Hatena::ブログ(Diary)

メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170131(Tue)

[][]凌辱の村〜映画『Nishant』【シャバーナー・アーズミー小特集】 凌辱の村〜映画『Nishant』【シャバーナー・アーズミー小特集】を含むブックマーク 凌辱の村〜映画『Nishant』【シャバーナー・アーズミー小特集】のブックマークコメント

■Nishant (監督:シャーム・ベネガル 1975年インド映画)

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ありふれた一組の夫婦が教師としてやってきたその村は、傲慢な領主が村人たちを非道に扱う無法の土地だった。そして悲劇が起きる。1975年にインドで公開された映画『Nishant』は、インド農村部の暗部を描く社会派作品である。主演は『Ankur』(1974)、『Arth』 (1982)、最近では『Neerja』 (2016)の出演でも知られるシャバーナー・アーズミー。共演としてギリシュ・カルナド、スミータ・パテル、インド映画の名悪役アムリーシュ・プリー、そして相当若くて最初は気付かなかったナッスルディーン・シャー。監督は『Ankur』、『Manthan』 (1976)、『Bhumika』 (1977)で知られる社会派シャーム・ベネガル。

《物語》インドのとある貧しい村。その村を、領主ザーミンダール(アムリーシュ)と彼の兄弟たちは勝手放題に治めていた。村人たちは彼らの暴虐をただうつむいてやり過ごすだけだ。ある日その村に、学校の校長に任命された男が家族を連れて赴任してきた。ザーミンダールの弟ヴィシュワン(ナッスルディーン)は校長の若い妻スシーナ(シャバーナー)の艶めかしい肉体に魅せられ、遂に家に押し込み彼女をさらってしまう。目の前で妻を誘拐された校長は村人たちに助けを求めるが誰一人応じず、村役人も警察さえも彼の訴えを無視した。しかし、絶望に打ちひしがれる彼に村の古老である司祭がある考えを持ちかける。

舞台は傍若無人な領主一族が治める封建的な村だ。村の全ては村人も含めて彼らの所有物なのだ。思うがままに税を取り立て、奪いたいものがあれば奪い、気に入った村女は命令ひとつで寝床に来させる。村人たちは萎縮しながら、それをどうしようもないことだと受け止めて生きる。それはあたかも中世がそのまま残ってしまったかのような世界だ。そんな村に、外の世界から、何も知らずにある一家が訪れる。夫が教育者であるということは、教育も高く、モラルと法がなんであるのかを知り、理想や希望を持って生きる、現代的な人物なのだろう。そしてその妻も、そのように生きてきた女性なのだろう。そんな彼らが、あり得る筈のない支配の中に取り込まれる。その恐怖がこの物語なのだ。

インド地方の農村地帯に残る時代錯誤的な無法さを描いたこの物語は、ある一端は真実かもしれない。この『Nishant』自体事実を元にして製作されたというし、インド地方で起こった"名誉の殺人"に巻き込まれた都市部住人の恐怖を描いた『NH10』(2015)や嬰児殺しを描いた『Kajarya』(2015)のおぞましさは記憶に新しい。しかし、あたかも中世然としたこれら因習や封建制は、インド古代から連綿として存在したものなのかというとそうではないらしいのだ。カースト制度にしてもそうなのだが、これらは全てイギリス統治時代の圧政の中で「伝統化」され民衆に刷り込まれてしまったものらしいのだ。

例えば今作における「強欲な領主と虐げられた農民」という構図の真相は、以前このブログで書いたのだがこういった事情によるものだという。

実は18世紀では農民は武装しており、さらに非定型的な流動性を持っていて、よりよい労働条件を求めて移動していたというのだ。労働条件が酷ければ逃げ出せばいいのである。これが覆されたのが近代におけるイギリス支配時代で、イギリスによる定住農耕化が推し進められたが故の「強欲な領主と虐げられた農民」という構図というわけなのだ。

つまりこの作品で描かれる一見後進的に見えるインドの姿というのは、それが中世からいまだ残る因習からなのではなく、実はインド近代におけるイギリス統治が残した"ひずみ"から引き起こされたものであると言うことができるのだ。そういった目で観ると、この作品の異様さは別の意味を帯びてこないだろうか。

映画作品として見ると、「虐げられた農民が最後に……」という、いわゆる"原因から結果まで"の流れがストレート過ぎ、味わいが薄いという難こそあれ、不条理極まりないラストの凄まじさは出色と言えるだろう。そしてやはり主演のシャバーナー・アーズミーだ。美人女優がもてはやされるインド映画界で、彼女はしっかりとした存在感と演技力で見せる稀有な女優の一人であろうと思う。それと、どことなく艶めかしいところがいい。アムリーシュ・プリーは上半身裸の描写が多く、アムリーシュ・ファンには垂涎だろう。また、若き日のナッスルディーン・シャーの、その徹底的な小者演技は、将来の名俳優の片鱗を確かにうかがわせた。

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20170130(Mon)

[][]邪淫の果て〜映画『Ankur』【シャバーナー・アーズミー小特集】 邪淫の果て〜映画『Ankur』【シャバーナー・アーズミー小特集】を含むブックマーク 邪淫の果て〜映画『Ankur』【シャバーナー・アーズミー小特集】のブックマークコメント

■Ankur (監督:シャーム・ベネガル 1974年インド映画)

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南インドの小さな村に、ラクシュミ(シャバーナー・アーズミー)とキシュタヤ(サドゥー・メヘル)という貧しい夫婦が住んでいた。聾唖の夫キシュタヤは陶工カースト(ジャーティ)だったが仕事が無く酒に溺れていた。そんな村に一人の男がやってくる。男の名はスーリヤ(アナント・ナーグ)、地主の息子である彼は、父により大学の研究を辞めさせられ、この土地の管理を任されることになったのだ。

スーリヤには幼い頃婚姻の契りを結ばされたサルという妻がいた。だが彼女は夫と同居することが許される歳にまだ達しておらず、スーリヤはこの土地でその時期を待つことになっていた。ラクシュミとキシュタヤはスーリヤの家で小間使いの仕事を得るが、ある日キシュタヤは失踪してしまう。一人残されたラクシュミとスーリヤの距離は突然接近し、遂に二人は関係を持ってしまう。そのうちにも、スーリヤの妻サルが家にやってくる日が訪れる。その時、ラクシュミは既にスーリヤの子を身籠っていた。

映画『Ankur』はインド南部テランガーナ州出身のシャーム・ベネガルによって監督され1974年に公開された社会派作品である。主演はやはり社会派作品に多く出演しているニューデリー出身の女優シャバーナー・アーズミー。ちなみにこれら社会的リアリズムや批評的な視点に立ったアートフィルムを「パラレルシネマ」と呼ぶのらしい。映画はハイデラバードで撮影されたが、物語自体もこの地で1950年代起こった実話を元にしているという。タイトル「Ankur」は「苗」という意味。この作品は『芽生え』のタイトルで1983年に限定的に日本公開されている。

物語はスーリヤとラクシュミの二人を中心として動いてゆくこととなる。地主の息子スーリヤは強権的な父親により人生の全てのレールを設定され、表向きは大人しく従ってはいるが、どこかで欲求不満を貯め込んでいるようにも見える。そうして育ったスーリヤは金持ちならではの鷹揚さを持つが、性格は付和雷同型の事なかれ主義で何事にも無関心な男として登場する。彼は低カーストのラクシュミの手から食べ物や飲み物を渡されることにまるで頓着しないが、それは進歩的であるというよりは単なるぞんざいさからなのだろう。一方スーリヤの妻サルはラクシュミをあからさまに低カーストとして扱う。

ラクシュミは聾唖の夫との貧困生活にあえいでいた。彼女はまだ年若かったが、貧しさにより持参金が払えず(インドでは嫁の側が夫の側に高額な持参金を払う慣例がある)、キシュタヤのような障碍者と結婚せざるをえなかった。二人の棲む家は藁を積み上げただけの粗末なもので、夫はなけなしの金すらも酒に変えてしまうような男だったが、それでも彼女はつましい暮らしのためけなげな努力を続けていた。二人は子宝に恵まれず、受胎を祈願するさまが冒頭に描かれる。これがまずタイトルの「苗」と被さる。

この二人が、キシュタヤの失踪をきっかけに、遂に体を重ねてしまう。二人の行為に愛はあったのかどうかは分からない。むしろ、お互いの抱える「空虚」を埋め合わせるために、彼らは関係を持ったのかもしれない。スーリヤは父への不満とまだ来ぬ妻にもてあました情欲に、ラクシュミは貧しい生活への不満と夫のいない夜の寂しさのために。その行為の果てにラクシュミは身籠るが、その事実にスーリヤは慌てふためき、対面ばかりを振り回す。そもそもがそういう男だったのだ。そしてこのスーリヤの子がもう一つの「苗」となる。

映画『Ankur』は、こうした、表層的に見るならば一組の男女の姦淫を描いたドラマのように目に映るが、実はその背景に様々なインドの社会問題(インドだけに限らない問題でもあるが)が盛り込まれているのだ。それはアルコール依存症、カースト制度、貧富の差、親子の対立、姦通、子供同士の結婚、不誠実な人間関係、宗教の違い、女性側の持参金制度などだ。テーマの盛り込み方に大小の差はあるにせよ、物語の中でこれだけの問題提起がされていることにまず驚かされる。陽光眩しく緑豊かな田園地帯を舞台に、その影で毒虫のように育ってゆく「不信」の「苗」。それが『Ankur』の中心テーマなのだ。

映画としてみるとまず長閑な南インドの光景がまず美しい。この光景からこのような物語が紡ぎ出されるとは最初思わなかったほどだ。そして静かに響き渡るシタールを中心とした音楽がいい。スーリヤを演じるアナント・ナーグは都会的だが甘ったれな青年の姿をしっかりと演じ切り、ラクシュミ演じるシャバーナー・アーズミーは不幸に満ちた人生への怒りを滾らせた冷たい目つき、それと裏腹な若妻のなまめかしい体つきが印象的だった。というかシャバーナー・アーズミー、妙に気になる女優になってしまった。

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20170127(Fri)

[]ケータイかけたらゾンビになっちゃう!?〜映画『セル』 ケータイかけたらゾンビになっちゃう!?〜映画『セル』を含むブックマーク ケータイかけたらゾンビになっちゃう!?〜映画『セル』のブックマークコメント

■セル (監督:トッド・ウィリアムズ 2016年アメリカ映画)

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「ケータイかけたらゾンビになっちゃう!?」というパニック映画『セル』でございます。原作はホラーの帝王スティーヴン・キングの『セル』。しかしまあキング原作映画って結構出来不出来があるのが心配なところ。主演はジョン・キューザックサミュエル・L・ジャクソン。二人は同じキング原作の『1408号室』(2007)でも共演していますね。また、『エスター』の子役だったイザベル・ファーマンも出演。監督は『パラノーマル・アクティビティ2』(2012)のトッド・ウィリアムズ。日本では今年2月に公開されるらしいのですが、キング・ファンであるオレは待ちきれず輸入盤Blu-rayで先に観てしまいました。

《物語》グラフィック・ノベル作家のクレイ(ジョン・キューザック)は別居中の妻と息子の住むニューイングランド行きの飛行機に乗るためボストン空港にいた。空港では様々な人々が携帯電話で話していたが、その彼らの様子が突然おかしくなる。奇妙な電波を傍受したかと思うと一変、突如ゾンビ化して他人を襲い始めたのだ。空港は殺戮の場と化し、ゾンビ化した人間と逃げ惑う人々とで大パニックとなる。クレイは地下鉄に逃げ出し、そこで元軍人で技師のトム(サミュエル・L・ジャクソン)と出会う。二人はゾンビ集団を避けながらクレイのアパートへと避難するが、そこで同じアパートに住む娘アリス(イザベル・ファーマン)が仲間に加わる。クレイは妻と息子の無事を確かめるためニューイングランドへ向かうことにし、残る二人も同行することになった。その道中、ゾンビとなった者たちの奇怪な集団行動を目にすることになる。

「ゾンビ」とは書きましたが、映画『Cell』のゾンビたちは一般的に認知されている「人肉を喰らう蘇った死体」という意味のゾンビではございません。彼らは携帯から発せられた謎の電波により意識を乗っ取られ、人格を喪ったまま凶暴化し他人を殺戮するのです。即ち「生きてはいるが人間では無くなってしまった存在」なんですね。この辺の一捻りしてあるところがキング原作らしいところと言えるでしょう。だからここからはゾンビではなく「セル」と呼ぶことにしましょう。セルと一般的なゾンビの違う部分は、死んでない・人肉を食わないという他に、人を襲うときに道具を使える、ということでしょう。平気で鈍器のようなものを使って殴りかかってくるんですね。刃物は使えたかどうか覚えてませんが、銃となるとこれは無理のようです。まあ知能的に猿よりちょっとマシな程度かな。あと、基本走ります。

この物語のもう一捻りしてある部分は、セルたちが奇妙な集団行動を取る、という部分です。その一糸乱れぬ様子はどこか蟻のようですらあります。つまりタイトル「Cell」は「全体の中の一個の"細胞"」という意味での"Cell"と、「Cell Phone(携帯電話)」の"Cell"とが掛け合わされたものなんですね。秀逸のようにも思えますが、実は単なるキングの駄ジャレだという気もしないでもないです。それと、「じゃあセルにならないためには携帯使わなければいいだけの話じゃん」と思われるかもしれませんが、実はこのセル、最初携帯から流れ出た奇妙な電波音と同様の音を口から発し、それにより健常者をセル化することができちゃうんですよ!これは怖いですね!あとこのセル、夜になると寝ます。これはちょっと怖くないですね!

物語はクレイ一行がクレイの家族を探し出せるのか、というサスペンスと同時に、そもそも携帯から漏れ出した電波音はなんだったのか?セルたちはなぜ集団行動を取るのか?そしてセルたちを壊滅させる術はあるのか?という様々な謎をばらまきながら進んで行きます。いわゆるアポカリプスもののホラー・パニックではありますが、SF的な味付けも成されているんですね。この辺のB級SF感もキングらしいということが出来ます。しかしジョン・キューザックサミュエル・L・ジャクソンといった出演者の共演は見所ですが、物語は少々中だるみ感があるのは拭えません。一般的なゾンビ・ストーリーと一線を画しているのはセルの異様な集団行動にあるのですが、謎が謎のままほっぽり出されているので消化不良気味で、ゾンビ物定番の「本当に怖いのは人間」という部分が抜けているのでドラマ性に欠けるんです。「なんだかわからない」というのも面白みの一つではありますが、全体的にちょっとだらだらしすぎちゃったかなあ。

それにしてもこの物語、単なる駄ジャレでできたものであるのと同時に、原作者キングの「携帯でゴチャゴチャ喋りながらタラタラ歩きやがってよう」という苛立ちへの復讐でもあるような気がします。「道端で携帯で喋ってるヤツはみんなゾンビみたいなもんだ!そして蟻みたいな虫ケラ程度の知能指数しかないんだ!」というキングの悪意に塗れた妄念がこの作品を書かせたような気がします。もちろんこれはオレの想像にしか過ぎませんが、意外とキングってそんな小物臭溢れる怒りで畢生の大作を書き上げてしまうような異能の作家であると思っています。『セル』の原作自体はチャッチャと書いたような乱暴な小説ですが、その分ストレートで面白かったですね。↓の書影は旧版のもので、映画日本公開に合わせて新版が出るそうなので読んでみたい方はそちらを待ったほうがいいのかな?ちなみにオレの小説のほうの感想はこちらで。

セル(上)(下) / スティーヴン・キング - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

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セル〈上〉 (新潮文庫)

セル〈上〉 (新潮文庫)

セル 下巻 (新潮文庫 キ 3-57)

セル 下巻 (新潮文庫 キ 3-57)

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20170125(Wed)

[][]グル・ダット監督/主演作2作『Mr & Mrs '55 (55年夫婦)』『Sahib Bibi Aur Ghulam (旦那様と奥様と召使い)』 グル・ダット監督/主演作2作『Mr & Mrs '55 (55年夫婦)』『Sahib Bibi Aur Ghulam (旦那様と奥様と召使い)』を含むブックマーク グル・ダット監督/主演作2作『Mr & Mrs '55 (55年夫婦)』『Sahib Bibi Aur Ghulam (旦那様と奥様と召使い)』のブックマークコメント

偽装結婚の顛末〜映画『Mr & Mrs '55(55年夫婦)』(監督:グル・ダット 1955年インド映画)

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懊悩と憂愁が売りの(?)グル・ダットは実はコメディ作品も撮っていたらしい。1955年に公開されたこの『Mr & Mrs '55』は偽装結婚を巡る男女のすれ違いを描いたロマンチック・コメディということになる。

物語は両親を亡くしたアニタ(マドゥバーラー)が父の遺言状を受け取ったことが発端となる。それには「20歳の誕生日から一か月以内に結婚せねば遺産相続は無効となる」といった旨が書かれていた。これを読んだ女権運動家の叔母(ラリター・パワール)は「結婚なんて女を縛るだけの遅れた習慣!でも遺産は受け取りたいから、適当な男と結婚させてすぐ別れればいい!」と計略を練り、売れない漫画家のプリータム(グル・ダット)を雇う。しかしアニタとプリータムは既に一度出会っており、お互い気を惹かれるものを感じていたのだった。さて偽装結婚の顛末やいかに?というもの。

物語は1955年にインドで成立した「離婚法」を風刺したものなのらしい。だから「55年のミスターとミセス」という変なタイトルだというわけだ。逆に言うなら、それまでインドでは離婚自体が難しかったということなのだろう。離婚はしないならしないほうがいいのだが、そこは男女の仲、止むに止まれぬ事情というのは幾らでもあるし、さらにインドなら古い因習で特に女性の人権ががんじがらめになっていたということは十分あったのだろうから、これはこれで近代国家インドとして当然の新立法である筈だ。しかしそこに見てくれからネガティヴに感じさせるオバン臭い女権運動家を絡め、その離婚法を茶化そうというのだからどうにも志が低い物語に思えてしまう。

ただしそういった背景を無視するなら、「結婚したくない女性が遺産目当てに偽装結婚」という設定は十分にアリではある。そしてその偽装結婚から真の愛が芽生えてしまう、という流れも悪くはない。だがこの物語は、「わあわあ騒ぐけれど結局女が幸福になるには結婚しかない」という落とし所にしかなっていない部分にやはり時代の古臭さを覚えてしまう。いや、愛と結婚が一番でもいい。でもそれを女にだけ押し付けて、男の側がそれみたことかとしたり顔をしているのがどうも気に食わない。

実の所、愛があったにもかかわらず偽造結婚を承諾してしまったプリータムも十分に傷ついていて、そんな自分が許せず偽装結婚の承諾金として用意された金も受け取らないままアニタから身を引くのはバランスはとれているけれども、結局わあわあ騒いだのは女の側だけで、男の側はなんだか格好良く身を引いちゃうという部分に、監督グル・ダットの決して自分の手を汚そうとしない気取った態度がうかがわれるんだよな。まあナルシストだからしょうがないか。いやしょうがなくないぞオイ。

■没落貴族の憂愁〜映画『Sahib Bibi Aur Ghulam(旦那様と奥様と召使い)』(監督:アブラール・アルヴィー 1962年インド映画)

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廃墟となった屋敷の解体作業を監督する男。男にかつて栄華を誇っていたこの貴族の屋敷に召使いとして従事していた。貴族はなぜ没落したのか。

インド映画黄金期の巨匠監督の一人、グル・ダットは最後の監督作『Kaagaz Ke Phool(紙の花)』(1952)の失敗をきっかけに監督業から遠のき、その後数作の映画作品に俳優として携わった後1964年に39歳の若さで命を絶つ。1962年に公開されたこのモノクロ作品『Sahib Bibi Aur Ghulam』は晩年のグル・ダット主演作のひとつであり、監督としてアブラール・アルヴィーの名が挙がっているが、研究家によると実質グル・ダットが監督した作品なのだという。

物語は19世紀末、イギリス統治下のカルカッタが舞台となる。この地に佇む豪奢な封建地主の屋敷に、ブートナート(グル・ダット)と呼ばれる男が使用人としてやってくる。彼の目に貴族の生活は眩しく映ったが、実は主人は毎夜踊り子の館に出掛け放蕩三昧であり、その妻チョッティ(ミーナ・クマリ)は孤独に身を苛まれていた。ブートナートはそんなチョッティのよき話し相手となったが、夫の気を引くため酒に手を出したチョッティは、次第に酒に溺れてゆくようになるのだ。

この作品は一人の男の目を通して描かれたインド近代末期における貴族階級の退廃と彼らの時代の終りを描いた作品であり、いわゆる"滅びの美学"とも呼べるような腐臭漂う美と陰鬱さとが漂う物語である。ビスコンティの『山猫』、ルノワールの『大いなる幻影』とも比する作品、ということらしいが、残念ながらオレはこの両作を観ていないので何とも言えない。ただし作品全体を覆う破滅と喪失感は実にグル・ダットらしい。

こういった"貴族社会の終焉"を看取る目として登場した主人公ブートナートは、身分は低いものの勉学により身を立て貧しさを乗り越えていった男であり、黎明期の現代インドが期待する新たなインド人の象徴ということになるのだろう。没落貴族夫婦が悲劇の渦に飲み込まれてゆく一方、ブートナートはワヒーダ・レーマン演じる娘ジャバとロマンスを育んでゆくのだからどうにも対照的である。

それにしてもグル・ダット作品に何作か触れてきたが、どの作品もあたかも彼自身のナルシスティックな破滅願望を体現したかのような鬱蒼とした暗さがまとわりついており、インド映画巨匠と呼ばれるのは知ってはいても、どうもあまり好きになれないし持ち上げたくないのも確かである。なんかスカッとしない奴なんだよなあグルちゃんってば。

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20170123(Mon)

[][]巨匠グル・ダット監督作『紙の花』はグル・ダット版『Devdas』だったのではないか 巨匠グル・ダット監督作『紙の花』はグル・ダット版『Devdas』だったのではないかを含むブックマーク 巨匠グル・ダット監督作『紙の花』はグル・ダット版『Devdas』だったのではないかのブックマークコメント

■紙の花 (監督:グル・ダット 1959年インド映画)

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『紙の花』は妻子ある映画監督が主演女優との不倫を疑われたことで転落するというメロドラマである。監督・主演を50年代ヒンディー映画界の巨匠と呼ばれるグル・ダットがつとめるが、この作品は彼の最後の監督作品ともなっている。ヒロインは数多くのグル・ダット映画に出演しているワヒーダー・ラフマーン。

《物語》主人公スレーシュ(グル・ダット)は人気映画監督だったが、私生活では離婚した妻と娘の親権を巡り心を悩ませていた。彼はある日雨宿りした時にシャンティ(ワヒーダー・ラフマーン)という女性と知り合い、彼女を自作の主演女優として抜擢する。シャンティは一躍スターとなるが、事故で怪我をしたスレーシュの看病に一晩付き添ったことを不倫と疑われスキャンダルとなる。しかしシャンティがスレーシュに思いを募らせていたのは確かであり、スレーシュもそんな彼女の気持ちを知ってはいた。だがそのスキャンダルからスレーシュには階段を転げ落ちるように不運が続く。親権は元妻に奪われ、新作映画は大不評で、映画会社からはクビを言い渡される。破滅したスレーシュは世間から身を隠し酒に溺れてゆく。

物語はひどく個人的であるのと同時に内省的だ。主人公は常に無口で繊細であり傷つきやすい。これはこの物語が監督であり主演であるグル・ダットの個人的な内面へと肉薄した内容だからだろう。言ってみれば『紙の花』はグル・ダットの私小説的な映画なのだ。そこには映画の世界に身を置く彼の恐れと願望が交差している。それはひどくナルシスティックなものであるが、美しく描かれた映像にはそれへの自負さえ感じさせる。そしてこの作品はこの後の彼の運命すら予見した物語となっている。映画ヒロインのワヒーダー・ラフマーンとは実際に不倫関係にあったらしく、さらにそれまで巨匠と謳われてきた彼はこの作品において興行的に失敗し、監督を廃業したままその後数作の映画作品を主演・製作した後、1964年、39歳の若さで自死している。

この作品は一人の男の破滅を描いたものだが、その破滅の予感は冒頭彼の撮っていた作品があの『Devdas』である部分で既に暗示されている。叶わぬ愛に引き裂かれ、酒に溺れて自滅するデーブダースは、そのまま主人公スレーシュの運命と重なるのだ。同時に、『Devdas』に登場する愛しい人パロと娼婦のチャンドラムキーという二人の女は、この作品における主人公スレーシュの愛しい娘と、新人女優シャンティとに重なることになる。この作品は「不倫によって破滅した映画監督の物語」と紹介されがちなのだが、自分は実際には「不倫未満」としか見えなかったことを考えると、主人公の心を直接的に引き裂いたのは実は「結婚を認められなかった愛しい人パロ=親権を認められなかった愛しい娘」だったのではないか。そうすると新人女優シャンティは娼婦のチャンドラムキーであり、それは「たまさか主人公の心の慰めではあったが決して運命を変えることのできなかった女」ということになるのではないか。主人公スレーシュはシャンティの愛を知りつつそれを頑なに拒んでいたのだが、この作品がこういった構造であるとすると理解できる行動なのではないか。

この作品はあたかも監督グル・ダットの未来を予見したもののように見えてしまうが、当時圧倒的に支持されていたという彼が自らの破滅を本当に予知していた筈もなく、むしろこの作品が『Devdas』との二重構造になっているが故の破滅の物語として観るのが正しいのではないか。とはいえ、そもそもの原作が人気小説であり、『紙の花』完成前の1955年の段階ですら3度も映画化されていたという『Devdas』の主人公に自らの分身とも言える監督業の男を重ね合わせるというこの物語、実はグル・ダットのナルシシズムが大いに炸裂した作品だったともいえないか。破滅願望に満ちた主人公の姿は彼のナルシシズムを耽美に刺激したのだろう。グル・ダットはその透徹した映画技法により「インドのオーソン・ウェルズ」とまで評されているらしいが、作品内にそのオーソン・ウェルズのポスターを持ってくる部分でまたしても彼のナルシシズムを感じてしまう。

とはいえ、だからこそと言うべきか、この作品は、グル・ダットのナルシシズムの裏付けとなる美意識が画面の隅々、物語の隅々を席巻するひたすら美しい作品になっていることは否定しようがない。「インド映画初のシネマスコープ作品」という部分にもこの作品への多大な意気込みを感じるし、相当の自負を持って世に送りだした作品だったのだろう。オレ自身はグル・ダット作品といえばもう一つの代表作『渇き』しか観ていないのだが、この『紙の花』のほうにはるかに感銘を受けた。それは自らの分身とも言える男を主人公とすることで、グル・ダット本人の内面をどこまでもさらけ出した作品となっているからなのだろうと思う。それは彼自身の弱さ、世界への居心地の悪さをあからさまに描いていることであり、同時にそれらを芸術的に描くことのできる資質を高らかに謳歌しているからだ。そんな己の内面全てをさらけ出した作品が大コケしたらそりゃまあ立ち直れんわな…とは思うが、もちろんこれは作品の完成度の問題では全く無く、この作品と当時の観客の嗜好が運悪く噛み合わなかったゆえの不幸としかいいようがないのだろう。

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紙の花 [DVD]

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20170120(Fri)

[]凸凹探偵コンビとやんちゃな美少女が巨悪を追いつめる!〜映画『ナイス・ガイズ!』 + 同監督作『キスキス、バンバン』 凸凹探偵コンビとやんちゃな美少女が巨悪を追いつめる!〜映画『ナイス・ガイズ!』 + 同監督作『キスキス、バンバン』を含むブックマーク 凸凹探偵コンビとやんちゃな美少女が巨悪を追いつめる!〜映画『ナイス・ガイズ!』 + 同監督作『キスキス、バンバン』のブックマークコメント

■ナイスガイズ! (監督:シェーン・ブラック 2016年アメリカ映画)

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〇2017年日本公開予定の『ナイスガイズ!』をフライング視聴

70年代L.A.を舞台にヘタレな酔っぱらい探偵と喧嘩っ早いコワモテ示談屋の凸凹コンビが巨悪を追いつめる!というバディムービー、『ナイスガイズ!』を観ました。これ、2月に日本公開予定なんですが、そんなことも知らずに輸入Blu-rayで視聴しちゃったんですね。でもメチャクチャ面白かったから日本公開されたら劇場でもう一回観よう!というわけでここではざっくりとこの作品の魅力を紹介したいと思います。

・魅力その1:70年代L.A.のレトロポップな雰囲気

まず舞台となる70年代L.A.。映画で登場するファッションはL.A.ならではのドリーミンな雰囲気が漂っています。しかしこの時代のアメリカはベトナム戦争やウォーターゲート事件、石油危機とアメリカ経済の停滞など、あまり色よい世相ではありませんでした。さらに公民権運動をはじめとする60年代の動乱がいまだ暗さを引き摺っていたんですね。
そこから抜け出そうとする奇妙な明るさと、しこりのように残る暗さのその陰影が、ニューエイジ、ドラッグ、ポルノ解禁といった形でこの映画にも現れていました。また、70年代L.A.を舞台とした探偵物語としてポール・トーマス・アンダーソン監督による映画『インヒアレント・ヴァイス』(2014)ともどこか繋がっているように感じましたね。

・魅力その2:酔っぱらい探偵とコワモテ示談屋の凸凹コンビ

そして登場人物。まずシングルファーザーの酔っぱらい探偵マーチ。ヘタレです。負け犬です。何やらせてもダメなポンコツです。そして大抵酔っぱらっています。こんなヤツが事件を解決できるのかよ!?と思っちゃいますが、このヘタレでダメな男が一念発起して事件を解決しようとアタフタするところが面白いんですね。そしてヘタレでダメ男だからこそなんだか応援しちゃいたくなるんですよ。こんな男をライアン・ゴズリングが演じていて、これが実にハマリ役!
もう一人はいつも苦虫噛み潰したようなコワイ顔をして、口より先に手が出ちゃう暴力野郎ジャクソン。演ずるはラッセル・クロウ。示談屋という商売も暴力の臭いがプンプンしますよねえ。ジャクソンはあることからマーチと知り合いますが、出会いの最初はやっぱりゲンコツ!ひでえヤツだなあ!二人は事件を追うため不承不承コンビを組みますが、こんなに釣り合わない同士は見たことないというぐらいギクシャクしてるんです。でも一緒に行動しているうちにお互いの足りない部分を補い合いながら事態を収めてゆくという部分がいいんですね。

・魅力その3:凸凹コンビの手綱を握るやんちゃな美少女登場

でもそれだけだとよくある「凸凹コンビのバディームービー」でしかないんですよ。しかしこの映画では、一人の美少女が登場して凸凹コンビの手綱を握っちゃうんです!その女の子の名はホリー、実は探偵マーチの愛娘なんですね。最初はシングルファーザーという設定の為に出て来る脇役かな、と思わせておいて、どんどん親父であるマーチのやることに口を出してゆき、仕舞いにはなし崩し的に事件捜査の相棒の一人になってしまうんですね。親父が役立たずだから業を煮やしてしまったんだろうなあ……。
ホリーちゃんは「小さな女の子」であることから敵を油断させて凸凹コンビに協力しますが、同時に「小さな女の子」だからこそ危機にも至ってしまいます。これによりより一層物語がサスペンスフルに盛り上がってゆくんですね!そしてこのホリーちゃん、なにしろ可愛い!オレは『タクシー・ドライバー』出演時のジョディー・フォスターを思い出しちゃいました。演じるのはアンガーリー・ライス、『ファイナル・アワーズ』(2013)や『ウォーキングwithダイナソー』(2013)なんて出演作があるようですが、2017年公開予定の『スパイダーマン:ホームカミング』にも出演しており、これからが楽しみな女優さんですね。

・魅力その4:思いもよらぬ展開を見せる意表を突くシナリオ

舞台と演者が揃い、そして物語です。最初は失踪人探しだった筈の捜査が、ポルノ・フィルムにまつわる連続死へと繋がってゆき、仕舞いには凶悪な殺し屋の登場する緊張感に満ちた大アクションへと発展してゆくんです。しかしこの映画はただそれだけではなく、物語が所々で妙な方向へ転がり始め、「それってありかよ!?」という唖然とする展開や、「そりゃありえねーぞ!?」という無茶な展開を見せつけてゆくんです。それもこれもマーチがこじらせ過ぎのヘタレで、ジャクソンが単細胞な暴力野郎だからということもあるんですが、それだけではない、「狙った」としか思えない絶妙な強引さや呆気の無さがプロットに盛り込まれているんですね。この「思いもよらなさ」がこの物語を一層面白くしてゆくんですよ。
監督のシェーン・ブラックは『リーサル・ウェポン』シリーズや『ラスト・アクション・ヒーロー』(1993)、『ロング・キス・グッドナイト』(1993)のシナリオを手掛けたこともある才人ですから、その才能を活かしまくった今回のシナリオということなんでしょうね。さらに監督としては『キスキス,バンバン』(2005)、『アイアンマン3』(2013)を手掛けており、特に『アイアンマン3』の大ヒットぶりを見ると演出にも才を見出したということが出来るでしょう。物語展開もそうですが、会話も楽しいんだよなあ。

という訳で舞台よし俳優よしシナリオよしの映画『ナイス・ガイズ!』、日本公開が待ち遠しい1作です。

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NICE GUYS

NICE GUYS

■キスキス、バンバン (監督:シェーン・ブラック 2005年アメリカ映画)

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『ナイス・ガイズ!』がとても面白かったので、同じシェーン・ブラック監督による2005年アメリカ公開映画『キスキス、バンバン』も観てしまいました。するとこれまたL.A.を舞台にした『ナイス・ガイズ!』とよく似た構成のバディムービーだったんで実に興味深かったですね。『ナイス・ガイズ!』と『キスキス、バンバン』の共通項はこんな感じ。

・L.A.が舞台。

・凸凹探偵コンビによるバディムービー。そこにさらに女性が加わってくる。

・主人公たちにはどこか負け犬の匂いが染みついている。

・人探しだった事件が巨大な陰謀へと繋がってゆく。

・思いもよらない絶妙なプロット。

こうなるともはや『キスキス、バンバン』は『ナイス・ガイズ!』の作品的双子と言ってもいいでしょう。『ナイス・ガイズ!』は『キスキス、バンバン』の豪華版とも言えるし、『キスキス、バンバン』の発展形が『ナイス・ガイズ!』だと言えるかもしれません。だからどちらかの作品だけを観られて気にいった方は是非もう片方もご覧になるといいと思います。

主人公は元コソ泥の俳優の卵ハリー(ロバート・ダウニーJr.)と周囲からゲイ呼ばわりされてる私立探偵ベリー(ヴァル・キルマー)。そこにハリーの幼馴染で鳴かず飛ばずの女優ハーモニー(ミシェル・モナハン)が絡み、単純な人探しだった筈の事件がL.A.の闇に蠢く陰謀へと繋がってしまう、という物語になっています。しかし単なるサスペンス作品としての面白さだけではなく、生き生きとしたキャラクターと彼らのふざけた会話の応酬とが非常に楽しい作品となっているんですよ。もちろん唖然とするようなとんでもない事態が突然持ちあがるのも『ナイス・ガイズ!』っぽい!

ここでも俳優陣がいい。まず『アイアンマン』でブレイクする以前のロバート・ダウニーJr.が実に若々しく、マヌケだけどもどこか純な男を好演します。対するヴァル・キルマーは鷹揚ながら癖のあるゲイ探偵を貫録たっぷり(体格も含め)に演じていました。そしてミシェル・モナハン。映画を観ながら「え、なにこの美人!?」と心ときめかせまくっていたんですが、調べると結構彼女の出演作観ていたにもかかわらずそれほど印象に残っていなかったみたいなんですね。つまりそれだけこの作品での役どころを魅力いっぱいに演じていたということなんでしょう。そしてこの作品でも『ナイスガイズ!』同様凸凹探偵コンビにミシェル・モナハン演じるハーモニーの役割が重要性を持っているんです。

そして主人公の子供時代から描かれる人物設定の妙でしょう。ハリーは子供の頃からハーモニーに憧れていて、でも鼻も引っ掛けてもらえないまま二人はバラバラになります。そんな二人がL.A.の胡散臭い映画業界で再会してしまうんです。俳優の卵とはいえ実はつまらないコソ泥になってしまていたハリー。女優に憧れてハリウッドに来たもののたいした役も貰えず夢破れたハーモニー。人生の負け犬になってしまった二人が事件をきっかけに次第に近付いてゆき、愛という大切なものを見出してゆくんです。とはいえそこに至るまでには相当にとんでもないドタバタが繰り広げられるんですけどね。なんたってハリーの指が!さらに二人が子供時代に慣れ親しんできた「マジシャン」「探偵小説」といったキーワードが後半絶妙のタイミングで生かされ、ここでもシナリオの巧さに痺れさせられました。2005年公開で今まで全然知らなかった作品なんですがこれは良作ですね。

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20170118(Wed)

[][]家同士の対立で引き裂かれた二人〜映画『Parineeta』 家同士の対立で引き裂かれた二人〜映画『Parineeta』を含むブックマーク 家同士の対立で引き裂かれた二人〜映画『Parineeta』のブックマークコメント

■Parineeta (監督:ビマール・ロイ 1953年インド映画)

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1953年にインドで公開されたモノクロ映画『Parineeta』は、カルカッタを舞台に、愛し合う一組の男女が家同士の諍いにより引き裂かれてしまう様を描いた文芸作品である。監督は社会派で知られ、『Do Bigha Zamin』(1953)で第7回カンヌ国際映画祭国際賞を受賞したビマール・ロイ。主演にアショク・クマール、ミーナ・クマリ。原作はあの名作インド映画、『Devdas』の原作者シャラッチャンドラ・チョットッパッドヤーイによるもの。

《物語》19世紀から20世紀への変わり目にあるカルカッタ。富裕なナビン家に生まれ育ったシェーカル(アショク)は、隣家にある貧しいグルチャラン家の娘ラリター(ミーナ)と秘密の結婚を挙げていた。しかし借金を巡り二人の家同士は険悪な仲となり、遂に家の間に煉瓦塀が築かれてしまう。困ったラリターの父は古い恩人ギリン(アシット・バラン)から金を借り借金を返そうとするが、同時にギリンとラリターの結婚を勝手に決めてしまう。シェーカルはそのことを知り激しく動揺する。

実はこの作品、2005年に再び映画化されており、自分はそちらのほうを先に観ていた。主演はサイフ・アリー・カーン、ヴィディヤー・バーラン、サンジャイ・ダット。

『Devdas』原作者による一組の男女のすれ違いを描く文芸ドラマ〜映画『Parineeta』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ(監督:プラディープ・サルカール 2005年インド映画)

時代設定は20世紀中葉になっており、出演者たちの演技、そしてカラー作品ならではの美しい映像が印象的だった。それと同時に、1953年版と2005年版では同じ原作を元にしながら、テーマの中心となるところが異なるところが興味深く思えた。それは2005年版ではロマンス要素を中心にしっとりとした文芸作として完成していた部分を、この1953年版では、ビマール・ロイ監督作ということもあってか、より社会的なテーマが浮き上がったものになっているのだ。

それはシェーカルの父ナビンとその取り巻きたちの傲慢さだろう。そしてそれは自らのカーストの高さを根拠とした傲慢さなのだ。ナビンとラリターの父グルチャランは同じカーストにあったが、グルチャランが金を借りたギリンは下のカーストだった。とはいえグルチャランとギリンはカーストの垣根を越えた信頼関係にあり、家族同然の付き合いをしていた。借金にしてもラリターをギリンの結婚相手としたこともそういった信頼があったればこそだった。ナビンはそれをコミュニティを破壊する行為だと非難するが、グルチャランは逆にそんなカーストなど無意味だと言い返すのだ。困窮する相手を助ける者がいることこそ真のコミュニティであり、それはカーストなど何も関係ないことだと。

1953年版と2005年版ではどちらが原作に忠実なのかは確かめる術はないが、ビマール・ロイによる1953年版は1947年のインド独立間もない頃の製作であり、と同時にカーストによる差別撤廃の機運が高まっていた頃でもあったのだろう。そういった高い時代性がこの作品には加味されていたように思える。映画としてみると前半は二つの家を行き来するだけの映像に若干退屈したことは否めない。それとこれは個人的なことなのなのだろうが古いモノクロ映画のせいか登場人物の区別が最初付きにくくて混乱した……。

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20170116(Mon)

[][]デヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきた デヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきたを含むブックマーク デヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきたのブックマークコメント

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先日は友人とデヴィッド・ボウイ大回顧展『DAVID BOWIE is』を観に行ってきた。

この展覧会はもともと2013年に英国ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催され世界9都市を巡回していたもので、開催当時は「そのうち日本にも来そうだけどいつになったら実現するのかなあ」と首を長くして待っていたのだが、きしくもボウイが逝去した1年後に日本で開催されることとなったのだ。現地で開催された当時は「現在進行形のボウイ」をたっぷり味わうお祭りだったものが、本当に「逝ってしまったスーパースターを回顧する博覧会」になってしまった。ちなみに、展示物には2013年以降のボウイの活動に関するものも若干付け加えられている。

回顧展の観覧は2時間刻みの時間指定になっており、入場者数も限定されているようだ。混雑防止もあるのかもしれないが、実際は入り口で貸し出される受信装置付きヘッドホンの数に限りがるからだろう。このヘッドホンが独特で、展示物の前に行くと自動的にボウイ・ソングや説明を受信し、様々な来歴を知ることが出来るようになっているのだ。一般の美術展でも解説が成される装置を貸し出すことはよくあるが、それに音楽が重なってくると展示物への引き込まれ方がまた格別のものになる。会場自体にもボウイ・ソングが流されているが、これがまた有名曲が次々にミックスされたもので、あの曲かと思うとこの曲、次々に流れるボウイ・ソングの数々にあっと言う間にボウイ・ワールドに飲み込まれてしまうことになる。

展示物のメインはボウイがアルバム毎に変えていった奇抜で美しい衣装の数々になる。ボウイの衣装はアルバムと、その時演じていたキャラクターと混然一体となったものであり、衣装を見ると「あの時のアルバムの!」とファンならすぐさま分かる。ボウイほどキャリアの長いアーチストだとその数も膨大で、さらに演じたキャラクターも多岐に渡るので、衣装の変遷からボウイの変遷を見て取ることが出来るのだ。そしてやはり初期の頃、ジギー・スターダスト時代の衣装をじかに見ることが出来るというのはオレのようなファンにとって万感の思いなのだ。さらにそちこちで流される当時のライブ映像や記録映像の数々は、今まで観たことの無かったものが多く、オレは展示が始まって割合すぐの場所にあった「スターマン」の展示で既にウルウルしてしまったほどだ。

衣装の奇抜さということであればジギー・スターダスト時代なのだろうが、個人的に最も思い入れの深いボウイ・アルバムは『ステイション・トゥ・ステイション』であり、その時のキャラ「シン・ホワイト・デューク」の、白シャツに黒ベスト&パンツの衣装を観た時には陶然となってしまった。どの衣装もそうだが、「ボウイが、これを着てステージに立っていたんだ」と思うと胸が熱くなって堪らない。それは単なるステージ衣装なのではなく、その時々のボウイ世界の一端を象徴したものでもあるからだ。そんな衣装とは別に、ボウイが書いた歌詞の肉筆原稿がまた心ときめく。衣装はボウイ世界の外面だが、肉筆原稿にはその曲を作った時のボウイの魂そのものが籠っているからだ。それと『ヒーローズ』製作に使用したとされるシンセサイザーの展示もこれまた興奮した。

以前から感じていたが、ボウイは、物凄く王道であったり、本質を究極まで突き詰めた何かを表現する人と言うよりは、何かそこから外れた、ある意味「変な事」「変わった事」をとことんやっていた人で、その「変な事」の視点を力技で周囲に認知させてしまった人なのではないかと思っている。常にアバンギャルドであることを由としていながら、凡百の輩のようにそこに安住せず、それをポップ・スターのアイコンにすり替えてしまうのが巧みな人だったのだろうと思う。自分は、10代からボウイ・ファンではあったけれども、これは決してメイン・ストリームなロック・ミュージックではないのだろうな、とはいつも感じていて、そんなアーチストが実は世界中で敬愛され様々な人々に影響を与えていたことにかえって驚いたぐらいだった。ボウイは、先端的なアーチストであったというよりも、「変な事や変わった事をやっていたって全然構わないんだよ、そして実はそれが一番カッコイイことなんだよ、なぜなら、僕を見なよ!」ということを、ボウイ・ソングを聴くファンの胸に役付けた人だったのだろう。ボウイがこうして愛されるのは、そんな部分にもあったのではないかな、と改めて思った回顧展だった。

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20170113(Fri)

[]あれこれCATVドラマ観た〜『ハップとレナード』『ゲーム・オブ・スローンズ 第六章』『死霊のはらわた リターンズ』 あれこれCATVドラマ観た〜『ハップとレナード』『ゲーム・オブ・スローンズ 第六章』『死霊のはらわた リターンズ』を含むブックマーク あれこれCATVドラマ観た〜『ハップとレナード』『ゲーム・オブ・スローンズ 第六章』『死霊のはらわた リターンズ』のブックマークコメント

■ハップとレナード〜危険な2人〜

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ジョー・ランズデールの長編小説「ハップとレナード」シリーズといえばオレの最高にお気に入りのクライム・ノベル・シリーズだ。80年代のアメリカ南部を舞台に、草臥れまくった白人中年男ハップと黒人ゲイ・レナードのコンビ(ただし二人はあくまでただの友人)が、南部独特のドロドロしたおぞましい事件に巻き込まれる、というのがあらかたの内容となる。原作小説はあらかた読んでいて、オレのブログで「ハップとレナードシリーズまとめ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ」としてまとめてあるから興味の湧いた方はドウゾ。

さてその「ハップとレナード」シリーズがドラマ化されたというからオレは居ても立ってもいられなくなったのである。しかもDVDやBlu-rayの発売ではなく、Amazonオリジナル作品であり、Amazonビデオのみで視聴可能なのだ。そんななので思い切ってAmazonプライムに加入し、遂にこの『ハップとレナード〜危険な2人〜』を観ることが出来たという訳である。しかもこの物語、シリーズで唯一翻訳書籍化されていない第1作『Savage Season』のドラマ化というではないか(実はここに全訳がある)。これはさらに楽しみだ。

物語は仕事(しょぼいバラ農園)を失い八方ふさがりになっていたダメ男ハップの元にかつての妻(なんでだか超グラマー)が現れ、危険な仕事を依頼する、というもの。ハップはうんざりしまくっているレナードの助けを借り、その仕事を請け負うが、その果てには裏切りと死の罠が待ち構えていたのだ。冒頭こそなにやら怪しげに始まるお話だが、これが後半、血で血を洗う冷徹かつ残虐な展開へとどんどんなだれ込んでゆくのが素晴らしくいい。ハップとレナードが関わったのは60年代ヒッピーカルチャーの末裔みたいな連中で、こいつらのダメさ加減がまた味わい深い。そう、この物語にはハップとレナードを含め負け犬しか出て来ないのだ。そこがまたいい。負け犬同士で潰し合い、そこにさらに理解不能の狂人が登場する。これはもはや地獄の有様だ。

とはいえ、この物語はクライム・ストーリーを語るだけで終わっていない。ハップと元妻との悲しい過去、さらにハップとレナードが出会うきっかけとなった子供時代の悲しい事件も描かれ、物語に大きな膨らみをもたらす。ハップとレナードは単なる負け犬ではない。彼らは、現実が悲しすぎるものだから、あえて負け犬であることを選んだのだ。そんな深いドラマ性が胸に響く逸品だった。続編もあるというから、いよいよシリーズ全篇が映像化されるのか。あの至高の超バイオレンス作『罪深き誘惑のマンボ』もか!?うわあ、これは物凄く楽しみだぞ!

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ハップとレナード〜危険な2人〜(字幕版)

ハップとレナード〜危険な2人〜(吹替版)

■ゲーム・オブ・スローンズ 第六章: 冬の狂風

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ジョージ・R・R・マーティンファンタジー小説氷と炎の歌』シリーズを原作としたテレビドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』も遂に第6章である。物語は中世ヨーロッパを模した世界を舞台とした剣と魔法とドラゴンの登場するファンタジーであるが、入り乱れまくった人間関係、常に小競り合いを続ける一触即発の王国派閥、そして北方から押し寄せると言われる人外の軍団の恐怖を描いたひたすら重厚な物語なのだ。そしてまたこれが観ていてどんよりしてしまう鬱展開が毎話これでもかと連打されるのである。まあこれが病みつきになる原因でもあるが。

それにしても第1章が放映された2011年から足掛け6年、第6章までで全60話、いやあ、長い長い……。しかもあまりに登場人物が多く舞台となる国々も多岐に渡り、その中で敵か味方かも判別しない陰謀術数が乱れ飛ぶので、はっきり言ってオレは物語全てを把握できていない。毎回「これは誰?ここはどこ?こいつとこいつに何の因縁があるの?」と頭に「???」をいっぱい浮かべて観ているザマなのである。

ただ基本的な大筋と言うのはあって、それは瓦解した北方王国の再建と北から来る人外の軍団との戦いの予兆であり、さらに南方に追放されたかつての覇王の娘がドラゴンを駈って王都奪還を目指す物語である。今回の第6章では第1章で描かれた様々な破綻と怨恨とがようやくぐるりと回ってこの物語がどこを目指そうとしているのか明確な輪郭を現してきたのである。それは北の氷原からやってくる者たちを表わす「氷」と、南からやってくるドラゴンの「炎」がいよいよ対峙する様になったことの予感だ。それはきっと王都を蹂躙するのだろうが、同時に北と南とが最終的に融和するであろう予兆でもある。だからこその原作タイトル『氷と炎の歌』なのだろう。

ホントここまで来るのが実に長かった。本国では第8章をもって終章とすることがアナウンスされているが、確かにこの流れだとあと2章をたっぷり使って終焉を迎えるであろうことが見えてきた。いやあ、今までも盛り上がってたけど(どんよりと)、これからのラストスパートも相当盛り上がりそうだなあ。

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死霊のはらわた リターンズ

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あのアッシュが帰ってきた!?というホラー・コメディ、『死霊のはらわた リターンズ』である。そう、かつてサム・ライミ監督により製作された伝説のグヂャグヂャドロドロ&大バカ・スプラッター・ホラー映画『死霊のはらわた』3部作の続編が、TVドラマになって戻ってきたという訳である。当然主人公はブルース・キャンベル演じるアッシュ、片手にチェーンソーを装着したニクイ奴である。そもそもこの設定で大バカである。

アッシュは30年前、きったない山小屋で『死者の書』なる悪霊召喚術の本に呪われ、まあなんというか夥しい死体を築いてきた中で生き残った男なのである。そんなアッシュが所持していた『死者の書』の呪文をうっかり詠んでしまったばっかりに、この世界に再び悪霊が召喚されてまたぞろ町は血の海死体の山さ!というのが本作になる。それにしても「うっかり」って。要するに全部アッシュのせいなのである。しかし本人はすっかりヒーロー気取りで(バカだから)、「悪霊は俺が退治する!」とはりきってるのである。やっぱりバカである。

このドラマではそんなアッシュのバカ振りと、彼と対決する悪霊のグヂャグヂャドロドロの造形、そして「これTVでやっていいのか」と思わせてしまう大量の血!血!血!が見所となるのだ。だから物語というよりもどんだけバケモノが出て人体が破壊されて床中血塗れになるのかだけをひたすら楽しむドラマとなっているのだ。そしてさらに、バカなのである。即ち、この『死霊のはらわた リターンズ』では、「楽しいことしか起こらない」のである。ああなんと素晴らしい作品であろう。続編も放送されるそうなんで超楽しみ。

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20170112(Thu)

[]最近読んだコミックあれやこれや 最近読んだコミックあれやこれやを含むブックマーク 最近読んだコミックあれやこれやのブックマークコメント

■レベレーション-啓示-(2) / 山岸涼子

レベレーション(啓示)(2) (モーニング KC)

レベレーション(啓示)(2) (モーニング KC)

山岸涼子ジャンヌ・ダルクを描く『レベレーション-啓示-』第2巻、とても楽しみにしていた。山岸はこれまで「見える筈の無い"怪"を見てしまう者の物語」を多く描いてきたが、この作品で描かれるのは「見える筈の無い"神"を見てしまう者の物語」である。ジャンヌ・ダルク物語とはいえ山岸のテーマとしては一貫しており、ここでは「神が見えてしまうことの異様さ」をクローズアップする。言ってしまうならば"神"はいないしそれゆえに見える筈はない。それが"見える"というのは"狂信"の成せる業でありそしてそれは認知心理学の領域なのだと思うが、山岸はここで解釈も批評も差し挟むことなく「見えたもの=神」をそのまま描いてしまう。その唐突さと説明の無さがなにより異様なのだ。

■JJM 女子柔道部物語(1) / 小林まこと, 恵本裕子

小林まこと、今度は"女子"柔道部物語である。小林ならではの伸び伸びとしたストーリーテリングが魅力な作品だ。ただ、この作品はアトランタオリンピック柔道女子61kg級金メダリストであり原作者でもある恵本裕子の自伝の形を採っており、小林らしい逸脱や乱調があまり期待できそうにない所は少々寂しい。

幼女戦記(1)(2) / 東条チカ

カルロ・ゼンによるWEB小説が書籍化したもののさらにコミカライズされたのがこの『幼女戦記』。おっさんが異世界に幼女として転生し第1次世界大戦然とした戦いの中に放り込まれるがこれがまた異様な策士で連戦連勝という、設定だけで全てを物語ってしまっているお話。いわゆるラノベ系列ということなのだろうが、この辺の事情には暗いので余計なことは言わないことにする。言ってしまえばどこまでもチートなお話なのだが、まあこういうのが昨今の若者にはウケるのだろうな、と遠くから眺めるように読んでいた。とはいえグラフィックはよく描けているし、戦記物データパンパンの原作もこれはこれで悪く無いだろう。

■わたしの日々 / 水木しげる

晩年の水木しげるが老年期の徒然なる日々と遠い日の思い出とを描く自伝コミックだが、まず形態が一話4ページのオールカーラーである、という部分が特筆すべき点だろう。そしてその4ページの中に水木ならではの驚くべき精緻な筆致で描かれた風景が見開きで描かれ、これが水木ファンのオレですら見入ってしまうほどに素晴らしいのだ。水木自伝はあちこちで読んでいるがこの作品はまた別個の味わいを持っている。さらに何篇かでは若き日の水木が描いたスケッチや漫画絵が挟まれ、これがまた実に素晴らしい。ちなみにこの作品は水木の遺作にあたるのらしい。

■私はゲゲゲ 神秘家水木しげる伝 / 水木しげる

これもまた水木の自伝。水木自伝は数あるが、これは幼少時から比較的晩年近くまでをサクッと単行本一冊分の分量でまとめてあり、これはこれでコンパクトで読み易い。そして、数々の水木自伝で知っている筈のこと以外も盛り込まれており、やはり驚かされるのだ。

■神秘家列伝(4) / 水木しげる

神秘家列伝 其ノ四 (角川文庫)

神秘家列伝 其ノ四 (角川文庫)

オカルティスト、宗教家、作家など、古今東西の"神秘家"を水木独自の切り口で描く『神秘家列伝』だが、実は随分前に3巻まで読んでおり、これで完結だと思っていたらなんと4巻まであったことを最近知り慌てて買い足した。この『神秘家列伝』は水木のオカルティズムへの深い造詣が描かれ、代表作の一つとってもいいほど完成度が高く、これは是非万人に読んで貰いたいなと思う。

20170111(Wed)

[][]出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』 出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』を含むブックマーク 出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人情〜映画『Do Bigha Zamin』のブックマークコメント

■Do Bigha Zamin (監督:ビマール・ロイ 1953年インド映画)

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映画『Do Bigha Zamin』は困窮のためカルカッタ(現コルカタ)に出稼ぎに出た農夫とその息子が出会う様々な労苦と人間関係を描くドラマである。インド公開は1953年、モノクロ作品。タイトルの意味は『2エーカーの土地』。監督はベンガル語映画監督であるビマール・ロイ、主演はバルラージ・サーヘニー、ニルパ・ロイ(『Deewar(1975)』でアミターブの母親役)。この作品はイタリアのネオリアリズモ運動に触発された社会派作品であり、1954年に第7回カンヌ国際映画祭の国際賞を受賞している。

物語はベンガルの農村から始まる。農夫のシャンブー(バルラージ・サーヘニー)は病弱な父と妻パロ(ニルパ・ロイ)、息子のカンヘイヤ(ラタン・クマール)の4人暮らしだったが、地主からの悪辣な借金取り立てで農地を失う瀬戸際だった。シャンブーは借金を返すため大都会であるカルカッタへ出稼ぎに行くが、この時息子カンヘイヤがこっそりと列車に同乗してシャンブーを慌てさせた。カルカッタに付くも仕事も住むところもなく、あまつさえ荷物さえ盗まれ困り果てていたシャンブー親子だったが、彼らを救ったのが靴磨きの少年ラルと長屋の女将ラニだった。ラニから部屋を借りたシャンブーは人力車の仕事を、カンヘイヤは靴磨きの仕事を始め、少しずつ金を貯めて行った。しかしある日シャンブーは事故を起こし仕事に出られなくなってしまう。

映画『Do Bigha Zamin』は1953年の公開作品となる。ざっと時代背景を調べてみるなら、まず舞台となるカルカッタは1947年のインド独立後に西ベンガル州の州都となった都市だ。だが「この分離独立の際、イスラム教徒の多い東パキスタンからヒンドゥー教徒の難民が多数カルカッタへと流れ込み、600万人ともいわれるベンガル難民の多くがカルカッタ郊外や空地へと定住した*1」のだという。当時のカルカッタにはこの映画の主人公のように困窮した地方農民で溢れかえっていたのに違いない。カルカッタ自体もこの難民問題と社会不安、分離独立による地勢的な支障から経済的な衰退状況にあったのらしい。いわんや農地の窮状はそれどころではなかっただろう。

そんな困難な状況から始まる物語ではあるけれども、都会に出たシャンブー親子を迎えるのは決して辛苦ばかりではない。置き引きに荷物を奪われ困り果てた二人を助けたのは浮浪児の少年だし、金の無い二人に後払いでいいからと住居を提供するのもスラム街の女将なのだ。そして二人にそれぞれの仕事を世話するのもやはりスラムの人たちだ。ここには貧しい者同士のネットワークと互助精神があり、日本で言うなら「世話焼き長屋の人情話」といったところだろう。また、父親恋しさにこっそりついてきた少年も、最初は足手まといと思わせながら、実は彼がいるからこそ父親が助けられるといった展開を見せる。観ているこちらも最初はこの親子、どうなってしまうんだろうとはらはらしていたが、次第にほっこりさせられるのだ。

こんな感じで「貧しさの中の助け合い」を描き人の情けの美しさを謳い上げるこの作品、このまま理想主義的なお話で終わるのだろうか、となんとなく安心でもあり物足りなくもありつつ観ていたら、なんと最後の最後で大波乱が訪れる。そもそもこんな不幸な状況は当時でも幾らでも転がっていたんだろうとは思うが、ここまで理想主義的に進んできた物語のクライマックスに、こんなとって付けたようなリアリズムを持ってこられるので少々面喰ったのは確かだ。ただこう考えてはどうだろう。ラストに用意された悲惨なリアリズムは、遅かれ早かれ彼ら家族を襲ったのだろう。そして残念ながらこれが当時の現実だったのだろう。ただ、それでも、その過程で彼らは貧しさの中の人情を体験したのだと。あの一見過酷なラストの後でも、この家族は再び希望を見出し石に齧り付いても生き抜こうとするだろうと。

余談。この作品はラージ・カプール監督主演によるインド映画の歴史的名作『Awaara』のすぐ後に観た作品だったのだが、作中、少年たちが当時大流行していたのであろう『Awaara』の歌を歌い始めたのにはちょっとしたシンクロニシティーを感じてしまった。『Awaara』は1951年作なのでこの作品とはそれほど公開年数が離れていないのだ。

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20170110(Tue)

[][]『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の原型ともなった輪廻転生物語〜映画『Madhumati』 『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の原型ともなった輪廻転生物語〜映画『Madhumati』を含むブックマーク 『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』の原型ともなった輪廻転生物語〜映画『Madhumati』のブックマークコメント

■Madhumati (監督:ビマール・ロイ 1958年インド映画)

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物語は嵐の夜、倒木によって立ち往生してしまった車の様子から描かれる。車に乗っていた男たちはとりあえず近くにあった古い邸宅に避難する。廃屋となった誰もいないその邸宅で、物語の主人公となる男デヴェンドラ(ディリップ・クマール)はある肖像画を目にして驚愕する。それは、彼自身を描いた肖像画だったのだ。そして彼は、これまで記憶に無かったはずのある事件を思い出す。そしてそれは、男の前世の記憶だったのだ。

1958年にインドで公開されたモノクロ映画『Madhumati』は、こんな、まるでホラー映画のようなオープニングを迎える。そしてそこから描かれるのは、悲痛な愛に彩られた世にも奇妙な物語なのだ。監督は映画『Do Bigha Zamin』(1953)で世界的に有名なインドの社会派、ビマール・ロイ。主演のディリップ・クマールは歴史大作『Mughal-e-Azam』(1960)でムガル帝国皇子を演じた男優だ。ヒロインに『Sangam』(1964)、『Jewel Thief』(1967)のヴァイジャインティマーラー

男は、前世においてアナンド(ディリップ・クマール)という名だった。彼は西ベンガルのシャイアムナガー木材地所に新たな管理者として訪れ、そこで地元の娘マドゥマティ(ヴァイジャインティマーラー)と出会い恋をする。一方、アナンドの雇用者であり地元の君主ウグラ(プラン)もまた、地所を歌い歩くマドゥマティに魅せられていた。ウグラは奸計を巡らしマドゥマティを屋敷へとおびき寄せる。そしてその日から、マドゥマティはぱたりと姿を消してしまう。マドゥマティの身になにが起こったのかも分からず、悲痛な毎日を送るアナンドは、山を彷徨い歩いているうちに、遂にマドゥマティと出会う。しかし、それは彼女ではなく、瓜二つの顔を持ったマダヴィ(ヴァイジャインティマーラー)という女性だった。

この物語はシャー・ルク・カーン、ディーピカー・パードゥコーン主演の名作映画『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』(2007)の原案ともなった作品である。またこの『Madhumati』は、『OSO』を始めとする輪廻転生を描いた多くのインド映画作品の草分けともなった作品なのらしい(Wikipedia『Madhumati』の”Influence”の項参照)。さてここで『OSO』の原案となった作品と書いてしまうと、『Madhumati』がどういう展開を迎える作品なのか多くのインド映画ファンは分かってしまうだろう。だがしかし映画製作現場を舞台にした華々しいドラマである『OSO』と西ベンガルの美しい大自然を背景とした『Madhumati』ではやはり雰囲気が違う。モノクロ作品なのにもかかわらず、自然の描写の美しさは特筆すべきだろう。また、モノクロ映画ということもあって、『Madhumati』には暗くしっとりとしたゴシック・ノワールの雰囲気に満ちている。

だがしかし、『Madhumati』には『OSO』と違う展開を迎える部分もある。それは『OSO』は物語を"事件・転生・復讐"という直線的な時系列で描くが、『Madhumati』においては"全て過去に起こったことの記憶"として描かれている部分にある。これ以上のことは書かないが、この時系列の描き方の違いにより二つの映画の物語展開が違ってきているのだ。その為『Madhumati』と『OSO』ではクライマックスがある意味別のものとなっているのである。さらにラストはもう一ひねりしてあって、『OSO』を念頭に置いて観ているとちょっとびっくりさせられる。こういった点から、古い映画ではあるが『OSO』ファンにも是非観て貰いたい作品だといえるだろう。

さてこの作品は『OSO』原案ということ以外にも見所がある。それは監督がインド映画界で名高いビマール・ロイであるということだ。ビマール・ロイ作品はたいして観ていないので知ったことは言えないのだが、かの監督は社会派であるという思い込みが強かったため、この作品がごく大衆的な娯楽作に仕上がっていることに少々驚いた。そしてその物語性はインドの地域性のみに依存するものではなく、どんな国が舞台でも成立する部分が面白い。時代を古いものにし、因業な地主と地方役人と村娘、というキャスティングであれば、それが日本の昔話でもヨーロッパでも通用しそうではないか。つまり物語として普遍性を持っているということなのだ。

個人的には、この作品で観ていてよくわからなかった部分があった。それはマドゥマティの住む集落の人たちの民族や宗教である。まず集落に墓があったが、これはヒンドゥー教徒ではないということだろうと思う。さらになにがしかの朽ちた神像を礼拝していたが、これはヒンドゥー神に見えず、さらに偶像崇拝を禁じたイスラム教徒ではないということでもある。ひょっとして仏教徒だったのか?服装がサリーなどではなく、馴染の無いもっと違ったものであったこともそうだ。単なる自分の勘違いかもしれないのだが、彼らはインドの少数民族のひとつだったのだろうか。

20170108(Sun)

[]バイオなハザードがファイナルだっぺ!?〜映画『バイオハザード ザ・ファイナル』 バイオなハザードがファイナルだっぺ!?〜映画『バイオハザード ザ・ファイナル』を含むブックマーク バイオなハザードがファイナルだっぺ!?〜映画『バイオハザード ザ・ファイナル』のブックマークコメント

バイオハザード ザ・ファイナル (監督:ポール・W・S・アンダーソン 2016年アメリカ映画)

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あの「バイオハザード」がファイナルらしい。映画『バイオハザード ザ・ファイナル』はシリーズ6作目にして最終章となるのだ。

しかし・・・・・・ぶっちゃけ、「バイオ・シリーズ」って6作も続くほど面白かったっけか!?と思うのである。1作目は、そりゃまあオレも結構好きだった人気ゲームの映画化ということで好意的に観たけど、2作目からの突っ込みどころ満載なクオリティの低さは啞然とする領域だった。あんまり酷かったから3作目からは「笑って楽しむホラーアクション」ということにした。するとアラ不思議、「もともとしょうもない」と思えるとこのシリーズが許せるようになってきた。かといって劇場で観るほどのもんでもないなと思い5作目である前作『バイオハザードV リトリビューション』はDVDでお茶を濁したが、この5作目は意外とよく出来ていた。

さてその『ザ・ファイナル』である。映画冒頭、これまでのまとめ映像を流してくれてこれがとても親切だ。というか「あ、そういうお話だったの?」とやっと理解できたというオレである。これはバイオのせいばかりではなくオレの伸び切ったパンツのゴムのような記憶力の成せる業である。

しかし分かりやすいこれまでの粗筋の後の、廃墟をうろつく主人公アリスがいったいなにやってんのか皆目分からない。なんでうろついているのかすら分からない。ここにきて既に「バイオ節」炸裂である。すろと今度はアンブレラのAIレッドクイーンが現れて、「T-ウイルス感染者撲滅剤をアンブレラが作ったからそれを本拠地ラクーンシティ地下基地へ取りに行きやがれ。48時間以内に撲滅剤播かないと人類全部死ぬから。ゲラゲラ」とかなんとか言い腐るのである。というわけで『ザ・ファイナル』のお話が始まるというわけである。

とはいえこの設定がまず分からない。アンブレラはある陰謀からT-ウイルスをばら撒き人類を滅亡させたが、もう人類なんて殆ど残ってないんだから撲滅剤さっさと播いて地球をクリーンにしちゃえばいいだけじゃないか。播かない理由は「最後の一人まで人類を根絶やしにする」ためなのだろうが、そもそも生き残りがどこに何人いるとかどうやって分かるんだ。そして分かっていてさらにそれを壊滅させたいならさっさとぶっ殺しに行けばいいじゃないか。あと、48時間ってどこから算出された時間なんだ。オレがなにか見落としたのかもしれんが・・・・・・(たまにあるので見落としだったら失礼)。

そんなこんなでラクーンシティへ向かうアリスだが、ここで早速アンブレラ軍と遭遇、戦いも空しく拉致られるのだ。ってかさあ、この時点で「人類の生き残りは約4千人」とか言ってるけど、もう3900人ぐらいはアンブレラの兵隊なんじゃないの?人類の人材資源なんて既に枯渇しているのにアンブレラってやたら兵隊無駄使いしまくらない?4千人って「アンブレラ関係者以外で」って意味かしらん(クライマックスでその謎が明らかになるが、それにしても4千人ってどうカウントしたんだ)?で、アンブレラ軍から脱出したアリスは今度は反アンブレラ隊と共闘してラクーンシティを目指すが、反アンブレラ隊って10人ぐらいはいるんだよな。だから4千人っていったい・・・・・・。

ラクーンシティ地下基地に着いたら着いたでアンブレラの熾烈なトラップがアリスらを襲うんだけども、トラップ仕掛ける暇あるんならさっさと生き残り掃討作戦展開して根絶やしにしとけばいいじゃんよう。どうせ人類なんてもう4千人ぐらいしかいないんだからよう。とはいえ、このトラップに次ぐトラップがこの映画の面白さといえば面白さでもあり、なにしろ「ゲームPV映画」だからその辺割り切って観ると楽しいともいえる。その後も色々あるが細々書くと突っ込みだらけになるからこの辺で止める。

それにしても今回の『ザ・ファイナル』、画面が暗すぎる。屋外では茶色いフィルター掛けたくすんだ色だし、屋内は暗くてなにがなにやらわからない。これまでいかにもセット撮影でございといわんばかりの薄っぺらい色調の画像で、見るからになにもかも見た目が安っぽかったんだが、その反省なのだろうか。ポール・W・S・アンダーソンはちょっとか映画監督みたいなことをしたかったのだろうか。その結果がこの画像の暗さというのも芸のなさを露呈しているけど。

とまあグダグダ書いたが、それでもこの映画、ファイナルということで一応物語をきちんと畳もうとしている努力の跡は見られる。ああこれはこういうことだったのね、と理解のできるお話になっているのである。やれば出来る子じゃんアンダーソン監督。まあうまく誤魔化しただけのような気もするが。そもそも「バイオ・シリーズ」は「見せ場だけ繋いで物語は全然空っぽ、整合性はお座成り」「派手なアクション見せたいばかりにリアリティは皆無」という映画というものなんだが、逆に「ゲームを補完するイメージ映像集」と割り切って観ると、その派手さと馬鹿馬鹿しさはそれほど悪いもんでもない。要するに「ゲームPV」であって「映画」でもなんでもないのだ。全ての設定が破綻しているのに無理やり1本の映画として成り立たせようとしているあの厚顔無恥な開き直りっぷりがいいとも言える。

というかアンダーソン監督、『イベント・ホライゾン』とか『デス・レース』とか意外といい作品も撮っていて、『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』も結構好きな作品だったりするし、「バイオ・シリーズ」はどれも高い興行成績上げており、ホントはバカにしちゃいけない監督なのである。だからこのシリーズの妙にしょうもなく感じる部分というのは、実は監督が割りと私的に自由に楽しみながら作ってから(嫁が主役だし)、という部分があったからなのかもしれない。そういうわけで『バイオハザード ザ・ファイナル』でした。

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20170106(Fri)

[]お正月恒例・伊豆シャボテン公園カピバラ詣で 2017 お正月恒例・伊豆シャボテン公園カピバラ詣で 2017を含むブックマーク お正月恒例・伊豆シャボテン公園カピバラ詣で 2017のブックマークコメント

正月は毎年恒例で伊豆シャボテン公園カピバラを詣でに行くことが我が家のしきたりとなっているのである。今年一年、カピバラのようにぬぬーん、ぬぼーんとして過ごしたい、そのような平和な一年でありたい、そういった願いを込めてカピバラ詣でに赴くわけなのである。

さていつものように思いつきで適当な事を書いている暇もあらばこそ、そのカピバラ詣でである。カピバラ詣での楽しみの一つは朝から踊り子号の指定席に乗って駅弁を食べることである。まあ崎陽軒の弁当は駅弁という訳ではないが、電車で小旅行なら駅弁はガチだろ!?旅情だろ!?キャサリン・ヘップバーンだろ!?とオレは思うのである。というわけでその崎陽軒のお弁当。いつも美味い。

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踊り子号で伊東に着いたら次はバスに乗って伊豆シャボテン公園へ。到着した頃には既に名物「カピバラ露天風呂」が執り行われており、伊豆シャボはそこだけ黒山の人だかりの熱気に包まれておった!

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すっかりぬくぬく極楽気分のカピの皆さん!

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ちなみに柚子……というか柑橘系の湯ではあるが、カピの皆さんはこれらは決して食べません。主に葉っぱ食べます。

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さてまだ11時過ぎだったがレストランが混む前に腹ごしらえ。もちろん注文するのは「カピバラカレー」!

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伊豆シャボから見える富士山はとても綺麗。

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シャボテン公園ちゅうぐらいだからサボテンも見もの!なんだかどのサボテンも異星生物みたいで異様な形をしていて凄い(正確にはサボテンではなく多肉植物系もアリ)!これ結構凄いから是非観にいってみるといい。

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幻想的なサボテンライト。

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さてカピさんのいる別の場所、「虹の広場」へ。生まれたばかりの仔カピと温まる母さんカピがとっても優しそうな表情を浮かべてる。

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そしてやんちゃなカピたちの「ご飯ちょうだい」攻勢!

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パクリ。ちなみにこの「虹の広場」ではこんなふうにカピにご飯(葉っぱ)あげたり触れ合えたりできます。

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もう一か所、お堀の辺りにももう一頭カピがいてここでもご飯のおねだり攻撃!

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再び「虹の広場」に戻るとお腹いっぱいになったカピが「ぬーん……」としておった。

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そろそろ日も暮れ寒くなってきたのでお部屋に戻りたいカピとまだまだご飯の欲しいカピ。さあてオレらもそろそろ帰りますか。

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帰りのバスは特急便で思いのほか早く伊東駅に着いた!そしてスーパービュー踊り子号に乗って帰りの道へ。カピさんたちまた会いましょう!

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伊豆シャボ詣での後はいつものベルギービール屋で新年を祝ったオレと相方さんでありました。(おしまい)

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20170105(Thu)

[]年末年始の反省 年末年始の反省を含むブックマーク 年末年始の反省のブックマークコメント

去年暮れのクリスマスイブは何故だかオレの人間ドックの日であった。そうか、胃カメラのバリウムはホワイト・クリスマスのメタファーだったんだね……。というか人間ドックの前日は時間が合わずこっそり夜10時頃夕飯食った挙句ビールまで飲んでいた……。とはいえ検査結果を聞いたら特に問題はナシだった。↓の写真は人間ドックの後に病院から出されるお昼ご飯。これが意外と美味しい。

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というわけで人間ドックもなんともなかったようだったので夕方はクリスマスビールと相方さんの作ってくれたご飯でクリスマスご飯。

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そしてクリスマスのお昼ご飯はラーメン。

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2016年も暮れてゆく。大晦日の2016年最後の夕日。

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そして2017年の初日の出。実は相方さんが実家に帰っていたので一人寂しく眺めていた……。

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こちらは初富士。縁起がいいんでないかい。

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元旦は映画を観に行った。初売りの開店時間を待つひと気のないショッピングモールはなにやらロメロの『ゾンビ』を思わせた!

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元旦も昼からラーメン。

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相方さんが帰ってきたので1月2日は年始恒例伊豆シャボテン公園へ。伊豆シャボ記事はまた別にまとめておきます。こちらの写真は伊豆シャボで撮ったなにやら一枚板の様な雲。

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3日の日は相方さんの仙台土産牛タンを焼いて浅漬け・とろろ芋で食したいへん美味しかったが、写真撮るの忘れてもうた。相方さんは4日から仕事だったが、オレは5日まで休みで日記書いたりDVD観たり例によってビール飲んで床に転がったりしていた。以上が年末年始の反省である。

ところでお知らせが。今年は私用で3月ぐらいまで結構忙しくなりそうなのでブログの更新はゆっくり目になるかと思われます。下書きが結構あるので持たせられるかと思うが、毎日って訳にもいかなくなるだろうな。それではよろしく。

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20170101(Sun)

[]暗黒皇帝から新年のあいさつ 暗黒皇帝から新年のあいさつを含むブックマーク 暗黒皇帝から新年のあいさつのブックマークコメント

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輝かしい新年の始まりである。

もちろん「皇帝の頭のように輝かしい」と言った者は処刑じゃ。

本年も銀河統一の為突き進むわしじゃ。

もちろん「皇帝の抜け毛が突き進んでいる」と言った者も処刑じゃ。

我が暗黒皇帝帝国に栄えあれ!

もちろん「帝国に栄えがあっても皇帝に毛は栄えてない」と言った者も処刑じゃ!

処刑じゃ!弾圧じゃ!蹂躙なんじゃあああああああああ!!

---銀河暗黒皇帝

銀河暗黒歴 20017年 元旦

CUSCUSCUSCUS 2017/01/07 10:15 皇帝陛下におかせられましては天気うるわしゅう拝察いたします。本年もまた陛下の辺(へ)にこそおらめ、かえりみはせじ、と、かように言あげさせたてまつり、まつりまつりで、大祭りで、めでとうございます。

globalheadglobalhead 2017/01/07 18:43 苦しゅうない。祭りじゃ祭りじゃ!CUSCUS殿も無病息災交通安全腹八分目でよりよい1年を過ごされるとよいわ。

CUSCUSCUSCUS 2017/01/07 19:45 陛下。お畏れながら、「腹八分目」が一番難しゅうござりまする。

globalheadglobalhead 2017/01/07 20:19 ちなみにわしは腹十二分目でありさらにそこに奔流の如くビールが流れ込むのじゃ。

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