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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170726(Wed)

[]ロシアの収容所の町を巡る親子3代の物語〜『五月の雪』 ロシアの収容所の町を巡る親子3代の物語〜『五月の雪』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク ロシアの収容所の町を巡る親子3代の物語〜『五月の雪』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■五月の雪 / クセニヤ・メルニク

五月の雪 (新潮クレスト・ブックス)

目を細めると、今も白い雪山が見える――。米国注目のロシア系移民作家が描く、切なくも美しい9篇の物語。同じ飛行機に乗りあわせたサッカー選手からのデートの誘い。幼少期の親友からの二十年ぶりの連絡。最愛の相手と死別した祖父の思い出話。かつて強制収容所が置かれたロシア北東部の町マガダンで、長くこの土地に暮らす一族と、流れ着いた芸術家や元囚人たちの人生が交差する。米国で脚光を浴びる女性作家による、鮮烈なデビュー短篇集。

ソビエト連邦、今でいうロシア連邦という国には人それぞれ色々なイメージがあるだろうが、オレは多分それらの人たちとちょっと違う感情を持っている。それは、ソ連がオレがかつて住んでいた町のご近所の国だったということだ。オレが昔住んでいた北海道の町、稚内は北にサハリンが見える町だった。サハリン=樺太は第2次世界大戦後日本からソ連領になってしまった島である。返還要求もあるようだが実質ソ連/ロシアの島であると言っていい。それが海を挟んだ向こうの水平線に見えるのだ。

ソ連/ロシアが近いという事もあり、ロシア漁船が寄港することもよくあるし、この辺りの貿易絡みで町にはロシア人の家が多くあった・当然ロシア人も町中を歩いていたし、アーケードにはロシア語が併記されていたり、ロシア人専門の免税店があったりもした。1983年に起こった大韓航空機撃墜事件では、撃墜地点がサハリン沖という事もあって幾つかの遺留品が浜に打ち上げられ、町にはその慰霊碑が建っていた。戦前日本領だった樺太で亡くなった人々の慰霊碑も公園にあったりもする。そんな具合に、ソ連はオレのご近所の国だったのだ。

ロシア系アメリカ人、クセニヤ・メルニクによる短編集『五月の雪』は、ロシア極北の町マガダンに暮らす市井の人々の生活を描いたものだ。そしてこのマガダンというのが実は、かなり曰くのある町なのである。ここはかつて、シベリア強制収容所があった場所なのだ。マガダン郊外にはコリマ金鉱が存在し、この採掘の為に多くの犯罪者が送り込まれたのだという。第2次大戦終結後には、いわゆる「シベリア抑留」と呼ばれる日本人捕虜の移入地のひとつであったともいう。

しかし『五月の雪』は、このシベリア強制収容所の現実を描いた作品では決して無い。むしろ、そこに集められた強制労働に従事していた人々が、収容所閉鎖後もそこに住み続け、奇妙な文化を築き上げたことがそもそもの発端となっている。奇妙な文化とは何か、というと、それはここに集められた犯罪者が、決して刑事犯ばかりではなく、知識階級の多い思想犯だったということなのだ。それは人文や工学に強い者ばかりではなく、芸術家も含まれていた。つまり、かつての収容所の町マガダンは、極北にありながら奇妙に文化的な町へと形成されたという事なのである。

そしてこの『五月の雪』では、これらを全て背景としながら、旧ソ連時代に極北の町に住む人々の哀歓をささやかに描く作品として仕上がっている。そしてそれは、1958年から2012年に渡る、親子3代の、それも女性を中心とした物語として構成されているのだ。ここに収められた9編の短編は、時代こそ順不同であり、主要人物も様々ではあるが、最後に全体を見渡してみると、連綿と続く家族の物語の物語であったということが分かる仕組みになっている。

そこで描かれるのは、老朽化した国営集合住宅での物資や食料が不足し生活にも事欠く毎日と、そんな生活を逃れるために女に残されたのは軍人と結婚しより良い暮らしを手に入れるしかないことの世知辛さだ。とはいえ、そこには淡い恋と忘れられぬ愛の物語も物語られ、決して窮状のみが描かれる作品ではないのだ。それらは古い時代のこととして描かれるが、これがソ連崩壊後となると今度はアメリカ移住とそれによりロシア/アメリカでばらばらに暮らさざるを得なくなった家族の気苦労が中心となってゆく。どちらにしろ、文化圏の異なる国で暮らす人々の、今まで全く知らなかった生活への態度が伺い知れる部分が面白いのだ。

そしてなによりも驚かされるのが、このソ連/ロシア50年に渡る人々の細かな暮らしの様子を、30歳になるかならないかという女性が書きあげたということだ。古い時代も含まれているにもかかわらず、食生活から身の回りのことまで、その再現度があまりにも高いのだ。これは作者クセニヤ・メルニクが、彼女の家族から旧ソ連時代の暮らしを徹底的にリサーチした結果なのだという。ということであるなら、この作品自体が、作者自身が自らのルーツを辿る旅として描かれたものだと言うこともできる。

個々の物語は特別な何かが起こるわけではなく、非常に淡々として始まり終わるため、物語的なカタルシスには乏しいかもしれないけれども、当時の生活様式に注視するなら、実に発見があり楽しめるものとなっている。しかしこれが、最終話『上階の住人』において、いよいよ「収容所の町マガダン」に肉薄する段になると、物語は一気に数奇さと波乱とロマンの薫りを匂わせるのだ。

20170628(Wed)

[]知覚の扉の彼方〜『アルクトゥールスへの旅』デイヴィッド・リンゼイ知覚の扉の彼方〜『アルクトゥールスへの旅』デイヴィッド・リンゼイ著 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 知覚の扉の彼方〜『アルクトゥールスへの旅』デイヴィッド・リンゼイ著 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

アルクトゥールスへの旅

地球外の惑星アルクトゥルスの天地開闢にまで遡る善と悪との一大闘争史を巡る恐るべき宇宙ファンタジー。C.S.ルイス等に巨大な影響を与えた、真に想像力の奇跡と言いうる幻想の大遍歴譚。

この作品は随分昔、サンリオSF文庫で出ていたのを買って読んだ覚えがある。しかし、たいそう面白かったのだが、途中で別の小説を読み始めてしまい(多分その頃お気に入りだった作家の新刊が出たか何かしたのだと思う)、結局3分の1程度読んだ程度でそのまま頓挫してしまっていた。そういった経緯のある作品なのだが、なぜか急に再挑戦したくなり、文遊社から再刊されたものを購入して3、40年ぶりくらいにページを開いてみたのだ。

さてこの『アルクトゥールスへの旅』、タイトルから宇宙旅行に関わる何がしかのSF作品だと思われるだろうが、確かにアルクトゥールス星系の惑星に旅こそすれ、実の所"サイエンス"なフィクションでは全く無いのである。ある意味"スペキュレイティヴ(思弁)・フィクション"と言ったほうが正しい。そしてその思弁性は、いわゆる【神秘主義】に裏打ちされたものなのだ。

まずこの作品は1920年に書かれたものだ。作者は1876年ロンドン生まれのデイヴィッド・リンゼイという作家だが、生前は殆ど認められなかったという。だがこの『アルクトゥールスへの旅』は「オラフ・ステープルドンに影響を与え、C・S・ルイスに別世界三部作を書かせる役割を果たし、1960年代に入ってからはコリン・ウィルソンが絶賛して、その評価が定まった*1」ともある。確かにそういった経緯も頷けるほどこの作品は孤高にして独特の物語性を兼ね備えている。

物語は降霊会から始まる。ここからして時代を感じさせるが、実は、「時代」なんて言ってられるのはここまでだ。主人公はスコットランド海岸に位置する荒れ果てた天文台から「アルクトゥールス逆光線」なるものの作用により魚雷型ロケットでもってアルクトゥールス星系の惑星トーマンスへと旅立つのである。しかし、有り得ない色彩で彩られた惑星トーマンスで主人公が出会うのは、超知覚を持った異形の人々であり、彼らの持つ異様な世界認識であった。彼らによって自らも異形と化し超知覚を会得した主人公は、それにより次々と【知覚の扉】を開き新たな世界認識を会得し、めくるめくような【認識の刷新】を体験してゆくのである。

『知覚の扉』といえば1954年発行の、オルダス・ハクスレーによる幻覚剤によるサイケデリック体験の手記と考察だが、この『アルクトゥールスへの旅』はドラッグ抜きのサイケデリック体験を文章化したものだと言えば近いかもしれない。そしてここで主人公が会得する新たな【認識】は、現実に存在する何がしかの教義と共通する点を全く持たず、またそれが暗喩するのかもしれないなにかを容易に想像できない、デイヴィッド・リンゼイ独自の神秘主義的秘儀を思わせるものなのだ。

さらにこの物語が非常に面白いのは、主人公が次々と認識の刷新を体験しながら、それが次第に認識の高みへと昇ってゆくのではなく、認識を刷新することによりそれ以前の体験を捨て去ってしまうということである。つまりこれら"新しい認識"は、唯一至高のものではなく、相対的なものでしかない、ということなのである。即ち、相対化され続ける認識とは、認識そのものの無意義性であることに他ならず、ある意味認識の"虚無"を謳った物語だとも言えるのだ。つまりこの『アルクトゥールスへの旅』は、その暗澹たるラストも含め神秘主義的であると同時に、虚無主義についての物語だったとも言えないだろうか。

こういった点全てを含めて、実に謎めいた、そして解読の容易ではない不可思議な物語ではあるのだが、他に類を見ない強烈な読書体験だったことは確かだ。そして読者はここで描かれるそれ自体が異形の世界観に翻弄されながら、最後に【知覚の扉】の彼方にある昏く終末感溢れる【深淵】に辿り着くことになるのだ。

20170616(Fri)

[]不思議に彩られた里山への畏怖と畏敬〜『里山奇談』 不思議に彩られた里山への畏怖と畏敬〜『里山奇談』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 不思議に彩られた里山への畏怖と畏敬〜『里山奇談』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■里山奇談 / coco、日高トモキチ、玉川数

里山奇談

オレは海育ちのせいか、山にはちょっとした憧れがあった。オレが18まで住んでいた北海道の漁港の町は、三方を寒流の海に囲まれ、それこそいつでも飽きるほど海を眺められたが、これが山となると、せいぜい小高い丘程度の高さのものがある程度だった。しかも北海道特有の粘土質と、寒冷による植物相の北限により、植林されたもの以外にこれといった樹木も生えず、当然林だの森だのといった植生が存在しなかった。生えているものといえば北国独特の小振りな草花と、貧相な色をした雑草と、あとは見渡す限りのススキノだけだ。だからTVや映画や漫画で見る「森」というものに、木々を始め様々な草花が生い茂る山という存在に、密かな憧れを抱いていた。

だから今の相方さんと知り合った頃、ちょっとしたことがあるといつも山にハイキングに出掛け、意外と体力量のいる作業を要するそんな休日に、相方さんが不満を漏らしていた、なんていう笑うに笑えない話まである。ただ、オレは、子供の頃憧れていた、山が、見たかったんだ。そんな山の中を、歩いてみたかったんだ。

coco、日高トモキチ、玉川数氏3人による短編集『里山奇談』は、そんな山の、それも、里山を題材にした物語を集めたものだ。"里山"とは、深山の対義にある言葉だという。それは「人の暮らす地と、今なお不思議が色濃く残る山との境界である」だと、まえがきでは書かれている。執筆者3方は、それぞれに野山に生息する昆虫をはじめとした動植物に親しみ、それらを擁する自然を愛する方たちであり、そしてそんな彼らは自称か他称か、"生き物屋"と呼ばれているのらしい。そんな"生き物屋"の彼らが、鬱蒼とした野山の、里山の自然に密かに息づく、奇妙で不可解で不思議な物語を集めたものが、この『里山奇談』というわけなのだ。

それらは、まるで黄昏時のような、薄昏く、曖昧模糊として、所在のはっきりしない、そして容易に説明のつかない物語ばかりだ。そしてそれらは、怪談や恐怖譚というよりも、ただ不思議であるとしかいいようのない、"奇談"を集めたものなのである。

確かに、山には畏怖や畏敬を覚える独特の空気が漂っている。それは霊性だの神性だのという話ではなく、植物、動物、昆虫といった、あまりにも多くの生命を抱え込み、そしてそれらが息を潜め、あるいは百花揺籃として息づいている、その溢れるような生命の蠢きに、たった一個の人間という個体でしかない自らが、圧倒されてしまうからなのではないだろうか。そして、その認識こそが、里山と、そこに住まう幾多の生命への畏敬へと繋がるのではないか。そして"生き物屋"と呼ばれる人たちは、そんな畏敬を人並み以上に持った人たちなのではないだろうか。そう、『里山奇談』は、奇談を通じて描かれる、畏敬についての物語集なのである。

この本には、数ページ程度の短めの物語が幾つも収められている。伝聞や体験談の形を取っており、語り口調は平易で、どれもすぐに引き込まれてしまう不思議の物語ばかりだ。読者は、最初の1ページを開いた時から、自らも鬱蒼とした里山に分け入ったような錯覚に囚われる。そして幾多の物語を経ながら、あたかも里山の奥へと奥へと彷徨いこんでいるような気にすらさせられる。こうして最後のページを閉じ、現実の世界へと戻ってきたときですら、その思いは、どこかにある、緑豊かな、あるいは黒々とした口を開けた、里山の世界を漂い続けることになるだろう。その時すでに、あなたは里山に魅せられているのだ。

里山奇談

里山奇談

20170602(Fri)

[]地図で紐解く世界の不思議〜『世界不思議地図 THE WONDER MAPS』 地図で紐解く世界の不思議〜『世界不思議地図 THE WONDER MAPS』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 地図で紐解く世界の不思議〜『世界不思議地図 THE WONDER MAPS』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■世界不思議地図 THE WONDER MAPS / 佐藤健寿

世界不思議地図 THE WONDER MAPS

『クレイジージャーニー』(TBS系)で話題沸騰!『奇界遺産』写真家・佐藤健寿による親子で楽しめる奇妙なワールド・ガイド

未確認生物から超古代遺跡、都市伝説から少数民族まで──世界各地の“奇妙なもの"を撮り続ける著者が、不思議な事件・出来事・物・場所・お祭りなどを膨大なイラスト、さらに写真と解説で紹介。好奇心あふれる子どもたちと、好奇心を忘れた大人たちへ贈る、空前絶後の不思議な世界地図。

オカルトの好きな子供時代だった。UFOやネッシーや幽霊の話が好きだった。怪奇現象や不可解な古代遺物の話が好きだった。世界は科学では解明しきれない不気味で怪しい謎と不思議に満ち満ちていた。

そして大人になってみると、世界には不思議なんて何も無いんだということが分かってしまった。UFOもネッシーも幽霊もいない。怪奇現象も古代遺物もみんな合理的な理由が存在する。だけれども、全てが説明された世界は、味気なく、つまらないものでもあった。

『奇界遺産』、そして「クレイジー・ジャーニー」で有名な佐藤健寿による新刊本『世界不思議地図 THE WONDER MAPS』は、そのタイトル通り地図で旅する世界の不思議を著したものだ。そこには昔懐かしい「UFOやネッシーや幽霊の話」「怪奇現象や不可解な古代遺物の話」で満ち満ちている。しかしこの本で扱われているのはそれだけではない。佐藤お得意の様々な"奇界遺産"がその中に含まれているばかりか、世界各国に存在する奇妙な文化や風習、伝説や神話、クレイジーな偉人、そして実在する異様な景色なども収められているのだ。まさに"世界の不思議"を網羅した、『世界不思議地図』なのである。

そこには、既に見知っていたものもあったが、多くは、聞いたことも無かったもの、名前こそ知っていたが詳しくは知らなかった"不思議"が溢れ返っていた。そして、見知っていたものですら、とても新鮮な気持ちで接することが出来た。これらは、地図の形で体系的に網羅されているがゆえなのだろう。これらは、以前から佐藤が運営していたオカルト関連のニュースを扱うウェブサイト『X51.ORG』の流れに則ったものだろう。

そして、「世界には不思議なんて何も無い」と思っていたオレにすら、これらの"不思議"は、新風のように心ときめかされるものを感じてしまったのだ。

左様。UFOもネッシーも幽霊もいないかもしれない。しかし人は、そういった"不思議"になぜか心奪われたり、語ってしまうものでもある。佐藤は本書の前書きでこう書く。「しかしそれらが本当か、あるいは実在したかどうかは、実は私にとって大きな問題ではありません。(中略)もしもそれが人間の想像の産物だとしても「人間はどうしてそんなことを考えるのか?」と、結局不思議に思えるからです」そして、これら地図を埋めたものを、【人類の想像力と好奇心が発見した奇妙で不思議な何か】と結論付けるのだ。

そう。この世界に不思議なものなど何もないかもしれない。だが、それらに不思議を見出す【人間】が、最も不思議な存在であるということなのだ。

併せて、本書でイラストを担当している阿部結氏のグラフィックがまた楽しい。最初は絵じゃなくて写真を載せてほしかったな、とも思ったが、版権などもあってこれに落ち着いたのかもしれない。だがしかし、この阿部結氏のグラフィックにより、ガチなオカルト本ではなく老若男女楽しめる"不思議本"として完成しているのだ。文章にはルビも振られ、低年齢層読者にも対応している部分が心憎い。お父さんお母さん、子供へのプレゼントにも最適ですぜ(ニヤリ)。

それにしても佐藤健寿、ひょっとしたら新時代の荒俣宏になってしまうのかもしれないな。今後の活躍も楽しみだ。

世界不思議地図 THE WONDER MAPS

世界不思議地図 THE WONDER MAPS

■奇界遺産 2 / 佐藤健寿

奇界遺産2

そんな佐藤健寿を有名にした大型写真本『奇界遺産』の第2巻。2014年に刊行されていたらしい。1巻目は随分前に入手していて楽しんでいたが、2巻目まではいらないだろう、と暫く放置していたものの、最近の佐藤健寿フィーバーについつい買ってしまったという訳である。するとこれがまた、面白い。確かにやっていることは1巻目とは変わりはないのだが、1巻目が選りに選った世界の奇観をじっくりと見せてゆく編集だったものが、この2巻では「まだまだいっぱいありまっせ!」とばかりにこれでもかとばかりの分量の"奇界"を見せつけてゆくのである。ページ数は1巻と同じぐらいだが、濃度が濃いのだ。しかも"奇界"自体のクオリティ(?)が、1巻にまったくひけをとらないのである。1巻目ではイラストを漫☆画太郎が担当していたが、この2巻では諸星大二郎が担当している、というのも嬉しい(あれ、両者とも名前に星がついてる!?)。つまりどういうことかというと、1巻目を持っている人も、2巻目も買い、ということなのである。

奇界遺産2

奇界遺産2

奇界遺産

奇界遺産

20170526(Fri)

[]悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』 悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 悲しみの段階〜ジュリアン・バーンズ 『人生の段階』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■人生の段階 / ジュリアン・バーンズ

人生の段階 (新潮クレスト・ブックス)

誰かが死んだことは、その存在が消えることまでは意味しない――。最愛の妻を亡くした作家の思索と回想。気球乗りは空の高みを目指す。恋人たちは地上で愛しあう。そして、ひとつに結ばれた二人が一人になったとき、遺された者はもう生の深さを感じられない。―― 有能な著作権エージェントにして最愛の妻だったパット・カバナをとつぜん喪ったバーンズは、その痛みに満ちた日々をどのように生きたのか。胸を打つメモワール。

英国作家ジュリアン・バーンズの『人生の段階』は奇妙な作品だ。物語は3部に分かれる。第1章「高さの罪」では19世紀ヨーロッパにおける熱気球の勃興が描かれる。ここはノンフィクションだ。第2部「地表で」ではやはり19世紀を舞台に実在した英国軍人とフランス女優とのフィクションの恋が描かれる。そして第3部「深さの喪失」では、作者ジュリアン・バーンズが2008年に亡くした妻へ想いとその悲しみとが書き綴られている。これは作家個人の自己の心情吐露ということになる。

当然本題となるのはこの第3部だろう。しかし、それ以前の2章とはなんの繋がりがあるのだろう。確かに各章の最初に書かれる「組み合わせたことのない二つのものの組み合わせ」ということでは、第1章の気球と写真、第2章の立場の違う男女の恋、そして第3章における作家バーンズと妻との出会い、という点において一致しているのかもしれない。第1、第2章で言及される"気球"は、天の高みと地との距離という点において、悲しみの底に落とされた作家の心情的な落差を表わしているのかもしれない。

ただ、どちらにしても遠回しすぎ、3つの章の関連性は希薄なもののように思えてしまう。しかしこう考えたらどうだろう。作家バーンズは、核心である第3章を書くために、そこへの心情的な距離をどうしても置かねばならなかった。さらにバーンズは作家として、生々しい心情吐露だけの文章を書くことはできなかった。だからこそ、一見関連性がありそうでなさそうな、2つの物語を書き終えた後でなければ、その核心を対象化し文章化することができなかった。それは作家の性ともいえるし、作家であることの良心ともいえる書き方だったのだろうと思う。

突然の伴侶の死は、バーンズにとっては身を裂くよう悲しみだったろう。しかし、「身を裂くような」などという陳腐な表現はオレのような凡俗がこんなブログに書き散らかす為にしか使えないものであり、バーンズはその"悲しみ"の在り様を徹底的に整理し抑制しさらに合理性が高く含蓄に富んだ文章へと落とし込もうと格闘するのだ。そしていかに整理し抑制して書かれようとも、そこからどうしても染み出さざるを得ない感情の底にあるものの姿が浮き上がってくる部分に、作家というものの業を感じ、また作家が作品をしたためることの凄みを感じてしまうのだ。

そしてこの3章で書かれる伴侶の死に、その悲しみの本質に、バーンズは安易な同情や共感を求めようとしない。本書の中でバーンズは、病床にある妻の間近の死に際し、同様の体験本を幾つか購入し、否応なく訪れるであろう悲嘆への心の準備をしようとしたが、それらは、全く役に立たなかったという。悲しみは、どれも個別のものであり、何かと同じとか、似ているということはないのだという。これは、バーンズのこの本を読む我々にも当てはまる。バーンズの悲しみは、理解することも、想像することもできるけれども、しかしバーンズの悲しみそれ自体を、体験することは決してできないのだ。けれども、読者への共感と追体験を描く職業作家が、共感と追体験の不可能性へと辿り着いてしまうということが、逆に否応なく彼の悲しみの深さを浮き上がらせてしまうのだ。

20170522(Mon)

[]カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだ カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク カート・ヴォネガットの『人みな眠りて』を読んだ - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■人みな眠りて / カート・ヴォネガット

人みな眠りて

カート・ヴォネガットの没後10年だという。ヴォネガットの死に際してはこのブログに弔辞めいたものを書いたことがあるので(カート・ヴォネガット氏死去 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)、そうか、このブログ自体もう10年以上書いているのか、というヴォネガットと全然関係ない感慨まで抱いてしまった。

その没後10年に合わせたわけでもないだろうが、この度ヴォネガットの未発表短編集『人みな眠りて』が刊行された。ヴォネガットがまだ駆け出しの作家だった頃、タイプしたまま引き出しに仕舞いっぱなしだった没原稿集だという。実は2014年にも同じ初期没原稿集『はい、チーズ』が刊行されていたのだが、まだまだ残っていたということらしい。この『はい、チーズ』についてはこのブログでもこんな感想を書いた。

今は亡きヴォネガットのお蔵出し短編集『はい、チーズ』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

この『人みな眠りて』の帯には「これでお別れ。最後の短編集」といった惹句が書かれているが、訳者あとがきを読むと実はまだ訳出されていない落ち穂拾い的な書籍が幾つかあるのらしく、多分これもいつか刊行されるのだろう。

どちらにしても以前出た『はい、チーズ』にしろこの『人みな眠りて』にしろ作者の没後に発見されたお蔵入り原稿集ということなのだが、"お蔵入り"だったにも関わらず質の高い短編が並んでおり、"クオリティが低かったので今まで発表されなかった"というのとはわけが違う。多分ヴォネガット自身にとっては「生活費の為に書き飛ばした三文小説」とばかりに個人的な評価が低かったのだろうが、そもそもが高いテクニックを持った作家の作品だけに、どれも遜色なく"読ませる"作品なのだ。確かに生前発表されていた長編や短編集と比べるとシニカルさや批判の度合いがかなり薄められており、「ヴォネガットならでは」といった作品ではないにしろ、逆に「ヴォネガットだからこそ」高水準な作品だったりするのである。そういった癖のなさ、といった点では、ヴォネガット・ファンにもそうでない人にも十分楽しめる作品集となっている。

個々の作品をそれぞれ紹介することはしないが、なにしろ全体的にヴァラエティに溢れ、さらに短編ならではの軽妙で軽快な作品が多く並ぶ。若干オチの伝わりにくい作品もあるのだが、その辺は没原稿の愛嬌ということで良しとしよう。どの作品にも共通するのは、どこか問題があったり、人生の厳しい岐路に立たされたりする登場人物たちへの、ヴォネガットの暖かなまなざしを感じる部分だ。かつてヴォネガットは亡父に「おまえは小説の中で一度も悪人を書いたことがなかったな」と言われたというが、人はそれぞれに已むに已まれぬ理由と事情を持ち、時としてどうしようもない運命に直面しなければならなくなる存在である、というヴォネガットらしい人間への共感と同情がそこにあるからなのだろう。

もうひとつ感じたのは、これらの作品が書かれたアメリカ50年代の、その戦後景気に沸く輝かしい黄金時代の雰囲気が如実に伝わってくるという部分だ。ひょっとしたらアメリカの50年代は、その豊かさと楽観性において人類で最強の時代だったのかもしれない、とすら思わせる。もちろんこれは"アメリカ中流白人にとっての"という但し書きが付き、実際は冷戦の存在と激動の公民権運動が繰り広げられていたことは忘れてはならないけれども、こと"アメリカ中流白人"にとって、大量生産と大量消費、それを支える雇用と給与の充実による、最も成功した資本主義経済の恩恵を預かっていただろうということは間違いないと思う。

この『人みな眠りて』の原稿を書いていた時代のヴォネガットは、好景気を反映して高額の原稿料で高級紙にその短編を掲載していたというが、そういった読者層に合わせた作品であることを考えれば、「豊かで安定した国アメリカ」がまず前提にあったとしてもおかしくはない。ただ実際の当時のヴォネガットは個人的にも家庭的にもあれこれ問題を抱えていたらしく、そうした生活と「豊かで安定した国アメリカ」という世相の間に乖離があったであろうという想像もできる。そして第2次大戦における彼のドレスデン従軍体験は、これらの豊かさと楽観性を、単なる幻想にしか過ぎないと看過していたことだろう。

ヴォネガットはこうして「アメリカ黄金の50年代」の豊かさを描いた短編小説を家計の為に書き飛ばしながら、大量生産と大量消費の果てにある資本主義社会ディストピアを描いた処女長編『プレイヤーピアノ』を遂に書き上げるのだ。こうした作家史の一環を垣間見せるといった点でも、この作品集の存在はユニークと思えるのだ。

はい、チーズ

はい、チーズ

20170517(Wed)

[]最近読んだ本〜『書楼弔堂 破暁』 最近読んだ本〜『書楼弔堂 破暁』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 最近読んだ本〜『書楼弔堂 破暁』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■書楼弔堂 破暁 / 京極夏彦

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

明治二十年代の半ば。雑木林と荒れ地ばかりの東京の外れで日々無為に過ごしていた高遠は、異様な書舗と巡りあう。本は墓のようなものだという主人が営む店の名は、書楼弔堂。古今東西の書物が集められたその店を、最後の浮世絵師月岡芳年や書生時代の泉鏡花など、迷える者たちが己のための一冊を求め“探書”に訪れる。変わりゆく時代の相克の中で本と人の繋がりを編み直す新シリーズ、第一弾!

京極夏彦の連作短編集『書楼弔堂 破暁』は2013年に刊行された作品だが、自分は最近になって「ああこんなのも書いてたの」と知った程度だった。ところでタイトルは「しょろうとむらいどう はぎょう」と読むのらしいが、「はぎょう」って何なのか今もって知らない。すまん。で、最近Kindleを購入し「さてなんの本を入れるべか」と探したところ何も無く(じゃあなんで買ったんだ)、しょうがないから未読だった京極のこの小説を入れて読んでみた、という程度の興味だった。ちなみに「あ、Kindle購入した本はあいほんでも読めるんだ」と知り、結局全部あいほんで読んでしまった。Kindle?机の引き出しに入ったままだよ!(じゃあなんで買ったんだ)

で、読み終わったんだが、いやなにこれ普通に良作じゃない?あんまりよかったから続編もKindle購入してまたぞろあいほんで読む予定だよ。電車やバスで読むときにいいんだよ。

時代は明治、お話の中心となるのは「弔堂」という辛気臭い名前の古本屋が舞台だ。本屋のクセに「とむらいどう」というのは、「本は墓のようなものだ」という店主の主張によるものらしい。まあ店主自体が辛気臭いのだ。もと坊主だっちゅうし。で、物語は狂言回し役の高遠なる男が、ひねもすのたりのたりしながらなんとなく弔堂に通うようになり、そしてそこに客を紹介したらそれがどいつもこいつも明治時代の著名人だった!?というのがラストで明かされるという仕組みになっている。これら著名人は心に迷いを抱えているのだが、弔堂店主の勧める本によってこれからの指標を見出し、後に名を残す人物になる、という塩梅だ。

まず狂言回し役の高遠という男が、京極小説に頻繁に登場する「とことんやる気のないぼうふらみたいな隠居男」っていうのがいい。この手のキャラはたまにイラつかされるが、オレも年を取ってくるとこういう「やる気のない人生」になんだかとても共感を覚えるのだ。いいのかそれで。そして弔堂店主というのがなにやら「京極堂」シリーズの中禅寺を思わすような人物でまたもやニヤリ。この店主が"本"を通じて相手の"憑き物"を落とす、というプロットも「京極堂」シリーズぽい。この、本ごときで憑き物落としされる明治著名人、というのは少々牽強付会な気もするが、時代の雰囲気をとことん巧く醸し出している文章が、それを気にさせなくしているのだ。

そう、この作品、プロットがどうこうよりも文章がいい。それにより浮かび上がる明治の情景が、これまた実にいい。この辺京極さんの円熟の技だが、このたおやかな文章に浸れるだけでも読んでよかったと思う。そしてその明治の情景は、佐幕・倒幕・尊王攘夷に揺れた激動の時代の後の、内省の時期でもあったのだ。価値観が大きく変わってゆくその時代に、「自分が誰で、何をすべき(だった)なのか?」という、デリケートな問題を、「本との出会い」によって解決しようとする本書は、もうひとつの読書論でもあるのかもしれない。

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

文庫版 書楼弔堂 破暁 (集英社文庫)

書楼弔堂 炎昼

書楼弔堂 炎昼