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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170721(Fri)

[]レディオヘッド再び〜『OKコンピューター OKNOTOK 1997 2017』 レディオヘッド再び〜『OKコンピューター OKNOTOK 1997 2017』を含むブックマーク レディオヘッド再び〜『OKコンピューター OKNOTOK 1997 2017』のブックマークコメント

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■『OKコンピューター』再び

レディオヘッドが1997年にリリースした彼らの代表作『OKコンピューター』が20周年記念盤としてデジタルリマスターされ再リリースされた。CD2枚組となっており、CD2には8曲のBサイド音源、初リリース公式音源3曲が収められている。

ロックも、レディオヘッドもとっくに見限っていたが、このリマスター・アルバムは、なんだかフラフラと購入してしまった。結構イイ年こいたオレではあるが、いまだに時たま、メランコリックになるのである。最近聴くエレクトニック・ミュージックも、トランキライジングなアンビエントや、メランコリックな曲調のものが多かった。年を取ってみると、年を取ったなりの憂鬱や心配があるのだ。だからあの、メランコリイの大ボスみたいな、レディオヘッドの過去作リマスターなんかをフラフラと購入してしまったのである。

しまった、と思ったのだが後の祭りである。取り敢えず聴いてみると、あの不安定で憂鬱な音が、時が止まったかのように響いている。やはり今聴いても、とても完成度が高く、音は歪んでいるかもしれないけれども、繊細で、恐ろしいほどに美しい音楽だ。でもやはり、聴き続けると、心のどこかが苛まれてゆくような気分になってゆく。この音の、あと数ミリ先を突き破れば、空っぽの狂気や、涅槃に名を借りた死が口を開けているような気がする。病んでしまいそうだったのだ。

そんなのは考え過ぎだと思われるかもしれない。だが、オレ個人に関しては、当時ロックとレディオヘッドを見限った理由は、このまま聴き続けていれば、精神的にしろ肉体的にしろ、おそらく死んじゃうんじゃね?という危機感を感じたからだった。なんだか、ダメになりそうだったのだ。既にダメだったものが、ダメ押しのダメ、それこそもう底の無い究極のダメに成り果てるような気がしてならなかったのだ。

そんなわけで、今回の『OKコンピューター』リマスターは、封印してしまいたいと思っている。だが、あのジェダイですら、ダークサイドに堕ちることがあるように、このオレも、気付かないうちにずるずると暗黒面に引き摺られることがあるかもしれない。だから、以前ブログに書いたこの文章を置いて、戒めとしたい。

以下にある文章は、2008年、レディオヘッドがニューアルバム『In Rainbows』をリリースした際に自分のブログで書いたものの再掲である。オレは、オレなりに、前向きな生き方がしたかった、そういった文章である。

レディオヘッド、あるいは私的ロック・ミュージックの終焉

In Rainbows[輸入盤CD](XLCD324)

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レディオヘッドを聴いたのは『OK Computer』が一番最初だった。当時既にロック・ミュージックに見切りをつけ、電子音鳴り響くクラブ・ミュージックばかり聴いていたオレであったが、何故かたまたまCD店で試聴してしまった『OK Computer』は、オレがロック・ミュージックから遠ざかった一番の原因である、暗さと不安定さと孤独さがみっちりとこびりついたアルバムだった。

10代から20代の半ばまで浴びるように聴いてきたロック・ミュージックを聴くのを止めたのは、イギリスのロック・バンド、ザ・スミスに傾倒してしまったからだ。ザ・スミスのひたすら惨めで自己否定に満ちた音と歌詞は、聴いていた当時のオレの生活を歌っていたかのようにさえ聴こえ、それは聴くほどに心に刺さり、気持ちを苛んだ。ザ・スミスの音は自分の醜い姿の映った鏡を常に凝視しているような気分にさせた。しかしそれを聴き続けていたのは、治癒していない瘡蓋を剥がす様な嗜虐の篭った快感があったからなのだろう。だがそんな行為を続けていても、いずれは行き詰る。剥がす瘡蓋さえなくなり、終いにオレは体中の皮が剥がされ、ただ苦痛に呻くだけの赤剥けの化け物と化してしまった。これは、まともな状態じゃないな、と思ったとき、オレはロック・ミュージックを聴くのを止める事にしたのだ。

それから聴き始めたエレクトロニカ/テクノ・ミュージックには、忘我と陶酔があった。躍動するリズムには自己否定の欠片も無かった。病んだ肉体を治癒し、さらにビルドアップしていくような快感がそこにはあった。負けているばかりいるのにはもう飽きていた。勝つつもりも無かったが(別に勝負しているわけでもないんだし)、取り合えず、ろくでもない糞溜から自分を引き上げる必要があったのだ。その為に、ロックにあったような暗さや不安定さや孤独さを己から洗い流したかった。勿論時々そこに舞い戻ってしまうこともあったが、もう今までとは違うのだ、とも思っていたのだ。

そんな時に何故またレディオヘッドの奏でるロック・ミュージックにはまってしまったのかは分からない。ただ、レディオヘッドの音には、聴いていて、奇妙に無垢になる一瞬があった。『OK Computer』から始まって、それからレディオヘッドのCDをぽつぽつと買い漁った。2001年発売の『Amnesiac』あたりまでは追いかけていたが、最も好きなアルバムは彼等の2ndアルバム、『The Bends』だった。このアルバムは、『OK Computer』からのどんよりとした内省へと向かう前の、レディオヘッドの最もリリカルなギターアルバムであると思う。オレは、夏休み、実家に帰ると、いつもポータブルプレイヤーにこのCDを詰めて、自転車に乗りながら、田舎の車も人も通らない道を走りながら、夏でも冷ややかな北国の空気を体に受けながら、宇宙さえ透けて見えそうな青空を見上げながら、8月というにはどうにもささやか過ぎる陽光を浴びながら、目を細めて、この音を聴いていたものだった。

そう、多分この時、この線の細い、ひ弱で内省的な音が、オレの気分にフィットしたのだろう。レディオヘッドは繊細だったのだと思う。そして自分で言うのもなんだが、田舎者のこのオレも、多分、純朴で繊細な、ドン臭いあんちゃんだったのだ。だがな。朴訥な田舎の風景にマッチしたリリカルなレディオヘッドの音は、東京の苛立ち気味に早足で歩く人間がごった返す雑踏の中では繊細すぎるんだよ。ここでこの音を聴くと首項垂れたまま前を見ることが出来ないんだよ。そしてもう疲れただの傷付いただのと言ってられないんだよ。

レディオヘッドのニューアルバム、『In Rainbows』。発表当初メジャーレーベルを通さないネット配信で話題になったアルバムだ。また相当売れているようだ。聴いてはいないのだが、きっと完成度も高いのに違いない。レディオヘッドは決して日和ったりしないのだ。それは分かる。聴かなくたって分かる。そして、オレはこのアルバムを聴かないだろう。オレには、ザ・スミスの自己否定が既に必要ないように、レディオヘッドの繊細さがもはや必要ないからだ。何かの映画で、黒人がレディオヘッドのCDを見つけ、「白人の聴く音楽だな」と吐き捨てていたのを覚えている。確かに、レディオヘッドは、白人の持つ知性の最先端の場所にあるロック・ミュージックなのだと思う。だけれど、もう、それだけでは足りないんだと思う。オレはタフでありたい。負けたくない。付け入れられたくない。その為には、レディオヘッドの音楽では、もう、十分じゃないんだ。

(※『レディオヘッド、あるいは私的ロック・ミュージックの終焉 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ』(2008年3月13日)より再掲)

OK COMPUTER OKNOTOK 1997 2017 [輸入盤] (XLCD868)

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20170718(Tue)

[]そうさ、今日もエンジンは最高さ〜映画『カーズ/クロスロードそうさ、今日もエンジンは最高さ〜映画『カーズ/クロスロード』を含むブックマーク そうさ、今日もエンジンは最高さ〜映画『カーズ/クロスロード』のブックマークコメント

カーズ/クロスロード (監督:ブライアン・フィー 2017年アメリカ映画)

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ピクサー/ディズニーのCGアニメに興味を無くして久しいが、『カーズ』のシリーズ第3作であるこの『カーズ/クロスロード』は何故か観たかった。ひとえに、劇場で流されていた予告編がとてもカッコよかったからである。

台詞もナレーションも一切無く、主人公の車ライトニングが、サーキットコースを、ダートコースを、海岸をひた走る。ただただ、ひた走る。その映像には、奥田民生が歌う日本版エンドソング『エンジン』が被さってゆく。そしてこの曲がまたカッコいい。歌詞はいかにも車を歌ったものではあるが、ミディアムテンポで、じりじりと盛り上げてゆく曲調がとてもいい。実はオレは、奥田民生というミュージシャンは名前しか知らないし、音楽にも全く興味が無いのだが、ことこの『エンジン』という曲は、心に響くものがあったのだ。そんな部分でなんだか映画も観たくなってしまったのだ。

CGアニメ『カーズ』については、1作目は劇場で観てたいそう感銘を受けた覚えがある(レビュー)。だが2作目はまるで観た記憶がない。自分のブログを調べたら、DVDで観ていたようだが、2行程度の感想しか書いていない所を見ると、どうやらどうでもいい映画だったらしい。同時にこの頃からピクサー/ディズニーのCGアニメに飽きてきていたようだ。

さてこの3作目、『カーズ/クロスロード』では主人公ライトニング・マックィーンが人生の岐路に立たされる様が描かれる。自分より新型で性能の高いマシン、ジャクソン・ストームの登場により己のアイデンティティに揺らぎが起こるのだ。その末のレース中の大クラッシュ。満身創痍のライトニングはもう一度自分を見つめ直し、そして新たな試練を自分に課して再び勝利を掴む為に切磋琢磨する、というのがこの物語である。

これは人間で言うなら若く才能豊かな新人の登場が、これまで負け知らずだった自分の前に立ちふさがり脅威となる、といった物語に読み変えられる。かつては自分も、若くパワフルで、溢れんばかりの才能に満ち溢れた存在だった。しかし、新しい世代の登場は、自分を時代遅れのものとしようとしているのだ。

計算しつくされたボディを持ち最新先端機器でトレーニングするジャクソンに対しライトニングの"新たな"特訓は泥臭くアナログだ。正直この程度の訓練ならこれまでとっくに行ってきただろうし、"新たな教え"を乞いに出向いたベテランレースマシンの助言すら、それほど新しいものがあったのかと思う。ここにはどこか根性を連呼する精神主義に通じる自己満足しか感じない。これで本当にライトニングは勝つつもりだったのか、勝てるつもりだったのか。そしてもしこれで勝ったとしても、物語は白々しい終わり方しかしないではないか。

だがここで登場するのがライトニングの担当トレーナー、クルーズ・ラミレスの存在である。かつてレーシングカーを目指しながら挫折しトレーナーの仕事に甘んじていたクルーズの、そのレースへの「想い」にライトニングは心揺さぶられるのだ。ここから先の展開は書けないが、既に老雄となった者が成すべきことは何かを描いた無理のないシナリオだったと思う。

しかしこの3作目を観て思ったのは、やはりアメリカ人というのは負けないことを第一義とする国民なのだな、ということだ。負けたくないのは別にどこの国の人間でも一緒だろうが、その勝つための前向きさと楽観主義の在り方と自信過剰ぶりがアメリカ人らしいなと思ったのだ。実際の所ライトニングにはジャクソンに勝てる要素が少しもなかったように思う。しかし時代遅れだろうが精神主義だろうがライトニングは勝つための方法をなんとしてでも模索しようとする。

それによるクライマックスへの展開もご都合主義と言えばそれまでだが、少なくとも、勝利の為のドラマとしてはとりあえず綺麗なまとまり方をしている。映画としても十分面白く観ることが出来た。だからただ文句が言いたくて言ってるだけなのだが、このアメリカ人ならではのポジティブさと理想主義が時として煩わしく感じるのも真実であり、この『カーズ/クロスロード』にしても、「そんなに綺麗にまとめんなよなー」と減らず口を叩きたくなる自分がいるのも確かなのだ。すまん、ひねくれ者なんだ。ああ、でもやっぱりラストの奥田民生の歌はサイコーだったよ。

■「カーズ/クロスロード」日本版エンドソング:奥田民生「エンジン」PV

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■「カーズ/クロスロード」予告編

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20170714(Fri)

[]火星から来たビロビロのアレはとっても締まりがキツかったッ!?〜映画『ライフ』 火星から来たビロビロのアレはとっても締まりがキツかったッ!?〜映画『ライフ』を含むブックマーク 火星から来たビロビロのアレはとっても締まりがキツかったッ!?〜映画『ライフ』のブックマークコメント

■ライフ (監督:ダニエル・エスピノーサ 2017年アメリカ・イギリス映画)

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火星で発見された微生物が宇宙ステーション内で成長し乗組員を襲う!というSFパニックスリラー映画『ライフ』でございます。しかしこのタイトル、原題そのままなんですが何とかならなかったんでしょうかね。オレは最初「ベン・スティラー主演映画『LIFE!/ライフ』の宇宙篇なのか?」と思っちゃいましたよ。邦題が何かと取り沙汰される昨今ですが『襲来!恐怖のクラッシャーモンスター!』とか『実験ナンバーX:火星から来た殺人クリオネ』とかなんとかインチキ臭いタイトル適当に付けちゃえばよかったのに。

お話は火星で微小な生命体が採取される所から始まるんですよ。これが地球軌道上の国際宇宙ステーションに持ち込まれ調査研究されることになる。その細胞は次第に成長してゆき、「世紀の大発見だ!」と大いに沸いたのも束の間、その生命体は乗組員を襲いラボを逃げ出し、他の乗組員も一人また一人と餌食にされて行っちゃう、というもんなんですね。乗組員たちは生命体を撃退し生き残ることが出来るのか!?というのが物語となります。出演はジェイク・ギレンホール、レベッカ・ファーガソン、ライアン・レイノルズ真田広之

宇宙ステーションという閉鎖空間でのモンスターとの追いかけっこといいますとどうしてもあの『エイリアン』を思い出しちゃいますな。それとかショーン・S・カニンガム監督の深海ホラー『ザ・デプス』ね。でもねー、オレはむしろこの映画、深作欣二監督が1968年に撮った東映映画『ガンマ―第3号 宇宙大作戦』に一番近いんじゃないかと思ったんですよ!『ガンマ―』も宇宙で発見されたゲル状の生命体が成長し宇宙ステーションの乗組員を襲う、というものでしたからね。他にも地球軌道上の宇宙ステーションが舞台という事で『ゼロ・グラビティ』を思わせるシーンも多かったですね。

確かに『エイリアン』その他のSFスリラー・クローンと言えばそれまでなんですが、このジャンルの作品としてはそれなりに面白いことをやっていたんじゃないでしょうか。まず他の「宇宙生物パニック物」と違って、搭乗するモンスターがクラゲみたいなビロビロの半透明生物で、攻撃方法も最初は強烈な力で締め付けたり口から体内に入ったり、見た目通り軟体生物的なんですよね。いやービロビロで締りがキツイとかって相当下品ですね(オレが)。で、軟体生物ならではの神出鬼没な隠れ方や出現の仕方が新鮮だったと言えるかな。しかもコイツ、宇宙空間でも生きられるし、火は苦手みたいだけど決して焼け焦げたりはしない、という強靭な生命力を持ってるんですね。

そういったモンスターパニックSFとしてはまあまあ頑張ってはいるんですが、いかんせん設定やシナリオや登場人物の描き方がどうも拙くてねー。まず最初検疫室に隔離状態で研究されてたのに結果的にそこから抜け出せたって、いったいどんな検疫室なんだ。さらに宇宙ステーションの外に出されてもまた内部に潜り込めるっていったいどんなスカスカな構造の宇宙ステーションなんだ。これはアリなのかなあ実際そんなもんなのかなあ。まあ『アンドロメダ...』の宇宙ウィルスだって厳重な隔離施設から漏洩しちゃったぐらいだからなあ。

それとやはり登場人物キャラに魅力が無くてさー。ジェイク・ギレンホールスティーヴ・カレルにしか見えないし最後のほうなんてエスパー伊東に見えちゃうぐらい精彩に欠けてたしライアン・レイノルズはなにかやってそうに見えてなんにもやってないし真田広之は日サロで焼き過ぎたみたいな顔してるし、一番最悪だったのがレベッカ・ファーガソン演じる検疫官で、冒頭から「私は検疫官!私の指示には従って!」とブイブイ言ってたくせに結局あらゆる検疫体制がぜ〜んぶ突破されてしまうという無能ぶりが露呈して「こいつ何の役にも立ってないばかりかいるだけ邪魔な疫病神キャラじゃないか」と呆然としてしまいましたよ。

これらは俳優のせいというより全ては演出の拙さで、結局監督が力足らずだったってことじゃないの。結構いい俳優揃えているのに結局B級SFの域から出られなかったというのもこの監督のシャープさに欠けるモヤっと暗い画面作りにあったんじゃないかな。とはいえ、あれこれ書いたけど駄作凡作と貶めるほど悪い作品でもなくて、B級SFだからと割り切って観るなら楽しめるよ。なおこの映画で最も緊張しなおかつ期待が高まったのはAEDのシーンだったという『物体X』マニアはオレだけではあるまい!

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20170712(Wed)

[]スーパーヒーローどもを地獄に堕とせ〜『THE BOYS』 スーパーヒーローどもを地獄に堕とせ〜『THE BOYS』を含むブックマーク スーパーヒーローどもを地獄に堕とせ〜『THE BOYS』のブックマークコメント

■THE BOYS (1)(2) / ガース・エニス

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コスチュームを着たヒーローが空を飛び、マスクをつけたヴィジランテ(自警団)たちが夜を徘徊する世界では、彼らがヤリすぎないよう誰かが見張っていなければならない。なぜならスーパーヒーローの中には、必ずしも“正義の味方”とは言えないような、やっかいな連中も存在するからだ。そこで登場したのが「ザ・ボーイズ」だ。ある意味、地上で最も危険な能力を持つスーパーヒーローに対抗するため、CIAが招集したのは、やっぱり危険でクレイジー、一筋縄ではいかないやっかいなヤツらだった。ビリー・ブッチャー、ウィー・ヒューイ、マザーズ・ミルク、フレンチマン、ザ・フィーメール、彼らは今日も“スーパーヒーローどものご乱行”に目を光らせる!

『ヒットマン』(レヴュー)のガース・エニスが放つ問題作、それがこの『The Boys』だ。

舞台となるのは派手なコスチュームをまとったスーパーヒーローが何十人と存在する世界。それだけのスーパーヒーローがいれば世界はすっかり平和になっている筈だろう。だがそうではなかった。"正義の味方"をかさに着た彼らは、時にやり過ぎとも言える破壊と犠牲者を出し、時にその能力を鼻にかけて狼藉の限りを繰り返していたのだ。そしてそんな彼らを監視する組織が結成された。その名は「ザ・ボーイズ」。"毒には毒を"の例え通り、「ザ・ボーイズ」たちのスーパーヒーローたちに対する制裁は熾烈を極め、さらにそれはひたすらアンモラルな道を辿って行った。そしてそこには、「ザ・ボーイズ」チーフであるビリー・ブッチャーの煮えたぎるような私怨が隠されていたのだ。

冒頭から物語は凄惨だ。ヒーローによる活躍のとばっちりを受け、目の前で恋人を潰れた肉塊にされた男が登場する。そして「ザ・ボーイズ」チーフ、ビリーの強姦シーンだ。新たにヒーローチームに抜擢された少女は仲間のヒーローたちにフェラチオを強要される。さらに素っ裸のヒーローたちが女を買い、狂気の笑みを浮かべて乱交に高じる。その後も物語は夥しい量の暴力と破壊、吐瀉物と糞尿、殺戮とアンモラルなセックスが繰り返し描かれ、ひたすら下劣なアンチヒーロードラマが繰り広げられてゆくのだ。

スーパーヒーローと対峙する「ザ・ボーイズ」たちもまた異様な連中だ。メンバーは誰もが皆どこかタガの外れたような狂気を兼ね備え、どこまでも無感動にヒーローや敵対するものたちに暴力を加え、叩き殺す。それはもはやどちらが正義で悪かという問題ですらなく、下司な者同士の潰し合いであり、「スーパーヒーロー対アンチヒーロー」の虚無的な抗争なのである。そんな中、「ザ・ボーイズ」の新規メンバーであり、恋人をヒーローに殺された男ヒューイだけが、この異様な陰謀と殺戮の世界で右往左往し、その良心を痛める、というのがコミック『ザ・ボーイズ』の流れとなる。

ここで描かれるのは、一般的には綺羅星のような存在として愛されているスーパーヒーローたちを、どれだけ地に落とし泥に塗れさせることができるかという悪意である。徹底的なヒーロー憎悪である。スーパーマンやバットマン、アイアンマンやスパイダーマン、そしてX-メンといった、人気あるアメコミヒーローたちを想起させるキャラが次々と登場するが、彼らは皆一様にクソ野郎であり、人間の屑であり、セックス狂いであり、頭の弱いチンピラとして描かれる。

これら虚無的な哄笑に満ちた下劣な物語展開は、作者ガース・エニスの、徹底的なヒーロー否定の発露と言えるのかもしれない。最初にも触れたガース・エニスの『ヒットマン』も、そもそもがヒーロー否定の物語だった。あの作品に登場するセクション8はスーパーヒーローの皮肉めいた戯画化だし、主人公トミーはヒーローとは名ばかりの殺し屋である上に、実の所単なる負け犬でしかなかった。そのヒーロー否定のガース・エニスが、今作ではヒーローを地獄に堕とそうとしている。『The Boys』はその過激に過ぎる展開は正直うんざりさせられることが多いが、ガース・エニスの「憎しみ」だけは存分に伝わってくる、という異様な物語なのである。

[]スーパーヒーローは皆殺し〜『デッドプールパニッシャー・キルズ・マーベルユニバース』 スーパーヒーローは皆殺し〜『デッドプール/パニッシャー・キルズ・マーベルユニバース』を含むブックマーク スーパーヒーローは皆殺し〜『デッドプール/パニッシャー・キルズ・マーベルユニバース』のブックマークコメント

デッドプールパニッシャー・キルズ・マーベルユニバース / カレン・バン、ガース・エニス、ダリバー・タラジッチ、ドギー・ブレイスウェイト

デッドプール/パニシャー・キルズ・マーベルユニバース (MARVEL)

無数の存在する多次元世界。その一つ一つに固有の物語が存在する。数ある世界の中には、無敵のマーベルヒーローが無残な最期を迎えた世界も少なくない。そして、ここにもそんな世界が二つ…。一つは、デッドプールが己が存在の真の意味を見出した世界…。そしてもう一つは、パニシャーがヒーロー達への復讐に駆られた世界…。デッドプールとパニシャー、二人の怒りの前に、マーベルユニバースは崩壊の時を迎える…。マーベルヒーローは皆殺しだ!コミックスの常識を遙かに超えた内容で大反響を呼び起こした二つの問題作が奇跡のカップリング!

そのガース・エニスによるもう一つの「ヒーロー殺し」の物語がこの『デッドプールパニッシャー・キルズ・マーベルユニバース』である。正確に書くならこの単行本には『デッドプール・キルズ・マーベルユニバース』と『パニッシャー・キルズ・マーベルユニバース』の2作が収められており、ガース・エニスが原作担当したのは『パニッシャー〜』のほうだ。一方『デッドプール〜』はカレン・バンの原作となる。

どちらにしろ物語はデッドプールなりパニッシャーなりが、次々とマーベル・ヒーローたちをぶち殺してゆく、というものだ。アイアンマン、ソー、キャプテン・アメリカ、スパイダーマン、その他その他、映画『アベンジャーズ』シリーズでもお馴染みであり絶大な人気を博するヒーローたちが、惨たらしく殺されてゆくのである。

なんでもマーベルヒーローを擁する多次元宇宙のひとつとして描かれた作品であり、要するになんでもありということらしい。まあマーベルヒーローコミックを読みまくっている方なら変化球の一つとして楽しめるだろうが、よく分からずにこれだけ1冊読んじゃったら、楽しめるかどうかは分からない。とはいえオレは割と楽しめた。最強不死身である筈のヒーローがどのような方法で殺されるのか?というのが面白いのだ。

そんな中ガース・エニス原作の『パニッシャー〜』は、ヒーローの中ではほぼ人間であるパニッシャーが主人公であるといった点でガース・エニスぽいのかもしれない。ここでパニッシャーは狂った怨嗟の中ヒーローたちを血祭りにあげてゆくのだ。この辺のルサンチマンの在り方もやはりガース・エニスらしさなのだろうか(詳しくないから断定しない)。

20170710(Mon)

[]今度の『ジョン・ウィック:チャプター2』も殺して殺して殺しまくりだッ!? 今度の『ジョン・ウィック:チャプター2』も殺して殺して殺しまくりだッ!?を含むブックマーク 今度の『ジョン・ウィック:チャプター2』も殺して殺して殺しまくりだッ!?のブックマークコメント

■ジョン・ウィック:チャプター2 (監督:チャド・スタエルスキ 2017年アメリカ映画)

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伝説の殺し屋ジョン・ウィックさんが前作に引き続き殺して殺して殺しまくる!という映画『ジョン・ウィック:チャプター2』でございます。

こんな零細映画ブログをやっているオレでも、観た映画のことを書くときは一応ネタバレしないようには気をつけているのですが、今回の『チャプター2』はどう書いてもネタバレの恐れがありません。ええ、なにしろ今回もとりあえず殺して殺して殺しまくっているだけだからです。細かい枝葉はいろいろありますが、どれもこれも殺しまくるための方便、殺しまくるための理由付けに過ぎません。

ただまあとりあえず物語を書いておきますと、「前作で殺し屋を引退した筈のジョン・ウィックさんが止むに止まれぬ理由で再び殺しをやることになり、それによりまたもや大騒動となる」、これだけです。映画を観る方もきっと「今回もどんだけ殺してくれるか」が一番の興味だろうと思われますので、ストーリーなんてあってもなくても一緒です。ちなみにこのブログで前作の感想を書いていますが、この『チャプター2』に関して言いたい事もそんなに変わりありません。ですから前作を楽しんだ方は今作もきっと楽しんで観られることでありましょう。

前作の感想:殺して殺して殺しまくったれ!〜映画『ジョン・ウィック』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

しかしこれではあまりに内容のないブログになってしまいますので(まあもとから内容がないと言われればそれまでですが)、ちょっと感じたことを二言三言付け加えてお茶を濁してみましょうか。

だいたいジョンさん、「伝説の殺し屋」とか言われてますが、逃走経路を計算しないで殺しをやってその後敵方に発見され当然のようにエライ事になるっていうのは、少なくとも殺し屋としてはかなーりマズイ事なんではないでしょうか。殺し屋っていうのは隠密裏にターゲットを葬り去って跡形もなく消え去る影のような存在の筈じゃないんでしょうか。前作の流れも同じようだったことを考えると、学習能力皆無っていうかそれとも単なるお茶目さんなんでしょうか。

むしろ「ターゲットを葬った後のドンパチを楽しむイカれたおっさん」という見方もできますが、相当不効率であるのは確かです。これって「プレイしてるのがステルスゲームなのに何を勘違いしたのか無双しまくって弾薬も体力もジリ貧になりゲームオーバー間近」というのと同じ状況じゃないですか。これでは殺しの腕は最高だが殺し屋としては3流以下ということになってしまいます。

それともう一つ、この『ジョン・ウィック』世界、殺し屋が多過ぎ!今作ではジョンさんの命を奪うため街中の殺し屋が次から次へとジョンさんに襲い掛かり死闘が繰り広げられますが、いやなにこの「犬も歩けば殺し屋に当たる」みたいな過密な殺し屋人口は!?そもそも「殺し屋の為の秘密ホテル・コンチネンタル」って世界のあちこちにあるみたいだけど、世の中こんなに殺し屋だらけでのべつまくなしに殺し合いしてたら普通に世の中崩壊してね?

・・・なーんてことを書きつつ、実のところホントはそんなことはどうでもいいんですけどね!だってそんなこと言ってたらドンパチにならねえもん!この映画はほとんどチートの如く殺しの手腕に長けた男がひたすらカッコよく殺しまくる様を楽しむための映画なのであって、余計な茶々を入れるのは野暮というものでありましょう。殺し屋だらけの世界、というのもある種のコミック乗りともいえ、その馬鹿馬鹿しさや有り得ない設定こそが楽しかったりします。そういった面でこの作品はひとつのおバカ映画として楽しめればそれでいいんだと思います。チャプター3も製作されているようですが、次回もきっと面白い作品になっていることでしょう。

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20170707(Fri)

[]シニシズム漂うイギリス産ゾンビ映画『ディストピア パンドラの少女シニシズム漂うイギリス産ゾンビ映画『ディストピア パンドラの少女』を含むブックマーク シニシズム漂うイギリス産ゾンビ映画『ディストピア パンドラの少女』のブックマークコメント

ディストピア パンドラの少女 (監督:コーム・マッカーシー 2016年イギリス映画)

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映画『ディストピア パンドラの少女』、なんだか意味ありげな邦題ですが、要するにゾンビ映画です。とはいえ、よくあるゾンビ映画と少々違った雰囲気を持った作品なんですよ。

まず冒頭から物語はなんだか謎めいています。地下室のような場所で、車椅子に拘束され銃を突き付けられた子供たちがひとつの部屋に集められ授業を受けているんです。ここはどこなのか?子供たちは何故拘束されているのか?今何が起こっているのか?……等々、様々な疑問が湧き、物語に引き込まれてゆくんですね。

まずここはイギリスの軍基地であり、外の世界では特殊な菌類によりゾンビ禍(劇中では「ハングリーズ」と呼ばれています)が起こり、世界は滅亡に瀕していたんです。そしてこの子供たちというのは、母親の胎内で菌に感染し、「人肉を好むが人間としての意識も思考力もある」ハイブリッド体であった、というのが分かってきます。

主人公の名はメラニー、彼女はハイブリッド体の少女ですが、高いIQを持ち、豊かな感情も兼ね備えています。しかし彼女を始めとする子供たちは、ゾンビ抗体ワクチンの実験被験者でもあったんですね。そんなある日軍基地をハングリーズが襲撃、メラニーと生き残った者たちはまだ安全とされている別の軍基地を目指し廃墟と化したイギリスを横断するのです。

こんな作品なんですが、ゾンビ映画として要所要所で新しい試みが成されているところが目を引きます。なんといっても「人間/ゾンビ」のハイブリッド体というのが登場し、しかも見た目はまるで人間と変わらない、といった部分です。このハイブリッド体の存在それ自体が物語の大きなテーマになります。主人公少女メラニーはハイブリッド体であるためゾンビに襲われません。それにより同行者の危機を救ったりすることもあります。細かい所では「ゾンビ避け軟膏」でしょうか。これ、人間の臭いを消してゾンビに襲われないようにするペースト状の薬なんですね。

そしてゾンビ禍を巻き起こしたのが菌類であるという部分です。まあ原因が何でもゾンビなんだからいいじゃん、と思われるかもしれませんが、この「菌類である」ということが最終的に物語に大きく関わってきます。これまでのゾンビ映画では"原因"はあまり重要視されてきませんでしたが、この作品ではこの"原因"こそが要となるのです。そしてゾンビになった者の最終的な運命は、今までのゾンビ映画では決して描かれなかったものでしょう。

菌類によるパンデミックがもたらしたゾンビ禍、という部分ではゾンビ・アポカリプス・テーマの名作ゲーム『The Last of Us』を思い出さずにはいられません。このゲームでは「感染者」の顔にぶよぶよした茸のようなものが生えていますが、映画『ディストピア〜』でも「感染者」の顔を菌糸のようなものが覆っています。両作の主人公少女がゾンビ抗体ワクチンと関わることになるのも一緒です。とはいえ物語の流れは全く違うものとなっています。

映画のもうひとつの見所は廃墟となったイギリスの街々の光景でしょう。同じくパンデミックによる世界の滅亡を描いた『アイ・アム・レジェンド』(2007)でも、冒頭の廃墟と化したニューヨークの光景があまりにも美しかったのですが、どちらかというと廃墟の無機質ぶりが印象深かった『アイ・アム・レジェンド』と比べるなら、『ディストピア〜』では緑の中に飲み込まれていってしまう廃墟の様子がどこかイギリスっぽい気がしました。そしてこの廃墟の光景、チェルノブイリ原発事故により廃墟となったプリピャチの街をドローン撮影したものを一部使っているらしいんですね。

そして物語全体を見渡すなら、これは自分にはイギリス流の強烈なシニシズムが根底にあるのではないかと感じました。ゾンビ映画の基本にあるのは、キリスト教で言う「最後の審判のための死者の蘇り」が逆説的に地獄を生み出してしまうというペシミズムですが、この作品においてはむしろ、種としての人類の存在が既に時代遅れのものでしかなく、それは無力で滑稽なだけのものである、ということを冷笑的に描いているように思えましたね。イギリス産ゾンビ映画というとダニー・ボイル監督の『28日後…』がありますが、むしろエドガー・ライト監督の『ショーン・オブ・ザ・デッド』に通じる皮肉がこの作品にはあるのではないでしょうか。

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アイ・アム・レジェンド [Blu-ray]

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20170705(Wed)

[]WASP、それは女性だけで編成された航空輸送部隊〜『エンジェル・ウィングス』 WASP、それは女性だけで編成された航空輸送部隊〜『エンジェル・ウィングス』を含むブックマーク WASP、それは女性だけで編成された航空輸送部隊〜『エンジェル・ウィングス』のブックマークコメント

■エンジェル・ウィングス / ヤン、ロマン・ユゴー

エンジェル・ウィングス

物語の主人公は女性だけの航空輸送部隊WASPに所属するパイロット、アンジェラ・マクラウド。彼女はC‐47輸送機を駆って、ヒマラヤ山脈を越えてビルマから中国へ至る輸送任務「ハンプ越え」に従事した。ビルマの地でアンジェラは、P‐40戦闘機を装備する「ビルマ・バンシーズ」飛行隊のパイロットたちに出会い、彼らに自らの飛行技量と度胸を見せつける。その後、彼女が留まる基地にピンナップ・ガールのジンクス・フアルケンバーグが慰問に来着。物語は二人の女主人公を軸に展開する…!

舞台となるのは第2次世界大戦時のビルマ。ここで連合軍と帝国日本軍が制空権を巡って激しい戦闘を繰り広げていた。物語の主人公は女性だけの航空輸送部隊WASPに所属するパイロット、アンジェラ・マクラウド。男だらけの熾烈な戦場で、その男たちから軽んじられながら、持ち前のタフネスだけを武器に、死を賭して大空を駈る女。男勝り、強い意志を秘めたまなざし、背は低いがなかなかのグラマー。なんと時々ヌード・シーンのサービス・ショットがあるのも嬉しい!

物語は彼女を中心としながら、ビルマ戦線における危険に満ちた任務と、アンジェラの仄かな恋と、悲しい過去が交差しつつ展開してゆく。さらに、戦地に慰問に来たハリウッド女優ジンクスとの、女同士の確執が燃え上がるところなんざ作者分かってらっしゃる、といった感じ!バンドデシネ『エンジェル・ウィングス』は、このアンジェラの持つキャラクターの魅力でグイグイと引っ張ってゆくのだ。

実際に当時の軍部には「女性だけの航空輸送部隊WASP」は存在していた。しかしそれは軍の補佐的な役割でしかなく、「WASPの女性パイロットはすべて民間のボランティアであり、身分としては“軍人”ではなく“公務員”として扱われた*1」。しかし、任地での危険は男たちと一緒なのだ。そんな、ある意味差別的な立場にありながらも、物語の主人公アンジェラは凛として己の任務を遂行してゆく。この作品のような波乱万丈の物語は実際には有り得なかっただろうとしても、戦場に臨む女たちの気概はずしんと胸に響いてくる。スパイ疑惑やジャングルでの逃走劇などエンターティンメントとしての楽しみもたっぷり。これは戦闘機バンドデシネの大傑作かもしれない。

さらにこの『エンジェル・ウィングス』はグラフィックの質が相当に高い。物語で活躍する戦闘機の姿が、圧倒的なまでに美しく描かれているのだ。

オレは宮崎駿のアニメーション映画『風立ちぬ』には、そこで描かれる宮崎の戦闘機への偏愛が今ひとつ理解できず、作品としてどうにもノレなかったクチだ。しかし、ヤン原作、ロマン・ユゴー作画のバンドデシネであるこの『エンジェル・ウィングス』を読んで、宮崎の戦闘機の偏愛が、多少なりとも理解できた思いがある。なにしろ、ここで描かれる戦闘機の数々が、びっくりするほど美しいのだ。それが戦争をするための兵器である、なんていうことは一切関係ない。美しいから、美しいのだ。それは、「空を飛ぶものの独特の美しさ」ということなのだろうか。

ただし具体的に言うなら、現実の戦闘機が美しいかどうかということではなく、戦闘機に魅せられた者だけが描ける、官能に満ちた描線の美しさ、ということでもある。最も美しく見えるアングル、スピード感と雄々しさ、角度によって違う光線の照り方、そういったものを知り尽した者だけが描くことのできる描線なのだ。ミリタリーマニアでもなんでもない、そもそも描かれている戦闘機が何かすら知らないし分からないオレが、これはただただ美しいものだ、と感じ入ることができるのだから、ロマン・ユゴーの描画がどれだけ頭抜けて優れているのか理解できるだろう。