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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170531(Wed)

[][]巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』 巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』を含むブックマーク 巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』のブックマークコメント

■Jagte Raho (監督:サンブー・ミトラ、アミット・モイトラ 1956年インド映画)

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■非常にユニークな傑作コメディ

1956年にインドで公開されたモノクロ映画『Jagte Raho』は、一人の浮浪者が体験する大騒動の一夜を描いたコメディ作品だ。主演はラージ・カプール、共演としてモティラル、プラディープ・クマール、スミトラ・デヴィ。他にナルギスがカメオ出演する。

《物語》田舎からカルカッタの街にやってきたものの、職もなく住むところもなく夜の通りを彷徨う浮浪者の男(ラージ・カプール)がいた。喉が渇いてどうしようもない彼は、消火栓を弄っているところを警邏中の警官に見とがめられ、慌てて近くの巨大アパートにもぐりこむ。なんとか水を飲めないものか……アパートをうろつく彼は住民たちにコソ泥と間違われ、逃げ出そうとするも今度はアパートから出られない!遂に住民たちは自警団を急ごしらえし、さらには警官隊までがやってきて、上を下への大騒ぎと発展してしまう。頭に血ののぼった住民たちを相手に、浮浪者は逃げ出すすべがあるのか!?

非常にユニークであり、楽しめて、感嘆させられる物語だった。この作品のユニークさは以下の部分にある。

・たった一夜だけの事件を扱った物語である。

・舞台の殆どが1棟の巨大アパートだけに限定されている。

・主人公が殆ど喋らず、パントマイム演技だけで物語を進行させる。

・そういったシチュエーションの中に様々なエピソードを盛り込んだコメディであり、ストーリー自体はさして無い。

こういった骨子を持った作品は、確かに今では珍しいものではないが、これが1956年公開の、インドのモノクロ映画に存在していたという部分に、新鮮な驚きを覚えたのだ。このような作品は昨今のインド映画でもあまり見られないのではないか。

■浮浪者の悲劇?

主人公は農村から大都会にやってきた食いつめ者という設定で、ぼさぼさの頭にぼうぼうの無精ひげ、見るからにみすぼらしく汚らしい格好という、なんだかビートたけし演じる鬼瓦権蔵状態である。しかし実のところ彼は純粋で小心な田舎者でしかないのだ。そんな彼が何もしていないのにコソ泥呼ばわりされ追い回され、涙目になりながら巨大アパートを右往左往するさまが、可笑しくもあり気の毒でもある。しかもそもそもの発端が「水が飲みたい」だけだったということが一層気の毒さを醸し出すではないか。

そんな男をラージ・カプールが熱演するが、これがなんと殆ど言葉を発しないパントマイムだけの演技。貧者のペーソスを描いたコメディという部分からも、これは多分にチャップリン映画を意識したものなのだろう。ラージ・カプールチャップリン好きだったらしく、自らの監督作品でもチャップリン的なモチーフを散見するが、今作の演技もラージ・カプール自身が監督に提案したのかもしれない。そして殆ど喋らないとは言いつつ、クライマックスでは『チャップリンの独裁者』ラストの如き大演説をする部分にまたもチャップリンへの偏愛を感じるではないか。

■住民大パニック!

主人公が迷い込んだ巨大アパートは資料によると200以上の部屋があり、1000人余り住民が住む施設ということになっているらしい。50年代のインドに実際にこのような巨大住宅があったのかどうかは分からないが、あったとするとそれなりの中流家庭が住む住宅施設ということになるだろう。こういった点から、この物語は保守化した中流層の排他性を描いたものと見ることもできる。そしてまた、この作品は浮浪者の目を通し、これら中流層の退廃をもえぐりだすことになる。

それは浮浪者が逃げ込む幾多の住民の部屋で展開する薄暗いドラマだ。ある部屋では金に困った男が眠っている妻の装飾品を奪おうとし、またある部屋では密造酒を作っている男がいる。そしてまたある部屋では組織ぐるみの偽札作りまで進行しているではないか。浮浪者一人にパニックを起こし、全アパート住民挙げての自警団を組織し、軍隊よろしく隊列を組んで廊下を進む姿などは、滑稽であると同時にうっすらとした狂気さえ感じてしまう。こうしてこの物語は浮浪者の逃走劇のみに留まらない多面的な物語構造を成すことになるのだ。

とはいえ、こういった人間たちの馬鹿げたドタバタこそが面白い物語でもある。インドのモノクロ・クラシック作品というと少々敷居が高く感じるかもしれないが、この『Jagte Raho』は誰でも楽しめるシンプルなコメディ作品であること、インド映画界の名優ラージ・カプール主演作品であり、その演技の素晴らしさはお墨付きであること、などを鑑みるなら入門編として最適なのではないか。古い作品ということもあり腹を抱えて大爆笑、という類のものではないが、非常に味わい深い含みを持ったコメディ作品として是非お薦めしたい。

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20170529(Mon)

[MOVIE]あなたの人生の物語〜映画『メッセージ』 [MOVIE]あなたの人生の物語〜映画『メッセージ』を含むブックマーク [MOVIE]あなたの人生の物語〜映画『メッセージ』のブックマークコメント

■メッセージ (監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ 2016年アメリカ映画)

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映画『メッセージ』は世界各地に謎の宇宙船が現れるところから始まる。言語学者ルイーズ(エイミー・アダムス)は異星人たちが地球に飛来した理由を探るためそこに派遣され、"ヘプタポッド"と名付けられた異星人との意思疎通の方法を探ることになる。しかし、宇宙船飛来を快く思わず武力行使を行おうとする国家も存在し、調査には暗雲が垂れ込み始めるのだった。

こんな粗筋から映画『メッセージ』はいわゆる"ファースト・コンタクト"と呼ばれるSFジャンルの作品として理解されるだろう。人類と異星人との"最初の接触"を描くこれら作品では、『未知との遭遇』が最もポピュラーな作品かもしれない。世界中に飛来した宇宙船ということであれば『インディペンデンス・デイ』を思い出させるし、これに人類の平和が絡むとなれば『地球の静止する日』という作品があった。異星人の示唆するデータの解析という点では『コンタクト』だろう。モニュメントのように直立する宇宙船はSF映画の名作『2001年宇宙の旅』のモノリスを連想させられるが、あれは人類の進化に関したファースト・コンタクトSFでもあった。意図の理解できない異星生物との接触という点では『惑星ソラリス』に通じる部分もあるだろう。

異星人とのファースト・コンタクトには何が起こるえるのか?という物語は、それは宇宙に数多ある惑星から実際に異星人がやってくるのかもしれないという夢のような物語であるのと同時に、人類史における他部族同士の最初の接触で、なにが起こったか?ということの再考でもありえる。そこには戦争と征服があり、他方、交易や文化・民族の交流があった。そして今もし人類の目の前に異星人という新たな"他部族"が登場した時、それは当然人類を凌駕する高い科学技術を持つ存在であり、その存在がもたらすのは恩恵なのか破壊なのか、という期待と不安がこれらの作品では描かれることになる。また、高い科学文明を持った存在である異星人と人類を対比させたときに、まだまだ未熟でしかない人類の文明が、今後どうあるべきなのかを考察するテーマでもある。

そして映画『メッセージ』は、これらファースト・コンタクト・テーマの名作SF映画のモチーフを部分部分で踏襲し、ある意味手堅く、と同時に予定調和的な展開を見せはする。しかしこの物語は、それだけにとどまるものでは決してなかったのだ。それは冒頭に描かれる、「愛する娘を亡くした言語学者ルイーズ」の物語に深く関わったものなのである。ルイーズは、娘を亡くした痛ましい記憶を持つ女性であるが、その記憶は、時折フラッシュバックのように生々しく蘇り、激しく彼女を苛むのだ。異星人とのファースト・コンタクトと、「娘を亡くした記憶」とがどう結びつくのかがこの作品の最大のテーマとなるところであり、これにより、この作品はこれまでのファースト・コンタクト・テーマのSF作品を凌駕する、全く独自の展開を見せることになるのだ。

そこで展開するのは、言語とは、コミュニケーションとは、記憶とは、認識とはなにか、という問題提起であり、それらは多分に知的な論議であると同時に、人の生そのもの、さらには運命とは何かということに関わる、激しく感情を揺さぶらす物語へとなだれ込んでゆくのである。これらは、ファースト・コンタクト・テーマの物語に存在する単純な楽観論や悲観論を遥かに突き抜け、人間の意識とその認識というレヴェルへと果敢に切り込んでゆく。原作はSF作家テッド・チャンの短編小説『あなたの人生の物語』。ファースト・コンタクト・テーマの物語であるはずのこの作品が、なぜ"あなたの人生の物語"であるのかが明らかになったその時、あなたは10年に一度の傑作SF映画に出会ったことを知るだろう。名作中の名作である。

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RASRAS 2017/08/27 10:42 つい最近、地元の映画上映施設で観ましたが、良い作品でしたね。ビジュアルも素晴らしかったけど、サウンドも素晴らしかったです。
原作小説を読んだ時もそうでしたが、映画を観た後、福田恆存が記した「自由と宿命の関わり」を思い浮かべました。

globalheadglobalhead 2017/08/27 15:12 SFの持つ思弁性をとても上手く表現していましたね。こういった作品を映画化できるハリウッドが羨ましく思いました。

20170526(Fri)

[]悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』 悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』を含むブックマーク 悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』のブックマークコメント

■人生の段階 / ジュリアン・バーンズ

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

誰かが死んだことは、その存在が消えることまでは意味しない――。最愛の妻を亡くした作家の思索と回想。気球乗りは空の高みを目指す。恋人たちは地上で愛しあう。そして、ひとつに結ばれた二人が一人になったとき、遺された者はもう生の深さを感じられない。―― 有能な著作権エージェントにして最愛の妻だったパット・カバナをとつぜん喪ったバーンズは、その痛みに満ちた日々をどのように生きたのか。胸を打つメモワール。

英国作家ジュリアン・バーンズの『人生の段階』は奇妙な作品だ。物語は3部に分かれる。第1章「高さの罪」では19世紀ヨーロッパにおける熱気球の勃興が描かれる。ここはノンフィクションだ。第2部「地表で」ではやはり19世紀を舞台に実在した英国軍人とフランス女優とのフィクションの恋が描かれる。そして第3部「深さの喪失」では、作者ジュリアン・バーンズが2008年に亡くした妻へ想いとその悲しみとが書き綴られている。これは作家個人の自己の心情吐露ということになる。

当然本題となるのはこの第3部だろう。しかし、それ以前の2章とはなんの繋がりがあるのだろう。確かに各章の最初に書かれる「組み合わせたことのない二つのものの組み合わせ」ということでは、第1章の気球と写真、第2章の立場の違う男女の恋、そして第3章における作家バーンズと妻との出会い、という点において一致しているのかもしれない。第1、第2章で言及される"気球"は、天の高みと地との距離という点において、悲しみの底に落とされた作家の心情的な落差を表わしているのかもしれない。

ただ、どちらにしても遠回しすぎ、3つの章の関連性は希薄なもののように思えてしまう。しかしこう考えたらどうだろう。作家バーンズは、核心である第3章を書くために、そこへの心情的な距離をどうしても置かねばならなかった。さらにバーンズは作家として、生々しい心情吐露だけの文章を書くことはできなかった。だからこそ、一見関連性がありそうでなさそうな、2つの物語を書き終えた後でなければ、その核心を対象化し文章化することができなかった。それは作家の性ともいえるし、作家であることの良心ともいえる書き方だったのだろうと思う。

突然の伴侶の死は、バーンズにとっては身を裂くよう悲しみだったろう。しかし、「身を裂くような」などという陳腐な表現はオレのような凡俗がこんなブログに書き散らかす為にしか使えないものであり、バーンズはその"悲しみ"の在り様を徹底的に整理し抑制しさらに合理性が高く含蓄に富んだ文章へと落とし込もうと格闘するのだ。そしていかに整理し抑制して書かれようとも、そこからどうしても染み出さざるを得ない感情の底にあるものの姿が浮き上がってくる部分に、作家というものの業を感じ、また作家が作品をしたためることの凄みを感じてしまうのだ。

そしてこの3章で書かれる伴侶の死に、その悲しみの本質に、バーンズは安易な同情や共感を求めようとしない。本書の中でバーンズは、病床にある妻の間近の死に際し、同様の体験本を幾つか購入し、否応なく訪れるであろう悲嘆への心の準備をしようとしたが、それらは、全く役に立たなかったという。悲しみは、どれも個別のものであり、何かと同じとか、似ているということはないのだという。これは、バーンズのこの本を読む我々にも当てはまる。バーンズの悲しみは、理解することも、想像することもできるけれども、しかしバーンズの悲しみそれ自体を、体験することは決してできないのだ。けれども、読者への共感と追体験を描く職業作家が、共感と追体験の不可能性へと辿り着いてしまうということが、逆に否応なく彼の悲しみの深さを浮き上がらせてしまうのだ。

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20170525(Thu)

[][]御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』 御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』を含むブックマーク 御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』のブックマークコメント

■Teesri Kasam (監督:バス・バッタチャリヤ 1966年インド映画)

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1966年にインドで公開された『Teesri Kasam』は一人の御者と踊り子との淡い恋を描いた作品だ。主演にラージ・カプール、ヒロインにワヒーダ・レーマン。タイトルの意味は「三つの誓い」といったものらしい。

《物語》牛車の御者を生業とするヒラマン(ラージ)は、闇市の品物、竹材と、どれも厄介事ばかり起こす荷物に辟易していた。もうこんなものは二度と積まない…そう心に誓うヒラマンの次の荷物は女性客だ。うへえ、まさか女怪じゃあるまいな?だがその女性ヒラバイ(ワヒーダ)はとても気さくな上魅力的な女性で、ヒラマンは密かに心ときめかす。ヒラバイは踊り子だった。彼女を巡業先のテントで下したヒラマンは、彼女の踊りを愛おしそうに見ていた。だが、土地の有力者もまたヒラバイの踊りに魅せられ、彼女を強引に自分のものにしようとしていた。

奇妙な懐かしさを覚える物語だった。インドには縁もゆかりもない自分が、どうして60年代のインドの田舎に懐かしさを覚えてしまうのだろう?それは広々とした自然や、貧しくともおおらかに生きる人々や、それらののんびりした時間感覚にあったかもしれない。それと併せ、主人公ヒラマンの朴訥で純情な田舎者ぶりに、どうにもこそばゆい共感を覚えたからかもしれない。なんというかこう、心に和むものを感じる作品なのだ。どこか「日本昔話」に出てくる村のお百姓さんを見ているような気分にさせられたのだ。

とはいえ、物語は決してほのぼのした昔話風というものではない。ヒロインであるヒラバイは、踊り子であることから陰で娼婦呼ばわりされ、土地の有力者からは金さえ積めばどうとでもなる女だと目されてしまう。この作品にはこうした女性蔑視への批判も盛り込まれる。ヒラバイ自身はいつものことと無視するが、ヒラマンにはそれが許せない。騒ぎを起こしヒラバイに迷惑をかけ、いさめられると不貞腐れる。しかしヒラバイはそんなヒラマンの純な心に癒される。ヒラバイはいわば「成熟した大人の女」であり、ヒラマンの思うような「可憐な乙女」ではなかったけれども、彼の無心な一途さに心洗われていたのだ。

しかしドラマは決してロマンスの成就へ向かおうとはしない。所詮純朴な田舎者と世知に長け芸事に秀でた踊り子では釣り合わないのだ。夢の如き愛の妄想の後につきつけられる現実の味はどこまでも苦い。こうした「寸止めのロマンス」がこの作品を奇妙に切なく、そして非凡なものにしている。この展開を観て何かに似ているなあ、と思ったら日本が誇る人情喜劇『男はつらいよ』だった。主人公寅次郎は美しいヒロインに恋しながら常にそれは成就しない。それはヒロインが、寅次郎を愛しつつ住む世界の違いを如実に感じていたからなのだろう。こうして物語はインド版『男はつらいよ』とも呼ぶべきペーソスに溢れた展開を見せてゆく。

主演のラージ・カプールはそんな、朴訥でおっちょこちょいな「インド版寅さん」を哀歓たっぷりに演じ、ひょっとしたら彼のベスト・アクトのひとつかもしれない(まあそんなに沢山ラージ・カプール主演映画観て無いんだけどね)。ちょっと太り過ぎている部分はあんまり「貧しい村人」っぽくは見られないんだが。そしてヒロインのワヒーダ・レーマン、踊り子が主演の作品ということもあって、舞台で演じられる彼女の歌と踊りのシーンは、本当にどれも美しく楽しいものだった。ああそうだ、この時代のインドのサウンドトラックの、チャカポコしたリズムと旋律が、なんだか日本の祭囃子と似てなくもなくて、それでオレはなんだか懐かしい、と思ってしまったのかなあ。モノクロのクラシック作品ではあるが奇妙に記憶に残り愛着の湧く一作だった。

20170524(Wed)

[]エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (後編) エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (後編)を含むブックマーク エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (後編)のブックマークコメント

■ウイングス・オーバー・アメリカ / ポール・マッカートニー&ウイングス

ウイングス・オーヴァー・アメリカ

エルトン・ジョンのアルバムと同様に部屋でしょっちゅう流していたのがポール・マッカートニー&ウイングスのライブ・アルバム『ウイングス・オーバー・アメリカ』だ。LPレコードで出ていた当時は『ウイングスU.S.Aライブ!』という日本タイトルだったと思う。これも中学の時によく聴いていたアルバムだった。

中学生の頃、周りがビートルズ・ファンだらけだった。中学生のクセにソロも含め殆どのアルバムを持っている奴までいた。しかしオレはというと、そんなに興味が無くて、友人から借りた『アビーロード』と『サージェント・ペパーズ』をカセット・テープに録音して聴いていたぐらいだった。この2枚のアルバムはロック史に残る名作アルバムではあり、オレもこりゃスゲエと思って聴いてはいたが、かといってもっとビートルズを!という風にも思わなかった。当時のオレからしてもビートルズはとっくの昔に解散したバンドであり、現在進行形の、もっと新しくて、刺激的な、今聴くべきロック・バンドやアーチストは山ほどいたからだ。

ポール・マッカートニー&ウイングスに関しても、知ってはいたがやはりそれほど興味が湧かなかった。だが、かのバンドの曲で、ひとつだけ頭に残って離れなかった曲があった。実はこれも映画繋がりなんだが、ポール・マッカートニー&ウイングスが手掛けた『007/死ぬのは奴らだ』のテーマなのである。いやなにしろ、中学生の頃はロックよりも映画だった(映画自体は小学生の頃観たんじゃないかな)。

このアルバム『ウイングス・オーバー・アメリカ』がリリースされたのはそんな時期だった。その当時、FMラジオの音楽番組で放送される音楽を録音する「エア・チェック」というのが流行っていて(まあ流行っていたというよりはお金が無くてレコードを買えない中学生には、音源を手に入れる大きな手段だった)、FM番組表の載ったFM雑誌(当時そんなのがあったんですよ)で『ウイングス・オーバー・アメリカ』が放送されると知り、早速エア・チェックすることにしたのだ。知っている曲は『死ぬのは奴らだ』だけだったけどね。

エア・チェックした『ウイングス・オーバー・アメリカ』は実にゴキゲンなアルバムだった。そりゃもうノリノリだった(古臭い表現をお許しください……なにしろ当時の感覚ですから)。『死ぬのは奴らだ』は当然盛り上がったがその他の曲もよかった。だが残念に思ったこともあった。それは、FM番組ではこの『ウイングス・オーバー・アメリカ』を全て放送しておらず、即ちアルバム全てを楽しむことが出来ていないからだ。しかし、たいていはアルバム全曲放送するFM番組でこのアルバムが全曲放送されなかったのはそれなりに訳があった。

なんとこの『ウイングス・オーバー・アメリカ』、LPレコード3枚組だったのである。当時3枚組のLPレコードといえば5、6千円はしただろうか。1枚もので2500円、2枚組で4千円ぐらいだったと思う。なにしろ中学生の小遣いではちょっと手の出ないものだった。お年玉を貯めに貯め、清水の舞台から飛び降りるつもりでイエスの3枚組ライブアルバム『イエス・ソングス』を買ったことがあったけれども、イエスは欲しくてたまらなくて買いはしたが、『ウイングス・オーバー・アメリカ』は興味津々でありつつも大枚はたいて買うべきものなのか、迷いに迷っていたのである。それからというものレコード店に行ってはこのアルバムを手にしては(3枚組だから非常に重い)買わずに帰ってくる日々が続いたのである。

それから十余年、いや20年以上経ってからか、サラリーマンになったオレは積年の恨み(?)を晴らすべく、CD2枚組となったこのアルバムをやっと手に入れることが出来た。買ったことで達成感はあったが、実の所、このアルバムはその頃聴いていた音楽ジャンルとあまりにもかけ離れていたため、殆ど聴かなかった、という余談もあったが。

そんなアルバム『ウイングス・オーバー・アメリカ』を、今再び引っ張り出し、何度もリプレイして聴くようになるとは、人間不思議なものである。この背景は、先に書いたエルトン・ジョン同様、「中学生の頃とてもよく聴いていた音楽だった」という懐かしさがあったからだろうと思う。そして、『ウイングス・オーバー・アメリカ』以外のポール・マッカートニー&ウイングスのアルバムを聴きたいとはまるで思わない。なにしろオレが聴きたいのは「昔聴いていたあの曲」だからだ。

「懐かしさ」とは書いたが、同様に昔あんなによく聴いていたはずのボウイやロキシー・ミュージックや、プログレッシブ・ロックは、再び聴きたいと思わないのだ。ニューウェーブ系の音も、別に聴きたいと思わないのだ。そもそも、ロックというのは、ひりひりとした表現なんだと思う。そのひりひりとした表現を聴く側にも、ひりひりとした心象があるのだと思う。だが今の自分は、別にひりひりともしていないし、したくもない。落ち着きたいし、和みたい。年寄りだからだ。エルトン・ジョンもそうだが、ポール・マッカートニーの楽曲センスも、ロックではなくポップ的なものであると思う。その辺が、「部屋で流しっぱなしにできる賑やかなタイプの音楽」として楽しめた側面だったのではないか。

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20170523(Tue)

[]エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (前編) エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (前編)を含むブックマーク エルトン・ジョンとウイングスを聴いていた (前編)のブックマークコメント

■キャプテン・ファンタスティック / エルトン・ジョン

キャプテン・ファンタスティック+3

「2月に引っ越してから、なぜかエルトン・ジョンポール・マッカートニー&ウイングスばかり家で聴いていた」というお話である。

まあ、別に好きなもの聴いてりゃいいだろ、って事ではあるが、このエルトン・ジョンポール・マッカートニー&ウイングスというのは、実はオレがまだ中学生の頃によく聴いていて、その後全く聴かなくなっていたアーチストだったのだ。今じゃ聴くのはエレクトリック・ミュージックばかりだし、好きなロック・アーチストと言えばデヴィッド・ボウイの名前を挙げるオレではあるが、意識的にロックを聴くようになる前によく聴いていたのはエルトン・ジョンやウイングスやキッスだった。オレにとっていわば「懐かしの」アーチストなのだ。それをなんで今更聴き出したのだろう。

そもそもエルトン・ジョンはオレが初めてロックのシングルやアルバムを買ったアーチストだった。中学の頃から映画好きだったオレは、映画のサントラレコードのシングル盤を買うのを趣味としていたが、ケン・ラッセル監督のロック・オペラ映画『トミー』のサントラとしてエルトン・ジョンのシングル『ピンボールの魔術師』を買って聴いた時は、その凄まじくもまた煌びやかなキーボード・プレイに文字通り"ノックアウト"された。このシングルがオレにとってロックの入り口だった。

まあ、エルトン・ジョンは現在ではロックというよりはポップ・アーチストとして認識されているようだが、とりあえず当時のオレにとってあれがギンギンにロックだった。その後エルトン・ジョンの有名なアルバムとしてこの『キャプテン・ファンタスティク』や『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』なんかを購入してよく聴いていた。『キャプテン・ファンタスティク』はその微妙に暗いファンタスティック風味のジャケット画が好きで、レコードに封入されていたポスターを部屋に貼ったりしていた。

まあしかし、アルバム『キャプテン・ファンタスティク』は、「ギンギンにロック」というものでもなく、ピアノをメインとした、非常にセンチメンタルでノスタルジックな味わいのポップ・アルバムではあった。しかし完成度は異様に高かった。中学生には最初ちょっぴり静かすぎたが、そのうちずっぽりとハマっていった。そういう年代でもあったのだ。

まあそれはそれとして、何故この今、昔よく聴いていた、エルトン・ジョンだったのか。これはひとえに、引っ越し先のアパートではあまり大きな音で音楽をかけることが出来ず、とりあえずエレクトリック・ミュージックは部屋でかけなくなっていたことがある。それと、荷物の整理が済み新しい家具が揃えられた部屋がとても落ち着けたものだから、なんだかその平和な環境が、長閑だった中学生の頃を思い出させたことがあるのかもしれない。まあ、それまで住んでいた部屋があまりに殺伐としていたからな。オレもすっかり歳だし、新しいものよりは、懐かしいものに囲まれたかったからなのかもしれない。この辺はちゃんと分析できないな。

整理の終わった新居では、数週間ぼけっとばかりしていた。引っ越し疲れもあったが、今までみたいに、時間に追われながらあれやこれやをやるのが嫌だった。あの頃、ブログの原稿もまるで書かなかったし映画館にも行かなかった。もうブログも映画も止めていいかな、とまで思っていた。そのエアポケットみたいな環境に、昔懐かしい音楽はよく馴染んだ。

とはいえ、今は以前のように時間に追われながら映画を観てブログ原稿を書いている。エレクトリック・ミュージックも、小さい音ながら、部屋でしょっちゅう流している。結局前の生活と変わらない。でも、このエルトン・ジョンのアルバムは(『グッバイ・イエロー・ブリック・ロード』も含め)、やっぱり今でも素敵だと思っているし、前より頻度は減ったがたまに引っ張り出して聴く。そういやジャズのアルバムもよく聴くようになったな。やっぱりリラックスしたいんだろうな。

(後編へ続く)

キャプテン・ファンタスティック+3

キャプテン・ファンタスティック+3

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20170522(Mon)

[]カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだ カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだを含むブックマーク カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだのブックマークコメント

■人みな眠りて / カート・ヴォネガット

人みな眠りて

カート・ヴォネガットの没後10年だという。ヴォネガットの死に際してはこのブログに弔辞めいたものを書いたことがあるので(カート・ヴォネガット氏死去 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)、そうか、このブログ自体もう10年以上書いているのか、というヴォネガットと全然関係ない感慨まで抱いてしまった。

その没後10年に合わせたわけでもないだろうが、この度ヴォネガットの未発表短編集『人みな眠りて』が刊行された。ヴォネガットがまだ駆け出しの作家だった頃、タイプしたまま引き出しに仕舞いっぱなしだった没原稿集だという。実は2014年にも同じ初期没原稿集『はい、チーズ』が刊行されていたのだが、まだまだ残っていたということらしい。この『はい、チーズ』についてはこのブログでもこんな感想を書いた。

今は亡きヴォネガットのお蔵出し短編集『はい、チーズ』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

この『人みな眠りて』の帯には「これでお別れ。最後の短編集」といった惹句が書かれているが、訳者あとがきを読むと実はまだ訳出されていない落ち穂拾い的な書籍が幾つかあるのらしく、多分これもいつか刊行されるのだろう。

どちらにしても以前出た『はい、チーズ』にしろこの『人みな眠りて』にしろ作者の没後に発見されたお蔵入り原稿集ということなのだが、"お蔵入り"だったにも関わらず質の高い短編が並んでおり、"クオリティが低かったので今まで発表されなかった"というのとはわけが違う。多分ヴォネガット自身にとっては「生活費の為に書き飛ばした三文小説」とばかりに個人的な評価が低かったのだろうが、そもそもが高いテクニックを持った作家の作品だけに、どれも遜色なく"読ませる"作品なのだ。確かに生前発表されていた長編や短編集と比べるとシニカルさや批判の度合いがかなり薄められており、「ヴォネガットならでは」といった作品ではないにしろ、逆に「ヴォネガットだからこそ」高水準な作品だったりするのである。そういった癖のなさ、といった点では、ヴォネガット・ファンにもそうでない人にも十分楽しめる作品集となっている。

個々の作品をそれぞれ紹介することはしないが、なにしろ全体的にヴァラエティに溢れ、さらに短編ならではの軽妙で軽快な作品が多く並ぶ。若干オチの伝わりにくい作品もあるのだが、その辺は没原稿の愛嬌ということで良しとしよう。どの作品にも共通するのは、どこか問題があったり、人生の厳しい岐路に立たされたりする登場人物たちへの、ヴォネガットの暖かなまなざしを感じる部分だ。かつてヴォネガットは亡父に「おまえは小説の中で一度も悪人を書いたことがなかったな」と言われたというが、人はそれぞれに已むに已まれぬ理由と事情を持ち、時としてどうしようもない運命に直面しなければならなくなる存在である、というヴォネガットらしい人間への共感と同情がそこにあるからなのだろう。

もうひとつ感じたのは、これらの作品が書かれたアメリカ50年代の、その戦後景気に沸く輝かしい黄金時代の雰囲気が如実に伝わってくるという部分だ。ひょっとしたらアメリカの50年代は、その豊かさと楽観性において人類で最強の時代だったのかもしれない、とすら思わせる。もちろんこれは"アメリカ中流白人にとっての"という但し書きが付き、実際は冷戦の存在と激動の公民権運動が繰り広げられていたことは忘れてはならないけれども、こと"アメリカ中流白人"にとって、大量生産と大量消費、それを支える雇用と給与の充実による、最も成功した資本主義経済の恩恵を預かっていただろうということは間違いないと思う。

この『人みな眠りて』の原稿を書いていた時代のヴォネガットは、好景気を反映して高額の原稿料で高級紙にその短編を掲載していたというが、そういった読者層に合わせた作品であることを考えれば、「豊かで安定した国アメリカ」がまず前提にあったとしてもおかしくはない。ただ実際の当時のヴォネガットは個人的にも家庭的にもあれこれ問題を抱えていたらしく、そうした生活と「豊かで安定した国アメリカ」という世相の間に乖離があったであろうという想像もできる。そして第2次大戦における彼のドレスデン従軍体験は、これらの豊かさと楽観性を、単なる幻想にしか過ぎないと看過していたことだろう。

ヴォネガットはこうして「アメリカ黄金の50年代」の豊かさを描いた短編小説を家計の為に書き飛ばしながら、大量生産と大量消費の果てにある資本主義社会ディストピアを描いた処女長編『プレイヤーピアノ』を遂に書き上げるのだ。こうした作家史の一環を垣間見せるといった点でも、この作品集の存在はユニークと思えるのだ。

はい、チーズ

はい、チーズ

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20170519(Fri)

[]ジェフ・ダロウの超絶描き込みアメコミ作品3作〜『ザ・ビッグガイ』『少林カウボーイ』『ハードボイルド』 ジェフ・ダロウの超絶描き込みアメコミ作品3作〜『ザ・ビッグガイ』『少林カウボーイ』『ハードボイルド』を含むブックマーク ジェフ・ダロウの超絶描き込みアメコミ作品3作〜『ザ・ビッグガイ』『少林カウボーイ』『ハードボイルド』のブックマークコメント

■ジェフ・ダロウというアーチスト

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アメコミ・アーチスト、ジェフ・ダロウのコミック2冊が日本でも立て続けに発売されることになり、ここでザックリと紹介してみたいと思う。彼のプロフィールについてはこちらこちらのリンクを参考にしてもらうとして、このジェフ・ダロウ、なにしろ物凄いアーチストなのである。何が凄いって、それはグラフィックのとんでもない描き込みの量なのである。

それはフォトリアルな緻密な描き込みというのではない。ジェフ・ダロウの本領はまずモブ・シーンで発揮する。ページ4分の1ぐらいの大きさのコマに40人ぐらい平気で描き込むし、これが見開きページともなると100人200人は優に超える人間を描き込む。この辺、コピペもあるのかもしれないが、この人だったら実際に全部描いてるんじゃないのかと思わせるような膨大な人物量なのだ。

そしてもう一つは破壊描写の際の、空中を舞いさらに地面にばら撒かれる、破砕した物体の細々とした描き込みだ。爆風や煙で誤魔化すのではなく、微速度カメラで撮影された映像のように、飛び散るそれらを一つ一つちまちまと描き混んでいるのだ。破壊描写に限らず、地面には常にゴミやらなにやらのオブジェが散らかっており、血糊や血飛沫さえポチポチチマチマと克明に描写され、「それは別に省略しても構わないしあえて描く必要もないんじゃないか」と思えるにもかかわらず、でもやっぱり描き込んであるのだ。

そうして生み出されるのは、眺めているだけで目が回り気が遠くなりそうな幻惑性と、有無をも言わさぬ圧倒的な迫力である。ページを繰る度、コマを見る度、「なんでここまで描き込まなければならないんだ?」と呆然としてしまう。そしてそんなページなり一コマ一コマを、何がどう描き込まれているのかじっくり舐めるように眺めてしまう。そんなとんでもない吸引力を秘めたグラフィックがジェフ・ダロウの魅力なのだ。

今回発売となる作品は『少林カウボーイ』と『ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット』。さらに日本では1994年に発売された『ハードボイルド』をここで紹介する。

■ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット

ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット (G-NOVELS)

この作品は日本が舞台となる。遺伝子操作実験の暴走により生まれた"トカゲ状の"巨大怪獣が、(多分)東京の街をなぎ倒してゆくのである。まあ、要するに『ゴジラ』である。それに対抗するため日本政府が送り出したのは、巨大ロボ「ザ・ビッグガイ」と、小型少年ロボ「ラスティ・ボーイ」であった、というのが本作である。まあ、要するに『鉄人28号』と『鉄腕アトム』である。つまりこの『ザ・ビッグガイ』、日本を舞台に『ゴジラ』『鉄人28号』『アトム』が暴れまわるという、とても安直なジャパニーズ・ポップ・カルチャーへのオマージュで成り立っている作品なのだ。しかし原作が『シン・シティ』『300』のフランク・ミラーであり、それをジェフ・ダロウのグラフィックでもって描かれているものだから、一筋縄の「ロボットVS怪獣バトル」という訳にはいかないのである。ここでもジェフ・ダロウの超絶描き込みが炸裂するのだ。破壊されるビルの細かな砕片の一つ一つ、吹き飛ばされる車両のディティール、逃げ惑い右往左往する人々の一つとして同じものの無いポーズ、そして東京のみっちりと密でごみごみした街並みが、これでもかこれでもかと微に入り細に渡り描き込まれているのだ。おまけに怪獣の毒液でモンスターに姿を変えられた人々が通りを埋め尽くして暴れまわり、しかもそれがそれぞれに姿が違うものだから、画面の情報量が過飽和に達しているのである。「ロボットVS怪獣バトル」であるにもかかわらず、もっと異様なものを見せられているのである。日本の閣僚や自衛隊の皆さんも登場するので、『シン・ゴジラ』でヤラレタ人も読むといいのである。ただ『ゴジラ』というよりはどっちかっていると『クローバー・フィールド』に近いもんがあるが。

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■少林カウボーイ

少林カウボーイ SHEMP BUFFET (G-NOVELS)

この『少林カウボーイ』は何故かカウボーイ・ルックの拳法使いのおっさんが、ゾンビの群れを延々倒してゆく、という"だけ"のコミックである。主人公のおっさんは"少林"から連想されるような精悍な肉体をしているわけではなく、割と緩い体型をしている。作者は「勝新太郎座頭市からインスピレーションを得た」そうだから、このルックスはそのせいなのだろう。だからこのコミックでも座頭市が百人斬りをするかの如くゾンビを斬り倒してゆくのだろう。しかし少林カウボーイの武器は仕込み杖ではなく、長い棒の両端にチェーンソウが取り付けられたものだ。まあ、素直に、バカな武器だな、としみじみと感嘆する。で、このダブルチェーンソウをぶんぶん振り回しながらゾンビの群れを切り刻んでゆくのだが、なぜゾンビなのかは、実はよく分からない。しかしとりあえずゾンビだから倒さねばならない。で、このコミックの狂った所は、殆どのページが、異様に描き込まれた無数のゾンビを、少林カウボーイがただただ切り刻んでゆく、鉄拳を打ち込んでゆく、というそれだけのシチュエーションを、数10ページ、数10コマに渡って、ひたすら延々と描き込まれてある部分である。正直、物語もカタルシスもないのである。読んだ人は例外なく「なんだこれは」と唖然とするだろう。「まだ続くの?全部これなの?」と呆れ返るだろう。そして、描かれる殆どのゾンビは、よく見るとそれぞれ刺青がしてあり、さらにセミの幼虫が無数にたかっている。なぜこんなものをいちいち描き加えるのだ?と思う。訳が分からない。とはいえ、実はこれ、コミック1冊丸々使ったコンセプチュアル・アートということもできはしないだろうか。

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■ハードボイルド

ハードボイルド

この作品は『ザ・ビッグガイ&ラスティ・ザ・ボーイロボット』に先駆け、フランク・ミラー原作・ジェフ・ダロウ画により1990年に発表されたものだ。日本語翻訳版は1994年に発売され、オレが最初にジェフ・ダロウを知りその作品に衝撃を受けたのもこの作品からだった。日本語翻訳版は現在廃刊となっているが、それほどややこしいお話ではないし、ジェフ・ダロウのグラフィックをとことん楽しみたいだけなら、現在も発売されている洋書を入手すればよいのではないかと思う。で、この『ハードボイルド』、タイトルから渋い探偵物語を連想させるけれども、実はSF作品なのだ。舞台となるのは未来の(多分)アメリカの都市、主人公は収税官吏ニクソン。収税官吏とはいえそこは混沌とした汚濁の未来都市、ニクソンはブラスターガン片手に暴れまわることになるのだ。しかもこのニクソン、実はアンドロイドなのだが自分ではそれを知らず、その隠された来歴により自らのアイデンティティを崩壊させてゆく。その崩壊する自我の中でニクソンは暴走してゆき、さらなる破壊と殺戮を生み出してゆくのである。いってみれば『ブレードランナー』を『ダイ・ハード』のタッチで描いたのがこの作品だということもできる。そして例によって、この作品でもジェフ・ダロウは狂気の如き描き込み量を見せつける。おまけに全編に渡り凄まじいバイオレンスとアクションが展開してゆくので、どのページにおいても大量破壊と大量殺戮がつるべ打ちとなって描かれており、そのいちいちに事細かな描き込みが成されているため、読んでいて目を見張ること必至だろう。それによりこの作品は、非常にショッキングな、そして美味しいものとして仕上がっている。今回紹介した3作品の中でもダントツの問題作であり名作だろう。SF、バイオレンスの好きな方は是非入手して読んでもらいたい。

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ハードボイルド

ハードボイルド

Hard Boiled

Hard Boiled

20170518(Thu)

[]「海」と「異類婚姻譚」~映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『レッドタートル ある島の物語』 「海」と「異類婚姻譚」~映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『レッドタートル ある島の物語』を含むブックマーク 「海」と「異類婚姻譚」~映画『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』『レッドタートル ある島の物語』のブックマークコメント

■「海」と「異類婚姻譚

アニメ作品『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』と『レッドタートル ある島の物語』をやっと観た。両方とも去年劇場公開されていたのだが見逃していて、この間ソフト発売されたのだ。共にヨーロッパ資本の入ったアニメーションであり(ただし『レッドタートル』は日本のジブリとの共同製作)、どちらかというとアート・アニメに近い感触の作品だ。そして面白いのは、どちらも「海」が重要なキーワードとなり、さらに「異類婚姻譚」を扱っているということだ。

異類婚姻譚」とは日本の昔話でいうと「鶴女房(鶴の恩返し)」であったり、グリム童話でいうと「蛙の王様」のような説話のことである。動物が人間に姿を変え、あるいは人間が動物となり、人間と婚姻を結ぶのだ。これらは古代の族外婚による信仰、生活様式の違いに起源を求める説があるという*1。では作品をざっくりと紹介してみよう。

■ソング・オブ・ザ・シー 海のうた (監督:トム・ムーア 2014年アイルランド・ルクセンブルク・ベルギー・フランス・デンマーク映画

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《物語》海ではアザラシ、陸では人間の女性の姿をとる妖精・セルキー。そのセルキーの母親と人間の父親の間に生まれた兄妹。妹が生まれた夜、母は家族を残して突然海へと姿を消してしまいました。そして妹シアーシャの6歳の誕生日、兄妹はおばあちゃんに町へ連れて行かれますが、そこで突然、シアーシャがフクロウ魔女マカの手下に連れ去られてしまいます。兄のベンは妹を救うため、消えゆく魔法世界へと不思議な旅に出発します…。アイルランド神話を基に描く、幼い兄妹の大冒険、そして別れが、絵本から動き出したかのような、息を呑む圧倒的な映像美で紡がれていきます。(HPより)

「絵本から動き出したかのような」とあるが本当に凝った絵本を紐解いているかのような気にさせる美しい意匠に溢れたアニメだった。その意匠の中にはスコットランド先住民族であるピクト人の遺跡装飾を模したものも含まれ、物語の幻想性を高めている。そういえば以前『第九軍団のワシ』という映画を観たことがあるが、あれに登場したローマ軍と戦う異様な風体の蛮族がピクト人だったのだろうか。

と同時にこの作品はいわゆる「宮崎アニメ」並びに宮崎駿がかつて在籍していた東映動画のアニメ作品の影響が如実に表れている作品でもある。正直ここまで似せなくとも、と思ったぐらいだ。最も連想させたのは『崖の上のポニョ』だろう。あれも海を舞台としたファンタジーだったし、他にも『隣のトトロ』や『千と千尋の神隠し』を思わせるシーンやキャラが幾つかあった。そういった部分で妙な既視感を覚えてしまい、少々新鮮さに乏しく思える部分が無きにしも非ずではあった。

ところで、紀元8世紀にスコットランドに併合され姿を消したピクト人は、文字を残さなかったため"謎の部族"と呼ばれているのだという。そして物語に登場する妖精たちがこの「太古に消え去った部族」の精霊化した姿だったのかと考えるとまた物語世界の幅が広がるのではないか。即ちここで描かれる「異類婚姻譚」は、現代人の中に眠る太古の存在の"血"を甦らそうとした試みであり、また、時を超えてやってきた過去からの声である、と考えるのも面白い。この作品はそもそもがアイルランド神話に基づいてるそうだが、神話と現在を結びつけることで、今現代に生きる者が何者であり、どこから来てどこへ行こうとする存在であるのかを、ファンタジーの形で指し示そうとしたのがこの物語なのかもしれない。

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■レッドタートル ある島の物語 (監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ビット 2017年日本・フランス・ベルギー映画

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嵐の中、荒れ狂う海に放り出された男が九死に一生を得て、ある無人島にたどり着いた。必死に島からの脱出を試みるが、見えない力によって何度も島に引き戻される。絶望的な状況に置かれた男の前に、ある日、一人の女が現れた――。(HPより)

そこへゆくとこの『レッドタートル』はジブリ提携作品ながらまるでジブリの匂いのしない面白い作品だ。そして一つの島を舞台に殆ど人間が登場せず、また台詞が一切なく、さらに物語もグラフィックも徹底したミニマリズムを貫いているといった部分で野心的な作品である。調べると監督は2000年に発表された短編アニメ作品『岸辺のふたり』の作者だというではないか。あの作品もシンプルなグラフィックと語り口調の中に眩いばかりの情念の煌めく傑作だった。

物語は無人島に漂流した一人の男と、不思議な"アカウミガメ"が化身した女との「異類婚姻譚」となるが、しかし、ドラマのようなドラマが語られることは無く、無人島における男の孤独と絶望、そこに現れた女とのささやかな幸福に包まれた日常、そして……という事がらが、ひたすら淡々と描き続けられるだけなのである。にも関わらず、この作品は全く退屈させられる部分が無かった。

それはまず、空と海と島、という非常にシンプルなグラフィックで構成されていながら、注意深く見るならそれらが非常に丹念に質感と色彩を再現している部分に感嘆させられるのだ。海の水の透明感の凄まじさ、島に生える草木の細かに描かれた葉の一つ一つ(プロシージャルか?)、浜辺の岩のざらざらとした質感がグラデーションを成している様、それらが混然一体となり迫真的な世界を形作っているのである。

もうひとつ、この世界に登場する生物の動きのリアルさだ。人間キャラはモーションキャプチャーなのかもしれないが、海を泳ぐ亀や浜辺を行き来する蟹の動きのリアルさはなんなのだろう。特に物語に頻繁に登場する蟹の動きの面白さは、実はこの作品の隠れた魅力かもしれない。

そして時間や天候によって刻々と移り変わってゆく光線や自然の事物の動き、その色合いがまた美しい。なにより驚いたのは夜の情景を描く時だ。夜は画面がモノクロになるのである。光がない以上色彩も存在しない訳ではあるが、当たり前のこととはいえアニメーションの表現としては画期的なのではないか。これら卓越した"動き"と"グラフィック"を兼ね備えたこの作品は既にそれだけでアニメーションの中のアニメーションと言っていいのではないか。

さらにその物語だ。島での、一人、あるいは二人での生活を淡々と描くこの物語は、実はそれが寓話であることにいつしか気づかされる。孤絶した島での孤独な生活も、そこから出ていけない男も、そこに現れ男の魂を救った女も、そしてその女が何がしかの化身であることも、全ては寓意なのである。そして寓話であり寓意であるからこそ抽象的なまでにシンプルな物語なのだ。それら寓意が何を現すものであるかは、観る者それぞれの心で解釈すればいいのだろうと思う。興行的には失敗したとされているが、この先10年の世界アニメ史にしっかりと名前を刻む傑作であることに間違いないだろう。

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20170517(Wed)

[]最近読んだ本〜『書楼弔堂 破暁』 最近読んだ本〜『書楼弔堂 破暁』を含むブックマーク 最近読んだ本〜『書楼弔堂 破暁』のブックマークコメント

■書楼弔堂 破暁 / 京極夏彦

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

明治二十年代の半ば。雑木林と荒れ地ばかりの東京の外れで日々無為に過ごしていた高遠は、異様な書舗と巡りあう。本は墓のようなものだという主人が営む店の名は、書楼弔堂。古今東西の書物が集められたその店を、最後の浮世絵師月岡芳年や書生時代の泉鏡花など、迷える者たちが己のための一冊を求め“探書”に訪れる。変わりゆく時代の相克の中で本と人の繋がりを編み直す新シリーズ、第一弾!

京極夏彦の連作短編集『書楼弔堂 破暁』は2013年に刊行された作品だが、自分は最近になって「ああこんなのも書いてたの」と知った程度だった。ところでタイトルは「しょろうとむらいどう はぎょう」と読むのらしいが、「はぎょう」って何なのか今もって知らない。すまん。で、最近Kindleを購入し「さてなんの本を入れるべか」と探したところ何も無く(じゃあなんで買ったんだ)、しょうがないから未読だった京極のこの小説を入れて読んでみた、という程度の興味だった。ちなみに「あ、Kindle購入した本はあいほんでも読めるんだ」と知り、結局全部あいほんで読んでしまった。Kindle?机の引き出しに入ったままだよ!(じゃあなんで買ったんだ)

で、読み終わったんだが、いやなにこれ普通に良作じゃない?あんまりよかったから続編もKindle購入してまたぞろあいほんで読む予定だよ。電車やバスで読むときにいいんだよ。

時代は明治、お話の中心となるのは「弔堂」という辛気臭い名前の古本屋が舞台だ。本屋のクセに「とむらいどう」というのは、「本は墓のようなものだ」という店主の主張によるものらしい。まあ店主自体が辛気臭いのだ。もと坊主だっちゅうし。で、物語は狂言回し役の高遠なる男が、ひねもすのたりのたりしながらなんとなく弔堂に通うようになり、そしてそこに客を紹介したらそれがどいつもこいつも明治時代の著名人だった!?というのがラストで明かされるという仕組みになっている。これら著名人は心に迷いを抱えているのだが、弔堂店主の勧める本によってこれからの指標を見出し、後に名を残す人物になる、という塩梅だ。

まず狂言回し役の高遠という男が、京極小説に頻繁に登場する「とことんやる気のないぼうふらみたいな隠居男」っていうのがいい。この手のキャラはたまにイラつかされるが、オレも年を取ってくるとこういう「やる気のない人生」になんだかとても共感を覚えるのだ。いいのかそれで。そして弔堂店主というのがなにやら「京極堂」シリーズの中禅寺を思わすような人物でまたもやニヤリ。この店主が"本"を通じて相手の"憑き物"を落とす、というプロットも「京極堂」シリーズぽい。この、本ごときで憑き物落としされる明治著名人、というのは少々牽強付会な気もするが、時代の雰囲気をとことん巧く醸し出している文章が、それを気にさせなくしているのだ。

そう、この作品、プロットがどうこうよりも文章がいい。それにより浮かび上がる明治の情景が、これまた実にいい。この辺京極さんの円熟の技だが、このたおやかな文章に浸れるだけでも読んでよかったと思う。そしてその明治の情景は、佐幕・倒幕・尊王攘夷に揺れた激動の時代の後の、内省の時期でもあったのだ。価値観が大きく変わってゆくその時代に、「自分が誰で、何をすべき(だった)なのか?」という、デリケートな問題を、「本との出会い」によって解決しようとする本書は、もうひとつの読書論でもあるのかもしれない。

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

書楼弔堂 炎昼

書楼弔堂 炎昼

20170516(Tue)

[]『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』1作目にノレなかったオレが2作目である『リミックス』を観たのだが 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』1作目にノレなかったオレが2作目である『リミックス』を観たのだがを含むブックマーク 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』1作目にノレなかったオレが2作目である『リミックス』を観たのだがのブックマークコメント

■ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス (監督:ジェームズ・ガン 2017年アメリカ映画)

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最初に正直に書くと、2014年に公開されたマーベルヒーロー映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』には、まるでノレなかったオレである。大宇宙を舞台にちょっとやさぐれたヒーローが活躍し、異郷の惑星!スペースシップ!エイリアン!宇宙戦争!といったものが画面に躍るいわゆる「お気楽スペースオペラ」は、オレのようなSF好きには格好の作品だった筈なのに、あにはからんや、つまらなかったのである。

しかし映画は周囲に大絶賛で受け入れられているのではないか。これはもう、作品の質の是非というよりも、オレに合わなかった、ということなのだろう(この辺はブログ記事『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はオレには合わなかったが、それは映画のせいじゃない、オレのせいだ。 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミで書いた)。

それにしてもなぜ面白く観られなかったのだろう、と思ったのである。むしろ、面白く観たかった、とすら思ったのである。面白く観られなかったことが残念だったのである。そして今回続編である『リミックス』が公開されると聞き、オレは「今度こそ面白く観たい」と思ったのである。そしてもう一つ、実は前作は劇場ではなく自宅でBlu-rayでの視聴だったからではないか、と思ったのである。

実はこのBlu-ray、「きっと買ってもいいぐらいに面白いに違いない!」とわざわざ購入しての視聴だったのだ。オレなりにリスペクトはしていたんだ。しかし劇場と自宅では視聴環境は雲泥の差だ。オレはここで「ちゃんと劇場で観れば!きっと!面白いに違いない!」と自分を鼓舞したのだ。だから、前作が合わなかったつまらなかったとか言っていたにもかかわらず、初日に観に行ったのだ。この辺の心掛けだけでも、ファンの皆さんは少しは許してもらえるだろうか。

という訳で劇場で観た『リミックス』、ええと、『スターウォーズ帝国の逆襲』で『ルパンVS複製人間』で『マンオブスティール』でちょっと『エクスペンダブルズ』と『タクシードライバー』が混じってて、結論的に言うなら『ワイルドスピード』だった。そういう映画だった。え、面白かったかって?あ、う〜ん……。

劇場で観ることの迫力と醍醐味は確かにあった。少なくともつまらなくはなかったし、楽しめた部分は多かった。映画を観ながら懸命に「ツッコミ禁止!ツッコミ禁止!」と自分に言い聞かせ、「きっと楽しい!きっと楽しい!」と思い込もうとしていた。しかし観終ってみるとやはり、悪くはないが良くもなかった。物語にしてもキャラにしてもあちこちにばらまかれたフックにしても外連味たっぷりで、というか殆ど外連味しか感じなかったのだが、その外連味が「好き」か「好きになれない」かしかない映画なのだなあ、と思えた。

特にキャラクターが、やはりダメだった。全員出オチ感丸出しな方々だった。主人公にはあまりに薄っぺらい人格しか感じなかったし、アライグマはアライグマにしか見えなかったし、ちっちゃい木は「どうです可愛いでしょ!」とツイッターで猫画像連投されている時の気分にさせられたし、筋肉男は雛壇芸人程度の賑やかし役だったし、青男は青かったし、触覚女は目ん玉フォトショ女を思わせたし、何と言っても緑女が、大変申し訳ないのだが、オレにはビジュアルが気色悪すぎて、ずっと違和感以外のモノを感じなかった。「肌の色で人を差別するなんてレイシストのやることだわ!ヒドイ!」とかどうか言わないでくれ。そんなつもりじゃないんだ。頼む。この通りだ。

こういったキャラも含めてSF的なビジュアルが香港のタイガーバームガーデンや台湾の金剛宮やベトナムのスイ・ティエン公園やシンガポールのハウパーヴィラやタイのワッパーラックローイみたいだった。どういう意味かはあえて聞かないでくれ。すまない。大変にすまない。こうして謝っているので許してほしい。

いや、よかった部分もある。金色星人だ。金星人ではない。あいつら顔からなにからみんな金色なのな。スゲエよな。だって金色なんだぜ?頭悪すぎだよな。おまけにタカピーなのよ。金色だから。こいつらが金色のバトルシップを遠隔操作して襲ってくるんだよ。スゲエよな。なにしろ金色だし。しかしそれにしてもやっぱりウンコも金色なんだろうか、と考えてたら映画どころではなかったよ。いや、重ね重ね、すまない、本当にすまない。

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azecchiazecchi 2017/05/19 12:40 めっちゃわかります!(あ、僕は2作目観てませんが) 確かに悪くはないんですけどね。なんかね。

globalheadglobalhead 2017/05/20 14:49 ひどく単純で子供っぽいからなのかもしれません。逡巡も葛藤も苦悩も無くあったとしても取って付けたようなものばかりで、なんだか薄っぺらいなーと思えてしまう。

20170515(Mon)

[]"カルマ"についての物語〜映画『スプリット』 "カルマ"についての物語〜映画『スプリット』 を含むブックマーク "カルマ"についての物語〜映画『スプリット』 のブックマークコメント

■スプリット (監督:M・ナイト・シャマラン 2017年アメリカ映画)

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M・ナイト・シャマラン監督による映画『スプリット』は多重人格!少女誘拐監禁!というサイコ・ホラーだ。主人公である多重人格者をジェームズ・マカヴォイが演じるんだけど、まさか車椅子に乗ってプロフェッサーXの人格まで演じちゃうとはさすが予想を覆すシャマラン映画!(・・・・・・というのは真っ赤な嘘だからな!)

シャマラン映画って色眼鏡つきで語られることが多く、それに影響されオレも食わず嫌いしていたのだが、前作『ヴィジット』(2015)が驚くほど面白く、その後DVDで観た『ハプニング』(2008)がこれまた「嘘だろ?」と思うほど快作だったので、「もうシャマラン映画最高ってことでいいんじゃないか!?」とオレは考えを改めたのだ。

だから今作『スプリット』も、シャマラン映画ということで注目していたのだが、内容が「多重人格」で「少女誘拐監禁」だというではないか。・・・・・・う〜ん、どっちもサスペンスやホラー映画じゃさんざん使われてきたありふれたテーマじゃないか、なんだか食指が動かんなあ、とは思ったのだ。しかしまあそこはシャマラン、なにか変なことをやってくれるに違いない。そう思って劇場に足を運んでみたが、すると確かに、シャマランらしい"定石外し"があちこちに見られる映画として実に楽しむことが出来た。

粗筋はなにしろ多重人格者による3人の少女の誘拐監禁を描く物語だ。ネタバレを避けるため細かい部分には触れないが、この映画における「シャマランらしい"定石外し"」とはどんな部分だったのか。まず設定や状況から予想される"実に(ありふれた・凡百の)ホラー的な"展開に流れていかない、という部分だ。それは精神および肉体への陰惨な虐待や凌辱、徹底的なバイオレンスと血!肉体破壊!屠殺!といったようなものである。トラック一杯分の鮮血が奔流の如く流れ畜肉工場のように死体がそちこちに転がる、といったものではまるでないのだ。『スプリット』批判の多くはそういった(ありふれた・凡百の)ものを期待して観に行き肩透かしを食らったということなのだろう。しかしちょっと待っていただきたい、これはトビー・フーパ―ではなくシャマラン映画なのだ。

シャマランは定石を描かない。ここでポイントとなるのは犯人が「多重人格者」ということで、つまり犯人の中に誘拐の実行犯と協力者、誘拐の是非よりも実行犯が怖くて口を出せない者、さらに傍観者、そして誘拐のことすら知らない人間がいる、ということになっているのだ。物語においてジェームズ・マカヴォイが演じる"ケビン"が様々な人格を表出させだすところから、単純な(そしてありふれた・凡百の)少女誘拐監禁ドラマは、奇怪な方向へと乱調するのである。その奇怪さは、「ちょっと変」でもある。なぜなら「定石を外すことで別個の新たなサスペンスを生もう」とすらしていないからである。この作品は十分サスペンスフルではあるが、シャマランは、それ自体を重視していないのだ。シャマランが描きたかったものはもっと別のものだからだ。

この物語は、サイコ・ホラーであり、サスペンス・スリラーである。だが、こういった題材を扱う他の作品とは展開が微妙に異なることになり、ここでもやはりシャマランらしい"定石外し"が持ち込まれるのだ。通常、これらサスペンス作品には、犯人VS被害者の対決ないし被害者が運と知力でもって状況から脱出する様が描かれる。大まかに見ればこの『スプリット』も同様の構図の中にある。だが、そのクライマックスまで観てゆくなら、犯人または被害者による"暴力"や"相手を出し抜く判断"といった"力の対決"でもって物語を結末に繋げていないのだ。

同じ監禁モノで『10クローバーフィールドレーン』という映画があったが、あれが監禁-懐柔-腹の読み合い騙し合い-暴力-破壊-脱出というある種ストレートな展開だったのと比べると『スプリット』の展開はもっと奇妙だ。それはどこか、「運命」や「宿命」といったものに近い。それは拉致監禁された少女の一人ケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)の生い立ちに関わっている。細かくは触れられないが、この作品と他の同テーマの作品が違うのは、「(結果がどうであれ)自らの"力"で状況を打破しようとすること」と「あらかじめ定められた"運命"のように物語の最後の1ピースがはめられること」の違いであり、『スプリット』は当然後者である。

「運命」とは個人の"力"など及ぶことの無い部分で巡る巨大な車輪の如きもののことである。それは自らの生における行為の結果として蓄積される「カルマ」である。監督M・ナイト・シャマランはインド系アメリカ人であり、両親はヒンドゥー教ではあったが彼自身はアメリカでカトリック系の教育を受けていたという。そんなシャマランではあるが、彼の中に、両親譲りのヒンドゥー的な要素が幾ばくかなりとも存在しているのではないか、とオレは彼の映画を観ながらよく思う。ハリウッド映画ずれした観客からシャマランが誤解を受けやすいのは、彼の中に非欧米的な感性が存在しているからだとは言えないだろうか。

そして映画『スプリット』は、ケイシーとケビンとの、その「カルマ」を、"自らの生における行為の結果としての運命"を描こうとした、実にインド的な物語だったのではないか、とオレは思うのだ。

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ハプニング [Blu-ray]

ハプニング [Blu-ray]

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20170512(Fri)

[]ケン・リュウ小説の進化形〜短編集『母の記憶に』 ケン・リュウ小説の進化形〜短編集『母の記憶に』を含むブックマーク ケン・リュウ小説の進化形〜短編集『母の記憶に』のブックマークコメント

■母の記憶に / ケン・リュウ

母の記憶に (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

不治の病を宣告された母は、誰より愛するひとり娘を見守り続けるためにある選択をする。それはとてつもなく残酷で、愛に満ちた決断だった…母と娘のかけがえのない絆を描いた表題作、帝国陸軍の命で恐るべき巨大熊を捕らえるため機械馬を駆り、満州に赴いた探検隊が目にしたこの世ならざる悪夢を描いた「烏蘇里羆」、脳卒中に倒れ、入院した母を、遠隔存在装置を使用して異国から介護する息子の悲しみと諦念を描く「存在」など、今アメリカSF界でもっとも注目される作家が贈る、優しくも深い苦みをのこす物語16篇を収録した、待望の日本オリジナル第二短篇集。

アメリカで活躍するアジア系SF作家、ケン・リュウの第1短編集『紙の動物園』は素晴らしい作品だった。個人的には現代最高のSF作家の書いた現代最高のSF作品集なのではないかとすら思ったほどである。この作品集については以前自分のブログでこんな記事を書いた。

ケン・リュウの『紙の動物園』は現在最高のSF小説集だと思う。 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

ケン・リュウ小説がなぜこれほどまでに括目すべきものなのか、それは一言でいうなら「西洋的な認識論から書かれたSF世界へのアジア的返答」である点だ。SF小説に限らず、欧米の創作作品にはその根底にキリスト教思想と西洋合理主義・理性主義が無意識的に混入し、そこに立脚した認識によって成立しているようにオレにはどうしても思えてしまう。そこに是非は無いにしても、どうしても西洋的な認識の限界を垣間見てしまうのだ。

しかしケン・リュウ小説はそこアジア的視点を持ち込むことで風穴を開け、一般的と思われがちな西洋的な認識を批評し、それをひとつ飛び越えた、あるいは別個な認識の在り方を提示するのである。要するに、生き方や、生と死、そして生命そのものといった、人間の根本にあるものの見方が、ケン・リュウ小説においては西洋的なそれとはまた違う洞察がなされたものであり、それは西洋文明の持つ苛烈さと孤独さを対象化したアジア的視点なのではないかと感じてしまったのだ。

それはSF世界に登場するデータ化された自我の永遠や不死といった概念に顕著であるように思う。昨今のSFテーマとしてはありふれてしまったものではあるが、ケン・リュウはそこで、「永遠と不死を得た人間は、それは人間と呼べるのか」と問い掛けるのだ。それは「人間を人間たらしめているものはなにか」、そして「人間とはなにか」という問い掛けに他ならない。

益体もないことを長々と書いたが、そのケン・リュウの日本独自編集による第2短編集が出たのだからこれは読まない訳にはいかない。そしてその読後感は、「またしてもケン・リュウの力量にねじ伏せられた」といったものだった。この短編集『母の記憶に』は、第1短編集『紙の動物園』の延長線上にありながらも、『紙の動物園』とはまた違ったケン・リュウの魅力に溢れている。『紙の動物園』は「作家ケン・リュウはSFをどこへ導こうとしているのか」を開陳する作品集だったが、この『母の記憶に』は「作家ケン・リュウはそのストーリーテリングにどれほど高いポテンシャルを持つか」を思い知らせる作品集なのである。

確かに表題作『母の記憶に』は第1短編集表題作『紙の動物園』と同様の甘いセンチメンタリズムを感じさせるし、『残されし者』はシンギュラリティ後の人類を描いている点において『紙の動物園』諸作品と同系列にある作品だ。太平洋戦争時の満州を舞台にした『烏蘇里羆(ウスリーひぐま)』は徐々にファンタジー世界が混入してゆくといった点で前短編集『良い狩りを』に通づるものがある。だが同じオルタード世界を描いた『『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」』の研ぎ澄まされた描写力はなんだ。ここではドラマらしいドラマが起きないにもかかわらず、平行世界の情景をそこにあるかの如く迫真的に描き切っているではないか。

『存在』『シミュラクラ』『ループのなかで』『パーフェクト・マッチ』は最新テクノロジーと人間性との齟齬を描くといった点で従来的なSF作品として楽しむことが出来るが、ここでもケン・リュウの主要テーマは「人間性」ということなのだ。『上級読者のための比較認知科学絵本』は知的なお遊びといった点で面白い作品だ。しかし『状態変化』は「奇妙な味」とも呼べる摩訶不思議な文学だし、『重荷は常に汝とともに』は「SF版ウンベルト・エーコ」といった作品だし、『レギュラー』はいわば女探偵モノのサイバーパンク・ハードボイルド作品じゃないか。『カサンドラ』に至っては映画『アンブレイカブル』を思わせる「反スーパーヒーロー小説」である。このあたりの目も眩むようなバリエーションのありかたにケン・リュウの高いポテンシャルを感じたのだ。

しかし最も凄みのあるのは非SF作品であり中国の歴史ないし中国人を中心に据えた『草を結びて環を銜えん』、『訴訟師と猿の王』、そして『万味調和――軍神関羽のアメリカでの物語』だろう。前者2作は中国の隠された陰惨な歴史を描くものだが、秀逸なのは一筋のファンタジーの色彩を混入することで、それら救いの無い物語に想像力だけが持つ「輝き」を与えたことだろう。本短編集で最も長い『万味調和』はアメリカ開拓時代の中国移民の物語だが、ケン・リュウが非SF作品においてどれだけ高い文学性を発揮することが出来るのかを知らしめる素晴らしい逸品だ。

もはやSFだけにとどまらないケン・リュウの力量の全てを堪能することが出来る短編集『母の記憶に』、『紙の動物園』を読んだ方も読まれていない方も、当代きってのSF作家の紡ぎ出す物語の数々を堪能できる作品集として是非お手に取ってもらいたいと思う。

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

紙の動物園 (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)

yoyoshi yoyoshi 2017/05/13 22:30 1日72時間ぐらい書いてなきゃおかしい国宝。弁護士、エンジニア、小説家、翻訳家、善き夫にして父というスーパーマン。「草を結びて環をくわえん」は皆川博子先生の小説を思い出します。「ウスリー羆」はゴールデンカムイもそうですが、偉大なる王やデルス・ウザーラのイメージも浮かびます。「訴訟師と猿の王」で田が処されるのは凌遅刑ですよね。莫言の「白檀の刑」を思い出します。

globalheadglobalhead 2017/05/14 11:12 ケン・リュウ長編『蒲公英(ダンデライオン)王朝記』はちょっと長すぎて「雰囲気を味わうだけなら1冊だけで十分かな」と思ってたんですが、やはり短編はいいですね。今後ケン・リュウが紹介しているという中華圏のSF作家の翻訳が読んでみたいです。

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20170511(Thu)

[]枯れたイップ・マン〜映画『イップ・マン 最終章』 枯れたイップ・マン〜映画『イップ・マン 最終章』を含むブックマーク 枯れたイップ・マン〜映画『イップ・マン 最終章』のブックマークコメント

■イップ・マン 最終章 (監督:ハーマン・ヤウ 2013年香港映画)

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この間ドニーさん映画『イップ・マン 継承』を観てたいそう面白かったんですが、ドニーさん版とは違うイップ・マン映画があるというので、丁度Amazon Primeにあったもんですからちょっと観てみました。

ドニーさん版『イップ・マン』シリーズ3作はドニー・イェン主演、ウィルソン・イップ監督により『序章』(2008)、『葉問』(2010)、『継承』(2015)と製作されてきましたが、この『イップ・マン 最終章』はハーマン・ヤウ監督、アンソニー・ウォン主演によるイップ・マン映画なんですな。ちなみにハーマン・ヤウ監督は『イップマン 誕生』(2010)というイップ・マンの若かりし頃を描いた作品があります。イップ・マンを題材とした映画にはウォン・カーウァイ監督の『グランド・マスター』(2013)という作品もあり、イップ・マン人気による乱立とも言えますが、個人的には「ま、いーんじゃないの」という感じです。今回は『イップ・マン 継承』を引き合いに出しつつネタバレ気味に書きますのでご勘弁を。

で、この『最終章』ですが、タイトル通りイップ・マンの晩年近くを描いたものになります。なもんですから、主人公イップ・マンを演じるアンソニー・ウォンも、少々老けた俳優さんです。ドニーさんと比べちゃうと最初は見劣りするし、ちゃんとカンフー使えるの?と失礼なことも思ったりしちゃいましたが、物語が始まってみるとこれが、老境のイップ・マンの雰囲気をグイングイン醸し出していて、とてもいいんですね!ドニーさんも落ち着き払い礼節を重んじるイップ・マンを堂々と演じておりましたが、この「落ち着きと礼節」という点では、加齢も加味されてさらに渋く枯れた味わいのイップ・マンを楽しめるのですよ!いざカンフー・アクションとなっても、スピードこそ落ちますが、逆に重量を感じさせ、決して見劣りするものではありませんでした。

お話はと言いますと、なにしろ老境のイップ・マンを描くものですが、舞台となる香港は例によって雇用情勢も治安も悪く、イップマンの門下生がストを起こして警官隊と衝突したりなんかしているんですね。そんな中、白鶴派宗師ン・チョン(エリック・ツァン)とのイザコザや、九龍城のボス、ドラゴン(ホン・ヤンヤン)一派との争いが描かれてゆき、最後は九龍城での大格闘へとなだれ込んでゆくんです。そんなアクション・パートとは別に、イップ・マンの妻ウィンシン(アニタ・ユン)の死、息子(チャン・ソンウェン)と交流、さらにイップ・マンを慕う歌手ジェニー(チョウ・チュウチュウ)との心温まるやりとりが盛り込まれ、ドラマ・パートも充実しているんですね。

白鶴派宗師ン・チョンとのイザコザが、お互いの対決を経て友情へと実を結ぶシーンなどは、実に平和を愛するイップ・マンを思わせるエピソードでしたが、『イップ・マン 継承』でも描かれた妻の死は、この『最終章』ではちょっと流れが違うのが興味を惹きました。調べると実際には『最終章』でのストーリーのほうが史実に近く、『継承』での描かれ方は映画独自の脚色なのですが、逆に『継承』における哀惜極まりない妻とのやりとりは、史実がどうとかとは関係なく、イップ・マンの心の内を描いたものとして優れていたのだな、と思わせました。そもそも数多あるイップ・マン・ストーリーは脚色が多いのらしいですが、「香港にあったある崇高なる格闘家の逸話(フィクション)」として見るならば、少しも遜色ないのではないでしょうか。

もうひとつ目を引いたのは、イップ・マンと歌手ジェニーとのエピソードでしょう。二人の交流はイップ・マンの妻の死を前後するものですが、ジェニーのイップ・マンへの想いは、それは愛だったのでしょう。史実によると「葉問は1人の女性と暮らし始め、女性との間に息子葉少華が生まれており*1」とありますから、これはそれを脚色したものなのでしょうが、映画におけるイップ・マンは、ジェニーになにかと世話を焼かれあるいは焼きながら、決して恋愛には発展しません。とはいえ、日陰の女として扱われるジェニーを思いやるイップ・マンの姿には、「崇高なる格闘家」だけにはとどまらない一人の男の優しさを感じさせました。映画の終わり近くでは病に冒されるイップ・マンの姿も描かれ、『最終章』ならではの哀感がひしひしと伝わってきました。

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20170510(Wed)

[]最近読んだ本〜『終わりなき戦火 老人と宇宙6』 最近読んだ本〜『終わりなき戦火 老人と宇宙6』を含むブックマーク 最近読んだ本〜『終わりなき戦火 老人と宇宙6』のブックマークコメント

■終わりなき戦火 老人と宇宙6 / ジョン・スコルジー

終わりなき戦火 老人と宇宙6 (ハヤカワ文庫SF)

プログラマの操縦士レイフは、気がつくと脳だけの姿で宇宙船につながれ、コロニー連合への兵器にされていた。レイフはその元凶の謎の組織“均衡”に、決死の反撃を試みるが…。そのころエイリアンとの外交任務中のコロニー防衛軍のハリーは、“均衡”の攻撃を受けた地球の宇宙船を救助していた。連合と地球、エイリアン間に争乱を引き起こす“均衡”の目的とは?大人気ミリタリーSF“老人と宇宙”シリーズ第6弾。

75歳以上の老人が徴兵され超科学による肉体改造を施され最強兵士として星間戦争に挑む!というジョン・スコルジーの人気ミリタリーSFシリーズ『老人と宇宙(そら)』シリーズも早6作目である。物語は1巻〜4巻で一度一区切り付き、5巻からは新たな登場人物を配して作品世界を展開することになる。物語の根幹となるのは3つの勢力の虚々実々の争いだ。1つは地球、もう1つは超戦士を生み出す為地球を搾取し続けたコロニー連合、もう1つは異星人連合コンクラーベ。彼らが三つ巴となり、宇宙を戦火に染めるかもしれない一触即発の危機が描かれるのがこの新章となる。

今作『終わりなき戦火』では前作『戦いの虚空』で描かれた宇宙規模の陰謀と凄まじい戦闘が、誰にどのようにしてもたらされ、そしてその陰謀が最終的にターゲットとするものは何なのかが描かれることになる。とはいえ、前作がほぼ4年ほど前に出た作品なので、読んでるオレ、「あれ、これってどんな話だったっけ……」と既に右往左往状態である。

今作は4章に分かれている。1章目「精神の営み」は謎の異星人に脳だけ取り出され戦艦と接続された男を、2章目は異星人連合コンクラーベ内での政治闘争劇を、3章目は独立運動に翻弄されるコロニー連合戦士の日々を、4章目ではこれまでの登場人物たちが集まり銀河に破滅をもたらそうとする勢力との戦いに乗り出すといった塩梅だ。全体的に、物語に登場する勢力同士がなぜいがみ合っているのかが分かっていないと楽しめないので、全作、ないしはせめて5巻ぐらいから読んでいないと辛いかもしれない。

で、感想はというと、実の所ごちゃごちゃとした政治劇が、なんか、燃えない。いや、別にややこしいことは言ってはいないんだけど、スターウォーズI〜IIIの銀河共和国のゴタゴタを思いっきりミニチュアサイズにしたみたいで、ドラマチックさに欠けるんだよな。なんだか現実の世界情勢を思い起こさせちゃうのも、ちょっとシラケる理由かな。そもそもさー、コロニー連合だのコンクラーベの存続だの、別にどうでもよくってさー、なんかかったりいんだよなー。

要するにだな、オレはもっと宇宙戦争してほしいんだよ!もっとこうボッコンボッコンやってほしいんだよ!ロケットやら殺傷弾やらレーザー光線がドッカンドッカン撃ちまくられ、宇宙船やら未来建造物やらがバッコンバッコンぶっ壊れ、沢山の人間がズッコンズッコン惨たらしく死ぬ様を楽しみたいんだよ!なんだよこの頭悪い文章!いーんだよちょっと今作フラストレーション溜まったんだから!あとねー、今作ちょっとユーモア足りないんだよなー。

そんなわけでちょいと食い足りなかった「老人と宇宙」第6巻、これじゃあ続編出ても読むかどうか謎だなー。

ジョン・スコルジーの『老人と宇宙(そら)』4部作読んだ (その1) - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

ジョン・スコルジーの『老人と宇宙(そら)』4部作読んだ (その2) - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

「老人と宇宙」シリーズ第5巻『戦いの虚空』は新たな章の始まりだった! - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

老人と宇宙(そら) (ハヤカワ文庫SF) 遠すぎた星 老人と宇宙2 (ハヤカワ文庫SF) 最後の星戦 老人と宇宙3 (ハヤカワ文庫SF) ゾーイの物語 老人と宇宙4 (ハヤカワ文庫SF) 戦いの虚空 老人と宇宙5 (ハヤカワ文庫SF)

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20170509(Tue)

[]時間と空間を飛び越えた故郷探し〜映画『LION ライオン 25年目のただいま』 時間と空間を飛び越えた故郷探し〜映画『LION ライオン 25年目のただいま』を含むブックマーク 時間と空間を飛び越えた故郷探し〜映画『LION ライオン 25年目のただいま』のブックマークコメント

■LION ライオン 25年目のただいま (監督:ガース・デイビス 2016年オーストリア・アメリカ・イギリス映画)

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インドのある村に住む5歳の少年が兄とはぐれてしまい、夜半ということもあってたまたま停車していた電車に乗り込み眠りこけてしまう。しかしそれは長距離回送電車だった。長い長い距離を降りることもできず助ける者もおらず、そして着いたのは千数百キロ離れた見知らぬ街だった……。映画『LION ライオン 25年目のただいま』はこんな具合に始まります。

少年サルー(サニー・パワール:幼少時)が降り立ったはインドの大都市カルカッタ(現コルカタ)。同じインドでもサルーの話すヒンディー語ベンガル語が中心のカルカッタではまるで通じません。大都市では子供を売り飛ばす業者が暗躍し、サルーはそれから逃げまどいながらカルカッタの街を放浪します。やっと警察に保護されるも、サルーは自分の生まれた村の名前すらうらおぼえで、全く捜索の役に立ちません。そして孤児院に入れられたサルーは、ある日、オーストラリア白人の夫婦に里子に出される事になります。それから25年、立派な青年に成長したサルーでしたが、故郷と母の面影を今だ忘れることが出来ません。そんなある日、友人の一言から、彼はグーグルアースを使って故郷を探すことを思いつくのです。

映画『LION ライオン 25年目のただいま』は、こんな一人の青年の数奇な体験を基にして書かれたノンフィクション本『25年目の「ただいま」 5歳で迷子になった僕と家族の物語』を原作として製作されています。そう、この物語、なんと実話なんですよ。

成人のサルーを演じるのは『スラムドッグ$ミリオネア』でインド人少年を演じたデーブ・パテル。『スラムドッグ』の頃からは見違えるようなイイ男に成長しています。サルーの里親をニコール・キッドマンと『ロード・オブ・ザ・リング』のファラミア役、デビッド・ウェナムが演じています。二人ともオーストラリア出身と言うのが出演の切っ掛けでしょうかね。サルーの恋人役を『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』のルーニー・マーラが演じているのも嬉しいですね。さらにチョイ役ではありますが、インド映画の名バイプレイヤー、ナワーズッディーン・シッディーキーが登場するのなんかはインド映画ファンにとって注目でしょう。そう、この作品、結構有名俳優で固められているんですね。さらに製作は『英国王のスピーチ』の製作チームが関わっているですね。

最初に予告編を観た時、オレはてっきりオーストラリアが舞台の中心として描かれるのかと思ったんですが、観てビックリ、この作品はそもそもの発端であるインドでのシーンを驚くほど丹念に撮っているんですよ。全体的にも半分はインドでのシーンで成り立っているんじゃないでしょうか。最近はインド映画にもすっかりご無沙汰のオレではありますが、こんな形で劇場でインドの光景をたっぷり見られるなんて思ってもみませんでした。もともと豪/米/英製作の映画ではありますが、そんな部分で、インド映画ファンの方にも是非観てもらいたい作品でもありますね。

ネタバレというわけでもありませんが、そもそもこの物語は「インドで迷子になった少年が25年後に故郷を探り当てる物語」です。予告編にもありますが、グーグルアースを駆使し、当時の電車の走行速度を頼りに到着地カルカッタからの半径を割りだし、さらに当時のほんの僅かの記憶から、自分の故郷や出発点の特徴を当てはめてゆくんです。こういった部分がちょっとミステリー仕立てになっていて面白いんですね。主人公サルーは、自分の住んでいた村を「ガネストレイ」と記憶していましたが、こんな名前の村は存在しておらず、そんな部分がまたミステリーっぽいんですよ。25年前なら考えられなかったテクノロジーで行われる探索の旅、それも、グーグルアースという身近なインターネットテクノロジーでそれを行うことが出来た、という部分に驚嘆しますが、しかしこの作品は、こういったパートを特別スリリングに描く、というものではありません。

むしろこの映画では、サルーとその里親となった両親、さらにサルーの恋人の苦悩が中心となって描かれます。サルーは故郷に帰って母や兄弟の顔を再び見たい、という強い想いがあります。自分を迷子にしてしまった兄が今深い自責にかられていないか、と思い悩みます。しかし同時に、それが育ての親である両親への裏切り行為ではないのか、という苦悩が存在するんです。そしてサルーの育ての母、スーです。彼女はサルー以外にインド人の里子を育てていますが、彼は様々な問題を抱えています。さらにスーが、遠く離れたインド人の孤児をなぜわざわざ里子に持とうとしたのか?という事が語られ、人生の持つ不思議な巡り合わせを感じさせます。こういった複雑さが、単なる故郷探しの物語に留まらない奥深さをこの物語にもたらします。

そしてもうひとつ強く印象に残るのは、映画のあちこちで差し挟まれる、インドやオーストラリアの、ドローン撮影されたと思われる俯瞰映像でしょう。それらはどれも荒々しく、あるいは美しく、観る者の心を捉えるでしょう。それにしてもこれらの光景はなんなのでしょうか。それは、自分の「本来居るべき場所」を求めて、主人公ダル―の魂が、鳥のように空を舞っている、その視点だったのではないでしょうか。ところで、タイトルに「ライオン」と付いていますが、これはどういうことなのでしょう?その謎が解かれる瞬間もまた、この映画の見所の一つです。

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25年目の「ただいま」

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20170508(Mon)

[]4月と連休の反省 4月と連休の反省を含むブックマーク 4月と連休の反省のブックマークコメント

ゴールデン・ウィークだの大型連休だの呼ばれている4〜5月の連休も昨日で終わってしまった。という訳で今回はこの間にインスタなどで曝した写真などを中心に4月と連休の反省などをしてみたい。ちなみにオレのインスタはこちらなのでフォローしてあげるといいと思うのである。

4月某日

友遠方より来たりて暗黒皇帝フィギュアを置いてゆくなり。家飲みして一泊させたげた。

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4月某日

オレの得意料理はローストチキンとベイクドポテトである。オーブンに突っ込んで焼くだけだがな。美味いんで週末はいつも作っている。もうピザは卒業だ。

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4月某日

相方さんとスーパーうろちょろしてたら厚さ5センチはあろうかというオージービーフを見つけ、「これを買ってステーキにするんだ!」と興奮状態のオレであった。厚さ5センチの肉なんてどう火を通せばいいんだ?と思ったが、ネットで検索するとちゃんとレシピがあり、その通り焼いたら外はカリカリで中はジューシーな実に美味いステーキが出来上がった。これはオレのステーキ史上最高の焼き上がりだったな。あ、焼いたのは相方さんです。写真のお肉が切れているのはあんまりデカイ肉だったもんだから焼き上がり後4つに切り分け二人で分けたからです。

no title

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連休某日

連休前半は相方さんとお昼にラーメン。オレはいつもと趣向を変えてつけ麺にしてみたが、数十年ぶりにつけ麺というものを食べたけどこれが想像以上に美味かった。ちなみに今回の連休は相方さんは9連休、オレは暦通り。

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さらに夜は焼肉!!

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連休某日

連休後半はネットのお知り合いと相方さんと3人で某所の鶏焼肉の店で飲み食いしておった。鶏焼肉、結構あっさり目かと思ってましたが、これがもう実に美味かったですわ。

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〆はラーメン!

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連休某日

新宿までドニー師匠の映画を観に行ってたのだよ!この新宿某劇場はガチな映画ファンしか来ないから、みんな微動だにせず映画を観てるんだよ!時々頭やケツをもぞもぞ掻いたり鞄からゴソゴソ飴玉出したり尻の位置をしょっちゅう変えるクセのあるオレも今回はガチガチになって観てたよ!

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連休某日

国立新美術館へミュシャ展を見に行った。アール・ヌーヴォーのミュシャには全然興味はないが、最大一辺8メートルあるという20枚もの連作作品『スラブ叙事詩』が見たかったんだよ。作品自体は斬新なことはやっていないにしろ、スラブ文化の服飾やらミュシャの構図やらって日本のファンタジーRPGに散々流用されているみたいで、なんだかRPGキャラ&世界観設定画を巨大カンバスで見せられているみたいな塩梅ではあったな。でも分かりやすくて面白かったよ。

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しかし美術館には11時頃着いたが、その時点で長蛇の列、入場50分待ちだった……。同時開催していた草間彌生展なんかはもっと激しく混雑&長蛇の列だったな。この写真は美術館外にあった水玉カボチャ。

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美術展はお昼過ぎに観終ったので、じゃあ連休だしどっかで昼間っからビールクズしようか!ということで相方さんと二人八重洲にあるドイツビール屋に乗り込んでさんざんジョッキ開けてきたよ!ビールも料理も美味かったな!

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ちなみにこの日の夜は相方さんとレイトショーまで観に行ったよ。

連休某日

相方さんと某スパへ行って風呂入ったり風呂の後ごろごろ寝転がってマンガ読んだりしておった。夕食は相方さんがカツオのタタキ切ってくれたけど美味かったな。美味過ぎてメシ二合食らって呆れ返られたよ。ちなみに写真撮り忘れたんで相方さんのツイッターから拝借してきたよ。カイワレ大根思いっきりかかっているのがタタキだよ。薬味多めが美味しいんだよ!

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連休某日

ところが連休も終わりに差し掛かってきた日、相方さんが高熱出しちゃって、オレもなんだか熱があってダルイし、結局寝たりなんだりでグダグダしていたな。風邪だったのかなんなのかよく分かんないんだけど。特に予定も入れて無かったからまあいいんだけど、相方さんは「もっとやりたいことがあったのに!」と悔しがっていた。

写真は連休中ダラダラと観たり聴いたり読んだりしていたものの集合。ピンク・フロイドの『原子心母』のCDは突然聴きたくなって衝動的に購入してしまった。風邪薬と体温計も写ってます。(おしまい)

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20170505(Fri)

[]最強の拳よりもさらに強い愛〜映画『イップ・マン 継承』 最強の拳よりもさらに強い愛〜映画『イップ・マン 継承』を含むブックマーク 最強の拳よりもさらに強い愛〜映画『イップ・マン 継承』のブックマークコメント

■イップ・マン 継承 (監督:ウィルソン・イップ 2015年香港・中国映画)

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「宇宙最強の男」ことドニー・イェンの名を世に知らしめた『イップ・マン』シリーズ最新作『イップ・マン 継承』であります。

日本でもこのところ『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』や『トリプルX:再起動』とハリウッド出演作が立て続けに公開され、うなぎ上りにファンを増やしているドニーさんですね。自分が『イップ・マン 継承』を観に行った劇場では女性客が相当多くて、もはやクンフー・アクション・スターにとどまらない人気を得ているようです。自分も『イップ・マン』シリーズには実に感銘を受けたクチで、多くはないのですがその他にも何本かドニーさん映画を鑑賞し、すっかりお気に入りの俳優となってしまいました。とはいえ、「イップ・マン」の主人公である"葉問"の名前をずっと"はもん"と読んでいたことをお許しください……(正しくは"ようもん")。

さて改めて書きますとこの「イップ・マン」、実在した詠春拳の達人・葉問(よう もん、イェー・メン、イップ・マン 1893年10月1日 - 1972年12月2日)の半生を描いた映画となります。かのブルース・リーがイップ・マンに弟子入りし詠春拳を会得したというのは有名なエピソードです。この『継承』では丁度その弟子入りを懇願するシーンがあり、リーを演じるチャン・クォックワンという俳優さんの形態模写ぶりがこそばゆくてなかなか楽しかったでした。

孤高の武術家・イップ・マンを描くこのシリーズですが、彼の生きた時代ならではの貧しさや差別、戦争の惨たらしさが物語のそこここに影を落とします。1作目『イップ・マン 序章』では大日本帝国軍占領下における日本軍との戦いを、2作目『イップ・マン 葉問』では終戦直後のイギリス領香港における狡猾なイギリス人との戦いが描かれることになります。

そしてこの『継承』では地上げを目論む地元マフィアと彼らを陰で操るアメリカ人デベロッパー、フランク(マイク・タイソン)がイップ・マンに立ちはだかるのです。マイク・タイソン、イップ・マンにボクシングのフットワークでズズズッと迫ってくるその様は、重量級の巨大な雄牛が敵を屠ろうと頭から突っ込んでくる姿にすら見え、世界チャンピオンのハンパない恐ろしさを垣間見せましたよ!

しかしこの『継承』では他に2つの要素が物語に絡むことになります。一つは詠春拳の使い手チョン・ティンチ(マックス・チャン)が同門であるイップ・マンに"真の詠春拳指導者"を賭けて挑発を仕掛けてくるエピソード。このエピソードでは「詠春拳VS詠春拳」という頂上対決の火ぶたが切って落とされ、カンフー映画の「どっちが強いか」というシンプルな面白さの醍醐味を味わせてくれます。そしてもう一つはイップ・マンの妻ウィンシン(リン・ホン)が病に倒れ、イップ・マンの心に波紋を広げる、というもの。

この3つのエピソードが絡み合い物語られる今回の『継承』ですが、難を言うなら、シナリオの交通整理が上手く行っておらず、どこか散漫になってしまった印象を受けました。1,2作目では乗り越えるべき大きな敵が存在し、時代の波に翻弄されながらも、個人ではなく一人の中国人として戦うイップ・マンの姿が胸を熱くさせましたが、この3作目ではむしろ個人としてのイップ・マンの逸話に終始してしまった点が、スケールダウンを感じさせた部分でしょうか。

とはいえ、自分は逆に、「個人としてのイップ・マン」をクローズアップさせた部分に、これまでの作品とは違う感銘を受けました。それはやはり病に倒れた妻を思うイップ・マンの姿でしょう。完全無欠、天下無双の詠春拳の使い手であるイップ・マンに、敵う者など存在しませんでした。文字通り彼は最強の男なのです。しかしその最強の男でもってしても妻の病をどうすることもできません。最強の男であるはずのイップ・マンが、妻の容体に苦悶するその背中の小ささがあまりに印象的でした。そして、そんな妻を思うイップ・マンの愛もまた、最強の拳をさらに凌ぐほどに、強く、大きく、そして確固としたものだったのです。そんな、最強の男の無力さと、変わりなき愛を描いた部分で、『イップ・マン 継承』はまたしても心に残る映画として完成していました。

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イップ・マン 序章&葉問 Blu-rayツインパック

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20170501(Mon)

[]『ワイルド・スピード ICE BREAK』が公開されたのでワイルドスピード・シリーズをちょっと振り返ってみた 『ワイルド・スピード ICE BREAK』が公開されたのでワイルドスピード・シリーズをちょっと振り返ってみたを含むブックマーク 『ワイルド・スピード ICE BREAK』が公開されたのでワイルドスピード・シリーズをちょっと振り返ってみたのブックマークコメント

ワイルド・スピード ICE BREAK (監督:F・ゲイリー・グレイ 2017年アメリカ映画)

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■オレとワイスピ・シリーズ

『ワイルド・スピード』のシリーズ8作目となる新作が公開されると聞きオレはお祭り状態だった。『ワイルド・スピード』シリーズ。車に興味の無いオレがここまで好きになるとは思わなかった傑作シリーズである。だが実は白状しなければならないことがある。実はオレはシリーズ5作目となる『MEGAMAX』から観始めたクチだったんだが、この5作目こそ面白く観たけれども、6作目7作目あたりは実に辛い評価を下し、殆ど貶したようなレビューしか書かなかった。そういった意味では当初『ワイスピ』はたいした面白くないシリーズだと思いこんでいたのである。

しかし、数か月前からジェイソン・ステイサムの全作品を観る、というチャレンジをしており(現在ほぼ完了)、その一環としてステイサムも出演している『ワイスピ』シリーズを最初からちゃんと観ようと思い立ったのである。実際の所ステイサムが出演しているのは7作目からなのだが(6作目のラストにはちらりと顔を出している)、この7作目がステイサム出演作にもかかわらず当時は面白く感じなかったで、「シリーズ最初から観れば少しは面白く観られるか?」と思ったのだ。

そうしてたいした期待もせず1作目から観始めたのだけれども、これがびっくり、まずこの1作目から秀作ではないか。それから2作目3作目と順に観ていったが、なにしろもう、シリーズを追うごとにどんどん面白さが増してゆく。そして以前はつまらなかった6作7作目を再び観た時に、オレはいったいどこに目を付けてたんだ?と自分を責めたくなる程の面白さだったのだ。オレはもう、以前心無くシリーズを貶していたことを、シリーズのファンの方にも製作者の方にも土下座して謝りたいぐらいの気持ちだった。

以前中途からシリーズを観た時と、最初からシリーズを観た時の違いというのは、ひとえにもう登場人物たちの背景やシリーズ全体の物語の流れの理解度、さらにキャラクターへの愛着度合いが段違いに違っていたからだと言わざるを得ないだろう。思えばシリーズ中途から観たオレは人間関係をまるで把握していない状態でつまらないとかほざいていたのだ。このシリーズの大テーマとなるのは"ファミリーの結束"だが、それが以前は全く分かっていなかったのだ。そしてその"ファミリー"とは、血縁とはまた違う、人種や立場を乗り越えた「運命共同体」としての"ファミリー"なのだ。

という訳で非常にざっくりとではあるがシリーズ全体を振り返ってみたい。なお粗筋に関してはWikipediaから拝借した。

■『ワイルド・スピード』シリーズ1〜7作

◎ワイルド・スピード (監督:ロブ・コーエン 2000年アメリカ映画)

ロサンゼルス。凄腕ドライバーのドミニク・トレットは、夜な夜な行われるストリート・レースで荒稼ぎをしていた。そんな彼の前に連続車両強奪事件の潜入捜査の為にロス市警のブライアン・オコナーが身分を隠して現れ、勝負を挑む。やがて二人には友情が芽生え、ブライアンは職務との間で揺れることとなる。

冒頭の人種入り乱れるストリートレースの情景から既にこのシリーズの基本テーマが明確になっている。そこに立ち入る白人のオコナーは既に少数派でしかない。数多の人種が混交してチームとなりそしてファミリーを形成する部分にこのシリーズの面白さが凝縮されている。さらに主人公ドミニクはコソ泥で、物語全体が善と悪といった単純な二元論で語られてはいない。彼が第一とするのはストリートで生き続けてきたプライドであり、身を挺して守ろうとするのはまずファミリーなのだ。つまりドミニクが重んずるのは「仁義」なのである。シンプルでストレートな物語と疾走感溢れるカーチェイスが爽快な秀作だ。

ワイルド・スピードX2 (監督:ジョン・シングルトン 2003年アメリカ映画)
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ロサンゼルスの一件によりブライアンはロス市警を追われる身となり、マイアミでストリート・レーサーとして名を馳せていた。だが、一斉取り締まりによりブライアンは敢え無くFBIに御用となってしまう。連行先には旧知の捜査官が居り、ブライアンは犯罪歴の帳消しと引き換えに、国際的マネー・ロンダリング組織への潜入捜査の話を持ちかけられる。

今作ではドミニクが登場せず、ブライアンが主人公として展開する物語だ。しかしそのブライアンも捜査官からお尋ね者へと身を落としており、ここでもやはり「正義の物語」として成立させていない部分が面白い。ドミニクの代わりにブライアンと組むのがローマン・ピアースで、彼のおバカ振りは十分ドミニクの代わりとして物語を盛り上げていた。彼は後のシリーズの常連となる。

◎ワイルド・スピードX3 TOKYO DRIFT (監督:ジャスティン・リン 2006年アメリカ映画)

カリフォルニアの高校生、ショーン・ボスウェルは大の車好きであったが、これまでに2度ストリート・レースで事故を起こし、そしてとうとう3度目を起こしたことで少年院行きの危機となった。ショーンはこれから逃れるため、日本に住む父の元へと引っ越す。そこで同じくアメリカから留学してきたトウィンキーと出会い、ドリフト・レースの世界を知ることとなる。

東京を舞台とし、これまでの常連が誰一人登場しないある意味番外編的なストーリーだが、今作登場のハンは後のシリーズでワイスピ・ファミリーの一員として活躍する。シリーズの中では評価が低いようだが、どうしてどうして、東京が舞台というただそれだけでも十分面白く観ることができる1作だ。そしてこの作品にはシリーズでは余り見られない暗さと翳りが存在する部分も見逃せない。それは主人公の青春ストーリーという部分にもあるのだろう。

ワイルド・スピード MAX (監督:ジャスティン・リン 2009年アメリカ映画)

以前の事件をきっかけに指名手配されたドミニクはロサンゼルスを離れ、ドミニカで燃料タンク車を強奪していた。やがてそこにも捜査の手が忍び寄り、恋人レティを守るために彼女の前から姿を消す。だがその後、ドミニクはレティが殺されたという知らせを妹のミアから聞き、復讐の為にロサンゼルスに戻る。やがてドミニクは、復讐相手の手掛かりとなるニトロ搭載車へと行き着くのだが、そこでマイアミの一件をきっかけにFBIとなったブライアンと鉢合わせる。

ワイスピ・ファミリーが再び集結し、さらに新キャラもファミリーに加わったこの作品は、この後のシリーズの物語展開の重要なファクターがあれこれ盛り込まれているといった点で、ある意味現在のワイスピ・シリーズの原点となる作品と言えるだろう。一時は友情を覚えながらも反目することになったドミニクとブライアンが遂に和解し、そしてここからワイスピ・シリーズの快進撃が始まるのだ。もうひとつ付け加えると、今作から出演するガル・ガドットの美貌だろう。今やガドットといえばワンダー・ウーマンだが、こうして過去作に触れることができるのは僥倖と言うより他にない。

◎ワイルド・スピード MEGA MAX (監督:ジャスティン・リン 2011年アメリカ映画)

ブラジルのリオデジャネイロに逃亡したブライアンとミアは昔の仲間のヴィンスと再会。麻薬取締局の押収した車の窃盗の仕事をする事になり、そこにドミニクも合流するが、仲間の裏切りにより襲われてしまう。その理由は、ドミニク達が盗んだ車に隠されたリオデジャネイロで最も強い権力をもつ悪徳実業家、エルナン・レイエスの闇金の流れを記録したマイクロチップにあった。

前作でシリーズの下地が出来たワイスピが、凶悪な敵を相手に奇想天外な作戦をド派手に展開し始めるのがこの『MEGA MAX』からと言えるかもしれない。この作品からファミリーのチームワークがさらに重要視され、コソ泥チームから始まったワイスピ・ファミリーがここではもはや精鋭特殊工作員のような働きを見せることになるのだ。そういった部分で『ミッション・インポシッブル』や『007』シリーズと肩を並べる様なスパイ・アクションの様相さえ呈し、現在のワイスピ・シリーズの在り方を決定付けた記念碑的作品ということが出来るだろう。そして今作からドウェイン・ジョンソンが登場し、ワイスピ・ワールドはさらに奥深さを増してゆくのだ。

◎ワイルド・スピード EURO MISSION (監督:ジャスティン・リン 2013年アメリカ映画)

モスクワにて軍隊が襲撃され、何億円もの価値をもつチップを奪われる事件が発生する。元英国特殊部隊のオーウェン・ショウ率いるヨーロッパを拠点に大きな犯行を繰り返す国際的犯罪組織が関わっており、かねてより追跡していたFBI特別捜査官ホブスは、組織壊滅の協力を要請するため、ドミニクを訪ねる。協力を渋るドミニクだったがホブスに手渡された捜査資料を読み驚く。そこには死んだはずのドミニクのかつてのファミリー・恋人であるレティの写真があったのだ。

これまで北米・南米を舞台としてきたワイスピが、いよいよヨーロッパを舞台としたワールドワイドな展開を迎えることになるのが今作だ。敵も元特殊部隊だの国際犯罪組織だのとその手強さ凶悪さは輪を掛けたものとなり、さすがのワイスピ・ファミリーも苦戦を強いられることになるのだ。ワイスピ・ファミリーと犯罪者集団が奪い合うことになるのは世界を混乱と破壊に追いやることもできるハイテク装置だが、こういった図式も今作からの導入であり、よりワイスピ・ファミリーの戦いが世界の命運をかけたものへと化してゆくのだ。さらに4作目のレティの死をこの作品まで引っ張りに引っ張ってくるシナリオも物凄い。空港を舞台にしたクライマックスの壮絶なアクションは『ダイ・ハード』シリーズさえ超えてしまったのではないかとすら思った。

◎ワイルド・スピード SKY MISSION (監督:ジェームズ・ワン 2015年アメリカ映画)

DSS本部のホブスの部屋に見知らぬ男がPCをハッキングしていた。男の名前はデッカード・ショウ、元イギリス特殊部隊員で秘密諜報機関にも在籍していた男であり、オーウェンの兄でもあった。デッカードは弟の復讐のためホブスの端末からドミニク一味のメンバーを探知、手始めにホブスに手傷を負わせ去っていく。そして東京に移り住んでいたドミニク一味であるハンを事故に見せかけて殺害し、更にドミニクの自宅に爆弾を送り届け、木端微塵にした。入院しているホブスから情報を手に入れたドミニクは仲間の命を狙うデッカードを打倒することを決意する。

シリーズを追うごとにド派手さを増してゆくワイスピだが、ジェイソン・ステイサム演じるシリーズ最凶最悪の敵が登場するのが今作である。そういった意味で無敵の戦士ステイサムが暴れまわるステイサム映画とワイスピが悪魔合体したようなとんでもない作品が今作だということが出来る。さらにステイサムの背後にはハイテク武器を所持した傭兵軍団がおり、その戦いはより熾烈なものと化す。徹底的な破壊と爆裂が巻き起こるクライマックスなどはもはや市街戦であり、戦争そのものの様相を呈する。しかしワイスピの凄い所はここで銃と弾丸の応酬で戦うのではなく、あくまでもカーアクションそのもので敵と対抗してゆく部分だろう。また今作から怪しげなオフィサーとしてカート・ラッセルが登場し、スパイ・アクションとしてのワイスピの世界観を確固としたものにしてゆく。また、この作品はブライアンを演じたポール・ウォーカーの遺作となった作品であり、彼の死により付け加えられたエピローグは、ファンにとって涙無しに観ることのできない万感迫る名シーンだった。

■そしてシリーズ8作目『ワイルド・スピード ICE BREAK

という訳でやっとシリーズ8作目『ワイルド・スピード ICE BREAK』に辿り着いた。作品的には『ワイルド・スピード MAX』から培われてきたワイスピ・ワールドの在り方をきっちり継承したものとなっている。即ちファミリー、カーアクション、ワールドワイド、世界を混乱に陥れようとする邪悪な敵役、ハイテク装置の争奪戦、奇想天外な作戦、圧倒的な物量にまかせたド派手な展開、殆ど戦争状態の凄まじい大爆発・大破壊、などなど。

しかしそれだけだと「今までと同じ」になってしまうので、物語の変化球として導入されたのが主人公ドミニクのファミリーへの「裏切り」である。この辺の理由や結末は映画を観てもらうとして、これはある意味イーサン・ホークが破壊活動に手を染めたりジェームズ・ボンドがスペクターの手先になったりジョン・マクレーンがNYでテロ行為を始めたりするような、アクション・シリーズの禁じ手を堂々とやっちゃったことがまず面白い。

ブライアンは既におらず、最強のドミニクが敵に寝返り、弱体化したワイスピ・ファミリーにテコ入れすることになったのが実は……という展開も意表を突く。まあ、「いいのかそれ!?」と思わなくもなかったが、おかげで今までとは違ったテイストのワイスピ作品として進行し、しかしラストはきっちり確固たるワイスピ・ワールドへと還ってゆく安心の完成度だ。あと、ジェイソン・ステイサムがびっくりするぐらい活躍していたのと、ヘレン・ミレンの登場が嬉しかった。

これまで戦術ドローンと戦い戦車と戦い今作では潜水艦とまで戦っちゃうワイスピ・メンバーだが、小火器重火器を装備することなくドライビングテクニックだけでこれらと応酬してしまうのはまさにワイスピならではの醍醐味だろう。次作でもしも『インデペンデンス・デイ』みたいな異星人の巨大UFOが襲ってきても、きっとニトロで爆走しながら撃破してしまうに違いない。もはやワイスピ、「走るランボー」状態である。

とはいえ、きっちり充実した出来であるにもかかわらず、困ったことに観ていてちょっとだけ物足りなさを覚えてしまう。それは、ポール・ウォーカーの不在だ。2、3作目を除くワイスピ・シリーズは、ヴィン・ディーゼルポール・ウォーカー、ドミニク/ブライアンの、反目を乗り越えた友情の二人三脚で美しく輝いていたのだ。もしもこの作品にブライアンが登場していたら、ドミニク/ブライアンが再び反目しあい互いの情念をたぎらせ合う、といった熱い展開が見られたことだろう。

思えば、ハイスピードカーとハゲ頭、鉄塊と肉塊とが排気ガスと汗を撒き散らしぶつかり合うひたすらこってり油っぽいワイスピ・ワールドの中で、ブライアン/ポール・ウォーカーは涼風のような爽やかさをもたらす存在だった。ヴィン・ディーゼルはいみじくも「『ワイルド・スピード SKY MISSION』がポールに捧げた作品だとしたら、8作目はポールから受け継いだ作品」と語ったというが*1、そうして作られたこの作品は、確かにこれまでの作品の継承でありながらも、ポールというかけがえのない存在だけは継承できなかった、ということを思い知らされた作品でもあった。重ね重ね、ポール・ウォーカーの死が残念でならない。

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FAST & FURIOUS 8: THE ALBUM

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