ブログを体験してみる

2018-06-21 FUJIFILMX-T2 18〜135

カメラを買いかえた。

今まで愛用していたFUJIFILM X-T1を水の中に落とした。

f:id:glucklich:20180621184857g:image

後続機種のX-T2にした。レンズは18〜135のズームにした。

f:id:glucklich:20180621174345g:image

夕方の光でアジサイを撮ってみた。

f:id:glucklich:20180621174341g:image

ズームの倍率が以前のより大きい。手振れもない。

2018-06-16 朽ちた古木

昨日はエッセイ教室だった。


          八木山アジサイ               中村克博

 今年は梅雨入りしてもそれらしい雨が降らない。それでも八木山にもアジサイが咲きはじめている。アジサイにはいろんな種類があるが原産地日本ガクアジサイらしい。アジサイ語源ははっきりしないが『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」の字をあてているそうだ。古く日本から中国へ伝わったものが、さらにヨーロッパへと持ち込まれ多くの園芸品種が作られたらしい。ところで、アジサイが咲く田植えのころ蒸し暑い日が続くと翌日は打って変わって肌寒い日に変わる。今朝も寒くてまだ仕舞っていなかった石油ストーブに火を入れたほどだった。

 アジサイは傘をさして犬と散歩しながら道端に人の家の庭先から咲いているのを目にするのがいい。花の色はいろいろあるが、やはり青いのがいい。もう随分前になるが、雨は降っていなかった寒かった朝の散歩で、アジサイの花を撮ろうとカメラを構えていたら飼い犬のグリュックがレンズの前に来てポーズするのには、おかしいやら腹立たしいやら、カメラの向きを変えるとたちまち移動するので仕方なくシャッターを押したのを思いだした。そうだ、明日の朝、グリュックの墓にアジサイを一輪そなえてこようと思う。花の色はピンクにしよう。

 妻のやっている、いけ花教室の生徒さんが野外レッスンで八木山に埋れ木や立ち枯れた古木を探しに来る。先月から土、日曜日に五人から一〇人が敷地内の山にはいる。案内するのは僕の役目だ。先頭を歩いて、マムシヤマカガシ、それに大きなムカデに注意しているが、そのことは言わない。不要に怖がるかもしれない。せいぜいカズラに足をとられないように、刺のある草木に気をつけて、ゆっくり歩くようにと言う。ゆっくり歩けば蛇は見つかる前に逃げるはずだ。

 山の頂上に、といっても、さっさと歩けば家から一五分ほどで行けるのだが、そこに大きな石碑と石組の祠がある。石碑には五穀豊穣と刻まれ文字が見える。左の側面には文化五年とうっすら読める。文化五年は一八〇八年だから二一〇年ほど前に建てられたようだ。石碑の横の祠には猿田彦大神が祀られている。そういえば先月も、いけ花のみなさんが自然に手を合わせていたのは印象的だった。

 今月十日の日曜日にも、いけ花教室女性たちが山道を登って、林の中をかき分け倒木をまたいで古木を探しながらこの場所まで時間をかけて登って来た。この辺りはすでに先月随分採ったあとなので、今回はさらに気を配って探したのに、まだ目ぼしい古木は見あたらず誰もが手ぶらだった。所在なさそうに登って来ると、そこで忽然あらわれた石碑と祠を目にして生徒さんたちは、しばらく珍しそうに不思議そうにながめていた。そのうち誰からともなく一人二人と手を合わせはじめ、ほかの女性たちも一斉に手を合わせてしばらく頭を下げた。僕も、つられてか、仕方なくか、手を合わせて頭を下げた。

 そのあと意外なことが起きた。それまで見つからなかった古木が次々と生徒さんたちの目につきだした。根っこの部分が土に埋もれている背丈ほどの形のいい立ち枯れの古木があった。リーダの花いけ人が興味ありげだ。これが欲しいと言われたらどうしようと思った。掘り出すのは一苦労だ。それにスコップも鍬も持参していない。手鋸とナイフはあるが、それではどうしようもない。ところが朽ち果てて硬い芯だけになった古木をゆすってみると少し動いた。昨日の雨で山の表土が緩んでいるようだ。しばらくゆすっていると動きが大きくなって根っこが少しずつ地面から浮き出てきた。それが何とも形がいい。ついには何の苦労もなく手間も掛からずに地面から取りだせた。みんな大喜びだ。それぞれ生徒さんたちも思い思いの朽ちた古木を手にしていた。猿田彦の祠の下斜面に、倒れた大きな木に手首ほどのツタが絡まっているのが見つかった。どんな使い方をするのか知らないが、花びとの要望にこたえて指示されるとおりに切りはなした。

足場の悪い藪の中を両手いっぱいの古木を抱えて歩く若い女性たちが何ともたくましい。僕は重たい古木を抱えて山を下りながら、少し休みながら、息が切れるがすてきな女性たちに囲まれると奮い立つ本能を久しぶりに実感した。山を下る途中で肥え松の朽ちた古木腐葉土から覗いていた。これはいい花材になるようで花びとが欲しいという。大きすぎるので鋸で三つに切り分けた。運ぶ荷物が増えていく、うれしくもあるが皆でかかっても一度では運べない量になっていた。下の家で朽木を磨いている生徒さんに援軍を要請する伝令をリーダーの花いけびとが放った。

 お昼を食べて一休みして、僕はみんなが採ってきた古木高圧洗浄機できれいにしていた。土がとれ朽ちた木の表面が剥がされていくと硬い芯の形が出てくる。何とも自然は、アバンギャルトな彫刻家が刻み出すようなフォルム創るもんだと思う。いや自然にそんな意図はない。花いけびとの感性が朽ちた古木に美しさの創造を見出すのだ。妻がのぞきに来た。部屋で生徒さんたちが古木を使って花をいけているので見に来るようにと言う。ついて行くと壺や水盤古木を取り合わせて花がいけられていた。どれもすばらしいらしいが、いけている生徒さんもすてきな人たちに思えてきた。こんな女性に尽くされるなら男は命にかえて守るだろう。妻や家庭を郷土や国を自分たち継承する文化歴史を命を懸けて守ると思う。日本若い人たちから変わってきているのだろうかと思う。昔からの文化祖先や先達を誇れる歴史を、山から古木を掘り出すように民族独自性見出しているような気がしてきた。

昔、我々世代ニュースを知るには新聞ラジオテレビからがほとんどで、まして広範囲世界の動きを、立ち位置の異なる時事論評を、専門の政治学者や社会思想家の意見を、取捨選択して接することなど思いのほかだった。ところが現代若者ネットにつながっているので、ニュースは発生した時間にその場所からそこにいる人の目線で様々な角度から知ることができる。時事評論でも著名な専門家の意見を異論を交えてユーチューブで見れる。しかも講演会場に行かなくていい。最新のものから数年前の見方再現できる。その中から自分独自の見かたや考えも出来てくるだろう。今では一方的な考えや情報操作若者には通用しない。なんと、1951年5月3日に行われた米国議会上院軍事外交合同委員会でのマッカーサー証言ですらスマートホンから再現できる。そこでマッカーサーは「・・・したがって日本戦争をしたのは自衛のため余儀なくであった。」と言った。GHQの最高司令官東京裁判否定している。戦後史の根底が変わる。しかし、「花いけびと」たちは論理政治から離れた自然の中から本能的にこれからの日本の国のありようを感じてはじめているのかもしれない。

平成三十年六月十四日

2018-06-05   つゆになった

梅雨入りしても晴れが続いていたが今朝は雨だった。

f:id:glucklich:20180605090857g:image

座敷の隅にアジサイがいけてあった。

f:id:glucklich:20180605090853g:image

埋れ木が手入れされて、出演を待っているようだ。

2018-06-03 愛用のナイフ

先日の金曜日エッセイ教室だった。

夕方から居合稽古に行った。

気に入りのナイフを失くした               中村克博


 先週の晴れた日、裏山で愛用のナイフを落とした。スギヒノキを伐採した後の斜面に日が射すようになってから、それを待っていたようにタケノコが幾つも日々伸びてくるので手鋸で切り倒しながら歩いていた。倒れて重なっているスギ丸太の上を歩いたり跨いでいたら何度も転んだ。足場が悪くて滑るし小枝や蔓に足をとられて尻もちをついたり、つんのめったりしていた。ふと腰のベルトに目をやるとナイフケースの中が空になっている。先ほど頭から転んだ時に藪の中に体がはまり込んで小枝や刺のある葛草から這い出るのに四苦八苦した。きっとあのときに鞘から抜け落ちたのだろうと思った。

f:id:glucklich:20180603082144g:image

 この山のスギヒノキの林は数年前に専門の業者間伐していた。間伐森林組合が国の費用でやってくれた。育ちの良くない木は間引かれ木の間隔が広がって山がスッキリなっていた。それから数年して今回は木立が伸びて建物に日が当たらないのと風通しが良くないので、かなりの量を木こりさんに頼んで伐採した。樹齢が五〇年ほどだろうか、もう立派に建築材料として使えそうに育っていた。寄り付きのいい道路そばなので森林組合が見に来てくれたが原木を山から出して運搬して製材すると製品にしても採算がとれないという。それでスギヒノキは切り倒したまま、虫や微生物に長年かけて分解してもらうことになった。スギヒノキのなくなった山にこれから雑木自然に生えてくれればいい。できれば落葉樹で大きく育てば秋には紅葉して、春には若葉が新緑を重ねてくれるだろう。

 今年の冬は部屋の暖房薪ストーブか暖炉が使えるようにしたいものだ。燃料になる木材無尽蔵にある。薪を山から住いする家にまで集めてくるは一苦労だろう。それから適当な大きさに切りそろえるのにもかなりの時間と体力がいる。おもしろそうだ。おかげで山はきれいになるし、体はいろんな動きをして骨も筋も筋肉も溌溂となりそうだ。それに運動競争でなく、時間の制約もなく、気分にまかせて適度にやれるのがいい。これは年取ってから健康に年を重ねるためには、日々の過ごし方の一つに良さそうだ。

 空想は広がって…、そうだ、現役を引退する団塊の世代といわれる高齢者は全国でどれくらいの人数になるのだろう。ネットで見ると、

    厚生労働省は、その白書において「団塊の世代」ではなく、「団塊世代」は「団塊世代(一九四七年(昭和二二年)〜一九四九年(昭和二四年)生まれ)」としている。日本医療制度上は、前期高齢者(六五〜七四歳)に該当する世代である。

この三年間の年間出生数は二六〇万人を超えている。一九四七年(昭和二二年)生まれは二百六十七万八千七百九十二人、一九四八年(昭和二三年)生まれは二百六十八万千六百二十四人、一九四九年(昭和二四年)生まれは二百六十九万六千六百三十八人であり、三年間の合計出生数は約八百六万人にのぼる(厚生労働省統計)。

 もし、これらの時間にゆとりのある人たちが冬の暖房に薪を使うようになったらどんなことがおきるだろう。なにしろ、団塊世代三年間で合計出生数は約八百六万人だそうだ。半分が男だとして四百三十万人になる。元気に生活している人は四百万人はいると仮定して、それらの人が山にはいって燃料用の薪を集めてまわったらすごいことがおきそうだ。世界有数の森林日本、その国土面積の約七割が森林、そして、 その約三割に当たる七五八万ヘクタールが「国有林野」らしい。それに郊外の山林には入会地が何世代も手入れされずに放置状態だ。  

まず法律改正が必要だが、日本の山がもっときれいになる。高齢者の体力や機能が向上してもっと元気になって国の医療費負担が削減できる。建築材に使われないスギヒノキが伐採されてスギ花粉被害が減るだろう。花粉症には国民の三割が罹患しているそうだ。これによって国内生産性が二兆円ほど下がっているとの試算がある。薬や医療費マスクなどの花粉関連グッズが一〇〇〇億円の市場になっているらしい。

花粉症がなくなれば女性マスクをしなくなって若い男性がイキイキしてくる。山に落葉樹が植えられれば秋の景色にも彩りができる。ドングリヤマモモなどの木の実が山に多くなってイノシシやシカが山奥にもどってくれる。そうすれば村中の田畑を囲んでいる害獣避けの金網が取られて風景がよくなる。電気、ガス、灯油の消費が減って高齢者の使えるお金がふえる。冬の夜には暖炉の薪が燃えるそばで本が読める。クリスマスの夜が楽しくなりそうだ。

失くしたナイフを探してまわった。何度か転んだ場所にもどって枝をかき分けてメガネをかけなおして屈みこんで注意して見つけようとしたがとうとう目にすることができなかった。使いやすくて手に馴染んで山仕事にはいつも腰に吊るして長年愛用していた。昔マタギが使っていたという同じ形で片刃小刀で素朴な木の柄がついていた。失くすと余計に不便を感じる。荷づくり紐を適当な長さで切るとき、宅配で届いた箱のガムテープを切り開くとき、シュロの繊維質が包んだ皮を切り取るとき、それよりも山を歩くときに腰に何もないと寂しいもんだ。

フィンランド大統領だった スヴィンヒューブド(一九三〇年代)は、「ナイフ は男の服装の一部である」と日ごろから言っていたそうだ。大統領の腰にはいつも銀製の イーサッキを下げて愛用していたと言われている。イーサッキとは、北欧最古の歴史を誇る一八七九年創立の会社創立者の彼の名前が、そのまま会社名となっている。一八九四年にロシア皇帝 ニコライ二世皇后 アレクサンドラにナイフを献上し、以来「皇帝御用達」の名が与えられることとなりました、そうだ。

僕は三日前、イーサッキと同じフィンランドのマルティーニ社の新商品、「折りたたみ式プッコ」をネット通販で注文した。ハンドルカーリーバーチ(白樺の瘤材)を使用し、全体的な形状は伝統的なプッコの佇まいを継承している。プッコは語源的に「突刺す」という意味を持っている。フィンランド伝統的なフィンランド様式スカンジナビア様式のナイフ。木工、釣、料理などの道具として使われるほか、武器としても使われる。 

平成三〇年五月三〇日

f:id:glucklich:20180603082140g:image f:id:glucklich:20180603082137g:image

2018-05-27   日帰りの長距離ドライブ

先週の月曜日、友人夫婦と日帰りの遠距離ドライブに出かけた。

朝7時半に飯塚をたって熊本へ、フェリー島原へ、具雑煮を食べて

雲仙観光ホテルコーヒーを飲んで、有明湾岸を走って祐徳稲荷についた。

f:id:glucklich:20180527182814g:image f:id:glucklich:20180527182828g:image

友人は祐徳稲荷を昔の思い出と重ねてなつかしんでいた。

f:id:glucklich:20180527182824g:image f:id:glucklich:20180527182817g:image

雲仙からは諫早湾干拓堤防道路を通って佐賀に向かった。

2018-04-30   住吉神社の能楽殿

住吉神社能楽殿を見に行った。

筑前国一宮大阪住吉大社下関住吉神社とともに「三大住吉」の1つ、

日本全国に約600社ある住吉神社の始源とする説がある。

f:id:glucklich:20180430193512g:image f:id:glucklich:20180430193509g:image

母屋造、波子鉄板葺、妻入りで、北側1間半、南側1間半には桟瓦葺の下屋が付く。東側の北・南端は切妻造の屋根を付けて、北端は妻入り出入口となる。

住吉神社能楽殿日本古来の伝統を残し福岡市文化財指定らしい。

f:id:glucklich:20180430193505g:image f:id:glucklich:20180430193502g:image

舞台神聖な場所、舞台上では必ず白足袋の着用をお願い致します。とのことだ。

f:id:glucklich:20180430193459g:image f:id:glucklich:20180430193455g:image

客席は四段の階段式桟敷になっており、伝統的な様式洋風建築技術を一体にした劇場建築全国的にも極めて貴重な建物といえる。そうだ。

f:id:glucklich:20180430193452g:image

古代力士像」が参拝者の人気になっている。ギリシャ神話ヘラクレスのようだ。

2018-04-28 丸太ストーブ

一昨日、友人たちと丸太ストーブを作った。

スウェーデン トーチ」と呼ばれ北欧の国では昔から山中で使っていたらしい。

f:id:glucklich:20180428172805g:image f:id:glucklich:20180428172802g:image

幾つか作ってみたが、製作者によって好みの形は違うようだ。

f:id:glucklich:20180428172759g:image f:id:glucklich:20180428172756g:image

チエーンソーは、二人では危険だ!!   そうそう、離れて、離れて・・・

f:id:glucklich:20180428172753g:image f:id:glucklich:20180428172746g:image

チエーンソーの刃を研ぐ、道具の手入れがいいと疲れない。 疲れたらこれが一番いい。

f:id:glucklich:20180428172749g:image f:id:glucklich:20180428180208g:image

湯を沸かすのに焚火では大きすぎる。    これが無駄なくいい感じだ、暖かい季節になればなおさらだ。



八木山峠の今と昔                   中村克博


 八木山峠を登りつめると国道は平坦になり、まっすぐな道が四キロほど続く、それに並行して流れる八木山川のふちには千四百本のシダレザクラが植えられ春には、桃色の並木が緑に映える。近くに山がせまっているので広大な山間風景とはいえないが、川をはさむように広がる田んぼや畑は近年の圃場整備で大きく区画され、農道が直線にのびている。八木山川はコンクリート石垣でおおわれ、川の所どころに水位を調節する油圧式の水門がある。巨大な農業用水路のようだがイギリスの田園を流れる運河のようでもある。

山にかこまれた村の朝は南東の山影から寝すぎた太陽が顔を出す。そして夕方には早々と南西の山に駆け込むように姿を消す。  

 子供のころは飯塚の市内に住んでいた。そのころ筑豊日本有数の炭鉱地帯で、町は賑わっていた。しかし小学生八木山峠を越えて福岡に出かけるなど一年のうちに一、二度だった。狭い峠の道は折りたたむように曲がりくねった砂利道でバス運転士は腕まくりした大きな腕でハンドル体重をかけて回していた。バスが道をせり出すように曲がると窓から崖下に谷底が見えていた。春になって遠くの山にいろんな緑が重なるころ道の両脇の桜並木が花を咲かせ、バスは白い花のトンネルを幾つも幾つも、くぐったのを思い出す。

 中学生のころ同級生三、四人と自転車八木山峠を上った記憶がある。市内からどれくらい時間がかかったのか、お昼はとっくに過ぎていた。腹が減っていたが弁当の用意はなかった。水筒もなくて畑の横から湧き出ている水を手ですくって飲んでいた。すると、野良着に草臥れた麦わら帽をかぶった三〇歳前後の若い農夫が竹笊に入ったイチゴを湧き水で濯ぎにやって来た。場所を開けるとそこにしゃがみ込んでイチゴを一つずつ水で洗って笊に入れていた。小さなイチゴドングリのような円錐形で、赤く熟れているのや、ヘタに近いところがまだ青いのもあった。小柄な若い農夫は洗い終わると立ち上がる前に、囲んで見ている中学生たちに軽く一掴みずつイチゴを渡してくれた。二つか三つ、小さなイチゴは歯ごたえがあって甘くて少し酸味があって、なんとも幸せな味がした。夏の空が果てしなく青かった。そのころの八木山の畑は斜面のあちこちに、どれも小さくて形もまばらだった。どんな野菜が育てられていたかは思い出せないが、ビニールハウスはまだなかった。 

 そういえば、やはり中学校のころ八木山には遠足で何度か登ったことがある。砂利道は凸凹して車が通ると砂ぼこりで目は開けていれなかった。川も好きなように曲がりくねって川原には葦が広がって川面には至る所に大きな岩が出ていた。田んぼは直線でなく、いろんな形をしていた。秋になると田や畑の畔に彼岸花が赤く咲いて、ハゼ古木に干からびたブドウ房のような実が下がっていた。農家屋根はどこも藁ぶきで、柿の木には実がたくさんで、中庭にはニワトリが数羽、歩きながら地面と突っついて、放し飼いの犬は日なたにまどろんで、おばあさんが孫の子守をしている。

昔から八木山の米や野菜はおいしいと言われる。一日の寒暖の差が大きく、豊富な湧き水があちこちに出ている自然条件と農家の丹精のおかげだ。林道散歩すればツクシワラビは刈り取るほど、冬は寒くて大きなツララが軒下に三メートルにもなるが、そのかわり南国には珍しいリンゴ生産地でもある。ところが、ここ数年、イノシシやシカが山から出て来て田畑を荒らす。そのため村中に害獣避けの金網が張りめぐらされているが、こればかりは風物詩にはなりにくい。   

 三月のなかば、昼すぎ近所のラーメン屋に出かけた。看板メニューの八木山味噌ラーメンにしようと思ったが、「味噌チャンポンギョウザ」と注文した。カウンター席に顔なじみの長い髭をはやしたおじいさんがいた。ラーメンを食べ終わったようで厨房に向かって料理人のお兄さんに笑顔の大声で話しかけている。お兄さんは僕の注文を聞いて麺を手に取ってほぐし始めた。おじいさんは、なおも話しを続けている。

 味噌チャンポンが出来て僕の前に置かれた。間もなく餃子も来た。まずギョウザにたっぷり酢醤油をつけて口に入れた。おじいさんの話し声が聞こえる。

「石坂明神が〇〇〇・・・」

天正八年、大友宗麟が〇〇〇・・・」

 なんと、不思議なことだ。さっきまで僕が部屋で調べようとしていたことを、長い髭のおじいさんがカウンター越しにしゃべっている。僕は食べ終わって、おじいさんの横に坐りなおした。

「大きな一本松があってな○○○・・・」

「そうですか、大友秋月が戦った千人塚がありますね・・・」

「ああ、千人塚はむかしアチコチにあった塚を一つに集めたったい」

「そうですか、入れ忘れた武者が一人おって、ときどき畑に迷って出とったのを、数年前に畑の持ち主が小さな石の祠を作っていましたね」

「そうな、そりゃ知らん」

「そうですか、ここに長く住んでいるのですか」

「俺な、俺で八〇〇年になるかな」

「えっ、そうですか、平安末期か鎌倉の初めですね」

「家の古文書で確認できるのは四〇〇年くらいやな」

 二人はラーメンチャンポンも食べ終わって、コップの水を注ぎ足して話していたが、いつまでも座っている訳にはいかない。

「そんなら、今から俺の山に来んな」

「いまから・・・、いいですよ。ほんなら、いちど家に帰って伺います」

 長い髭のおじいさんはまだ帰っていなかった。山の頂上は広くならされて見晴らしがよく飯塚の街が眼下に広がっていた。遠く田川の香春岳や、さらに英彦山の独特な稜線も小さく望めた。数頭の日本犬が檻の中にいて、猟犬だろう、うろうろする僕を見てしばらく威嚇の吠え声をあげていた。まもなく、おじいさんが軽トラックで帰ってきた。横に乗るように言われてドアをバタンと閉めると勢いよく走りだした。

 軽トラックは急勾配の坂を下り左右を確認して国道に出た。そして飯塚の方に曲がると、すぐ左に折れて狭い間道を潜り込むように下りて行った。こんなところに道があったのかと思うような小道は樹木でうっそうとして薄暗かった。二階建ての古い建物があった。軽トラックはそこで止まった。牛の石像と古めかしい石塔が二つあった。石塔文字が刻んであるが風化して読めない。その近くに人がやっと入れるほどの小さな横穴があって水が湧き出ていた。このあたりは先ほどのラーメン屋で聞いた明神坂の遺跡のようだ。

「ここは昔の道ですか」

菅原道真もこの石坂を通って大宰府に行ったと・・・、それで牛が祀ってある。昔は銅で出来ちょったばってん、戦争で取られて鉄砲の弾になったと・・・」

「穴から水が湧いていますね」

「この水を柳原白蓮が飲んで、そこの二つの大岩を歌にしたと・・・」

長い髭のおじいさんは白蓮がここでよんだ歌を二首、声を出して二回ほど唱えてくれたがメモを取るのを忘れた。

「白蓮がですか、そら、顕彰して石碑でも建てんといかんですね」

「ここには茶屋があって黒田如水もここを通ったと・・・」 

へぇ、そうですか・・・」

 あとで調べたのだが、郷土史家の文章に、

筑前国風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。筑前国風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂明神の石だたみは黒田長政入国後「黒田如水」によって開かれた路筋とかさなる

  元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという、とあった。

 四月のはじめ、日の出前に窓の外を見ると梅の枝がピンクになっていた。雲ひとつない日差しが何日か続いて八木山にも春が来たようだ。いけばなの花材にと、枝を切りに脚立を持って出かけた。見上げるとメジロが数羽、枝を飛び跳ねていた。満開だった。花材には少し遅すぎた感がある。軽トラックの音がして誰かやって来た。早朝に誰だろうとおもったら、長い髭のおじいさんだった。いや、僕と同年輩なのでおやじさんと言いたい。

「おらっしゃったな」

「はい、梅の枝を切っとります」

「切り花には、少し遅かろう」

 白い髭が胸まで長く、朝日に光っていた。

「あんたに、おもしろい本を持ってきた」

 表紙に、「ふるさといいづか、歴史のさんぽみち」と見える。

八木山歴史がのっとる」

 長い髭のおじいさんが帰り、僕は部屋にもどって小冊子の目次を見ていた。明星寺跡の遺跡山伏塚、高取焼初代八仙の墓跡、大隈言道と宝月楼跡、貝原益軒学習の碑、八木山千人塚、竜王神社八木山峠の石だたみ、八木山峠石坂の牛像、伝説女郎の墓、建花寺の六地蔵、僕の知りたいことが次々と目につく。小冊子には柳原白蓮の歌がのっていた。

清水流れて寒き八木山

        峠を越えて福岡にゆ

この短歌伊藤伝右衛門再婚した白蓮が福岡市にいく途中に、八木山で詠んだものです。と書いてあった。長い髭のおじいさんが先日、唱えてくれた白蓮の歌の一つだろうか… もう一首はどんな歌だったのだろう。

 

2018-04-21 柳生剣士が宇宙と交信

コニカミノルタ天空未来プロジェクト2018

宇宙人類を元気にする〜

<全国3会場とISSとを繋いだリアルタイム交信

開催日時 2018年4月26日(木) 19:00〜22:00

f:id:glucklich:20180421091533g:image

柳生新影流柳心会の最年少剣士緒方太郎君が

国際宇宙ステーションISS滞在中のJAXA金井宇宙飛行士リアルタイム交信を行います。

f:id:glucklich:20180421092401p:image

人気アニメ宇宙兄弟』の主人公「南波六太」役の平田広明さんと

宇宙飛行士を目指すタレント黒田有彩さんによるクロストーク実施

その模様は全会場に配信されます。

[福岡会場]

福岡市科学館  ドームシアター 及び サイエンスホール

[東京会場]

コニカミノルタプラネタリウム天空”in東京スカイツリータウン

[茨城会場]

日立シビックセンター科学館  天球劇場 及び 多用途ホール

2018-04-11  江口美智子 書作品展

きのう福岡新天町書道個展を観に行った。

村岡屋ギャラリー 4月10日(火)〜15日(日) 11:00〜18:00(最終日は17:00

江口美智子(玉鳳) NHK文化センター講師もしておられるようだ。

妻が展示会に花を添えていた。

f:id:glucklich:20180411072306g:image f:id:glucklich:20180411072303g:image

小さなギャラリーだが、書道個展には、しっくりする広さだと思った。

f:id:glucklich:20180411072300g:image f:id:glucklich:20180411072257g:image

添えてあった「いけばな」は、主体との調和を考えて工夫したようだ。

f:id:glucklich:20180411072254g:image f:id:glucklich:20180411072251g:image

象形文字なのだろう。何と書いてあるか教えてもらったが忘れた。 花が書の意味を語っているようだ。

小さな徳利と白い花が表しているのは枯淡だろうか、書も花も人柄も、さっぱりしておもむき深い、そんな意味だろうか、

f:id:glucklich:20180411072248g:image f:id:glucklich:20180411072245g:image

座花酔月と書いてあるらしい。花見て一杯、月見て一杯と言ったら笑われた。もっと高尚な意味らしい。

f:id:glucklich:20180411072242g:image

個展は事前の準備はもちろんだが期間中気が抜けないようだ。もっと丁寧に観覧しなくてはと思った。

2018-03-17   急に寒くなった

青い空に枝垂れ梅がはえる。

天気はいいが風が冷たい。

早朝の気温は1度だった。

f:id:glucklich:20180317143750g:image

桜はまだ小さな蕾だが、枝垂れ梅が満開だ。

昨日はエッセイ教室だった。

前回に続いて、八木山のことを書いた。



       山清水 流れて寒き 八木山の                  中村克博


 日の出前に窓の外を見ると梅の枝がピンクになっていた。雲ひとつない日差しが何日か続いて八木山にも春が来たようだ。いけばなの花材にと、枝を切りに脚立を持って出かけた。見上げるとメジロが数羽、枝を飛び跳ねていた。満開だった。花材には少し遅すぎた感がある。

 枝を高いところから手鋸で切り落とそうとするのだが、小枝には刺があるし入り乱れて伸びているのでからまって落ちない。無理に引っ張ると花がパラパラと落ちてしまう。面倒なので大きな枝ごと切って落とした。逆さに落ちると細い先の枝が都合よくクッションになって花の損傷が少なくて済むようだ。妻が教室で使う一日の花材には多すぎるようだが、梅は切らぬと馬鹿と言われるそうだから手あたり次第にどっさり切った。

 とりあえず見てもらおうと、妻を呼びに行った。すでに朝日が山の上に出ていた。

「こんなに切ってどうするのですか」

「多すぎたね」

今日は花市場での買い物が多いので、時間があまりありません」

 これから、切った枝の長さをそろえて形を整えてビニールシートで包まねばならない。花が落ちないように気づかいながらの作業なので時間がかかる。急がねば・・・

 軽トラックの音がして誰かやって来た。早朝に誰だろうとおもったら、山のおじいさんだった。いや、僕と同年輩なのでおやじさんと言いたい。

「おらっしゃったな」

「はい、梅の枝を切っとります」

「切り花には、少し遅かろう」

 白い髭が胸まで長く、朝日に光っていた。荷台に大きな切り株と古い時代木こりの道具が目に付いた。寝起き姿の妻はいつの間にかいなかった。

「あんたに、おもしろい本を持ってきた」

 表紙に、「ふるさといいづか、歴史のさんぽみち」と見える。

八木山歴史がのっとる」

 百ページほどの小冊子だが手に取ってページをめくると、明星寺跡の遺跡山伏塚、高取焼初代八山の墓跡、八木山千人塚、竜王神社八木山峠の石だたみ、八木山峠石坂の牛像、伝説女郎の墓、建花寺の六地蔵、僕の知りたいことが次々と目につく。嶋田光一という飯塚郷土史家が長年調べたようだ。

「これには、のっとらんが、うちの山には秋月大友の兵をさらし首にして引き上げた跡がある」

「ほう、そうですか」

「四百人の生首をさらしたげな」

「いろんな歴史が蘇りますね」

「石がこづんであるんで祠にしたと」

 柳原白蓮の歌がのっていた。

清水 流れて寒き 八木山

        峠を越えて 福岡にゆ

この短歌伊藤伝右衛門再婚した白蓮が福岡市にいく途中に、八木山で詠んだものです。と書いてあった。さらに読み進むと、大正十年、白蓮は「まったくの愛と理解を欠いていた」という理由で、夫伝右衛門に別れを告げ、宮崎龍介のもとに走ります。このときの離縁状は「朝日新聞」に公開され当時大反響をよびました。とある。

昨今の「朝日新聞」による森友学園事件スクープ記事から政治が混迷している様相何だか重なるから面白い。この白蓮事件解決するため伊藤家の介添人として麻生太郎のおじいさんの麻生太吉上京した。柳原家は当主の義光と除エ子の姉婿・入江為守らが出席し、奥平昌伯爵仲介役となった。

 すこし、話が脱線した。山のおじさんは軽トラックの荷台にある品物を下して並べはじめた。滑車や鎖、クサビや斧など、むかし木こりさんが使っていた道具類で興味が引かれる。今では貴重なものだった。これは写真に収めねばと思って、あわてて部屋にカメラを取りに走った。

山のおじいさんは道具の説明をしてくれた。

「この斧は刃が薄うしてある。鋸を入れる前に使うと」

「ほう、軽いですね」

「倒す方に切り込みを入れるとに使うと」

「このクサビは・・・」

「追い口に鋸を入れたら打ち込むったい」

 切った溝に鋸の刃が挟まれんように隙間を開くためらしい。

「この環のついたクサビは・・・」

「これな、これは、おもしろかばい」

山のおじさんは、環のついたクサビの束を重そうに持ち上げて、

「大きな丸太を牛に曳かせるとき、切り口に打ち込んで環にロープを通して引くと」

「こんな小さな短いクサビで、抜けんですかね」

「そいが、山ん中で曳いてくさ、抜けんったい」

「なんでかね〜」

「そうたい、そいがくさ、終わって抜くとき、頭をチョンと打ったらスッポンと抜けるきな〜」

 おじいさんは昔の光景を思い出しているように白い髭の中でニンマリと笑っている。今ではユンボで吊り下げて運ぶようだが、それも、まれなことで多くの伐採され木は枝を落とし、短く切られてその場所に放置される。山は荒れている。この季節になると遠くの山が黄色く煙るほどスギヒノキ花粉を撒き散らすが、きっと手入れされず粗末にされて反乱を起こしているのだ。

「この滑車は車の溝が大きいですね」

「細いワイヤーがないとき、太い麻のロープで引いたとやろな」

「これは何に使いますか」

 槍の穂先が曲がったような長い道具を指さした。

「落とした枝も集めるときにこげんして」

 おじさんは先の曲がった槍を手にして仕草を真似た。それからまだまだ、いろんな道具の説明が続いた。木を切りだすにも昔は人の手が多くかかった。運び出すにもいろんな工夫をしたのだろう。木にはそのつど人の思いが入ったはずだ。それに、代を経て使われ続けた道具は形がうつくしいのは不思議だ。そんな地元で育った木を使って大工さんが昔からの技術で建てた家はいろんな人の心がこもっていて、なんだか住み心地がいいような気がする。

平成三十年三月十五日

2018-03-14  普賢岳を見た。

先週末、雲仙にいった。

天気がよくて春の兆しだった。

f:id:glucklich:20180314162738g:image f:id:glucklich:20180314162556g:image

普賢岳は近くからはじめて見た。

f:id:glucklich:20180314162553g:image f:id:glucklich:20180314162550g:image

雲仙市国見神代小路歴史文化公園 鍋島邸にも言った。

f:id:glucklich:20180314162547g:image

帰路はフェリーに乗って熊本から帰った。

LAKILAKI 2018/03/14 22:46 あっ島原の具雑煮ですか?
久しぶりに食べたくなりました。

glucklichglucklich 2018/03/17 14:55 具雑炊、おいしいですね。
「島原の乱」寛永十四年〜十五年(1637年〜1638年)で原城に籠城していた
人たちが食べていたとの記録があるそうですね。
最後は食料が尽きて元気がなくなったのでしょうかね。

2018-03-13 麻生さんが、えらいことになって・・・

麻生太郎の原点  祖父 吉田茂流儀

「心清ければ意自ら閑なり」

f:id:glucklich:20180313081436g:image f:id:glucklich:20180313081433g:image

悪事は己に向き   好事は他に与え   

己を忘れて   他を利するは   慈悲の極みなり

(伝教大師 最澄言葉らしい)

f:id:glucklich:20180313081429g:image f:id:glucklich:20180313081426g:image

f:id:glucklich:20180313081422g:image

2018-03-04   いけばな展に行った

いけばな展を観に行った。

博多大丸の八階であっていた。

f:id:glucklich:20180304210708g:image f:id:glucklich:20180305204749g:image

西日本華道連盟のいけばな展。写真を撮った。妻の作品はこじんまりしたのだった。

f:id:glucklich:20180304210657g:image

家で試し活けをしていた時は銅製の花瓶だったが水漏れしていたので花瓶を代えたようだ。




先週の金曜日エッセイ教室だった。

八木山歴史をしらべて           中村克博


 先週の昼すぎ、パソコンを開いて八木山歴史について調べていた。めぼしい記事が出て来ない。これは八木山の古老にでも聞いてみないと分からんと思った。小学校横のおばあちゃんはどうだろう。ときどき畑の菜っ葉沢庵漬け手土産に母を訪ねて来るが、いや、リンゴ園のおじいちゃんがいいかも知れない。今は隠居してデイケアに行っているが長いこと村の世話役をしていた。

腹が減ったが今日は妻がいない。近所のラーメン屋に出かけることにした。久しぶりに天気がいい。風は冷たいが日差しは暖かかった。看板メニューの八木山味噌ラーメンにしようと思ったが、 

味噌チャンポンギョウザ」と注文した。

 カウンター席に顔なじみの長い髭をはやしたおじいさんがいたので挨拶した。ラーメンを食べ終わったようで厨房向かって料理人のお兄さんに大きな笑顔で話しかけている。お兄さんは両手を前にそろえて、かしこまるようにうなずいていたが、僕の注文を聞いて麺を手に取ってほぐし始めた。長い髭のおじいさんは、なおも話しを続けている。

 味噌チャンポンが出来て僕の前に置かれた。間もなく餃子も来た。まずギョウザにたっぷり酢醤油をつけて口に入れた。髭のおじいさんの話し声が聞こえる。

「石坂明神が〇〇〇・・・」

天正八年、大友宗麟が〇〇〇・・・」

 なんと、不思議なことだ。さっきまで僕が部屋で調べようとしていたことを、おじいさんがカウンター越しにしゃべっている。味噌チャンポン野菜がたくさんだ。半煮えで歯ごたえがいい。それに汁がうまい。おじいさんは僕が聞き耳を立てているのに気づいて、厨房のお兄さんと僕の顔を交互に見ながら話し続けていた。僕は食べ終わって、おじいさんの横に坐りなおした。

「大きな一本松があってな○○○・・・」

「そうですか、大友秋月が戦った千人塚がありますね・・・」

「ああ、千人塚はむかしアチコチにあった塚を一つに集めたったい」

「そうですか、入れ忘れた武者が一人おって、ときどき畑に迷って出とったのを、数年前に畑の持ち主が小さな石の祠を作っていましたね」

「そうな、そりゃ知らん」

「そうですか、ここに長く住んでいるのですか」

「俺な、俺で八〇〇年になるかな」

「えっ、そうですか、平安末期か鎌倉の初めですね」

「家の古文書で確認できるのは400年くらいやな」

 ラーメンチャンポンも食べ終わって、二人はコップの水を注ぎ足して話していたが、いつまでも座っている訳にはいかない。

「僕は、鎌倉の初めの、この辺りのことを本にしています。読んでくれますか」

「ほう、そうですか」

「どちらに、お持ちしたらいいですか・・・」

「そんなら、今から俺の山に来んな」

「いまから・・・、いいですよ。ほんなら、いちど家に帰って伺います」

 峠の国道から急斜面につくられたコンクリート坂道は勾配がきつくてローギヤで唸りながら上っていった。おじいさんはまだ帰っていなかった。頂上は広くならされて、右翼の宣伝カーや黒塗りの街宣バスが置かれていた。数頭の日本犬が檻の中にいて、不意な侵入者に警告のような吠え声をしばらく発していた。見晴らしがよくて飯塚の街が眼下に広がっていた。遠く田川の香春岳や、さらに英彦山の独特な稜線も小さく望めた。

 おじいさんが軽トラックで帰ってきた。横に乗るように言われてドアをバタンと閉めると勢いよく走りだした。まず、おじいさんの敷地内を案内するようだ。山をさらに上っていった。道路舗装はなく、おじいさんの運転は慣れている道だろうが滅法に荒く山道を飛び跳ねるように走った。軽トラックは四輪駆動なのだ。高圧線の高い鉄塔が建っている。この辺りは九電敷地らしい。コンクリート舗装され、ヘリコプターが発着できるほど広かった。林道につながる鉄扉まで来ると軽トラックは狭い道を前後して向きを変えた。別の道を下って、間もなく奇妙な「お社」のような建物が見えてきた。車を降りて中をのぞいた。

「なんですか、これは・・・」

炭鉱大勢死んだ。その人たちを祀っとる」

へぇ〜、そうですか・・・」

 お社は石炭をとったあとのボタ石を積み上げて作ってあった。僕は手を合わせてお辞儀をした。おじいさんもそうしていたようだ。採炭が盛んなころガス爆発や落盤事故でたくさんの人が亡くなった。筑豊炭鉱で死んだ人を悼んで、後世の世代がそのことを忘れないように・・・。

 一通り山を案内したら、こんどは、軽トラックのおじいさんは急こう配の坂を下り左右を確認して国道に出た。そして飯塚の方に曲がると、すぐ左に折れて狭い間道を潜り込むように下りて行った。こんなところに道があったのかと思うような小道は樹木でうっそうとして薄暗かった。二階建ての古い建物があった。軽トラックはそこで止まった。

 この家は昔、旅館をしていたようで、おじいさんの持ち物らしい。牛の石像と古めかしい石塔が二つあった。石塔文字が刻んであるが風化して読めない。近くに小さな横穴があって水が湧き出ていた。このあたりは先ほどのラーメン屋で聞いた明神坂の遺跡のようだ。

「ここは昔の道ですか」

菅原道真もこの石坂を通って大宰府に行った。それで牛が祀ってある。昔は銅で出来ちょったばってん、戦争で取られて鉄砲の弾になったと・・・」

「穴から水が湧いていますね」

「この水を柳原白蓮が飲んで、そこの二つの大岩を歌にしたと・・・」

 おじいさんは白蓮がここでよんだ歌を二首、声を出して二回ほど唱えてくれたがメモを取るのを忘れた。

「白蓮がですか、そら、顕彰して石碑を建てんといかんですね」

「ここには茶屋があって黒田如水もここを通ったと・・・」 

「そうですか・・・」

 あとで調べたのだが、

筑前国風土記には「石坂は八木山村の東にあり」とある。嘉摩、穂波郡の諸村は眼下にあって佳景、田河郡(田川)まで見通せることが書かれている。筑前国風土記の書かれた頃の「石坂」が今日と同じであれば、石坂は黒田長政入国後「黒田如水」によって開かれたと路筋と言う。

  元の路は「北方の山さがしき所にありて」とあって、「人馬のわづらひおおく」とあり、このためこの難所を避け、如水が今の石坂を開いたのである。石坂の上には茶屋があり、如水の逗留した茶屋は、代々年貢が免除されたという。とあった。

   黒田長政一六〇〇年(慶長五年)に起きた関ヶ原の戦いによる論功行賞で旧領の豊前中津 十八万千石から筑前名島 五十二万三千石に移封された。十二月初め、黒田長政は父孝高(如水)と共に豊前中津を出た。長崎街道から花瀬街道にはいり飯塚の太養院に宿泊した。坂の下に出てそれから石坂の急坂を登り八木山を越え篠栗街道を通って筑前名島城にはいることになるが、海外貿易大湊博多大津を要する筑前は昔から博多商人や禅僧の力が強い地で、黒田の家臣団は威力を示すために武装して領地に入部した。これを「筑前お討ち入り」といった。とある。

 八木山のことを調べようと思うが、思いがけない故事遺跡を新たに知ってまだまだ時間がかかりそうだ。

平成三十年三月一日

2018-02-18   天気がよくなった。

一昨日の金曜日エッセイ教室だった。

夕方、からは居合稽古に行った。

参加者が少なかった。作法のあと一〇人で基本刀法を始めた。さみしかった。    

f:id:glucklich:20180218103513g:image f:id:glucklich:20180218103510g:image


 軒先の巨大なツララ                  中村克博

 今年の冬は寒い。これまでにない寒さだ。雪も多くて先週は断続的だが一週間ほど降りつづいた。風も強く乾いた雪が風に舞い遠くの景色は見えないほどになった。八木山山村とはいっても南国九州なのに、それが軒先にはツララが三mほどにも育って、降り積もった雪は三〇cmをこえた。屋外にとめていた車は雪ダルマになっていた。

 部屋に閉じこもっていては体に悪い。妻と散歩に出た。家から一〇〇mも歩いて国道に出るとそこだけには雪がない。車は通常走行雪景色の中を何事もないように走っている。そのうちに黄色除雪車が路肩の汚れた雪を押して通り過ぎると、そのあとから大きな排土板を付けた黄色い大型の道路作業車が融雪剤の粒を道路一面に撒いていく。国道に雪がないのはこれら作業車のお陰なのでありがたいことだが、大量に撒かれる塩化カリウムかカルシュムはどこに流れていくのだろうか、側溝を通って川に流れ込んでダムに貯められ、しまいには海に運ばれていくのだろうか、もともと同じ塩だ、海に流れれば問題ないのだろうか・・・

 八木山峠を登りつめると国道高原状の平坦な道をほぼ一直線に三kmほど続く、それに沿って流れる八木山川もほぼ一直線だ。川の両岸はコンクリート石垣でおおわれて巨大な農業用水路のようになっていて、所どころに水位を調節する油圧式の水門が設けてある。村を縦貫する用水路の両岸にはシダレザクラが植えられ春にはうす桃色の花並木が延々と続くのはきれいだ。

 すぐに山がせまっているので広大な田園風景とはいえないが、八木山川の両脇は圃場整備によって大きく平坦に区画された田んぼや畑が広がって真っ直ぐな農道や、あぜ道が伸びている。山にかこまれた村で冬は空が明るくなっても日の出は遅い。南にかたむいた太陽は山影から寝すぎたような顔を出す。そして夕方には早々と西の山に駆け込むように姿を消す。短い日照時間を補うのか、ビニールハウスの畑が目に付くようになって年々増えているようだ。

 子供のころは飯塚の市内に住んでいた。そのころ筑豊日本有数の炭鉱地帯で、町は賑わっていた。しかし、小学生八木山峠を越えて福岡の街に出かけるなど一年のうちに一、二度くらいだった。峠の道は折りたたむように曲がりくねった砂利道でバス運転士は腕まくりした大きな腕で大きなハンドル体重をかけるように回していた。狭い道をバスがせり出すように曲がると窓からは崖下に谷底が見えていた。そんな峠道に春には大きな桜の木が真っ白い花を咲かせて、花のトンネルをくぐって通る場所が幾つも幾つも続いていたのを思い出す。

 筑豊炭鉱と言えば当時は戦後復興期を支える貴重な石炭エネルギー生産地帯で日鉄、三井三菱住友古川などの中央資本と貝島、安川麻生、などの地元炭鉱主が石炭を掘りまくっていた。飯塚は遒ピラミッドボタ山があちこちに出来ていた。五木寛之の「青春の門」の背景になった時代だろう。柳沢白蓮の夫で有名になった伊藤伝右衛門はこの時代より少し前になる。

 筑豊で有名な人と言えば麻生元総理大臣、今は財務大臣副総理麻生太郎だろう。彼の父親麻生太賀吉ロンドン滞在中に白洲次郎のとりなしで当時駐英大使をしていた吉田茂の三女・和子と帰国結婚した。それで麻生太郎吉田茂の孫になり明治の元勲大久保利通につながる。妹は故、寛仁親王のお妃になったので天皇家近衛家につながり、今の安倍総理大臣とも縁戚になる。八木山峠を通っているうちに寄り道して、えらいところに来てしまった。迷わないうちに元の道に戻ろう。

 中学生のころ同級生たちと自転車八木山峠を上った記憶がある。市内からどれくらい時間がかかったのか、お昼はとっくに過ぎていた。腹が減っていたが弁当の用意はなかった。水筒もなくて畑の横から湧き出ている水を手ですくって飲んでいた。すると、野良着に草臥れた麦わら帽をかぶった三〇歳前後の若い農夫が竹笊に入ったイチゴを湧き水で濯ぎにやって来た。場所を開けるとそこにしゃがみ込んでイチゴを一つずつ水で洗って砂を落として笊に入れていた。小さなイチゴドングリのような円錐形で、赤く熟れているがヘタに近いところがまだ青いのもあった。天気がよくて空が青かったのを思い出す。小柄な若い農夫は洗い終わると立ち上がる前に、囲んで見ている中学生たちに軽く一掴みずつイチゴを渡してくれた。無言で笑顔もなかったが口のまわりのまばらに生えた髭が優しかった。二つか三つ、小さなイチゴは歯ごたえがあって甘くて少し酸味があって、なんとも幸せな味がした。そのころの八木山の畑は一つ一つが小さくて形もまばらで斜面のあちこちにあった。どんな野菜が育てられていたかは思い出せないが、ビニールハウスはまだなかった。

 そういえば中学校のころ八木山には遠足で何度か登った記憶がある。砂利道は凸凹して車が通ると砂ぼこりで目は開けていれなかった。川も好きなように曲がりくねって川原には葦が広がって川面には至る所に大きな岩が出ていた。田んぼは直線でなく、いろんな形をしていた。秋になると田や畑の畔に彼岸花が赤く咲いて、山裾のハゼ古木に干からびたブドウの房のような実が下がっていた。農家屋根は藁ぶきで、柿の木には実がたくさんで、中庭にはニワトリが数羽、歩きながら地面と突っついて、放し飼いの犬は日なたにまどろんで、おばあさんが孫の子守をしている。

 それから半世紀すぎて、いつの間にか今は村じゅうの田畑が真っ直ぐに張られた金網でおおわれている。畑を耕す耕運機の運転席はガラス張りで空調機がついている。暖房された大きなビニールハウスで作る巨大イチゴは小さな湯呑ほど大きくて赤くてムクムクしてビックリするほど甘い。農家の庭にニワトリはいないが養鶏場工場のように卵を生産している。子守するおばあさんの姿もない。設備のいい近くの老人施設で残りの時間をすごしている。家族単位専業農家八木山から年々少なくなっていくようだ。麻生さん、日本農業をどうするのですかね。

平成三〇年二月一五日

ドッグサークルドッグサークル 2018/02/19 16:39 毎日寒いですね 昔の八木山 なつかしく 思い出しました

千葉の熊さん千葉の熊さん 2018/02/19 17:47 約55年前の事が走馬灯のように走り過ぎ去りましたね!高校の柔道部の合宿最終日は八木山展望台茶屋まで駆け上り、学校に帰ると腹一杯すき焼きをご馳走になった思い出があります。

glucklichglucklich 2018/03/04 21:54 幼なじみは共通の思い出があっておもしろいですね。
あのころとは別の世界ですね。子供たちに話しても小説の世界でしょうね。
すき焼ですか、あのころは特別な御馳走でしたね。
バナナも病気したときしか食べてなかった。

2018-02-10   鵜戸神宮での居合の奉納

鵜戸神宮の例祭に黒田藩柳生新影流の演武奉納があった。

二月一日は鵜戸神宮で最も重要な祭典。皇室弥栄国民の安泰を祈るお祭りです。

f:id:glucklich:20180210201045g:image f:id:glucklich:20180210201042g:image

海彦、山彦、伝説の地に建てられた神社。 

山幸彦が兄である海幸彦釣り針を探しに龍宮へ、そこで海神のむすめ豊玉姫命と結ばれたお話。

f:id:glucklich:20180210201038g:image f:id:glucklich:20180210201035g:image

大昔からある洞窟は、主祭神の産殿の址と伝えられる霊地。宗家による四方払い神事のあと演武がはじまる。

神秘洞窟の中、朱塗りのおごそかな神殿御神体が祀られている。演武はご神体奉納される。

f:id:glucklich:20180210201032g:image f:id:glucklich:20180210201029g:image

神宮のご創建は、第十代崇神天皇の御代と伝えられ、その後第五十代桓武天皇延暦元年には、

天台宗の僧、光喜坊快久が、勅命によって当山初代別当となった。

f:id:glucklich:20180210201022g:image f:id:glucklich:20180210201016g:image

「剣術三大源流」の一つ影流の祖、愛洲移香斎久忠(1452〜1538)が鵜戸神宮洞窟

蜘蛛の変じた老翁から秘太刀の極意を授かったといわれる。

f:id:glucklich:20180210201012g:image f:id:glucklich:20180210203410j:image

愛洲の里がある南伊勢五ヶ所浦の歴史資料館に新影流十三代蒲池宗家と後を受けた十四代長岡宗家の若かりし写真が展示してある。

鵜戸神宮神殿裏の洞窟で撮られたこの写真は先代から引き継いだ影流本家の証、鵜戸神宮での奉納はわが道場の誇りでもある。

f:id:glucklich:20180210201006g:image f:id:glucklich:20180210201310g:image

黒田藩伝でもある柳生新影流の道場、柳心会の居合演武奉納され、参列者が席について厳かな例祭は始まった。

f:id:glucklich:20180210201304g:image f:id:glucklich:20180210201301g:image

神代から伝わってきた霊地での神事は途切れることもなく、今日まで日本人生活の中でいとなまれている。

f:id:glucklich:20180210201257g:image f:id:glucklich:20180210201251g:image

この地は平安時代以来、海中からそびえる奇岩怪礁が相まって特徴ある修験道の霊地としても栄えた。

f:id:glucklich:20180210201248g:image f:id:glucklich:20180210201242g:image

剣術の源流は修験道と関連があるかも知れない。霊場は初め大和国葛城山を中心としたそうだ。

出羽羽黒山月山湯殿山大和の金峯山、大峰、紀伊熊野山、伊予石槌山摂津箕面山

豊後彦山加賀白山信濃戸隠山などが有名である。

f:id:glucklich:20180210201239g:image f:id:glucklich:20180210201236g:image

例祭は終盤になって、参列者の代表はそれぞれ玉ぐしをささげ参拝をおこなった。

f:id:glucklich:20180210201232g:image

今年もよろしくお願いします。

2018-02-06    雪に閉ざされて・・・

雪が今日も降っている。

雪がこんなに降りつづいた記憶がない。

f:id:glucklich:20180206203524g:image f:id:glucklich:20180206203521g:image

家のまわりは雪が膝の下ほども積って車が出せない。国道に出ると雪はなかった。

f:id:glucklich:20180206203517g:image f:id:glucklich:20180206203515g:image

20分ほど歩いて農楽園のファーマーズストアまで行くことにした。大型の除雪車があった。

f:id:glucklich:20180206203459g:image f:id:glucklich:20180206203506g:image

小型の除雪車が通っていく。しばらくしてもう少し大きいのが塩化カリウムを撒きながら通っていった。

f:id:glucklich:20180206203456g:image f:id:glucklich:20180206203452g:image

楽園は雪で休園だった。田んぼも畑も雪で覆われていた。麻生太郎ポスターが頼もしく見えた。

ハナママハナママ 2018/02/09 09:30 今日はピーカンの大阪です。
でも、寒いのは寒い。
私の実家はもう無いけれど大雪に成ってる事でしょう。山陰は浜坂(新温泉町)ですから….

glucklichglucklich 2018/02/10 23:48 そうですね、こちらも今日はいい天気です。
しかし、日曜日からまた寒波がくるそうですね。
こんな季節は温泉、いいでしょうね。

2018-02-05    乾いた雪が降る

雪に閉ざされている。

今朝の雪は凄まじく吹き荒れ、一時は景色が見えないほどだった。

サラサラした乾いた雪で溶けそうにない。

f:id:glucklich:20180205192722g:image f:id:glucklich:20180205192719g:image

時間にみるみる積った。外に停めていた妻の車は雪ダルマだった。

f:id:glucklich:20180205192716g:image

今月の一日に宮崎鵜戸神宮居合奉納があった。

そのときの写真は、道場運営部に提出しているので戻ったら掲載する。

奉納したあくる日の二日はエッセイ教室だった。原稿は1枚だけになった。


思い出せない                   中村克博


 ほんの先ほどトイレに起きるときに壁の時計をのぞいたのだが、それが何時だったか思い出せない。フットライトの薄明りでボーっと見たのだが何時だったか記憶がない。それで枕元の懐中電灯を取り出して壁の時計を一瞬照らしたのだが、五時少し前だった。起きるには早い。もう少し眠ることにした。ところがたった今懐中電灯でパット照らした記憶が、つぶった目の奥に時計映像が数字も針もはっきり見えるのが不思議だった。

なぜだろうと思った。たぶん初めに見たのは数字の記憶なのだろう。次に見たのは映像記憶なのだろう。どう違うのだろう・・・。映像原始的機能だろう。犬や猫や鳥と同じだ。数字は新しい機能なんだ。人間発明したのだ・・・。

いや、そうだろうか、犬も多いとか少ないは分かるようだし・・・。人間も多いとか少ないまでにしとけばよかった。三つ以上数が分かるようになって争いが増えたのかもしれない。

人類は数字を考え出して、それから時間というものを思いついたのだろうか。これから、とか、これまで。のぞみ、とか、おもいで。未来と過去、希望と後悔。予算と結果、評価と達成・・・。とうとう目がさめた。懐中電灯をつけた。五時半だった。

ひょっとして、たいへんな物理先生夜明け前トイレに起きて寝ぼけた頭で時間空間のことを思いついたのかも知れない。人類にとって迷惑計り知れない夜明けのトイレだ。

今日エッセイ教室があるが提出する原稿は書けていない。そうだこの様子を、目がさめたベットでもうろうとする様子を書いてみようと思った。

昨日の夜はくたくたに疲れていた。妻から追い立てられるように寝室に入ったのは一〇時前だった。明日のエッセイには提出原稿なしで参加しようと決めていた。昨日は宮崎から高速道路を飛ばして家に帰り着いたのは日が落ちて暗くなるころだった。この日の朝に鵜戸神宮居合奉納に参加したのだが、前日は民宿に泊まった。九時すぎの遅い夕食に宗家の前に座って、食後の焼酎を飲み過ぎた。僕は日ごろ酒を飲まないのに宗家が大きなコップに氷を入れて鵜戸神宮差し入れの一升瓶からドクドクと注いだ。ところが飲んだ焼酎がうまくて二杯も飲んだ。頭がもうろうとして気分がよくなった。ろれつが回らない経験をはじめてした。おもしろいと思った。何をしゃべったのか覚えていない。右となりに清水師範がいた。ちらりと見ると、むっつり口をむすんでいた。左にいる人に、僕は何か良くないことをしゃべってはいないかと、こっそり聞いた。

「だいじょうぶです。おもしろい話です。もっと話してください」

と言って、若者らしい屈託のない笑顔でそっと言った。

安心して調子乗って、どんどんしゃべったようだ。

何を言ったか思い出せない。

平成三十年二月二日

2018-01-29 新しい車に慣れてきた。

車の慣らし運転で、毎日のように遠出している。

今月の19日に納車されてから街中や山道、雨の日、雪の日、いろいろ走っている。

f:id:glucklich:20180129205644g:image f:id:glucklich:20180129205640g:image

先週の土曜日は高速道路杷木の友人宅を訪ねた。

f:id:glucklich:20180129205632g:image f:id:glucklich:20180129210215g:image

月曜日の今日は、佐賀鹿島市太良町に出かけた。引き潮で干潟が遠くまで広がっていた。林立する竹は海苔牡蠣養殖のようだ。

f:id:glucklich:20180129205627g:image f:id:glucklich:20180129205622g:image

有明海牡蠣が食べごろの季節だった。妻の実家に向かいお線香をあげてきた。土産にオハギのお重と高菜漬けをもらった。

2018-01-21  車祓いに行った。

車を買った。筥崎宮でお祓いをしてもらった。

これまで愛用していたトラックをスバルのWRX STI にかえた。

f:id:glucklich:20180121193804g:image f:id:glucklich:20180121193759g:image

本殿神事の後、車のドアやトランクを開け神主さんが御幣を振って祓い清めてくれる。

f:id:glucklich:20180121193756g:image

若い神主さんが「いい車ですね」といってくれた。若者にも人気がある車種かもしれない。

筥崎宮は参拝者が行列を作っていた。

f:id:glucklich:20180121193747g:image

筥崎宮から宗像大社に出かけた。こちらも参拝者が多かった。

f:id:glucklich:20180121193753g:image f:id:glucklich:20180121193751g:image

妻がじっと厄年年齢表を見ていた。僕ものぞくと昭和21年生まれは八方塞がりだった。

ユネスコ第41回世界遺産委員会2017年7月9日、「宗像・沖ノ島と関連遺産群」の世界遺産登録を決めた。

名称は「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群」、構成資産は8資産のすべてが認められた。そうだ。


先週の金曜日エッセイ教室だった。

       竹の貯金箱                  中村克博


 この二、三日は時間のあるときに竹の貯金箱を作っている。まずは、適当な材料を切ってこようと竹林に行った。今月の十日ごろから三日間かなりの雪が降った。雪といっても南国九州だから積雪が膝まで来ることはないが三、四年ぶりの大雪だった。そのとき竹は枝に雪をかぶった重みで曲がる。高さが十五mほどの孟宗竹が頭を地面につける程に曲がる。不思議にどの竹も場所ごとに同じ方向に真っ白になった頭を下げるのはおもしろい。

 家の竹林は手入れをしないので竹の大きさが不揃いだ。太さが二〇cmもある真っ直ぐな竹の傍に、七夕に五色の短冊を飾ったら良さそうな竹があったりする。だいたい一五cmくらいのが多いが、中には蔦が絡んで斜めに傾いているのもある。赤い実をつけた千両か万両が目に付く、枯れた古い竹が倒れて重なって進路を妨げる。大きな孟宗が雪で根っこから倒れたままのがあった。

 これを使おうと思った。根っこの近くは直径一五cmほどだが貯金箱には大きすぎる。だんだんに細くなる直径一〇cmほどから上を切った。節の間隔は三〇cmほど、枝が二本対になって節ごとに交互に生えている。この枝を三cmほど残して下から上へ切っていった。直径五cmくらいのところで竹の先を切り落とした。

これは斜面に生えていた竹で、先の方はシャクナゲの木に倒れかかっていた。雪におおわれた大きな竹に押さえつけられていたシャクナゲは、枝こそ折れてはいなかったがひしゃげたように這いつくばっていた。

近くを見るとシャクナゲが数本目につくがどれも枯れた藪や蔓草に埋もれたようになっても逞しく大な葉を付けている。手入れをしたことが無い。昔この近くに一〇〇本ほどのシャクナゲがあったのだが今は何本残っているのだろう。幸運でたくましいシャクナゲだけが人の背丈より大きくなって、毎年、春が過ぎるころ薄いピンクの大きな花を咲かせる。

枝を落とした竹は長さが一〇mほど、家の近くまで引きずってきた。貯金箱は竹の節から節で一個となる。つまり使えるのは全長の半分になる。まだ、まだ数が足りないので再び竹林に登っていった。適当なのはないか見ていると竹林から離れ根を伸ばして生えているのが数本ある。杉林の中にも大きな孟宗がチラホラ見える。まずそれらの竹を切ってまわったので余分に時間がかかってしまった。

おかげで目に入る風景が良くなった。そうなると今まで気にならなかった邪魔な草木が目立つようになる。道の上に重なる雑木の枝を切った。目障りな笹薮を切り開いた。若い山桜にからまる雑木を切ろうと、ついには長いアルミの梯子を持ち出してきた。山桜がスッキリなるころには夕日が山に隠れて辺りが暗くなりはじめた。

あわてて、先ほど切り倒した孟宗竹から貯金箱材料になりそうなのを二本、枝を落として家の近くに引っ張ってきた。夕日はすっかり落ちて辺りは暗くなっていた。貯金箱作りは明日になる。妻から頼まれていたのは一〇個から二〇個ほど、多ければもっと良いそうなので取りあえずこれだけの材料があればいいだろうと思った。

次の日は寒気が緩んで朝から小雨が降っていた。貯金箱材料になる竹を一個ずつ大まかに切り分けて水で洗う。水が切れたらガスコンロの火であぶって竹の油を浮き出させる。熱い油分を布で拭くと竹は光沢のある青い緑に変身する。子供のころ父親が長い竹を焚火の炎にくぐらせていたのを爆発しないかとハラハラしながら見ていたのを思い出す。たぶん母のために物干し竿を作っていたのだろうと思う。

ひとつずつ深い緑になった孟宗竹を鋸で整える。この場合、鋸は目の細い竹切り専用を使う。鋸は力を抜いて軽く引く、長く引く、竹を手前に回しながら切っていく。余分な竹を切り落とすとき表面の皮が剥がれないように注意して、そっと指をそえてやる。最後に硬貨を入れる隙間を空ける。鋸で二筋を引き、先の鋭い切りだし小刀で細長い穴をあけ、五〇円玉で具合を確認すると完成だ。

子供のころを思い出した。お小遣いが足りないとき竹の貯金箱から十円玉や五円玉を取り出していた。竹の隙間に物差しのような薄い板を差し込んで竹の貯金箱をひっくり返す。そして、そっと、薄い板を引き出すと十円玉が顔を出す。ときどき五〇円玉が乗っているとうれしかった。

いよいよ妻に出来具合をみてもらう。

「うわぁ、きれいね、みんなが喜ぶよ。ありがとう

取りあえず、竹の貯金箱が六個だけできあがった。明日の金曜日生け花教室に持っていって要望のあった生徒さんにプレゼントするそうだ。土曜日までにあと一五個ほど作ろうと思う。そうだ。硬貨を入れる隙間はもっと大きくしよう。子供プラスチックの定規を入れて竹の貯金箱をひっくり返すと五百円硬貨を取り出せるくらいがいい。

平成三十年一月十八日

千葉の熊さん千葉の熊さん 2018/01/26 13:51 11月SUBARUのデーラーを訪れ気にいつた車が納車されたようですね!お互いに年なので
余りスピードを出さないように!上川君と連絡がとれ今年の4月の貴兄の山荘での会食は15日(日)11:00〜開催されるようにきまりました。11:00頃市立病院前でピックアップお願いします。宿舎は飯塚ニューガイヤ(吉原町)です。はがきで連絡します。

glucklichglucklich 2018/01/29 21:29 了解しました。
車は当然、安全運転です。それでも注意しています。
早く慣れるように毎日、慣らし運転をしています。

2018-01-13 雪は降りやんだ。

雪に閉ざされて四日目の朝。

どこにも行けない、誰も来れない。

ところが、朝起きると新聞受けには本日の朝刊が入れてある。

ゴミの収集には軽の四駆が雪をかき分けるように登って来る。ありがたいことだ。

f:id:glucklich:20180113104520g:image f:id:glucklich:20180113104514g:image

屋根には大きなツララが下がって、池の氷は歩いて渡れるほどだ。

f:id:glucklich:20180113104511g:image f:id:glucklich:20180113104507g:image

葉の落ちた柿の木は、雪が形をきわだてる。竹林は雪になびいておじぎする。

2018-01-12   雪、雪、雪

今日も朝から雪が降っていた。

夕方になると雲が去って青い空が出てきた。

明日は寒気が緩むらしい、それではと雪かきをした。

f:id:glucklich:20180112201740g:image

午前中は遠くの景色がかすむほど降っていた。降雪が三日も続くと溶けない雪が重なって30僂舛い。

f:id:glucklich:20180112201737g:image f:id:glucklich:20180112201734g:image

雪を取り除くと道路がみるみる凍結していった。雪のないところを歩くと滑って転びそうだ。

気温はマイナス、雪のないアスファルトは凍っているので注意が必要だ。

国道201の八木山峠除雪が出来ていて普通走行可能だが、我が家の道は雪かき二日目、もう結構だ。

2018-01-11   雪、雪、

雪がつもって、どこにも出られない。

昨日からの雪に、さらにひとばん、少しづつ重なって一面の雪だった。

f:id:glucklich:20180111155036g:image f:id:glucklich:20180111155032g:image

畑に行って大根を一本抜いてきた。 小ぶりなのを、すりおろして醤油をかけて食べるのがなんともうまい。

f:id:glucklich:20180111155028g:image f:id:glucklich:20180111155022g:image

家の周囲の写真を撮ってまわった。池は凍りついていた。ナンテンの赤い実が目に付いた。

f:id:glucklich:20180111155017g:image f:id:glucklich:20180111155012g:image

ほどよく雪におおわれると景色がいつもと変わって見える。

f:id:glucklich:20180111155009g:image f:id:glucklich:20180111155004g:image

ダイダイの黄色い実が雪にあざやかだった。 付近の高い木の枝を選定したので日当たりが良くなっている。

f:id:glucklich:20180111154959g:image f:id:glucklich:20180111154955g:image

ツバキの赤い花は雪と艶やかに良くにあう。濃い緑の葉が押さえになっているようだ。

f:id:glucklich:20180111155140g:image f:id:glucklich:20180111155137g:image

いつのまにか明るくなって、青い空が広がっていた。


去年の12月、孫娘、四歳のお誕生日お祝いの様子

f:id:glucklich:20180111165057g:image f:id:glucklich:20180111165048g:image

テーブルの中ほど、エビフライは孫の好物、僕が殻をとって油で揚げた。

f:id:glucklich:20180111165043g:image f:id:glucklich:20180111165038g:image

シャンペンを一緒に飲めるには、あと15年ほど先になる。

f:id:glucklich:20180111165034g:image f:id:glucklich:20180111165031g:image

僕の妻が作ったケーキのロウソクに灯りがついて、おめでとう。 

孫のビオロンおじいちゃんは聴き惚れて涙かくす・・・  …居眠りか・・・

2018-01-10   大雪だった。

この冬いちばん大雪だった。

昨夜から布団の中で雪の音を聞いていたが、朝になってびっくりした。

f:id:glucklich:20180110211255g:image f:id:glucklich:20180110211249g:image

まだ暗いうちに起きて、カメラ三脚を付けて一秒ほどのスローシャッターで撮った。

f:id:glucklich:20180110211247g:image f:id:glucklich:20180110211241g:image

家の裏側からも撮った。

f:id:glucklich:20180110211238g:image f:id:glucklich:20180110211232g:image

少し外が明るくなってきた。息が湯気のように広がって指がかじかんできた。

f:id:glucklich:20180110211228g:image f:id:glucklich:20180110211218g:image

妻が花市場に出かけるので雪かきを一時間半ほどした。みるみる元気が出てきた。雪は男を奮い立たせるようだ。

f:id:glucklich:20180110211212g:image f:id:glucklich:20180110211208g:image

こんな雪は運転できないそうで、僕は花市場から薬院教室まで送っていくことになった。

雪景色が美しく楽しかった。峠は渋滞で二時間以上かかった。


先週は今年初めてのエッセイ教室だった。原稿掲載するのを忘れていた。

    憲法改正がいわれているが・・・             中村克博

今年はさまざまな場所で改憲論議が行われるようだ。安倍首相は、昨年五月の憲法記念日に、「二〇二〇年を新しい憲法施行される年にしたい」と表明した。そこで自民党は昨年半ばから活発に議論を始め、年末に、(一)自衛隊、(二)緊急事態、(三)参院の合区解消、(四)教育充実の四項目からなる論点をまとめたそうだ。

 憲法改正の発議には衆参各院で三分の二の賛成が必要である。憲法改正国民投票は発議から六〇日以後一八〇日以内に行うこととなっているので、二〇二〇年の施行を目指すのであれば、遅くとも二〇一九年中の発議が必要となる。それに、二〇一九年四月末には天皇退位がある。憲法改正でどこをどう変えたいのか、何のために変えるのか、変えればどうなるのか、自分でも考える必要がありそうだ。

 最近になってアメリカから日本憲法改正を望むような声が聞こえてくる。

アメリカ民主党バイデン副大統領は二〇一六年八月一五日、全国ネットテレビで「我々が(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」と発言した。

 

日本の、この憲法は、外国勝利者によって押しつけられたものである」

──アルフレッド・C・オプラー(GHQ民政局・法制司法課長)

戦争放棄を定めた日本国憲法第九条は、どこからみても米国製だ。 今後どうすべきかは、日本国民国会判断すべき問題だ」

──マイク・マンスフィールド(駐日アメリカ大使)

「私の伯父にあたるマッカーサー元帥ですが、彼の日本占領政策根本から間違っておりました。どうか一日もはやくGHQの押しつけ憲法を捨てて、日本の歴史伝統に合った憲法を制定して昔の姿に回復してください」

──ダグラス・マッカーサー二世(駐日アメリカ大使)

むかし、アメリカが作ったらしい日本憲法は、当時のアメリカの目的が裏目に出たようで、今では日本改憲アメリカ国益になるようだ。

 

 そういえば、我国には推古天皇一二年(ユリウス暦六〇四年)に聖徳太子厩戸皇子)が作ったとされる、十七条からなる法文があった。まずそれを見てみようと思った。原文はもちろん漢文で書いてあるので、読めない。それで、読み下しに目を通そうとしたが、やはり意味がよく分からない。僕には現代言葉にしたものでしか解釈できないが、言葉の情感はせめて読み下しで理解しようと思う。

一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

現代語訳 一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。

二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

現代語訳 二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

現代語訳 三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。

現代語訳 四にいう。政府高官一般官吏たちは、礼の精神根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。

現代語訳 五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、一日に一〇〇〇件もある。一日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。

現代語訳 六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず。

現代語訳 七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず。

現代語訳 八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。

九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。

現代語訳 九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

現代語訳 十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。

現代語訳 十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。

十二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。

現代語訳 十二にいう。国司国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に二人の君主はなく、人民にとって二人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的徴税といっしょに、人民から私的徴税をしてよいものか。

十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ。

現代語訳 十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。

現代語訳 十四にいう。官吏たちは、嫉妬気持ちをもってはならない。自分がまず相手嫉妬すれば、相手もまた自分嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは五百年たっても賢者にあうことはできず、千年の間に一人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。

十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。

現代語訳 十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん。

現代語訳 十六にいう。人民使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の十月〜一二月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

現代語訳 十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。

[出典]金治勇『聖徳太子こころ』、大蔵出版、一九八六年

「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ」ではじまる「五箇条のご誓文」は十七条憲法伝承していると言われる。慶応四年三月十四日(一八六八年四月六日)に明治天皇天地神明誓約する形式で、公卿諸侯などに示した明治政府の基本方針で神事として行われたようだ。

平成三〇年一月四日

2018-01-02 香椎宮で居合の奉納

新年恒例になっている香椎宮居合奉納にいった。

いい天気で暖かい正月二日だった。

f:id:glucklich:20180102202156g:image

宗家の四方払いの神事から奉納がはじまる。

f:id:glucklich:20180102202150g:image f:id:glucklich:20180102202148g:image

高段者による模範演武に、観覧者から驚きと感嘆のどよめきがあがっていた。

f:id:glucklich:20180102202143g:image f:id:glucklich:20180102202138g:image

巻き藁の斬試が披露された。スエーデンドイツからの留学生剣士も貴重な体験をしている。

f:id:glucklich:20180102202131g:image f:id:glucklich:20180102202126g:image

宗家師範たちの極められた演武に観覧者は息を止めて見入っていた。間違えば脳天が割られて首が飛ぶ・・・

f:id:glucklich:20180102202119g:image f:id:glucklich:20180102202113g:image

見る人の目が演武者の目と一つになっているようだった。

f:id:glucklich:20180102202110g:image f:id:glucklich:20180102202350g:image

若者の髭は今日演武奉納の為だろう。この人、日ごろは髭がない。普段も、髭があって良さそうだが…

f:id:glucklich:20180102202345g:image

奉納の締めは宗家杖術だった。マイク師範がお相手をする。

f:id:glucklich:20180102202342g:image f:id:glucklich:20180102202334g:image

無事に終わって、みんなで記念写真

f:id:glucklich:20180102202327g:image f:id:glucklich:20180102202323g:image

みんな、おいそぎください・・・                 「お待たせしました」。

f:id:glucklich:20180102202319g:image

お疲れ様でした。今年もよろしくお願いします。

撮影者は写っていない。 観覧者に三回お願いしたシャッターは撮れてなかった。

菰田の住人菰田の住人 2018/01/03 10:38 明けましておめでとうございます。
迫力ある居合いの写真に息を止めて見入りました。皆様の修練の賜ですね。
さぞや、現場での迫力は素晴らしい世界が在った事でしょう。
新年の始まりにこの様な演武を見る事は実にイイものです。
見物の方々にも演武者の気合が伝わって大感激された事でしょう。
2018年も心身ともに凛として居合道の皆様の様に時を過ごしたいものです。
本年も宜しくお願い致します。

glucklichglucklich 2018/01/10 21:40 あけましておめでとうございます。
写真をほめていただいたようで、ありがとうございます。
あぁ、もちろん居合の奉納演武は迫力のあるいいものでしたよ。
来月の久保白同期会が楽しみです。今年もよろしくお願いします。

2018-01-01 平成三十年の元旦

平成三十年一月一日

おだやかな、いい天気だった。

f:id:glucklich:20180101171325g:image f:id:glucklich:20180101171322g:image

床に正月の花がいけられて、僕はしめ縄飾りを作った。

いけばなの器は「車軸の水差」を使っていた。椿に混ざって数本のわり竹が差されていた。

教室で生徒さんが使っていたのが参考になったそうだ。初めてのこころみらしい。

ハナママハナママ 2018/01/02 13:16 新年明けましておめでとうございます。
犬も居ず、娘も息子も居ず、夫と二人の年末年始。
多分、一歩出れば、成田山の初詣で賑わっていると思いますが、籠っています。

glucklichglucklich 2018/01/03 08:54 明けましておめでとうございます。
そうですか、それもいいですね。だれも、いずれそうなりますね。
昔は、おじちゃんもおばあちゃんも子供たちや孫たちが…
こんな風景がなつかしい、ですね。

2017-12-24 自然の造作、縄文土器

庭の木の剪定をしている。

日当たりが良くなって、スッキリして来た。

f:id:glucklich:20171224152423g:image f:id:glucklich:20171224152420g:image

今年は作業の途中で、枝をつめる要領が少し分かってきた。それまでは切りすぎて、ただの棒にしていた。

f:id:glucklich:20171224152416g:image f:id:glucklich:20171224152412g:image

枝ぶりを考えながら伸びた枝を切ると、しだいに作業が楽しくなった。

f:id:glucklich:20171224152407g:image f:id:glucklich:20171224152403g:image

花が咲いている木の枝を切るのは忍びないが仕方ない。ばっさり切るとかえって生き生きして来た。

f:id:glucklich:20171224152400g:image f:id:glucklich:20171224152352g:image

松の木はもう少し考えてから剪定しようと思う。

庭の中に、おもしろい形をした切株が目に付いた。一抱えもある。泥を落として持ち出した。

f:id:glucklich:20171224152349g:image f:id:glucklich:20171224152346g:image f:id:glucklich:20171224170420g:image

高圧洗浄機でよく洗って乾かした。数日かかって時間のあるときにワイヤーブラシで木目を出した。

勢いのある形をしている。見る角度で表情が大きく変わる。縄文土器のようだ。

寅次郎寅次郎 2017/12/31 22:59 2017、福岡行けず、もう終わりですね。
来年は会いましょうよ。

glucklichglucklich 2018/01/01 22:37 あけましておめでとうございます。
ほんとに、とうとう来れなかったですね。
僕は車を買いかえたですよ。
ヨットもいいけど雪におおわれた山道をを走って山景色を見るのもいいよ。
安全運転でいろいろ案内しますよ。

2017-12-18   先週は忙しい一週間だった

先週の金曜日エッセイ教室に提出した原稿


庭木の剪定で腰が痛くなったとき           中村克博


 夜床に入って寝付けないほど足腰がいたい。とくに左の足が腰から下が痺れるように痛む。昨日今日と庭の木に登って伸びすぎた枝の剪定をしたのが原因だ。このままでは眠れないので、いつものように自分で編みだした施術を三十分ほど施すことになる。これがよく効く、途中でいつの間にか眠ってしまい朝まで意識がない。気が付いたら朝になっている。

枝の剪定は梯子をかけて枝切り鋸を使って用心して行うが運動量は知れている。それよりも切り落とした枝を集めて運ぶのが一苦労だ。腰をかがめて木々の間に落ちた大小の枝を抱えて落ち葉の斜面で足を滑らせながら運び出す。門の外にうず高く重ねてトラックに乗せて焼却場所に運ぶ。

枝の剪定は先月から始めている。天気がいい日に思いたつと作業着作業帽、皮手袋、腰には鋸と剪定ハサミをぶら下げて出かける。数年前に作業を始めたころは要領をえずに切り過ぎて見上げれば電信柱のようにしていた。年々上達したようで今年は剪定が終わったモミの木やツバキの木は、すこぶる形が良くなった。夕日が落ちて薄暗くなった庭で形を整えた木々を見てまわる充実感が何ともいい。体を動かした後の疲れは気分がいい。会議の後の疲れとはまるで違う。健康に生きるためには毎日労働をすることが必要な条件なのかもしれたいと思うほどだ。

ところが、日頃しない運動をやり過ぎると、風呂の湯に浸かったときの有難さと夕食のおいしさの後はもう体が動かなくなる。瞼も重くなって椅子に座ってしばらくすると腰も背中も固まったように、しだいに痛みだす。八時をすぎたばかりだが「俺、もうねる。おやすみ」といって寝室のドアを開ける。重たい体を横たえて、ふんわり布団を重ねると幸せに包まれたようになる。

 しかし、眠れない。しだいに足腰が重たくなって痛みが増してくる。とくに左の足が腰から下が痺れるように痛む。そこで取って置きの技の出番だ。独自に工夫した得意のヨガ施術をはじめる。まず、足の指でグウ、チョキ、パーだ。両足を一緒に、始めはグウ、次はチョキ、そしてパー。グウは五本の指を一緒に握り込むように強く内に曲げる。それを両足一緒におこなう。息を吸い、吐きながらゆっくり握り込むように折り曲げる。十秒以上かけてゆっくり息を吐く、吐き終わってもしばらく息を止めて指を強く曲げている。これをしばらく繰り返す。鍛錬と違うので疲れるまではやらない。日によって違うが、四回か五回だろう。三回のときもある。

 次は爪先を伸ばす。体操選手のように足の指が脛と真っ直ぐなるように力いっぱい遠くに伸ばす。息を吸って、吐きながらゆっくり十秒以上かけて片足を伸ばすが、もう片方の足は爪先を力いっぱい自分の方に引きつける。つまり片方の足の動きと同調させて足首を手前に折り曲げ、左右の足は反対の動きをすることになる。この二つの動作で足先の血流がすこぶる良くなる。血の流れは足先だけで起きるのではないから心臓からの血流が活発になっている。

 次は両方の膝を曲げて両手で胸に引きつける。何度も繰り返して、少しずつ強く引き付ける。息を吸い、吐きながら両足の股を大きく開き肘が床につくまで引きつける。両足が大きく開かないとうまくできない。この動作で太腿の付け根の股関節が緩み、可動範囲が前方に広がる。それにこの動きは背骨の二十五個の脊椎のうち腰椎の五個が伸びて緩んでいく様子を意識する。意識する…、具体的には五個の腰骨が動いて間隔が開く様子を想像する。そこの血液リンパ液か、それらが流れ始める画像を思いうかべる。そこの部位に意識が集中するようになれば効果は倍増するようだ。このときも呼吸の仕方が大切だ。大きく息を吸って、ゆっくり長く、できるだけ長く無理しないで吐き切る。そして止める。息を止めるのを「クンバク」と言うらしい。

 これまでの動作で、いよいよ僕が開発した取って置きのヨガ施術を始める準備が完了する。この秘伝、いや隠している訳ではないので奥伝くらいだが、とにかく、これをやると体が一気に活性化する。寝ようと思っていたのに、いよいよ目が冴えて来る。

 初伝、中伝を飛ばして、いきなり奥伝のヨガ活性化施術だから、これを試すなら自己責任でやってもらいたい。少々危険なのだ。まず、両手の甲を目の前にして、親指と親指、人差し指と人差し指、それぞれの指先を突き合わせ、菱形をつくる。その菱形をお尻の下に持っていく。両手の親指と人差し指は仙骨の下におさまる。

 次に膝を曲げて足を浮かせる。そのままで両方の膝小僧を合わせて左右にゆっくり小さく振る。次に両膝をゆっくり回す。布団の中なので少しやりにくいが、すぐに要領がわかって慣れてくると動きをだんだん大きくする。このときも呼吸法が大切だ。ゆっくり吸い、ゆっくり長く吐くがクンバクは必要ない。この動作で仙骨まわりがほぐれてくる。しばらくやるが疲れるまでしない。

 次は両足を床につけ両手を重ねて仙骨の下に置く。そして同じように合わせた膝をゆっくり回転させる。重ねた手が痛くなる前に上下の両手を入れ代える。この動作で仙骨全体がほぐされる。両手のほぐしにも効果がある。

恥ずかしながら、むかし、骨盤は一枚の板のような腰の骨かと以前は思っていた。ところがヨガを始めて骨格標本を見ると籠のようになっていることが六十歳にもなって初めてわかった。その中に胃から下の臓器が納められている。籠はヘソの方は開いているが背後は骨盤保護されるようになっている。骨盤は先ほどの仙骨を真ん中にして左右の腸骨がつながっている。その連結する丁番を仙腸関節というそうだ。

 それで、その仙腸関節をほぐす動作にうつる。まず、両足を肩幅で伸ばして息を吸う。ゆっくり吐きながら右足の踵を遠くに伸ばす。次に左の足を同じようにする。背骨が曲がらないように真っ直ぐに、骨盤だけがねじられることになる。何度かやった後、さらに動きを大きくする。深い呼吸でゆっくりおこなう。このときには伸ばした足の片方は体の頭の方に引くようにする。こうすると骨盤のねじれはさらに大きくなる。この動作で仙骨と腸骨の隙間が縦方向にずらされる。それと、腰椎の一番下の椎体と仙骨との接合部分が広がってほぐされる。上半身の体の重みが一日中この接合部分の一点に集中していることを思えば、どんなに大切なご苦労な場所かが分かる。

大昔まだ人類が四つ足で歩いていた百万年ももっと昔は体の重みは四本の足で支えていた。二足歩行になった人類は両手を使うのと引き換えに腰の痛みを引き受けることになったのだろう。二足歩行重力の関係はそれだけではない。お腹の中の臓器で下になるほど圧迫を受けることになった。一番下にあるのは直腸肛門がある。前立腺がある。どこにどんな臓器があるか僕は知らないが、年を取って腹の筋肉が緩むとだんだんに下がって来て下にあるほど圧迫されて鬱血するのだろう。

先ほど、仙腸関節の隙間が縦方向にずらす動作をしたが、次はこの関節を前後に動かす運動をする。ちょうどドアの丁番が動く作用を想像するといい。ただ仙腸関節の動きはほんのチョットだ。これまでの一連の動作で腰回りがほぐれて血の循環は良くなっている。布団の中で息を吸って、ゆっくり吐きながら骨盤の右、片方の腸骨だけを天井の方向に持ち上げる。ギリギリまで持ち上げたら息を止めてそのままの状態を保持する。あまり頑張らなくていい。今度は反対の腸骨の番だ。この動作を繰り返し、繰り返し何度もやる。徐々に動き大きくするが、できるだけゆっくり、疲れるまではやらない。

 今度は両方の膝を立てて大きく足開く。息を吸って、ゆっくり吐きながら右足を内側に倒す。左足は倒さずに布団を支えているので右足を倒す空間がある。始めは足の重みで倒れる範囲でいい。交互に何度もやるうちに段々に深く倒れてくる。何度かやったら、今度は息を吐き終えたらクンバクして倒れて足をさらに下げるように押しつける。ここまでで三十分ほど経過しているが、ヨガ流の施術はまだまだ続く。両足を曲げて足の腹どうしを合わせて、それを両手で握って息を吸う、ゆっくり吐きながら胸に引き寄せる。思いっきり引き寄せる。股関節が大きく開いて痛くなるまで何度も何度も引き寄せる。もうこの辺りで足腰の痛みはとれている。しかしヨガは反対の動きをしてバランスを取ることが肝要だ。それで下半身の動きはまだまだ続くことになる。四つ足で歩く動物の後ろ足の付け根に骨盤があるのは人間と同じだが、前足の付け根には肩甲骨がある。肩甲骨骨盤はもともと共通役割があった。それでヨガ施術のバランスのためには肩甲骨運動が必要だが、紙面がもうない。

平成二十九年十二月十四日

2017-12-02    わびすけ

*昨日は午前中、エッセイ教室にいった。

エッセイ教室忘年会だった。夕方からは居合稽古なのでノンアルコールビールを飲んだ。

近ごろのノンアルコールビールは本物よりうまい気がした。

エッセイ教室忘年会が終わって、道場に行こうとしたが気が変わって八木山に帰った。

f:id:glucklich:20171202162655g:image f:id:glucklich:20171202162829g:image


わびすけ                        中村克博


 露地の侘助が咲きはじめている。先週、お茶稽古のときに一枝とって使った。葉を三枚残して一輪を徳利に差してみたが寂しい。色づいたドウダンツツジを添えてみた。映えが強いので燃えるような葉が静まるまで間引いた。侘助の垂れすぎた頭を少し起こすと思ったよりいい感じになった。床の間に花をいけている間に、稽古相手の同年輩の従兄弟は炉に炭を熾していた。

母が茶室に来なくなって随分になる。それまでは杖を突いて自分の部屋から茶室までひと足ひと足歩いて、疲れると途中立ち止まって木の枝をながめたりしていたのだが、石段を上がるのが大変なようで茶庭飛び石を歩くのが見ていて危なっかしくなった。二時間ほどの稽古に姿勢を崩さず同席しているのは無理になった。

炉の茶釜がたぎる音が聞こえ、床の花と掛けられた文字にお辞儀をして、いつもなら母がいる畳に一礼して稽古を始めた。

稽古相手の従兄弟が薄茶を飲み干して、

お茶稽古を始めてもう十年やな」

「もうそげんになるかね 〜」

 従兄弟は客席に正坐して右手の指を折りまげながら、

「うん、来年は九年目バイ、足掛け十年たい」

「俺は、ようまぁ、怒られたな」

「はは、親子やけんな」

「あんたは、覚えが早い、俺はなかなか覚えきらん」

「いやぁ、それでも所作はきれいになったよ」

 茶碗の水を建水にかえして、

「いろいろ聞くと。小癪なこと言わんで言われたとおりにしなさい。ち言われたよ」

「はは、写真撮っても、よう怒られよったな」

 道具の拝見が終わって、今度は僕が客席についた。

 そういえば習い事の心構えとして、肝に銘じておこうと思ったことがある。先週の二十三日は勤労感謝の日で祭日だった。藤田師範が昼から八木山に出向いてくださり居合稽古をした。参加者は僕一人だったので個人指導をみっちり一時間半ほど受けることになった。福岡黒田藩柳生新影流柳心会の基本刀法から奥入りの技まで、丁寧にみてもらった後、休息を少しだけとって、古式の技を数本習った。

藤田さんの居合との出会いは、まだ若いころ、戦後間もない二十代のころ、先代の蒲池宗家から職場仕事の合間に習ったのが始めらしい。藤田さんの職場蒲池宗家と同じところだった。仕事が終わって、倉庫の片隅に木剣を持って出かけて習っていたが、そのうちに正式蒲池道場に入門した。それ以来、木剣と真剣を身近に置いての居合人生が始まったようだ。中年になって自分事業を起こしてからの二十数年は居合道場から遠ざかっていたが、一人でやる個人稽古毎日毎日、欠かさず続けていたようだ。

六十歳をすぎて再度、福岡柳生新影流の道場を訪れ蒲池宗家の跡を継いでいた十四代長岡宗家道場に入門したらしい。二十数年ぶりに道場での稽古を見て、昔と変わっている技があるのに驚いたらしい。自分の知らない技が幾つもあるのにも戸惑ったようだ。当初は教えられる技に納得できずに悩んだこともあったようだが気持ちを替え初心に帰って稽古に励んだようだ。そして今は十四代宗家のもとで免許皆伝を伝授されている。

八木山の藤田道場十四代宗家から特別に認可された柳生新影流の道場で、毎月第二と第四日曜日の午後二時から始まる。福岡の新影流道場で習う技を一時間半ほど稽古した後で休息をする。藤田さんは気兼ねそうにタバコの火をつける。僕は気がねしながら後ろの窓を開けるが煙は窓から出ずに道場拡散する。いろんな話を聞く、口伝とはこんな会話の中にもあるようだ。

一服が終わると古式の技の指導を受ける。今の流儀にはない昔の技や、今の型になった原型のような技を習うのが楽しみになっている。藤田さんの知っている古式の数はそんなに多くはないようだが、これまで僕が習って身に付いた古式の技はまだない。

代々受け継がれる居合の技が時代と共に変化していくのは仕方のないことだと思う。幕末山岡鉄舟若年寄として、攻めてくる官軍陣地に単身おもむき西郷隆盛駿府談判をおこない江戸城無血開城するが、明治五年には宮内侍従として明治天皇に終身御用掛として仕えた。剣豪としても偉傑といわれ剣禅一致を求めたが主要な文言を収録した「剣禅話」のなかに

「吾れ密かに思いらく、世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を斬らんが為の思いなるべし。余の剣法を修るや、然らず。余はこの法の呼吸に於いて神妙の理に悟入せんと欲するにあり」と・・・。

文言はまだまだ続くが、要するに剣は人を斬るための修業ではない、心身練磨の術を積むことだと言っている。戦乱の世、人を斬るための剣が徳川二百五十年のあいだに変わっていたのだろう。

また、徳川家康から秀忠、家光の三代の剣法師範役、柳生宗矩の「兵法家伝書」に、

  「兵法は、人をきることばかりおもふは、ひがごとなり、人をきるにはあらず、悪をころすなり。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごとなり。今、この三巻にしるすは、家を出でざる書なり。しかあれど、道は秘するにあらず、秘するは、しらせむが為なり。しらせざれば、書なきに同じ」

また、時代は上って室町初期、世阿弥の「風姿花伝」には、

  「秘する花を知ること秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知ること、肝要の花なり。云々・・・」と。

 

藤田師範は今年免許皆伝を授与されたが、先日、宗家に今年の年末の稽古をもって引退する旨を表明して許されたようだ。八木山での道場継続するらしい。先週の八木山稽古を終えて雑談をしているときに藤田さんが道場での心構えとして僕に言った。

「中村さん、居合稽古はね。あなどらず、おごらず……」

「僕は、そうしてますが、だいいち、いつまでも下手くそやし」と口をはさんだ。

「うん、そうたい。ばってん、まだある」

「なんですか、それは」

「考えず、たい」

平成二十九年十一月三十日

旅する古い人旅する古い人 2017/12/16 01:03 こんばんはー!
中村さんっっっっっっ!!!すごいです!!!
エッセイ教室で教えてもらったヨガ、指を菱形にして仙骨の下に置いて膝を回しつつ腰を回すのを、を仕事から帰ってやってみたんです。ほんのちょっとグルグル回しただけですっごい痛かった腰の痛みがスーとひいていったんですぅううう・:*+.\(( °ω° ))/.:+
もう、びっくりです。ヨガすごい!インドすごい!ガンジス川すごい!←は?
来年はぜひ八木山でヨガ教室お願いします。
では来年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

旅する古い人旅する古い人 2017/12/16 01:03 こんばんはー!
中村さんっっっっっっ!!!すごいです!!!
エッセイ教室で教えてもらったヨガ、指を菱形にして仙骨の下に置いて膝を回しつつ腰を回すのを、を仕事から帰ってやってみたんです。ほんのちょっとグルグル回しただけですっごい痛かった腰の痛みがスーとひいていったんですぅううう・:*+.\(( °ω° ))/.:+
もう、びっくりです。ヨガすごい!インドすごい!ガンジス川すごい!←は?
来年はぜひ八木山でヨガ教室お願いします。
では来年もよろしくお願いいたしますm(_ _)m

glucklichglucklich 2017/12/24 16:07 そうですか、効果がありましたか、それは嬉しいです。
体の動きを文字にするのは難しいのですね、それで、居合の文書には口伝とあるのでしょうか。
ヨガも実際に体を動かして体験しないと言葉では伝わりませんね。
ぜひ、八木山のヨガ教室に来てください。

2017-11-27   いけばな展に行った

今月の二十日(月曜日)草月流作品展を観に行った。

写真撮影をたのまれたが、観覧者が多くて三脚が使いづらかった。

f:id:glucklich:20171127215608g:image

花瓶にいけられていない大作も、やはり、「いけ花」というのだろうか、

f:id:glucklich:20171127222340g:image f:id:glucklich:20171127215600g:image

山の中から掘り出した木片と花の組み合わせ、これも「いけばな」なのか、いいもんだ。

f:id:glucklich:20171127215557g:image f:id:glucklich:20171127215553g:image f:id:glucklich:20171127215550g:image

どれも、うつくしい、気分がよくなる作品だ。

ハナママハナママ 2017/11/29 22:10 お流儀に寄って個性が在りますネ。何でも続けるって事は大変だけれど結果が出ると嬉しいです✨✨✨

glucklichglucklich 2017/12/02 22:05 草月流は、作者の思い思いの工夫でのびのびと創作するようですね。
日本古来のいけばなの伝統とヨーロッパの花文化との融合のようですね。
花教室 le-haru のほーむぺーじです。
http://www.hanabito.net/le-haru3/

2017-11-17  居合について書きはじめたが、

午前中、エッセイ教室に、夕方から居合に行った。

エッセイ教室に提出した原稿は、


    居合について書きはじめたが、            中村克博


 日本刀はいつのころから片刃で反りのある形になったのだろう。飛鳥、白鳳、天平時代両刃の直刀だったようだ。聖徳太子と言われる画像にも吉備真備銅像にも腰に下げているのは諸刃の剣だ。坂上田村麻呂征夷大将軍として蝦夷を攻めた平安時代の始め、そのころも諸刃の剣だったのだろう。

蝦夷兵士が使っていたのは蕨手刀といわれる。蕨手刀は柄頭が蕨の若芽のように、くるりと巻いているのでその名がついた。反りのある短い刀で馬上から片手で打ち下ろす。

 京都神護寺蔵の国宝で、頼朝とされる人物と一緒に描かれているのは毛抜き型の太刀といわれる。毛抜き型の太刀蝦夷兵士が使っていた蕨手刀から発展した。反りが深くて長い。毛抜き形の太刀は柄の握りに透かしが入って両手で使うことができる。この細長い隙間によって敵を切りつけたとき自分の手への衝撃を和らげることができる。

剣の短いものに長い棒状の柄を付けたものが鉾だが、このころはまだ槍はなかったらしい。集団戦闘で槍が使われだしたのは鎌倉時代も終わりのころだそうだ。南北朝時代になって南朝九州宮方の中心勢力となった菊池の騎馬軍団がめっぽう強かったのは日本初の槍騎兵集団突撃によるものだった。信長時代になると火縄銃が出現する。いよいよ刀の出番はなくなるのだが。


そもそも刀はどんな使われ方をしていたのか。ヤフー知恵袋を覗くと、平安時代鎌倉時代の合戦について、次のような設問があった。


平安時代鎌倉時代はまだ、馬上の武士同士が一騎打ちをして勝敗を決する時代だったと思うのですが、

いくつか疑問があります。

対一の一騎打ちで合戦が進行していくのなら、一万人中の50人の精鋭を集めて 結成した部隊で戦をしたほうがいいのではないでしょうか?

このころの武士は剣術を習っていたのでしょうか?習っていたとしても、馬上で戦うのですから、必要じゃないと思うのですが…。

それとも、平安時代鎌倉時代には馬上で戦う為に考案され、始まった剣術の流派があったのでしょうか。

一騎討ちの際は槍や太刀を使って戦う距離まで互いに接近したら、ほとんど馬は動

かさずに、ただ敵の突きを避け、太刀で斬って、避けられ、また敵の突きを避け、太刀で斬って、、、、と繰り返すのでしょうか。

それとも互いに馬を走らせ、すれ違う瞬間に斬るのでしょうか。


ベストアンサーに選ばれた回答

この時代 合戦の主流は弓で、両軍の矢合わせから始まり両軍がぶつかります。この時両軍の名ある武将一騎打ちをしますが、徒歩武者や足軽クラスの兵も戦っているので、一騎打ちだけで勝敗が決まる物ではなく、総大将ともなれば一騎打ちなど応じる事はありませんし、廻がさせません。(大将が討ち死にすれば合戦は負けになりますから)

剣術は習っていません、馬の上から弓を射る 騎射が中心で刀は「打ち物」と言って補助的な武器でした。両軍の将校クラス武将が名乗りを上げ馬を接近させ お互い輪乗り(ワノリ、馬が小さく円を描くように走らせる走法です)をしながら弓を射る戦法で、矢が尽きた時は太刀を抜いて斬り合いますが、この太刀は馬上刀と言って 馬の上から歩兵の頭を斬ることが出来るほど長い刀です、それでも決着がつかないときは「いざ組まん」と組討(クミウチ)に入り相手を組み伏せて、鎧通し(ヨロイトウシ・九寸五分とも言う)と言う小さな刀を抜いて相手の鎧の隙間に突き刺してし止めます。

この時代 槍はまだ使用されておらず、奈良時代は矛が使用されましたが、騎射が中心となったため廃れました。その代わり歩兵が馬の足を斬ることが出来る薙刀(ナギナタ)や長巻(ナガマキ・刀の柄が1mぐらいある物)が使われました。槍が出てくるのは、南北朝時代短刀を使った菊池槍あたりからで 戦国時代のように侍大将が馬上で振り回す事はなかったようです。

大将は弓を使う(今川義元徳川家康街道一の弓取りと言われたのもこの辺から来ています)のが当たり前で、剣術は歩卒足軽などの意味)の技とされた時代です。剣術じたい1400年代、室町中期に念阿弥慈恩念流飯塚長威斉の天真正

香取神道流などが出てくるまで、体系だった剣術はありませんでした。


   ヤフー知恵袋に以上の回答があった。原文のまま引用した。


江戸時代の後期、平戸藩弟九代藩主随筆家でもある松浦静山心形刀流居合を修めていたそうだが自著の「剣談」に居合について述べている。

  居合とは読んで字のごとく、剣を抜くことにあらず、敵と居座り向かい合うとき、「心機に応じて発するところを勝つ神気」をいうのである。その習いの要訣にいわく、抜きて斬る者はその斬ること「鞘の内」にあり、と。敵のチラッと動くや即ち鞘の内にあってこれを斬る、という心づもりをおしえるものである。

また、「宮田流極意」という伝書には、

居というは一心の儀なり。一心居所に居ざれば万事をしること難し。依って、変に合わざるなり。一心居る所に居て変に応ずるを居合といい…。云々と。


居合というものを言葉にするのは難しそうだ。かえって訳がわからんようになる。

平成二十九年十一月十六日