岸本佐知子翻訳・編集による不思議で不気味で素晴らしい現代アメリカ文学短編集『楽しい夜』

■楽しい夜 / 岸本佐知子・編

楽しい夜

メキシコの空港での姉妹の再会を異様な迫力で描いた、没後十余年を経て再注目の作家による「火事」(ルシア・ベルリン)、一家に起きた不気味な出来事を描く「家族」(ブレット・ロット)。アリの巣を体内に持つ女という思い切り変な設定でありつつはかなげな余韻が美しい「アリの巣」(アリッサ・ナッティング)、30代女子会の話と思いきや、意外な展開が胸をつく表題作「楽しい夜」(ジェームズ・ソルター)。飛行機で大スターの隣に乗り合わせてもらった電話番号の紙切れ…チャーミングでせつない「ロイ・スパイヴィ」(ミランダ・ジュライ)など、選りすぐりの11編です。

翻訳家・岸本佐知子氏の名を知ったのはショーン・タンの絵本からだったろうか。するすると身に馴染むその訳文は、原作の味わいを注意深く抽出しながら、同時に岸本氏の原作への愛情すら伝わってきそうな文章だった。アンソロジストとしての岸本氏と出会ったのは海外翻訳短編集『居心地の悪い部屋』からだ。「うっすら不安になるような小説」を集めたこの短編集は、作品のクオリティの高さはもとより、これらを選りすぐり編纂した岸本氏の選択眼と抜群なセンスをうかがわせるアンソロジーだった。
そんな岸本氏の翻訳・編集による新たなアンソロジーがこの『楽しい夜』となる。もともとは文芸誌『群像』に掲載していたものをまとめたのらしい。そしてこれが、いい。ミランダ・ジュライをはじめとする現代アメリカ文学作家の手になる短編が並べられているが、"現代アメリカ文学"とはいっても決してかしこまったものではなく、むしろ奇妙な話、不思議な話、そして不気味な話が多く含まれる。かといって"奇妙な味"と一括りに出来るものではなく、そこは文学らしい含蓄が感じられるのだ。
例えば「ノース・オブ」は実家にボブ・ディランを連れてきた、という娘の話だ。しかし「もしも家に本当のボブ・ディランを連れて来たら…」という話ではなく、ここでボブ・ディランはある種の象徴性として扱われ、本題は家族の埋められない溝にある、といった具合なのだ。しかしやはり、読後感は不思議なものだ。「火事」は空港の火事に遭ってしまった女の話だが、描かれるのは現実の事象ではなく妹を思う姉の意識の流れなのである。「ロイ・スパイヴィ」は飛行機の座席の隣に有名俳優が座っていた、という物語だが、物語の本質は人生への幻滅だ。「赤いリボン」は狂犬病対策に奔走する町民を描くが、物語そのものよりも、異様な感情が腫瘍のように膨らんでゆく様が不気味な作品だ。
一方、体にアリの巣を作る「アリの巣」や、遺体の髪を煙草にして吸う男が登場する「亡骸スモーカー」、いなくなった子供を探す「家族」、巨人の物語「テオ」などは設定や結末自体が既に奇妙であり不条理極まりない作品もある。これらは素直に"奇妙な味"の作品として読めるが、物語の背後に孤独や歪んだ共依存心理を読み取ることも可能なのだ。表題作「楽しい夜」は物語構造それ自体のトリック、としか言いようのない作品で、"楽しい夜"のはずなのに後味はとても苦い。この短編集の中で最も臓腑を抉られたのは「三角形」だろう。ゲイの学者の心理的葛藤と思わせておいて…いや、これ以上書くのはよそう。ロッド・サーリングがドラマ化していてもおかしくない不気味で恐ろしい内容の作品だった、とだけ言っておきたい。
ラストを締めくくる「安全航海」はやはりこの短編集の白眉となる作品だろう。一人の老婆が目覚めると、そこは乗った覚えのない船の上であり、そしてその船には自分と同じ多数の老婆が乗っていた…という冒頭から既に不可思議さに溢れた物語だが、読み進めるにつれ、ファンタジックな展開を迎えながら生の哀歓を溢れんばかりに描いてゆくのである。文字通り珠玉と呼ぶべき素晴らしい作品だった。
このようなアンソロジーは玉石混交だったりすることも多いが、この『楽しい夜』は全体が実にレベルの高い短編で占められている。とてもお勧めのできる短編集であると同時に、翻訳及び編者である岸本佐知子氏の名前を記憶に留めておきたくなる本でもあるだろう。

【収録作品】
「ノース・オブ」マリー=ヘレン・ベルティーノ
「火事」ルシア・ベルリン
「ロイ・スパイヴィ」ミランダ・ジュライ
「赤いリボン」ジョージ・ソーンダーズ
「アリの巣」アリッサ・ナッティング
「亡骸スモーカー」アリッサ・ナッティング
「家族」ブレット・ロット
「楽しい夜」ジェームズ・ソルター
「テオ」デイヴ・エガーズ
「三角形」エレン・クレイジャズ
「安全航海」ラモーナ・オースベル

楽しい夜

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