Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20160428(Thu)

[]厳寒のミズーリ河畔で展開する神話的復讐劇〜映画『レヴェナント:蘇えりし者厳寒のミズーリ河畔で展開する神話的復讐劇〜映画『レヴェナント:蘇えりし者』を含むブックマーク 厳寒のミズーリ河畔で展開する神話的復讐劇〜映画『レヴェナント:蘇えりし者』のブックマークコメント

レヴェナント:蘇えりし者 (監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ 2016年アメリカ映画)

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■『レヴェナント:蘇えりし者』観てきた

レヴェナント:蘇えりし者』観てきた。これは素直に良い映画だったなあ、としみじみ思えた作品だったで、とりあえず気になってる方は是非観に行くといい。

とはいえ、実は最初は、それほど惹かれなかった。ディカプリオもアカデミー賞もそんなに興味がないし、どこかの山奥で復讐劇といわれてもピンと来ないし、イニャリトゥの前作『バードマン』はつまらなかったし、なにより予告編の全編に渡る寒々しさとババッチさにちょっと引いてしまっていたのである。こう見えて意外と潔癖症のオレなのである。ただ、相方さんが観たいというのでつきあいのつもりぐらいで観に行ったのだ。そうしたらこの面白さだ。相方さん誘ってくれてありがとう。

■過酷な状況の中を生き延びるというサバイバル劇

劇場に行き、映画が始まったものの、舞台も時代設定も知らなかったので、西部開拓時代と知ってびっくりした。物語はこの時代の、まだまだ未開拓地である真冬のミズーリ川沿いが舞台となる。ここに毛皮ハンターの一団がいて、主人公ヒュー・グラス(レオナルド・ディカプリオ)と彼の息子ホーク(フォレスト・グッドラック)はそのガイドをしている。ちなみにホークは先住民族との間に出来た子供で、その母でホークの妻でもある女性は開拓団によって殺されたという経緯があるらしい。そしてそこに先住民族の襲撃があり、ハンター一行とグラス親子は命からがら逃げ延びる。しかしその道程でグラスは熊に襲われ瀕死の重症を負い、足手まといと考えたフィッツジェラルドトム・ハーディー)がホークを殺しグラスを置き去りにするが、奇跡的に生き延びたグラスがフィッツジェラルドに復讐するため追跡を開始する、というのがこの物語だ。

なによりよかったのは、まず「過酷な状況の中を生き延びる」というサバイバル劇であるということだ。満身創痍の肉体、厳寒の大地、先住民族の追撃、これら極限状態の中で主人公は生き延びねばならない。しかもそんな状況にありながら、この物語が逃走劇ではなく追跡劇である、という部分が物語を面白くしている。主人公は過酷な状況の中を生き延びながらも仇敵を追い詰め、これを討たねばならないのだ。これにより物語がさらなる過酷さを増すのだ。さらに舞台となる雪に覆われた未開の大地が荒々しくもまた圧倒的な美しさで描かれる。人を拒むその厳しさは、神々しくさえ目に映る。こんな自然を背景に、時折イニャリトゥらしい幻想的なカットが挟まれる。これは元々この大地の所有者であった、先住民族たちのスピリチュアルなオーラを感じさせる。

■『マッドマックス 怒りのデスロード』との共通性

この映画を観ていて、オレはあの『マッドマックス 怒りのデスロード』をどうしようもなく思い出してしまった。文明の痕跡すらない過酷な荒野で、たった一つの目的を持った主人公が、死と隣り合わせの追跡/逃走劇を繰り広げる。物語の構造が至ってシンプルなのだ。ここには【生きることへの希求】と、【敵を討つ】という目的が、究極的に存在しているだけなのだ。と同時に『レヴェナント』と『マッドマックスFR』は、そのシンプルな構造の中に要所要所で忘れ難いエピソードを巧みに盛り込む。それによって主人公の【生の輪郭】を鮮やかに浮き上がらせてゆく。その強烈な【生の輪郭】を体感することこそが、この二つの映画作品の大いなる魅力となっているのだ。

さらに『マッドマックスFR』との関連性を感じたのは『レヴェナント』の持つ抽象性とそれによってもたらされる神話性だ。「情念を抱えた主人公」が「過酷な環境」において「死を賭けた追撃」を展開するというこの物語の構造は、どの時代の、どの場所ですら可能である。いってみればSF作品であっても構わない。この物語の舞台となる冬のミズーリ河畔、その人を拒む異界めいた絶景は、その抽象性をさらに高めることになる。そして抽象化された舞台の中で繰り広げられ、物語られるのは、人にもたらされた試練と、それを乗り越えるための冒険なのだ。これは神話構造そのものではないか。先住民族のスピリチュアルな存在感と、イニャリトゥの幻想的なカットが、その神話性をさらに高めることになる。

■キリスト教的世界観と非キリスト教的世界観の対立

もうひとつ『レヴェナント』から感じたのはキリスト教的世界観と非キリスト教的世界観の対立である。新大陸アメリカの植民者はヨーロッパにおける宗教的迫害を逃れた宗教的移民でもあった。その彼らが先住民を迫害したのは先住民が異教徒であったからだ。『レヴェナント』における宗教性はその「契約」という概念にも現れる。よこしまなフランス人ですら異教徒である先住民と「契約」によって結ばれる。毛皮ハンターたちは「契約」によって縛られ、グラスの保護にあたったものは「契約」によって割増金を貰う。そもそも「契約」とは人と神の成すものであり、だからこそキリスト教社会である欧米は「契約」を最大限に重んじる。

一方、そのフィッツジェラルドはその「契約」を反故にする。だからこそ彼はグラスによって罰を受ける。しかし「復讐するは我にあり旧約聖書レビ記19・18)」の言葉どおり、本来罪への罰を下すのは神の役割だ。ではグラスは神なのか。しかし先住民と婚姻しその子をもうけたグラスの立ち位置はむしろ先住民側にあったのではないか。すなわち非キリスト者的な立場である。ここには非キリスト者がキリスト教の教義においてキリスト者に復讐するという奇妙なねじれを感じる。

確かにグラスのフィッツジェラルドへの復讐を「神の意志」にゆだねようとするシーンもある。崩れた教会の中でグラスが神秘体験に遭遇するといったシーンもある。これはグラスがある種の"神性"に触れたということなのだろう。だがしかし、その「神」は誰を指していたのか。それはキリスト教の神か、それとも先住民たちの神だったのか。それはグラスがその復讐の道程において出会った様々なスピリチュアルな体験が示唆している。すなわちこの作品にはキリスト教的世界観とはまた別個の神の存在、グラスら毛皮ハンターたちの彷徨った神秘なるロッキー山脈におわす神々の意思を描いた作品だということもできるのである。

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20160427(Wed)

[]アメリカとイギリスを嘲笑うフランス人監督のブラック・コメディ〜映画『ムーン・ウォーカーズ』 アメリカとイギリスを嘲笑うフランス人監督のブラック・コメディ〜映画『ムーン・ウォーカーズ』を含むブックマーク アメリカとイギリスを嘲笑うフランス人監督のブラック・コメディ〜映画『ムーン・ウォーカーズ』のブックマークコメント

■ムーン・ウォーカーズ (監督:アントワーヌ・バルドー=ジャケ 2015年フランス・ベルギー映画)

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「アポロ11号月着陸映像は捏造だった!?」という陰謀論をコメディ仕立てで描いた作品『ムーン・ウォーカーズ 』、実のところ「いまさら『カプリコン1』の二番煎じ作ってどうするんだ?」としか思えず、とりあえず劇場はパス、レンタルが出たので適当に流し観することにした。するとこれが、予想の斜め上を行く面白さではないか。

時は1969年。アポロ11号月面探査計画に際し、計画失敗による世論の圧力を恐れたCIAが「あたかも計画が成功したように見える捏造映像」を作るため、腕利き諜報員キッドマン(ロン・パールマン)をイギリスに派遣する。『2001年宇宙の旅』を監督したスタンリー・キューブリックに捏造映像を制作させようというのだ。しかし手違いからその計画はダメバンドのマネージャー、ジョニー(ルパート・グリント)の手に渡り、月面着陸も近づき大慌てのキッドマンはそのままジョニーに映像を作らせてしまう。こうしてグダグダの捏造大作戦が始まってしまうが…といったもの。

グダグダの計画を描くこの映画、物語自体も実にしょーもない展開を見せてゆく。なにしろ出てくる連中がみんなバカかカスかクソ野郎ばかりで、観ていて速攻でうんざりさせられる。そんな連中ばかりだから、この物語で最も人の道を外れていると思われる諜報員キッドマンが、一番まともに見えてしまう程だ。物語のグダグダぶりは捏造映像制作を依頼された胡散臭い芸術家と与太者の寄せ集まったコミューンの登場でピークを迎える。60年代スィンギングロンドンとか言ってるが、ただただ野暮ったく悪趣味だ。おまけにCIAとイギリス人マフィアの血塗れ銃撃戦まで描かれる始末。これはいったいなんだ?

奇妙に思い調べてみたところ、なんとこの作品、フランス人監督によるフランス・ベルギー製作映画ではないか。ああなるほど、これでこの作品の意味が分かった。どういうことかというと、この映画はフランス人監督がアメリカの世紀の偉業をコキ下ろし、返す刀でイギリス人を嘲笑し、クライマックスでアメリカ人とイギリス人に殺し合わせてゲラゲラ笑い、最後にアメリカ人の文化って下品っすよねえ〜で〆るという、とんでもない作品だったのである。そもそもフランス人がアメリカの月面探査計画に関する陰謀を、しかもイギリスを舞台にして制作する、ということ自体が奇異ではないか。

イギリスとフランスには歴史上様々な確執があり、各々の国民感情もそれに比すものがあるという。イギリス人のフランス人嫌いはよく聞くが、その逆も当然あるだろう。さらにイギリス・フランス両国民にとってアメリカは歴史の浅い野蛮で下品な新興国家だというのは共通認識だろう。イギリス映画『キングスマン』において、イギリス人で固められた正義の側に対し、敵役が下品なアメリカ人と異形の姿をしたフランス人であった、というのにはそういう皮肉があった。これはイギリス人独特のシニシズムではあるが、フランス人はそれより多少ソフィスティケートされているから、同じ皮肉でもこの『ムーン・ウォーカーズ』はパッと見気付かないような皮肉になっている。一見イギリス人が洒落ていたり、アメリカ人が質実剛健に描かれていたりしても、実は微妙に嫌らしく茶化しているのだ。それがこの『ムーン・ウォーカーズ』だったのではないか。

ラストにおいても、アポロ月着陸成功を祝うアメリカの華々しく大々的なパレードが描かれはするが、そのセレモニーのあからさまな仰々しさとけばけばしさは、フランス人的な美意識からするなら田舎臭いものであったに違いない。そんなフランス人的な視点に立って、イギリス人のしみったれぶりと野暮ったさ、アメリカ人の野蛮さと下品さに注視してみるなら、映画『ムーン・ウォーカーズ』はまた違った見方ができて楽しいのではないかと思うのだ。

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ムーン・ウォーカーズ [Blu-ray]

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カプリコン・1 [DVD]

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20160426(Tue)

[][]ハンディキャップとセクシャル・マイノリティ〜映画『マルガリータで乾杯を!』 ハンディキャップとセクシャル・マイノリティ〜映画『マルガリータで乾杯を!』を含むブックマーク ハンディキャップとセクシャル・マイノリティ〜映画『マルガリータで乾杯を!』のブックマークコメント

■マルガリータで乾杯を! (監督:ショナリ・ボース 2014年インド映画)

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この『マルガリータで乾杯を!』は、2015年に日本でも劇場公開されたインド映画なのではあるが、個人的に難病/障害者映画と主演女優のカルキ・ケクランが得意じゃ無かったので観に行ってなかった作品である。しかし先ごろソフト化されたのでレンタルで観てみることにした。

物語は(おそらく脳性麻痺による)障害を持ち、会話や動作が不自由で、車椅子生活を送る大学生のライラ(カルキ・ケクラン)が主人公となる。こんな彼女が普通に恋をしたりセックスしたり、未来を夢見てNYに留学したり、そこで出会った目の不自由な女性ハヌム(サヤーニー・グプター)との同性愛に目覚めてセックスしたり、インドに帰国したら母親が重病だったりするというものである。

障害者であることとバイセクシャルであること、すなわちハンディキャップとセクシャル・マイノリティの二つのテーマを持った作品であるが、同時に障害者のセックス、というテーマも盛り込まれることになる。これはややもすれば重く悲痛になりがちな題材であり、描き方を間違えるとあざといものになってしまう題材でもある。にもかかわらずこの作品では、これらテーマを"ごく当たり前"のこととして軽やかに描き出す。

ハンディキャップを持つ者やセクシャル・マイノリティである者が現実社会において過酷な労苦や痛ましい偏見にさらされることは残念ながらあるだろう。しかしこの作品ではこれら労苦や偏見をあえてクローズアップせず、彼らを強いて「特殊」な存在として描かない所がユニークであると言えるかもしれない。ハンディキャップであるなら社会が十分にそれに手を差し伸べ、セクシャル・マイノリティにしてもそれもありふれたひとつの愛の形として、それらが決して奇異でもなんでもなく、「特殊なこととして描かない」のがこの作品なのだ。

確かに、主人公はハンディキャップを持つことで恋をする不自由さを感じたり、また、同性愛であることを母親に受け入れてもらえなかったりといった困難は描かれる。しかしこの作品の持つ軽やかさは、そういった困難すら「特殊であること」が原因としてではなく、誰もが普通に恋に悩んだり人生につまづいたりするかのように描き出す。人は例えば貧富の差や人種や宗教の違いでこれらにつまづくことがある。しかしこれらの要因は「人」であるうえで特殊なことではない。それと同じようにハンディキャップとセクシャル・マイノリティを「人」であるうえで特殊なこととして描かないのがこの作品の独特さと言える。

逆に言うなら、この「特殊ではない」こと、「ごく当たり前」であること、それらによってドラマそれ自体が平凡に流れていってしまい、ありふれた「恋とセックスと家族の悩み」以上の作品になっていないところが惜しい。「特殊なこととして描かない」部分にこの作品の主眼があったばかりに、ドラマという「特殊なこと」が存在しないのだ。これは「特殊なこととして描かない」ことそれ自体に価値を見出すべき作品であるといえるかもしれない。

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20160425(Mon)

[]ラテンアメリカのポスト・モダニズム〜『夜、僕らは輪になって歩く』 ラテンアメリカのポスト・モダニズム〜『夜、僕らは輪になって歩く』を含むブックマーク ラテンアメリカのポスト・モダニズム〜『夜、僕らは輪になって歩く』のブックマークコメント

■夜、僕らは輪になって歩く / ダニエル・アラルコン

夜、僕らは輪になって歩く (新潮クレスト・ブックス)

内戦終結後、出所した劇作家を迎えて十数年ぶりに再結成された小劇団は、山あいの町をまわる公演旅行に出発する。しかし、役者たちの胸にくすぶる失われた家族、叶わぬ夢、愛しい人をめぐる痛みの記憶は、小さな嘘をきっかけに波紋が広がるように彼らの人生を狂わせ、次第に追いつめていく―。鮮やかな語りと、息をのむ意外な展開。ペルー系の俊英がさらなる飛躍を見せる、渾身の長篇小説。

現代の南米を舞台に、地方を巡る小劇団が出遭う因果としか言いようのない事件を描いたのがこの『夜、僕らは輪になって歩く』だ。ペルー生まれのアメリカ人作家、ダニエル・アラルコンの長編第2作となる。

劇団「ディシェンブレ」の主催者ヘンリーはかつて『間抜けな大統領』という風刺劇で地方を回っていたが、その内容からテロ扇動教唆の嫌疑をかけられ投獄されてしまう。出所から15年後、彼は再び『間抜けな大統領』を演ずるため、昔の劇団仲間パタラルゴ、学生のネルソンの3人で南米の山々の町を巡業することになる。事件が起こったのは「T」とだけ呼ばれているある町を訪れた時だった。その町はヘンリーが獄中で友人となり、その後政府軍の攻撃により死亡したロヘリオという男の生まれた町だったのだ。過去の忌まわしい思い出が現在と絡みあい、3人の劇団員に暴力と死の影がひたひたと這い寄ってくる。

3人の劇団員の中で中心的に描かれるのは美術学生のネルソンだろう。彼の家族、とりわけアメリカに渡ったまま決して彼を呼び寄せなかった兄との確執、そして別れた恋人イクスタへの悲痛な未練。この彼を含め、劇団主催者ヘンリーにしろパタラルゴにしろ、なにがしか過去に囚われ、その囚われた過去の結果としての現在に生きている。彼らは痛恨の過去を経た現在に生きながらえているだけで、若者であるはずのネルソンですら未来へのビジョンが見えないでいる。そもそも彼らの公演旅行自体が、15年前に反政府的といういわくが付いた演目の再演なのだ。彼らの回る山々の町は、どれもが過去に取り残されたような人々の暮らすひなびた土地であり、彼らを襲う"事件"それ自体が過去の因縁に基づくものなのだ。

これらを描く作者アラルコンの筆致は訳者が「ジャーナリズム的」と呼ぶ情緒を廃した乾いた文体であり、そこに時折詩的な比喩が陰鬱に閃くといったものだ。文章は精緻に計算されており、物語内で起こる出来事は決して突飛なものではないが、人間心理の不確実性を巧みに描くことで、いつしか思いもよらぬ方向へと向かってゆく。だが見事に構築された物語を読み終わった時に、これはいったい何をテーマとした物語だったのだろう、と考えてしまう。そして物語の中である種の"仕掛け"として埋め込まれた、後半までいったい誰なのか判別できない「僕」という語り部の存在にどういった意味があったのかが謎なのだ。

アラルコンの長編第1作『ロスト・シティ・レディオ』は内戦状態にある架空の南米の国が舞台だった。主人公は内戦による行方不明者を探すラジオ番組の女性パーソナリティー。彼女が遭遇する悲痛な現実はまさに現在進行形であり、物語は悲劇のうちに幕を閉じる。一方この『夜、僕らは輪になって歩く』は『ロスト・シティ・レディオ』と物語的な関連は無いにせよ、「南米における内戦」といった点で繋がっている。いわば『夜、僕らは輪になって歩く』は『ロスト・シティ・レディオ』という過去を持つ"現在"なのだ。

これは即ちポスト・モダニズムということではないか。内戦という近代(モダン)が終わった後の次(ポスト)の時代。物語に描かれるポスト・モダニズムとしての現代は過去の悲惨さを通過し一応の平和を取り戻しているけれども、しかし未だその傷跡から立ち直れず、行き詰まったまま停滞している。物語に登場する「僕」の存在とは、その過去を検証し現在とはなんなのかを見つめ直すものだったのではないか。その検証は物語ラストにおいてもまだ未完なのだけれども、ポスト・モダニズムのその先の未来へ手を伸ばそうとした物語、それがこの作品だったのではないかと思うのだ。

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20160422(Fri)

[][]娘を殺された二人の男が挑む巨大な陰謀〜映画『Wazir』 娘を殺された二人の男が挑む巨大な陰謀〜映画『Wazir』を含むブックマーク 娘を殺された二人の男が挑む巨大な陰謀〜映画『Wazir』のブックマークコメント

■Wazir (監督:ヴィジョーイ・ナンビヤール 2016年インド映画)

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テロリストとの銃撃戦により自分の娘を死なせてしまった捜査官。疑惑の大臣により娘を殺されたと信じている車椅子の男。娘を亡くした二人の男が復讐を胸に巨大な陰謀に立ち向かってゆく物語、それが2016年にインドで公開されたスリラー映画『Wazir』だ。

主演は捜査官役に『ミルカ』(2013)、『Shaadi Ke Side Effects』(2014)のファルハーン・アクタル。車椅子の男に最近では『Piku』(2015)、『Shamitabh』(2015)ですっかり老人役が板に付いたアミターブ・バッチャン、捜査官の妻役を『Khoobsurat』(2014)、『Rockstar』(2011)のアディティ・ラーオ・ハイダリーが演じる。また『Housefull2』(2012)、『Dhoom』(2004)のジョン・エイブラハムがゲスト出演。監督は『David』(2013)、『Shaitan』(2011)のヴィジョーイ・ナンビヤール、製作を『PK』(2014)、『きっと、うまくいく』(2009)のヴィドゥ・ヴィノード・チョープラーが務めている。ちなみにこの作品はチョープラーがダスティン・ホフマンを主演に予定したハリウッド映画企画が頓挫したものを映画化作品にしたらしい。

《物語》テロ対策班員のダーニシュ(ファルハーン・アクタル)は偶然遭遇したテロリストと銃撃戦となり、一緒にいた幼い娘を死なせしまう。妻のルハーナー(アディティ・ラーオ・ハイダリー)とはそれ以来冷え切った関係となり、ダーニシュは娘の墓前で自殺しようとする。しかしたまたま通りかかった車の男パンディット(アミターブ・バッチャン)に注意を逸らされ彼は死を思いとどまる。ダーニシュはパンディットの家を訪れ、彼がチェス教室を営むチェスの名手であること、事故により両足を失い車椅子生活をする男だと知る。ダーニシュはバンディットと親交を深めながら、彼の娘が事故死していること、そしてそれが事故ではなくある大臣の謀殺であると信じて疑わないことを聞かされる。そしてその大臣こそがダーニシュの追っていたテロリストの接触相手だったのだ。ダーニシュは調査を開始するが、捜査を止めさせようと謎の刺客がパンディットを襲う。

タイトルである「Wazir」は一部の西・南アジア言語で「大臣」ないし「宰相」を意味するが、チェス駒におけるクイーンの別の呼び名でもある。この作品においては車椅子の男バンディットがチェス・プレイヤーであること、暗躍する謎の男(ニール・ニティン・ムケーシュ)の名が「ワズィール」であること、ダーニシュとバンディットが追う男が「大臣」であることなどが関係しているのだろう。だがオレはチェスをしたことがないので、チェスにおけるクイーンがどういう役割の駒なのか分かっていないため、タイトル『Wazir』の暗喩する所が理解できていないかもしれない。ただし映画の構造自体にチェス・ゲーム的な心理戦が関与している、ということは言えるだろう。物語はミステリアスに進行するが、これはチェス・ゲームのように、表層の駒の動きの陰で腹の探り合いと騙し合いが進行しているという意味でもあるのだ。そういった点で、映画『Wazir』はインドにおけるスリラー映画の名作『女神は二度微笑む』の直系のスリラー作品として観ることができる。ちなみに、チェスの起源は古代インドの戦争ゲーム、チャトランガが起源であるという説もあるらしい。おお、ここにもインドが!

こういったミステリー構造を成している作品の為、内容を多く語るのは控えたほうが賢明かもしれない。ひとつだけ特色を書くなら、クライマックスにおいて物語がカシミール地方へと引き寄せられてゆく、という部分だろうか。カシミールといえば映画『きっと、うまくいく』(2009)クライマックスにおけるラダックの美しい光景を思い浮かべるが、同時に『Dil Se.. (ディル・セ 心から)』(1998)や『Haider』(2014)でも描かれた血塗られた紛争地帯でもあるのだ。映画におけるこういったカシミールの悲劇性に魅せられたことのある人なら、この『Wazir』にも心惹かれる部分を見出すことができるかもしれない。出演者の魅力を書くならアミターブ・バッチャンは苦悩に満ちた人生を生きる老人を安定のジジイ演技で演じ切り、一方ファルハーン・アクタルは出演作ごとに異なる表情を見せる演技の幅に驚かされた。ヒロインとなるアディティ・ラーオ・ハイダリーはよく知らない女優だったがこの作品では大いに存在感を花開かせていた。また謎の男ワズィールを演じるニール・ニティン・ムケーシュも艶のある素晴らしい悪役ぶりであった。

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20160421(Thu)

[]最近ダラ観したDVDやらBlu-rayやら 最近ダラ観したDVDやらBlu-rayやらを含むブックマーク 最近ダラ観したDVDやらBlu-rayやらのブックマークコメント

アントマン (監督:ペイトン・リード 2015年アメリカ映画)

マーベルモノはもういいか、と思っていたんだが、エドガー・ライトが絡んでいたというのでちょっと観てみることに。主人公のアメリカ映画定番的なドラマにはそれほど興味は湧かなかったが、「とっても小さいスーパーヒーローの戦い」におけるコミカルな味付けはなかなか楽しめた。でもやっぱり「いくら強くったってこんな小さかったら役に立たないんじゃないの?」という疑問はずっと無くならなかったなあ。

■テッド2 (監督:セス・マクファーレン 2015年アメリカ映画)

『テッド』のその後の物語というのにも全然興味が湧かなかったが、まあ軽く流してみるにはいいだろと思い借りてみた。で、今こうして感想を書こうとしても…何も出てこない…退屈はしなかったが、なんかもう全然印象に残らない映画だったなあ。そもそもテディベアが子供作るって普通に考えて無理だろ、と思えてしまうんだが。いやそれならそもそもテディベアが歩いて喋ってること自体がおかしいと言えば言えるけどな!

■カンフー・ジャングル (監督:テディ・チャン 2014年中国・香港映画)

格闘家殺しの犯人を追え!というドニーさん主演映画。自分はどうもドニーさん映画に『イップマン』や『孫文の義士団』みたいな重厚なものをイメージし過ぎてしまい、こういったオーソドクスなアクション作品が今までピンと来なかったんですが、これは十分楽しめました。物語やアクションが秀逸、というより単にシャバいドニーさんに慣れたんだと思います。

■ゴッド・ヘルプ・ザ・ガール (監督:スチュアート・マードック 2014年イギリス映画)

人気ロック/ポップバンド「ベル・アンド・セバスチャン」のフロントマンであるスチュアート・マードックの監督・脚本作品。ベルセバ自体にはあんまり興味無かったんだけど、いやこの映画はいい!スチュアート・マードックのソロ・アルバムをミュージカル映画化したということなんですが、登場人物たちの出で立ちと音楽のポップさ、繊細さがきちんとマッチしているんですね。イケイケドンドンなミュージカルじゃなくて日照時間の少ない国の陽だまりみたいなミュージカル、そんなほのかな温かさが心地よい作品でした。

プライドと偏見 (監督:ジョー・ライト 2005年イギリス映画)

プライドと偏見 [Blu-ray]

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イギリス文学『高慢と偏見』を映画化した2005年のイギリス映画なんですが、相方さんが原作を読み終えたばかりなんで一緒に観てみることにしました。全体的にイギリスらしい端正さがやっぱりいいですね。意外とこういう作品好きです。

■ハプニング (監督:M・ナイト・シャマラン 2008年アメリカ映画)

ハプニング [Blu-ray]

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この間劇場で観た『ヴィジット』がとても面白かったので、まだ観ていないシャマラン作品を観ようとレンタル。そうしたらこれがとっても面白い。劇場公開時の批判の声はなんだったんだと思うぐらい面白い。だって、単に風が吹いているだけで怖がらせるんだぜ?冒頭の地獄図もよかったし、なんだ、シャマラン最高じゃん。

■クーデター (監督:ジョン・エリック・ドゥードル 2015年アメリカ映画)

東南アジアのある国に赴任したアメリカ人家族がクーデターに遭い地獄の逃避行を挑む、という作品なんだが、いやあ、これはダメだよ!なにがってこれ怖すぎるよ!あんまり怖いんで途中からゾンビ映画だと思うことにしたら楽しく見ることができました。この作品を観ての教訓は、1.殺すときは殺す。2.銃は必要。ということでありました。主演の家族もピアース・ブロスナンもいい味出していて好きだったな。

■フレンチアルプスで起きたこと (監督:リューベン・オストルンド 2014年スウェーデン・デンマーク・フランス・ノルウェー作品)

フランスのスキーリゾートにやってきたスウェーデン人家族の父ちゃんが、雪崩にびっくらこいて家族を置いて逃げ出したばかりに…というお話。まあ要するに険悪な雰囲気になりましたあってだけで、特に乱調するわけでもなく、それをそのまんま描くもんだから退屈で退屈で…。2倍速にしてなんとか観終わりました。

ベルベット・ゴールドマイン (監督:トッド・ヘインズ 1998年イギリス・アメリカ映画)

ベルベット・ゴールドマイン [Blu-ray]

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グラムロック好きでもこの映画は鬼門と聞いていたので今まで観なかったが、なんだかたまたま観てしまった。評判通りこりゃヒデエな。ボウイの半生のパロディということなんだろうが、全然センスが無い。言いたいことはいっぱいあるが、なにしろ、ロックを扱った物語である筈なのにヒリヒリした部分が全くない。つまりロック映画ですらなく、せいぜいイギリスの田舎者の仮装大会ってところ。

USA-PUSA-P 2016/04/21 21:41 『カンフー・ジャングル』、大陸の大予算大作が近年続いていた中でシンプルで楽しかったっす。 
 
ドニーさん主演映画、というと若作りな役作りがギャグにしか見えないけどカンフーがカコイイ『ドラゴン・タイガー・ゲート』、サモハンを再び表に引っ張り出した『SPL』、そして愛嬌や可愛げを覚えた『捜査官X』、なんかも個人的には好きだったりします。もし未見でしたらお勧めっす。

globalheadglobalhead 2016/04/22 08:19 お勧めありがとうございます。実はネットの知り合いにも強烈なドニーさんファンがいて幾つか勧められ観たことがありした。『ドラゴン〜』と『捜査官X』はまだ観たことがないのでこんど借りてみます〜。

20160420(Wed)

[]最近聴いたエレクトロニック・ミュージックとか 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックとかを含むブックマーク 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックとかのブックマークコメント

■Copper Vale / Yearning Kru

Copper Vale

Copper Vale

イギリス生まれ、韓国・台湾在住、活動拠点はサウジアラビア・イギリス・台湾、というユニークなプロフィールを持つプロデューサーYearning Kruの多分1stアルバム。内容的にはドローン、アンビエント、ノイズ、サイケ、音響、ダブ、ゴシックといったあたりがグジャグジャと混じりあいつつ、環境音のようにズブズブと鳴り続けている、といったもの。決して暗さや攻撃性は無く、かといって明るくも穏やかでもない、まさに"そこにある音"としか言いようのない中域をキープし続けるサウンドに、オレはなにか自然の中を歩いているよな奇妙な落ち着きを感じるのだ。これは秀逸だと思う。好みもあるかと思うがお勧めしたい。 《試聴》

■Lighthouse Stories / Low Jack

Lighthouse Stories [Analog]

Lighthouse Stories [Analog]

Low Jackは中南米ホンジュラス生まれパリ在住のプロデューサーなのらしい。インダストリアル/ロウハウス界隈の方なのらしいが、3rdアルバムとなるこの『Lighthouse Stories』では引き攣ったように鳴らされる機械音にザラザラとした環境音、さらに呪術的な低速ヴォーカルとが絡み合い、実にグヂャグヂャとしたサウンドスケープを展開している。↑で紹介したYearning Kruもそうだが、このグヂャグヂャ感の心地よさはなんなんだろうな、「体内音テクノ」とでも勝手に名付けようかな。 《試聴》

■The Follower / The Field

The Follower

The Follower

ケルンの名門レーベルKompaktを代表するアーティスト、The Fieldの3年ぶり5枚目となるニュー・アルバム。オレはThe Fieldの1stに衝撃を受けたクチで、それは天界まで届くかと思うような延々と続くループにある。The Fieldの基本はこの延々と続くループにあり、それは殆どどのアルバムにも共通し、それがハイかロウかという違いだけだ。そしてこの5作目もそれに変わりない。言ってしまえば金太郎飴のような同一サウンドなのだが、もうこれは独特の職人芸としか言いようがない。そんな中で今作は中域のあたりでループしているように聴こえる。 《試聴》

■III (Deluxe Edition) / Moderat

III (Deluxe Edition)

III (Deluxe Edition)

Moderatはダブステップ/ヒップホップ/エレクトロをミクスチャーさせた音楽性を持つModeselektorとジャーマンテクノのApparatによるユニットでこのアルバムはその3枚目。メロディアスなテクノ/ハウスチューンを基本にエモーショナルなヴォーカルが乗るといった実にポップな音を展開しており、非常に聴きやすいので結構誰にでも勧められるエレクトロニック・ミュージックかもしれないな。 《試聴》

■Super / Pet Shop Boys

スーパー

スーパー

ペット・ショップ・ボーイズはテクノなんか聴き始める前から好きだったポップ・デュオなんだが、ここ最近の作品はどうもパッとしなくて「連中ももう相当いい歳だしなー」と思いつつあまり聴かなくなってきたのは確か。しかしこの最新アルバム『Super』は『Yes』ぐらいの頃のP.S.B.の音が戻ってきたと思わせる様な出来の良いポップさで、昔を思い出しつつよく聴いている。特にシングル・カットされた「The Pop Kids」は彼らお得意の哀愁のディスコ・ポップで、いやーこれはハマるわあ。このEPには「The Pop Kids - EP」と「The Pop Kids (Remixes) - EP」がそれぞれあり、アルバム未収録曲とリミックス曲が収められているのでアルバムと一緒に購入すると吉。 《試聴》

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20160419(Tue)

[]マヌエル・ゴンザレスの奇想小説集『ミニチュアの妻』を読んだ マヌエル・ゴンザレスの奇想小説集『ミニチュアの妻』を読んだを含むブックマーク マヌエル・ゴンザレスの奇想小説集『ミニチュアの妻』を読んだのブックマークコメント

■ミニチュアの妻 / マヌエル・ゴンザレス

ミニチュアの妻 (エクス・リブリス)

飛行機のハイジャック、ゾンビといった21世紀的モチーフのみならず、ページをめくる度に予測不可能な設定が飛び出す、「ポスト・アメリカ」世代の注目の若手による第一短篇集。

アメリカ在住のメキシコ移民三世、マヌエル・ゴンザレスによる第一短編集。特にノーマークだった本なのだが、Twitterでの評判の声を聞き、書評でも絶賛が多かったので読んでみることにした。だが個人的には、う〜ん、ちょっと合わない作家だったなあ。マヌエル・ゴンザレスの作品のそれぞれは最初に異様なシチュエーションを持ち出すことで物語られるいわゆる"奇想小説"や"奇妙な味"といった作風を持つ。持つのだが、単なる「法螺話」の域を超えていない。まあフィクションなんざそもそも全て「法螺話」なんだが、その「法螺」な着想からまるで話が膨らまず、「法螺」が「法螺」で終わってしまっているのだ。これは殆どの作品において「最初に異様なシチュエーションを持ち出す」だけで、そこからさらに別なシチュエーションを持ち出すことなく終わってしまっているということだ。

マヌエル・ゴンザレスの作品は単なるワン・アイディア・ストーリーであり、そこに細かな人物描写を加えることで「異様なシチュエーションの中の人間心理」を浮き彫りにしようとするが、これがまたライタースクールの教科書通りじゃないか思えてしまうような可もなく不可もない人物描写で、驚きも共感ももたらしはしない。そして最初に投げ出された「異様なシチュエーション」は投げっぱなしのまま終幕を迎える。この「投げっぱなし」の仕方はいかにも昨今の文学っぽいが、こちらは"奇想小説"を読みたくて本を手に取っているので「それはないだろ」と思えてしまうし、かといって文学として読むと底が浅いものに感じてしまう。読み終わってから「なぜなんだろう?これはどういうことなのだろう?」と作品世界の不思議さに飲みこませることなく、「だからナニ?」で終わってしまうのだ。

さらにその「異様なシチュエーション」につまらない説明を加えてしまうことで作品が台無しになっている部分もある。なにより冒頭の「操縦士、副操縦士、作家」はうんざりさせられた。これはハイジャックにより20年間に渡り延々空を旋回し続ける旅客機の話なんだが、「旅客機が何故20年間も飛び続けるのか、乗客は何食ってんのか」という疑問に「えーっと"永久燃料"と"不思議な食物"というのがありまして…」などと余計な謎説明を加えて白けさせてしまう。こんなもの「時間がリセットされちゃうんです(キリッ)」と言っとけばそれでおしまいじゃないか。「ミニチュアの妻」も同様だ。「なぜ妻がミニチュアになったのか?」に「いや実は夫がよくわかんないんですけど"物を小さくする会社"とかいうのに勤めてまして…」とまたもや謎説明である。これだって「理由は無いです、とにかく小さくなったんです(キリッ)」と言い切ってしまえばいいだけではないか。

なにしろ冒頭からこれだから本を投げ出したくて堪らなかったのだが、昨今は本も高いし我慢して読み進めてみる。するとこれが、後半に行くほど構成も筆致も手馴れてきて、「投げっぱなし」すら気にならず、そこそこに読める作品が出てくる。傑作と呼ぶほどではないが、何かのアンソロジーに入っていたら特に抵抗なく読んでいたと思う。この作品集、ひょっとしたらほぼ執筆順に並べられていて、作者の成長に合わせて作品がよくなってきている、とそういうことなんじゃないかな。全体的にホラー展開の作品(「オオカミだ!」「ショッピングモールからの脱出」)、ファンタジー展開の作品(「角は一本、目は荒々しく」)がまともに読めたが、"アフリカ沈没"を描いた「さらば、アフリカよ」は"アフリカ沈没"そのものではなくて、それにまつわるパーティー会場のゴタゴタを描いている部分で、これが一番成功したスタイルなんじゃないかと思わされた。

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20160418(Mon)

[]ちょっと不思議な老人音楽映画『グランドフィナーレ』 ちょっと不思議な老人音楽映画『グランドフィナーレ』を含むブックマーク ちょっと不思議な老人音楽映画『グランドフィナーレ』のブックマークコメント

■グランドフィナーレ (監督:パオロ・ソレンティーノ 2015年イタリア/フランス/スイス/イギリス映画)

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■老人音楽映画

「老人映画」とオレが勝手に名付けているジャンルがある。その名の通り老人が主人公であり、老い先短い自らの人生を振り返ったり振り返らなかったり、どうせもう死ぬんだからと無茶しちゃったりしなかったり、若い者になにかを残したり残さなかったり、とまあそんな映画である。クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』あたりが一番有名かな?あと自分の観た中では『人生に乾杯!』、『ホルテンさんのはじめての冒険』、『百歳の華麗なる冒険』、『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』なんてェのもあった。

さらにそれに「音楽」を加えた「老人音楽映画」というのもある。『カルテット! 人生のオペラハウス』、『アンコール!!』あたりがそれに当たるだろうか。人生の掉尾を音楽でもって高らかに飾ってゆく、というものだ。やはり人生のラストはクラシック交響曲で美しく勇壮に盛り上げたい、というのはわからないでもない。演歌はしみったれてるしシャンソンは情緒過多だ。SF映画『ソイレント・グリーン』で登場人物の老人が死ぬときみたいにヴィヴァルディの『四季』あたりが流れる最期の時なんてなかなかに素敵じゃないか。まあオレの人生の場合オッフェンバックの『天国と地獄』序曲第3部が流れそうな気がするが。

こんな風に並べているのは、自分が「老人映画」というものが結構好きだからである。なぜならオレ自身が老人に限りなく近い年齢だからである。50過ぎだとまだ老人とは呼ばないだろうが、若者では決してないし中年もとっくに過ぎている気がする。壮年や熟年という言葉もあるが自分をそう呼ぶのはなんだかおこがましい。だったらもう自分は老人でいいや、と思うのである。それにもう若ぶりたくもないし若くも思われたくない。自分を老人と呼ぶことで、真の老人になるための心構えをしたいのである。その為の「老人映画」鑑賞なのである。

■全体を覆う奇妙なシュールさ

そんなオレが今回観た映画が『グランドフィナーレ』だ。「アルプスの高級ホテルを舞台に、老境のイギリス人作曲家の再生を描いたドラマ」なのらしい。おお、見事に「老人音楽映画」じゃないか。きっとクライマックスは名作『オーケストラ!』みたいな泣かせまくりの音楽人情話として大いに盛り上げてくれるんじゃないのか。オレはそんなことを期待しながら劇場に足を運んだのである。

物語の舞台はスイス・アルプスを見上げる風光明媚な高級ホテルである。そこには世界に数パーセントしかいないリッチなセレブがゴンズイ玉のようにひしめきあってるのである。主人公は引退した作曲家で指揮者のフレッド(マイケル・ケイン)。彼は娘のレナ(レイチェル・ワイズ)、友人で映画監督のミック(ハーヴェイ・カイテル)と共にここに滞在していた。そんなある日、イギリス女王から出演依頼が舞い込むのだけれども、フレッドは頑なに拒み続けた。そこには、フレッドと妻に関わるある秘密が隠されていた・・・というもの。

こうして物語のあらましだけ書いてみると、最初期待していたような「老人音楽人情話」みたいなんだが、しかし観ていると、どうもその手の類のものではないことが分かってくる。この映画、ちょっと一筋縄ではないのだ。確かに自分の人生にこだわり続ける老人は出てくるし、結構な頻度で様々な音楽が流れて楽しませてくれる。しかし人情や哀歓というよりはどことなく醒めてるし、所々シニカルだし、ゴージャスなはずのホテルやその宿泊客はなんだか無機的に描かれる。一番の特徴は全体を覆う奇妙なシュールさで、時折はっとさせるような超現実的なシークエンスが挟まれる。監督のパオロ・ソレンティーノは「フェリーニに継ぐ21世紀の映像魔術師」なんて言われ方をされているらしいが、オレ的にはオモチャっぽくないウェス・アンダーソンみたいだな、と感じた。

■老人の矜持

そしてやはり、ヨーロッパ映画のせいなのか、ニヒリスティックな物語でもある。「老人だって頑張れる!」とか「老人だからこそ輝ける!」とか「人生の最後を華々しく飾る!」という、「人生賛歌」みたいな話ではないのだ。人はだれしも老人になるけれども、やはりそれは疎ましく、物悲しく、そしてどうしようもない虚無と向き合うというものなのだ、というのがこの物語なのだろうと思う。年老いることなんか決して美しくない、単に醜くなるだけのことなんだ、というのはクライマックスに登場する老獪と化したかつての美人女優ブレンダ・モレル(ジェーン・フォンダ)の姿に集約される。しかし、この汚いババア役の汚いババアのジェーン・フォンダがなにしろ、堂々としていて、物凄くプライドに溢れているんだ。

それでオレが思ったのはさ、老人になっても別に頑張らなくとも若ぶらなくてもいいからさ、小汚かろうが加齢臭ぶんまいて臭かろうが、自分の人生と今の自分にプライド持つってことなのかな、ってことなんだよ。体も気力も見てくれもどんどん衰えて、自分の人生に待ってるのは自分の葬式だけって歳になってさ、でもここまで生きてきたプライドだけは持っていようぜ、とまあ、そんな映画だったんじゃないのかな、なんてオレなりに思ったんだよ。

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20160415(Fri)

[][]クウェート侵攻により置き去りにされた17万人のインド人を救え!〜映画『Airlift』 クウェート侵攻により置き去りにされた17万人のインド人を救え!〜映画『Airlift』を含むブックマーク クウェート侵攻により置き去りにされた17万人のインド人を救え!〜映画『Airlift』のブックマークコメント

■Airlift (監督:ラージャー・クリシュナ・メーノーン 2016年インド映画)

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1990年、イラクのクウェート侵攻が勃発。それにより、17万人の在クウェート・インド人たちが孤立無援となってしまう。そんな中、一人の男が同胞を救う為に立ち上がった。映画『Airlift』は湾岸戦争の初期、実際に起こった脱出計画を描くスリラー作品である。主演にアクシャイ・クマール、その妻役として『めぐり逢わせのお弁当』のニムラト・カウルが出演。監督は『Bas Yun Hi』(2003)、『Barah Aana』(2009)のラージャー・クリシュナ・メーノーン。

《物語》実業家のランジート(アクシャイ・クマール)は家族と共にクウェートに住み、順風満帆な生活を送っていた。しかし1990年8月2日、イラク軍のクウェート侵攻によりその生活は一変する。クウェートを制圧したイラク軍の暴虐ぶりにランジートは国外脱出を考えるが、脱出もままならず右往左往するインド人同胞の姿を見て、彼らを救うことを決意する。実業家のコネを活かし、イラク軍やインド大使館、さらにはニューデリーにあるインド外務省に掛け合うランジートだったが返答は色よくない。さらに国連の経済制裁による海上封鎖のため海路での脱出も望みが絶たれた。食料も底を突きかけ不安だけが広がってゆくインド人同胞たちの為にランジートは打つ手があるのか。

イラク首相サダム・フセイン(当時)によるクウェート侵攻はその後の湾岸戦争へと広がるきっかけともなった侵略行為だった。アメリカのブッシュ大統領は各国に呼びかけ多国籍軍を編成してサウジアラビアに派兵、さらにペルシャ湾の海上封鎖を敢行する。それに対しイラクは欧米人を一斉に拘束、出国を禁止した上に軍事施設に収容するという人質作戦を展開する。この中には日本人も含まれていた。双方睨み合いのまま人質は徐々に解放されてゆくが、経済封鎖の影響は次第にイラクに影響を与えてゆく。そして度重なる交渉も空しく1991年1月17日、遂に多国籍軍よるバグダッド空襲が開始される。湾岸戦争の始まりである。

このような時代背景の中、「その時クウェートのインド人はどうしたのか」を描いたのがこの作品となる。逮捕され虐殺されるクウェート人、監禁され人質とされる欧米人・日本人(これは作品内で描かれない)と比べ、イラク軍のインド人への態度は、少なくとも映画の上ではどちらかというと無関心に近いものを感じた。時には暴力的な事件も起きるが、それはインド人だからという訳ではなく、誰彼構わないイラク兵士の暴虐振りの結果のようなものだろう。ここに中東におけるインド人の扱いや立場がうかがえるが、それはつまり欧米人のような反アラブ的な敵性人種ではないということだ。

とはいえ、戦時制圧下にあるクウェートに長居したいとはインド人に限らず誰も思いもしないだろう。しかもその数は17万人と言うから、単に国外退避といっても相当に面倒な課題だ。この辺自分の認識不足なのかもしれないが、インド人であればパスポートさえあれば国外退去は許されていたのではないか。ただ、その手段がなく、さらに膨大な人数である、といった部分で事態が困難になった、というのがこの物語なのだろう。

さらにもう一つ付け加えれば、一人の平凡な市民が立ち上がって人命を救う、という人道主義の部分ばかりがクローズアップされる物語ではあるけれども、そもそも、インド政府は何してたの?というお話でもある。この物語では、インド大使館は役に立たず、インド外務省も及び腰で、大臣クラスはというと逃げ腰なのだ。国内外に他に重要な課題があったとか対外的なものを刺激したくないとか言い訳がされるが、なんにしろインド政府の腰の重さが浮かび上がってしまうのだ。同胞の為に立ち上がるインド人市民、という部分は愛国的かもしれないが、その愛国の対象であるインド政府がカスだった、というのはひとつの皮肉なのか。

とはいえ、戦時下の街で恐怖に怯える人々を描いたスリラーとしてはよく出来ている。避難所に集められたインド人たちの憔悴しきった様子、膨らんでゆく不満、やっと脱出手段が見つけられたと思ったらそれが次々に不可能になってしまうことの絶望感、「もしも自分もそこにいたら」と考えるとやはり恐ろしい。そんな中主人公を演じるアクシャイ・クマールは、最近の作品で軍人顔が板に付いてしまっていたが、この作品では一般市民ということでそれほど引っ掛かりを覚えず見ることが出来た。また、妻を演じたニムラト・カウルは、角度によってはロザムンド・パイクを彷彿させる顔つきで、『めぐり逢わせのお弁当』とはまた違う魅力を醸し出していた。

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めぐり逢わせのお弁当 Blu-ray

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20160414(Thu)

[]原始世界で戦い抜け!〜ゲーム『ファークライ プライマル』 原始世界で戦い抜け!〜ゲーム『ファークライ プライマル』を含むブックマーク 原始世界で戦い抜け!〜ゲーム『ファークライ プライマル』のブックマークコメント

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○原始人となって戦うんだッ!?

なんとこのゲーム、舞台が原始時代です。ジャンルとしてはオープンワールドFPSなんですが、遥か一万年前の原始人となって戦う!というのがこのゲームなんです。

なにしろ原始時代で原始人なので、武器は弓と槍と棍棒です。今風のFPSみたいにアサルトライフルやショットガンなんか出てきません。もちろん主人公は動物の毛皮をまとっているだけで、強化アーマーやコンピューター機器による支援があるわけでもありません。

その辺のものを加工した武器で、とりあえず殴ったり刺したりして敵を倒す!そんなひたすら原始的な戦い(まあ原始人ですから当然ですが)を繰り広げるのがこの『ファークライ プライマル』なんですね(ただし、製作側もそれだけじゃ寂しいと思ったのか、後半爆発物的なものも使えるようになります)。

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○人間も怖いが動物も怖い!

プレイヤーはとある部族の原始人となり、敵対する他部族の原始人と戦うことになります。しかし実はこのゲーム、敵は人間だけじゃないんです。

そう、草木が鬱蒼と生い茂るジャングルで主人公を待つのは獰猛な肉食獣なんですね!トラ、オオカミ、クマ、ジャングルは危険が一杯です。それだけじゃない。マンモスまでが群れを成して主人公を襲います。だいたいゲーム始めてすぐマンモスに踏み潰されて死んで、その後仲間が全員トラに食い殺されたぐらいですから。正直言ってジャングルの動物は敵の部族なんかよりも全然強くて危険です。

しかしただ危険なだけではありません。主人公には「ビーストマスター」というスキルがあり、これら獰猛な野生獣を手なずけ、マップ探索のお供にできるばかりか、敵を倒す命令まで下せるんですね。手なずけた野生獣だけで敵の村を滅ぼすことだってできるんです!そしてこれがまた楽しい!そしてそんな野性獣をなでなでするとキュルキュルいうのがまた可愛い!

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○原始時代の支配者となれ!

ゲームの大まかな流れは昨今のオープンワールドゲームと殆ど一緒です。マップを探索し、敵を倒し、拠点を征服し、アイテムを集め、主人公のスキルを高めてゆきます。自分の部族の家々を拡大する、なんていうのは『Fallout4』っぽいかな。ただなにしろ原始時代が舞台なので結構描写がエグイ、というのが特徴でしょうか。なんといっても呪術師に動物の頭蓋骨に注がれたネズミの血飲め、とかやられるんですよ。ひえぇえぇ。

こんな具合に非常に独特な『ファークライ プライマル』ですが、これまでの『ファークライ』シリーズと全然かけ離れているかというとそうでもないんですよ。実は前作『ファークライ4』でも動物狩ったり植物集めたりの狩猟採取パートがゲームを進めるうえで結構重要だったんですが、今作はそれをメインに据え、必然性を持たすために舞台を原始時代にした、という見方ができるんですね。こういった『4』の発展型に位置するゲームだからナンバリング・タイトルじゃなかった、ということなんでしょう。

全体的にやることがシンプルだし戦闘もシンプルだし、クリア時間も10時間程度と言いますから、昨今のオープンワールドゲームみたいに膨大な時間を割くことなく気軽にサクッと楽しめる部分でも印象がいいですね。そしてなにしろ原始時代というのがいい!ちょっと変わったゲームですがオレ的には結構お気に入りです。

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20160413(Wed)

[]最近聴いたエレクトロニック・ミュージック 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックを含むブックマーク 最近聴いたエレクトロニック・ミュージックのブックマークコメント

■Around the World With / The (Hypothetical) Prophets

Around the World with the Prophets

Around the World with the Prophets

1980年代に活動していたというエレクトロニック・デュオThe (Hypothetical) Prophets、実はキャバレー・ボルテールやフライング・リザードあたりと同時期に位置するニューウェーブ・ジャンルのユニットなんだが、オレは全く知らなかった。今作は1982年にリリースされた彼らのアルバムのリマスター・リイシューとなるが、これが今聴いても全く遜色の無いエクスペリメンタルな音で、その新鮮さに驚いている。音自体は奇妙にグチャグチャしたローファイな電子音に乾いたユーモアを感じるヴォーカルが乗っかるといったもので、いわゆる"怪作"なのだが、実に面白い。これがベースミュージック経由の最新版エレクトロニカだと言われてもそのまま通用してしまいそうなのだ。 《試聴》

■System Fork / Application (The Black Dog)

System Fork

System Fork

UKテクノ重鎮デュオThe Black Dogのユニットメンバーのうち、MartinとRichardのDust兄弟が始動したプロジェクトがこのApplicationで、これはその第1弾アルバム。The Black Dog譲りの非常に計算と抑制が成されたテクノ・アルバムで、エレクトロニカとは何か?と聞かれたらこれを聴かせればいいぐらいのバランスのいい作品。 《試聴》

■Sidetracking / Jona

Sidetracking

Sidetracking

ベルリンで活躍するJonathan TroupinことJonaによる1stフルアルバム。ミニマル・ハウス〜テック・ハウス〜ディープ・ハウスと非常に多彩な音を聴かせるスタイリッシュなハウス作品。 《試聴》

■Sense of Purpose / JoeFarr

Sense of Purpose

Sense of Purpose

ブリストルのテクノ・プロデューサーJoe Farrのデビューアルバム。インダストリアル、ブレイクビーツ、グライムからダウンテンポまでも網羅したストリート・テクノ。 《試聴》

■Fabriclive 78 / Illum Sphere/Various

FABRICLIVE 78: Illum Sphere

FABRICLIVE 78: Illum Sphere

2014年にリリースされたFabricliveの78番はイギリスの新鋭プロデューサー、イルム・スフィア。全体的にダブ・テイストで、常に低音辺りでどんよりドロドロした音が展開している。作業用にok。 《試聴》

■Fabric 82 / Art Department/Various

Fabric 82: Art Department

Fabric 82: Art Department

去年リリースされたFabricの82番はカナダのハウス/テクノ・プロデューサー、アート・デパートメント。ベーシック・チャンネルからハーバートまで幅広いハウス/テクノ・チューンをフィーチャーした作品。作業用にok。 《試聴》

■Songs From Before / Max Richter

Songs From Before

Songs From Before

ドイツ出身のポスト・クラシカル・コンポーザー、マックス・リヒターが2006年にリリースした3rdアルバムのリイシュー。ピアノ、チェロ、バイオリンといった伝統楽器を使った楽曲にエレクトロニクスとミニマルフレーズを融合し、静謐で美しい音楽を創造する。また、村上春樹小説の一文をロバート・ワイアットを朗読する、といった曲もあり。英語だし村上の何の作品かは分からないんだけどね。 《試聴》

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20160412(Tue)

[]水曜どうでしょうDVD第24弾「ユーコン川160キロ〜地獄の6日間〜」 水曜どうでしょうDVD第24弾「ユーコン川160キロ〜地獄の6日間〜」を含むブックマーク 水曜どうでしょうDVD第24弾「ユーコン川160キロ〜地獄の6日間〜」のブックマークコメント

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「水曜どうでしょうDVD第24弾」は「ユーコン川160キロ〜地獄の6日間〜」となる。内容はタイトル通りユーコン川160キロを6日かけてカヌーで川下りする、というもの。アウトドアの「ア」の字も興味ないいつものメンバーは「カヌーで川下り」と聞いて既に戦慄している。当然夕方になると岸に上がって夕食&睡眠はとるし、お昼もランチということで岸に上がるのだが、それでもなにしろ6日間、延々カヌーを漕ぎ続けるのだ。ユーコン川自体は穏やかな流れの川で、実のところ素人なメンバーがカヌーに乗っていても危険性は無さそうにしか見えないのだが、なにしろ延々カヌーという部分がツライ。「地獄の6日間」というのは死と隣り合わせの危険な6日間というのでは全くなく、むしろ毎日毎日ず〜っとカヌーを漕ぎ続けるというシンドサがまさに「地獄」ということなのである。

ただ今回の「ユーコン川」、いつものチャレンジ物と比べて休憩時間以外水から上がれない、水上なのであまりふざけたこともできない、そしていつもの余計な道草ができない、さらに6日間のロケーションの中ユーコン川河畔の景色がまるで変わり映えしない、といった点で若干見劣りする部分が出てしまう。それを補うのが陸上の休憩&夕食とテント就寝時間でのおふざけである。今回はシェフ大泉が例によってしょうもない料理を作ってくれるのがまず楽しい。そしてずっと随伴するカナダ人ガイドと日本人現地コーディネーターとの掛け合いがまた可笑しい。もちろん藤村ディレクターと大泉君のいつもの口汚い罵り合いの様は安定の面白さだ。どちらにしろいつものダラダラ&グダグダの展開だ。「水曜どうでしょう」はダラダラでグダグダ。これが鉄板の基本である。

それと併せ、今回最も特異なロケーションとなったのは【白夜】の存在である。収録時期のカナダ北西部は白夜に当たっていたようで、だから深夜になってもずっと外は明るいまま、これが今回の「どうでしょう」に不思議な雰囲気を加味することになった。

購入はHTB Online Shopで。というか…DVD第23弾を買い洩らしていたことを今やっと知ったのだが…。これホント発売時期分かるようにできないものか…。

[]最近読んだコミック 最近読んだコミックを含むブックマーク 最近読んだコミックのブックマークコメント

アイアムアヒーロー(19) / 花沢 健吾

アイアムアヒーロー 19 (ビッグコミックス)

アイアムアヒーロー 19 (ビッグコミックス)

18巻で主人公・英雄と比呂美との関係に新たな発展があったかと思ったらこの19巻ではまたしても思わぬ展開である。そしてこれまでバラバラに物語られていた半感染者・クルスと高層ビル立て籠もり部隊、さらには集団行動を始めたZQNとZQNの巨大融合生命体とがひとつのポイントへと収束しはじめる。いよいよ終盤に突入か。そろそろ映画も公開されるけど、観に行こうかなー。

波よ聞いてくれ(2) / 沙村広明

波よ聞いてくれ』第2巻は1巻から引き続きその面白さに驚かされるが、こういったコメディ要素はもとより沙村広明ならではの陰惨な狂気が時折見え隠れして肝を冷やさせられる。それを主人公・鼓田ミナレの暴走によって全てギャグに持ってゆくところが凄い。沙村広明はとても怖い漫画家だな。

監獄学園(20) / 平本アキラ

監獄学園(20) (ヤンマガKCスペシャル)

監獄学園(20) (ヤンマガKCスペシャル)

しょーもない「パンツ装着作戦」に引き続き、いよいよ始まる騎馬戦を前にストーリーを引っ張りに引っ張りまくっている第20巻である。副会長の覚醒はなるのか。おっぱいは揉ませてもらえるのか。不気味な破滅の予兆とはなんなのか。例によって馬鹿馬鹿しいエロと思い込みの激しさで迷走する監獄学園である。

20160411(Mon)

[]ミラクルパワーを手に入れちゃった!?〜映画『ミラクル・ニール!』 ミラクルパワーを手に入れちゃった!?〜映画『ミラクル・ニール!』を含むブックマーク ミラクルパワーを手に入れちゃった!?〜映画『ミラクル・ニール!』のブックマークコメント

■ミラクル・ニール! (監督:テリー・ジョーンズ 2015年イギリス映画)

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「冴えない男がミラクル・パワーを手に入れた!?」というSFコメディです。主演は冴えない男を演じさせたら右に出る者のいないサイモン・ペッグ、ヒロインにケイト・ベッキンセール。二人に絡む"人間の言葉を喋る犬"デニスの声を故ロビン・ウィリアムズがあてていて、これが彼の最後の作品になったとか。また、この作品はモンティ・パイソン作品でもあります。監督のテリー・ジョーンズはモンティ映画ではお馴染みの監督であり、作品に登場するエイリアンの声をモンティの面々が演じていたりするんですね。

物語は太陽系の外れから始まります。クラゲみたいな形をした巨大宇宙船の中でエイリアンたちが「地球人は銀河系知的種族にふさわしい存在かどうか」を議論しているんです。彼らは無作為に抽出した一人の地球人にミラクルパワーを与え、その力の使い方を観察して優良種族か劣等種族かを決めようとしていました。劣等種族と判断されたら地球は破壊!かくして一人の男が何も知らずに地球の運命を担うことになります。男の名はニール(サイモン・ペッグ)、ロンドンで学校教師を務めるしがない独身男。ミラクルパワーを手に入れた二ールは、こりゃ幸いとその力を使いますが、遣る事成す事全て裏目に!?果たして地球の運命やいかに!?

そんな映画『ミラクル・ニール!』、サイモン・ペッグの軽妙洒脱なコメディ演技が相変わらず楽しませてくれる作品でした。物語構成は藤子不二雄のSF短編漫画を思わすような定番的なSFネタから始まります。遥かに科学文明の発達したエイリアンたちが地球の存在をゴミみたいに扱うところは『銀河ヒッチハイクガイド』を連想させるでしょう。ミラクルパワーを手に入れてからはかの有名なジェイコブズの短編怪奇小説『猿の手』を彷彿させる「望んだことが全て裏目に」という展開を見せます。そしてその全体はモンティ・パイソンならではの下品でナンセンスなギャグで満ち満ちているんですね。

とはいえ仕上がり自体はかなりライトで、超絶的なSF展開を見せたりとかモンティ流の狂気や黒さとかはそれほどありません。ギャグのセンスもドタバタというよりクスリと笑わせるスマートなもので、多少下ネタも入ってますが小中学生でも楽しめる様な敷居の低さがあり、だからちょっぴり笑えるコメディを気軽に楽しむつもりで観るのが正解かと思います。そしてこの肩ひじ張らない気楽さ、というのが物語をとてもチャーミングなものにしており、観終った後ほんわかした気持ちで劇場を出ることができるのがいいですね。劇場のお客さんも結構10代の男の子女の子が多かったりしました。

この作品でなによりも楽しめたのは"喋る犬"デニスの存在ですね。喋れるようになってもそこは犬、「ビスケット欲しい!」「ご主人様愛してる!」とかしか言わないんですよ。こんなこと人間の言葉で喋らなくても、犬の態度でだいたい分かりそうなことなんですが、それをあえて人間の言葉で喋らすことがなんだか可笑しい。うんざりした主人公がミラクルパワーで「もっと合理的な思考をしなさい」と命ずるも、今度は「合理的にいってビスケットが欲しい!」とかやるもんですから大爆笑です。このデニスは単に喋れるようになるだけでなく、最後まで物語の鍵となるんですが、なにしろ愛くるしくて、案外この作品、犬好きの為に作られた作品だということができるかもしれません。

一方もう一つの物語のカナメは主人公ニールとアパートの別の部屋に住むキャサリン(ケイト・ベッキンセール)との恋愛模様となります。ミラクルパワーを使えば恋愛なんて思い通りにできそうなものですが、あえてそうしない(ならない)所にこの作品の爽やかさがあります。モンティが参加しているのになんでしょうこの生真面目さは。そもそも主人公はミラクルパワーを持っているのに、大金をせしめたりとか悠々自適の生活とかにあまり興味を持たず、思い付きで行き当たりばったりにしか使わない、なんていう部分にこの主人公の小物ぶりが現れてて、そんな所がまた可笑しいしキュートな作品なんですね。

というわけでこの『ミラクル・ニール!』、感動の超大作!とか心を掻き毟る問題作!というのでは全然無い、ユルくてホッとさせられる掌編ならではの温かさがとても気にいった作品でした。

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もしも昨日が選べたら [Blu-ray]

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銀河ヒッチハイク・ガイド [Blu-ray]

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猿の手 (恐怖と怪奇名作集4)

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20160408(Fri)

[][]「俺、主夫になりたいっす!」〜映画『Ki & Ka』 「俺、主夫になりたいっす!」〜映画『Ki & Ka』を含むブックマーク 「俺、主夫になりたいっす!」〜映画『Ki & Ka』のブックマークコメント

■Ki & Ka (監督:R・バールキー 2016年インド映画)

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「私、仕事に人生賭けてるの!将来の夢はCEO!」というキャリアウーマンと、「俺、主夫になりたいっす!家事のことなら俺に任せろ!」という男性とが知り合って、これで結婚しちゃえばWin-Winじゃね?ということで目出度くゴールインをしたものの…というインドのロマンティック・コメディ・ドラマです。主演はカリーナー・カプールとアルジュン・カプール、さらにゲストとしてアミターブ&ジャヤのバッチャン夫婦が出演しております。監督は『Paa』(2009)、『Shamitabh』(2015)のR・バールキー。また、バールキーは『マダム・イン・ニューヨーク』(2012)でプロデューサーも務めているんですね。

稼ぎ頭が女性になって、男性が主夫をやるというケース、世間じゃ無いこともないんでしょうが、あまり一般的なことではないでしょう。一般的にあるとするとそれは「ヒモ」ということになってしまいます。女性に食わせてもらっているという意味では「主夫」も「ヒモ」も変わらないんですが、「主夫」と「ヒモ」の違いというのは…ええとよく分かりません。いくら愛があっても家事をきちんとこなしていても、女性に養われている男は世間から「ヒモ」って呼ばれちゃいますよね。それは世間一般というのは「男は稼ぐもの、女は(家計が許すなら)家庭にいるもの」ということになっているから。この物語はこういった世間一般の通念をひっくり返してしまおう、という所に主眼が置かれているんです。

アルジュン君演じるカビールには「亡くした母のような"主婦"になりたい」という動機がありました。主婦/主夫を極めたい彼の向上心は並大抵のものではなく、掃除洗濯料理をこなすのは当たり前、インテリア・コーディネートしてみたり、カリーナー・カプール演じる妻キアとそのお母さんの健康管理まで始めちゃいます。近所の主婦の皆さんと交友を深めちゃう、なんてところまで専業主婦/主夫っぽい!きちんと家計の遣り繰りもしてるし、夜だってカリーナー・カプール演じる妻キアにご奉仕しまくりだし、あとは仕事で疲れて帰ってきた妻の肩揉んだりツボを押してあげたりしてあげれば完璧です。いやー出来た主夫じゃありませんか。カビールの仕事のよさといったら主夫どころか執事です。「一人ダウントン・アビー」と言ってもいいぐらいかもしれません。オレにはここまでできませんよ…。やれなきゃダメ?(相方さんのほうを恐る恐る眺めながら)

当然こんな主夫が成り立つためには、女性でも能力があるなら性別関係なく高い収入を得られる、そういう社会である、という大前提も必要です。例え女性であってもCEOを目指せるし、例え男性であっても最高の主夫を目指せる。目指すものがCEOや主夫じゃなくても、性別に関係なく自己実現を達成できる。そんな社会を夢見た物語であるとも言えるんですよね。とはいえ、キャリアウーマンと主夫が結婚してメデタシメデタシ、ではお話が終わってしまいます。お話を転がすのにいったいどんな波乱を持ち込むのかな?と思いながら観ていたら、ほう、そっちに話を持っていくのね、といった感じでしたかね。全体的にそんなに山場は多くなくて、展開はどちらかというとシンプル。映画の長さも2時間程度とインド映画的には割とタイトなほうかも。このシンプルさとタイトさはシネコン向けの構成なのかな?ただ、サラッと気軽に観られるセンスはあります。こういったカジュアルなスタイルのインド映画も悪くないかもしれません。

最後に、この作品、インドでついこの間の4月1日に公開されたのですが、なんと!日本でもほぼ同時に公開されたんですよ。以前『Bajirao Mastani』のレヴューの時も紹介したSPACE BOX JAPANというインドの方がやっている会社によるもので、ごく一部の劇場だけの、しかも英語字幕なんですが、これは観に行かねばならん!と参加してきました。日印同時公開!なんてなんだかハリウッド大作並みです。客席は7、8割埋っていて、インド人と日本人の割合は2:1ぐらいだったかな?ラブロマンスものなのに家族連れも多く、ちっちゃいお子ちゃまの姿もありましたね。まあこのお子ちゃまたちが泣いたり途中でゲームかなにかの音を立てたり劇場は賑やかでしたが!上映中ではオレのよく分からないポイントでインドの方が笑っていて、「そうかここはインドでは可笑しい部分なのか」などとちょっと勉強(?)になったりしました。それとインドのお客さんは上映中少々喋くるんですが、これはインドスタイルなんだろ、と思ったらあんまり気にならなかったな。え?インドじゃそんな客いない?えええ!?

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20160407(Thu)

[][]生き別れた親父は詐欺師だった!?〜映画『Yamla Pagla Deewana』 生き別れた親父は詐欺師だった!?〜映画『Yamla Pagla Deewana』を含むブックマーク 生き別れた親父は詐欺師だった!?〜映画『Yamla Pagla Deewana』のブックマークコメント

■Yamla Pagla Deewana (監督:サミール・カールニク 2011年インド映画)

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この間観たインド映画『Gadar: Ek Prem Katha』(レビュー)は印パの確執に翻弄される親子を描きながらトンデモ展開へとなだれ込んでしまう、という面白い作品でしたね。それと同時に、主演だったサニー・デーオールが実によかったんですよ。髭にターバンというシク教ルックと併せ、気は優しくて力持ち、というキャラ設定が魅力的でした。そんなサニー・デーオールの他の主演作はないかな?と探して見つけたのがこの『Yamla Pagla Deewana』。サニー・デーオール演じる主人公が幼い頃生き別れた父と弟を探し出すんですが、見つかった二人はなんと詐欺師として生きていた!?というドタバタコメディです。

《物語》カナダのバンクーバーで母、妻子とともに暮らすシク教徒のパラムヴィール(サニー・デーオール)はある日、彼が幼い頃行方不明になっていた父と弟がインドのバラナシで暮らしていることを知り、急遽インドへと飛ぶ。だがようやく見つけた父ダラム(ダルメーンドラ)と弟ガジョーダル(ボビー・デーオール)は、こすっからい詐欺師として生計を立てていた。父と弟はパラムヴィールの言うことを信じず、パラムヴィールは二人に認めてもらおうとなんと一緒に詐欺師を働くことになった。一方弟ジョーダルはパンジャブからバラナシに訪れていたサーヒバー(クルラージ・ランダーワー)という女性に恋をし、なんとか交際に漕ぎ着ける。だがそこにサーヒバーの強面な兄たちが乗り込み、サーヒバーを故郷に連れ去ってしまう。肩を落とすジョーダルの為にパラムヴィールは一肌脱ごうと持ちかけた。それは身元を偽って彼女の実家を訪れ、彼女と結婚してしまおう、というものだった。

主人公がシク教徒、そして登場する人たちも殆どシク教徒という、ある意味「シク教徒コメディ」とも言える作品です(そんなもんあんのかよ)。それにしてもインド・コメディではなぜこんなにシク教徒はお笑い扱いになるのでしょうか。髭にターバンというお馴染みのルックスがインド人にとってもユーモラスなのでしょうか。それに映画のシク教徒って、だいたいがガラが悪くて単純で、かっとなり易くて暴力的という紋切型で描かれますよね。いつもサーベル振り回しているかライフル空に向けてガンガン撃っていて、そしていつも徒党を組んでわあわあと喚きたてながらあっち行ったりこっち行ったりしていて、でもどこかヌケている…というのが映画におけるシク教徒のように見えます。でもシク教の本山はパンジャブだそうですが、映画に出てくるパンジャブ娘はガラッパチですけどチャキチャキとしていてオレは結構好きですね。

さてこの物語の主人公パラムヴィールは一貫して「気は優しくて力持ち」のキャラとして活躍します。単純で分かり易いキャラなんです。いつも穏やかで顔には笑みを絶やしませんが、奥さんだけは怖くて頭が上がりません。バラナシでダラムとガジョーダルにさっそく騙されても怒るどころか「やっぱり父さんと弟だ!」と喜ぶ始末。おまけに彼らの信頼を得るため一緒に詐欺やら泥棒までしてしまいますが、モラルなんかよりも親子の愛情が優先という、間違ってはいるんですが何故か憎めないところがあるんですね。もう一つの「力持ち」要素、これが凄い。腕っぷしが強いどころか殆ど超人並みの強さ。前半と後半に大掛かりなアクション・シーンが設けられていますが、これが『ダバング』すら髣髴させる重力無視の超絶アクションと向かうところ敵なしのスーパーマンぶりを見せつけます。後半のアクション・シーンはさらに馬鹿馬鹿しい味付けがされ、ドリフのコントでも見せられているかのようなハチャメチャさです。そう、この映画、アクションもイケるんですよ。

物語は前半ではバナラシを舞台とした主人公パラムヴィールの親子探しの顛末、インターバルを挟んだ後半はパンジャブでの弟ガジョーダルの恋の決死行が描かれ、インド映画らしく前半後半トーンの違う2部構成的な作りが今見るとなんだか懐かしくすら感じます。そしてこんな物語を経ながら離れ離れになっていた親子の再会と心の繋がり、そしてあの手この手の恋愛大作戦が盛り込まれてゆくというわけです。コメディではありますが、スラップスティックなドタバタというよりも終始おおらかなユーモアで全体が構成されているといった形でしょうか。もちろん歌と踊りも楽しいですよ。

この作品の主演となる3人、ダルメンドラ、サニー・デーオール、ボビー・デーオールは実はダルメンドラを父とする親子俳優なんですね。この「親子3人の共演」という部分がまず見所になる作品です。さらにこのダルメンドラ、「アクション・キング」とまで呼ばれた往年のインド映画大スターで、あの『Sholay』ではアミターブ・バッチャン演じるジャイの相棒、ヴィールを演じていた俳優と後で知ってびっくりしました。『Sholay』の頃はまだまだ若かったダルメンドラですが、この『Yamla Pagla Deewana』ではすっかり渋い壮年男性になっており、見る角度によってはハリウッド俳優のトミー・リー・ジョーンズとちょっと似ているかもしれないですね。また、この作品ではインド映画の名バイプレイヤーであるアヌパム・ケールがサーヒバーの父役として出演、いつも拳銃を振り回すアブナいシク教徒のおじさんとして大いに笑いをとっています。

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20160406(Wed)

[][]インド・ラブコメ2作〜リティク・ローシャン主演『Mujhse Dosti Karoge!』 / シャー・ルク・カーン主演作『Dil To Pagal Hai』 インド・ラブコメ2作〜リティク・ローシャン主演『Mujhse Dosti Karoge!』 / シャー・ルク・カーン主演作『Dil To Pagal Hai』を含むブックマーク インド・ラブコメ2作〜リティク・ローシャン主演『Mujhse Dosti Karoge!』 / シャー・ルク・カーン主演作『Dil To Pagal Hai』のブックマークコメント

■幼馴染に恋しちゃったけどなんだかややこしいことになっちゃった!?〜映画『Mujhse Dosti Karoge!』(監督:クナール・コーリー 2002年インド映画)

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幼馴染に恋しちゃったけど、なんだかややこしいことになっちゃった!?というラブ・コメディです。リティク・ローシャン、ラーニー・ムケルジー、カリーナー・カプールといったボリウッド・スターが共演しているのが見所ですね。

お話はというと、まず男子一人に女子二人の幼馴染3人組がインドにおったわけです。彼らの名前はラージ(リティク)とプージャ(ラーニー)とティナ(カリーナー)。しかしラージがイギリスに引っ越すことになり、ティナと文通を約束しますが、彼女はホントは文通に興味が無くて、プージャがこっそり代わりに返事を出していたわけですな。ラージは成長してインドに帰郷し、文通相手だとラージが思い込んでいるティナに早速恋のアタック、ティナはティナでまんざらでもなく結婚まできまってしまいます。一方本当に文通を交わしていてラージに恋していたプージャはすっかり落ち込んでしまうのですが、この恋の行方はいかに…というものなんです。

思い込みの激しいリティク、ひたすらコンサバなカリーナー、いつも複雑な表情のラーニーと、それぞれにキャラの合った配役になっているのが判り易かったです。物語はその後プージャの結婚相手としてウダイ・チョープラが登場するんですが、二の線の役で出てくるウダイ・チョープラ、いろいろ違和感がありまくってこれはこれで楽しいです。しかしまあ、いじらしいといえばいじらしいのですが、じれったいといえばじれったい物語でもあり、「あーもうさっさとホントのこと言っちゃえば済む話じゃんかよ!」と思えなくないこともありません。一回決まった結婚を解消するのは大変かと思いますが、この葛藤で最後まで引っ張ってしまうんですよ。それを『DDLJ』や『Kuch Kuch Hota Hai』の余り物みたいなサウンドトラックでロマンチックに盛り上げられてもちょっと納得いかないんですよ。

それと、一歩引いて観て見ると、ラーニー・ムケルジー、カリーナー・カプールというギンギンなお姐さん二人に、とっぽい若造のリティク・ローシャンが振り回されていると見えないこともありません。これがシャールクだったらもうちょっと上手な駆け引きが出来たようなきがするんですんけどね。この辺でちょっとリティクのキャラが弱かったかな、と思いました。

■ダンス・カンパニーに燃え上がる恋〜『Dil To Pagal Hai』 (監督:ヤシュ・チョプラ 1997年インド映画)

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ダンス・カンパニーを舞台にそのディレクターとダンサーが「真実の愛」に目覚めるまでを描くシャー・ルク・カーン、マードゥリー・ディークシト主演のラブ・ロマンス作品です。また、アクシャイ・クマールがゲスト出演しています。監督はヒンディー映画界の大監督ヤシュ・チョプラ。

物語の主人公であるダンス・カンパニーのプロデューサー、ラーホール(シャールク)はダンサーのニシャー(カリシュマー・カプール)と交際していましたが、彼女は骨折してしまい、代役を立てることになります。その新しいダンサー、プージャー(マードゥリー)にラーホールは恋してしまいますが、彼女にはアジャイ(アクシャイ)という婚約者がいた、という展開なんですね。要するに交際相手のいる者同士が別の相手に気が移っちゃう、というお話です。

さてダンス・カンパニーが舞台だということでダンス・シーンがふんだんに盛り込まれてはいるんですが、これがなんといいますか、どうも古臭くてセンスが悪い。いわゆるジャズ・ダンスなんですが、なんかもう「円ショップ武富士」状態なんですよ。コレオグラファーは監督としても有名なファラー・カーンと、あとシアマク・ダヴァルという方が担当だということですが、大勢がカニ歩きしながら手足パタパタさせるのって、1997年当時は斬新だったのかしらん。

お話のほうも「人は沢山の恋をするけれど真実の愛は一つだけさ!」みたいなかっこいいこと言ってますが、いや単に目移りしただけだろー?別の女性に乗り換えただけじゃんかよー?としか思えなくて、いまいち盛り上がらないんだよな。それとこの作品でのシャールク、出演時は30代になったばかりの頃ということもあってか、なんだかガサツで小生意気で結構ウザイです。イタズラ好きという性格設定らしいのですが見ていてなんとなくイラッとさせられます。でも劇中かなり器用にドラムを演奏するシーンがあり、これはなんだか意外でした。

それに対してマードゥリー・ディークシト、これが素晴らしい。時代を感じさせない美人女優であったり踊りが達者だったりというだけでなく、ああこの人演技が上手いなあ、と感じさせてくれるですよ。マードゥリーの作品は殆ど観たことはないのですが、いかにも女性的なヒロインの役柄ばかりだけではなく、本当はいろんな役柄をこなせられる女優なんじゃないかと思いましたね。このマードゥリーに若き日のシャールクがからむと、なんだか綺麗なお姉さんが悪ガキに困らされているようにしか見えないのもちょっとナニだったなあ。

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20160405(Tue)

[][]アーミル・カーン主演のラブコメ&友情ドラマ2作〜『Hum Hain Rahi Pyar Ke』『Dil Chahta Hai』 アーミル・カーン主演のラブコメ&友情ドラマ2作〜『Hum Hain Rahi Pyar Ke』『Dil Chahta Hai』を含むブックマーク アーミル・カーン主演のラブコメ&友情ドラマ2作〜『Hum Hain Rahi Pyar Ke』『Dil Chahta Hai』のブックマークコメント

■家出娘に引っ掻き回されしっちゃかめっちゃか!?〜映画『Hum Hain Rahi Pyar Ke』 (監督:マヘシュ・バット 1993年インド映画)

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やんちゃな子供たちを3人も預かっててんてこまいの青年のもとに今度は家出娘がやってきて大騒ぎに!?という1993年公開のインド・コメディです。主演と脚本をアーミル・カーン、ヒロインに『ラジュー出世する』のジューヒー・チャーウラー。物語はケーリー・グラント主演の1958年のハリウッド映画『月夜の出来事』を元にしています。

主人公の名はラーフル(アーミル)、衣料品会社の管理人である彼は、亡くなった姉の3人の子供を預かっていましたが、これがとんでもないいたずらっ子ばかりで毎日頭を痛めていました。そこにある日ヴィジャイアンティ(ジューヒー)と名乗る家出娘が家に転がり込んできます。追い返そうとするも、子供たちがすっかりなついている上、継母にいじめられると哀願するヴィジャイアンティを、ラーフルは家に置くことになってしまいます。しかし実は彼女は実業家の娘であり、親の決めた結婚が嫌で家を飛び出してきていたのでした。

この後お話は例によってロマンス展開になってくるのですが、まあ男性の家に理由がどうあれ若くて綺麗な女性がやってきて同居する、なんていうのは男にとってはファンタジーそのものですよね。ただしそれだけだと生臭くなってしまうお話を、この作品では3人の貰いっ子を持ってくることによって、最初はばらばらだった疑似家族がひとつの家族としてまとまってゆく様子を描くことに成功しています。強い親を演じようとしてもままならず、いつも何がしか困り果てているアーミル・カーンの演技はコミカルであると同時に説得力があり、一方ジューヒー・チャーウラーは屈託が無く表情豊かな美人女優で、子供たちと一緒にいたずらを繰り広げて遊ぶ姿などは彼女自身も子供になりきっていて非常にキュートでした。

ただし小さな子供たちのやんちゃぶりをクローズアップさせている部分で外連味を感じさせる部分が多く、アーミル・カーンも善人過ぎねえかなあとは思いましたが、そこはアーミル・カーンだし脚本にも参加してるし、いわゆるファミリー・ムービーを主眼に置いたということなんでしょうね。後半はアーミルを狙うイケイケ女性や会社倒産の危機などのドラマが盛り込まれ、山あり谷ありの非常に飽きさせない展開を見せてくれました。

■3人の男の友情と恋の行方〜『Dil Chahta Hai』 (監督:ファルハーン・アクタル 2001年インド映画)

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男3人の友情と、それぞれの恋の行方を描き2001年にインドで公開された群像劇である。主演となる3人をアーミル・カーン、サイーフ・アリー・カーン、アクシャイ・カンナーが演じ、ヒロインとしてプリティー・ズィンターが出演している。監督は『闇の帝王DON ベルリン強奪作戦』(2011)『DON ドン 過去を消された男』(2006)のファルハーン・アクタル。また、アクタル監督は映画『ミルカ』(2013)で主演を演じ、その引き締まった体を見せている。アクタル監督の妹ゾーヤー・アクタルは『Zindagi Na Milegi Dobara』(2011)を撮っているが、男3人のスペイン旅行を描くこの作品、なんとなく今作『Dil Chahta Hai』と雰囲気が似ていなくもない。

物語は大きなテーマがあるというのでもなく、主演3人の友情とその決別、彼らのちょっとイタイ、ないしは困難な恋の結末が交互に語られてゆく形になっている。ただ、この作品には大きな特色があり、それは徹底してインド的な雰囲気を廃した現代的で都会的な人間ドラマとして制作されているという部分だ。正直インド映画でなくてもいいぐらいの物語ではあるが、友情が中心となって語られること、結婚を巡って物語が収束してゆくということ、この部分ではインド映画らしいとも言える。どちらにしろ普遍的な、悪く言うならよくあるようなこじんまりとした物語であり、正直に言うと個人的にはかなり退屈した。ただしインド的なインド映画を常日頃浴びるように観ている現地のインド人には好評だったようで、売り上げでは公開年のベスト5になっているのだという。

一応俳優のことに触れると、アーミル・カーンはどこか冷笑的で素っ頓狂な男として登場し、観ていて共感できる部分が無かった、こんな男がクライマックスに向けて真実の愛とやらに目覚め神妙な顔をされてもちょっと困る。ヒロイン役のプリティー・ズィンターは結婚相手がいるにもかかわらず気を持たせ過ぎで、これには最後に理由が明かされるものの、観ている間は「どうしたいんだ?」と思ってしまった。サイーフ・アリー・カーンはハンサムなプレイ・ボーイとして登場するが、友達思いでありあちこちに気を遣う男を演じた。さてアクシャイ・カンナーは年上の女性に恋をしてしまう、というドラマチックな役だったが、ええとあの、20代の設定にしてはちょっと頭が薄すぎて、そっちばかり気になってしまい彼の年齢を超えた恋の行方のほうは特にどうという感慨も抱けなかった。しかしこのアクシャイ・カンナー、最近の作品での写真を見たら、髪の毛が増えてる…。

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20160404(Mon)

[][]身分違いの恋の行方〜アーミル・カーン主演作品『Raja Hindustani』 身分違いの恋の行方〜アーミル・カーン主演作品『Raja Hindustani』を含むブックマーク 身分違いの恋の行方〜アーミル・カーン主演作品『Raja Hindustani』のブックマークコメント

■Raja Hindustani (監督:ダルメーシュ・ダルシャン 1996年インド映画)

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■身分違いの恋

田舎暮らしの純朴な青年と、都会からやってきた富豪のお嬢様が恋をして…というラブ・ロマンス作品です。主演にアーミル・カーン、ヒロインにカリシュマー・カプール

《物語》ムンバイに住む富豪の娘アールティ(カリシュマー・カプール)は誕生日の祝いとして亡き母の思い出の町であるパランケットへと旅に出た。彼女は二人の召使と共に空港でタクシーをつかまえ、滞在先でもガイドを依頼した。タクシーの運転手の名はラージャー・ヒンドスターニ(アーミル・カーン)。都会暮らししか知らないアールティは素朴で純粋なラージャーに次第に惹かれてゆき、ラージャーもまた心の清らかなアールティに思いを寄せてゆく。二人は結婚を誓うがラージャーの父はそれに不服だった。そしてラージャーの義母は二人を陥れるためにある計略を進めていた。

■優れたラブロマンス・ストーリー

身分違いの恋、という王道ともいえるラブ・ロマンス・ストーリーを展開するこの作品、非常に完成度が高く、様々な面においても大変楽しめる作品でした。1996年公開作ですが今現在観ても殆どその楽しさに遜色はありません。この作品で優れて楽しめた部分を箇条書きにしてみましょう。

1.主演の二人の爽やかさ…田舎暮らしの純朴な青年を演じるアーミル。もう清々しいまでに田舎者にしか見えなくて素晴らしい。純真であると同時に頑固者でもあり、「結婚しても田舎からは出ない!」と言い切り亭主関白ぶりをアピール。しかし上流階級である義理の父母のパーティーに呼ばれた際には田舎の劣等感をこじらせて酒を飲んで暴れる、というトホホな一面も見せる。だが、こういった面が人間臭くていい。ただし衣装が全部ユニクロに見えるのが難。一方ヒロインを演じるカリシュマーはもともと華やかな美人だが、同時に若々しさと子供っぽさも併せ持っており、若さゆえの迷いや一途さをその演技できちんと見せていた。

2.共演者たちの楽しさ…ヒロインはなにしろ令嬢なので、旅には二人の”お付きの者”が付き従ってるんですね。で、この二人というのが”男勝りの女性”と”ちょっとゲイっぽい男性”で、この二人の雰囲気が物語をとても楽しいものにしているんです。さらにラージャーのご近所さんのシク教徒としてあのジャガイモ顔のジョニー・リーヴァルが登場、例によって物語を引っ掻き回す上に、なんと男勝りなお付きの女性とロマンス展開などというお楽しみまであるんです。いやージョニー・リーヴァルって、画面にちょっと登場するだけでも楽しくなってしまいますよね。

3.素晴らしい歌…父と共にムンバイに帰らければならなくなったアールティを悲痛な思いで送り届けるラージャー、一行は途中ある村に立ち寄りジプシーの歌と踊りを目にしますが、「旅人よどうか行かないでほしい」という歌詞の「Pardesi Pardesi」はラージャーの切ない心を高らかに歌い上げ、この曲の歌われる中主人公二人は遂に愛を決意するのです。圧倒的なまでにエモーショナルなこのシーンは映画の最大のハイライトでしょう。この曲「Pardesi Pardesi」はインドでも大ヒットしその年最高のベストセラーになったばかりか、歴代でも高い売り上げを記録したサウンドトラックとなったそうです。日本でこの映画を取り上げているブログを読んでもどこもこの曲を挙げていましたね。ぱ〜るで〜しぱ〜るで〜しじゃな〜なひ〜ん。

4.主人公を陥れる計略…さて「身分違いの恋」を描いたこの物語、ヒロインの父が出てきた段階で「娘は絶対に渡さん!」という展開になるのかと思ったらそうではないんです。お父さんは不承不承二人の仲を認めてしまいます。その代り二人を妨害するのがヒロインの義母。もともと怪しい義母だったんですが、ここで悪だくみを巡らせることで、ちょっとしたサスペンスを生むんですね。こういった、インド映画にありがちな定石を外したところに新鮮さを感じました。

5.新たな家族の物語…こうして生み出される人間関係からは、血の繋がりだけではない新たな大家族といったものを感じさせます。ラージャーとアールティはもとより、ラージャーとアールティの家族、アールティの二人のお供、そのお供と恋したシク教徒、彼らは血の繋がりはなくともあたかも一つの家族のようにまとまり合いお互いを慈しみあいます。そして言ってみればアールティの義母ですらやはり新たな家族です。こういった、そもそもがばらばらであったはずの人たちが愛情と信頼で結びあってゆく様、これがこの作品からは感じられます。

■何にも縛られない自由インド人

タイトルでもある主人公の名前「Raja Hindustani」は「インド人の王」といった意味ですが、ラージャーはそれを「僕自身が僕の王なのだから、誰も僕を縛り付けることはできない、そしてヒンドゥーでもムスリムでもカトリックでもなく、何にも属すことの無いただインド人であることが僕なのだ」と説明します。これは主人公があらゆることから自由である、自由でありたい、そう願う存在であるということです。その中で彼は身分違いの恋をしますが、それは同時にカーストを超えた恋ですらあったのでしょう。しかし主人公は、それら無意味な束縛としきたりを一蹴し、自分らしく生きることを望みます。それこそが「何にも縛られない自由インド人」であることだからです。そしてだからこそ、彼は血縁に縛られない新たな"新家族"を築き上げその中で明るく生きていこうとしたのではないでしょうか。

涙で頬を濡らしながら直立不動で「どうかいかないでほしい」と歌い上げるアーミル。映画史に残る一世一代の名シーンといえるのではないでしょうか。

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(しかしYouTubeにHD映像上がってるのにどうしてオレの買ったDVDはSDみたいなショボイ映像なんだ…)

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20160401(Fri)

[][]泣き虫メガネっ娘の恋〜映画『Sanam Teri Kasam』 泣き虫メガネっ娘の恋〜映画『Sanam Teri Kasam』を含むブックマーク 泣き虫メガネっ娘の恋〜映画『Sanam Teri Kasam』のブックマークコメント

■Sanam Teri Kasam (監督:ラディカー・ラーオ/ヴィナイ・サプルー 2016年インド映画)

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■泣き虫メガネっ娘とチョイ悪男の恋

厳格な父がいる上に地味なメガネっ娘なばかりに結婚できず落ち込んでいた女性が、ワケアリ風のちょっとワイルドな男と知り合って自信を取り戻していくが…というインドで2016年に公開されたラブ・ロマンスです。出演はハルシュヴァルダン・ラーネーとマウラー・フセイン、監督がラディカー・ラーオのヴィナイ・サプルーのコンビ。よく知らない俳優と監督なんですが、主演女優のマウラー・フセインのたれ目具合とスレンダーな容姿になんだか惹かれてしまい、観てみることにしました。そしたらこの作品、最初の予想を大いに裏切り後半「大泣かせ大会」の作品だったのでびっくりしました。

《物語》図書館司書を務めるサルー(マウラー・フセイン)は地味でメガネっ娘、さらに泣き虫。父親は宗教大好きの頑固オヤジで、あまりの固さにサルーの結婚相手もなかなか決まらない。そのサルーたち家族の住むアパートにはインデル(ハルシュヴァルダン・ラーネー)という遊び人のような男が住んでいて、サルーの父は「風紀を乱すけしからん男だ!」と鬼のように嫌っている。ある深夜、サルーが怪我をしたインデルを看病していたところを父が見つけ、「お前ら夜中にナニやっとんじゃ!きっといかがわしいことに決まってる!こんなふとどき者は娘でもなんでもない!」とサルーを追い出してしまう。不憫に思ったインデルはサルーの住処を探し、彼女を美しい女性に変身させるが、彼女のかつての婚約者が「やっぱ俺ら結婚しない?」と言い寄ってくるから話がこじれ始める。

■「誰にも愛されない女」と「誰もが愛そうとしない男」

とまあこんなお話なんですが、まず前半は、「自分に自信の無い女子」が「チンピラ風のカッコイイ男子」と出会い、徐々に「イイ女」になってゆく、という流れなんですね。この「自分に自信の無い女子」を演じるマウラー・フセインがやっぱりいい!大きな鼻にちょっぴりタレ目、細面でスレンダー、色気の無いメガネとハスキーヴォイス、いつも自信なさげにオロオロしていて、そしてしょっちゅうメソメソ泣いている!「泣き虫メガネっ娘」ってなんかもー一昔前の少女漫画かって感じですが、いやー好みだわー後半メガネ取って綺麗な女子に生まれ変わるけど、前半の地味なメガネっ娘状態の時のほうがときめかされるわー。押しの強くない部分でインド女優っぽくないんですが、実はパキスタンの女優さんなんだそうです。(↓劇中はこんなメガネっ娘ですがホントはこんな女優さんです)

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一方相手役のインデル、全身入れ墨だらけでいつも半裸で上半身の筋肉(と刺青)を見せびらかし、さらにいつも酒瓶持って酔っぱらっており、最初はエロいチャンネーをはべらせて公衆の面前でイチャイチャし放題、という見るからにチンピラ風情の男なんですが、そんな男なのに出会ったサルーにはなぜか優しいし、彼女が追い出された後も甲斐甲斐しく面倒見るんですね。こんなチンピラいねーだろ、とは思いますが、いやそこはインド独特の少女漫画展開と思えばなんとなく納得は行くというもの。そもそもこのインデルが乱れた生活をしているのも、弁護士をやってる父親となにやら悶着があったからで、いわゆる「ちょいグレ」ではあっても親への反抗心を捨てきれない幼くて繊細な部分が彼のハートにはあるということなんですよ。このインデルを演じるハルシュヴァルダン・ラーネー、テルグの男優なんだそうですが、なかなか艶っぽいイイ男じゃあーりませんか(↓こんな男優さんです)。

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こんな二人が知り合って、そしてサルーはインデルの見せる新しい世界に自分を変えてゆくわけです。二人の最初の出会いのエレベ―ターシーンも楽しいし、野外マーケットで酔っぱらってインデルに大いに甘えて見せるサルーの姿にも心ときめかされます。もういろいろこじらせていた女子が発散しまくりです。しかし、この二人がくっつくかと思うとそうじゃないんですよ。自信の付いたサルーはかつての婚約者との結婚を決めてしまうんですね。この流れはなんじゃ?とは思いますが、サルーにとっていくら剣呑な父親でも、父親からの「固い男と結婚する」という呪縛からは逃れられていなかったんじゃないのかとも思えるんですね。というかそういうことにしておきましょう。インデルは「俺は当て馬かよ!」と思いつつ、それでもやっぱりサルーに尽くすんですよ。チンピラだけど甲斐甲斐しい、この辺、インド童貞男子が考えそうなキャラ設定ではありませんか。

■やりすぎなぐらい泣かせに入る怒涛の後半!

しかーし!後半から大波乱が訪れるんです。どんなことが起こるかは書きませんが、こっからはあれやこれや盛り込みまくりで物語が突っ走ってゆきます。そしてこれがもうこれでもかこれでもかと泣かせに入り、それをクドイ程に引っ張る引っ張る!このトチ狂った&とっちらかった怒涛の展開は「シナリオライターなにかあったのか?」と思わせるほどです。最初は面食らったんですが、流れに身を任せてみればあーら不思議、こんな定番クサイ泣かせのシナリオに、このオレ様ですら思わず滂沱の涙の流してしまったほど!鬼の目にも涙ってヤツでやんすか!オジサンこれは一本取られたね!こんなシナリオと併せ後半の美しい美術と美しい音楽がまた素晴らしいんですよ。ホテルのシーンもよかったですが、インデルのサルーへの"サプライズ"のシーンは、うっとりするぐらいファンタスティックな上に、卑怯な程に泣かせ攻撃が入ります!いやオレこの映画好きだわ!

しかしなにこの泣かせ展開、と思ってたらそれも当然、この作品、実は1970年に公開されたある有名なハリウッドのラブ・ロマンス映画をベースのストーリーにしているからなんですね(タイトル分かっただけでネタバレしちゃう方もいるかもしれないのでリンクにしました)。これがモトネタなら「大泣かせ大会」になるのも頷けるというもの。作品的には賛否両論あるようですし、幾分謎展開もなきにしもあらずなんですが、基本的にインドのラブロマンスは日本人には(まあオレだけのような気もするが)若干謎展開ですので、「こんなもんだ」と思えばなかなかにハマる良作でしたよ。

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