【積みゲー消化】今頃だがゲーム『Call of Duty : Modern Warfare II』のキャンペーンをクリアした

Call of Duty : Modern Warfare II ( PS5、PS4Xbox OneXbox Series X/S、PC)

最近チマチマと「積みゲー」を消化している最中なのだが、今回目出度く(?)クリアしたのは2022年10月に発売され購入したミリタリーFPSゲームCall of Duty : Modern Warfare II』のキャンペーン(要するにシングルのストーリーモード)。

昨今のFPSではマルチが基本で、キャンペーンなどオマケ扱いされているか、もはやキャンペーンすら実装されていないFPSゲームもかなり存在する。とはいえ、オレはゲームと言えばFPSばかりやっていた時期さえあるのだけれども、昔っからキャンペーンオンリーでプレイしていて、マルチなんてまるで遊んでないんだよな。

そもそもオレがパソコンというものを買おうと思ったのは90年代末、初期のパソコンゲームDoom』や『Quake』、『Unreal』や『Half-Life』といったFPSを遊びたかったからだった。それらFPSにもマルチは実装されていたかもしれないが (未確認)、やはりシングルプレーが一番だった。3Dでグリグリ動く異世界の、迫真的な没入感が格別だったのだ。当時は次々とグラボを換え、次々とパソコンを換えながら(マザボが古いと動かない)、最新FPSを遊ぶのが最高の愉しみだった。

あの頃どれだけのパソコンFPSを遊んだか、もはや覚えていないのだが、基本的にはSFやホラー系のものが多かったな。その中でじわじわと頭角を現してきたのがミリタリー系FPSで、「バトルフィールド」や「メダル・オブ・オナー」、そしてこの「コール・オブ・デューティ」シリーズがそれに当たる。ミリタリー系FPSは第1次・第2次世界大戦といった現実の戦争を題材としており、史実に沿った、あるいは史実の裏に存在したとされるストーリーで構成される。

そしてその中でも「コール・オブ・デューティ」シリーズはグラフィックとゲーム性が頭抜けてた。特に『Call of Duty 4: Modern Warfare』が凄かった。これまでのミリタリーFPSは史実に則って物語を描いたが、この『CoD4:MW』では架空の近未来戦を描いたのだ。実の所、これまでの史実に則った戦記物は、連合国側の正義を謳ったものでしかないという退屈さがあった。だが『CoD4:MW』は、現実の泥臭い世界情勢に即した、より生々しく非情な物語を紡ぐことに成功したのだ。やはりね、オレがFPSに求めていたのは、こういった物語性だったのだよ。

というわけで「CoD」シリーズはその後もWW2戦記を中心とした「CoD」、近未来戦に特化した「CoD:MW」、そして特殊部隊をメインとした「CoD:ブラックオプス」などのシリーズに枝分かれしながらガンガンとゲームをしリースし、ヒットし続けてきたというわけだ。オレも好きなシリーズなのでリリースされたらとりあえず買って遊んでいるが、なにしろ沢山リリースされているからどれをどこまでやったのか覚えていないほどだ。

この『CoD : MW II』でも多国籍特殊部隊がメキシコ特殊作戦群と連携しながら世界的テロリスト討伐の為に熾烈な戦いを繰り広げるといったものになっていて、近未来架空戦記の面白さを醸し出しているのだよ。キャンペーンもステルスやアイテム収拾しての武器製作など、目先の変わった面白さを導入するのに頑張っていて、これまでの力押しのストーリーから脱却しようとしている部分を感じた。ただ、ちょっとマッチョすぎる登場人物と世界観には少々辟易してきたのも確かで、今後「CoD」をまた遊ぶかどうかは分からないなあ。クリア時間14時間。

 

ザックのNetflix配信SF映画『REBEL MOON – パート2 傷跡を刻む者』はやっぱりしょっぱい出来だったなあ

REBEL MOON – パート2 傷跡を刻む者(Netflix映画) (監督:ザック・スナイダー 2024年アメリカ映画)

ザック・スナイダー監督によるNetflix配信のSF映画『REBEL MOON』、去年12月に配信された「パート1 炎の子」に続く「パート2 傷跡を刻む者」が最近公開されたので観てみることにした。期待せず。なんで期待してないかというと「パート1」があまりにつまらなかったからである。これについてはブログで書いたのでご参照されたい。

で、この「パート2」はどうだったかというと、「パート1」の感想と寸分違わない。要するにやっぱりつまらかなった。退屈だった。ザックは『スターウォーズ』を『7人の侍』のフォーマットでやりたかったらしいが、物語も映像面もこの2作と比べ物にならないお粗末さで、単なるSF映画として観ても楽しめる要素がまるでなかった。

銀河を支配する帝国軍が田舎惑星の住人たちに年貢の小麦を収めさせるため軍事力で圧力を掛けてくるというのが物語の発端だが、そもそもその小麦というのが50人程度の村人が宇宙航海時代にも関わらず人力で作っていて、そんな小麦の量などたかが知れているではないか。そんな小麦を巨大宇宙戦艦ではるばる宇宙空間を渡って収奪するのか?おまけにこの宇宙戦艦、乗組員が石炭のようなものを炉にくべて駆動させている描写があるんだがいったいどうなってんだ?

要するにザックはSFが全然分かってなくて、スぺオペ自体も分かってなくて、SFっぽいだけの絵を並べているだけなんだよな。そもそもザック、テクノロジー描写に興味がないみたいで、だからSFに見えないんだよ。

ザックの『エンジェル・ウォーズ』は荒唐無稽なSFイメージを並べながらも「妄想の世界」という但し書きがあったからこそビジュアル的な奇抜さを楽しめたが、この『REBEL MOON』は「SFという”物語”」を紡ぐべきだったのに結局ザックの御家芸である「イメージビデオ」レベルのものにすらなっていないんだよな。ザックいったいどうしたんだ。ザックは現在「TV放送できないハードなシーンを盛り込んだ『REBEL MOON』完全版」の製作に取り組んでいるらしいのだが、物語がこんだけお粗末だと全く期待できないんだが。

 

ビデオゲーム原作のアマプラSFドラマ『フォールアウト』を観た。

フォールアウト シーズン1(Amazon Prime Video)(監督:ジョナサン・ノーラン 2024年アメリカ製作)

Amazon Prime Videoで配信中のSFドラマ『フォールアウト』です。これ、核戦争後の世界を舞台にした同名人気ビデオゲームシリーズのドラマ化作品なんですね。オレもゲームはとてもお気に入りだったので放送を楽しみにしていた(でも実は『Fallout 4』しかクリアしてないんだけどね!)。

舞台となるのは全面核戦争から200年後、一面の瓦礫で覆われた2296年のアメリカ。一部の人々は核シェルター「Vault 33」に隠れ住んでいましたが、そこに外の世界で生き延びた暴徒たちが襲い掛かります。そして主人公ルーシーは拉致された父を救うため死と放射能の渦巻く荒廃した世界に足を踏み入れることになるのです。そのルーシーの旅に軍事組織B.O.S.の見習い兵士マキシマス、醜く顔の焼けただれた賞金稼ぎのグールが絡み、ドラマが進んでゆきます。

「マッドマックス」シリーズや『北斗の拳』の如き核戦争後のヒャッハーッ!な世界を描いたものではありますが、これらの作品のようなハードなアクション作というものではありません。どちらかというと知る人ぞ知るカルトSF映画リチャード・レスターの不思議な世界』のような、クレイジーで殺伐とした世界が延々と描かれてゆくんです。

ゲーム「Fallout」シリーズはレトロフューチャーな世界観が特徴的でしたが、それは60年代冷戦下のアメリカの風俗をそのまま盛り込んだものなんですね。だから近未来の物語の筈なのに、どこか60年代で時が止まってしまったかのようなアメリカの姿が描かれるんです。核シェルターなんて発想もそもそも60年代冷戦下のもので、これなどは核シェルターにまつわるドタバタを描いたジョー・ダンテ監督の作品『マチネー 土曜の午後はキッスで始まる』を彷彿させます。

そういった具合に、世に数多あるポストアポカリプス作品とは一味違うヴィジュアルを見せたのがゲーム「Fallout」シリーズでした。そのヴィジュアルが、グロテスクな黒いユーモアとなって作品世界を覆うんです。ドラマではそれを細かい部分まで丹念に再現し、実写の形でゲーム世界を追体験させるのを目的となった作品として仕上がっているんですね。いわばこの世界観そのものが作品の主役であり、ドラマの醍醐味となっているんですね。

ただし物語それ自体は辻褄合わせに忙しく、シナリオの弱さが露呈している分が残念に感じました。200年の間コールドスリープだか世代交代で核シェルターで生き延びた人たち、一方荒廃した外の世界でケダモノのように生き伸びた人たち、というのは分かるんです。でもどういう方法でだかその200年を生き延びたグールや、破滅した世界の筈なのに強力な最先端武器を持った軍事組織、というのがちぐはぐに感じさせるのですよ。物語はある博士の首を巡っての争いと、核シェルターにまつわる隠された陰謀とを中心として描かれますが、物語性が薄く、8話で引っ張る程のものではないように思えました。

お散歩日和/東戸塚~戸塚、戸塚~藤沢

某月某日 東戸塚~戸塚

最近相方さんが【旧東海道巡り】を趣味とし始めたのだが、オレもそれに便乗して一緒にあれこれ巡ることにした。まあ要するに連れ立ってのお散歩である。

この日は東戸塚から戸塚まで。その前は東神奈川から東戸塚まで歩いていて、その続きなのだ。

まずは東戸塚の駅前で腹ごしらえ。ラーメンうまい!

では戸塚までしゅっぱーつ!途中川沿いの桜が満開でなかなかに風情があった。

途中に変なオブジェが。

さらに歩くともつ煮込みの自動販売機発見。1つ1100円は高いのか安いのか。

 

どうやら近くに神社があるらしいと知り、あれこれと道に迷いながら樹の幹の間ににしめ縄がされている場所を見つける。

入ってみるとひっそりとした場所に神社が佇んでいた。

あれやこれやうろちょろしながら戸塚駅までだいたい3時間ぐらいの道のりであった。行程を終えアイスカフェオレで一服。

おうちに帰って寿司折りの寿司をつまみながらこの日一日を振り返るオレと相方さんであった。

某月某日 戸塚~藤沢

そして翌週、今度は戸塚から藤沢を目指すことに。とはいえ今回、直線距離でも3時間あまりと少々長い時間歩くことになりそうなので、午前中から出発することにした。

戸塚からの旧街道は交通量の多い幹線道路と工事現場とが延々続き、道なりには夥しい数のトランクルームとこれでもかという数の中古車販売店が軒を連ね、一種独特の殺伐とした雰囲気を醸し出していた。

とまあそんな戸塚の旧街道を小一時間ほど歩いてこの日のお昼ごはん。住宅街にあったとんかつ屋でおろしロースとんかつ定食。大根おろしがさっぱりとしてとても満足。

お昼も食べ終え歩くことさらに1時間あまり、「俣野別邸庭園」に到着。今までの殺伐さを忘れさせてくれるような美しい緑が待ち構えていた。

庭園は驚くべき数の花と植物で覆われた得も言われぬ別世界だった。

 

静かな庭園でしばしの間のんびりと休憩。あまりに長閑なので眠り込みそうになった。

後ろ髪を引かれる思いで「俣野別邸庭園」を後にし、藤沢を目指す。道々には恒例「変なオブジェ」。

 

すると途中、びっくりするほど広い境内のお寺に出くわした。「遊行寺」というお寺なのらしい。

これまたとんでもない異空間でしばし呆然。

 

こりゃ風情があるわー。

境内には藤棚もあったが、そもそも藤沢には藤棚が多いのらしい。あ、「藤」つながりだからか!?

この日の最後辺りに見た「義経首洗井戸」。鎌倉時代、自害した源義経の首を洗った井戸なのだとか(奥にあるすのこが載せられた場所)。こんなのが住宅地の真ん中にポツンとあるのが凄い。

という訳でこの日も終了。午前10時半出発の午後4時終了というとんでもない距離を歩いてしまった。後でスマホの万歩計を見たらなんと3万歩!最後のほうは膝が痛くなってしまい難儀した(年寄りなんです)。

疲れた体を癒すのはやっぱりビール!ビールビールビール!さんざっぱら痛飲してこの日を終えたオレと相方さんであった。

(おしまい)

 

 

スティーヴン・キングの長編小説『ビリー・サマーズ』はクライム・ノヴェルの堂々たる傑作だった

ビリー・サマーズ(上・下) / スティーヴン・キング(著)、白石朗(翻訳)

ビリー・サマーズ 上 (文春e-book) ビリー・サマーズ 下 (文春e-book)

狙いは決して外さない凄腕の殺し屋、ビリー・サマーズ。そんなビリーが、引退を決意して「最後の仕事」を受けた。収監されているターゲットを狙撃するには、やつが裁判所へ移送される一瞬を待つしかない。狙撃地点となる街に潜伏するための偽装身分は、なんと小説家。街に溶け込むべくご近所づきあいをし、事務所に通って執筆用パソコンに向かううち、ビリーは本当に小説を書き始めてしまう。 だが、この仕事は何かがおかしい……。ビリーは安全策として、依頼人にも知られぬようさらに別の身分を用意し、奇妙な三重生活をはじめた。そしてついに、運命の実行日が訪れる――。

その1:ネタバレ無し感想

スティーヴン・キングが『異能機関』(2019)に続いて書き上げた長編小説『ビリー・サマーズ』(2021)はホラー小説ではなく、「ビル・ホッジス3部作」の如きクライム・ノヴェルとなっている。物語の主人公は凄腕の殺し屋ビリー・サマーズ。「悪人の殺ししか請け負わない」とうそぶく彼は引退を決意し、最後のミッションの為にある町に潜伏する。そこでビリーは一般人に溶け込むため小説家を自称するが、実際に小説を書き始めると妙に乗ってきてしまい……というのが冒頭の流れになる。

この設定とその後の展開は奇妙にユーモラスだ。偽名と偽の身分で郊外に居を構えながら、次第に近所の住人たちに受けいれられ、あまつさえ好人物として好かれだすのである。ホントは殺し屋なのに!もとより冷酷な殺し屋というわけでもないビリー、そんなご近所付き合いを愉しんだりしているのだ。ホントは殺し屋なのに!おまけに殺しの下準備をしつつも、今現在書いている”小説”が気になってしまい、「今日はこの辺りを書こうか……」などと思案しているのだ。ホントは殺し屋なのに!

ここでビリーが書き始める”小説”とは、己の自叙伝である。それは痛ましい記憶に満ちた不幸な少年時代に始まり、やがて成人し兵士となってイラク武装勢力との戦いに身を投じ、そこで凄惨な戦闘を潜り抜けていくというものだ。この”自叙伝”は物語と同時進行しながら作中に散りばめられることになる。ビリーがどのような人生を歩み、どのような心の傷を抱えながら、どのように殺し屋となっていったのかが描かれるのだ。こういった形で主人公のキャラをしっかり肉付けし、陰影を持たせてゆく筆致はさすがだ。

さらにある事件が引き起こされることで、少年時代の”痛ましい記憶”が現在と重なり合う。そしていざ殺しのミッションが進行し始めると、”イラク時代の凄惨な戦闘”が現在とダブってゆく。つまり、自叙伝を書かせることで主人公キャラの肉付けをするだけではなく、過去の記憶と現在とを重ね合わせながら、その過去における悔恨や心の痛みを昇華しようとしてゆく、という展開を見せるだ。この辺り、非常に高い構成力を感じさせ、その複雑さからはキング版クライム・ノヴェルの深化と完成形を見て取ることができる。

なにしろ実は、「小さな町に作家のフリをしながら潜伏して殺しの準備」というシークエンスは上巻半ばで既に終了してしまい、そこから《思いもよらぬ展開》が始まってしまうのである。これには相当驚かされた。そして物語は全く先が読めないまま、全てが怒涛となってクライマックスへと突き進んでゆくのである。いやあここまでラストが気になって仕方のなかったキング作品は初めてかもしれない。これがホラーなら怪異に結末を付けて終わりだろうし、「ビル・ホッジス3部作」辺りのクライム・ノヴェルなら犯人と対決して終わりになるだろう。しかしそうではないのだ。それだけの物語では決してなかったのだ。

ここには眩いばかりのエモーションと、なけなしの愛と、ささやかだが強烈な人間の絆が描かれていた。作家生活50年にしてまたもやここまでの高みにある作品を書き上げるキングの丹力には感服しかない。これはキング作品としてだけでなく、クライム・ノヴェル・ジャンルの作品としても相当に完成度が高いと言えるだろう。物語展開は幾多のクライム・ノヴェル作家の作品と比べても何ら遜色なく、ひょっとしたらキングはホラー小説界のみならず犯罪小説界までも席巻しようとしているのか!?と思わされたほどだ。

それとこの物語、キングの「とあるホラー作品」と地続きになった世界であることがさりげなく触れられている。もちろんこの『ビリー・サマーズ』は全くの非ホラーだが、こういった読者へのクスグリも楽しい作品だった。

……という訳で「ネタバレ無し感想」はここまで、書影を挟んでから下は「ネタバレ感想」が続くのでご注意を。

その2:ネタバレ感想

さて《思いもよらぬ展開》とはなにか。

『ビリー・サマーズ』の物語は途中、ある娘の登場によりがらりと趣を変えることになる。その娘アリスは、男たちに凄惨な暴行を受け、雨の中に捨て置かれていた。ビリーは殺しを終え、逃走準備をしていたのにも関わらず、この娘を救い、潜伏先の家で看護することを選んでしまうのだ。誠心誠意看護したビリーを、アリスは殺し屋と知りながら信用し、あまつさえ彼の逃走に付き従おうとする。アリスは忌まわしい記憶に満ちた町やそこでの人間関係を捨て去りたいとも思っていたのだ。

この辺りの展開は、説得力としてはスレスレかなとは思えた。いくら手厚く看護されたからといって殺し屋を信頼するだろうか。いくら惨い暴行を受けたからといって、町での生活を、しいてはおのれの存在そのものを全て捨て去りたいだろうか。ビリーはアリスに暴行をはたらいた男たちを突き止めアリスに代わって報復し、それで信頼が生まれたとする流れだが、この辺の心理の流れに疑問を感じた。逆に女性はこの場面に対してどう感じるだろう?という興味が沸く。

このビリーとアリスとの関係は、映画『レオン』におけるレオンと少女マチルダとの関係や、映画『マイ・ボディーガード』における特殊工作員クリーシーと少女ビタとの関係に似ているかもしれない。また、キング小説『ドクター・スリープ』においても、主人公である中年男ダンと超能力少女アブラという組み合わせが存在している。

脛に傷持つ屈強な戦士(ダンは草臥れ男だが)といたいけな少女とのアンバランスな組み合わせは、そのアンバランスさゆえに物語に独特の情緒をもたらす。そこには性愛は存在せず、無垢な者を守りたいという思い一つで男は戦場へと赴くのだ。同時に少女は少女で、その戦いに加担しようと男に手を差し伸べる。それはこの『ビリー・サマーズ』の物語も同様だ。しかしこの『ビリー・サマーズ』では、ビリーがアリスを守ろうとした理由がもう一つある。それはビリーが幼い頃、家庭内暴力で亡くした妹への無念を抱えていたことにあった。

こうして物語は中盤から殺し屋とうら若い娘との修羅の旅を描くこととなる。同時にそれはビリーの過去の無念を濯ぐ旅であり、アリスにとっては蹂躙された心身を癒すための旅でもあった。それはお互いがお互いの存在により魂の再生を図ろうとする行為だったのだ。

二人の関係は男女の愛未満のものではあるが、それでも微妙に危うい部分で感情は揺れ動いている。このいわば「寸止めの美学」ともいえる描写が実に切ない。しかし二人はこの関係を永遠に続けるわけにはいかない。殺し屋と一般人の娘では世界が違うからだ。ではどうするのか、どうするべきなのか?こうして「殺し屋が小説を書く」ことから始まった物語は、「物語を紡ぐこと」の崇高さを高らかに謳い上げながらラストを迎える。これは小説家スティーヴン・キング信仰告白であったのかもしれない。遂に 「ビル・ホッジス3部作」をも超えるクライム・ノヴェルの傑作までものにしたキングだが、魅力に溢れた登場人物を擁したこの物語、なんとなく続編を期待してしまっている自分がいる。