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メモリの藻屑、記憶領域のゴミ

20170807(Mon)

[][]シャー・ルク・カーン主演の新作インド映画『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』を観た シャー・ルク・カーン主演の新作インド映画『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』を観た - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク シャー・ルク・カーン主演の新作インド映画『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』を観た - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■ジャブ・ハリー・メット・セジャル (監督:イムティヤーズ・アリー 2017年インド映画)

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久しぶりにSpaceBoxさんのところで主宰しているインド映画上映会に行ってきた。タイトルは『ジャブ・ハリー・メット・セジャル(Jab Harry Met Sejal)』、シャー・ルク・カーン主演のロマンチック・コメディである。原題は「ハリーとセジャルが出会う時」といったような意味だろう。

シャールクの純粋なロマンス映画は久しぶりかもしれない。シャールクはやはりロマンス映画が似合う。最近のクライム風味の作品が自分にはどうも今ひとつだったので今回は期待大だ。そしてヒロインとなるアヌシュカー・シャルマー、彼女がまたいい。日本では『命ある限り』(2012)、『pk』(2014)の公開作がある。人気実力ともにとても優れたインド女優なのでインド映画ファン以外の方も名前を覚えておくといいだろう。彼女はシャールクとの共演作に先程紹介した『命ある限り』の他にも『Rab Ne Bana Di Jodi』(2008)があり、これも非常に名作で、観ておいて損はない。

監督はイムティヤーズ・アリー。これまで『Jab We Met』(2007)、『Rockstar』(2011)、『Highway』(2014)、『Tamasha』(2015)といった作品を観たことがあるがどれも表現力に優れた秀作を作り上げてきた監督だ。特に『Jab We Met』は最も重要なインド映画10作のうちのひとつに数え上げている評者もいるほどだ。個人的にもどれも思い出深い作品ばかりだが、ランビール・カプールディーピカー・パードゥコーン主演による『Tamasha』は特に好きな作品だ。

さて物語はヨーロッパでツアーコンダクターを生業としているハリー(シャールク)が、ツアー中に婚約指輪を失くしたという女セジャル(アヌシュカー)に絡まれる所から始まる。セジャルは大事な指輪を失くし婚約者にも家族からも激怒を買い、一人ヨーロッパに残ってどうしても見つけなければならないので同行しろという。ハリーとしてはそんなものオプション外だからやる義務はないと突っぱねるが、結局は嫌々ながらセジャルに付き添うことになる。だがオランダのアムステルダムで済む筈だった指輪探しは二転三転し、遂にはプラハ、ウィーン、リスボン、ブダペストを巡るヨーロッパ大探索の旅へと発展してしまうのだ。そしてその旅の間に、二人の間に仄かな恋心が目覚め始めるが、片や婚約者のいる女性、その恋は決して成就する筈は無かったのだ。

感想を先に書くと、心を揺さぶられるとても優れたロマンス作品だった。やはりシャールクのロマンス作は鉄板と言わざるを得ない。もちろんヒロインを演じるアヌシュカーの表情豊かな演技にも心ときめかされた。最初は嫌々付き合っていたシャールクと相手の迷惑なんて完璧無視なアヌシュカーとのギクシャクしたやりとりは、前半のコメディ要素となり、大いに笑わせながら観る者の心をほぐしてゆく。しかし旅を通じて心寄せ合うようになってゆく二人の、そのあまりに危うい「道ならぬ恋」の行く末を気になりだした時に、物語は辛く心切ないものへと様変わりしてゆくのだ。

最初は相性の悪そうな男女が旅の中で次第に心を通い合わせてゆく、といった物語はインド・ロマンス映画の十八番なのかもしれない。シャールク映画ではあの『Dilwale Dulhania Le Jayenge』(1995)がそうだし、ディーピカー・パードゥコーンとの共演作『チェンナイ・エクスプレス〜愛と勇気のヒーロー参上〜』(2013)もそんな物語だった。しかしそもそも監督であるイムティヤーズ・アリーの作品というのが、【旅とロマンス】を重要なファクターとするものが多く見られるのだ。先に紹介したイムティヤーズ・アリー監督作品4作はどれも【旅とロマンス】に関わる作品だ。その中で特に『Jab We Met』は、「本来ロマンスが生まれるべきではない二人の男女にロマンスが生まれてしまう」といった物語構成から、この『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』と大きな共通項を持っていると言えるだろう。

そしてこの作品のもう一つの魅力は、「有り得ない出会いの要素を力技でロマンスとして成立させてしまう」といった点だろう。それは「現実的である」事から大きく飛躍してしまうことを全く意に介さない冒険的な演出である事を意味している。まず失くした指輪をツアコンの男と同伴して、あまつさえヨーロッパ中探し回る女性、といった展開はあまりに有り得ない。飛躍し過ぎだ。そしてそんな同伴を強要しながら「でも恋愛はありえないし!」と言ってのけ、にもかかわらず終始ベタベタしてくるセジャルのメンタリティは、あまりに有り得ない。そんな女性など多分いないか、いてもとんでもない少数派だろう。

ではこの物語というのはひたすら飛躍し過ぎで現実味が無くて有り得ない、ご都合主義のシナリオによって書かれた陳腐なものなのかというとそれが全く違うのだ。ここで描かれるシチュエーションそれ自体は確かに非現実的なものかもしれない。しかしこのシチュエーションから導き出される心情の在り方は、全く有り得ないものではないばかりか、どこか酷く心動かすものを含んでいるのだ。逆に「現実的であること」の拘泥から解放され、「有り得ない事」の可笑し味へと飛躍させることで、想像力豊かに物語を膨らませ、同時に普遍的な心情の物語へと帰結さているのである。そんな自由さに富んだシナリオが面白いのだ。

そしてそれこそが、【物語】というものの、現実を軽く蹴り飛ばす楽しみなのだ。多くの人は、なにも別に、「道ならぬ恋」をしたいわけではない。しかし人は時として、「不可能な恋」に出会ってしまうことがある。そして、どこまでも遣る瀬無い悲しみに堕ちてしまうことがある。『ジャブ・ハリー・メット・セジャル』は、そんな物語なのだ。

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20170531(Wed)

[][]巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』 巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 巨大アパートに迷い込んだ浮浪者と住民たちとのドタバタを描く傑作クラシック・コメディ〜映画『Jagte Raho』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■Jagte Raho (監督:サンブー・ミトラ、アミット・モイトラ 1956年インド映画)

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■非常にユニークな傑作コメディ

1956年にインドで公開されたモノクロ映画『Jagte Raho』は、一人の浮浪者が体験する大騒動の一夜を描いたコメディ作品だ。主演はラージ・カプール、共演としてモティラル、プラディープ・クマール、スミトラ・デヴィ。他にナルギスがカメオ出演する。

《物語》田舎からカルカッタの街にやってきたものの、職もなく住むところもなく夜の通りを彷徨う浮浪者の男(ラージ・カプール)がいた。喉が渇いてどうしようもない彼は、消火栓を弄っているところを警邏中の警官に見とがめられ、慌てて近くの巨大アパートにもぐりこむ。なんとか水を飲めないものか……アパートをうろつく彼は住民たちにコソ泥と間違われ、逃げ出そうとするも今度はアパートから出られない!遂に住民たちは自警団を急ごしらえし、さらには警官隊までがやってきて、上を下への大騒ぎと発展してしまう。頭に血ののぼった住民たちを相手に、浮浪者は逃げ出すすべがあるのか!?

非常にユニークであり、楽しめて、感嘆させられる物語だった。この作品のユニークさは以下の部分にある。

・たった一夜だけの事件を扱った物語である。

・舞台の殆どが1棟の巨大アパートだけに限定されている。

・主人公が殆ど喋らず、パントマイム演技だけで物語を進行させる。

・そういったシチュエーションの中に様々なエピソードを盛り込んだコメディであり、ストーリー自体はさして無い。

こういった骨子を持った作品は、確かに今では珍しいものではないが、これが1956年公開の、インドのモノクロ映画に存在していたという部分に、新鮮な驚きを覚えたのだ。このような作品は昨今のインド映画でもあまり見られないのではないか。

■浮浪者の悲劇?

主人公は農村から大都会にやってきた食いつめ者という設定で、ぼさぼさの頭にぼうぼうの無精ひげ、見るからにみすぼらしく汚らしい格好という、なんだかビートたけし演じる鬼瓦権蔵状態である。しかし実のところ彼は純粋で小心な田舎者でしかないのだ。そんな彼が何もしていないのにコソ泥呼ばわりされ追い回され、涙目になりながら巨大アパートを右往左往するさまが、可笑しくもあり気の毒でもある。しかもそもそもの発端が「水が飲みたい」だけだったということが一層気の毒さを醸し出すではないか。

そんな男をラージ・カプールが熱演するが、これがなんと殆ど言葉を発しないパントマイムだけの演技。貧者のペーソスを描いたコメディという部分からも、これは多分にチャップリン映画を意識したものなのだろう。ラージ・カプールチャップリン好きだったらしく、自らの監督作品でもチャップリン的なモチーフを散見するが、今作の演技もラージ・カプール自身が監督に提案したのかもしれない。そして殆ど喋らないとは言いつつ、クライマックスでは『チャップリンの独裁者』ラストの如き大演説をする部分にまたもチャップリンへの偏愛を感じるではないか。

■住民大パニック!

主人公が迷い込んだ巨大アパートは資料によると200以上の部屋があり、1000人余り住民が住む施設ということになっているらしい。50年代のインドに実際にこのような巨大住宅があったのかどうかは分からないが、あったとするとそれなりの中流家庭が住む住宅施設ということになるだろう。こういった点から、この物語は保守化した中流層の排他性を描いたものと見ることもできる。そしてまた、この作品は浮浪者の目を通し、これら中流層の退廃をもえぐりだすことになる。

それは浮浪者が逃げ込む幾多の住民の部屋で展開する薄暗いドラマだ。ある部屋では金に困った男が眠っている妻の装飾品を奪おうとし、またある部屋では密造酒を作っている男がいる。そしてまたある部屋では組織ぐるみの偽札作りまで進行しているではないか。浮浪者一人にパニックを起こし、全アパート住民挙げての自警団を組織し、軍隊よろしく隊列を組んで廊下を進む姿などは、滑稽であると同時にうっすらとした狂気さえ感じてしまう。こうしてこの物語は浮浪者の逃走劇のみに留まらない多面的な物語構造を成すことになるのだ。

とはいえ、こういった人間たちの馬鹿げたドタバタこそが面白い物語でもある。インドのモノクロ・クラシック作品というと少々敷居が高く感じるかもしれないが、この『Jagte Raho』は誰でも楽しめるシンプルなコメディ作品であること、インド映画界の名優ラージ・カプール主演作品であり、その演技の素晴らしさはお墨付きであること、などを鑑みるなら入門編として最適なのではないか。古い作品ということもあり腹を抱えて大爆笑、という類のものではないが、非常に味わい深い含みを持ったコメディ作品として是非お薦めしたい。

20170525(Thu)

[][]御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』 御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 御者と踊り子との淡い恋〜映画『Teesri Kasam』 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■Teesri Kasam (監督:バス・バッタチャリヤ 1966年インド映画)

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1966年にインドで公開された『Teesri Kasam』は一人の御者と踊り子との淡い恋を描いた作品だ。主演にラージ・カプール、ヒロインにワヒーダ・レーマン。タイトルの意味は「三つの誓い」といったものらしい。

《物語》牛車の御者を生業とするヒラマン(ラージ)は、闇市の品物、竹材と、どれも厄介事ばかり起こす荷物に辟易していた。もうこんなものは二度と積まない…そう心に誓うヒラマンの次の荷物は女性客だ。うへえ、まさか女怪じゃあるまいな?だがその女性ヒラバイ(ワヒーダ)はとても気さくな上魅力的な女性で、ヒラマンは密かに心ときめかす。ヒラバイは踊り子だった。彼女を巡業先のテントで下したヒラマンは、彼女の踊りを愛おしそうに見ていた。だが、土地の有力者もまたヒラバイの踊りに魅せられ、彼女を強引に自分のものにしようとしていた。

奇妙な懐かしさを覚える物語だった。インドには縁もゆかりもない自分が、どうして60年代のインドの田舎に懐かしさを覚えてしまうのだろう?それは広々とした自然や、貧しくともおおらかに生きる人々や、それらののんびりした時間感覚にあったかもしれない。それと併せ、主人公ヒラマンの朴訥で純情な田舎者ぶりに、どうにもこそばゆい共感を覚えたからかもしれない。なんというかこう、心に和むものを感じる作品なのだ。どこか「日本昔話」に出てくる村のお百姓さんを見ているような気分にさせられたのだ。

とはいえ、物語は決してほのぼのした昔話風というものではない。ヒロインであるヒラバイは、踊り子であることから陰で娼婦呼ばわりされ、土地の有力者からは金さえ積めばどうとでもなる女だと目されてしまう。この作品にはこうした女性蔑視への批判も盛り込まれる。ヒラバイ自身はいつものことと無視するが、ヒラマンにはそれが許せない。騒ぎを起こしヒラバイに迷惑をかけ、いさめられると不貞腐れる。しかしヒラバイはそんなヒラマンの純な心に癒される。ヒラバイはいわば「成熟した大人の女」であり、ヒラマンの思うような「可憐な乙女」ではなかったけれども、彼の無心な一途さに心洗われていたのだ。

しかしドラマは決してロマンスの成就へ向かおうとはしない。所詮純朴な田舎者と世知に長け芸事に秀でた踊り子では釣り合わないのだ。夢の如き愛の妄想の後につきつけられる現実の味はどこまでも苦い。こうした「寸止めのロマンス」がこの作品を奇妙に切なく、そして非凡なものにしている。この展開を観て何かに似ているなあ、と思ったら日本が誇る人情喜劇『男はつらいよ』だった。主人公寅次郎は美しいヒロインに恋しながら常にそれは成就しない。それはヒロインが、寅次郎を愛しつつ住む世界の違いを如実に感じていたからなのだろう。こうして物語はインド版『男はつらいよ』とも呼ぶべきペーソスに溢れた展開を見せてゆく。

主演のラージ・カプールはそんな、朴訥でおっちょこちょいな「インド版寅さん」を哀歓たっぷりに演じ、ひょっとしたら彼のベスト・アクトのひとつかもしれない(まあそんなに沢山ラージ・カプール主演映画観て無いんだけどね)。ちょっと太り過ぎている部分はあんまり「貧しい村人」っぽくは見られないんだが。そしてヒロインのワヒーダ・レーマン、踊り子が主演の作品ということもあって、舞台で演じられる彼女の歌と踊りのシーンは、本当にどれも美しく楽しいものだった。ああそうだ、この時代のインドのサウンドトラックの、チャカポコしたリズムと旋律が、なんだか日本の祭囃子と似てなくもなくて、それでオレはなんだか懐かしい、と思ってしまったのかなあ。モノクロのクラシック作品ではあるが奇妙に記憶に残り愛着の湧く一作だった。

20170317(Fri)

[][]聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】 聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 聖なるガンジスと神話、エロティシズムと暴力〜映画『Ram Teri Ganga Maili』【ラージ・カプール監督週間】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■Ram Teri Ganga Maili (監督:ラージ・カプール 1985年インド映画)

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■聖なる河ガンジスを題に採った作品

ガンジス河はヒンドゥー教徒にとって聖なる河である。このガンジス河=ガンガーを題に採って物語られるのが1985年に公開されたラージ・カプール最後の監督作品『Ram Teri Ganga Maili』だ。主演はラージ・カプールの息子ラジブ・カプール、ヒロインにマンダキーニ。

《物語》主人公はカルカッタに住む青年ナレンドラ(ラジブ・カプール)。彼は祖母の為に聖なるガンジス河の清い水を採ろうと、ガンジス源流のある聖地ガンゴートリーへ訪れる(ちなみに実際の源流はさらに山に入ったゴームク)。ここでナレンドラは美しい娘ガンガー(マンダキーニ)と出会い、愛し合うようになる。やがて二人は結婚を誓い一夜を共にするが、ナレンドラはカルカッタに一時帰郷することになる。しかし郷里に着いたナレンドラは家族から強引に他の娘と婚約させられ、逃亡を図ったナレンドラは今度は家に監禁されてしまう。一方ガンガーはナレンドラの子を産むものの、待てど暮らせど帰らないナレンドラに会うためカルカッタへと向かう。だが彼女は道中何度も危険な目に遭い、遂にバナーラスの町で踊り子の館に軟禁されてしまう。

■物語背後にある神話テーマ

タイトルの意味は「ラーマよ、あなたのガンガーが汚される」といったものだが、このラーマはインド叙事詩ラーマヤーナに登場し、ビシュヌの化身とされるラーマ王子のことであり、同時に主人公も指すのだろう。ガンガーはガンジス河を神格化した女神であると同時に、この物語のヒロインの名でもある。ラーマヤーナではラーマ王子の妻シータがさらわれ、そこで不貞があったのではという疑惑が持ち上がるが、それと重ね合わされているのかもしれない。この物語でもヒロインは性的に危険な目に何度も遭うのだ。主人公の名前ナレンドラは「神に似た人」といった意味らしいが、これに女神ガンガーと同じ名前のヒロイン・ガンガーが絡むわけだから、ザックリと神様同士のカップルと言ってもいいわけで、これは当然神話的な意味合いを持たせようとしているのだろう。

この物語はさらに、サンスクリット劇最大の傑作と言われる戯曲『シャクンタラー姫』をも題材にしている。インドには疎いオレだが、この『シャクンタラー姫』だけは読んだことがあるのをちょっとだけ自慢させてほしい(レヴュー:インドの事をあれこれ勉強してみた - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ)。『シャクンタラー姫』は仙人の隠棲所で出会ったドウフシャンタ王と天女の血筋を持つシャクンタラー姫との恋愛ドラマである。相思相愛となり周囲からも祝福され婚姻の目前にあった二人はしかし、とある仙人の呪いによりその想いを成就することができなくなる。やがてシャクンタラー姫はドウフシャンタ王の子を産み、子を連れて王都へと向かう。こういった骨子はまさにこの映画そのものである。さらにこの映画においてナレンドラとガンガーは村独特の風習によって婚姻を結ぶが、これは『シャクンタラー姫』において主人公カップルが結ばれる"ガンダルヴァ婚(結婚の儀式を経ないで性的関係によって成立する結婚)"と非常に良く似ている。

■物議を醸した乳房シーン

とはいえ、「神話を題に採った物語」というなにやら高尚な趣のある作品に見せながら、実はこの物語、相当に大衆的な、ある意味下世話とも言えるエピソードの盛り込み方をしており、当時でも相当物議を醸したらしい。なによりこの作品、ヒロイン演じるマンダキーニが劇中何度かその豊満な乳房を披露するのだ。まずヒロインが滝で沐浴するシーンだ。ここで水に濡れた薄物の衣装から彼女の乳房がありありと透けて見える演出が施される。↑の写真を見て貰えば一目瞭然だろう。次は子供に授乳するシーンでやはり乳房が露わになる。

「Ram Teri Ganga Maili」で画像検索するとヒロインの乳房シーンばかり出て来る。この作品の関心度がどの辺にあるのか伺えるというものだろう。2016年に公開されたインド映画『カプール家の家族写真(Kapoor & Sons (since 1921))』に登場するお爺ちゃんが青春の思い出として後生大事にしていた女優の等身大ポップアップが実はこの映画のヒロインの乳房シーン写真だったりするのだ。日本だったらアグネス・ラムって所なのかな?

こういった煽情はナレンドラとの川での逢瀬を描くシーンでも現れる。鼻と足が冷たいというナレンドラの鼻にガンガーは口づけし、足をさする。女性が男性の足を触るというのは婚姻したもの同士の行為であるらしく、ここで主人公がときめきを覚える、といった具合だ。

さらに結婚を誓った二人が床を共にするシーンも、口づけや愛撫を経て衣服を脱がし始めるといった様子を克明に描き十分にエロティックだ。しかし村のヒロイン・ガンガーを奪われ怒り心頭に達した村男たちが、二人の夜伽を襲おうと迫りくるのだが、これにガンガーの兄が応酬する。この部分の描写がなにしろ凄くて、頭に血の上った村男たちとガンガーの兄が血塗れの戦いを繰り広げる、といったシーンと、カップル二人のアハンウフンなシーンが交互に描かれるのだ。ここではエロと暴力が代わる代わる画面に登場し、異様な効果を上げている。

■エロティシズムと暴力

後半は乳飲み子を連れカルカッタを目指すガンガーが、地獄巡りともいえる恐ろしい体験を経てゆく様子が描かれる。一方のナレンドラは逃亡するも連れ戻され、自宅でしょんぼり望まぬ結婚を待っているだけというからある意味対称的過ぎる。ガンガーはバスの途中駅で降りたところを親切を装った女に汚い赤線地帯に連れ込まれ、客を取らされそうになって逃げ出す。その後も汽車の途中駅で放り出され、やはり親切を装った男に娼館に軟禁され、歌い手としての生活を余儀なくされる。クライマックスは内容には触れないがやはり暴力的だ。さらにこの作品、冒頭でガンジス河の河辺に転がる本物の死体や河を流れる本物の死体が画面に登場して度肝を抜かされる。

これらエロティシズムと暴力は、実は後期ラージ・カプール映画の二本柱とも言えるものだ。『Mera Naam Joker』(1970)では既に主演女優のヌードシーンが登場していたし、『Bobby』(1973)でもヌードこそ出ないが主演女優の露出度の高さと後半の暴力が目を引いた。『Satyam Shivam Sundaram』(1978)と『Prem Rog』(1982)は暴力の嵐だった。暴力描写自体は初期の頃から存在していたが、それでもまだ文芸路線を保とうとしていた。この文芸路線の初期からエロティシズムと暴力の後期への転換は、徹底した商業映画監督への転換ということなのだろう。しかもただ単に商業映画監督なのではなく、非常に野心的な試みをインド映画界で成そうとしていたように思う。

自分がラージ・カプール作品を面白いと思い、その監督作品全てを観てみようと思ったのは、彼の芸術性や社会的テーマの在り方と、それと裏腹な見世物に特化した映画の描き方にあった。凡百の映画監督はそのどちらかで終わってしまう所を、ラージ・カプールはその両方をやってのけている。この『Ram Teri Ganga Maili』でも「聖なる河ガンジス」を謳いながらそこを流れる死体を見せ、神話に基づく物語とうそぶきながらエロと暴力に走る。聖と俗が混沌とあり、美と醜がない交ぜになり、清と濁が併せ呑まれる。これは、インドそのものではないか。インド映画を観始めてこうしてラージ・カプールに辿り着いたことを自分はとても嬉しく思えるし、同時にインド映画の奥深さをまたしても思い知らされた気持ちだ。

ラージ・カプールは晩年喘息に苦しみ、この作品が公開された3年後、1988年に喘息の合併症により68歳で死亡している。

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

シャクンタラー姫 (岩波文庫 赤 64-1)

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というわけで10回に渡ってお送りした【ラージ・カプール監督週間】いかがだったでしょうか。レビューの掲載順は映画の公開順にしなかったため、ここでレビューのリンクを映画公開順に並べて貼っておきます。

Aag (1948)

Barsaat (1949)

Awaara (1951)

Shree 420 (1955)

Sangam (1964)

Mera Naam Joker (1970)

Bobby (1973)

Satyam Shivam Sundaram (1978)

Prem Rog (1982)

Ram Teri Ganga Maili (1985)

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20170316(Thu)

[][]失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】 失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 失われたミューズを追い続けるラージ・カプール初監督作〜映画『Aag』【ラージ・カプール監督週間】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■Aag (監督:ラージ・カプール 1948年インド映画)

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■顏の焼けただれた男

それは新婚初夜のことである。ベッドの上で艶めかしく微笑みながら夫を待つ妻。寝室に夫が入ってきて妻に呼びかける。恥じらいに伏し目がちにしていた彼女はゆっくりと顔を上げる。だが夫の顔を見た彼女は絶叫を上げる。なんと夫の顏は、その半分が焼けただれていたのだ。相手の顔を見ることなく結婚が決まることもあるインドならではの悲劇なのだろう。そして怯えて泣きじゃくる妻に、夫はゆっくりと自らの哀しみに満ちた半生を、火傷のわけを語り始める…。

1948年、23歳のラージ・カプールが初監督した記念すべき作品『Aag』は、まるでハマー・フィルムのホラー作品を思わす猟奇的なオープニングから始まる。タイトル「Aag」の意味は「火」。それは主人公の顔を焼き尽くした火の事なのであろうか。彼の身に過去、いったい何が起こったのだろうか?

《物語》

主人公の名はケワル。彼は幼い頃(シャシ・カプール/子供時代)芝居に目覚め、友人を集めて素人舞台を立ち上げるほどだった。しかしその初演の日、ヒロインを務める筈だった少女ニンミが親の都合で突然町を去り、ケワルの最初の舞台は遂に演じられることはなかった。

それから10年後、学生となったケワル(ラージ・カプール)は再び演劇に挑む。その演目のヒロインに、ケワルはニンミと呼ばせてくれと頼み込み、それを承諾してもらう。ところがこの舞台もヒロインの降板で頓挫してしまう。

その後ケワルは父親と同じ弁護士になるため試験を受けるもこれが不合格。この時、ケワルは演劇の道に進むことを決意し、父の反対を押し切って家を飛び出す。だが世間の風は冷たく、失意のまま彷徨う彼は、ある劇場に入り込む。その劇場のオーナーである芸術家のラジャン(プレムナス)はケワルの窮状を知り、彼に舞台演出を任せてみる。

夢の叶ったケワルは劇を書きあげ、出演者のオーディションに挑む。そして彼の舞台のヒロインとして抜擢された女性(ナルギス)に、ケワルは再びニンミと名乗るよう懇願する。度重なる稽古の中で芸術家のラジャンはニンミを愛するようになる。しかしニンミが恋していたのはケワルだった。そしてその三角関係は遂に破局を迎えることになる。

■ラージ・カプールのエッセンスが詰まった初監督作

処女作にはその作者の全ての要素が詰まっているという言葉があるが、ラージ・カプールの初監督作品となるこの『Aag』にも、その後のカプール作品に表れるモチーフがふんだんに盛り込まれていることが発見できて非常に面白い。長々と粗筋を書いたのはその共通点を示唆するためだ。

まず「顔半分が焼けただれた男」だ。これは「顔半分が焼けただれた女」として1978年公開の映画『Satyam Shivam Sundaram』に登場する。そして「演劇を目指す男のヒロインが人生の節目節目に三度変わる」という物語の流れは、1970年公開の『Mera Naam Joker』において「道化師を目指す男の人生に登場する3人の女」に呼応する。さらに「一人の女性と友人との三角関係に至るが、主人公は友情を選ぶ」というモチーフは1964年公開の『Sangam』そのものだろう。こじつけを承知で書くなら「放逐された弁護士の息子」は1951年の『Awaara』になるか。ううむこれは無理矢理すぎるか。

もう一つはカプール監督の奇妙な猟奇趣味とその要因ともなる暴力だ。この『Aag』でいうなら「醜い火傷のある男」でありその火傷が出来た原因ということになる。娯楽映画に暴力的要素が盛り込まれるのは珍しくはないが、カプール作品においてそれは突発的であったり衝動的であったりするため驚かされるのだ。要するに物語内において「飛び道具」のように使われるのである。その最たる例が『Satyam Shivam Sundaram』だが、他にも『Barsaat』(1949)における監禁と暴力、『Sangam』(1964)の衝動性、『Bobby』(1973)の集団リンチ、『Prem Rog』(1982)の凄まじい銃撃戦、といった形で表れる。

これら猟奇と暴力は物語の中心的要素では全くないのだが、カプール監督の密かな趣味なのかそれともサービス精神なのか定かではないにせよ、なぜだか劇中に突発的に盛り込まれるのだ。どちらにしろ、様々なカプール作品を鑑賞した後に観るならば、この『Aag』は多くの発見があり楽しめるだろう。

■失われたミューズを乞い求める物語

映画内容それ自体で見るなら、初監督ということでまだ慣れていないせいか、前半は物語の核心へ繋げるための段取りに終始し、どこか作業的に物語られている部分が無きにしも非ずだ。そしてヒロインであるナルギスが中盤まで登場しないため、それまで主人公が右往左往するだけの華の無い物語が進んでしまう。しかしナルギス登場後はその艶やかさと歌と踊りの充実でようやく楽しめる作品になってくる。というかナルギスは本当にいい、いろいろな古典インド映画を観て本当によかったと思ったことのひとつはナルギスの素晴らしさと出会えたことだ。

この作品において主人公ケワルは最初に出会った少女ニンミの名前を二人目三人目の女性にも名乗らせようとする。日常的な恋愛感覚で考えてしまうとこれは異様なことではあるが、これにはどういった意味が隠されているのか。最初自分は「これはファム・ファタールを追い続ける男の物語なのだな」と思っていたのだが、しかしよく見てみるなら、ケワルにとって"ニンミ"は単なる恋人ではなく、常にケワルが演出する舞台のヒロインとして登場しているのだ。そこに恋愛感情が無かったとはいえないが、それよりもまず、"ニンミ"はケワルが劇作を生み出す想像力の核であったこと、すなわちミューズであったということなのだ。だからこそ、ミューズという核を失った劇はすぐさま頓挫することになるのだ。失われたミューズを乞い求め続けるこの物語は、つまりはケワルが自らの劇作の完全なる完成を乞い求め続ける物語であったということができる。いうなれば監督ラージ・カプールが、不安と葛藤の中、その初監督作品の成功を懇願しつつ悪戦苦闘と試行錯誤を繰り返す、その過程そのものがこの作品だったのではないか。

乞い求めるほどに離れていってしまうミューズの存在にケワルは苦悩し、遂にクライマックスにおいて「顏の火傷」の原因となった事件が起こってしまう。それだけだと暗澹たる物語として終焉するが、しかしこの物語にはある救済が用意される。そしてこれが素晴らしい。観終わって「ああ、こういう物語だったのか!」と叫んでしまったほどだ。このラストの構成によってラージ・カプールはその非凡さを大いに世に知らしめることになっただろう。このラストは、監督ラージ・カプールが遂に自らの作品の納得できる完成に辿り着いた瞬間をも表わしているのだろう。こう考えると、「顏の火傷」それ自体すら"名監督誕生"の"聖痕"であったともいえないだろうか。

20170315(Wed)

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■Barsaat (監督:ラージ・カプール 1949年インド映画)

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ラージ・カプール主演・監督作品として1949年に公開された映画『Barsaat』は処女作『Aag』(1948)に続く監督第2作目となる。共演はナルギス、プレム・ナス、ニンミ。二組の対称的なカップルの愛の行方を描いた作品だが、後半で奇妙な乱調を見せるのが独特だと言えるかもしれない。タイトルの意味は「雨期」。なお今回は結末まで触れるのでご注意を。

物語の中心となるのは正反対の性格をした二人の男。一人は芸術家肌で気難しいプラン(ラージ・カプール)、もう一人はリアリストで享楽的なゴパル(プレム・ナス)。二人は都会からインドの田舎へ遊びに行くが、車が故障し近くの村で数日過ごすことにする。その間、プランは村の娘レシュマ(ナルギス)と出会い恋をし、結婚まで考えるようになるが、レシュマの父は決してそれを許さず、会うことすら禁止した。一方ゴパルはニーラ(ニンミ)という娘と出会う。ニーラは心の底からゴパルを愛したが、ゴパルにとってそれは行きずり恋のつもりだった。そしてそれぞれのカップルに悲劇が待ち構えていたのだ。

監督第2作目ということからか、ラージ・カプール監督作品としてはテーマの選び方やその話法にまだまだ未熟でぎこちない部分を感じるのは否めない。まず主演となる二人の男だ。一途に愛を信じそれを与えることを惜しまない男プランと、刹那的で浮気性、愛に関しては不誠実な男ゴパル。「愛」に対して正反対な態度を取る二人の男を描くことで、この物語は「愛の本質」を描こうとしたのかもしれないが、どうにも図式的に感じてしまう。ラストはその「愛に対する態度の違い」により、二人は相応の結末を迎えることになるが、これも教訓的過ぎて白けてしまう。また、ナルギス演ずるヒロインの、いちいち鼻をすする演出も余計に感じた。

それと併せ、主演・監督を務めるラージ・カプールが、自らの役柄をてらいもなく格好よく描き過ぎている部分に少々苦笑してしまった。スーツをパリッと着込み、ピアノとバイオリンをたしなみ、憂いのこもった顔で愛こそは至上と語り、そして美女ナルギス演じるヒロインと睦みあうのだ。自身の監督作ならむしろ嫌われ者になるであろう浮気性の男を演じないか?まあ自らの監督主演作で自らの役柄を格好良く描くことが間違いだとはいわないが、こんなラージ・カプールがなんだかお茶目さんだなあ、と思えてしまった。

こういった部分で多少引っ掛かりはあったが、作品自体はそちこちに見所がある。光と影の具合が巧みに計算されたモノクロ映像は十分芸術的であり技巧的であり、そして美しい。この時代の一般的なモノクロのインド映画がどの程度の芸術水準にあったのかは知らないので、この作品だけを取り出して芸術的だとは言えないのかもしれないが、それでもカプール監督の映像に対する意気込みやこだわりのほどは十分に感じた。まあ、見方によれば気取り過ぎとも取れる映像だが、決して悪いとは思えない。先程触れたお茶目ぶりといい、この映像の気取り方と言い、将来の大監督の余裕が見え隠れするともいえるではないか(というか最初から大監督だったのかな?)。

しかし「二人の男の対称的な愛」を描くこの物語は後半異様な方向へと乱調する(ここからクライマックスに触れます)。父親に結婚を反対されたレシュマは、流れの早い川を縄だけを伝って川向うのプランのもとに行こうとする。怒り心頭に達した父親は縄を切ってしまい、レシュマはそのまま川に流される。言ってしまえば父親による殺人(未遂)である。半死半生のレシュマは下流である漁師に拾われる。この漁師というのがいかにも独り者の異様な風体の男で、看病から覚めたレシュマを監禁し、自分の嫁にしようとするのだ。プラン恋しさに泣きじゃくるレシュマだがいよいよ結婚式の日がやってくる。だが外で車の事故が。事故車から結婚式場に連れ込まれた男は、なんと瀕死のプランだったのだ。瀕死の男がレシュマの想い人であることを知った漁師はブランを殺そうとする。

とまあ以上のような展開を迎えるのだが、それまで美しく切ない「愛の物語」だったものが一転、暴力と殺人と監禁と強要がドロドロと描かれる猟奇的な物語へと変貌するのである。観ていてなんじゃこれは?と思ったのである。ラストにおいて瀕死のプランはレシュマの愛により命を取戻す。反対にゴパルの愛を得られなかったニーラは自ら命を絶つ。これによって「真実の愛こそが命を助ける」という結論を付けたかったのだろうが、それにしてもシナリオのコントラストが激しすぎる。異様なのだ。ここまで必要だったのかとすら思えるのだ。しかし、この過剰さは後のラージ・カプール作品で随所に見られることになる。それがサービス精神なのかラージ・カプール天性のものなのかは分からないが、ラージ・カプール監督作の特徴ともなるものを垣間見せた初期作であるとは思う。

20170314(Tue)

[][]大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】 大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ を含むブックマーク 大都会ボンベイで詐欺師になってしまった男の良心〜映画『Shree 420』【ラージ・カプール監督週間】 - メモリの藻屑、記憶領域のゴミ のブックマークコメント

■Shree 420 (監督:ラージ・カプール 1955年インド映画)

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大都会ボンベイ(現ムンバイ)への長い道のりをトコトコと歩く男がいた。彼の名は身なりは貧しいが表情はどこか明るく輝いている。きっと田舎から夢と仕事を求めてやってきたのだろう。彼は自分の心の様を描いたような歌を歌いだす。「おいらの靴は日本製 履いてるズボンはイギリス製 頭の赤帽ロシア製 それでも心はインド製(「mera joota hai japani」)」。ラージ・カプール主演・監督により1955年公開された映画『Shree 420』はこんな具合に始まる。共演となるヒロインはラージ・カプールと16作の映画で共演したというナルギス。自分もこの間二人の共演作『Awaara』(1951)を観たがとても素晴らしかった。また、この作品はシャー・ルク・カーン主演『ラジュー出世する(Raju Ban Gaya Gentleman)』(1992)のオリジナル作品となっている。

主人公の名はラージ(ラージ・カプール)。夢と希望に燃えボンベイに辿り着くも、どこにも職は無いわ持ち金は掏られるわ、路上で寝ようにも金を要求されるわで早速都会の厳しさを思い知らされる。そんな彼だったが質屋で出会った娘ヴィディヤー(ナルギス)と恋に落ちてしまう。ヴィディヤーは下町で教員を営むが、彼女もまた貧しい暮らしをしていた。ラージはようやくクリーニング屋の仕事を見つけるが、洗い物の届け先に住む踊り子の女マーヤー(ナディラー)にトランプの腕を見込まれ、いかさま賭博の片棒を担がされるようになる。みるみるうちに大金をせしめるようになったラージは、正直者の顔を失い、あぶく銭に奔走する詐欺師と化してしまう。だがそんな汚れきったラージを、ヴィディヤーは決して快く思わなかった。

タイトルの「Shree 420」とはインド刑法の詐欺・不正行為を罰する法律セクション420に由来し、「詐欺師」とか「いかさま野郎」とかの意味になるのだろう。これは物語の最初で真っ正直な男として登場した主人公が都会の汚濁に染まりいかさま野郎と化してしまう様子を表したものなのだろう。物語で象徴的に描写されるのは、ムンバイに着いたばかりの主人公が質屋で「正直者コンテスト優勝メダル」を質入れしてしまう部分だ(もともと住んでいた村で獲得したものらしい)。いわば魂を大都会という名の悪魔に売り渡したというところだろうか。こういった象徴性も含め、物語は半ば寓話的な構成を成しているように思えた。物語では常に単純な対立項が描かれる。金持ち/貧乏人、正直者/よこしまな者、利己的な者/他者を思い遣る者、といった具合だ。これらは即ちモラリズムについての言及であり、さらには当時のインドの理想主義を体現したものだということなのだろう。

こうして主人公ラージの魂はムンバイという魔都を彷徨いながら善悪の狭間で揺れ動く。それはメフィストフェレスに魅入られたファウストであり、煉獄を道行くダンテである。ではグレートヒェンでありベアトリーチェであるものが誰なのかというとそれがヴィディヤーなのだ。彼女は罪悪に染まったラージの魂を照らす【善良さ】として登場する。これは同じラージ・カプール監督作品『Awaara』において、悪に染まった主人公ラジをヒロインであるリタが【希望】の象徴となって救済するのと似ている。これらはまた貧困からの救済を意味し、それが『Shree 420』においては【善良さ】という部分で説かれているのだ。確かに善良であるだけでは貧困から逃れることはできないかもしれない。それではこの【善良さ】とはなんなのかというと、冒頭で高らかに歌われる「心はインド人」であるということ、即ち「善良であろうとするインド人のプライド」ということになるのではないだろうか。

こうした役を演じる主演者二人が素晴らしい。ラージ・カプールは冒頭では無邪気で朴訥な田舎者の顔で登場しながら、中盤からはタキシードで身を包む涼しげな目つきの伊達男へと様変わりする。この鮮やかな変化に演者の力を見た。主人公キャラクターはチャップリン映画『小さな浮浪者』に影響を受けたものらしく、この『Shree 420』自体は純然としたコメディではないにせよ、弱者への同情や悲哀といった点で共通するものがあるだろう。一方ナルギスは清廉潔白すぎる役柄というきらいがあるにせよ、主人公ラージを時に鼓舞し時に叱咤し、主人公の心を大いに揺り動かすファム・ファタールとして神通力はこの作品でも如何なく発揮されていたように感じた。この二人がベンチでチャイを飲むシーンでのやりとり、そして雨の中傘を差しつつ歌うシーンは圧巻だった。

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