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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170331(Fri)

[]最近読んだ本〜『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』『破壊された男』 最近読んだ本〜『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』『破壊された男』を含むブックマーク 最近読んだ本〜『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢』『破壊された男』のブックマークコメント

■とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ---ジョイス・キャロル・オーツ傑作選

美しい金髪の下級生を誘拐する、有名私立中学校の女子三人組(「とうもろこしの乙女」)、屈強で悪魔的な性格の兄にいたぶられる、善良な芸術家肌の弟(「化石の兄弟」)、好色でハンサムな兄に悩まされる、奥手で繊細な弟(「タマゴテングタケ」)、退役傷病軍人の若者に思いを寄せる、裕福な未亡人(「ヘルピング・ハンズ」)、悪夢のような現実に落ちこんでいく、腕利きの美容整形外科医(「頭の穴」)。1995年から2010年にかけて発表された多くの短篇から、著者自らが選んだ悪夢的作品の傑作集。ブラム・ストーカー賞(短篇小説集部門)、世界幻想文学大賞(短篇部門「化石の兄弟」)受賞。

以前アンソロジー『ミステリマガジン700 【海外篇】』を読んだとき一番面白かったのがジョイス・キャロル・オーツが書いた『フルーツセラー』という作品だった。そしてこの作家の他の作品が読みたいと思い、手に取ったのがこの『とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 ---ジョイス・キャロル・オーツ傑作選』、短編集である。

7編の中短編が収録されるが、その内容といえばいわゆる"奇妙な味"の作品といったところだ。ミステリともホラーともファンタジーともいえない、どこか奇妙で薄暗くてじんわりと狂っていて、悪夢を思わせるような後味の悪い作品が多く並んでいる。女性である作者の性別を持ちだすとまたある方面から怒られそうだが、女性でなければここまで描けないだろうなと思わせるような事細かでいつ壊れてしまうか分からない心理描写が独特だ。

特に表題作中編『とうもろこしの乙女 ある愛の物語』は女学生グループによる同級生誘拐監禁事件を描くが、誘拐の背後にある歪んだ愛情や10代独特の肥大しきった自己愛、女学生グループの無自覚な残酷さと容易くカルトに傾く危うさなどが、これがもうチクチクチクチクと子細に描かれており、読んでいて息苦しさを覚えるほどだった。

もう一つ秀逸だった作品は『ヘルピング・ハンズ』。寡婦となった中年女性とリサイクル・ショップに勤める退役傷痍軍人との物語だが、夫の庇護を離れ外の世界と接しなければならなくなった資産家女性の不安と揺れ動く心を描くその細やかな筆致はもはや文学小説の領域であり、作者の並々ならぬ描写力と心理洞察を感ぜずにはいられないのだ。そして主人公女性の心を事細かに描けば描くほど、ラストに用意されたものに重い遣り切れなさを覚えるのである。そしてラスト『頭の穴』はもうこれは十分ホラーで、読んでいてとことん神経を参らせてくれた。

■破壊された男 / アルフレッド・ベスター

時は24世紀、テレパシー能力をもつエスパーの活躍により、いかなる計画犯罪も不可能となり、殺人はすべて未然に防止されていた。だが、顔のない男の悪夢に悩まされるモナーク産業社長ベン・ライクは、エスパーを買収しその協力を得ることで、ライバル企業の社長殺害を決意する…ニューヨーク市警心理捜査局総監パウエルと、完全犯罪をもくろむ殺人者ライクとの息詰まる死闘を描き、第一回ヒューゴー賞に輝いた名作登場!

『虎よ!虎よ!』のアルフレッド・ベスターの処女作であり第1回ヒューゴー賞受賞作品でありSFオールタイムベストでなんちゃらだとかいうSF小説『破壊された男』である。昔は『分解された男』というタイトルで出版されていた。まあ要するに非常に有名な古典SF作ではあるのだが、オレは読んでなかった。それが最近ハヤカワで再発されたので、なんとなく読んでみたという訳である。

で、結論から言うと非常につまらなかった。なにしろ、古臭い。テレパシー能力を持つエスパーが活躍する未来社会でのSFクライム・ノヴェルということなのだが、まず"エスパー"っちゅうのがもう古く感じる。"エスパー"だの"超能力者"だのができることなんて今のSFではテクノロジーで十分代替して描かれるんではないか。だから"エスパー"だなんてなんだかよく分からないものを持ちだすことのほうが陳腐になってしまわないか。まあ、"エスパーとそうでない者が形作る歪な社会"ってぇのは要するに選民思想であったり逆にマイノリティー差別であったりするものの戯画化なんだろうが、それ自体にも50〜60年代アメリカ社会の構図が見え隠れしないか。そういった部分に古臭さを感じるんだよな。

そしてクライム・ノヴェルとしての側面も、やっぱり古臭くしかも乱暴で、どうにも見る所がないんだよな。確かにラストにはびっくりさせられたが、そこに至るまで「いやでも一番怪しいのこいつなんだからなんで別件とかで連行できないの?」とずっと思いながら読んでいた。だいたい「エスパーに心を読ませない方法」として犯人は心の中でずっと無意味な歌を歌うんだけど、エスパーにとってはそんな奴が一番怪しいだろ。お話は、要するにオブセッションについての物語で、そしてそれをべスターらしくひたすらマッチョにファナティックに描くんだが、これも胸焼けを催した。

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20170329(Wed)

[]スシ・オア・デッド!コミック『GET JIRO!』はスシ職人版『仁義なき戦い』だッ!? スシ・オア・デッド!コミック『GET JIRO!』はスシ職人版『仁義なき戦い』だッ!?を含むブックマーク スシ・オア・デッド!コミック『GET JIRO!』はスシ職人版『仁義なき戦い』だッ!?のブックマークコメント

■GET JIRO! / アンソニー・ボーデイン

GET JIRO! (G-NOVELS)

スシ・オア・デッド!スシの食い方知らねえヤツぁぶっ殺す!そこは近未来のロサンゼルス!この世界で全ての娯楽の頂点に立つのは【食】であり、それを生み出すレストランシェフこそが真の街の支配者だった!?そして今まさに二つのシェフ勢力が血で血を洗う抗争を開始する!そんな中どちらにも属さぬ孤高のシェフが存在した!その名はジロー、究極のスシを握るサムライ・スシ・マスター!抗争中のシェフたちはジローを陣営に組み込もうと計略を練る!しかしジローもまたある計画を進行させていた!?あり得なさすぎるくるった着想で展開するフード・アポカリプスの世界を描くスシ職人版『仁義なき戦い』、それがグラフィックノベル『GET JIRO! 』なんだッ!?

……という訳でスシ職人ジローが出刃包丁片手に血塗れの戦いを繰り広げる勘違い日本文化コミック『GET JIRO!』の登場でアリマス!なんといってもスシの食い方も知らねえバカ白人客の首を出刃で一刀両断の元に切り落とす冒頭からアクセル全開!その時のジローの雄叫びが「カリフォルニア・ロールなんかねえ!」!もちろん警官たちも「単なるスシ・エチケット違反だ」とジローの味方!いやもうまさにクールジャパンだね!オモテナシに見合わない奴は切り捨て御免なんだッ!?

そのジロー、板場に出ているときは角刈りにねじり鉢巻き、板前法被といういかにもスシ職人な出で立ちだが、なぜか下半身はカーゴパンツにスニーカーという折衷アメリケン。しかしそのスニーカーは足袋のように足先が割れているのだよ!しかも出刃包丁をサムライの刀のように腰の鞘にさしているんだ!これが私服となると『AKIRA』の金田そっくりな赤いライダースジャケットを着て一応お洒落しているんだが、バックプリントがなんと「鉄火巻き」なんだね!いやあスシ職人の鑑だね!

そんなジローを巡って繰り広げられるシェフ勢力の抗争!陰謀、裏切り、殺戮の嵐!シェフっつかー単なるマフィア!所せましと転がる死体、そしてマグロの解体ショーのように流れる血の海!料理こそが掟、味こそが権力、美味の為なら暴力も殺人も厭わない!レストランの予約なんざ1年待ちが当たり前、気にいらない客はケツ毛に付いたウンコ並みの扱い!実はこの『GET JIRO!』、作家でありグルメ番組でも有名なアンソニー・ボーデインが原作なんだが、有名レストランやシェフを巡る現実の狂騒を皮肉ってこの物語を書いたのかもしれないね。なおコミック後半はヤクザマン・ジローがスシ職人になるため組織を抜けようと非情の戦いに乗り出す「Blood and Sushi/血と寿司」が掲載。こちらも仁義無き戦いだッ!?

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20170327(Mon)

[]どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!〜映画『パッセンジャー』 どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!〜映画『パッセンジャー』を含むブックマーク どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!〜映画『パッセンジャー』のブックマークコメント

■パッセンジャー (監督:モルテン・ティルドゥム 2016年アメリカ映画)

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「どうなっとんジャー!宇宙で目覚めちまったんジャー!」というSF映画『パッセンジャー』でございます。

エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)が目覚めたのは地球から植民惑星を目指す宇宙船アヴァロンの船内。このアヴァロンの中では乗客5000人がコールドスリープされ、120年かけて目的地へと向かっていたんですが、二人は予定より90年早く目覚めてしまったんですな。再びコールドスリープすることもできず、このままだと目的地に着くころには二人は死んじゃってるんです。「理不尽ジャー!いったいどうしたらいいんジャー!でも美人と二人だから意外と悪く無いかもテヘペロ」というのが映画『パッセンジャー』のざっくりした内容です。

最初この映画の予告編を観た時は、「あー若い男女が二人っきりで極限状態でそして愛が芽生えちゃっていろいろ大変なこともあるけど愛で全てを乗り越えちゃおうというお花畑なお話なんかなー主演のジェニファー・ローレンスは『ハンガーゲーム』の人だし要するにヤングアダルト系のユルイ映画なんかなー」と思ってたんですけどね。でも監督は『イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密』の人だし脚本は『プロメテウス』のジョン・スパイツだしどうなんかなーということで観てみることにしたんですが、物語が進んでゆくと最初思ってたようなお花畑でもないんですよ。

この辺はネタバレになるので書きませんが、なんといいますかちょっと鬼畜なお話でしてね。広大な宇宙の中二人っきりの世界、ではありますが決して愛が全てさ!というお話ではないし、モラルの強い人は「こんなのぜってー許せねー!」とか拒否反応起こしちゃうかなー。人間が鬼畜に出来てるオレですらちょっと引き気味に観ちゃったことは確かでね。でもどうなんでしょう、極限の中の人間が起こした事を簡単に断罪出来んのか、というなんかもにょもにょした感情を抱えて観てしまったし、これの落としどころはどうするつもりよ?と、固唾こそは飲みませんでしたが少々心配したままラストまで観てしまいましたね。

そういった部分で賛否両論出ちゃうとは思われますが、実の所オレは好きな映画でした。まず舞台となる宇宙船アヴァロンの造形やその内部のデザインが実に美しくさらにSFっぽく作り込まれていて見ていて心奪われるんですよ。5000人もコールドスリープされてるわけですからこれがまたひたすらだだっ広くて、さらに様々な施設が完備されていて未来のホテルみたいなんですね。そのアヴァロンから眺める広大な銀河宇宙とその星々の輝きがまた美しく、こんなに魂吸い込まれそうな宇宙空間を描き出した部分だけでも「SF映画観てるなー」と気分が乗ってくるんですね。SF設定は結構雑だとは思いますが、SF的なビジュアルはとても素晴らしいんですよ。

でも広大な宇宙船と広大な宇宙空間に、目覚めて活動しているのはたった二人の人間だけで、舞台が広大であればあるほどそこで生きなければならないことの孤独感が押し潰されそうなぐらいヒリヒリと伝わってくるんですよ。若い男女二人なわけですから愛し合っちゃったり楽し気に船内デートしちゃったりもしますが、予定されていたはずの希望に満ちた新天地に辿り着くこともできず、理不尽な状況の中で人知られず死ぬであろうことは変わりないんですね。なんかこの、絶望的であることが確定しているにも関わらずその中で小さな幸せを無理矢理見出して己の人生を肯定しなければならない、確かにそこに鬼畜な要素は実はあるんですが、人は絶望とか孤独に対してどう向き合おうとするのかという物語なのだと自分は受け取りましたね。

例えば同じように宇宙での極限状態を描いたSF映画に『オデッセイ』や『ゼロ・グラビティ』といった作品がありますが、あれは生き延びるために遮二無二力を尽くす、生死の綱渡りを演じる戦いみたいな物語なんですよ。でもこの『パッセンジャー』は生きるか死ぬかではなく、宇宙船が壊れない限り死ぬまで安全に生きられる、ただし希望も無くひたすら孤独に、というお話なんですよ。戦いなんてないんですよ。ただ茫漠とした毎日だけがあって、メシ食ってウンコしてたまにセックスして、でもあとは死ぬだけなんですよ。ただそれだけの人生を生き続けなければならない、生きざるを得ない、映画『パッセンジャー』は、そういった生き方への虚無感と諦観がじわじわと沁みだしてくる部分に、そういったものを描き出そうとした部分に、とても感心した作品でした。

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20170323(Thu)

[][]映画『アサシンクリード』は「エヴァンゲリオン」だった? 映画『アサシンクリード』は「エヴァンゲリオン」だった?を含むブックマーク 映画『アサシンクリード』は「エヴァンゲリオン」だった?のブックマークコメント

アサシンクリード (監督:ジャスティン・カーゼル 2016年アメリカ映画)

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映画『アサシンクリード』はSF的な設定で展開する現代と、テンプル騎士団とアサシン教団とが対立するルネサンス期のスペインの二つの時代を行き来して描かれる物語だ。

現代。死刑囚カラム・リンチ(マイケル・ファスベンダー)はマドリードにある謎の研究施設・アブスターゴ社に幽閉され、先端科学によるある実験の被験者となっていた。それは彼のDNAを遡り、その先祖が体験したある時代を再現する実験だった。その時代とはルネサンス期のスペイン。そしてリンチの血に眠る先祖とはテンプル騎士団と対立するアサシン教団の一人、アギラールだった。アブスターゴ社の博士ソフィア(マリオン・コティヤール)とその父アラン(ジェレミー・アイアンズ)はアギラールの行動を通して歴史の闇に消えた秘宝"エデンの林檎"を探し出そうとしていたのだ。そしてその"エデンの林檎"には恐るべき力が秘められていた……。

とまあそういう内容の『アサシンクリード』である。映画の見所は中世スペインの目を見張るような壮麗な建造物の映像、そしてその建造物を縦横無尽にバルクールしまくりながら敵と戦うアサシン、さらに現代、DNAの歴史を遡る為に作られた奇怪な装置群とよく分かんないけどチカチカしてなんだか物凄いインターフェイス、さらにマイケル・ファスベンダーマリオン・コティヤールジェレミー・アイアンズシャーロット・ランプリングといったヨーロッパ俳優が重厚な演技を見せるといった部分だろう。監督は観てはいないけど『マクベス』を映画化した人なのらしい。いやー今やゲーム映画もこんだけ豪華な事やっちゃうんだなあ、としみじみと思った。

ところでオレはこの映画を観ながら「エヴァンゲリオンみたいだなあ」と思えてしまった。まず主人公リンチはシンジ君だ。彼は望んでもいないのに歴史遡行マシンに乗せられるが、オペレーターがシンクロ率をやたら連呼する所がまずエヴァっぽい。リンチが本人の知らない理由で"選ばれた者"である所もエヴァらしい。

リンチが中世世界で戦い現代に戻ってくるとエヴァで戦った後のシンジ君みたいに無味乾燥な病室(のような部屋)で目覚めるのもエヴァを彷彿させる。傷ついたリンチが漬けられる薬液プールはLCL溶液を思わせた。リンチは首筋にケーブルを埋め込まれるがこれなんかはアンビリカルケーブルだ。ということはリンチはシンジ君でありエヴァ本体でもあるということだ。だからこそ後半、リンチはエヴァよろしく暴走し、そして覚醒する。

リンチの面倒をみるソフィア博士はいわばミサトさんだろう。ソフィア=ミサトさんはリンチ=シンジ君には優しく同情的だ。そして彼のプロジェクト敢行を信じ、彼の行動を半ば黙認する。そのソフィアの父であり全てを取り仕切る男アランはゲンドウということになる。だからリンチ/ソフィア/アランのいる施設はネルフということだ。アランはリンチを道具としてしか見ていないが、これはシンジ君とゲンドウの関係性を思わせる。そのアランは歴史遡行プロジェクトをある目的により遂行しているが、その目的自体がエヴァの人類補完計画に似ている。

さらにアランの背後では怪しい教団が指示を出しており、これはさしずめゼーレということになる。アランと教団の目的を完遂するには"エデンの林檎"なる歴史的遺物が必要なのだが、これは人智を超えたパワーを持ったキーアイテムなのだ。これなどはエヴァでいうところのロンギヌスの槍そのものだろう。さらにクライマックス、アブスターゴ社の職員が虐殺されまくるシーンはエヴァのクライマックスにおけるネルフ職員虐殺シーンと被さる。

こんな具合に『新世紀エヴァンゲリオン』とよく似ている部分の多い『アサシンクリード』だが、まあたまたま似ただけか、もしくはオレが勝手にこじつけているだけなのだろう。そういえば中世スペイン世界ではアギラールと随行する女性キャラがいたが、これはレイとかアスカの役割なんだろうか。やっぱり「あなたは死なないわ、わたしが守るもの」とか言ってほしかったな!または「あんたバカァ!?」とか。それにしても実はオレ、ゲームのほうの『アサシンクリード』は全くやってないんだが、この映画観たらやりたくなってしまったな!

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20170321(Tue)

[][]引っ越し日記序章:『トリプルX 再起動』でオレも映画館再起動した 引っ越し日記序章:『トリプルX 再起動』でオレも映画館再起動したを含むブックマーク 引っ越し日記序章:『トリプルX 再起動』でオレも映画館再起動したのブックマークコメント

トリプルX 再起動 (監督:D・J・カルーソ 2017年アメリカ映画)

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まあ映画の感想とかそういうのではなく、「2か月半ぶりに映画館で映画観た」という話である。だから「映画館再起動」というわけなのである。

今年の元旦に『バイオハザード ザ・ファイナル』を観て以来、忙しすぎて暫く映画館で映画を観ていなかった。2月に引っ越しがあり、それに前後してあれこれと膨大な雑務を片付けなければならなかった。引っ越してからも家具を揃えたり身の回りの細々としたものを揃えたりと、そっちのほうに気が行ってしまっていて映画館で映画観るどころではなかった。家では結構DVDやらBlu-rayやらをダラダラと観ていたのだが、映画館どころかどこかに出掛けるという気分ではなかったのだ。一時は「このまんま映画館リタイアしてもいいかな、あはは」という心境にまでなっていた。今回の引っ越しについてはまた日を改めて何か書こうと思う。

そんなこんなで毎日を過ごしていたのだが、やっと落ち着けるようになり、改めて新居の居心地の良さをしみじみと堪能しまくっていた。しかし落ち着いてみると今度はぐうたらと酒ばかり飲んでいる。ずっと忙しかったものだからその反動である。ああ、オレは頑張ったよ!オレのような社会生活忌避者によくここまで出来たと我ながら感動したよ!ここでこうして落ち着いてられるのは頑張った成果なんだよ!飲もう飲もう酒飲もう!という訳である。

それと併せ、ネットだけが工事が完了せず全く手持無沙汰だったというのがある。なにしろ今までのオレは暇さえあればパソコンの前に座りブログ原稿を書いていた人間なのだが、ネットが繋がらないとブログを書くこともできず(あれこれ調べながら書くもんだから)、実はブログ自体2か月半殆どまるで書いていなかったのである。それでも毎日更新をしていたのは、あれは全て去年に書き溜めた原稿だからだ(しかし書き溜めた原稿だけで2か月半ブログをもたせられるというオレ自身にもどこか狂ったものを感じるが)。

しかし今度はぐうたら酒飲んでばかりいるのにも飽きてきた。「……そうだ、映画でも観に行こうか」。ここにきてやっとオレは映画館に行く気になったというわけである。それと、新居の最寄り駅から駅ひとつの所にシネコンがあり、容易く行けるのを思いだしたのだ。そんな近くなら会社帰りに気軽にレイトショーだって行けるじゃないか。会社にも近くなったから6時7時に帰っても飯作って食ってシャワー浴びた後でもまだ余裕で映画館に行ける。だったら行かにゃ損損!

そしてそんなオレが映画館再起動に選んだ映画が『トリプルX 再起動』という、もう語呂合わせの様な映画だったというわけである。

実の所1作目の『トリプルX』はそんなに面白くなかった。大味だった。主演のヴィン・ディーゼルが観ているだけで胸焼けしそうなキャラクターだった(しかしこのヴィン・ディーゼル、今調べたら『プライベート・ライアン』に出演していたことを初めて知った)。この『再起動』はシリーズ3作目だということらしいが、2作目があったことすら知らなかった。しかしそんな作品をなんでまた観ようと思ったかというと、インド映画の至宝・ディーピカー・パドゥコーン様が出演なさっているからである。それだけではない。観てから気付いたが、ドニー・イェントニー・ジャーまで出演しているではないか。これはもうオールスター・キャストということでいいんではないか。このメンツが並んでいる姿を見られるだけでも料金分楽しめるではないか。

内容はというと例によって大味である。エクストリームスポーツ云々というヤツも、きょうびVFXでどうとでもなるのだから見て特に驚きもしない。それにこの映画はちまちまカットで繋ぐから見せ場が見せ場に見えず、さらに見せ場である筈なのに短い。ドニーさんやトニーさんが出演してるのにそのアクションをしみじみ堪能できない。そもそもヴィン・ディーゼルの「余裕ぶっこいた笑いを浮かべるコレステロールハゲ」といった容貌にはあまり興味を抱けない。

しかし支離滅裂で荒唐無稽すぎる物語は逆にコミック・タッチの乗りの良さと受け止めたし、とりあえず派手でバカでハゲだからしみじみと許してしまえる。特に最初ノーチェックだった狙撃手役ルビー・ローズがなかなかによくて、彼女がディーピカー様と背中合わせになって銃撃するシーンでは「よくわかんないけどもう最高傑作ということでいい」と心の中の拳を突き上げたぐらいである。なにしろ特に何も考えずに観られるのがいい。映画館リハビリにはぴったりではないか。というわけでオレの映画館再起動は無事果たされたのである。

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※ディーピカー・パドゥコーン様が気になった方はこちらのDVDを観てね!

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20170317(Fri)

[][]聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】 聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Ram Teri Ganga Maili (監督:ラージ・カプール 1985年インド映画)

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■聖なる河ガンジスを題に採った作品

ガンジス河はヒンドゥー教徒にとって聖なる河である。このガンジス河=ガンガーを題に採って物語られるのが1985年に公開されたラージ・カプール最後の監督作品『Ram Teri Ganga Maili』だ。主演はラージ・カプールの息子ラジブ・カプール、ヒロインにマンダキーニ。

《物語》主人公はカルカッタに住む青年ナレンドラ(ラジブ・カプール)。彼は祖母の為に聖なるガンジス河の清い水を採ろうと、ガンジス源流のある聖地ガンゴートリーへ訪れる(ちなみに実際の源流はさらに山に入ったゴームク)。ここでナレンドラは美しい娘ガンガー(マンダキーニ)と出会い、愛し合うようになる。やがて二人は結婚を誓い一夜を共にするが、ナレンドラはカルカッタに一時帰郷することになる。しかし郷里に着いたナレンドラは家族から強引に他の娘と婚約させられ、逃亡を図ったナレンドラは今度は家に監禁されてしまう。一方ガンガーはナレンドラの子を産むものの、待てど暮らせど帰らないナレンドラに会うためカルカッタへと向かう。だが彼女は道中何度も危険な目に遭い、遂にバナーラスの町で踊り子の館に軟禁されてしまう。

■物語背後にある神話テーマ

タイトルの意味は「ラーマよ、あなたのガンガーが汚される」といったものだが、このラーマはインド叙事詩ラーマヤーナに登場し、ビシュヌの化身とされるラーマ王子のことであり、同時に主人公も指すのだろう。ガンガーはガンジス河を神格化した女神であると同時に、この物語のヒロインの名でもある。ラーマヤーナではラーマ王子の妻シータがさらわれ、そこで不貞があったのではという疑惑が持ち上がるが、それと重ね合わされているのかもしれない。この物語でもヒロインは性的に危険な目に何度も遭うのだ。主人公の名前ナレンドラは「神に似た人」といった意味らしいが、これに女神ガンガーと同じ名前のヒロイン・ガンガーが絡むわけだから、ザックリと神様同士のカップルと言ってもいいわけで、これは当然神話的な意味合いを持たせようとしているのだろう。

この物語はさらに、サンスクリット劇最大の傑作と言われる戯曲『シャクンタラー姫』をも題材にしている。インドには疎いオレだが、この『シャクンタラー姫』だけは読んだことがあるのをちょっとだけ自慢させてほしい(レヴュー:インドの事をあれこれ勉強してみた - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)。『シャクンタラー姫』は仙人の隠棲所で出会ったドウフシャンタ王と天女の血筋を持つシャクンタラー姫との恋愛ドラマである。相思相愛となり周囲からも祝福され婚姻の目前にあった二人はしかし、とある仙人の呪いによりその想いを成就することができなくなる。やがてシャクンタラー姫はドウフシャンタ王の子を産み、子を連れて王都へと向かう。こういった骨子はまさにこの映画そのものである。さらにこの映画においてナレンドラとガンガーは村独特の風習によって婚姻を結ぶが、これは『シャクンタラー姫』において主人公カップルが結ばれる"ガンダルヴァ婚(結婚の儀式を経ないで性的関係によって成立する結婚)"と非常に良く似ている。

■物議を醸した乳房シーン

とはいえ、「神話を題に採った物語」というなにやら高尚な趣のある作品に見せながら、実はこの物語、相当に大衆的な、ある意味下世話とも言えるエピソードの盛り込み方をしており、当時でも相当物議を醸したらしい。なによりこの作品、ヒロイン演じるマンダキーニが劇中何度かその豊満な乳房を披露するのだ。まずヒロインが滝で沐浴するシーンだ。ここで水に濡れた薄物の衣装から彼女の乳房がありありと透けて見える演出が施される。↑の写真を見て貰えば一目瞭然だろう。次は子供に授乳するシーンでやはり乳房が露わになる。

「Ram Teri Ganga Maili」で画像検索するとヒロインの乳房シーンばかり出て来る。この作品の関心度がどの辺にあるのか伺えるというものだろう。2016年に公開されたインド映画『カプール家の家族写真(Kapoor & Sons (since 1921))』に登場するお爺ちゃんが青春の思い出として後生大事にしていた女優の等身大ポップアップが実はこの映画のヒロインの乳房シーン写真だったりするのだ。日本だったらアグネス・ラムって所なのかな?

こういった煽情はナレンドラとの川での逢瀬を描くシーンでも現れる。鼻と足が冷たいというナレンドラの鼻にガンガーは口づけし、足をさする。女性が男性の足を触るというのは婚姻したもの同士の行為であるらしく、ここで主人公がときめきを覚える、といった具合だ。

さらに結婚を誓った二人が床を共にするシーンも、口づけや愛撫を経て衣服を脱がし始めるといった様子を克明に描き十分にエロティックだ。しかし村のヒロイン・ガンガーを奪われ怒り心頭に達した村男たちが、二人の夜伽を襲おうと迫りくるのだが、これにガンガーの兄が応酬する。この部分の描写がなにしろ凄くて、頭に血の上った村男たちとガンガーの兄が血塗れの戦いを繰り広げる、といったシーンと、カップル二人のアハンウフンなシーンが交互に描かれるのだ。ここではエロと暴力が代わる代わる画面に登場し、異様な効果を上げている。

■エロティシズムと暴力

後半は乳飲み子を連れカルカッタを目指すガンガーが、地獄巡りともいえる恐ろしい体験を経てゆく様子が描かれる。一方のナレンドラは逃亡するも連れ戻され、自宅でしょんぼり望まぬ結婚を待っているだけというからある意味対称的過ぎる。ガンガーはバスの途中駅で降りたところを親切を装った女に汚い赤線地帯に連れ込まれ、客を取らされそうになって逃げ出す。その後も汽車の途中駅で放り出され、やはり親切を装った男に娼館に軟禁され、歌い手としての生活を余儀なくされる。クライマックスは内容には触れないがやはり暴力的だ。さらにこの作品、冒頭でガンジス河の河辺に転がる本物の死体や河を流れる本物の死体が画面に登場して度肝を抜かされる。

これらエロティシズムと暴力は、実は後期ラージ・カプール映画の二本柱とも言えるものだ。『Mera Naam Joker』(1970)では既に主演女優のヌードシーンが登場していたし、『Bobby』(1973)でもヌードこそ出ないが主演女優の露出度の高さと後半の暴力が目を引いた。『Satyam Shivam Sundaram』(1978)と『Prem Rog』(1982)は暴力の嵐だった。暴力描写自体は初期の頃から存在していたが、それでもまだ文芸路線を保とうとしていた。この文芸路線の初期からエロティシズムと暴力の後期への転換は、徹底した商業映画監督への転換ということなのだろう。しかもただ単に商業映画監督なのではなく、非常に野心的な試みをインド映画界で成そうとしていたように思う。

自分がラージ・カプール作品を面白いと思い、その監督作品全てを観てみようと思ったのは、彼の芸術性や社会的テーマの在り方と、それと裏腹な見世物に特化した映画の描き方にあった。凡百の映画監督はそのどちらかで終わってしまう所を、ラージ・カプールはその両方をやってのけている。この『Ram Teri Ganga Maili』でも「聖なる河ガンジス」を謳いながらそこを流れる死体を見せ、神話に基づく物語とうそぶきながらエロと暴力に走る。聖と俗が混沌とあり、美と醜がない交ぜになり、清と濁が併せ呑まれる。これは、インドそのものではないか。インド映画を観始めてこうしてラージ・カプールに辿り着いたことを自分はとても嬉しく思えるし、同時にインド映画の奥深さをまたしても思い知らされた気持ちだ。

ラージ・カプールは晩年喘息に苦しみ、この作品が公開された3年後、1988年に喘息の合併症により68歳で死亡している。

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

[][]【ラージ・カプール監督週間】まとめ 【ラージ・カプール監督週間】まとめを含むブックマーク 【ラージ・カプール監督週間】まとめのブックマークコメント

というわけで10回に渡ってお送りした【ラージ・カプール監督週間】いかがだったでしょうか。レビューの掲載順は映画の公開順にしなかったため、ここでレビューのリンクを映画公開順に並べて貼っておきます。

Aag (1948)

Barsaat (1949)

Awaara (1951)

Shree 420 (1955)

Sangam (1964)

Mera Naam Joker (1970)

Bobby (1973)

Satyam Shivam Sundaram (1978)

Prem Rog (1982)

Ram Teri Ganga Maili (1985)

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20170316(Thu)

[][]失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】 失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Aag (監督:ラージ・カプール 1948年インド映画)

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■顏の焼けただれた男

それは新婚初夜のことである。ベッドの上で艶めかしく微笑みながら夫を待つ妻。寝室に夫が入ってきて妻に呼びかける。恥じらいに伏し目がちにしていた彼女はゆっくりと顔を上げる。だが夫の顔を見た彼女は絶叫を上げる。なんと夫の顏は、その半分が焼けただれていたのだ。相手の顔を見ることなく結婚が決まることもあるインドならではの悲劇なのだろう。そして怯えて泣きじゃくる妻に、夫はゆっくりと自らの哀しみに満ちた半生を、火傷のわけを語り始める…。

1948年、23歳のラージ・カプールが初監督した記念すべき作品『Aag』は、まるでハマー・フィルムのホラー作品を思わす猟奇的なオープニングから始まる。タイトル「Aag」の意味は「火」。それは主人公の顔を焼き尽くした火の事なのであろうか。彼の身に過去、いったい何が起こったのだろうか?

《物語》

主人公の名はケワル。彼は幼い頃(シャシ・カプール/子供時代)芝居に目覚め、友人を集めて素人舞台を立ち上げるほどだった。しかしその初演の日、ヒロインを務める筈だった少女ニンミが親の都合で突然町を去り、ケワルの最初の舞台は遂に演じられることはなかった。

それから10年後、学生となったケワル(ラージ・カプール)は再び演劇に挑む。その演目のヒロインに、ケワルはニンミと呼ばせてくれと頼み込み、それを承諾してもらう。ところがこの舞台もヒロインの降板で頓挫してしまう。

その後ケワルは父親と同じ弁護士になるため試験を受けるもこれが不合格。この時、ケワルは演劇の道に進むことを決意し、父の反対を押し切って家を飛び出す。だが世間の風は冷たく、失意のまま彷徨う彼は、ある劇場に入り込む。その劇場のオーナーである芸術家のラジャン(プレムナス)はケワルの窮状を知り、彼に舞台演出を任せてみる。

夢の叶ったケワルは劇を書きあげ、出演者のオーディションに挑む。そして彼の舞台のヒロインとして抜擢された女性(ナルギス)に、ケワルは再びニンミと名乗るよう懇願する。度重なる稽古の中で芸術家のラジャンはニンミを愛するようになる。しかしニンミが恋していたのはケワルだった。そしてその三角関係は遂に破局を迎えることになる。

■ラージ・カプールのエッセンスが詰まった初監督作

処女作にはその作者の全ての要素が詰まっているという言葉があるが、ラージ・カプールの初監督作品となるこの『Aag』にも、その後のカプール作品に表れるモチーフがふんだんに盛り込まれていることが発見できて非常に面白い。長々と粗筋を書いたのはその共通点を示唆するためだ。

まず「顔半分が焼けただれた男」だ。これは「顔半分が焼けただれた女」として1978年公開の映画『Satyam Shivam Sundaram』に登場する。そして「演劇を目指す男のヒロインが人生の節目節目に三度変わる」という物語の流れは、1970年公開の『Mera Naam Joker』において「道化師を目指す男の人生に登場する3人の女」に呼応する。さらに「一人の女性と友人との三角関係に至るが、主人公は友情を選ぶ」というモチーフは1964年公開の『Sangam』そのものだろう。こじつけを承知で書くなら「放逐された弁護士の息子」は1951年の『Awaara』になるか。ううむこれは無理矢理すぎるか。

もう一つはカプール監督の奇妙な猟奇趣味とその要因ともなる暴力だ。この『Aag』でいうなら「醜い火傷のある男」でありその火傷が出来た原因ということになる。娯楽映画に暴力的要素が盛り込まれるのは珍しくはないが、カプール作品においてそれは突発的であったり衝動的であったりするため驚かされるのだ。要するに物語内において「飛び道具」のように使われるのである。その最たる例が『Satyam Shivam Sundaram』だが、他にも『Barsaat』(1949)における監禁と暴力、『Sangam』(1964)の衝動性、『Bobby』(1973)の集団リンチ、『Prem Rog』(1982)の凄まじい銃撃戦、といった形で表れる。

これら猟奇と暴力は物語の中心的要素では全くないのだが、カプール監督の密かな趣味なのかそれともサービス精神なのか定かではないにせよ、なぜだか劇中に突発的に盛り込まれるのだ。どちらにしろ、様々なカプール作品を鑑賞した後に観るならば、この『Aag』は多くの発見があり楽しめるだろう。

■失われたミューズを乞い求める物語

映画内容それ自体で見るなら、初監督ということでまだ慣れていないせいか、前半は物語の核心へ繋げるための段取りに終始し、どこか作業的に物語られている部分が無きにしも非ずだ。そしてヒロインであるナルギスが中盤まで登場しないため、それまで主人公が右往左往するだけの華の無い物語が進んでしまう。しかしナルギス登場後はその艶やかさと歌と踊りの充実でようやく楽しめる作品になってくる。というかナルギスは本当にいい、いろいろな古典インド映画を観て本当によかったと思ったことのひとつはナルギスの素晴らしさと出会えたことだ。

この作品において主人公ケワルは最初に出会った少女ニンミの名前を二人目三人目の女性にも名乗らせようとする。日常的な恋愛感覚で考えてしまうとこれは異様なことではあるが、これにはどういった意味が隠されているのか。最初自分は「これはファム・ファタールを追い続ける男の物語なのだな」と思っていたのだが、しかしよく見てみるなら、ケワルにとって"ニンミ"は単なる恋人ではなく、常にケワルが演出する舞台のヒロインとして登場しているのだ。そこに恋愛感情が無かったとはいえないが、それよりもまず、"ニンミ"はケワルが劇作を生み出す想像力の核であったこと、すなわちミューズであったということなのだ。だからこそ、ミューズという核を失った劇はすぐさま頓挫することになるのだ。失われたミューズを乞い求め続けるこの物語は、つまりはケワルが自らの劇作の完全なる完成を乞い求め続ける物語であったということができる。いうなれば監督ラージ・カプールが、不安と葛藤の中、その初監督作品の成功を懇願しつつ悪戦苦闘と試行錯誤を繰り返す、その過程そのものがこの作品だったのではないか。

乞い求めるほどに離れていってしまうミューズの存在にケワルは苦悩し、遂にクライマックスにおいて「顏の火傷」の原因となった事件が起こってしまう。それだけだと暗澹たる物語として終焉するが、しかしこの物語にはある救済が用意される。そしてこれが素晴らしい。観終わって「ああ、こういう物語だったのか!」と叫んでしまったほどだ。このラストの構成によってラージ・カプールはその非凡さを大いに世に知らしめることになっただろう。このラストは、監督ラージ・カプールが遂に自らの作品の納得できる完成に辿り着いた瞬間をも表わしているのだろう。こう考えると、「顏の火傷」それ自体すら"名監督誕生"の"聖痕"であったともいえないだろうか。

20170315(Wed)

[][]対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】 対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 対称的な二人の男の愛の結末〜映画『Barsaat』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Barsaat (監督:ラージ・カプール 1949年インド映画)

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ラージ・カプール主演・監督作品として1949年に公開された映画『Barsaat』は処女作『Aag』(1948)に続く監督第2作目となる。共演はナルギス、プレム・ナス、ニンミ。二組の対称的なカップルの愛の行方を描いた作品だが、後半で奇妙な乱調を見せるのが独特だと言えるかもしれない。タイトルの意味は「雨期」。なお今回は結末まで触れるのでご注意を。

物語の中心となるのは正反対の性格をした二人の男。一人は芸術家肌で気難しいプラン(ラージ・カプール)、もう一人はリアリストで享楽的なゴパル(プレム・ナス)。二人は都会からインドの田舎へ遊びに行くが、車が故障し近くの村で数日過ごすことにする。その間、プランは村の娘レシュマ(ナルギス)と出会い恋をし、結婚まで考えるようになるが、レシュマの父は決してそれを許さず、会うことすら禁止した。一方ゴパルはニーラ(ニンミ)という娘と出会う。ニーラは心の底からゴパルを愛したが、ゴパルにとってそれは行きずり恋のつもりだった。そしてそれぞれのカップルに悲劇が待ち構えていたのだ。

監督第2作目ということからか、ラージ・カプール監督作品としてはテーマの選び方やその話法にまだまだ未熟でぎこちない部分を感じるのは否めない。まず主演となる二人の男だ。一途に愛を信じそれを与えることを惜しまない男プランと、刹那的で浮気性、愛に関しては不誠実な男ゴパル。「愛」に対して正反対な態度を取る二人の男を描くことで、この物語は「愛の本質」を描こうとしたのかもしれないが、どうにも図式的に感じてしまう。ラストはその「愛に対する態度の違い」により、二人は相応の結末を迎えることになるが、これも教訓的過ぎて白けてしまう。また、ナルギス演ずるヒロインの、いちいち鼻をすする演出も余計に感じた。

それと併せ、主演・監督を務めるラージ・カプールが、自らの役柄をてらいもなく格好よく描き過ぎている部分に少々苦笑してしまった。スーツをパリッと着込み、ピアノとバイオリンをたしなみ、憂いのこもった顔で愛こそは至上と語り、そして美女ナルギス演じるヒロインと睦みあうのだ。自身の監督作ならむしろ嫌われ者になるであろう浮気性の男を演じないか?まあ自らの監督主演作で自らの役柄を格好良く描くことが間違いだとはいわないが、こんなラージ・カプールがなんだかお茶目さんだなあ、と思えてしまった。

こういった部分で多少引っ掛かりはあったが、作品自体はそちこちに見所がある。光と影の具合が巧みに計算されたモノクロ映像は十分芸術的であり技巧的であり、そして美しい。この時代の一般的なモノクロのインド映画がどの程度の芸術水準にあったのかは知らないので、この作品だけを取り出して芸術的だとは言えないのかもしれないが、それでもカプール監督の映像に対する意気込みやこだわりのほどは十分に感じた。まあ、見方によれば気取り過ぎとも取れる映像だが、決して悪いとは思えない。先程触れたお茶目ぶりといい、この映像の気取り方と言い、将来の大監督の余裕が見え隠れするともいえるではないか(というか最初から大監督だったのかな?)。

しかし「二人の男の対称的な愛」を描くこの物語は後半異様な方向へと乱調する(ここからクライマックスに触れます)。父親に結婚を反対されたレシュマは、流れの早い川を縄だけを伝って川向うのプランのもとに行こうとする。怒り心頭に達した父親は縄を切ってしまい、レシュマはそのまま川に流される。言ってしまえば父親による殺人(未遂)である。半死半生のレシュマは下流である漁師に拾われる。この漁師というのがいかにも独り者の異様な風体の男で、看病から覚めたレシュマを監禁し、自分の嫁にしようとするのだ。プラン恋しさに泣きじゃくるレシュマだがいよいよ結婚式の日がやってくる。だが外で車の事故が。事故車から結婚式場に連れ込まれた男は、なんと瀕死のプランだったのだ。瀕死の男がレシュマの想い人であることを知った漁師はブランを殺そうとする。

とまあ以上のような展開を迎えるのだが、それまで美しく切ない「愛の物語」だったものが一転、暴力と殺人と監禁と強要がドロドロと描かれる猟奇的な物語へと変貌するのである。観ていてなんじゃこれは?と思ったのである。ラストにおいて瀕死のプランはレシュマの愛により命を取戻す。反対にゴパルの愛を得られなかったニーラは自ら命を絶つ。これによって「真実の愛こそが命を助ける」という結論を付けたかったのだろうが、それにしてもシナリオのコントラストが激しすぎる。異様なのだ。ここまで必要だったのかとすら思えるのだ。しかし、この過剰さは後のラージ・カプール作品で随所に見られることになる。それがサービス精神なのかラージ・カプール天性のものなのかは分からないが、ラージ・カプール監督作の特徴ともなるものを垣間見せた初期作であるとは思う。

20170314(Tue)

[][]大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】 大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Shree 420 (監督:ラージ・カプール 1955年インド映画)

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大都会ボンベイ(現ムンバイ)への長い道のりをトコトコと歩く男がいた。彼の名は身なりは貧しいが表情はどこか明るく輝いている。きっと田舎から夢と仕事を求めてやってきたのだろう。彼は自分の心の様を描いたような歌を歌いだす。「おいらの靴は日本製 履いてるズボンはイギリス製 頭の赤帽ロシア製 それでも心はインド製(「mera joota hai japani」)」。ラージ・カプール主演・監督により1955年公開された映画『Shree 420』はこんな具合に始まる。共演となるヒロインはラージ・カプールと16作の映画で共演したというナルギス。自分もこの間二人の共演作『Awaara』(1951)を観たがとても素晴らしかった。また、この作品はシャー・ルク・カーン主演『ラジュー出世する(Raju Ban Gaya Gentleman)』(1992)のオリジナル作品となっている。

主人公の名はラージ(ラージ・カプール)。夢と希望に燃えボンベイに辿り着くも、どこにも職は無いわ持ち金は掏られるわ、路上で寝ようにも金を要求されるわで早速都会の厳しさを思い知らされる。そんな彼だったが質屋で出会った娘ヴィディヤー(ナルギス)と恋に落ちてしまう。ヴィディヤーは下町で教員を営むが、彼女もまた貧しい暮らしをしていた。ラージはようやくクリーニング屋の仕事を見つけるが、洗い物の届け先に住む踊り子の女マーヤー(ナディラー)にトランプの腕を見込まれ、いかさま賭博の片棒を担がされるようになる。みるみるうちに大金をせしめるようになったラージは、正直者の顔を失い、あぶく銭に奔走する詐欺師と化してしまう。だがそんな汚れきったラージを、ヴィディヤーは決して快く思わなかった。

タイトルの「Shree 420」とはインド刑法の詐欺・不正行為を罰する法律セクション420に由来し、「詐欺師」とか「いかさま野郎」とかの意味になるのだろう。これは物語の最初で真っ正直な男として登場した主人公が都会の汚濁に染まりいかさま野郎と化してしまう様子を表したものなのだろう。物語で象徴的に描写されるのは、ムンバイに着いたばかりの主人公が質屋で「正直者コンテスト優勝メダル」を質入れしてしまう部分だ(もともと住んでいた村で獲得したものらしい)。いわば魂を大都会という名の悪魔に売り渡したというところだろうか。こういった象徴性も含め、物語は半ば寓話的な構成を成しているように思えた。物語では常に単純な対立項が描かれる。金持ち/貧乏人、正直者/よこしまな者、利己的な者/他者を思い遣る者、といった具合だ。これらは即ちモラリズムについての言及であり、さらには当時のインドの理想主義を体現したものだということなのだろう。

こうして主人公ラージの魂はムンバイという魔都を彷徨いながら善悪の狭間で揺れ動く。それはメフィストフェレスに魅入られたファウストであり、煉獄を道行くダンテである。ではグレートヒェンでありベアトリーチェであるものが誰なのかというとそれがヴィディヤーなのだ。彼女は罪悪に染まったラージの魂を照らす【善良さ】として登場する。これは同じラージ・カプール監督作品『Awaara』において、悪に染まった主人公ラジをヒロインであるリタが【希望】の象徴となって救済するのと似ている。これらはまた貧困からの救済を意味し、それが『Shree 420』においては【善良さ】という部分で説かれているのだ。確かに善良であるだけでは貧困から逃れることはできないかもしれない。それではこの【善良さ】とはなんなのかというと、冒頭で高らかに歌われる「心はインド人」であるということ、即ち「善良であろうとするインド人のプライド」ということになるのではないだろうか。

こうした役を演じる主演者二人が素晴らしい。ラージ・カプールは冒頭では無邪気で朴訥な田舎者の顔で登場しながら、中盤からはタキシードで身を包む涼しげな目つきの伊達男へと様変わりする。この鮮やかな変化に演者の力を見た。主人公キャラクターはチャップリン映画『小さな浮浪者』に影響を受けたものらしく、この『Shree 420』自体は純然としたコメディではないにせよ、弱者への同情や悲哀といった点で共通するものがあるだろう。一方ナルギスは清廉潔白すぎる役柄というきらいがあるにせよ、主人公ラージを時に鼓舞し時に叱咤し、主人公の心を大いに揺り動かすファム・ファタールとして神通力はこの作品でも如何なく発揮されていたように感じた。この二人がベンチでチャイを飲むシーンでのやりとり、そして雨の中傘を差しつつ歌うシーンは圧巻だった。

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20170313(Mon)

[][]貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛を描く古典インド映画の名作『Awaara』【ラージ・カプール監督週間】 貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛を描く古典インド映画の名作『Awaara』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛を描く古典インド映画の名作『Awaara』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Awaara (監督:ラージ・カプール 1951年インド映画)

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映画『Awaara』は法廷の場面から始まる。ラジという男が裁判官ラグナスの殺人未遂容疑で逮捕されたのだ。女性弁護士リタはラグナスに問い詰める。「あなたにお子さんはいらっしゃらないんですか?」と。

そして時を遡り物語られるのは、かつて裁判官ラグナス(プリトヴィーラージ・カプール)が山賊に妻リーラを誘拐された事件だった。リーラはラグナスの子を身籠っていたが、ラグナスは山賊に狼藉されたための子だと思い込み、身重のリーラを冷酷にも追い出す。リーラは貧民街に身を落としラジという男の子(シャシ・カプール/子供時代のラジ)を生む。そう、実はラジはラグナスの息子だったのだ。極貧の中ラジ(ラージ・カプール)はコソ泥として育つが、ある日かつて幼馴染だった女性リタ(ナルギス)と再会し、激しい恋に落ちる。だがラジは自分が犯罪者であることを彼女に言うことができなかった。

1951年製作の、60年以上も前の白黒インド映画を、今の自分が観て面白いのだろうか?と思いつつ観始めたのだが、その考えは杞憂だった。杞憂どころか、これは素晴らしい名作じゃないか、と感嘆させられた。物語のテーマとなるのは貧困と犯罪、格差とそれを乗り越えた愛といったもので、それに親の身勝手から離別した子供、というドラマが加わる。今でこそこういったテーマはありふれたもののように思えるかもしれないけれども、1951年のインドにおいてはより切実で身に迫るものだったのではないか。インドで1951年といえば独立後まもなくであり、インド式社会主義が立ち上げられた時代でもあったが、経済のレベルは相当に低かったと聞く。

物語はそういった時代の理想と現実を相半ばしつつ描きながら、厳しい現実にあえぐものにいかにして希望の光を当てるのかに腐心する。母の胎内にいるうちから父に捨てられ、貧しさの中母を助けようと主人公ラジは否応なく犯罪に手を染める。そしてその犯罪の世界から足抜けすることができず彼はもがき苦しむ。そんな彼を救うのは誰だったのか。それはラジの愛しい女、リタであった。

リタのラジへの愛は、それは全人格的な愛だった。それはあたかも菩薩を思わすような比類なき慈愛であり、彼女はラジの貧しさも人生における過ちすらも全て赦し、そして二人いっしょに未来を築き上げようとラジを励ます。どん底に生きる貧民のコソ泥でしかない男に対するこのリタの愛はなんだったのか。男の夢の中だけの都合のいい女、実際には存在しない絵空事の女なのか。いや違う、彼女はその存在それ自体が【希望】というものの象徴だったのではないか。ラジの中の、希望を請い求める心、それがリタだったのではないか。さらにまた、厳しい現実の中で希望を失わずに生きるということの、製作者たちの代弁者がリタだったのではないだろうか。

このリタを演じる主演女優ナルギスが相当に素晴らしい。自分は以前彼女主演の『Mother India』を観た程度だが、この作品でも彼女はインドの母であり大地であり地母神であるものの象徴として登場した。『Awaara』では菩薩を、『Mother India』では地母神の化身を演じるナルギスだが、彼女自身が女神のような美しさと温かさを持った女優だったからこそ可能だったのだろう。また、物語の最初に彼女が弁護士として登場した時は、不遜ながらこの当時のインドでこのような前進的な女性像を描くことができたのか、と驚いた。

また、主演・製作・監督をラージ・カプールが務め、彼の才能とその底力を示した作品となっている。さらに彼の父プリトヴィーラージ・カプール、4男でラージと14歳年の離れたシャシ・カプールの共演もあり、役者親子の共演というのはインド映画では度々見られることだが、この作品ではまるで違和感を感じず、むしろはまり役だった。この作品は本国のみならず旧ソ連、中国 、トルコ、アフガニスタン、そしてルーマニアなどで大ヒットを記録し、カンヌグランプリ作品としてもノミネートされた、記念すべきインド映画もである。

20170310(Fri)

[][]顔に火傷跡がある娘とそれを知らずに恋をしてしまった男との恐るべき顛末〜映画『Satyam Shivam Sundaram』【ラージ・カプール監督週間】 顔に火傷跡がある娘とそれを知らずに恋をしてしまった男との恐るべき顛末〜映画『Satyam Shivam Sundaram』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 顔に火傷跡がある娘とそれを知らずに恋をしてしまった男との恐るべき顛末〜映画『Satyam Shivam Sundaram』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Satyam Shivam Sundaram (監督:ラージ・カプール 1978年インド映画)

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■顔に大きな火傷跡がある娘

顔に大きな火傷の跡がある娘と、それを知らず彼女に恋をしてしまった男。1978年ラージ・カプール監督作『Satyam Shivam Sundaram』は、そんな奇妙で困難な愛を発端としながら後半一転、狂気に満ちた展開と思いもよらぬ凄まじいパニック描写を見せてゆく恐るべき作品だ。タイトル『Satyam Shivam Sundaram』の意味は「真理、善と美」という意味になるらしい。いったいこんな粗筋を持つ物語でどんな真理と善と美とが語られてゆくというのだろうか。主演はシャシ・カプール、ヒロインにズィーナト・アマーン。今回は全体的にネタバレしているので「これからどうなっちゃうんだ!?」とハラハラしながら観たい方は(本当にハラハラしどうしです)読まない方が懸命かも。

《物語》インドの農村で暮らす娘ルパ(ズィーナト・アマーン)は子供の頃煮えた油を顔に浴び、右頬から首にかけて醜いケロイドを残していた。そんな彼女だが、その歌声は類稀な美しさを秘め、村にやってきたダム技術者のランジーヴ(シャシ・カプール)もそんな歌声に魅せられた一人だった。ランジーヴは歌声の主を求め、ルパを見つけ出すが、ルパは火傷跡を見られるのを恐れ、常に顔を隠しながらランジーヴに接し続けた。にもかかわらずランジーヴは遂にルパとの結婚を決め、周囲もそれを喜び、そして抗うルパの声を無視して結婚の日が訪れてしまうのだ。

■異様な物語性

異様な物語である。なにより顔に火傷のある娘が主人公であり、映画の間中主演女優の特殊メイクされた火傷跡を見せられる、というがまず異様だ。そして男が真実を知らないままその娘と逢瀬を重ね結婚までする、という部分がまた異様だ。こういったシチュエーションは、暖かくも冷たくも描けるが、この作品ではもっと異様な領域まで踏み込んで描かれる。それは結婚し、真相を知った男の狂気の様だ。さらにクライマックス、一組の男女の怨恨であったものが、なぜか天変地異まで呼び寄せて、特撮を駆使した大スペクタクルに生まれ変わってしまう、という信じられない展開が、またもや異様なのだ。

物語のそもそもの発端から、映画を観る者はまず「男はいつ娘の火傷跡を知るのか」という部分に関心が行くだろう。そして「知ることにより、この二人はどうなるのか」と思うだろう。しかしこれが、なかなか知られないのだ。娘は最初、ずっと男を避けていた。それは、醜い自分が男に愛されるはずがない、という悲観と、男が自分の火傷跡を知れば嫌うだろう、という恐怖からだ。しかもそれは、これまで幸薄い人生を歩んできた娘にとって、最初で最後の希望であるかもしれないのだ。しかし娘は男を次第に愛し始め、二人はいつしか逢瀬を重ねるようになるが、この間、終始娘はヴェールで顔半分を隠している。そんな娘の顔を、男は恥ずかしがり屋なのだろう、と無理に見ようとはしない。こうして映画は、「真相を知らない」という状況をずっと引っ張り続ける。この辺で「なんとも凄いシナリオだ」と唖然とさせられる(ただし半笑い)。

■作品に横溢する狂気

しかし結婚のその日という最悪のタイミングで男は真実を知ることになる。「こんな女と結婚なんかした覚えがない!」と男は絶叫するが、時既に遅く、インドの神聖な結婚の儀式が済んだばかりなのだ。この「結婚の儀式のあとは何人も別れることはできない」というインド独特の信仰が状況をさらに異様なものにしてゆく。男は取り乱し「僕の本当の妻はどこにいるんだ!」と喚きまわるが、この時、男の精神に現実との乖離が引き起こされる。なんと彼は「火傷跡のある現実の妻」を否定し、「火傷跡の無いどこかにいる筈の本当の妻」を探し求めるようになるのである。そしてかつて逢瀬を重ねた滝のある場所へ、「本当の妻」を求めて彷徨うのである。そしてこの中盤から、物語の狂気は加速し始めるのだ。

妻はこんな男を哀れに思い、また、愛しているこの男と再び以前のように睦みたいがばかりに、「火傷跡の無い本当の妻」として男の前に現れ(しかしやはり火傷跡は隠しているのだ!)、男もそれを喜び、二人は思い出の滝のある場所で幸福に包まれながら愛しあうようになるのである。愛しあう二人の情景は幻想的なセットの中で行われ、それが夢のようであればあるほど、現実との距離のあまりの隔たりに寒気を覚えさせる。しかし愛の行為が終わり、男が家に帰るとそこには「火傷跡のある現実の妻」がいて、男はまたもや彼女を汚物を見るかのように惨たらしく扱う。この、現実否定と現実逃避の恐るべき二重生活を続ける男の精神は、既に狂気に蝕まれているのだ。そんな生活に、「本当の妻」として愛されることで耐え続ける女の業にもまた、哀れであると同時に異様なものを感じる。

■遂に決壊する現実

だが、そんな異常な生活に破綻が訪れる。女が身籠ったのだ。身籠った妻を男は激しく折檻する。「寝たことも無いお前が俺の子供を身籠る筈が無い!お前はどこかの男と交わって不貞の子を宿したのだ!」だがそれは間違いなく男の子であり、今度こそ女は男に真実を知ってもらおうと泣き叫びながら懇願する。そんな女を男は足げにして行ってしまう。ここで遂に女の怒りが爆発する。女は「地は揺れ、天は裂けるだろう」と男に呪いの言葉を投げかける。するとどうだ、本当に凄まじい暴風雨がやってきて村を襲い、人々は逃げ惑い川上のダムは決壊の危機を迎えているではないか!?

異様な物語はここに来て、さらに異常な展開を迎えることになる。女の呪い通り天変地異が訪れてしまうのだ!これは女の父が僧侶であり、娘の妊娠を巡るいざこざの中で息絶えたという背景があることから、ある種の神意に関連したものであろうとは思われる。だが、それにしても本当に天変地異が訪れるとは、いったいどうなっているんだ、と観ているこちらはこの段階で既に白目を剥いている状態である。ここでは円谷プロもかくやと思わせる様な特撮とミニチュアを使い、暴風雨の中ダムが決壊し、それに飲み込まれる村の様子まで描かれてしまっているのだ。いったいなんなんだこの物語は…。

■真理と善と美

確かに、タイトルにある「真理と善と美」は、それは見た目ではなく、心の裡にあるものだ、ということをこの作品では訴えたかったのだろう。そしてその「真理と善と美」とは即ち【神性】のことであり、その【神性】をないがしろにしたばかりに、このような恐ろしいことが起こった、ということなのだろう。この作品では冒頭からビシュヌ神の神殿、シヴァ神のリンガ、ガネーシャ神など、溢れんばかりにヒンドゥー神の像が登場し、女の歌う歌はそれを讃えるものなのだろう。そしてそれは神の愛と人の愛とを重ね合わせた意味となるのだろう。

ただそれにしても、それを見せる為にここまでのものを描いてしまうという部分にインド映画の凄まじさを感じてしまう。そしてここまで描きながらも、やはり「愛」の物語として結末を迎える所がまたしてもインド映画らしい。こんな映画を作れるのはインド映画だけだろう、と思ったが、ちょっと待て、この映画、日本の『大魔神』と相当近いものがあるぞ…。なにしろ本当に凄い、そして濃い作品だった。カルト映画好きの方、とんでもない映画が観たい方に是非お勧めしたい作品だ。

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20170309(Thu)

[][]道化師が回想する3人の女性との愛〜映画『Mera Naam Joker』【ラージ・カプール監督週間】 道化師が回想する3人の女性との愛〜映画『Mera Naam Joker』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 道化師が回想する3人の女性との愛〜映画『Mera Naam Joker』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Mera Naam Joker (監督:ラージ・カプール 1970年インド映画)

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■1人の道化師と3人の女

別々の場所に住む3人の女性に小さな小包が届く。それには道化師の人形が包まれており、添えられた手紙には「私の最後のショウに招待します、来てくれるかい?私の名はジョーカー」と書かれている。3人は各々伴侶を連れ、あるいは一人で、そのサーカスに赴く。そして登場するのは初老の道化師、彼はおどけた調子で彼の大きなハートについて歌い踊りだす。会場の袖ではサーカス関係者が「彼の体はもう持たない、ショウを止めさすべきだ」と話している。しかしもう一人が「彼はエンターティナーだ、彼はここで生き、ここで死ぬんだ」と呟く。

1970年にインドで公開された『Mera Naam Joker』は一人の道化師と彼がその人生で出会った3人の女性との愛の想い出を描いた作品だ。主演、監督にラージ・カプール。3人のヒロインを演じるのはシミ・ガーレワール、クセニヤ・リャビンキナ、そしてパドミニ。また主人公の少年時代を今作品がデビューとなるリシ・カプールが演じている。

■3つの愛

第1の愛---女教師マリー

f:id:globalhead:20160325181824j:image:left小学校に通うちょっとおどけた少年ラジュ(リシ・カプール)の憧れは女教師のマリー(シミ・ガーレワール)だった。だが彼女には婚約者がいた。ここでは同時に、ラジュの亡き父が実はサーカス道化師だったことが物語られる。ラジュの母は夫を死に追いやった道化師の仕事を憎んでいたが、ラジュは逆に道化師に憧れを抱くようになる。

少年の大人の女性への甘酸っぱい憧れ。厳密には「愛」と呼ぶものではないにせよ、少年の日の想いを瑞々しく描いていて印象深い導入部だ。舞台となる学校は欧風であり、生徒はシャツにズボンの制服、女教師もワンピース姿で登場し、キリスト教教会ももう一つの舞台となる為、全体的に脱インド的な印象を感じさせる。

そして女教師役のシミ・ガーレワール、彼女が相当に美しい。最初はヨーロッパ女優かと思ったぐらいだ。こんな美しい担任教師がいたら心ときめかさないわけがない。そしてこの作品で特筆すべきは彼女のオールヌードが登場することだ。遠景、背後からではあるし、代役かもしれないが、インド映画としては当時ですら衝撃的だったのではないか。このシーンは水に落ちたマリーが物陰で着替えする場面を見てしまったラジュが、それにさらに妄想で補完するといったものだが、少年の性の芽生え、ときめきと後ろめたさを描くシーンとして効果的だった。同時に、ラージ・カプル監督の映画的サービス精神もここにはあるのだろう。

この「第1の愛」では少年ラジュがこれからの人生で出会う愛の形の定型が既に出来上がっている。それはラジュが相手から愛されながらも、やむにやまれぬ理由から別れざるを得ないというものだ。また、女性に道化師の人形をプレゼントするが最後には返される、というのもここから繰り返される。


第2の愛---曲芸師マリーナ

f:id:globalhead:20160325181825j:image:left成人したものの大道芸をするしか職もなく、街をうろついていたラジュ(ラージ・カプール)は、ひょんなことから紛れ込んだサーカスでサーカス団員に迎え入れられる。そこでラジュはロシアから客演で来ていた空中ブランコの曲芸師、マリーナ(クセニヤ・リャビンキナ)に恋をする。言葉の通じない二人だったが、その距離は少しづつ近づいて行った。しかしマリーナがロシアに帰る日がやってくる。

この"第2の愛"でラジュは自分の道化師としての人生を決定付ける。主演のラージ・カプールは自らのチャールズ・チャップリン愛を大いに発揮し、次から次にコミカルな演技を連発して楽しませてくれる。また、サーカス・ショウとインド映画独特の歌と踊りが組み合わされたシーンはこの中盤は作品の最大のハイライトとなるだろう。

ここでヒロインを演じるクセニヤ・リャビンキナ、これがまた美しい。ロシアからやってきた曲芸師という役だが、実際にモスクワ生まれのロシア人女優なのだ。1967年から何作かのロシア映画で活躍していたが、2009年に『Chintu Ji』で再びインド映画に出演を果たしている。インド映画出演のロシア女優というのもちょっと珍しいかもしれない。この彼女演じるマリーナとラジュが、お互い言葉の通じない同士、なんとか相手とコミュニケーションを取ろうとお互いがお互いの言語を勉強しあうというシーンには心ときめかされるものがあった。

さらにこの章の冒頭では1995年のラージ・カプール監督作『Shree 420』のダイジェスト映像が挿入され、『Shree 420』の主人公である貧しい青年ラージの人生とこの作品の主人公ラジュの境遇が重ね合わされる部分が面白い。


第3の愛---踊り子ミーヌー

f:id:globalhead:20160325181826j:image:leftサーカス生活に絶望しまたも彷徨っていたラジュは、海辺で奇妙な少年と知り合い二人は共同生活を始める。だがそれは男装した少女ミーヌー(パドミニ)だったのだ。驚いたラジュだったが結局二人の生活は続くことになり、そして踊りの才能があったミーヌーは次第に世間に認められるようになってゆく。だが華やかな世界へ旅立った彼女とラジュとには次第に隔たりが生まれて行った。

この"第3の愛"では貧しいスラムが舞台となり、ここにきてやっとインド映画らしい情緒に包まれることになる。踊りと音楽、それに合わせた衣装と踊りの舞台も濃厚にインド映画的なきらびやかさであり、これはそれぞれの愛を異なった雰囲気で描こうとした監督の思惑なのだろう。

ここでのヒロイン、パドミニが異色だ。最初は少年として登場するが、女性と分かってからも暫くは少年らしいベリーショート、その後はせいぜい肩までぐらいの髪の長さで、踊り子として大成する頃にやっとロングになる。インド映画ヒロインでショートヘア姿で登場する女優というのはひょっとしたら当時でも珍しかったのではないかと思う。

この章のモチーフとなるのはチャップリン『ライムライト』である。ここでは『ライムライト』と同じく、ショウビジネスに就くことのできなかった女性を道化師である主人公が助け、女性は喝采を浴びるようになるが主人公はそこでフェードアウトしてゆく。「ライムライト=舞台照明、名声」のもたらす光と影を描いたチャップリン作品を、同じくエンターティンメントの世界に身を置くラージ・カプールは心から愛していたのだろう。


マリー、マリーナ、ミーヌー

この3人の女性の名前が、それぞれマリー、マリーナ、ミーヌーと、多分同じ名前の3つの呼び方になっているのだろう部分が面白い。インド映画ではキリスト教、ムスリムヒンドゥーでそれぞれ名前の呼び方を変える、というのを見たことがあるが、今作でそれが踏襲されているのかは自分には分からない。どちらにしろ、共通点のある名前の3人の女性、というのは、単なる語呂合わせだとしても、実は女性は3人でも愛はたった一つ、という意味なのかもしれない。

■全ての人生はこの舞台の上

こうして観てみると、監督ラージ・カプールが、自らのショウビジネス人生を、道化師の姿になぞらえて描いた作品と思えないことも無い。まあラージ・カプール自身は華やかな映画一家の出だから、女性関係は多かったかもしれないが、貧しさなどを味わったことがあるかどうかは分からない。しかしこの映画の主人公ラジュのような、ショウの世界に生きる者の哀歓を描くことは、一人の映画監督、俳優として大いに感情移入する余地があっただろうことは想像に堅い。

とはいえこの作品から感じるのは、これまでのラージ・カプール監督作品の問題提起の在り方とはまた違う、徹底した娯楽性だ。主人公を道化師とし、主な舞台をサーカスに持ってきて、さらに3人の女性との愛をオムニバスのように描く。所々にはっとさせるようなお色気を挟み、笑いと涙で物語を閉じる。十二分に楽しませてくれる娯楽映画作品だが、テーマ性は薄い。愛についての取り扱いも、ショウビズへの想いも、個人的なもののように感じてしまう。こうした作品を作ることが出来たのは当時はラージ・カプール監督だけだったのかもしれないが、ラージ・カプール監督だからこそ、もっと大きなテーマを期待してしまったのは期待のし過ぎだろうか。まあこれも重箱の隅のような話で、よく出来た傑作であることは変わりない。

■DVDランニングタイムの謎

なお、この作品は本来の上映時間を255分とする情報(Wikipedia)と224分とする情報(IMDb)がある。どちらにしろ4時間近くあったため、上映に際して2回のインターバルを設けたという。さらにWikipediaによるとDVD化にあたってYash Raj Films Home Entertainment版で233分、Shemaroo Entertainment版で184分にカットされている、となっている。自分はそういった事情を知らずにShemaroo版を購入して視聴したため、今回の記事は184分版の感想ということにさせていただきたい。そもそも1時間近くカットされた作品の感想なので、あまり参考にならないかもしれない。ただし現在手に入り易いのはShemaroo版であるのも確かだ。ちなみに↓の黒い枠のDVDがYash Raj Films版、赤い枠のDVDがShemaroo版となる。

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20170308(Wed)

[][]「寡婦差別」というインドの因襲に立ち向かった男〜映画『Prem Rog』【ラージ・カプール監督週間】 「寡婦差別」というインドの因襲に立ち向かった男〜映画『Prem Rog』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 「寡婦差別」というインドの因襲に立ち向かった男〜映画『Prem Rog』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Prem Rog (監督:ラージ・カプール 1982年インド映画)

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I.

恋心を抱いていた幼馴染は人の妻となってしまった。しかし彼女はまもなく夫を亡くし未亡人になってしまう。主人公はそんな彼女の人生を立て直すためになんとか力になろうとする。リシ・カプール、パドミニ・コルハプア主演による1982年公開のインド映画『Prem Rog』は、こんな粗筋だけなら一見ありがちなラブロマンスでありメロドラマのようにも思える。しかしこのドラマは、実はインドならではの不条理な因習に押し潰される人々を描こうとする作品なのだ。

《物語》貧しい孤児であるディヴダー(リシ・カプール)は、強力な豪族の長の一人娘、マノラマ(パドミニ・コルハプア)と幼いころから強い友愛で結ばれていた。慈悲深い豪族の長はディヴダーが学問をするために都会に行く援助をしていた。8年後生まれ育った村に帰ってきたディヴダーは、美しく成長したマノラマと出会い、恋に落ちる。しかしこれまで家族同然の付き合いをしてきた彼女に、ディヴダーは恋を打ち明けることができなかった。そうしているうちにもマノラマの結婚が決まってしまう。しかし新郎は結婚式の間に事故死してしまい、マノラマは結婚間もなく未亡人となってしまう。しかもマノラマの義理の兄が彼女をレイプし、彼女は取り乱したまま親元へと帰る。マノラマの困難な状況を知ったディヴダーは、彼女が人生を建て直し笑顔を取り戻すために協力しようと決意する。しかしそれは、古くからの因習と伝統で凝り固まった豪族たちの、理不尽な怒りと直面しなければならないということでもあった。

II.

この物語、ロマンチックな外見を持ちながら、実は結構難易度が高く、観ていてしょっちゅう戸惑うことになってしまった。難易度、というのはインド知識度のことだ。オレも割とインド映画をこなしたつもりだったが、この作品で描かれるインドの風習についての幾つもの描写が、初めて目にするようなものばかりだったのだ。それは作品テーマである「インドにおける未亡人の立場」というものを、映画で殆ど触れたことなかった(アミターブの『Silsila』(1981)ぐらいか?)というのもある。この作品で描かれたのは、まず未亡人となったヒロインのところに老婦人の集団(そもそもこれがなんなのかすら分からないのだが)がやってきて「寡婦の掟」なるものを守らせようとすることだ。それは、髪を切り、頭を丸めることなのだという。この頭を丸めるというのも、つんつるてんなのか短髪にすることなのなのかも分からないのだが、とりあえず髪を切れという。この風習自体知らなかったが、それに対し、ヒロインは泣いて抵抗する。ここでまた戸惑ったのは、「インド女性が(長い)髪を切る」ということに対する心理的抵抗というのは、単にお洒落とかいう以上のもっと重要な理由があるのだ、ということが理解できていない、ということだ。寡婦は靴を履いてはいけない(スリッパすらいけない)というのも、初めて目にした。ヒロイン・マノラマは他にも、堅く薄い布団で寝なければならず、食事も粗食でなければならなかった。この極端すぎる「寡婦差別」というのはいったい何なのだろう?

オレなりにザックリ(ホントにザックリです)調べたところ、これらの根底になるのはかの「マヌ法典」なのだという。「これでインディア/3月14日(水)Water」では「ヒンドゥー教徒の日常生活の規範を規定したマヌ法典では、未亡人は不吉な存在とされ、未亡人になった瞬間からこの世のあらゆる快楽から切り離された生活を送らなければならないことが規定されている」「また、マヌ法典では未亡人の再婚が固く禁じられている。未亡人の救済の道はただ2つ、夫の死と共に焼身自殺(サティー)するか、夫の弟と結婚するかである」という記載があった。映画の中で登場した先程の「老婦人の集団」は、ここで書かれていた「ヴィドヴァーシュラム(未亡人の集住所)」と関係があるのかもしれない。いずれにしろ、インドにおいて未亡人というのは、忌むべきものであり、人として最低限の生き方しか許されない存在なのだということなのだ。映画の中でヒロイン・マノラマは、ただ町を歩いているだけで「未亡人を見ちまったよ!」と心無い人々に罵倒される(もちろんこれは1982年に公開された映画での描写であり、現在は特に都市部においてはもっと違ってきているのだろう。一方、地方ともなると、まだこういった因襲が残ったままなのかもしれないが、その辺はオレには分からない)。さらにマノラマは義兄からレイプまでされてしまう。家庭内性暴行というのもおぞましい話だが、この物語はそこまで徹底的に描くことによって、女性が直面する恐るべき窮状を暴き出そうとしているのだ。

III.

インドにおける女性差別というのはよくニュースで目にするし、インドという国はそういった問題を抱えている国でもあるのだろうな、と、これもあまりインドを知らない人間としてザックリな感想を持っていたのだけれども、同時にインドは、不可解なことにそんな女性を高く崇め、強い尊敬の念で扱う部分もあるのだ。そもそもインドの映画は「愛」を基本としたある意味女性的な側面を大いに持っているではないか。この辺のアンビバレンツがさらにインドという国を分かり難くしている。だがこれもかの「マヌ法典」に記述があるらしいのだ。「トーキング・マイノリティ/マヌ法典 その四」ではマヌ法典第3章においては「「家長の生き方」では妻に対する敬いを説いている」とあり、そこからの引用が記されているが、これが徹底的な女性(妻)賛美なのだ。「マヌ法典」記述におけるこういった矛盾は、個々の部分を抜き出して参照するのではなく全体の構造から推し量らねばなら無いものなのだろうから、これをして「矛盾」と言い切ってしまうのは浅はかな意見なのだろう。ただどちらにしろ、少なくとも「女性敬うべし」という箴言も、インドにはあることはあるということなのだ。

こうした「女性への敬愛」をどこまでも貫くのが主人公ディヴダーである。彼は不条理に過ぎる古い因習も伝統も全て否定する。なぜなら「一人の女が不幸になることによって安寧が保たれるコミュニティ」など間違っており、それは「自然なことではない」からだ。彼は言うなればインドにおける理想主義の象徴であり、未来の正しいインドを代表する存在なのだ。監督ラージ・カプールはこれまでも理想主義的な作品を撮り続けてきた。それは貧困との戦いであり貧富の差との戦いであった。そしてこの『Prem Rog』においてラージ・カプールは遂に因襲との戦いを描き出す。それは同時に、【愛の為の戦い】である。これは修辞的な表現ではなく、愛を貫き通そうとするディヴダーと、因習を固守せんとする村の有力者たちとの間で、本当に凄まじい戦闘が開始されるのだ。いやしかしまさかここまで描いてしまうとは思わなかった。それは監督ラージ・カプールが、ここまで熾烈に描き出さなければ、インドにおいて幾世代も続く不条理な悪弊を叩き潰すことなどできない、という強固な想いを持っていたからこそなのだろう。表層として恋愛ドラマの構造を持ちながらも、映画『Prem Rog』は実は凄まじい変革への意志がこめられた作品だったのだ。畢生の傑作である。

◎参考:『マヌ法典―ヒンドゥー教世界の原型』を読んだ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

マヌ法典―ヒンドゥー教世界の原型 (中公新書)

マヌ法典―ヒンドゥー教世界の原型 (中公新書)

20170307(Tue)

[][]友情と愛の板挟みになった三角関係のゆくえ〜映画『Sangam』【ラージ・カプール監督週間】 友情と愛の板挟みになった三角関係のゆくえ〜映画『Sangam』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 友情と愛の板挟みになった三角関係のゆくえ〜映画『Sangam』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Sangam (監督:ラージ・カプール 1964年インド映画)

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1964年にインドで公開された映画『Sangam 』は男の子2人、女の子1人の幼馴染同士の3人が成長し、恋の三角関係となるが、そのうちの一人が軍務中に死亡と認定されて…というメロドラマだ。これだけの粗筋だとよくある物語のように思えるが、そこにはインド独特のストーリー展開が存在しているのだ。監督・主演はラージ・カプール、ヒロインにヴァイジャインティマーラー、友人役にラジェンドラ・クマール。この作品はラージ・カプール初のカラー作品であり、彼の最高傑作であるという声もある。また、この作品はヴェネツィア、パリ、およびスイスでロケされたが、インド映画界においてこうした海外ロケを敢行した先駆けとなる作品なのだという。

タイトル『Sangam』の意味は「支流」となるが、これはアラハバード近くに流れるガンジス川とヤムナ川、それに伝説上のサラスワティ川の3つの聖なる川が合流するサンガムと呼ばれる聖地を指している。映画においてこれは何を意味しているのだろうか。

物語には最初に仲良し3人組の少年少女が登場する。成長してからも彼らの友情に変わりはなかったが、しかしそのうちの一人、サンダー(ラージ・カプール)はラダ(ヴァイジャインティマーラー)に愛を感じ始め、また、ラダはもう一人の男、ゴパル(ラジェンドラ・クマール)に恋していた。とはいえラダはサンダーの強い求愛に振り向き、二人は相思相愛となっていた。しかし、空軍パイロットのサンダーがある日軍務中に飛行機墜落の事故に遭い、死亡と認定されてしまう。悲しみの中ラダはゴパルとの新しい人生を考え、ゴパルもそれに応えて彼女を愛するようになった。だが数年後サンダーは生還する。何も知らぬサンダーはラダに求婚し、サンダーに強い友情を感じていたゴパルは身を引き、そしてサンダーとラダは結婚する。だが、サンダーは自分を避けるようになったゴパルに不信を抱いていた。

愛しあっていた男女が、男が戦死したことにより、残された女が別の男と愛しあうようになる。しかし、ある日その男が生還し、かつて愛していた女が別の男と愛しあっていることを知り愕然とする。これと似たような物語は幾多あり、それにより戦争の悲惨さを浮き彫りにするが、映画『Sangam』は同傾向の作品と思わせながら、独特の物語展開を見せるのだ。それはインド的といってもいい。幼馴染の一人が死んだと思い込み交際を始めた男女は、その男が生還することにより、もう一人の男が身を引くのである。なぜならそこには強い友情があったからだ。愛と友情を天秤に掛けた時に、友情が勝るのだ。

実際はどうなのか知らないが、インド映画では思いのほか篤い友情(特に男同士の)が描かれることが多く、それは観ていて面映ゆくなるほどだったりする。そして『Sangam』で描かれる友情もまたびっくりするぐらい篤い。新婚旅行にヨーロッパに出掛けたサンダーは、旅行先があまりに楽しいばかりに、新婚旅行中だというのに親友のゴパルを呼び寄せてしまうのである。そしてそのゴパルも不承不承やってくるのだ。日本人の感覚だったら殆ど有り得ないことだし、欧米だってやはり無いよう思える。これは映画的な極端な演出だと受け取っていいような気もするが、だが少なくともインドはこういったストーリーテリングが十分受け入れられる国なのだろう。そんな感覚の違いを見せつけられるのが妙に面白い作品なのだ。

だがかつてラダと愛しあっていたことをサンダーに引け目に感じていたゴパルは、折角訪れたヨーロッパからもすぐに帰省する。サンダーはそんな、急に水くさくなったゴパルを不審に思う。折も折、ラダが隠していたゴパルの手紙をサンダーが見つけ「これは誰からのものだ!」とラダを責め、嫉妬する。だがこの段階でも、サンダーは決してゴパルを疑わない。

この物語が悲劇であるのは、本来、誰にも罪はないということだ。ラダとゴパルの交際は、サンダーが死亡したから、というものだった。ゴパルが身を引いたのは、サンダーに友情を感じていたからだった。ラダが再びサンダーと交際したのは、それは「帰ってきたら結婚しよう」と言っていたサンダーとの約束だからだった。ラダとゴパルは、二人の交際を秘密にしたが、しかし世の中には知らないほうが幸福な嘘や秘密があるものではないか。にもかかわらず、そして幸せな結婚生活が現にあるにもかかわらず、サンダーは嫉妬と苦悶の未、真実を知ろうとするのだ。

このような物語を紡ぎ出す監督ラージ・カプールの演出力、そして映画技法が素晴らしい。カットやアングルが技巧的であり、時折はっとさせられる画面を生み出すのだ。また主演3人の演技は緊張感に溢れ、単なる男女の三角関係といったストーリーが後半、あたかもギリシャ悲劇を思わせるような重厚で暗澹たる様相を帯びてくる。劇中ではサンダーが愛と友情と人生の歌を高らかに歌い上げるが、謳歌であるはずの歌が実はこれからの悲劇を暗示する痛ましい皮肉となっている部分に息を呑まされる。そして台詞がまたいいのだ。クライマックスにおいてゴパルは彼ら3人を3つの聖なる川が合流するサンガムに例える。ガンジス川とヤムナ川は合流するが、サラスワティ川は消える運命なのだ、と。こういったあまりにインド的な例えに映画『Sangam』の芳醇な作品性を感じてしまうのだ。

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20170306(Mon)

[][]親の反対を押し切って愛を貫こうとする二人〜映画『Bobby』【ラージ・カプール監督週間】 親の反対を押し切って愛を貫こうとする二人〜映画『Bobby』【ラージ・カプール監督週間】を含むブックマーク 親の反対を押し切って愛を貫こうとする二人〜映画『Bobby』【ラージ・カプール監督週間】のブックマークコメント

■Bobby (監督:ラージ・カプール1973年インド映画)

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資産家の息子と漁師の娘とが激しい恋に落ち、それぞれの両親の反対を押し切って愛を貫こうとする、というインド映画ではお馴染みのスタイルのラブ・ロマンス映画です。しかしこれ、1973年公開作とはいえ(だからこそ?)非常に面白く出来ているんですね。監督はインド映画界の名匠であり俳優、プロデューサーでも有名なラージ・カプール、主演をその息子であるリシ・カプール、そしてヒロインをディンプル・カパーディヤーが演じています。実はこのディンプルさん、あの『ダバング 大胆不敵』でチュルブルのお母さん役だった人の若い頃なんですね(さらに近作だと『Cocktail』『Finding Fanny』などにも出演あり)。

《物語》富裕なビジネスマンを父に持つラージャー(リシ・カプール)は誕生パーティーのその日、かつての乳母が連れてきた娘ボビー(ディンプル・カパーディヤー)に一目惚れする。ラージャーはボビーの家を訪ね、彼女の父ブラガンザが地元の漁師であることを知る。ラージャーとボビーは恋に落ち、結婚を誓うようになるが、ラージャーの父ナートは身分違いの恋愛を決して許さず、ボビーの家に置し掛けブラガンザに手切れ金をちらつかせた挙句散々罵倒して帰ってゆく。しかもナートはラージャーの縁談を勝手に決めていた。追いつめられたラージャーとボビーは駆け落ちを考える。

とまあ、プロットだけからみると、インドのラブ・ロマンス映画でこれまで散々描かれてきた定番的な物語であり、さらに1973年製作という古い映画なものですから、今観ようとすると新鮮味に乏しく感じるかもしれません。しかも上映時間が169分、3時間近くもありやがります。実際自分も、一応名作と謳われているので退屈覚悟でとりあえず観ておこうかと観始めたのですが、これがなんと、実に面白い。今ではありふれた物語ではあっても、きちんと作られているが故に目が離せないんです。その辺、どういった部分が面白かったか箇条書きで書いてみましょう。

1.古臭い主演男優が逆に新鮮…主演となるリシ・カプールの作品は今まで『Amar Akbar Anthony』と『Naseeb』ぐらいしか見たことが無いんですが、どちらも主演のアミターブ・バッチャンのほうが目立ちまくってて、それほど印象に残ってなかったんですね。そもそもリシ・カプールの顔つきって今見ると「昔風の、古臭い二枚目顔」じゃないですか。しかしこの『Bobby』では、確かに古臭い顔ではありますが、それにより「インド映画クラシック観てるんだぞ」ってな気分になってきますし、それと今作でのリシ・カプール、いかにも世の中を知らないオボッチャマ君てな青臭くてひ弱な雰囲気が溢れていて実に役柄に合ってるんですね。これがシャールクやサルマーン兄貴だとどうしたってイケイケドンドンになっちゃうんですよ。そういった部分で逆に新鮮に感じましたね。

2.健康的なお色気(死語?)のヒロイン…一方ヒロインとなるディンプル・カパーディヤーはいわゆる労働者階級の娘という設定からか、溌剌として健康的な美しさを持った女優さんでした。しかしこのディンプルさん、なんだかやたらと露出が多いんですよ。キリスト教徒の娘ってこともあるんでしょうか、いつも(当時の)現代的な洋服を着ているんですが、なにしろ殆どホットパンツやミニスカート姿でその太腿を大胆に披露しているんです。さらにビキニでのプール・シーンまでありましたよ。今でこそそれほど珍しくないんでしょうけど、1973年のインド映画にしちゃあ意外と挑発的だったんじゃないでしょうか。あと、ヒロインのお父さんが「ウエストの合わないスーツのズボン」を履いてるがためにいつも社会の窓が開いている、というのも別の意味でセクシーでした。

3.きわどいロマンス演出…これも「1973年のインド映画にしちゃあ」って話なんですが、カップル二人のロマンス演出がよく見ると結構きわどいんですね。なんかもう二人してアメリカ映画みたいにベタベタしまくりやがっているんですよ。キスシーンなんかはありませんが、逆光で隠してそれとなくほのめかして見せたりとかね。そしてなにより二人して山荘に閉じ込められたシーンですね。二人して見つめ合い歌いながら一つ一つ窓を閉めドアを閉め最後にベッドに横になるんです。この描写もここまでですが、あからさまに夜のムフフへの気持ちの高まりを描いているんですよね。

4.一途過ぎる恋の行方…「身分違いの恋」を描いたこの物語、まあインド映画だから最後はなんだかんだ上手くやって感動的に盛り上げた後予定調和的にメデタシメデタシってなるんだろうなあ、と思って観ていたんですが、なんだか二人の想いが一途過ぎて、そしてまた二人を引き離そうとする周囲の態度が強硬すぎて、物語がどんどんシリアスになってゆくんですよ。このシリアスさから途中で例の『ロミオトジュリエット』を思い出したぐらいで、いや待て「ロミジュリ」だとお話は悲劇になっちゃうじゃんか、と段々と心配になってきて、物語から目が離せなくなってくるんです。

5.物語の舞台や踊りや衣装…物語の舞台となるのはゴアとその周辺みたいなんですね。だからこそヒロインがキリスト教で親が漁師で、というのがあるんですが、同時にヒンディー臭が薄い分踊りもポリネシア風の衣装だったりするんですよ。さらに二人がカシミールに旅行に行くシーンもあるんですが、ロケが実際カシミールなのかは不明だけど、だとしても今のインド映画で観られるカシミールと雰囲気が違って面白かったですね。それと製作が1973年ということから登場人物たちの衣装が70年代テイストのポップ・サイケ風味で、これが一周回って奇妙にオシャレに見えるんですね。これが80年代だとまだダサく感じちゃうんですよ。

6.しっかりとした構成…とはいえ、俳優に魅力があり、きわどい演出があっても、物語が面白く無ければなんにもなりません。しかしこの作品はストレートとも言えるしっかりとした構成と演出を見せ、楽しめるものとなっているんですよ。いわゆるマサラ・ムービー的な「楽しければいいでしょ!」といった破綻がこの作品には無くて、物語をきちんと見せていこうとする監督・製作者の態度がうかがわれるんですね。この辺やはり名匠と謳われる監督の作品ならではということなんじゃないのかな、と思いました。

それと、作品内容とは関係ないのかもしれませんが、自分の視聴したDVDの映像がとても状態がよく、まあ傷なんかはあるんですが、特に発色が綺麗だったんですね。当時のフィルム形式などは分からないんですが、諧調はそれほどないけれども実にビビッドな発色で、そういった部分でも目を楽しませてくれましたね。

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20170303(Fri)

[][]まるで不幸の絨毯爆撃みたいなインドのサスペンス映画『Kati Patang』 まるで不幸の絨毯爆撃みたいなインドのサスペンス映画『Kati Patang』を含むブックマーク まるで不幸の絨毯爆撃みたいなインドのサスペンス映画『Kati Patang』のブックマークコメント

■Kati Patang (監督:シャクティ・サーマンタ 1971年インド映画)

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「なんだこの不幸の絨毯爆撃みたいなオープニングは!?」1971年公開のインド映画『Kati Patang』を観始めたオレは愕然としたのである。『Kati Patang』はこんな具合に始まる映画だ。

・主人公マドゥーリ(アーシャー・パーリク)は結婚式の始まるその時、かつての恋人の手紙を読んで結婚式を取り止め飛び出してしまう。

・しかしマドゥーリが恋人カイラス(プレーム・チョープラー)の部屋で見たのは彼が別の女と睦み合っている姿だった。

・悲嘆の中、マドゥーリが家に戻るとただ一人の家族である叔父が死んでいた。彼女は身寄りを失う。

・マドゥーリは町を出ようと汽車に乗る。そこで幼馴染だった女プーナンと出会う。彼女は子連れの寡婦となっており、亡夫の家族の元に身を寄せようとしていた。

・しかしその汽車は脱線転覆事故を起こす。瀕死のプーナンは「子供のために私に成り済まして亡夫の家族と暮らして。彼らは私の顔を知らない」と言いこと切れる。

・プーナンの義理の家族のいる町に着いたマドゥーリはタクシーに乗るが運転手に追剥に遭う。助けを求めるマドゥーリ。

・マドゥーリはからくも森林警備員のカマル(ラジェッシュ・カンナ)に助けられる。しかし後にカマルの使用人から、彼が最近結婚式で相手から逃げられ酒浸りであることを知らされる。そして、その逃げ出した結婚相手というのが、マドゥーリ本人だったのだ。

とまあ、これだけのことが冒頭のたった30分で繰り広げられてしまうのだ。なんという不運に継ぐ不運、不幸の波状攻撃であろうか。これはいったいどんな悪夢なのだろうか。オレは最初「これってホラー?」と思ってしまったぐらいだ。

いったいなんなんだこの映画…と思い一旦DVDを止め調べてみる。するとこの作品、原作がアメリカのミステリ小説家ウィリアム・アイリッシュによる『死者との結婚』という作品なのだという。タイトル通り「既に死んだ男の妻に成り済まし別の人生を生きようとした女」の物語であるらしい。またこの作品は1960年に高橋治監督により日本でも同タイトルで映画化されており、さらに1996年にリチャード・ベンジャミン監督で『くちづけはタンゴの後で』という邦題でも映画化されている。要するにミステリ・サスペンス作品なのだ。

物語はその後プーナンと偽って生きるマドゥーリの姿が描かれる。しかし、かつて結婚を袖にしたカマルが、何も事情を知らずに彼女に愛を告白し、彼女もまた彼を愛し始めていることに気付く。激しく苦悩するマドゥーリ。さらに、マドゥーリの本当の素性を知る者が彼女の前に現れ、真相を知られたくなかったら金を出せ、といやらしく恐喝を始めるのだ。

こうして、たった一つの嘘が大きな波紋を呼び、次第に取り返しがつかなくなってゆく、というのがこのドラマだ。こういった物語スタイルはインド映画ではコメディ作品としてよく見られるもので、アメリカ小説を基にしながらも、インド映画とは水が合ったのだろう。

最初に書いたように冒頭から悪夢じみた異様な雰囲気で進んでゆく物語なのだが、それと併せ主演のアーシャー・パーリクの顔がなにしろコワイ。醜いという意味ではなく、いつも精神崩壊の一歩手前みたいな緊張感ギリギリの顔で役を演じ切っているのだ。彼女は嘘をつくことで幸福を得るが、それとて人に頼まれたもので、誰かを不幸にする嘘ではない。しかし嘘によって得られた幸福はどこまでも脆いものであり、それがいつか破綻するかもしれないという不安と恐怖が物語のサスペンスを高めてゆく。タイトル『Kati Patang』は「糸の切れた凧」という意味らしいが、糸の切れた凧のようにどこにも自らを繋ぎとめるものがなく、ただ風に運び去られてしまうような不安を言い表しているのだろう。

映画を観る側は主人公の抱える真相を既に知っているのだが、この嘘がいつどのようにして破綻するのか、破綻した後に彼女に何が待っているのか、ハラハラしながら物語を見守ることになるのだ。インド映画はとかくサスペンス作品が少ないと言われているが、そんな中でこの『Kati Patang』は貴重なインド産サスペンス映画として観ることが出来るだろう。インド産サスペンスといえば名作『女神は二度微笑む』を思いだすが、質こそ違うけれどもあの作品を気に入った方なら一度観られるのもいいかもしれない良作だろう。

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20170301(Wed)

[][]内気青年の恋愛大作戦!?〜映画『Chhoti Si Baat』 内気青年の恋愛大作戦!?〜映画『Chhoti Si Baat』を含むブックマーク 内気青年の恋愛大作戦!?〜映画『Chhoti Si Baat』のブックマークコメント

■Chhoti Si Baat (監督:バス・チャタルジー 1975年インド映画)

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とっても内気な青年が素敵な女子に恋したけれど、どうしていいのか分からない!おまけにイケイケな恋敵まで現れてさあ大変!いったいどうしたら彼女を振り向かせられるんだ!?という1975年にインドで公開されたロマンチック・コメディ映画です。主演の内気青年にコメディ映画『Gol Maal』(1979)のアモール・パルカー、ヒロインにヴィディヤー・シンハー、怪しい恋愛教授にアショク・クマール。それとアミターブ・バッチャンカメオ出演しております。この作品は1967年公開のイギリス映画『School for Scoundrels』を元にしていますが、この英作品は2006年にトッド・フィリップス監督、ジョン・ヘダー主演により『恋愛ルーキーズ』としてリメイクされています。

《物語》ボンベイに住むアルン(アモール)は地味で気弱で内気な青年でした。彼はバス停でいつも一緒になるOL女性プラーヴァ(ヴィディヤー)に恋をしますが、超弩級にシャイなアルンはなかなか声を掛けられず七転八倒。なんとかきっかけを作りデートに誘えたものの、今度はプラーヴァの同僚ナゲッシュ(アスラーニ)が現れ、恋敵として立ちはだかります。この男ナゲッシュ、いつも明るく快活で、図々しいくらい行動的、どうしたってアルンは見劣りしてしまいます。「こんなことじゃ彼女を取られてしまう!」切羽詰ったアルンは恋愛指南のエキスパートだという怪しい男、ジュリウス(アショク・クマール)の元を訪ねますが!?

いやこれは楽しかったなあ。1975年公開作ということでどうしてもコメディ・センスの古さや既視感は感じてしまうんですが、そういった部分を割り引きながら観ると、笑いの原型とも言える素朴な味わいになんだかほっこりさせられるラブコメなんですよ。

f:id:globalhead:20160618074521j:image:leftまず恋に悩む青年アルン君の見るからに情けない容姿がイイっすね。誰に説明されなくても「ああ、モテそうにないな…」という説得力に満ち溢れていますよね。行動自体もオドオドしていて「こいつ、単なるキモいヤツだよな…」としみじみ思えてくるんですよね。こんな若者ですから(老けて見えますけど)やることなすこと裏目裏目に出てしまい、そこが可笑しいのと同時に、そのしょーもなさに段々応援したくなってくるんですよ。いやー考えてみりゃこのオレも単なる非モテのキモいヤツだしな!なんだか他人事に思えないよ!

アルン君、なにしろいつも妄想しまくりです。彼女の前で堂々としている自分、彼女にカッコいいと思われている自分、そんなアルン君の寂しい妄想が映像となって現れます。しかーし!いざ実行に移すと必ず失敗するんですよ。食事に誘うと恋敵ナゲッシュが割り込んできて食事代まで払わされたりとか、バイクに乗って彼女を送り迎えしたい!とバイクを買ったら騙されてボロボロの中古を掴まされたりとか、仕舞いにはインチキ占い師に引っかかったりしてもうしょぼしょぼです。けれど鈍感なのかタフなのか、決して諦めずにプラーヴァに振り向いてもらおうと頑張ります!

そんなアルン君に惚れられたプラーヴァのほうはどうかというと、意外とアルン君を悪く思っていません。あんなにキモいのに。ただ「どんな男性なんだろう?」と観察している段階なんですね。「ちゃんと自分を大切にしてくれるのかしら?」と思ってるんですよ。だから話しかけられれば答えるし、食事に誘われたら取りあえず行ってみます。優しいお嬢さんなんですね。ブラーヴァを演じるヴィディヤー・シンハー、英TVドラマ『ダウントン・アビー』のヒロインミシェル・ドッカリーにちょっと似てますね。

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物語はいよいよ切羽詰ったアルン君が恋愛指南のエキスパート、ジュリウスを訪ねるところから佳境に入ります。ジュリウス少佐、アルン君を徹底的に訓練して恋愛を成功に導くイロハを教え込み、遂にアルン君はモテモテ男に生まれ変わります!この辺の展開、「モテるマニュアル」を必死こいて漁る現代の若者に通じる所がありますね。しょーもなくも思えますが、切実でもあるんですね。しかしこの物語は「でもマニュアル通りの恋ってどうなんだろう?」という問い掛けも後に用意されていて、なかなかきちんと出来ています。

恋愛物語の多くはイイ男とイイ女がロマンチックに盛り上がりまくるものが多いですが、この物語はその辺の普通の男子が普通の女子に恋をしちゃう、というものです。さらにインドの、この時代あたりじゃあ自由恋愛も難しかったりするのでしょう。そんな中で、多分多くのインド人青年がそうであったように地味で気弱で内気な青年を主人公とし、そういったリアリズムの中に笑いを持ち込んで描いたこの物語は、きっと多くのインド人青年の支持を得たのではないでしょうか。なかなかにチャーミングで素敵な作品でした。

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