知覚の扉の彼方〜『アルクトゥールスへの旅』デイヴィッド・リンゼイ著

アルクトゥールスへの旅

地球外の惑星アルクトゥルス天地開闢にまで遡る善と悪との一大闘争史を巡る恐るべき宇宙ファンタジー。C.S.ルイス等に巨大な影響を与えた、真に想像力の奇跡と言いうる幻想の大遍歴譚。

この作品は随分昔、サンリオSF文庫で出ていたのを買って読んだ覚えがある。しかし、たいそう面白かったのだが、途中で別の小説を読み始めてしまい(多分その頃お気に入りだった作家の新刊が出たか何かしたのだと思う)、結局3分の1程度読んだ程度でそのまま頓挫してしまっていた。そういった経緯のある作品なのだが、なぜか急に再挑戦したくなり、文遊社から再刊されたものを購入して3、40年ぶりくらいにページを開いてみたのだ。
さてこの『アルクトゥールスへの旅』、タイトルから宇宙旅行に関わる何がしかのSF作品だと思われるだろうが、確かにアルクトゥールス星系の惑星に旅こそすれ、実の所"サイエンス"なフィクションでは全く無いのである。ある意味"スペキュレイティヴ(思弁)・フィクション"と言ったほうが正しい。そしてその思弁性は、いわゆる【神秘主義】に裏打ちされたものなのだ。
まずこの作品は1920年に書かれたものだ。作者は1876年ロンドン生まれのデイヴィッド・リンゼイという作家だが、生前は殆ど認められなかったという。だがこの『アルクトゥールスへの旅』は「オラフ・ステープルドンに影響を与え、C・S・ルイスに別世界三部作を書かせる役割を果たし、1960年代に入ってからはコリン・ウィルソンが絶賛して、その評価が定まった*1」ともある。確かにそういった経緯も頷けるほどこの作品は孤高にして独特の物語性を兼ね備えている。
物語は降霊会から始まる。ここからして時代を感じさせるが、実は、「時代」なんて言ってられるのはここまでだ。主人公はスコットランド海岸に位置する荒れ果てた天文台から「アルクトゥールス逆光線」なるものの作用により魚雷型ロケットでもってアルクトゥールス星系の惑星トーマンスへと旅立つのである。しかし、有り得ない色彩で彩られた惑星トーマンスで主人公が出会うのは、超知覚を持った異形の人々であり、彼らの持つ異様な世界認識であった。彼らによって自らも異形と化し超知覚を会得した主人公は、それにより次々と【知覚の扉】を開き新たな世界認識を会得し、めくるめくような【認識の刷新】を体験してゆくのである。
『知覚の扉』といえば1954年発行の、オルダス・ハクスレーによる幻覚剤によるサイケデリック体験の手記と考察だが、この『アルクトゥールスへの旅』はドラッグ抜きのサイケデリック体験を文章化したものだと言えば近いかもしれない。そしてここで主人公が会得する新たな【認識】は、現実に存在する何がしかの教義と共通する点を全く持たず、またそれが暗喩するのかもしれないなにかを容易に想像できない、デイヴィッド・リンゼイ独自の神秘主義的秘儀を思わせるものなのだ。
さらにこの物語が非常に面白いのは、主人公が次々と認識の刷新を体験しながら、それが次第に認識の高みへと昇ってゆくのではなく、認識を刷新することによりそれ以前の体験を捨て去ってしまうということである。つまりこれら"新しい認識"は、唯一至高のものではなく、相対的なものでしかない、ということなのである。即ち、相対化され続ける認識とは、認識そのものの無意義性であることに他ならず、ある意味認識の"虚無"を謳った物語だとも言えるのだ。つまりこの『アルクトゥールスへの旅』は、その暗澹たるラストも含め神秘主義的であると同時に、虚無主義についての物語だったとも言えないだろうか。
こういった点全てを含めて、実に謎めいた、そして解読の容易ではない不可思議な物語ではあるのだが、他に類を見ない強烈な読書体験だったことは確かだ。そして読者はここで描かれるそれ自体が異形の世界観に翻弄されながら、最後に【知覚の扉】の彼方にある昏く終末感溢れる【深淵】に辿り着くことになるのだ。

アルクトゥールスへの旅

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