知と無理解なので許して欲しい。という訳でやっと読み始めたこの『鋼鉄都市』、いやあちょっと待ってよこれなにメッチャ面白いじゃないですか!?「未来都市における人間とロボットの警官コンビによる殺人犯捜査の物語」なんていう設定以前に、閉塞感に満ちた未来社会がとても雰囲気があるし、人間の刑事のどことなく草臥れた様子も味わいがあり、それに対するロボット警官も独特の個性を持っている。そしてこの『鋼鉄都市』、"ロボット"を"レプリカント"に読み直すとあら不思議、『ブレードランナー』になるのだ。作中には「人間なのかロボットなのか?」という疑惑も描かれてこの辺も『ブレードランナー』を髣髴させる。さらに未来社会の在り方に対する科学的考察が実に知的であり、今読んでも充分に説得力がある。推理小説も書いていたアシモフだけあって文章の組み立て方も巧い。誰だ「文章が下手だ」なんてろくに読みもしないで言ってる奴は(オレでした)。これら全部をひっくるめてとても充実した内容で、もし10代の頃きちんとこの『鋼鉄都市』を読んでいたらオレはアシモフにはまりまくり、『ファウンデーション・シリーズ』なんかも全部読んでいただろうな、とすら思ってしまった。なにしろ時代を超えた傑作SFであることは間違いない。

百億の昼と千億の夜 / 光瀬龍

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA)

百億の昼と千億の夜 (ハヤカワ文庫JA)

西方の辺境の村にて「アトランティス王国滅亡の原因はこの世の外にある」と知らされた哲学者プラトンは、いまだ一度も感じたことのなかった不思議な緊張と不安を覚えた…プラトン、悉達多、ナザレのイエス、そして阿修羅王は、世界が創世から滅亡へと向かう、万物の流転と悠久の時の流れの中でいかなる役割を果たしたのか?―壮大な時空間を舞台に、この宇宙を統べる「神」を追い求めた日本SFの金字塔。

10代の頃、光瀬龍小松左京筒井康隆と並んで好きな日本人SF作家だった。光瀬龍の描く宇宙SFの、その徹底的な「寂寥感」に魅せられた。特に『喪われた都市の記録』だ。なにしろ分厚い作品だったのだが、「分厚い作品を読んだ」というのが10代の頃誇らしかった。しかしその光瀬龍の、萩尾望都で漫画化までされたこの『百億の昼と千億の夜』だけは、なぜか読み進めることができなかた。プラトン、ブッダ、イエス・キリスト阿修羅王が主人公となるこの物語、それだけでも面白そうなものではあるが、逆に、「宇宙SFじゃない」といった部分で興味が湧かなかったのかもしれない(宇宙とか遙か遠い彼方の異星は出てくるが)。でまあ今回読んでみたのだが、例によって光瀬お得意の「永劫の時間の中に現れては消えてゆく生命のはかなさ」みたいのから始まり、例のプラトンやらブッダやらイエス・キリストが現れ、「宇宙を滅びの運命に導いてゆく謎の存在」について言及され、それと数億年に渡る戦いを続ける阿修羅王なんてのが出てきて、なにしろ大風呂敷広げまくるのだ。だが後半は「宇宙の滅びの運命」という茫漠として掴み所のないものとの戦いになってしまうがために、物語それ自体も茫漠として掴み所のないものになってしまい、最終的に「悠久の時の流れに全ては飲まれてゆくのだ」というやっぱり茫漠として掴み所のないクライマックスを迎え、なんかこう狐に摘まれたような気分で読み終わった、という按配である。物語のハイライトは超未来の滅亡した地球を舞台に、サイボーグ化されたブッダとキリストが熱線銃振り回しながら対決するところだな。光瀬さんこれが描きたかっただけなんじゃないのか?

■闇の左手 / アーシュラ・K・ル・グィン

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

ヒューゴー賞ネビュラ賞受賞〕両性具有人の惑星、雪と氷に閉ざされたゲセンとの外交関係を結ぶべく派遣されたゲンリー・アイは、理解を絶する住民の心理、風俗、習慣等様々な困難にぶつかる。やがて彼は奇怪な陰謀の渦中へと……エキゾチックで豊かなイメージを秀抜なストーリイテリングで展開する傑作長篇

アーシュラ・K・ル・グィンもまともに読んだことのない作家の一人だった。長編で読んだことがあるのはサンリオから出ていた『天のろくろ』ただ1冊だけである。ヒューゴー賞ネビュラ賞のダブルクラウンに輝き、ベストSFに必ずそのタイトルが出され、作者の代表作中の代表作と言われていたこの『闇の左手』も、結局積読していた。というわけで読み始めたのだが、…う〜んこれ、残念ながら今ひとつだったなあ。物語は重厚な描写と入り組んだ会話が中心となり、これらはおそろしくよく書けてはいるけれど、しかし全体を眺めると評判ほど物凄い作品とまでは思えなかったぞ。そもそもこの作品、SFに名を借りつつ、描かれているのは異世界ファンタジーでも通用してしまう物語じゃないか。相当緻密に作りこまれた異世界であるというのは伝わるんだけども、ざっくり乱暴に眺めるなら結局単なるヨーロッパ白人社会の写しにしか過ぎず、その社会もテクノロジーが未発達な中世然としたもので、まるでSF臭を感じさせないんだよな。そしてこの物語を最も特異なものとしている「両性具有の惑星住民」というアイディアも、設定止まりで物語にはまるで生かせていないじゃないか。オレはてっきり惑星に派遣された地球人と両性具有の惑星ゲセン人の間で禁じられた恋が盛り上がるのかとワクワクしていたのに全く無いとはどういうことだ。主人公である地球人にはまるで魅力がなく、むしろ彼と対するゲセン人のほうが感情の起伏が生々しく描かれていて、これは彼を主人公とするべき物語だとも思えたな。途中で挟まれる「伝説」とやらも設定を強固にするが、単にもったいぶっているだけのように感じたな。

■光の王 / ロジャー・ゼラズニイ

光の王 (ハヤカワ文庫SF)

光の王 (ハヤカワ文庫SF)

遙かな未来、人類は地球から遠く離れた惑星にインド神話さながらの世界を築いていた。地上の民衆は無知なまま原始的生活を送り、“天上都市”の不死となった“第一世代植民者”は科学技術を独占し、神として民衆を支配している。だが、シッダルタ、仏陀、サムなどの名で知られる男が、圧制下にある民衆を解放すべく、敢然として神々に戦いをいどんだ…たぐいまれな想像力で、SFと神話世界をみごとに融合した未来叙事詩。ヒューゴー賞受賞。

ゼラズニイも、短編集『伝道の書に捧げる薔薇』こそ実に面白く読んだのだけれど、長編となるとなぜか取っ付き難く、この『光の王』も折角ハードカバーで買ったのにもかかわらず積読していた一冊だった。粗筋だけ読むと物凄く面白そうだったんだが、読み始めると期待してたようなSFぽくなかったのだ。という訳で今回再挑戦したのだが、そこそこ面白くは読んだのだけれども、やはりそれほど傑作と呼べるような作品には感じなかった。まずこの作品、SFとしての精度が低い。「超科学を持ち神の如き能力を備えた特権階級的な者たち」という設定は悪く無いものの、それにより単に「なんでもあり」になってしまっていて、「なんでもあり」に頼り過ぎた故にテクノロジー描写が省かれ過ぎ、それにより「なんだかファンタジーみたいなSFみたいなモニョッとした作品」になってしまっているのだ。同様な作品として超科学の賜物によるギリシャ神話の神々の如き眷属が闊歩するダン・シモンズの『イリアム』『オリュンポス』があったが、これなどは詳しいテクノロジーなど描かれなくとも十分にSFしていたことを考えると、ゼラズニイという作家はその描写においてちょっとズルしちゃってるんじゃないかと思えるのだ。そもそも、この『光の王』の感想でよく見かける「読み難い」「分かりづらい」といた言葉は、読者の読解力や訳文のせいではなく、もともとゼラズニイの文章における表現力に難があるせいなのではないかと思えてしまうのだ。まあしかし、うるさいことなど言わず少年漫画を読むような気分で読むのがこの作品の正しい読み方なのかもしれない。また、この作品における「インド神話」の世界を借りたキャラクター描写は、「インド神話」自体を掘り下げたものではまるでなく、単なる剽窃でしかないのだけれども、それ自体は悪いものには感じなかった。インドなSFを読みたければイアン・マクドナルドの『サイバラバード・デイズ』という傑作短編集があるのでこちらをお勧めする。

yoyoshi yoyoshi 2016/02/24 10:16 おお、積読しとくには勿体無い名作揃い!コードウェイナー・スミスの人類補完機構は3月9日に早川書房から短編集が出るのが楽しみです。第三集まで出してくれるそうで嬉しい。

globalheadglobalhead 2016/02/24 10:31 どれも古本で買い直したのでお金の掛からない読書でした。まあしかし、積読探訪の旅はここらでおしまいにしとこうかと思ってます。

20160222(Mon)

[]19世紀ロンドンを舞台にしたスピンオフ作品〜映画『SHERLOCK シャーロック 忌まわしき花嫁』 19世紀ロンドンを舞台にしたスピンオフ作品〜映画『SHERLOCK シャーロック 忌まわしき花嫁』を含むブックマーク 19世紀ロンドンを舞台にしたスピンオフ作品〜映画『SHERLOCK シャーロック 忌まわしき花嫁』のブックマークコメント

■SHERLOCK シャーロック 忌まわしき花嫁 (監督:ダグラス・マッキノン 2015年イギリス映画)

f:id:globalhead:20160221103140j:image

英BBCの人気TVドラマシリーズ『SHERLOCK シャーロック』のスピンオフ作品が劇場公開されることになり、『SHERLOCK シャーロック』好きの自分も早速観に行く事にしました。

「スピンオフの劇場公開」とは言ってももともとは英国で2016年の元旦にTV放送されたものらしいんですが、そもそも『SHERLOCK シャーロック』のドラマって1作90分前後の映画作品みたいな放送時間と映画作品並みのしっかりした内容を兼ね備えていますから、これが映画館で公開!となってもまるで違和感ないんですよね。この劇場版はTV版にさらに20分ほどの特典映像が併映されたものになっていますが、これは世界各国で映画上映されたときのスタイルに準じているようです。

さて今回の『SHERLOCK シャーロック』、どんな風にスピンオフなのかというと、TV版『SHERLOCK シャーロック』がシャーロック・ホームズの舞台を現代に移して描かれているところを、もともとの舞台である19世紀末ロンドンを舞台にしての物語となっているところなんですよね。あのベネディクト・カンバーバッチとマーティン・フリーマンが19世紀末ロンドンの正統的シャーロック・ホームズをどう演じるかが見所でありお楽しみでもあります。

でまあいつものように自分のブログでその感想文でも書こうかと思ったんですが、今回の『忌まわしき花嫁』、もう何を書いてもネタバレになりそうで、内容にほとんど触れることができないんですよ!『SHERLOCK シャーロック』好きの方はベネディクト・カンバーバッチら出演者が好きな方と同時に昔っからシャーロック・ホームズの好きだった方も多いようで、こういった方たちにはちょっと遠まわしに書いたって内容を推理されそうだ!そもそも「何を書いてもネタバレになりそう」って書き方自体がネタバレになっているともいえる!ああどうしたらいいんだ!だからネタバレはしませんが推理力洞察力の強い方は以下は読まないほうがいい!

ええと、なにしろ一つだけ言えるのは、今回の『忌まわしき花嫁』、TVドラマシリーズ『SHERLOCK シャーロック』をきちんと全部観ている人じゃないとチンプンカンプンになる部分がある、ということですね。これはもう「スターウォーズの旧作を全く観ていない人に『フォースの覚醒』は楽しめるかどうか?答えは観ていた方が楽しめるが観ていなくても全く問題はない」みたいな話じゃなく、観ていないとなんのことだか全く分からない展開だということなんです。いやもうこれだけでもネタバレくさいよなあ…。だから「TVドラマは全然観てないけどカンバーバッチとフリーマンが出ている映画なら面白そうだから観てみよう」と思っている方、今からでも遅くないので徹夜して『SHERLOCK シャーロック』全作観てから劇場に足を運んでください!

そういった部分では「非常に秀逸に作られたファン向けムービー」ということも出来、ファンの方が観たならあんなシーンこんなシーンでニマニマしっぱなし、そしてファンだからこそあっとびっくりするシーンも盛り込まれているということなんですよ(ああ…これすらもネタバレくさい…)。一応原作ファンの方向けに書くと、今回のタイトル「忌まわしき花嫁」(The Abominable Bride)は、「マスグレーヴ家の儀式」の冒頭に登場する語られざる事件"Ricoletti of the club foot and his abominable wife."(内半足のリコレッティと忌まわしい妻)に由来しているのだそうです。

感想すらもネタバレしそうで書くのをはばかられますが、まず内容自体はこれまでの『SHERLOCK シャーロック』の物語同様非常に密度が濃くて楽しめたということ、相変わらずカンバーバッチ演じるシャーロックは鬼畜野郎でうっとりさせられたこと、例によってフリーマン演じるワトソンは困った顔しながらシャーロックの相手をしていること、そして今作は「スピンオフの1作」ということで従来の『SHERLOCK シャーロック』ストーリーよりもかなりハッチャケた方向に行ってるということでしょうか。

とまあ何の内容もない記事になってしまいましたが、何の内容もないことをグダグダ書き散らかせたらオレってホント右に出るものがいないなあ、としみじみ実感できました…。

D

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20160222

20160219(Fri)

[][]ハートを持ったロボット〜ランビール・カプールディーピカー・パードゥコーン主演作品『Tamasha』 ハートを持ったロボット〜ランビール・カプール、ディーピカー・パードゥコーン主演作品『Tamasha』を含むブックマーク ハートを持ったロボット〜ランビール・カプール、ディーピカー・パードゥコーン主演作品『Tamasha』のブックマークコメント

■Tamasha (監督:イムティヤーズ・アリー 2015年インド映画)

f:id:globalhead:20160214180235j:image

物語は舞台で演じられる寸劇から始まる。それはギクシャクと動くロボットとピエロとの掛け合いだ。ロボットは「僕はいったい誰なのだろう?」と自問し、それにピエロは「君は毎日働いて家に帰るだけの存在さ」と告げる。ロボットの胸には赤いハートが輝いている。ロボットは壊れ、停止してしまう。次に描かれるのはある少年の情景だ。彼はなによりも物語が好きで、街の片隅にいる物語師になけなしの小遣いをはたき、いつも胸躍る冒険の物語を聴いていた。だが彼の両親は、そんな息子を快くは思ってなかった。そしてまたしても舞台は変わり、そこは風光明媚なコルシカ島、そこで一組の男女が出会うのだ。

2015年公開のインド映画『Tamasha』はこんな奇妙なオープニングから始まる。多分ロボットとピエロの舞台は主人公の将来の姿なのだろう。そして子供時代の情景は主人公自身の過去なのだろう。そんな主人公が美しい女性と出会うコルシカ島では何が起こるのだろう。これら一見バラバラな要素がどう組み合わさり、どんな物語が綴られてゆくのか興味の尽きない秀逸なオープニングだ。主演はランビール・カプールディーピカー・パードゥコーン。監督は『Highway』(2014)、『Rockstar』(2011)、『Jab We Met』(2007)とどれもユニークなラブ・ストーリーを生み出してきたイムティヤーズ・アリー。そして音楽をA・R・ラフマーンが担当し、またしても変幻自在の美しい調べを聴かせる。

主人公の名はヴェード(ランビール)、女性の名はターラー(ディーピカー・パードゥコーン)。コルシカ島で意気投合した二人はお互いの素性を知らせず一週間だけ別人の人格で付き合いそして分かれることを約束した。ヴェードは自分を「ドン」と名乗り徹底的に素っ頓狂な人間を演じ、そんなヴェードにターラーは心惹かれるが否応なく分かれの時は来た。ターラーはそんなヴェードの姿を忘れられず、何年も彼の面影を追い求める。そんなある日遂にデリーで二人は再会する。だがそこで出会ったヴェードは生真面目なサラリーマンだった。二人は交際を重ねヴェードはターラーに求婚するが、ターラーは悩みながらもそれを退ける。何故ならターラーが恋していたのはコルシカ島で出会った素っ頓狂で魅力溢れる「ドン」だったからだ。失恋の苦悩の中ヴェードは自問する。自分が本当になりたかったものはなんだったのだろう、と。

旅先で出会った二人が演じたキャラクターは、それは互いが実際に抱える現実からかけ離れた、非現実的なものであったかもしれない。だがしかしそれは、各々の内面に眠る、もう一人の自分であったのだろう。そしてそれは、現実のしがらみにとらわれない時の、自由奔放な「自分」であったのだろう。ヴェードと再会したターラーは、ヴェードの現実に塗れた面白味の無さに失望する。随分と勝手な態度かもしれないが、実の所恋愛とはそういうものだ。コルシカ島でのヴェードには、心浮きたたせる「マジック」があったのだ。そして現実のヴェードには、その「マジック」が無かったのだ。そしてこの後に展開するヴェードの行動が面白いのだ。ヴェードはターラーの前で単にもう一度「ドン」を演じれば実は二人の仲は修復できたかもしれない。しかしヴェードはそうぜず、自分の中にあった「ドン」とはなんだったのかを自問し、掘り下げようとするのだ。

それはヴェードという男の生真面目さと真摯さの表れなのだろう。その場で調子を合わせて「ドン」をもう一度演じるのではなく、ターラーの愛した「もう一人の自分であるドン」の本質を探そうとするヴェードの態度は、即ちターラーを真に愛していたからであり、また真に愛されたかったからだったとは言えないだろうか。こうしてヴェードの、どうにも一筋縄ではいかない「自分探し」が始まる。そしてその探求の旅の向こうにあったのが、「物語の大好きだった自分」であり、その物語をあたかも「ドン」のように演じることのできる自分だったのだ。ここで冒頭のロボットの寸劇を思いだしてみよう。現実に塗れて生きるヴェードは機械でできたロボットでしかなかった。ロボットは「毎日働いて休む」だけの存在だ。だがそのロボットの胸には赤く輝くハートがあった。心を持つロボット、それは矛盾した存在だ。即ち現実に塗れたヴェードは矛盾した存在に過ぎなかったのだ。するとヴェードが探していたものが何だったのか分かる。それはロボットであるくびきから逃れ、赤く輝くハート=心の命ずるものに忠実である人間ということだったのだ。

こうして映画『Tamasha』は一見ロマンス作品の体裁を取りながら、その中に「自分はどうやって生きていきたいんだろう」という問い掛けを織り込んだ作品として完成している。作品の中で出会いと別れを体験するランビールとディーピカーは非常に複雑な感情を演じ彼らのベスト演技だったのではないか。かつて二人は交際していたという話だが、そのせいか演技における息の合い方が絶妙であり、そしてまた見せる表情がどれも自然で、だからこそ映画を観る者は二人の感情に自然に入って行ってしまう。ロケーションである冒頭のコルシカ島、クライマックスの東京、全てが美しい。それにしてもやはりインド映画は凄い、作品テーマの持つ複雑さと豊潤さ、生に対するあくまで前向きな態度、幸福へと帰結するための試練との対峙、そして画面に溢れる明るい色彩、この全てを包括する大いなる肯定性、これらは歌や踊りだけではないインド映画の大きな要素であり魅力だろうと思う。映画『Tamasha』もそうした魅力溢れる作品だと言っていいだろう。傑作である。

『Tamasha』Trailer

D

「Matargashti」

この開放感あふれる色彩とロケーション、力のいれ過ぎない踊りとA・R・ラフマーン素晴らしい音楽。ランビールはとても楽しくて、ディーピカーはどこまでも美しい。インド映画を観ていてよかったなあと思える素晴らしい1シーン。

D

20160218(Thu)

[][]ターバン巻いたシクのおっさんが(再び)大暴れ!?〜映画『Singh Is Bling』 ターバン巻いたシクのおっさんが(再び)大暴れ!?〜映画『Singh Is Bling』を含むブックマーク ターバン巻いたシクのおっさんが(再び)大暴れ!?〜映画『Singh Is Bling』のブックマークコメント

■Singh Is Bling (監督:プラブーデーヴァ 2015年インド映画)

f:id:globalhead:20160215103156j:image

誰が頼んだわけでもないのに、ターバン巻いた憎いあんちきしょうが帰ってきた!?アクシャイ・クマール、エミー・ジャクソン主演の『Singh Is Bling』は、2008年に公開された『Singh Is Kinng』のリメイクとなるらしいが、お話は全然別モノ、単にアホアホなシク教徒がトンチンカンの限りを尽くすという非常に困ったコメディ映画である。監督はダンス映画『ABCD』『ABCD2』、アクション映画『R...Rajkumar』『Rowdy Rathore』のプラブーデーヴァだが、『Action Jackson』というとてもしょーもない大バカアクションも撮っているのだ。そして今回の『Singh Is Bling』、↑のポスターを見て理解できるように、やる気満々のしょーもなさを狙っているようなのである。だいたいなんなんだあのキャプテン・アメリカのバッタもんみたいなキャラは!?しかも映画にこんなコスチュームなんか出てきやしなかったぞ!?

《物語》シク教徒の主人公ラフタール(アクシャイ・クマール)は今日もパンジャーブの農村でのんべんだらりと過ごしていた。父親はそんな彼を見兼ね「結婚するか働くかどっちかにしろ!」と叱り飛ばす。「結婚ってあの百貫デブの娘なんだよなあ…嫌だよなあ…」とラフタール、渋々ゴアにいる父の知り合いの元で仕事をすることになる。さてその仕事というのがルーマニアからやってきたサラ(エミー・ジャクソン)という女性の母親探しをするというもの。セクシーダイナマイツなサラに一目惚れするラフタールだったが、サラは英語しか話せず、インド人のラフタールと会話が通じない。通訳を雇うものの、いつも何故だかトンチンカンなことに。そしてラフタールは知らなかった、サラが実はマフィアの娘で、さらにとんでもない格闘家であり、しかもマフィアの男に結婚を迫られていることを。

とまあそんなお話なんだが、いやあ…ユルい…どこまでもひたすらユルい…スイカとビールをダブルで飲食した翌朝のお腹のようにユルい作品なのである。まあね、監督のプラブーデーヴァ、意外とやる時はやる男だからね…(ユルい演出を)。動物園で仕事を見つけたラフタールがライオンを逃がしてしまい、代わりに犬の首にモフモフを付けてライオンと偽ってみたりとか、車を発進する時いつもバックに入れて後ろにいる人間が怪我したりとか、通訳が毎回意味の違うことを通訳してみたりとか、「それって面白いのか…」とグッタリさせられるギャグが連発されるのである。「いったいどうしたらいいんだろう…」と思ってしまう訳である。あとヒロイン役のエミー・ジャクソンな。モデル顔の綺麗な顔はしているが、モデル顔が祟って表情に乏しく魅力を感じないのだ。

とはいえ、そのエミー・ジャクソン演じるヒロインが悪漢どもをぶちのめすという結構派手なアクションが入ってから「お、いつものプラブーデーヴァ節が戻ってきたな」と段々光明が差してくる。さらに今回のアクシャイがどうしようもないヘタレで、悪漢にボコボコにされちゃうんだが、そこをヒロインがこっそり助太刀するなんていうシーンがいい。後半ではラーラー・ダッタ演じる通訳のエミリーが怪しい方向にトチ狂い始め、これがまた訳が分からなくて楽しい。主人公とヒロインの言葉が通じないといった設定も物語の展開を面白くしている。なんだプラブーデーヴァ、やれば出来る子じゃないか(上から目線)。出だしはトロ臭かったが後半に行くにつれいい湯加減になってくる。そしてクライマックスは大アクション大会、ポスターで期待したほどハッチャケた作品ではなかったが、十分満足できる出来だった。いってみれば古いタイプのインド映画なんだが、こういった作品もコンスタントに作ってもらうとやっぱり嬉しいね。

D

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20160218

20160217(Wed)

[]最近読んだコミック 最近読んだコミックを含むブックマーク 最近読んだコミックのブックマークコメント

■ダーリンは70歳 / 西原理恵子

ダーリンは70歳 (コミックス単行本)

ダーリンは70歳 (コミックス単行本)

西原理恵子と高須クリニック院長・高須克弥のラブラブぶりは既に知るところだが、遂に漫画にまでしてしもうたのか。天下の高須センセイが中学生みたいな描き方されているのも可笑しいが(というより高須センセイに限らず男なんてみんな中学生みたいなもんだ)、逆にそれが高須センセイの人間味としてこちらに伝わってくる部分が、これを描く西原の愛ゆえなのだろう。暫く前までの子育て漫画で西原なりの平凡な幸せを追求していてそこが若干退屈にも感じていたのだが、この作品では同じように幸福を追求していつつ、そこに西原ならではの「凄み」が加わるのは、それが高須センセイが作中言うとおりに「僕たちには時間がない」という部分だろう。高須センセイは今70歳、いくら長生きしたとしてもあと10年20年、ひょっとしても30年。そして10年20年というのは年老いた者にとってあっという間の年月に過ぎないのだ。これは現在53歳のオレにだって如実に感じる事実なのだ。この作品には溢れんばかりの愛と笑いが込められているけれども、それはタイムリミット付きの愛であり幸福であり、そして実のところ、生けとし生けるものにとって全ての愛はタイムリミット付きなのだ。だからこそ、今この瞬間に精一杯愛しきろうとする、高須センセイの優しさが、同じ愛する者のいるオレには心に沁みるのだ。だからこそ、この物語は切ないのだ。

■岡崎に捧ぐ(2) / 山本さほ

岡崎に捧ぐ 2 (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ 2 (コミックス単行本)

前巻が「小学生篇」だった『岡崎に捧ぐ』は今作で「中学生篇」に突入。こんな具合にサクッと時代を先に進め、「小学生篇」だけで長々と引っ張ったりしないところに作者・山本の非凡さが伺えるが、さらに非凡に感じたのは個々のエピソードも決して引っ張らない部分だ。例えば作品の中でこの主人公の恋が語られたりはするけれども、前後編とはいえ恋のなれそめから卒業式での玉砕まであっという間に語られて終わりになる。もう一人変な友達も現れるがそれもやはり引っ張らない。結局どれも「ひとつのエピソード」ではあっても、やはり中心は親友の岡崎なのだ。このあれもこれもと欲張らない淡白さがいい。そして十分面白い。次巻はあっという間に「高校生篇」らしく、これも楽しみだ。

■レベレーション(啓示)(1) / 山岸涼子

レベレーション(啓示)(1) (モーニング KC)

レベレーション(啓示)(1) (モーニング KC)

山岸涼子の描くジャンヌ・ダルク物語、という段階であの神がかりの革命女子が神経症的非現実で描かれるのがあからさまなのだが、読んでみて確かに十分に狂った物語で、いやーやっぱり山岸涼子はやめられまへんなー、と膝を打つ(打たないけけど)オレであった。山岸はこの作品で主人公ジャンヌが神経症である、と最初から断っておきつつ様々な怪異を見せてゆく、という確信犯的な描き方をする。そして読んでいるこちらも「いやこれは主人公の幻覚なのだ」と知っていつつありえない世界へと持って行かれる。この異常心理の追体験に凄みがある。

プラチナエンド(1) / 小畑健, 大場つぐみ

デスノート』『バクマン。』コンビによる新作。設定から『デスノート』の天使版を思わせるが、"敵対する12人の天使"なんてーのが現れて、お話は今後そっちの方向に向かうのでありましょう。しかし面白いとか面白くないとかいう以前に、物語設定やキャラや絵柄や展開に「人気少年漫画のありうべきフォーマット」的なものが随所に見られ、「高い興行収益を挙げられるべきシナリオのフォーマット」に基づいて製作されたハリウッド映画を見ているような産業臭が濃厚で、その部分である種感心させられた。

ヴィンランド・サガ(17) / 幸村誠

ヴィンランド・サガ(17) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(17) (アフタヌーンKC)

北欧が舞台なのに登場人物の心情の在り方が実に東南アジアしている部分がちぐはぐに感じてイマイチ面白いんだが面白くないんだか分からないまま読んでいる『ヴィンランド・サガ』、この巻で明かされるボウガン・スナイパーの女の出自がなかなかにハードボイルドで、いやこれならオレ、ノレるわ、とちょっと見直した巻であった。この女主人公にした方が面白いのに。

20160216(Tue)

[]Virgil Finlay幻想画集 復刻版 / 大瀧 啓裕 編・著 Virgil Finlay幻想画集 復刻版 / 大瀧 啓裕 編・著 を含むブックマーク Virgil Finlay幻想画集 復刻版 / 大瀧 啓裕 編・著 のブックマークコメント

f:id:globalhead:20160214184147j:image

伝説の幻想小説誌『ウィアード・テイルズ』を中心に、そうそうたる幻想・SF作家たちの挿絵を手がけ、その精緻を極めた流麗な画風で幻想・SFイラストの最高峰と讃えられたヴァージル・フィンレイの画業を収録した『Virgil Finlay幻想画集』を34年ぶりに復刻刊行!編者による詳細な解説と資料も収録!

ヴァージル・フィンレイといえば大昔SFマガジンでちょっとした紹介がされていてそこで見たのを覚えている。黒を基調とした画面には美女と魔物が点描で描かれ、さらに有機物のような光輪がそちこちに漂い、そこにはまごうことなき異世界が表出し、それら全てに一種異様な暗さと深みがあった。ヴァージル・フィンレイを知らない方でも、創元社から刊行されているラブクラフト全集の表紙の作者、といえばお分かりいただけるであろう。

f:id:globalhead:20160214190425j:image

ヴァージル・フィンレイは20世紀半ばに「ウィアード・テイルズ」などのパルプ雑誌で挿絵画家として活躍したイラストレーターだ。例によって手抜きだがWikipediaによるざっくりした経歴をコピペしてみる。

ヴァージル・ウォードゥン・フィンレイ(Virgil Warden Finlay、1914年7月23日 - 1971年1月18日)は、アメリカのイラストレーター。アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスター生まれ。戦前から戦後にかけてファンタジー、SF、ホラーのパルプ・マガジンに多くの美麗な挿絵を発表した。フィンレイが得意とした手法は、極細のペンによる高密度の点描とクロスハッチング(密度のある平行の直線を何重にも重ねて陰影に見せる技法)で、これは非常な手間と時間がかかるものであったが、彼は35年の経歴中に2,600以上の作品を残した。作風の特徴としては、当時としては顕著な官能性が挙げられる。

Wikipedia-ヴァージル・フィンレイ

そんなヴァージル・フィンレイの画集がこの度青心社から刊行されたが、これは1981年に刊行された同書の34年振りとなる復刻版なのらしい。解説も含め130ページほどのハードカヴァーで、フィンレイのイラストは100点あまりが収められている。これを内容が薄いと取るか手に取り易い価格帯に収めた良心的な画集と取るかだが、実は編集した大瀧啓裕氏の解説によると、500枚に及ぶ原画から客観的な観点を得るため画家を始めとする大瀧氏の5人の友人の助力を経てこの点数まで絞り込んだ作品集となるのらしい。いわゆるフィンレイのベスト・オブ・ベストともいえるセレクションとなっているのだ。そこまで入れ込んだ大瀧氏の解説がまた素晴らしい。これがフィンレイの生涯を追っただけではなく、20世紀半ばにおけるパルプ・マガジンのちょっとした小歴史を追ったものにもなっていて、これはかなり読み応えがあった。なによりも大瀧氏のフィンレイへの深い敬愛がうかがわれるのだ。

大瀧氏によるとフィンレイは不遇の画家ではあったが、彼は決して早すぎた才能でも遅すぎた才能でもなく、まさに当時のパルプ・マガジンがあったからこそ培われ花開いた才能であると書かれている。なるほど、世にはそういった形でしか現れることの無い才能というものもあるのか、としばし思いを馳せてしまった。というわけで稀代の幻想画家にして唯一無二の駿才、ヴァージル・フィンレイの幻想画集をとくとご覧あれ。

f:id:globalhead:20160215214708j:image

f:id:globalhead:20160215214707j:image

f:id:globalhead:20160215214709j:image

f:id:globalhead:20160215214710j:image

ヴァージル・フィンレイ幻想画集

ヴァージル・フィンレイ幻想画集

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20160216

20160215(Mon)

[]不撓不屈。〜映画『オデッセイ』 不撓不屈。〜映画『オデッセイ』を含むブックマーク 不撓不屈。〜映画『オデッセイ』のブックマークコメント

■オデッセイ (監督:リドリー・スコット 2015年アメリカ映画)

f:id:globalhead:20160214160506j:image

有人火星探査ミッション中死亡したとみなされ、ただ一人火星に取り残された男が、残り少ない資材とあらん限りの科学知識でもって生存を賭けた戦いを開始する。地球からの救援までに男は生き残ることができるのか。映画『オデッセイ』は、火星版ロビンソン・クルーソーとでもいうべきSFサバイバル・ドラマである(もういい加減「DASH村」っていうのは勘弁してくれないか?)。原作はアンディ・ウィアーのSF小説『火星の人』。この小説のことは以前「"生き延びろ!"火星にただ一人残された宇宙飛行士の究極のサバイバルを描く『火星の人』は今年のナンバーワンSF小説ってことでいいと思う。 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ」としてオレのブログで紹介したが、なにしろ痛快極まりないサバイバルSF作品なので是非読んでいただきたい。

物語に通底するのは絶望的な状況の中における主人公マーク(マット・デイモン)の徹底して前向きな態度と諧謔精神、たとえどんな失敗や困難があってもそれをどんなことをしてでも乗り越えようとする強固な体力、精神力だ。ただし火星という人間の生存に適さない土地で生き残るには体力と精神力だけではどうにもならない。それを可能にしたのはマークの該博な科学知識だ。主人公は火星探査施設に残されたありとあらゆる機材、さらには廃棄物(要するにウンコ)まで使い、それをパズルのように組み合わせることで生存に必要な物資を作り上げてゆく。つまりこの物語は、体力、精神力、知力、その3つを最大限まで駆使して己の生存を可能に導く、という離れ業の様を堪能するドラマでもあるのだ。

ただしやはりそれだけでも足りない。限られた資材だけではどうあがこうとも長期間火星に滞在することはできない。そんな彼を資材の無くなるタイムリミットまでに火星から救い出さなければならない。こうして物語では地球側の不可能に近い救出ミッションが展開する様も描かれる。どのように急ピッチでロケットを建造し火星へと発射しても数百日の時間を要する。しかしそれでは全く時間が足りない。それではどうすればいいのか。こうして地球側でも恐るべき試行錯誤と膨大な労力が救出ミッションにつぎ込まれることになる。その多くは不眠不休の長時間労働である。いやあ、人命の掛かった国家プロジェクトであるとはいえ、とんでもないデスマーチだったんだろうなあ…と関係者各位の甚大な労力には涙と同情を禁じ得ない。

さらにもうひとつの要素として、火星からの帰路にあった宇宙船ヘルメスのクルーの物語が加わる。死亡したものとされてたとはいえ、主人公を火星に残してきてしまった火星探査クルーたちの無念と後悔、そんな彼が生きていたと知った時の彼らの複雑極まる心境。火星に取り残されたマークとそれを救うべく尽力する地球側の「なにがなんでも(生存と救出を)やり遂げなければならない」という命題は、もはや感情などを通り越した部分で遂行されてゆくのだけれども、その部分で欠けたエモーショナルな部分を、このヘルメス・クルーが補う形となるのだ。一度見捨ててしまった仲間を、今度は絶対に、見捨てない。失敗すればクルー全員の死とも繋がるミッションへとクルーたちは挑む。ある意味一番心情的に寄り添うことのできるのはこのヘルメス・クルーであり、なんといっても船長であるメリッサ・ルイス准将(ジェシカ・チャステイン)の決意の様にだろう。

こうした物語を通して感じたのは、原作の感想でも書いたけれども、アメリカという国とその国民性の持つ、不撓不屈の精神であり、いつも前向きであらんとする態度だ。常に挑戦者たらんとする気概、古くから存在する開拓精神と為せば成ると信じる楽観性、これら「アメリカ的」ともいえる精神がこの物語には十二分に横溢している。それらは悪しきアメリカ覇権主義と表裏一体となっていて、決して手放しで絶賛できるものではないのだけれども、しかし映画『オデッセイ』には、少なくともアメリカの持つ素晴らしい側面があらん限りに詰め込まれている。そこにはかつて誰もが憧れたアメリカがあり、誰もが信じたアメリカがある。そういった「楽観と肯定性に溢れたアメリカ」を今一度描いたドラマとしてもこの作品は評価できると思う。

さて映画として観るなら監督リドリー・スコットの手腕はどうだったろう。リドリー・スコットといえば十年一日の如く『エイリアン』の、『ブレードランナー』の、と思ってしまう部分もあるが、現在までのキャリアでみるなら、そこそこに豪華な映像を表出することが可能で、どんなテーマの物語でも手堅いヒットを生み出す、しかしどちらかというと作家性の薄い職人監督と言ったほうが正しいのではないか。要するにそつが無く、かといって熱狂的に支持されることもない監督ということだ。リドリー・スコットはこの『オデッセイ』でも原作の要素を巧みに抽出し、映画的に盛り上げるべき部分は独自の脚色を加えているが、職人技の仇が祟りエンターティンメントとして提供できる以上の興奮、言うなれば魂に重く響く何かまでは手が届かない部分だけは若干残念に感じた。まあそれにしたところでこの『オデッセイ』は彼の得意とするSFジャンルであった故に、今年度を代表する作品となることは変わりないだろう。

D

火星の人

火星の人

pinehouse_kishipinehouse_kishi 2016/02/28 22:54 私は原作は読んだことなく、オデッセイを見ましたが、猛烈に泣きました!!!かなり良作でしたね!

globalheadglobalhead 2016/02/28 23:23 原作なんか知らなくとも感動できる心があればそれでいいんです!

20160213(Sat)

[][]「早老病」の少年を見守る家族を描いたユーモラスな感動作〜映画『Paa』【ヴィディヤー・バーラン特集】 「早老病」の少年を見守る家族を描いたユーモラスな感動作〜映画『Paa』【ヴィディヤー・バーラン特集】を含むブックマーク 「早老病」の少年を見守る家族を描いたユーモラスな感動作〜映画『Paa』【ヴィディヤー・バーラン特集】のブックマークコメント

■Paa (監督:Rバールキー 2009年インド映画)

f:id:globalhead:20150811102047j:image

この作品は正常な子供よりも急速に身体が老いてゆく奇病、プロジェリア(ハッチンソン・ギルフォード・プロジェリア症候群、いわゆる「早老病」)に罹る少年とその家族とを描いたドラマである。そしてアミターブ・バッチャンアビシェーク・バッチャンという"バッチャン親子"の共演が楽しめるという部分でも注目を浴びた。しかもなんと少年役をアミターブが演じるのだ。そしてその母親を演技力では定評のあるヴィディヤー・バーランが演じている。タイトル『Paa』は「お父さん」といった意味となる。

《物語》小学校に通う12歳の少年オーロ(アミターブ・バッチャン)はプロジェリアという奇病に罹っており、老人のような外見をしていたが、明るくひょうきんな彼は学校中の人気者だった。ある日、オーロが学校創立式典のために作ったオブジェに国会議員のアモール(アビシェーク・バッチャン)が関心を示し、オーロに最優秀賞を与えることになった。その様子を放送するTVを見ていたオーロの母ヴィディヤー(ヴィディヤー・バーラン)は驚愕した。実はアモールはヴィディヤーの学生時代の恋人であり、オーロはその時妊娠した子供だったのだ。しかし政界を目指すアモールのためヴィディヤーは彼と別れて子供を生み、プロジェリアと知った後も母と二人で気丈に育てていたのである。

この『Paa』、何が凄いといって12歳の難病少年を還暦のアミターブ・バッチャンが特殊メイクを施し演じてしまう、それに尽きる。しかもさらに驚かされるのが、それが全く違和感がないということ、それだけでなく、徹底的な名演で観る者を魅了してしまう、という部分である。正直なところ「老人化した少年」といったビジュアルはやはりどこか恐ろしい。にもかかわらずアミターブがそれを生き生きと演じることで、めちゃくちゃチャーミングに見えてくるのだ。もうこれは演技の魅力、技量としかいいようがない。そもそも大男のアミターブが子供を演じ、そして子供と思わせてしまう時点で恐るべきものがある。逆にこれが普通に小柄な俳優、または子供が演じていたら生々しいものになって観ていて居心地が悪かったかもしれない。なにしろこの「チャーミングなアミターブ」が作品の屋台骨となって全体を支えているのだ。

もうひとつはいわゆる「難病モノ」の作品にもかかわらず、作品全体が暗さや湿り気を感じさせないカラッとしてユーモラスな明るさを醸し出していたことだろう。これはもちろんオーロのキャラに負うものが大きいが、オーロと周囲との関係の良さも影響を与えている。まずなにしろ母親であるヴィディヤーの気丈さだ。そもそもの発端であるアモールとの別離の悲しみも、生まれた子がプロジェリアと知った時も、驚くべき意志でその悲しみを乗り越えてゆく。プロジェリアの子供は長生きはしないことをヴィディヤーは知っている。だからこそヴィディヤーは精一杯オーロを愛し短くても楽しい人生を送らせようとする。今できることを、できるだけする。ヴィディヤーのこんな前向きさが素晴らしいのと同時に、ヴィディヤー・バーランはそれを軽やかに演じてゆくのだ。同時に、オーロを取り巻く学校、同級生たちの温かさも目を見張る。この作品ではイジメすら描かれないのだ。

この作品はオーロの人生を中心としながら、母であるヴィディヤーと、本当の父であるアモールとの、再会の物語としても描かれる。アモールはオーロが自分の子供とは知らないまま彼に愛情を注ぎ続ける。ヴィディヤーは心のわだかまりから、そんなアモールの行動を知りつつも、決して自分の存在も、彼が父である真実も明かそうとしない。そして物語は、この二人がいつ顔を会わせるのか、真実を知るのか、そして和解することができるのか、ぎりぎりまで焦らせながら進行してゆく。恋人と子供を捨てたという過去の汚点を反省し、どこまでも真摯に誠意を見せようと努力する政治家アモールの姿もまた素晴らしいのだ。演じるアビシェーク・バッチャンは、精悍で知的な演技に徹し、実を言うとこれまで見たことがないぐらいいい男に見えた(意外とこれが素なのかもしれない)。こうして、主役3人のたぐい稀な演技と存在感が相乗効果を成し、この作品は単なる「難病モノ」の範疇を超えた秀作として完成したのだ。

D

[][]【ヴィディヤー・バーラン特集】まとめ 【ヴィディヤー・バーラン特集】まとめを含むブックマーク 【ヴィディヤー・バーラン特集】まとめのブックマークコメント

f:id:globalhead:20160213090937j:image

とまあ特に新作公開されて盛り上がってるわけでもないのに唐突にヴィディヤー・バーラン特集などというもののを立ち上げてしまいましたが、なんでかっていうと端的にヴィディヤー・バーランという女優さんが好きだからです。インド映画女優の美しさは誰もが認めることでしょうし、それと、インド映画女優はヴィディヤー・バーランに限らず誰もが演技のスキル、表現力が相当に高いと感じます。そんな中でなんで彼女なのかと言うと、これはもう好みとしか言えないのですが、なんかこう、見ていて和むものを感じる、そんなところでしょうか。年齢がちょっと高めでそれなりにぷくっとしているところとか…ああすいませんオレもオッサンなもんですから若い女優さんよりもヴィディヤーさんぐらいがいいなあと思う訳なんですが…。

今まで感想を書いたヴィディヤー・バーラン作品をまとめてみました。参考までにどうぞ。

失踪した夫を探しにインドに発った女を襲う戦慄のサスペンス・スリラー!〜映画『女神は二度微笑む』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

「汚れた女優」の栄光と没落を描く傑作映画『Dirty Picture』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

捨て子の赤ちゃんに3人のプレイボーイが大弱り!?〜映画『Heyy Babyy』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

『Devdas』原作者による一組の男女のすれ違いを描く文芸ドラマ〜映画『Parineeta』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

チンピラ二人と妖しい美女とが織りなすクライム・ドラマ正続2編〜映画『Ishqiya』『Dedh Ishqiya』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

ギャングの親分がガンジーの幻と出会って大騒ぎ!?〜映画『Lage Raho Munnabhai』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

盗んだ金の隠し場所を忘れちゃった!?〜映画『Ghanchakkar』【ヴィディヤー・バーラン特集】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

大邸宅を彷徨う亡霊の影〜映画『Bhool Bhulaiyaa』【ヴィディヤー・バーラン特集】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

探偵ヴィディヤー・バーラン七変化!?〜映画『Bobby Jasoos』【ヴィディヤー・バーラン特集】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

夫と妻の深い溝〜映画『Shaadi Ke Side Effects』【ヴィディヤー・バーラン特集】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

「早老病」の少年を見守る家族を描いたユーモラスな感動作〜映画『Paa』【ヴィディヤー・バーラン特集】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

女神は二度微笑む [DVD]

女神は二度微笑む [DVD]

20160212(Fri)

[][]夫と妻の深い溝〜映画『Shaadi Ke Side Effects』【ヴィディヤー・バーラン特集】 夫と妻の深い溝〜映画『Shaadi Ke Side Effects』【ヴィディヤー・バーラン特集】を含むブックマーク 夫と妻の深い溝〜映画『Shaadi Ke Side Effects』【ヴィディヤー・バーラン特集】のブックマークコメント

■Shaadi Ke Side Effects (監督:サーケート・チョウドゥリー 2014年インド映画)

f:id:globalhead:20150814110008j:image

順風満帆に過ごしていたはずの結婚生活に大いなる異変が!?それは子供が出来ちゃったことなんです!?あー、今まで通りの生活には戻れないよう…(シクシク)という既婚男性の悩みと苦闘を描いたコメディ、『Shaadi Ke Side Effects』です。タイトルは「結婚の副作用」なのだそうですが、子供の誕生が「副作用」と捉えてる部分で既に旦那の負け犬意識が濃厚ですな。主演に『女神は二度微笑む』のヴィディヤー・バーラン、そして『ミルカ』のファルハーン・アクタル。既に日本公開済の傑作2本の主演俳優、という紹介の仕方ができるのはインド映画好きとしてはなんだか嬉しいですな。

《物語》熱烈な恋愛の末に結ばれ幸せな結婚生活を営んでいたシド(ファルハーン・アクタル)とトリシャー(ヴィディヤー・バーラン)だったが、子供が生まれたことで二人の関係に微妙な変化が訪れる。これまではラブラブだった二人だが、トリシャーはすっかり子供中心の生活をするようになり、家庭にシドの居場所がなくなってきたのだ。おまけに育児の手伝いをしようにも、トンチンカンなシドはトリシャーに叱られてばかり。ああ、こんなはずじゃ…。そこでシドは友人の忠告に従い、妻には仕事と嘘をついて月一回のホテル住まいを始める。ああ!これだよこの解放感だよ!だが子供が成長するにつれそんな散財も難しくなり、シドはまたしても追い詰められてゆくのだ。

「女性には3つの顔がある、それは妻・母・女だ」なーんて言葉がありますが、女性は結婚して子供ができると、それまでの恋人・妻の顔からあっという間に母親の顔に切り替えられちゃうというのはよく聞く話ですね。一方男性のほうはなかなか切り替える事が出来ないものですから、相変わらず子供みたいなことばかりやっていて奥さんの変化についてゆけず、そこから夫婦の溝が生まれてしまう。これなんかもよく聞く話ではあります。映画『Shaadi Ke Side Effects』は、まさしくそんな状況にみまわれた夫婦を夫の目線から描き、「妻と今まで通り上手くやっていきたいし、子育ての手助けもするべきだろうけど、自由にもなりたい…あー!俺いったいどうしたらいいんだ!?」と頭を抱える夫の七転八倒ぶりが可笑しいコメディなんですね。

自分は結婚もしてないし子供もいないので、こういった物語にどこまで感情移入できるのかなあ?と若干心配だったのですが、実際観てみると、これが実に楽しませ、笑わせてくれる作品でした。まずシナリオが意地悪なぐらいにこまごまと男女の行動や考え方の溝を描写していて、その中で男の幼稚さ、しょーも無さをちまちまとえぐり出しており、身に覚えが無いわけでもないそれらの描写に、思わず「アタタタタ…」と心が痛くなってくるのですよ。とはいえそんな行動をとっちゃうシドの気持ちは男として十分分かるし、一方、トリシャーの言い分もやっぱり理解出来るんです。こういう「頭では理解出来るけど気持ちとしては億劫なこと」「相手の言い分は正しいし尊重するべきだけど実際のところこっちが疲れちゃうこと」ってあるんですよねえ。そこをなんとかするのが大人ってもんなんですが、いや、それも理解はできるけど…ああ堂々巡り。

こういった、「結婚問題」「育児問題」といった限定されたテーマに留まらない、いわゆる「男と女の心の溝」を描き出し、それをコメディとして上手くまとめたところが秀逸な作品でしたね。そして「じゃあ男と女はどうやって歩み寄ればいいんだろう?」という解決策を模索しようとするんです。トリシャー役のヴィディヤー・バーランは「妻・母・女」という女性の三つの顔を絶妙に演じ分け、今回も演技派女優の技量を見せつけてくれました。一方シド役のファルハーン・アクタルも「大人になりきれない旦那様」をとても存在感のある演技で見せてくれました。いやしかしファルハーン・アクタル、「体脂肪率を5%まで絞った」という『ミルカ』とはまるで別人でびっくりしましたよ!2014年のインド映画良作はだいたい観たつもりだったのですが、まだまだ見落としていた!と思わせてくれた作品でした。

D

20160211(Thu)

[][]誰がジェシカを殺したのか?〜映画『No One Killed Jessica』【ヴィディヤー・バーラン特集】 誰がジェシカを殺したのか?〜映画『No One Killed Jessica』【ヴィディヤー・バーラン特集】を含むブックマーク 誰がジェシカを殺したのか?〜映画『No One Killed Jessica』【ヴィディヤー・バーラン特集】のブックマークコメント

■No One Killed Jessica (監督:ラージクマール・グプタ 2011年インド映画)

f:id:globalhead:20150430141626j:image

衆人環視のパーティー会場の中で、一人の女性が射殺された。しかし、誰一人事件を目撃したと言う者は現れなかった。事件の背後にいったい何があったのか?映画『No One Killed Jessica』は、1999年インド・デリーで実際に起こった殺人事件、通称ジェシカ・ラール事件を元に2011年に製作されたセミ・ドキュメントである。殺された女性の姉をヴィディヤー・バーラン、事件を追うTVリポーターをラーニー・ムカルジーという2大女優が演じるのも見所だ。

1999年、デリー。300人ものセレブが集まるパーティー会場で、モデルのジェシカ・ラール(ミーラー)が銃で撃たれ死亡する。バーの手伝いをしていたジェシカは、売り物の酒がもう無い、という理由だけで酔漢に銃弾を撃ち込まれたのだ。撃った男は地元の有力政治家の息子マニーシュ。ジェシカの姉サブリナ(ヴィディヤー・バーラン)と彼女の両親は悲しみの中、逮捕されたマニーシュの裁判の行方を見守っていた。しかし、目撃者であった者たちは買収や保身により次々と証言を翻し、しまいには「誰もジェシカを殺さなかった」という事態に発展、遂に犯人は無罪釈放されることになってしまう。絶望の底に落とされたサブリナだったが、そんな彼女に声を掛ける者がいた。それはTVリポーターでありジャーナリストでもあるミーラー(ラーニー・ムカルジー)だった。正義のための戦いが今始まる。

なにしろまず、ヴィディヤー・バーラン、ラーニー・ムカルジーという主演女優二人が素晴らしい。ヴィディヤー・バーランは心に懊悩と葛藤を秘めた女性を演じさせれば右に出る者がいないかもしれない。この物語でも彼女は終始沈鬱な面持ちで妹の死と一向に進展を見せない裁判という重圧に耐え忍び続ける。映画での彼女は安物の洋服と化粧気のない地味な眼鏡の顔で登場し、インドの町のどこにでもいそうな市井の人を演じ切る。これにより彼女の役柄は特殊な事件に巻き込まれた悲劇のヒロインなのではなく、これが誰の身にも起こり得る悲劇であることを知らしめるのだ。誰の身にも起こり得る悲劇、それは銃による殺傷ということではなく、腐敗した司法構造と事なかれ主義の隣人によって在り得るはずの無い不幸に見舞われてしまう、ということだ。この作品のテーマはまさにそこにあり、ヴィディヤー・バーラン演じるサブリナの、その暗鬱たる表情の中に、観る者は自らが生きる社会の不安を見出さずにいられなくなるのだ。

一方ラーニー・ムカルジー演じるTVリポーター・ミーラーは、これはセミ・ドキュメントであるこの物語において脚色された架空の存在なのだという。ミーラーは事件の話題性をいち早く嗅ぎつける絶妙の嗅覚でジャーナリズムの世界を渡り歩いてきた女として登場する。マッチョでタフ、舌鋒鋭く強固な意志力を持つ彼女は、物語後半において抜群の行動力を見せ、社会と人の心の腐敗に大鉈を振るってゆく。不条理な事件に心を閉ざしたサブリナと全く正反対のキャラクターとして大活躍を見せる彼女は、公正たりたいと願う民衆、つまりは観客の願望的存在として登場するのだ。しかし彼女は決して清廉潔白で無原罪な抽象的人格のキャラクターではない。彼女はそもそもこの事件を知りながら無関心であり、大きな社会問題と化した段階でこの事件に着手した動機の裏にはTVレポーターとしての野心が見え隠れする。だがそれこそが彼女に人間的性格を加味しており、山をも動かす勢いで世論を巻き込んでゆく後半の展開に生々しい迫力をもたらしてゆくのだ。

物語的に見るなら後半からの正義一辺倒に盛り上がり、デモや集会を開いて声をあげてゆく大衆の描写にストレート過ぎるものを覚えるかもしれない。実際のところ、現実の事件もこのような世論の動きがあったからこそ再審請求から民主主義的解決へと繋がっていったのであろうが、一つの娯楽作品の中で見るなら少々イノセントな臭みを感じてしまうのと、一人のTVレポーターに容易く世論操作され過ぎのようにも思えたが、これはこの作品を観た自分個人が心のひねくれた人間だからなのかもしれない。ただ、こういった世論の動きが実際にあり、多くのインド市民の声が上がったという描写を見るにつけ、インドの民主主義や市民感情、そしてその声を吸い上げる行政・司法の在り方も想像以上に健全な側面を持っているな、と感心した。また、作品内ではラケーシュ・オームプラカーシュ・メーラ監督、アーミル・カーン主演で若者たちの革命を描いた 2006年のインド映画作品『Rang De Basanti』の一シーンが使用され、効果を上げている。

D

20160210(Wed)

[][]探偵ヴィディヤー・バーラン七変化!?〜映画『Bobby Jasoos』【ヴィディヤー・バーラン特集】 探偵ヴィディヤー・バーラン七変化!?〜映画『Bobby Jasoos』【ヴィディヤー・バーラン特集】を含むブックマーク 探偵ヴィディヤー・バーラン七変化!?〜映画『Bobby Jasoos』【ヴィディヤー・バーラン特集】のブックマークコメント

■Bobby Jasoos (監督:サマル・シェーク 2014年インド映画)

f:id:globalhead:20150806153042j:image

ヴィディヤー・バーランが女探偵となって事件を解決!という 2014年のコメディー映画『Bobby Jasoos』です。ヴィディヤー・バーランといえば日本で公開され大好評だった『女神は二度微笑む』も言ってみれば探偵物語みたいな作品でしたね。今作では初っ端からヴィディヤーがあれやこれやと変装した姿を見せつけ、「ヴィディヤー・バーラン七変化」を期待させますが、結果はどうでしょうか。

物語の舞台はインド中南部テランガーナ州の都市ハイデラバード。ここでヴィディヤー扮する女性ボビーが趣味で探偵の真似事をしていたんですが、ある日アニース(キラン・クマール)と名乗る男から高額の報酬で人探しを頼まれたことから彼女の探偵業は本格化します。アニースから要請された二人の人探しをこなし、報酬で探偵事務所まで興したボビーですが、アニースから3人目の人探しを依頼された際、ボビーはこれまで見つけた二人が行方不明になっていることを知るのです。自分はなにか大きな犯罪に巻き込まれたのではないか…。ボビーは極秘にアニースの身辺調査を開始します。

この『Bobby Jasoos』、実を言うとそんなに評判がよくなくて、収益的にも失敗作なんですが、「ヴィディヤー・バーランが変装するユルイ映画だと思ってりゃいいか」ということで観始めたんですけどね。まあ確かに食い足りない物語で、まず描かれる人探しの方法というのがどれも単なる総当たり戦だっていうのが探偵物語としてどうよ?と思えてしまったなあ。例えばシャーロック・ホームズのような鋭い観察眼や鋭利な知性や驚異的なひらめきみたいな知的な部分があるということが全く無いんですね。ホームズ並みは期待しませんが、探偵モノだっていうならもうちょっと頭使った物語にするべきだったんじゃないですかね。これじゃあホントに変装したいだけの趣味の探偵だもんなあ。その変装も冒頭だけだっていうのがまた肩透かしで。

で、事件の真相というのが、まあはっきり書けないけどやっぱり書いちゃうと「誰も悪人のいないイイ話だった」っていうのもどうなのかなあ。これだと「名探偵コナン」でも観てたほうがまだスリルとサスペンスがあるんじゃないか、って感じで。しかしこの結末を予想させないために思わせぶりに怪しげな人物を登場させている部分はちょっと頑張った、エライ、と上から目線で評価しちゃろう。確かに予想のできない結末ではあったからね。

物語は主人公ボビーの探偵活動と共に、彼女に持ち上がった結婚話、その相手男性との紆余曲折などが描かれ、この辺余計な展開と見るか物語を膨らませたものと取るかで感想も変わってくるでしょう。結婚相手タサッウルを演じるアリー・ファザルは嫌味の無いいい男で、個人的にはこの展開はそれほど悪くないなと思いました。独身女性という立場で父親と対立しながら自分の進みたい道を歩む、という部分ももう少し練りこんだら2014年にインド映画界を席巻した女性映画の一本になったかもしれないですね。

そんなことよりハイデラバードといえばビリヤーニですよ!この映画ではハイデラバード中のビリヤーニ屋を捜査するという展開があって、調理中の様子や料理された山盛りのビリヤーニがこれでもかと登場するんですね。あーいいなービリヤーニ食べたいなー。今まで一回こっきりしか食べたこと無いもんなー。またどこかに食べに行きたい!なんならハイデラバードでマトン・ビリヤーニ食べたい!・・・と物語とは全然関係ない部分で盛り上がったオレでした。

D

20160209(Tue)

[][]大邸宅を彷徨う亡霊の影〜映画『Bhool Bhulaiyaa』【ヴィディヤー・バーラン特集】 大邸宅を彷徨う亡霊の影〜映画『Bhool Bhulaiyaa』【ヴィディヤー・バーラン特集】を含むブックマーク 大邸宅を彷徨う亡霊の影〜映画『Bhool Bhulaiyaa』【ヴィディヤー・バーラン特集】のブックマークコメント

■Bhool Bhulaiyaa (監督:プリヤダルシャン 2007年インド映画)

f:id:globalhead:20150809131140j:image

歴史の古い大邸宅に起こる怪異。『Bhool Bhulaiyaa』はそんなホラー系の匂いをさせる作品です。出演はヴィディヤー・バーラン、アクシャイ・クマール、アミーシャー・パテール。そしてこの作品、ラジニカーント主演の『チャンドラムキ〜踊る!アメリカ帰りのゴーストバスター』のリメイクでもあるんです(『チャンドラムキ』自体もリメイクなんですが)。

物語はインドのヴァーラーナスィーの実家へアメリカに留学中だったスィッダールト(シャイニー・アーフージャー)が妻アヴニ(ヴィディヤー・バーラン)を連れて帰ってくる所から始まります。スィッダールトの実家はマハラジャの大邸宅なんですが、実はここにはお化けが出る、と噂されているんですね。しかしある日スィッダールトの妻アヴニが「開かずの間」の封印を切ってしまい、それから邸宅には奇怪な出来事が次々に起こり、亡霊の影が目撃されるようになるんです。スィッダールトは事件解決の為に精神科医のアーディティヤ(アクシャイ・クマール)を家に招き、事態の究明に乗り出そうとするんです。

さてこの作品、最初に書いちゃうとホラー系とはいえ全く怖くありません。舞台となる邸宅は歴史のある古い建物ですが、美しく壮麗ではあっても薄気味悪かったりとか瘴気に満ちていたりとかそういった部分が全然無いんです。むしろ亜熱帯地方らしい明るさと華やかさに溢れていて、まるでホラーの舞台という気がしません。さらにここで起こる怪異にしても見るからに超自然現象といった描かれ方をしておらず、観ていると「これは霊魂の仕業とかではなくて誰かが意識的にやってることなんじゃ?」と思わせるんですね。

そんなわけで物語への興味は恐怖や不気味さではなく、誰が何の為にやっているのか?という犯人当てになってゆくんです。だから「こいつが怪しい…こいつも怪しい…でもこういう物語は一番怪しくないのが本命だというセオリーだからやっぱりこいつか…」と観ていくと楽しいのではないでしょうか。ただしこの辺もミスリードを誘ったりしているので、「いや実はやっぱり霊の仕業ってことでオチを付けるんじゃ?」なんて思わせながら物語は進んでゆくんです。

こんな具合にホラー的な部分で肩透かしだった分、中盤から登場するアクシャイ・クマールによって物語はやっとしまりが出てきます。アクシャイは相変わらず暢気でヌーボーとしたキャラを演じますが、しかしそんな中でも細かいことに目を留め真実を明らかにしようとする姿はきちんと描かれており、好演でしたね。一方怪異に巻き込まれるヴィディヤー・バーランは、これはネタバレになるので多くは書けないのですが、クライマックスの凄まじい展開を迫真の演技で演じきっており、やはりこの人は別格だなあと思ったのと同時に、こんな役をやれるインド女優は他にいないんじゃないかとすら感じさせました。

舞台となるヴァーラーナスィーは ガンジス川沿いに位置するヒンドゥー教の一大聖地なんですね。映画でも沢山の信者や巡礼者、導師が描かれ、その中にもどうにも怪しげな信者が登場したりして楽しめます。こういったヴァーラーナスィーの光景を見ることのできる作品としても面白いものがありました。この『Bhool Bhulaiyaa』はホラーだと思って観ちゃうと物足りないし退屈なんですが、一種のサイコロジカル・スリラーとしてとらえるとインド映画としてもなかなかの着眼点にある物語だといえるのではないでしょうか。

D

20160208(Mon)

[][]盗んだ金の隠し場所を忘れちゃった!?〜映画『Ghanchakkar』【ヴィディヤー・バーラン特集】 盗んだ金の隠し場所を忘れちゃった!?〜映画『Ghanchakkar』【ヴィディヤー・バーラン特集】を含むブックマーク 盗んだ金の隠し場所を忘れちゃった!?〜映画『Ghanchakkar』【ヴィディヤー・バーラン特集】のブックマークコメント

■Ghanchakkar (監督:ラージクマール・グプター 2013年インド映画)

f:id:globalhead:20150813103040j:image

事故で記憶喪失になったばかりに、銀行強盗で奪った金の隠し場所を忘れちゃった!?という泥棒たちのドタバタを描くダークコメディ『Ghanchakkar』であります。この設定だけで既に面白いんですが、さらに「誰かが嘘を言っている!」という物語展開から非常に秀逸なスリラーともなっているんですね。主演は傑作『The Dirty Picture』でも共演したイムラーン・ハシミとヴィディヤー・バーラン、監督を『No One Killed Jessica』のラージクマール・グプターがやっております。

《物語》金庫破りのプロ、サンジュー(イムラーン・ハーシュミー)は妻のニートゥー(ヴィディヤー・バーラン)と悠々自適の生活を送っており、泥棒稼業も引退状態だったが、ギャング連中から新たな銀行強盗に誘われ、不承不承仕事をこなし大金を奪う。そして一緒に強盗をしたパンディトとイドリースは、その金をほとぼりが冷めるまでサンジューに預けることにした。3ヶ月後、サンジューに「そろそろ金を山分けしようぜ」と電話を掛けたパンディトとイドリースだったが、サンジューは「お前らの事も金の事も知らない!」と冷たくあしらう。実はサンジューは事故で記憶喪失になっていたのだ!納得できないパンディトとイドリースはサンジューの家に押しかけ、金の在り処を思い出すまでここで寝泊まりすると言い出した。

この物語、盗んだ金がどこにいってしまったか分からない!ということから始まる大騒動を描いたコメディなんですが、それと同時に「誰かが金を独り占めして黙っている」という疑惑も存在しているんですね。そういった部分で、なかなかのミステリー作品ともなっているんですよ。とりあえずパンディトとイドリースのチンピラ二人は除外するとしても、金を横取りしたのは最近羽振りのいい友人じゃないか?いや、それとも大金をへそくりしていた妻なんじゃないのか?と主人公は疑心暗鬼に駆られます。記憶喪失中に何があったのかなんて分からないですからね。しかしそれと同時に観ている側としては、この主人公自体が記憶喪失だっていう嘘をついているんじゃないのか?という疑惑を持ちながら観てしまうんですよ。

ミステリーの用語に「信頼できない語り手」という言葉があるんですが、本来主人公は客観的に正しい視点で物語を語っている、というお約束を逆手に取り、読者にミスリードをうながしてしまう、という手法なんですね。この物語の主人公は、泥棒仲間に脅されて必死に金の在り処を探すんですが、実はそれは全て演技なんじゃないか?金の在り処は本当は知っていて、記憶喪失と偽ることで金を独り占めしようとしているんじゃないのか?という疑惑が観ている者に生まれてくるんですね。でもしかし、本当に彼は記憶喪失だということも、やはりあり得るわけなんですよ。そういった部分で、コメディの体裁をとりながらも最後まで目の離せない秀逸なミステリーとしても観ることのできる作品なんですよ。

そんなお話なんですが、物語自体はなんだか緩く進んでゆくのがまた可笑しい作品なんです。なにしろパンディトとイドリースという二人のチンピラがどうにも間抜けな凸凹コンビで、発端である銀行強盗シーンから既にして緊張感が薄い。その後も主人公夫婦を脅している割にはまるで凄みが無い。あまつさえそのうちの一人はピンク電話にうつつを抜かしブリーフ一枚で鼻の下を伸ばしているシーンが描かれたりするもんですから始末に負えません。そして主人公の妻ニートゥーが頭がパッパラパーだという設定もなんだか可笑しい。なぜだかいつも変な服ばかり着ていて、おまけにメジマズ嫁なんですが、これが物語に何の関わりもない、といった部分も訳が分からなくて楽しかったでした。こんな役をなんなくこなすヴィディヤー・バーランは流石でした。

とはいえ、クライマックスでは一気に急展開を迎え、緊張感が高まるところなどもメリハリが効いて見応えがありました。この辺タランティーノぽかったよなあ。実際の所興行的にはあまり振るわず、評価もあまり高くない結果となった作品らしいのですが、それを知って「え?なんで?」と思えたほど優れた作品でしたね。テーマ的には違いますが『女神は二度微笑む』に似たきちんとしたミステリー構成を成した作品だといえるのではないでしょうか。

D

20160205(Fri)

[]現実と地続きになった無意識の光景〜映画『ジプシーのとき』 現実と地続きになった無意識の光景〜映画『ジプシーのとき』を含むブックマーク 現実と地続きになった無意識の光景〜映画『ジプシーのとき』のブックマークコメント

■ジプシーのとき (監督:エミール・クリストリッツァ 1989年イギリス/イタリア/ユーゴスラビア映画)

f:id:globalhead:20160131164511j:image

数ある映画監督の中でもユーゴスラビア人映画監督エミール・クリストリッツァはオレの中で別格の存在だ。特に作品『アンダーグラウンド』(1995)は衝撃的な名作だった(レヴュー)。エミール・クリストリッツァは狂騒の映画監督だ。彼の作品の多くはブガチャカブガチャカとブラスバンドの演奏がけたたましく鳴り渡り、わんわんにゃあにゃあがーがーと動物たちがあちこちをそぞろ歩き、登場人物たちはいつもドタバタと右往左往し、物語は聖と俗、美と醜、悲劇と喜劇、幸福と不幸の間を目まぐるしく往復する。パワフルで、猥雑で、破天荒で、素っ頓狂で、ハチャメチャだ。そんなクリストリッツァの映画祭が現在恵比寿ガーデンシネマにて「ウンザ!ウンザ!クリストリッツァ!」というタイトルで行われている(2/12まで)。そのラインナップの中でまだ観たことの無かった作品のひとつ、『ジプシーのとき』を今回観に行くことにしたのだ。

主人公の名はペルハン(ダヴォール・ドゥイモヴィッチ)。彼はユーゴスラビアのジプシー村で、肝っ玉の座った祖母と足の悪い妹ダニラ、放蕩者の叔父と共に貧乏暮らしをしていた。ベルハンは村の娘アズラと恋に落ち結婚を考えるが、彼女の親は決してそれを許さなかった。そんなある日金持ちのギャング、アーメドが村に帰ってきて、イタリアの病院でダニラの足を治療させると約束する。ペルハンは妹に付き添って一緒にイタリアへと行くが、そこでアーメドに無理矢理手下にされ、次第に悪事へと手を染めてゆく。いっぱしのマフィアとなって金を稼いだペルハンは意気揚々と村に帰るが、再会したアズラは誰とも知れぬ子を妊娠していた。怒り狂うペルハンは生まれた子を売り飛ばす約束でアズラと結婚式を挙げるが…。

戦後の定住化政策の結果なのだろう、この作品におけるジプシーたちは村を築きその中で暮らしているが、その住居はあばら家の如きもので、生活は貧苦にまみれ、男たちはまともな仕事に就いているようにも見えない。そんなジプシー村で、家族の絆だけを頼りに生きてきたひとりの青年が都会へ出て、そこで悪事を覚える。最初こそ良心の呵責を覚えつつ、あぶく銭を身に付けるようになってからはすっかりマフィア気取りだ。物語はこうして、ジプシーの貧困、犯罪問題を通し、ひとつの犯罪ドラマであり負の成長物語であり、悲痛な家族ドラマであるものを一見描き出しているようにも見える。確かにそういう物語ではあるが、しかしそれは単なる表層に過ぎない。

実はこの物語の背後にあるのは強烈な幻想性であり超現実性だ。物語中盤で描写される水上のジプシー祭りはその幻想性の高さにおいて作品のハイライトとなるだろう。ジプシーにこんな祭りがあったのか、と驚かされるのと同時に、えもいわれぬエキゾチックな情景と音楽が心をざわつかせる。後半にペルハンが見る悪夢も暗示的であると同時に不条理さを醸し出し、これも実に幻想的な描写となっている。そして物語の超現実性は、なんとペルハンが小さなものを動かす超能力を持っているという設定だ。空き缶やスプーン程度の物ならペルハンは念動力で動かせるのだ。また「空を飛ぶ花嫁のヴェール」に代表される「見える筈の無いものが現れる」というシーンもあり、ここでは正直鳥肌が立った。こうして物語は奇妙な不可思議さに包み込まれてゆくのだ。

これらの幻想と超現実性は、多くのクリストリッツァ作品にみられるもので、それは【マジック・リアリズム】と評されることが多い。便利な言葉なので自分もつい使ってしまうのだが、ではなぜ【マジック・リアリズム】なのだろう。クリストリッツァは幻想と超現実性の中に何を現そうしているのだろう。それは貧困と犯罪にまみれた暗くやるせない現実の光景に風穴を開け、その向こう側にある、この世界のもう一つの意味と構造を垣間見せようとしているからなのではないか。その向こう側とは、主人公の、あるいはジプシーという民族の、無意識に存在する"何か"だ。

例えばジプシーたちの祭りからは、彼らの秘められた歴史と、その歴史に培われてきた魂の片鱗とが垣間見える。そして「見える筈の無いもの」は、彼らの識域下の光景であり、そして超能力とは、普段決して表に出ない情念なのだろう。空を飛ぶ花嫁のヴェールといったイメージは、ペルハンの死んだ母と結婚した妻という二つの存在が重ね合わされ、それは愛の夢とその喪失を顕すのだろう。画面に登場する七面鳥やガチョウといった鳥の姿にすら象徴が顕れる。それらが画面に登場し、あるいは消失するとき、常に主人公の運命が変転するのだ。これら鳥の姿は、ペルハンの魂の象徴なのだろう。こうした現実と地続きになった無意識の光景、それがクリストリッツァ作品の幻想と超現実性であり、この『ジプシーのとき』でも、それが顕著に描かれているのではないか。

f:id:globalhead:20160131164504j:image

D

20160204(Thu)

[][]16世紀ムガル帝国に燃え上がる愛〜リティク・ローシャン、アイシュワリヤー・ラーイ主演映画『Jodhaa Akbar』 16世紀ムガル帝国に燃え上がる愛〜リティク・ローシャン、アイシュワリヤー・ラーイ主演映画『Jodhaa Akbar』を含むブックマーク 16世紀ムガル帝国に燃え上がる愛〜リティク・ローシャン、アイシュワリヤー・ラーイ主演映画『Jodhaa Akbar』のブックマークコメント

■Jodhaa Akbar (監督:アーシュトーシュ・ゴーワーリーカル 2008年インド映画)

f:id:globalhead:20150924111719j:image

16世紀のムガル帝国を舞台にした歴史大作です。上映時間はたっぷり3時間20分、主演であるムガル皇帝アクバルをリティク・ローシャン、その結婚相手ジョダーをアイシュワリヤー・ラーイ、ジョダーの兄をソーヌ・スードが演じています。ちなみに同じムガル帝国を描いた1960年製作のインド映画大作『Mughal-e-Azam』(レヴュー) は、皇帝アクバルの晩年を描いたものになっていて、ある意味繋がっているといえば繋がっているんですね。ただしこの『Jodhaa Akbar』は「必ずしも史実に忠実という訳ではない」ことが最初に断られています。

物語はざっくり言うと、皇帝アクバルとアーメール王国の王女ジョダーとの政略結婚の行方を描いたものになっています。政略結婚であるが為に最初ギクシャクしていた二人が、どのように歩み寄っていくか、というのが物語の中心となり、これにジョダーと姑の確執やら、アクバルに反旗を翻すジョダーの兄の一派やらが絡んでくるという訳です。「ジョダーとアクバル」についての物語ですから、ムガル帝国の栄枯盛衰を語ろうとか皇帝の一生を語ろうとかいうことはしていないんですよ。また歴史ものによくある政治をとりまく陰謀術策、さらに戦乱の嵐!戦に次ぐ戦!というものでもあんまりないんですね。もちろん山あり谷ありではあるにせよ、基本的には3時間半使ってなんとなくまったりと、皇帝と嫁の愛の行方を描いているんです。

で、なにしろ長い映画なんで、インド映画お馴染みのインターバルが映画始まって2時間位してからやっと訪れるので鼻血が出そうになります。しかし後半が1時間半だということを思えば「もうちょっと頑張るぞ!」という気にもさせられるというものです。で、長い長い言ってますが、この映画はインターバル挟んでの2部ではなく4部ぐらいに心の中で分割すると整理が付いてきます。まず第1部は「皇帝の誕生と嫁を連れてくるまで」です。そして第2部が「なかなかなびかない嫁と姑の陰謀」です。そしてインターバル挟んで第3部が「やっとお互いを理解しあえてよかったねラブラブだね」です。終章となる第4部は「皇帝だから政治だってちゃんとやるし戦だってやっちゃうよ」です。それそれが50分ぐらいのパートになった4回完結のTVドラマを見たと思えばいいんですよ。

確かにTVドラマサイズな部分があったことは否めません。映画としてドラマ密度が薄いからです。このテーマにしてはお金の掛け方がちょっと足りなかったかなあ、惜しいなあ、という気もしました。まず兵隊やら民衆やらのモブの数が足んないし、殺陣はヘナチョコだし、撮影がどうもお座なりだったし、美術とロケーションは悪くないにしても物足りなかったし、なんとなくNHKの正月時代劇みたいに見えちゃうんですよ。歌と踊りもさらっとしか出てこなくて、その部分で華やかさに欠けてたのかもしれません。音楽はA.R.ラフマーンでしたが、これもそれほど耳に残らなかった。

とはいえ、主演のリティクもアイシュワリヤーも美男美女だし存在感があったし、衣装は綺麗だし、ラブラブ展開もなかなかにロマンチックです。皇帝とジョダーが剣技のお手合わせしながら遠まわしにイチャイチャする場面とかもう最高です。監督早くこれやりたくてしゃーなかったんじゃないかな。二人の愛が遂に成就するシーンではさすがインド映画らしく大いにエモーショナルに盛り上がってくれます。監督多分ドラマなんかどうでもよくて思いっきりエモーショナルの翼を羽ばたかせたかったんだと思います。だって背景や経緯を説明しなければならない前半パートが詰まらなかったんだもの。前半にも後半にも戦のシーンはありますが、後半の戦のシーンのほうに力が入ってたのは、そこに家族やら血縁やらの因縁があったからで、これもまた情緒的に盛り上げやすかったからでしょう。

それと、この物語ではイスラム教を主教とするムガル朝皇帝が、ヒンドゥー教徒であるジョダーを躊躇なく受け入れ妃にするといった部分にももう一つのテーマがあるように思えました。実際にムガル朝は他の宗教に寛容だったということですが、それを描くことで現代におけるムスリムヒンドゥーの融和を訴えかけようともしていたのではないでしょうか。

D

20160203(Wed)

[][]シェイクスピア悲劇「オセロ」を翻案したインド映画『Omkara』 シェイクスピア悲劇「オセロ」を翻案したインド映画『Omkara』を含むブックマーク シェイクスピア悲劇「オセロ」を翻案したインド映画『Omkara』のブックマークコメント

■Omkara (監督:ヴィシャール・バールドワージ 2006年インド映画)

f:id:globalhead:20151020092835j:image

シェイクスピア悲劇のひとつ「オセロ」を、現代のインドに舞台を置き換え翻案した作品がこの『Omkara』である。主演はアジャイ・デーヴガン、カリーナー・カプール、サイフ・アリー・カーン、ヴィヴェーク・オベロイ。ちなみにこの作品の監督バールドワージは「マクベス」を翻案した『Maqbool(2003)』、「ハムレット」を翻案した『Haider(2014)』(レビュー)を監督しており、この『Omkara』と併せて「シェイクスピア悲劇映画3部作」を形作っている。ただし「シェイクスピア四大悲劇」のもう1作「リア王」の製作予定はないという。手前味噌となるが、以前オレが「シェイクスピア四大悲劇」を読んだ時の感想を自分のブログのここに上げているので興味のある方はご一読を。

《物語》ギャングのボス、オーミー(アジャイ・デーヴガン)はウッタル・プラデーシュ州の一部の地域を支配するマフィアだ。彼は組織の新たな副官としてケーシュー(ヴィヴェーク・オベロイ)という男を任命するが,、オーミーのもう一人の右腕、ラングラー(サイフ・アリー・カーン)は自分が選ばれなかったことに密かに怒りを燃やす。一方、結婚予定だった女ドリー(カリーナー・カプール)をオーミーに奪われた男、ラージューもまたオーミーに憎しみを抱いていた。ラングラーとラージューはオーミーへの復讐を計画する。それはオーミーに、彼の妻ドリーと、新たな副官ケーシューが密通していると思い込ませることだった。オーミーは罠にはまり、嫉妬と疑心暗鬼の中、妻への憎悪をたぎらせてゆく。

とまあこんな物語なのだが、各所で絶賛されている作品なのにもかかわらず、自分には合わなかった。観ていてうんざりさせられたのだ。以前見た「ハムレット」翻案の同監督作『Haider』もやはり傑作の誉れこそ高い作品だったが、同様にうんざりさせられたことを考えると、ヴィシャール・バールドワージ監督作品自体がオレとは合わないということなのだろう。この『Omkara』と以前観た『Haider』に共通して感じ、そして辟易とさせられたのは、そのべったりと塗り固められた陰鬱さによるものだ。確かに悲劇という物語の性格上、陰鬱になるのは当然のことではある。また、陰鬱であるというだけで作品を否定しているわけではない。そうではなく、バールドワージ監督の演出には、「悲劇のための悲劇」といった予定調和的な性質を感じるのだ。

この作品では登場するどの登場人物もがあらかじめ与えられた役割の通りに動く自動人形でしかなく、人間味に乏しく感情移入する術がない。主人公オーミー演じるアジャイ・デーヴガンは始終三白眼をひん剥いて無表情にぼそぼそ呟くゾンビのようだし、悲劇のヒロイン、ドリーを演じるカリーナー・カプールは最後に待つ死の運命に最初からとりつかれ、その生気の無い演技はまるで木偶人形のようだ。サイフ・アリー・カーンの如き俳優ですら下卑たチンピラ以上の表情を見せない。これらは彼ら演者の演技力のせいではなく、監督の演出がそれしか要求していないからである。つまり「悲劇のための悲劇」として、ただただ悲劇であることに奉仕するために誰もが終始仏頂面で陰気で辛気臭い演技しか要求されなかったのだ。彼らに人間味が無いのは、単なる物語の駒としか扱われていないからだ。

結局バールドワージ監督の演出は、深味を目指しながら陰鬱で、重厚を目指しながら鈍重で、鮮烈を目指しながら粗放なものにしかなっていない。そして物語には陰陰滅滅とした色味がただひとつあるだけで、そこには驚きや共感といった感情の色彩に欠けている。これでは観ていて少しも心を動かされない。ただ確かに、悲劇の悲劇性といったことには特化しているので、「物凄く悲劇ですねえ」ということは間違いなく言える。その部分で凡作でも駄作でも決してないだが、悲劇しか描かれていないという退屈さが個人的につまらなかったのだ。この監督、なにかクリストファー・ノーランと通ずるものを感じるなあ。で、ノーランもイマイチなんだよなあ。

D

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/globalhead/20160203

20160202(Tue)

[][]父親と息子の強烈な確執を描くインド青春物語〜映画『Udaan』 父親と息子の強烈な確執を描くインド青春物語〜映画『Udaan』を含むブックマーク 父親と息子の強烈な確執を描くインド青春物語〜映画『Udaan』のブックマークコメント

■Udaan (監督:ヴィクラマディティヤ・モトワーニー 2010年インド映画)

f:id:globalhead:20151016134811j:image

『Udaan』は 17歳になる少年と厳格な父親との強烈な確執を描く物語だ。主演の少年を新人のラジャト・バルメチャー、その父を『スチューデント・オブ・ザ・イヤー・狙えNo1!』『2 States』のローニト・ローイが演じている。また、製作・脚本に『Gangs of Wasseypur』『Ugly』監督であるアヌラーグ・カシャップが参加している。

《物語》インド北部の町シムラーの寄宿学校に通うローハン(ラジャト)は、悪友たちと成人映画を観に行ったことがばれて放校となり、インド東部ジャムシェードプルにある実家へ帰ることとなる。実家には鉄工所を営む男やもめの父バイラーヴ(ローニト)と、腹違いの弟アルジュン(アーヤン)が住んでいた。その父バイラーヴは自らを「サー」と呼ばせる強権的な男で、帰ったその日からローハンに高圧的に振る舞い、絶対服従を強要した。父の鉄工所と学校に通う日々の中、ローハンと父親との軋轢は次第に膨れ上がり、ローハンは逃げ場を求め夜の街を彷徨うようになる。

『Udaan』はスター俳優を使わず、非常にリアルな空気感を大切にしながら描いた作品だ。主人公はインド映画らしからぬ男らしさをまるで感じさせないキャラクターとして登場する。劇中でも「女みたいな顔だ」と言われるように、見るからにひ弱で頼りなく、繊細そうな少年なのだ。なにしろ彼の将来の夢は「詩人になること」だ。それはふわふわと形の無い夢で、おおよそ現実性が無い。だがしかし、この年頃の男の子なんてそんなものじゃないのか。親とは対立するけれども、ちゃっかり親の財布からお金を盗ったり、その金で酒を飲みに行って悪友を作ったり、その辺の後先を考えないヤンチャさも、実に若者らしい。

一方父親であるバイラーヴはどうだろう。彼は確かに融通の利かない厳しい父親ではあるが、狂人のように意思疎通不能で鬼か悪魔のように恐ろしい暴虐を振るうような存在として登場するわけではない。確かに家庭内暴力は描かれるが、それは許されないこととはいえ、この程度の拳骨親父は特別に珍しく思えない。要するに、クソ親父ではあるが、想像の範疇を超えない、地方に行けばどこにでもよくいるような、「頑固親父」なのだ。彼は息子のうわついた夢を完全否定し、彼が営む鉄工所での仕事という「実務」を叩き込もうとする。息子の人格を全く認めない頑迷さはあるにせよ、彼が息子に教えようとしているのは「現実を見ろ」ということであり、そこにはまさしく父親らしさがある。

こうした中で、息子は頑固な父親を拒否し、その父を乗り越えようともがきまわる。それは彼自身が「大人になる」ということの過程でもある。確かにこういった父子の対立のドラマは一見ありがちなように思えるが、この映画はインド映画なのだ。他の多くのインド映画からの印象でしかないが、インドは非常に強力な父権と家族主義が存在しているように見える。その中で「父親の否定」を描こうとするこのドラマは、やはり異質であり新鮮だったのではないか。クライマックスでは主人公青年が思い余って父親に拳を振るうシーンが描かれるが、これはインドでは意外とショッキングなシーンだったように思える。これはそういった部分に注目すべきドラマなのかもしれない。

D

20160201(Mon)

[]世界びっくり紀行『クレイジージャーニー』のDVDを観た 世界びっくり紀行『クレイジージャーニー』のDVDを観たを含むブックマーク 世界びっくり紀行『クレイジージャーニー』のDVDを観たのブックマークコメント

クレイジージャーニー [DVD]

いつも読んでる雑誌「TVBros」(雑誌はこれと「ファミ通」を読んでいる程度のしょうもない大人なんである)で「クレイジージャーニー」なるTV番組のDVDが紹介されていて「なんだこれは」と思ったのである。もともとTVを観ない人間なので(こういうこと書くと「TV観ないアピールしやがって」とか言われそうだが、TV番組が下らないから観ないのではなくもっとさらに愚劣で無意味なネット記事を読んでいるほうが好きなだけなのである)、この番組のことは知らなかったのだが、これまでの番組内容の紹介を読んでいても「ぶっ飛んだことを好きでやってる人たちがいるなあ…」としみじみ感嘆させてくれたのだ。そしてどうやらそのコンセプトとするところは「独自の目線や強いこだわりを持って世界や日本を巡る人々(=クレイジージャーニー)がスタジオに集結し“その人だから話せる”、“その人しか知らない”…常人離れした体験談を語る」というバラエティ番組なのらしい。

例えばアメリカあたりだと「jackass」あたりのエクストリームな馬鹿アホまぬけ行為に体を張ったしょうもない人たちがいたりするのだが、この「クレイジージャーニー」はそういった徹底的なナンセンスさではなく、世界や日本の危険ともいえる場所に立ち入り「なんでそこまで突き詰めるのか」といった過剰な入れ込み方をするクレイジーともいえる人たちを紹介しているのだ。「なんでそこまで」というかそれは「それが好きだから」でしかないのだが、番組は彼らの語る驚異の世界を楽しむだけではなく、そんな世界に飛び込もうとする彼らの「偏愛」振りを掘り下げようとしているのらしい(DVDだけを観た感想だが)。また、番組の進行を松本人志・設楽統・小池栄子が行っていて、この辺でドキュメンタリーではなくバラエティ番組らしさを出している。

DVD『クレイジージャーニー』は2枚組みとなっており、以下の番組放送分が収録されている。

DISC1

「マンホールタウンに潜入」 - 丸山ゴンザレス(2015年4月17日放送)

「恐怖と神秘の洞窟探検」 - 吉田勝次(2015年5月14日放送)

「アラスカに取り憑かれた男」 - 松本紀生(2015年5月29日放送)

DISC2

「世界四大廃墟巡礼の旅(前編/後編)」 - 佐藤健寿(2015年6月11日、18日放送)

「マサイ戦士の妻」 - 永松真紀(2015年6月25日放送)

それぞれの回のざっくりした内容と感想を書くと、まず「マンホールタウンに潜入」は危険地帯ジャーナリストの丸山ゴンザレスという人がルーマニアのマンホール生活者をルポしたもの。これはチャウシェスク政権崩壊後のルーマニア経済悪化と、世に溢れたいわゆる"チャウシェスク・ベイビー"たちの現在を扱ったものなのだろうが、その辺にはあまり言及せずバラエティ寄りの視点の取り方に終始していまひとつノレなかった。

次の「恐怖と神秘の洞窟探検」あたりからジワジワ来始める。これは「国内外1,000以上の洞窟を探検した男」洞窟探検家の吉田勝次が紹介されるのだが、「まあ、好きでやってるんだしなあ」と思って観ていたら、次第に「いやそれ普通に危ないって!死ぬって!」と思わせるエピソードが語られ始め、『クレイジージャーニー』のなんたるかを徐々に思い知らされることとなる。

「アラスカに取り憑かれた男」は「1年の大半をアラスカの大地で過ごし、写真を撮り続ける男」アラスカ写真家の松本紀生を紹介。零下30度という厳寒のアラスカで撮られるオーロラの写真には素直に驚かされるし、夏のアラスカの動物たちの写真もまた美しい。同時に、松本氏がその極限状態の中でどう毎日を過ごしているのかが語られる部分がやはり面白い。冬のアラスカでしたウンコって、環境保持の為に全て持って帰るんだって!?

そしていよいよ「世界四大廃墟巡礼の旅」前編・後編。これは以前拙ブログ記事世界26ヶ所の名だたる廃墟を収めた写真集『世界の廃墟』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミで紹介した奇界遺産フォトグラファー・佐藤健寿が登場。紹介されている廃墟は:

1イギリス「水辺に浮かぶ廃墟」…マンセル要塞

2ブルガリア「山頂にそびえる巨大廃墟」・・・ブルガリア共産党ホール

2ベルギー「廃墟マニア憧れの冷却塔」・・・パワープラントIM

4ウクライナ「チェルノブイリ」・・・正確には遺棄された原子力発電所従業員居住都市プリピャチ

なにしろ最近廃墟付いているオレは興味津々で観ていたが、本やネットの写真で観る以上に、動画映像で観る廃墟は、やはり凄みがある。荒波で接近できないマンセル要塞、巨大な空虚の中をそぞろ歩くブルガリア共産党ホール、どこまでも幾何学的に構成されたパワープラントIM、そしてプリピャチではその光景だけではなくそこにいること自体の危険さがひしひしと伝わる。しかもプリピャチでは巨大秘密レーダーアンテナDuga-3の映像まで飛び出し、さらに放射能に冒されたプリピャチに住む老婆のインタビューまであり充実の内容だ。これを観て思ったのだが佐藤氏は写真集だけではなく記録映像を収めたDVDないしはBlu-rayを出してもいいんじゃないだろうか。

ラスト「マサイ戦士の妻」はアフリカ・ケニアを代表する民族「マサイ族」の戦士に第二夫人として嫁いだ日本人女性・永松真紀が登場。ここでは"結婚"を通してマサイ族の、日本人にはとうてい信じられないような風習が語られるが、これはよくあるドキュメンタリーではあまりとりあげられそうにない"性生活"というある意味下世話な内容に肉薄しており、逆にバラエティ番組のよさが浮き彫りになっていたと思う。

こういった内容はもとより、番組進行の松本人志・設楽統・小池栄子がとてもいい。オレはあまりTVを観ないとは書いたが、松本サンはもともと好きだったし、こうして見てもやっぱりおもしれえなあ、と思える。そしてなにより小池栄子だ。この人はなにか神々しく包容力に溢れた魅力を感じさせる女性タレントだな。それと番組で取り上げられた"クレイジー"な旅人たちというのは、よく話を聞いていると誰もがとても知的であり世界への興味が常に尽きない人たちなのだということがおのずと判ってくる。

以前からTVで観ていたファンの方には番組セレクトに疑問もあったりするだろうし、なんで全話収録での発売がないんだ、という声もあるようだが、DVD2枚組で6番組収録、価格が2970円というのはお徳であり、今まで『クレイジージャーニー』を観たことのなかったオレは十分に楽しめたな。

D

yoyoshi yoyoshi 2016/02/01 21:18 この番組、大好きなんです。廃墟の回の録画は永久保存。前にテレビ大阪で放映していた廃墟の休日も映像と音楽が美しかった!深夜放送の枠でしか放映出来ないディープなネタをBPOに負けずに発掘して欲しい。

globalheadglobalhead 2016/02/02 09:53 廃墟いいですよねえ。まああんまり追っかけないことにはしてますが。クレイジージャーニーまたdvd出ないかな。