柴田元幸 編訳『ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース』を読んだ

ブリティッシュアイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) /柴田元幸 (翻訳)

ブリティッシュ&アイリッシュ・マスターピース(柴田元幸翻訳叢書) (Switch library)

柴田元幸翻訳叢書シリーズ 待望の第5弾! 】 11名の作家による、英文学の名作中の名作を選りすぐった贅沢極まりないアンソロジー。 好評既刊『アメリカン・マスターピース古典篇』の姉妹編となる一冊。

翻訳家・柴田元幸氏による翻訳叢書シリーズの1冊となるこの『ブリティッシュアイリッシュ・マスターピース』は、以前ブログで紹介した『アメリカン・マスターピース古典篇』の姉妹編として同時に刊行されたものなのらしい。内容はタイトル通り、アイルランドも含む「英文学」の名作短篇を柴田氏の視点から編集したものとなる。そしてこれがまた古典英文学の大御所が大挙してピックアップされたお得感たっぷり・読み応えたっぷりの短編集となっており、これ1冊だけでも非常に読む価値があると言っていいだろう。

そして通読して思ったのは、オレは米文学と比べるならどちらかといえば英文学のほうが好みであるという事だ。『アメリカン・マスターピース』シリーズにおける錚々たる米文学作家のメンツにも十分満足させられたが、英文学にはどこか安心感を感じるのだ。それと同時に、英文学の方が読んだことのある作家・作品が多かった。柴田氏はこれら米文学と英文学の違いを、「遠心的なもの(米)と求心的なもの(英)の違い」とあとがきで述べられているが、要するに米文学は「世界は変わりゆくものであり変えるべきものである」という立場にあり、一方英文学は「世界とはこういうものでありいつまでも変わることなくこうなのだ」という立場にあるという事なのだろう。

それにしてもこうして眺め渡してもつくづく楽しいラインナップだ。猿の手」W・W・ジェイコブズ(これはもう「完璧な」怪奇小説だろう)や「信号手」チャールズ・ディケンズ「しあわせな王子」オスカー・ワイルドなんて子供の頃からお馴染みだったし、メアリ・シェリ「死すべき不死の者」)はついこの間『フランケンシュタイン』を読了したばかりだし、コンラッド「秘密の共有者」)やオーウェル「象を撃つ」)の著名な長編は読んでいるし、ジョナサン・スウィフトアイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」)は『ガリバー旅行記』の作者だし、サキ「運命の猟犬」)は本棚のどこかに短編集が転がっている筈だ。

ディラン・トマスウェールズの子供のクリスマス」)は読んだことはないがボブ・ディランの芸名の元になったのは初めて知った。デ・ラ・メア「謎」)も読んだことが無かったなー。そしてこれも英文学最後のボスキャラ(?)ジェームズ・ジョイスの名前があることに大いに挑戦心が湧く。総じて「奇妙な味」の作品が多かったのがオレ好みだった理由だろう。英国風味の強烈な皮肉(スウィフト)や薄暗い不条理感(デ・ラ・メア)が伺われる部分もよかった。作品として最も屹立していたのはコンラッドので、油断を許さぬ展開に手に汗握った。

とはいえ、この短編集最大の収穫は、やはりジェームズ・ジョイスを初めて読めたことに尽きる。この短編集にはジョイス作『ダブリン市民』から「アラビー」「エヴリン」の2編が収録されているが、これがもう、正直別格だった。もうちょっと書くと、実は衝撃的だった。短編という短い文章構成の中に、(ダブリンという)ひとつの世界がゴロンと、あるいはドテッと横たわっているのが如実に伝わってくるのだ。

ここには、「何もかもどうしようもない」という変えようのない現実が存在している。不幸ではないが、幸福でもない。貧しくはないけれど、豊かでもない。孤独ではないが、心は満たされてはいない。何もかもどうしようもなくて、そしてそう生きてゆくしかないのかもしれない。でもそれはあまりに切ないことだ。ジョイスの小説は「麻痺(パラライズ)の物語」と呼ばれるのだそうだが、それはつまり、「(麻痺しているかのように)何も変えようがない」という悲哀を指しているのだろう。そしてこれは、オレの事なんじゃないか、と思えて仕方がなかった。どこか、心の奥の一番柔らかい部分を掻き毟られたような気持ちにさえなった。

【収録作品】「アイルランド貧民の子が両親や国の重荷となるを防ぎ、公共の益となるためのささやかな提案」ジョナサン・スウィフト/「死すべき不死の者」メアリ・シェリー/「信号手」チャールズ・ディケンズ/「しあわせな王子」オスカー・ワイルド/「猿の手」W・W・ジェイコブズ/「謎」ウォルター・デ・ラ・メア/「秘密の共有者」ジョゼフ・コンラッド/「運命の猟犬」サキ/「アラビー」「エヴリン」ジェームズ・ジョイス/「象を撃つ」ジョージ・オーウェル/「ウェールズの子供のクリスマス」ディラン・トマス 

柴田元幸 編訳『アメリカン・マスターピース 準古典篇』を読んだ

アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) / 柴田元幸 (翻訳)

アメリカン・マスターピース 準古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

柴田元幸翻訳叢書シリーズ最新作。 10年前に発行された「古典篇」に続く「準古典篇」です。 アメリカ合衆国で書かれた短編小説、その”名作中の名作”を選ぶ。 ヘミングウェイ、フォークナーなどの巨匠による「定番」から、ハーストン、ウェルティ、オルグレンの本邦初訳作まで。 激動の時代、20世紀前半に執筆・発表された全12篇を収録。

以前読んだ〈柴田元幸翻訳叢書シリーズ〉『アメリカン・マスターピース 古典篇』の続編となる『アメリカン・マスターピース 準古典篇』である。この「アメリカン・マスターピース・シリーズ」は「翻訳者(柴田元幸氏)が長年愛読し、かつほとんどの場合は世に名作の誉れ高い作品」というコンセプトのもとに編まれているもので、今回の『準古典篇』では20世紀前半、厳密には1919~47年に執筆・発表された作品が収められている。

あとがきにも触れられているが、アメリカの20世紀前半とは二つの世界大戦に挟まれた時期であり、アメリカが世界でも目覚ましい繁栄と躍進を遂げ、その後の大恐慌を体験し、同時にアメリカならではの腐敗と混乱が徐々に社会に広まっていった時期でもある。そういった世相を反映してか、この『準古典篇』では繁栄の陰の退廃や、人種問題、犯罪化社会が浮き彫りとなった作品が並ぶ。

「グロテスクなものたちの書」シャーウッド・アンダーソンなどはその「アメリカ20世紀前半」の序章ともなる作品だろう。「インディアン村」アーネスト・ヘミングウェイではタイトル通りインディアンの村が描かれるがそこはヘミングウェイ、削ぎ落した描写が逆に寒々しい。というか、実はこれがヘミングウェイ初体験。

「ハーレムの書」ゾラ・ニール・ハーストン、「何度も歩いた道」ユードラ・ウェルティは黒人たちの生活を生き生きとしたユーモアで描くが、「広場でのパーティ」ラルフ・エリスンでは陰惨極まりない黒人差別が噴出する。この「広場でのパーティ」の地獄図は相当に凄まじい。「ローマ熱」イーディス・ウォートン、「失われた十年F・スコット・フィッツジェラルド、「三時」コーネル・ウールリッチは都市化の影響で空疎になってゆく人間関係を描く。この3作はどれも好きだが、ミステリ作家のウールリッチが選出されているのには驚いた。

一方、「心が高地にある男」ウィリアム・サローヤン「納屋を焼く」ウィリアム・フォークナーアメリカ農村地帯の貧困を方や諧謔的に、方や熾烈に描いたコインの裏表のような作品だ。とはいえフォークナー苦手なんだよなオレ。「分署長は悪い夢を見る」ネルソン・オルグレンでは犯罪化する都市を黒い笑いで活写する。その中で「夢の中で責任が始まる」デルモア・シュウォーツは、「この時代にアメリカで生きる事」を切なく描いた逸品だった。

全体的に格調高く、アメリカ文学がまさに花開こうとしたときを濃縮した短編集だったと思う。その分ちょっと取っつき難さもあったが……。

【収録作品】「グロテスクなものたちの書」シャーウッド・アンダーソン/「インディアン村」アーネスト・ヘミングウェイ/「ハーレムの書」ゾラ・ニール・ハーストン/「ローマ熱」イーディス・ウォートン/「心が高地にある男」ウィリアム・サローヤン/「夢の中で責任が始まる」デルモア・シュウォーツ/「三時」コーネル・ウールリッチ/「納屋を焼く」ウィリアム・フォークナー/「失われた十年F・スコット・フィッツジェラルド/「広場でのパーティ」ラルフ・エリスン/「何度も歩いた道」ユードラ・ウェルティ/「分署長は悪い夢を見る」ネルソン・オルグレン

 

 

柴田元幸 編訳『アメリカン・マスターピース 古典篇』を読んだ

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書) / 柴田元幸 (翻訳)

アメリカン・マスターピース 古典篇 (柴田元幸翻訳叢書)

柴田元幸が長年愛読してきたアメリカ古典小説から選りすぐった、究極の「ザ・ベスト・オブ・ザ・ベスト」がついに登場! ホーソーンウェイクフィールド」、メルヴィル「書写人バートルビー」、O・ヘンリー「賢者の贈り物」......アメリカ古典文学の途方もない豊かさを堪能できるアンソロジー。ポー「モルグ街の殺人」、ヘンリー・ジェイムズ「本物」の豪華訳し下ろしもたっぷり収録の、贅沢極まりない傑作集

お気に入りの海外小説翻訳家の名を挙げるなら、岸本佐知子氏と柴田元幸氏になるだろう。「お気に入りの翻訳家」などと書くとなんだかとてもマニアックに思われるかもしれないが、このお二人、いつも変わった短編小説ばかり訳していて、そういった好みが被るのである。このお二人が共訳した短編集が1冊あるのでここで挙げておこう。

さて今回紹介する『アメリカン・マスターピース 古典篇』は、柴田元幸氏による翻訳叢書シリーズの1冊となる。この「アメリカン・マスターピース」シリーズは今回の古典篇の他に純古典篇が刊行されており、さらに戦後篇、現代篇の刊行が予定されているらしい。

さてこの古典篇となるが、マスターピースと名付けられているように、アメリカ古典文学の錚々たる作家たちの名前が並ぶ(下記【収録作品】参照のこと)。実はそれほど文学小説を読まないオレとしては初めて読む作家が多く、ラインナップに気圧されながらも受けて立つことにしたのである(受けて立つものなのか?)。

とはいえ実際読んでみると、柴田氏らしい「ちょっと変わった物語」が多く感じられ、この辺りは取っつきがよかった。それと読んでいて感じたのは、アメリカ文学史を代表する作家の名が連なっているが、彼らの代表作というよりも、柴田氏が翻訳家として「訳してみたい」「訳し甲斐ある」と思わせる、ある種の「翻訳の難易度・満足度」に挑んだ作品セレクトじゃないかな?という気がした。

ザックリ感想を。 冗談で20年間行方不明者になってみた男の話ウェイクフィールド」(ナサニエル・ホーソーン)、雇用者の命令を頑なに聞かない奇妙な男の話「書写人バートルビーウォール街の物語」(ハーマン・メルヴィル)、貧乏貴族がモデルに雇ってくれと画家にねじこむ話「本物」(ヘンリー・ジェームズ)、どれも現実では有り得なさそうな変な物語で、柴田氏好みだなあとニンマリ。「モルグ街の殺人」(エドガー・アラン・ポーは実は生まれて初めて読んだのだが、緻密な構成に度肝を抜かれた。

O・ヘンリー「賢者の贈り物」はベタベタにO・ヘンリーしており、そのベタベタぶりにあえて注目する部分に柴田氏的なアメリカ文学史の在り方を感じさせる。マーク・トウェイン「ジム・スマイリーの跳び蛙」は単なる大馬鹿野郎噺なんだが、マーク・トウェインでわざわざこれを持ってくるところにこれも柴田氏独特のアメリカ文学観を感じさせるんだよなあ。一方エミリー・ディキンソンの「詩」は、しみじみと素晴らしい作品が並びディキンソンに大いに興味が惹かれた。

そして華氏零下50度という極寒のカナダの大地を走破しようという男の物語ジャック・ロンドン「火を熾す」、「死が目の前に待ち構えている」というギリギリの状況と人間心理を迫真の筆致で描き、「文学は何を描き出すことができるのか」ということをまざまざと眼前に叩き付けた凄まじい1作だった。これ、まさに自分がその状況に置かれているかのような描写で、なぜこんなものが描けるのだ?と呆然としてしまった。

【収録作品】 「ウェイクフィールドナサニエル・ホーソーン/「モルグ街の殺人」エドガー・アラン・ポー/「書写人バートルビーウォール街の物語」ハーマン・メルヴィル/「詩」エミリー・ディキンソン/「ジム・スマイリーの跳び蛙」マーク・トウェイン/「本物」ヘンリー・ジェームズ/「賢者の贈り物」O・ヘンリー/「火を熾す」ジャック・ロンドン

Netflixドラマ『三体』を観た

三体(Netflixドラマ)(監督:デレク・ツァン、アンドリュー・スタントン他 2024年イギリス、アメリカ、中国製作)

劉慈欣の世界的ベストセラーSF小説『三体』がNetflixでドラマ化され配信中だ。オレは原作の大ファンで、3部作全編のみならず同人作家による公式外伝も含め読破した。『三体』は大雑把に言うならファーストコンタクトと異星人による人類侵略をテーマとしたSF作品となるが、これまで描かれたこれらテーマの作品とは一線を画す超絶的なハードSF展開と宇宙的スペクタクルに満ちているのが魅力だ。

今回ドラマ化されたのは原作『三体』3部作の第1部となる。実はこの第1部はNetflix作品とは別に中国の配信プラットフォーム・テンセントビデオによって既に実写ドラマ化されている。オレも視聴環境(Hulu)があるのだが、全30話とちと長く、全8話でまとめられたNetflix版を待つことにしたのだ。(ちなみにテンセント版は原作に忠実な展開と映像美とですこぶる評判がいいらしい。)

物語は文化大革命の最中にある1960年代の中国から始まる。その糾弾集会で物理学者の葉哲泰は「科学という名の危険思想」を持つという理由で公開処刑されてしまう。その娘・葉文潔は人類に絶望し、地球文明の情報を宇宙に発信し、人類への侵略を懇願してしまうのだ。そして数十年後の現代。世界各地で優秀な物理学者が怪死する事件が次々に発生する。それは地球外生命体「三体人」の地球侵略への第1歩だった。

原作では舞台は中国・登場人物も中国人だが、Netflix版では舞台をイギリスに変更し、登場人物も様々な人種・国籍の混淆となる。原作には十分忠実だが、科学的説明は結構端折っていて、ハードSFなアイディアをほとんど説明なしにサラッと描いたりするが、この辺りはビジュアルで雰囲気を理解できると思うので特に問題ないだろう。

実は特筆すべきなのは配役の采配だ。原作の『三体』3部作はそれぞれに主人公が違うが、このNetflix版ではそのそれぞれの主人公に該当する人物がこの「第1部」で一堂に会しているのである。それにより、原作『三体Ⅱ 暗黒森林』における「面壁者計画」、原作『三体Ⅲ 死神永生』における「階梯計画」がこのNetflix版で(ほんのさわりの部分だけではあるが)物語られることになるのだ。これはもう「第2部」「第3部」へと製作する為の布石であることは間違いないだろう。

ドラマ版として改めて物語に接してみると、科学とそれによる進歩を否定した文化大革命の愚昧さに対する、葉文潔の絶望と怨念の深さがより一層鮮明に伝わってくるように感じた。こんな世界など無くなってしまえばいい、そういった世界全てへの呪詛がこの物語のそもそもの発端である部分が実に興味深い。そして実はそれは、劉慈欣の現在の中共への遠回しな批判かもしれないとも思えてしまう。

そういった政治性を抜きにしても、「科学者の連続死」「目の前で起こる謎のカウントダウン」「明滅する夜空」といったミステリ展開は十分に楽しめる。そしてこれはあくまでSF作品であるから、それに対してどう科学的な説明を持ち込むのか、といった部分でも興味をそそられる。併せて謎の最先端ゲーム「三体」が、なぜ、何のために存在するのか、という部分にも関心が尽きない。ドラマ『三体』は、超絶的なハードSF展開のみならず、こういった細かなミステリ展開でも観る者を虜にするのだ。

それとこの作品、『ゲーム・オブ・スローンズ』のスタッフが手掛けているということだが、『ゲースロ』に出演していたジョン・ブラッドリー(”ナイツ・ウォッチ”サムウェル・ターリー役)、リアル・カニンガム(”玉葱の騎士”ダヴォス・シーワース役)ジョナサン・プライス(聖職者ハイ・スパロウ役)、マーク・ゲイティス(“鉄の銀行” ティコ・ネストリス役)が出演しているといった部分で、『ゲースロ』好きのオレはニヤリとさせられた(探せばもっといるかもしれない)。

というわけでNetflix版『三体』全8話、十分楽しみながら3日間で観終わったが、物語はドラマらしいクリフハンガーの形で終わっているのだ。この続きをだね、作るんだろうね!?いや作ってくださいよ!是非観たいですよ!!

 

デヴィッド・ボウイ主演の小粋な恋の物語/映画『ニューヨーク恋泥棒』

ニューヨーク恋泥棒 (監督:監督 リチャード・シェパード 1991年アメリカ映画)

デヴィッド・ボウイというのも結構映画出演が多い人で、主演を演じた『地球に落ちてきた男』や『ラビリンス/魔王の迷宮』、『戦場のメリークリスマス』といった作品以外にも、チョイ役で夥しい数の映画に出演していたりする。

オレもそんなボウイのチョイ役映画の何作かは観たことがあるし、だいたいどんな映画に出ていたかも知ってはいるが、全部を追いかけた訳ではない。ボウイが出てくるのは確かに嬉しいし、ひとたび画面に登場すると強烈な存在感を感じさせはするけれども、それでもどこか「ロックスターの余技」、あるいは「映画の風変りな味付け」に見えてしまい、そこまで「映画俳優としてのデヴィッド・ボウイ」には注目していないというのがあった。

ところが最近、それまでまるで知らなかったボウイ主演映画が存在することを知った。タイトルは『ニューヨーク恋泥棒』、1991年公開のアメリカ映画だ。1991年のボウイといえばソロ活動を返上してロックバンド:ティン・マシーンを組んでいた時期だ。そしてティン・マシーンの時期といえば当時人気低迷気味だったボウイのキャリア模索期でもあった。1991年前後のボウイの映画出演作は1998年に『最後の誘惑』、1992年に『ツイン・ピークス ローラ・パーマー最期の7日間』といった出演作があり、まあ要するに、そんな頃である。

ファンの方ならとっくに認知している映画なのだろうが、オレはまたぞろチョイ役映画だと思って見逃していたのだ。ところがこれが紛うこと無きボウイ主演映画だというではないか。いったい何!?どんな映画!?まあきっとニューヨークで恋泥棒する映画なんだろうけど!?……などとアタフタしつつ、DVDを購入して観てみることにした。

【物語】流行のクラブ・ダリ。そこで働く、マジシャン志望の美人ウエイトレスのルーシーに、イギリスから来たプレイボーイのモンティはグリーンカード目当ての偽装結婚を持ちかける。ふとしたことから親しくなった二人は、ルーシーの親友ヴィヴィアンと共に、クラブ・ダリの売上金を強奪する計画を立てることになる。

ニューヨーク恋泥棒 - Wikipedia

ボウイの役どころはスノッブなバーでウェイターをやっているプレイボーイのイギリス人モンティ。どことなくインチキ臭い風情を醸し出しており、何かワケアリの過去を持ってるようだが、本心をさらけ出すことがなく、微妙に信用できない男だ。バーに勤める主人公ルーシーにグリーンカード目当てで結婚を申し込むとか実に怪しげじゃないか。とはいえこの役柄、妙にボウイに合っている。ボウイがこれまで出演した映画の役どころはエキセントリックだったり孤高の人だったりしたものが多かったが、この作品での役はその辺にいそうな普通のニーチャンである。そしてこの「普通のニーチャン」を演じるボウイが妙に新鮮なのだ。

舞台となる90年代アメリカは史上最長の好景気に沸いていた時期だ。だからなんだかキラキラしたスノッブなバーが登場し、出入りする客もどことなくゆったりした余裕を感じさせる。バーテンダーのモンティや店のスタッフは銀色のお仕着せを着てて、バブルなんだなーという気にさせる。ヒロイン・ルーシーのライフスタイルも、別に小洒落たアパートに住んでいるわけではないけれども、どことなく自由なボヘミア風を感じさせ、奇術師になりたいという彼女の夢は、どこかフワフワと感じさせながら、決して非現実的ではなさそうに思わせる。

そんなルーシーとモンティの恋は、その気があるようなないような、くっつきそうでくっつかない、これまたフワフワしたものだ。恋も生活もなんだか夢心地で、夢を見てるみたいで、そしてそれが十分許されていた幸せな時代だったんだな、と思わせる。物語に最近の映画作品のようなキツさや暗さや喫緊の社会問題がないのだ。そんな物語の最初のハイライトは、ルーシー、モンティ、ルーシーの友人ジャネットによるバーの売り上げ強盗計画だったりするのだが、これまたコメディ・タッチで、まるで犯罪の匂いがしない、これまたフワフワしたものなのだ。

さらにこの映画、よく見ると配役が面白い。有名俳優がいるわけではないが、知る人ぞ知るといった中堅どころの俳優が並んでいる。映画を観ていて「あれ?この人どこかで見たことある?」という俳優が多かった。そしてこんな彼らの安定した演技と存在感が、映画をよりしっかりしたものに見せている。

まずヒロインのルーシーを演じるロザンナ・アークエットはかつてピーター・ガブリエルと浮名を流し、さらにTOTOメンバーと交際してヒット曲『ロザーナ』のタイトルともなった女優。ルーシーの友人ジャネット役が『ストレンジャー・イン・パラダイス』のエスター・バリント。バーの受付役が『愛は静けさの中に』『コーダ あいのうた』のろう者女優マーリー・マトリン。バーのオーナー役のバック・ヘンリーは映画『卒業』の脚本家であり、ボウイ主演映画『地球に落ちてきた男』では俳優として出演している。

デヴィッド・ボウイ主演作であること、手堅くまとまったストーリーと安定の演技を見せる出演陣、そして90年代アメリカを生きる男女のドリーミーな恋が描かれること、映画『ニューヨーク恋泥棒』は決して派手な映画ではないし、大傑作というつもりもないけれども、観終わった後に心に暖かいものが残る、素敵な逸品ということができるだろう。