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2017-07-24 人様の靴を間違えて

誰かの靴を間違えて履いて帰った。

妻と買い物に出かけ、駐車場を歩いていて、妻の指摘で気づいた。

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指摘されても、何のことやら分からないほど、違和感はなかった。

外で靴を脱いだのは、先週の金曜日エッセイ教室食事会のとき、

それと、夕方の居合稽古のときだ。

申し訳ありません。。写真誰かさんの靴です。ROCKPORT

心当たりの人はお知らせください。

2017-07-23   ヨットに乗った。

ヨットに乗った。

友人のヨットに乗せてもらった。何年ぶりだろう、四年ぶりか・・・

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40フィートセンターコックピット、メインセールもジブもファーラーだった。

コックピットの上には屋根がついていた。いい風だったがモータセーリングで操船は楽だった。

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昼すぎから三時間ほどのセーリングだった。舵を持つと風を感じる。

やはり、海はいいな〜、元気がみるみるわいてくるのがわかる。

ハナママハナママ 2017/07/24 06:14 楽しいと思える事が出来て良いですネ。
私は娘が MBA の卒業が出来て孫に式を見せてやりたいと言う事で付き添いにロンドンに来ました。昨日、式もレセプションも終わって明日、帰帆します。さっき、娘達は夫のまつウイーンに旅立ちました。本来なら彼が来たかったんでしょうが仕事や諸般事情で私が行きました。でも家族が行っているのが当り前で、生まれたてに赤ちゃん、表現が悪いけれど相当なお年寄り迄が息子や娘、はたまた父親等のお祝いに駆けつけていました。何をやってるのか大変な事なのかは是で身を以て知らされました。良かったです。

glucklichglucklich 2017/07/24 19:28 よかったですね。おめでとうございます。
子供から孫へ、世代が受け継がれていくのを体験する立場になりましたね。
いろんなことが、思い出せるでしょうね。
これからも、まだまだ、いろんなことがあるのでしょうね。
ありがたいですね。

2017-07-22 厚いと時には汗をかく

昨日の金曜日は、午前中エッセイ教室、夕方から居合稽古

なんとも暑い日が続くが、エッセイ教室の室内は冷房が効きすぎて寒い

教室で途中からジャケットを重ねた。夏の外出には室内での冷房対策がいる。

夕方の居合稽古では汗が出続けた。持参したペットボトル麦茶を二本飲んだ。


エッセイ教室に提出した原稿は、今回も貝原益軒の資料集めだった。

エッセイらしい文章は、末尾の数行がそれらしい。


貝原益軒のころ                  中村克博


 貝原益軒が生きた期間は、一六三〇年十二月十七日から一七一四年十月五日まで(寛永七年十一月十四日〜正徳四年八月二七日)の八十四年間になる。死にのぞんで「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」とよんだらしい。四十五年連れ添った東軒さんは前年に先立っていた。益軒が生きた八十四年と同時代徳川将軍はと調べてみると四人が該当した。

江戸幕府第三代将軍徳川家光

任期間は一六二三年 から一六五一年。生誕一六〇四年八月十二日〜死没一六五一年六月八日(慶長九年七月十七日〜慶安四年四月二十日)。

四代将軍徳川家綱

任期間は一六五一年から一六八〇年。生誕一六四一年九月七日〜死没一六八〇年六月四日(寛永一八年八月三日〜延宝八年五月八日)。

五代将軍徳川綱吉

任期間は一六八〇年から一七〇九年。生誕一六四六年二月二十三日〜死没一七一二年一一月一二日(正保三年一月八日〜宝永六年一月十日)。

六代将軍徳川 家宣、

任期間は一七〇九年から一七一二年。誕生一六六二年六月一一日〜一七一二年一一月一二日((寛文二年四月二五日〜聖徳二年一〇月一四日)。

 

島原の乱が寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発している。キリシタンの籠城軍総計 約三万七千人、それを攻撃する幕府派遣軍は九州諸侯増援を得て十二万以上の軍勢に膨れ上がった。寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)の総攻撃原城落城天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。

 この時期にたくさんの大名がお取り潰しになったようなので、その数を数えてみた。三代将軍、家光の時代に改易された大名は四十八家におよぶ。四代将軍、家綱の時代に改易された大名は二十三家、五代将軍綱吉時代に改易された大名は三十一家、六代将軍、家宣の時代に改易された大名は三家のみ、そのあと明治維新までに改易された大名は十七家、ちなみに二代将軍、秀忠の時代に改易された大名は四十五家だったので綱吉までの百年余りで百四十七家の大名がお取り潰しになっている。

 元禄年間は一六八八年から一七〇四年までの十六年間を指すが五代将軍徳川綱吉の在任中がそれに重なる。

この期間に起きた主な出来事は、

元年一月、井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行する。十一月には柳沢吉保側用人就任している。 

二年三月松尾芭蕉河合曾良江戸深川から奥の細道の旅に出て同年の八月には大垣奥の細道の旅を終えている。「捨て子禁止令」なるものが発令される。捨て子が多かったのだろうか。生類憐みの令はこの数年前にすでに発令されている。犬だけでなく牛馬、魚、鳥、亀、イモリまで殺生はおろか大切にするようにとの法令違反すると磔や遠島にもなる厳しいもので世界に先駆けた動物愛護法律だ。

六年十二月新井白石が甲府藩主徳川綱豊(徳川家宣)の侍講となる。七年二月、高田馬場決闘。助太刀をした堀部武庸が評判になる。赤穂浪士堀部安兵衛はこの武士と同一人物らしい。 

八年 十一月、江戸の野犬が中野に設置した犬小屋収容される。一時期には八万頭を超えたら幕府財政にも影響が出るほどだったようだ。

十五年十二月十四日に赤穂事件赤穂浪士の討ち入り)がおきる。五月、近松門左衛門の「曽根崎心中」が初演されている。

 

 そのころ貝原益軒の仕えた筑前黒田藩は、どのような治世であったのかを調べてみると三人の藩主時代が重なる。

筑前福岡藩の第二代藩主黒田忠行、

任期間は一六二三年から一六五四年。生誕一六〇二年一二月二二日〜死没一六五四年三月三〇日(承応三年二月一二日〜慶長七年一一月九日)。

筑前福岡藩三代藩主黒田光之

任期間は一六五四年から一六八八年。生誕一六二八年六月十七日〜一七〇七年六月十九日(寛永五年五月十六日〜宝永四年五月二十日)。

黒田光之長男黒田綱之は、

将軍徳川家綱より偏諱を賜って、長良から綱之に改名するが、延宝三年(一六七五年)突如として廃嫡され、剃髪得度し蟄居を命じられる。代わって、弟の長寛(綱政)が嫡子となった。

筑前福岡藩四代藩主黒田綱政

任期間は一六八八年から一七一一年。一六五九年九月二七日〜一七一一年八月二日(万治二年八月一一日〜正徳元年六月一八日)。


この時期に筑前黒田藩で起きた有名な出来事といえば黒田騒動だろう。二代藩主黒田忠之は、軍船鳳凰丸の建造をはじめ足軽隊の増強など幕令をはばからぬ行為が多く、幕府の大名取りつぶしに口実を与えかねなかった。そのような時期に筆頭家老栗山大膳は、寛永九年(一六三二)、藩主忠之に逆意ありと幕府に訴えた。藩の取りつぶしを防ぐための策略で、大芝居を打ったとの見方もあるがどうだか真相はわからないと思う。  


博多豪商で伊藤小左衛門が起こした事件がある。事件が発覚したのは寛文七年(一六六七年)ころ、朝鮮済州島近海に鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン)配下の商船が盛んに出没していた。伊藤小左衛門はその商船と禁制の武器を抜荷していたのをとがめられる。たぶん硫黄だろうと言われるが、これにより、全部でおよそ百五十人ほどの者が捕えられた。小左衛門と浅見七左衛門の二人は磔刑となり、四〇数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく四〇数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である二人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった一人は父と同日に長崎斬首博多にいたもう一人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多斬首博多高木惣十郎は福岡藩の手で捕え長崎にて処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた。何とも大掛かりな事件だが意外と知られていない。僕も今回初めて知った。博多豪商といえば島井宗室、神屋宗湛、大賀宗博などが有名らしいが、この伊藤小左衛門はこれらよりも数段規模の大きい豪商だったようだが、知られていない。何故だろうと思う。


成功(てい せいこう、チェン チェンコン、(一六二四年八月二七日〜一六六二年六月二三日))は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃歌舞伎にされ『国姓爺合戦』でこの時代に有名になる。鄭は中国明代の軍人で政治家出身福建省泉州市。新興国の清に圧迫される明を助け、台湾占領していたオランダ勢力を追い払った。鄭成功の功績に隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれた。鄭は日本平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の恩恵をうけて平戸川内浦に住んでいた。

貝原益軒の生きていた時代江戸福岡おもしろ出来事が満載だ。調べればいくらでも出てきそうだし、奥が深そうだ。ただ、そのような事件出来事が起きた理由が今一つ僕には納得できない。もうかなり前になるが能古島山道を車であちこちと回っていたら集落高台の奥まった林の中が開けていて、キリシタン墓地があった。車から降りて墓石を見てまわるとかなり古いものがあったような記憶がある。福岡藩にも隠れキリシタンがひっそりと住み続けていたのかもしれない。近隣の歴史でも知らないことばかりだ。

平成二九年七月二十日

2017-07-18   海も山も暑いのはいっしょ

昨日の「海の日」、山小屋バーベキューをした。

暑い日だった。海も山も、湖も、暑いのはいっしょ!!

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ひと月おきに行われる同窓生の食事会だが、みんな元気だ。

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木陰を追いかけて食卓が移動する。

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次回は9月17日だそうだ。湖面を見ていたら海が恋しくなる。

2017-07-09   コピペ

一昨日は午前中がエッセイ教室、夕方からは居合稽古

貝原益軒について、「大和俗訓」を読みかけたが、読めない。

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まず、漢字が難しくて僕には読めない。

辞書を引こうと思っても、字が小さくて虫眼鏡がいる。

エッセイ教室に提出したが、ほとんどがwebからの引用になった。

提出順に読むのだが、数行おきに読めない漢字がある。横の箱嶌さんが小声で読んでくれる。

エッセイとは、いいがたい内容だ。これは「コピペ」だと言われた。


貝原益軒について                 中村克博


 「大和俗訓」という古い文庫本を見ていた。巻末には、岩波文庫昭和一三年九月十五日発行、定価四十銭、発行所は東京市神田区一ツ橋二丁目三番地、岩波書店とある。虫眼鏡で見たくなるほど細かい字で書かれている。

岩波書店ネットで調べてみた。

岩波茂雄(一八八一年八月二七日 〜 一九四六年四月二五日)によって一九一三年(大正二年)八月五日、東京市神田区神保町一六番地に開いた古書店として創業とある。「岩波茂雄、どんな人なんだろう」 

ネット岩波茂雄に移る。

日本出版人、岩波書店創業者長野県諏訪郡中洲村の農家生まれる。一九〇一年、第一高等学校入学する。藤村操が自殺した際、彼の友人であった茂雄は四十日間、山小屋に篭もり自身も死を選びつつあったが母親下山の訴えで下界へ戻る。とある。「さぞかし、ホッとしただろう」

ネットを移動して、人騒がせな藤村 操を調べてみた。

一八八六年(明治一九年)七月二十日―一九〇三年(明治三六年)五月二十二日)の生まれ北海道出身旧制一高の学生華厳滝投身自殺した。祖父藤村政徳は盛岡藩士であった。父の胖(ゆたか、政徳の長子)は明治維新後、北海道に渡り、事業家として成功する。操は、十二歳の札幌中学入学直後まで北海道で過ごした。その後、東京へ移り、開成中学から一年飛び級での京北中学編入を経て第一高等学校入学した。父の藤村胖は、屯田銀行頭取である。弟の藤村朗は、建築家三菱地所社長となる。妹の夫安倍能成は、漱石門下の哲学者学習院院長や文部大臣歴任した。一九〇三年(明治三十六年)五月二十二日、栃木県上都賀郡日光町華厳滝において、傍らの木に「巌頭之感」を書き残して自殺厭世観によるエリート学生の死は当時の社会に大きな影響を与え、後を追う者が続出した。藤村の死後四年間、同所で自殺を図った者は一八五名に上った。彼の死は、一高で彼のクラス英語を担当していた夏目漱石自殺直前の授業中、藤村に「君の英文学の考え方は間違っている」と叱っていた。この事件漱石が後年、神経衰弱となった一因ともいわれる。当時の知識人の間でも藤村の死に対する評価を巡って議論が交わされ、「煩悶青年」とその自殺社会問題となった。「ふむ、ふむ、そうなんだ…」

ネット岩波茂雄に戻した。

なるほど、創業者は山に籠って悶々したあげく、第一高等学校を落第したらしい。さらには試験放棄のため除名中退処分となる。ところが、再起して一九〇五東京帝国大学哲学科選科に入学。とある。一九〇六年には結婚。なかなか忙しい人だ。神田高等女学校に奉職するも退職。一九一三年(大正二年)、神田区神保町に古本業岩波書店を開く。破格の正札販売実施古書店から出発し、夏目漱石の知遇を得て一九一四年には「こゝろ」を出版。これは自費出版であったが、岩波書店処女出版位置付けられる。『思想』(一九二一年)『科学』(一九三一年)『文化』(一九三四年)などの雑誌や、一九二七年(昭和二年)には「岩波文庫」を創刊。日中戦争について「日本はしなくてもいい戦争をしている」と日本軍に対して批判的な立場から活動を展開していた。一九四〇年には学徒及び篤学の学者研究者を援助する目的で財団法人「風樹会」を設立。同年、津田左右吉著作古事記日本書紀研究』他四点が発禁処分となった事件では発行元として、津田と共に出版違反起訴。一九四二年に有罪判決、上告中の一九四四年免訴となる。また美濃部達吉天皇機関説を支持する投稿朝日新聞に行ったが同紙が不掲載とした。朝日新聞を意気地なしとののしった。翌年には雑誌世界』が創刊され文化勲章も受ける。一九四五年三月貴族院多額納税者議員に互選、任命される。戦後は、日本の単巻辞書としては最大級の収録数を誇る国語辞典広辞苑』の発行で知られている。

貝原益軒について書きはじめたのだが、いつの間にかインターネットであちこちwebを飛び回っていた。webは知らないことを調べるのに便利だが、あっという間に時間が過ぎている。パソコンの画面を見つめている視点位置距離も固まったままだ、目にも首の骨にも悪いに決まっている。

文庫本大和俗訓に戻ることにした。

貝原益軒はその名を篤信、字は子誠で、久しく損軒と名乗ったが晩年に改めて益軒と称した。初め通称助三郎と呼び、二六歳の夏に髪を剃って医となった後、柔斎と称すること一四年に及んだが、三九歳の冬に再び髪を蓄ふるに至って、藩主黒田光之から久兵衛の名を賜った。益軒は寛永七年十一月十四日(西暦一六三〇年)に福岡城内に生まれた。彼の祖父宗喜が、黒田如水に仕えることになってから以後、貝原氏は代々黒田家の士籍に列して百五十石を食んだ。宗喜は年少なくして武田家に仕え信玄の侍童であったし、如水に仕えて後は主として民生と理財を掌ったというから、槍先の功名を競う一片の武辺ではなかったであろう。益軒の父寛斎は祐筆の職を奉じて忠之・光之の二代に仕えたという。益軒はかってその父を語って、

文学は乏しかりしも、儒道を貴ひて異端邪術を嫌ひ、佛氏の説を信じることなかりき」といったと伝えられている。

益軒、十九歳のときから忠之に仕えて近侍したが、三年目の慶安三年にはその怒りに触れしりぞけられ、これから後七年にわたる長い浪人生活に入った。長崎遊学し医を以て世に立とうと志した。二六歳になって江戸に入り、父寛斎と共に判定に住み、医を標榜して柔斎と称した。藩医の列に加わったが、翌年十月、光之の命によって江戸、京の名高い儒学者に交わり学究を重ねることになる。寛文五年(西暦一六六五年)三六歳以後の益軒の生涯はいかにも順調であった。知行一五〇石を宛がわれていたが、四年後の寛文八年には知行二百石となり、更に二九年を得て元禄九年(西暦一六九六年)になると三百石に累進していった。

貝原益軒が著した大和俗訓は。宝永五年(西暦一七〇八年)刊。儒教道徳をもとに、特に婦女子を対象とした実践倫理を説く。益軒十訓のひとつ、だそうだ。しかし、僕はまだ、その解説と自序までをやっと読んだところだ。内容は分かりやすく書いてあるのだが、本文に行く前に、パソコンに噛り付いてwebをアチコチと回り道、脇道にと遊び過ぎてしまった。ちなみに、貝原益軒の十訓とは「家訓」「君子訓」「大和俗訓」「楽訓」「和俗童子訓」「五常訓」「家道訓」「養生訓」「文武訓」「初学訓」の十種をさすらしい。この中では養生訓が有名だが、僕はこの養生訓さえ、パラパラとめくるだけで読んだことはまだない。著作は他に、藩命により『黒田家譜』を編纂。また、藩内をくまなく歩き回り『筑前国風土記』を編纂している。書き物以外にも、藩内で朱子学講義や、朝鮮通信使への対応をまかされ、佐賀藩との境界問題解決に奔走するなど重責を担った。

貝原益軒の生きた時代は、江戸幕府五代将軍徳川綱吉(西暦一六四六〜一七〇九・在職一六八〇〜一七〇九)が学問興隆をはかった時代。初期は堀田正俊を登用して文治政治に努めたが、正俊の死後、柳沢吉保を重用し、生類憐みの令を発して犬公方とよばれた時代だ。

人形浄瑠璃竹本義太夫義太夫節として完成し,市川団十郎坂田藤十郎らによる歌舞伎が盛行し、近松門左衛門は、浄瑠璃では世話物を,歌舞伎では時代物を主として扱った。俳諧では、松永貞徳によって形式が整えられ、西山宗因を経て、松尾芭蕉の出現となり、蕉風の俳諧が完成された時代小説では、井原西鶴が、浮世草子を著わし、町人武士生活人間味あふれる筆致で描いた。絵画では狩野探幽らの狩野派に対して土佐派復興しており、また尾形光琳を中心とした光琳派は、花鳥風月人物を色調豊かに表わし、菱川師宣らの浮世絵は大いに民衆に愛好された。儒学では、朱子学派に山崎闇斎、木下順庵、貝原益軒、室鳩巣,新井白石らが、古学派に山鹿素行伊藤仁斎荻生徂徠、太宰春台らが,陽明学派に熊沢蕃山、淵岡山らが現れ、古典に対する批判や新しい解釈を行い、独自な学説も発表された。国学では,僧契沖荷田春満、下河辺長流、北村季吟賀茂真淵らがいた。

貝原益軒のことを調べようと思ってみたが、これは大変だ。僕は知らないことだらけだ。松尾芭蕉が同じ時代の人らしい。芭蕉のことが気になってきた。幸田露伴芭蕉七部集評釈をネットで注文した。前回のエッセイ教室でたまたま紹介されていたのを思いだした。これを読んでいけば、むしろ、貝原益軒のこの時代のふんいきが理解できそうな気がする。

平成二九年七月六日

2017-07-01    頭がうつろに

机の天板が出来てきた。

来週になると思っていたら、早くできたと連絡があった。

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今まで使っていた机と入れ替えた。いい感じだ。

アテナ銀貨」に続く二作目の小説がこの机から出てくる気がしてきた。

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思いが吸い込まれるような杢目だ。ずっと見ていると頭の中がうつろになっていく。

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今日、午前中はお茶稽古、従兄弟は茶筅飾りとかいう点前をしていた。

2017-06-24   雨が降りはじめた。

昼過ぎから雨が降りだした。

ずいぶん雨が降らずに田んぼが干上がりそうだった。これで安心だ。

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午前中のお茶稽古が終わるころ雨がポツポツ降り出した。

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今日の夜半から雷をともなう、かなりの雨がしばらく続くらしい。

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アテナ銀貨」の最終校正が終わった。月曜日に出版社に送り返そうと思う。

出版社と僕とで別々に校正して、突き合わせる作業が続いていたが校了する。

本の表紙の原案もできてきた。秋には出版されるそうだ。

菰田の住人菰田の住人 2017/06/25 10:51 なかなか素敵な表紙で読みたい気持ちが高鳴るけど、秋に出版とは待ち遠しい。
70歳の古希の新人作家の登場に大拍手です。
後日、出版記念の集いを!

和恵和恵 2017/06/25 22:58 すごいね。読んでみよう。おめでとう㊗

glucklichglucklich 2017/07/01 21:35 ありがとうございます。
小説を書くなど、思いもよらなかったですが、いつの間にかできていました。
三年くらい
書き続けたですかね、楽しかったです。

2017-06-23 栃木の天板

家の作業台ができた。

これまで使っていたカシの天板は妻の花教室に行ったので家のがなかった。

同級生の木工製作所から栃の原木を6cmほどの厚さに製材したのをわけてもらった。

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近所の木工工房にお願いして出来上がった。どんなのが出来上がるか楽しみにしていた。

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そろわない、つかみどころのない、そんな木目がおもしろい。絹糸のように輝いたチジミ杢も見える。

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僕も机の天板をこの木にしようと思った。材料がまだあるので近所の工房に再度お願いした。

2017-06-17    茶花にドクダミを

午前中はお茶稽古

最近、母が時々休む、母屋から茶室まで歩くのが億劫なときがあるようだ。

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今日の花ドクダミを採ってきたが茶花でいいのだろうか…わからない。

壁に掛かっている字が読めない。

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きょうは従兄弟と二人で稽古した。六年ほど前、一緒に始めたが今では彼が僕の先生だ。

2017-06-16    船鍾を手に入れた

今日の午前中はエッセイ教室だった。

船の鐘を手に入れたので、それを題材にした。

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エッセイ教室に提出した原稿は、こんなだった。

      船の鐘                             中村克博


 先月、五月二十七日は日本海海戦一〇七周年の記念大会が開催され、自衛艦隊の「くろべ 」艦上では黒田藩柳生新影流の洋上居合奉納が行われた。僕は宗家師範たちの演武写真に撮る役目を言いつかっていた。居合奉納が無事終わってから一人で艦内を見学して回った。艦内はどこも見学者でごった返していたが、艦橋の上にあるデッキまで上ると、そこは見学者の人影はなくて数人の若い水兵さんが配置されていた。

広くない甲板を興味深々で歩いていると。真鍮の艦鐘が光っていた。下から覗くと音を出す金属の玉、舌がなかった。

近くにいた若い水兵さんに、

「この鐘を鳴らすことはありますか」とたずねた。

「いえ、乗艦して二年になりますが、聞いたことがありません」

「ワッチの交代で八点鍾は鳴らないのですか」

「いえ、何ですか八点鍾…」

「夜間、四時間おきにワッチ交代の合図をする鐘の音です」

「いえ、鐘でなく、マイクで知らされます。ワッチは二十四時間で交代です」

「えっ、二十四時間も、寝ないのですか」

「いえ、寝ます。あ、交代で仮眠します」

 そんな、やり取りを思いだす。

 それから数日後、船の鐘についてネットで調べていたら、いろんな、おもしろ記事が幾つも見つかった。ヨーロッパ大航海時代の船の絵画には鐘が描かれているものが珍しくないらしい。鐘は悪魔を払い、雷や嵐を去らせる霊力があると思っていたようだ。出航時の銅鑼の響きも出船を告げる合図には違いないが、接岸中に船内に潜り込んだ陸の悪霊を追い返そうという意味が強いとの説がある。

船鍾は時間を告げるためにも使われるが、その場合には時鍾と言うそうだ。しかし、霧の中や火災発生時などの警鐘として用いられることもあり、その場合には号鍾という名で呼ばれるそうだ。時鍾は午前、午後とも、零時、四時、八時が八点鍾で、三十分経過する毎に一点鍾づつ七点鍾まで数を増やす。しかし、六時三十分、七時、七時三十分の三回に限って、一点鍾、二点鍾、三点鍾と変則的に打つそうだ。よくもまぁ、昔の船乗りは、こんがらがらずに時を刻聞き分けたもんだと感心する。

教会の鐘は何世紀も受け継がれて鳴り続けるが、船の場合には船の寿命が終わったからといって別の船に流用することは決してないそうだ。船の霊はその船の鐘に宿るとされているのかもしれない。ところで、時鍾の場合は「鳴らす」とはいわないで「打つ」または「たたく」という表現をするそうだ。「時の鐘を鳴らした」とはいわないで、「時の鐘を打った」といわなければならない。一方、号鍾の場合は「打つ」のではなく「鳴らす」のである。船鍾にも除夜の鐘の打ち方がある。十二月三十一日午後十二時の八点鍾に続いてもう八点鍾、合わせて十六点鍾というのがそれである。後の八点鍾は一年の終わりと、新年の始まりを告げるためらしい。十六点鍾を打った独身者は、その年、よい伴侶に恵まれるという言い伝えがあるそうだ。いろいろ調べているうちに、そうするうちに僕は船の鐘が欲しくなった。

ヤフーオークションを見ると手ごろなのが出ていたので、入札すると運よく僕に落ちた。二日も待たずに宅急便が届けてくれた。わくわくして梱包段ボール箱を開いた。鳴らしてみるといい音だ。しかし、すごく汚れている。船で使われていたときには船員が手入れして輝いていたのだろうが、すぐに汚れを落としに取り掛かった。ピカピカに磨き終わると夕方になっていた。

夕食のときも、風呂にはいっても、寝るまで、どこに吊り下げようかと思案した。あくる朝、窓の外の軒下にぶら下げることにした。妻が、あれこれ高さや位置を指示してくれた。具合よく紐もあった。窓を開けると目線の少し上、いい感じだ。

 アメリカのポール・G・アレン氏が率いる探査チームは、二〇一五年三月三日、フィリピン中央部にある小さな海域シブヤン海の水深一〇〇〇mの海底で武蔵の船体を発見したと発表したが、同チームはさらに同じの年八月七日、今度は第二次世界大戦中の一九四一年に沈没したイギリス巡洋戦艦フッドの船鐘の回収に成功したことを発表した。同艦が北大西洋戦艦ビスマルクによって撃沈された際に亡くなった千四百十五人の戦死者にとって、敬意を表するにふさわしい有形記念物としての役割を果たすことになる。としている。七四年間、デンマーク海峡深淵に沈んでいたにもかかわらず、船鐘は非常に良好な状態にある。船鐘の回収成功について、NMRNの館長、ドミニク・トウェドル教授は「われわれは、一九四一年五月二十四日に巡洋戦艦フッドとともにビスマルクと戦った戦艦プリンス・オブ・ウェールズの船鐘を既に保有している。少なくとも気持ちの上で二隻の艦船を再び結び合わせることは、すばらしい」とコメントした。 

 そのプリンス・オブ・ウェールズのことだが、この戦艦大西洋憲章(一九四一年八月十日)でのチャーチル首相ルーズベルト大統領会談した記念艦である。一九四一年(昭和十六年)後半、イギリス極東における最大の拠点シンガポール防衛するため、「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を基幹とする東洋艦隊配備した。ところが、同年十二月十日、日本海軍航空隊プリンス・オブ・ウェールズとレパルス陸上から発進した攻撃機で撃沈した。報告を受けたチャーチルは「そこで私は受話器を置いた。私は一人なのがありがたかった。すべての戦争を通じて、私はこれ以上直接的な打撃を受けたことはなかった。」と著書の第二次世界大戦回顧録で語っている。マレー沖海戦といえば世界海軍史上で大艦巨砲主義終焉を告げる出来事として記憶されるが、これも、多くの日本人に知らされていない歴史のひとつだ。 

プリンス・オブ・ウェールズマレー半島東岸沖の水面下六十八mに沈没していたが、二〇〇二年になって船鍾だけが海底から回収された。前出の通りプリンス・オブ・ウェールズの鐘はリバプール博物館で展示されているそうだ。

平成二十九年六月一五日                                                                 

2017-06-05   バーベキュー

昨日の日曜日、山小屋高校時代の友人が、バーベキュー

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道崎君が庭のビワの実で作ったデザートを持参した。

バーベキューの前にみんな食べてしまったのでオードブルになった。

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焼き肉を、フライパン網焼きと、いずれがウマイか競演していた。

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どちらがウマイカ食べんと分からん!!

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そう、そう、食べれば分かる。

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木々の緑と水面からの風が心地よかった。

2017-06-03   海軍記念日をエッセイにした。

昨日の我が家カシワバアジサイが活けてあった。

つぎつぎに、いろんな花が咲く季節だ。

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以前からずっと敷地に咲いていたのだが、これもアジサイだとは知らなかった。

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鉢植えの桑が実をつけた。地面に植えると大きな木になるだろうか。

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ホタルブクロと言うらしい。もうそろそろ時期がすぎる。

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妻が梅の枝を、いろいろ配置かえて、下いけの研究中だった。

昨日はエッセイ教室だった。

先日の海上での居合奉納を題材にした。


海軍記念日護衛艦居合奉納。        中村克博


 五月二十七日は日本海軍記念日だった。一九〇五年(明治三十八年)五月二十七日から翌二十八日にわたり日本海対馬沖で日本連合艦隊ロシアバルチック艦隊が対決した。六時二十一分、連合艦隊大本営に向け「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」この電文で決戦の火蓋が切られた。この電文は海軍史上、世界的に有名らしいが「撃滅セントス」までは暗号電文で連合艦隊司令長官からの発令だが、後半の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の部分は暗号でなく平文で秋山真之参謀が加筆したものだ。

十三時五十五分、東郷平八郎大将連合艦隊旗艦三笠」へZ旗の掲揚を指示した。このとき連合艦隊が使用していた信号簿でZ旗は「皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。この旗には「もう後がない」の意味もあったらしい。

実は、現在の日本海軍記念日はない。戦前にはバルチック艦隊撃滅したこの日を日本海軍記念日に制定していたが、一九四五年を最後に廃止された。海軍陸軍消滅したのだから仕方があるまい。それで、この日は例年「日本海海戦OOO周年記念大会」に慰霊祭という形で海上自衛隊行事が行われている。今年は自衛艦隊訓練支援艦「くろべ 」艦上で黒田藩柳生新影流の洋上居合奉納が行われた。宗家と三人の師範それに写真掛の僕はタクシー奉納場所であるおとうと第九埠頭に停泊している自衛艦に出向いた。開会まで時間があるので船のまわりに歩哨の水兵がいるだけで参列者も見学者も一人もいなかった。船に近づくと士官が一人降りてきて宗家に挨拶して何やら話し始めた。階級章は肩章に太い金筋が二本に「星」、いや「桜」だ、それを一つ付いている一等海尉だ、旧軍海軍大尉だ。

宗家はなんだか困った表情だった。大尉も申し訳なさそうな目をしていた。何やら宗家を説得しているが埒が明かないようだ。そのうち話がついたが、なんと、真剣の艦内持ち込みが出来ないらしい。これでは何とも間の抜けた居合奉納になる。僕なら、「それでは申し訳ないが厳粛な奉納は致しかねます。帰らせてもらいます」と言いたいところだが、さすが宗家は器量が大きい。できないと判れば気持ちの切換がいい。それで、真剣は艦内で預かることになった。大尉がホッとした様子でみんなの真剣を束ねたバックを重そうに運んで行った。式典の時間が近くなると参列者の黒塗りのセダンが数台到着して、見学者の大型貸し切りバスが次々とやって来た。間もなくして「くろべ」は岸壁を離れて博多湾の中を進んだ。

居合奉納が艦尾の甲板で始まった。空は晴れわたって湾内の波は静かだったが風は髪の毛がくしゃくしゃになるくらい吹いていた。もし、外洋に出れば「天気晴朗なれど浪高し」の状態だったろう。居合演武はいつものように宗家の四方払いの神事から始まった。いつもと違うのは風の吹き荒ぶ海上だということだ。袴の裾が吹き揚がり袖がはためいたが、それが演武の迫力を一段と増したようで、真剣は取り上げられて模造刀だったが本身に負けない、いや本物以上に真上に輝く太陽の光を攪乱して参列者の肝胆まで照らしていた。時を移さずに清水師範山崎師範の組太刀演武が始まった。木剣を使っての演武だったが見学者からは驚嘆の声がカメラをかまえている僕の耳に届いていた。二人の着衣が風に乱れ、髪の毛が逆立って形相までもが猛々しかった。特に最近の山崎師範は剣筋に迷いなく武人らしい風格さえ出てきたようだ。剣は詰まるところ人格だと常々思うようになっているのだが、この人の先行きが楽しみだ。奉納を締めくくって最後におこなわれた宗家マイク師範の組太刀は新影流の奥の深さを見学者に感じさせた。

居合奉納が終わったので、写真掛の僕はお役御免で自由の身になった。さっそく艦内を見てまわった。軍艦だから通路は狭い。窓は一つもない。おまけに見学者が並んで蠢いているので先に進めない。至る所にパイプや配線がむき出しだ。階段は狭く梯子のようで傾斜がなくて、上り詰めると大きな鉄のハッチが口を開いていた。もし、留め金が外れて鉄の丸い扉が頭から落ちてきたら大変だと思いながら登っていった。

艦橋に上がると、ここだけは前方に四角い大きな窓がズラリと並んで広々と明るかった。口髭を唇の上に細く生やしているのが艦長らしい。微笑んだような温和な顔で、時々双眼鏡を顏にかざして遠くの進路を見ていた。そこには艦長以下、十人ほどの将卒がいたが、そのうちに女性が二人いて計器を見たり、窓から進行方向に目を凝らしたりしていた。その後ろには操舵輪を持つ舵取りがいた。舵は何とも小さかった。家で使っている湯呑を運ぶ木のお盆ほどもなかった。

窓から海をみている士官が、うしろに、

「取舵十五度」と伝えると

舵取りは

「取舵十五度、よ〜そろ」と言った。

僕は、それを聞いてうれしくなった。

舵取りに声をかけた。

「よ〜そろ、とは宜しいです。の意味ですか」

舵取りは一瞬驚いたように僕を見て、

「そ、そうです」と小さく答えた。

「そうですか、いつから決められたのですか」

明治時代海軍が出来たときです」と前を向いたまま答えた。

中世から、いや、もっと昔から九州瀬戸内では操船用語に使われていた言葉だと、僕は言いたかったが、軽くお辞儀をして艦橋から外に出た。

風が強く吹いていた。艦橋の上にのぼる階段があった。手すりに手をかけると、若い水兵さんが「お気を付けください」と声をかけて僕の真下に待機した。梯子いや階段の上からは若い士官が手を差し伸べたが、手は受けずに一礼だけしてせまいデッキにのぼった。士官の帽子には黒い庇が付いている。庇が風を受けるので顎紐をかけている。その士官信号旗を揚げる準備を始めた。Z旗がスルスルと大きなレーダーがゆっくり回転している近くまで揚げられた。四角い旗の対角線を十文字に交差して黄色を上に赤が下で紺色が右で黒が左のZ旗がはためき始めた。僕は何枚も何枚も写真に収めた。

この旗を東郷平八郎が掲揚を命じた日本海海戦、以降、日本海軍ではZ旗は特別な意味を持つこととなった。太平洋戦争大東亜戦争)中の日本海軍では、大規模な海戦の際には旗艦マストにZ旗を掲揚することが慣例化したそうだ。

広くない艦橋の上にあるデッキに真鍮の艦鐘が光っていた。下から覗くと音を出す金属の玉、舌がなかった。近くにいた若い水兵さんに、

「この鐘を鳴らすことはありますか」とたずねた。

「いえ、乗艦して二年になりますが、聞いたことがありません」

「ワッチの交代で八点鍾は鳴らないのですか」

「いえ、何ですか八点鍾…」

「夜間、四時間おきにワッチ交代の合図をする鐘の音です」

「いえ、鐘でなく、マイクで知らされます。ワッチは二十四時間で交代です」

「えっ、二十四時間も、寝ないのですか」

「いえ、寝ます。あ、交代で仮眠します」

最上階のデッキには見学者はいなかった。じっと立って海や空を見ている士官や水兵さんにいろんなことを聞いて回った。

ところで東郷平八郎といえば、日本占領された翌年の昭和二十年、GHQが文部省に指令した教科書策定基準日本の歴史から抹殺しようとした一人だった。教科書絶対に載せてはならない人物楠木正成乃木希典東郷平八郎の三人だった。GHQは東京裁判自分たち太平洋戦争史観強制したが、それ以前の日本古来の歴史も書き変えさせた。憲法も作り替え、家族制度も崩壊した。これで日本を変えれると思ったのだろうが、うっかり肝心なことを忘れていたようだ。江戸時代から連綿と受け継がれてきた武士道が残っていたのだ。精神さえ滅んでいなければ、書かれた物は書き直せる。戦後初めて、小さな訓練支援艦の上で、真剣ではなく模擬刀と木剣ではあったが、軍艦の上で日本古来の武道演武が行われたことが何か意味のあることのように思えていた

平成二十九年六月二日

2017-05-28 海軍記念日

昨日の土曜日、「日本海海戦107周年記念大会

自衛艦隊の「くろべ 」艦上で黒田藩柳生新影流の洋上居合奉納が行われた。

1905年5月27日、日本連合艦隊バルチック艦隊対馬沖で決戦した。

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基準排水量 2,200トン                 旭日旗マイク師範コントラストがいい。

全長 100.5m 全幅 16.5m

最大速 20ノット 乗員143名

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出航して間もなく居合奉納演武が始まった。   居合演武宗家の四方払いの神事から始まる。

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「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」この電文で決戦の火蓋が切られた。

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13時55分、東郷平八郎大将連合艦隊旗艦三笠」へZ旗(「もう後がない」の意味)の掲揚を指示した。

この時連合艦隊が使用していた信号簿でZ旗

皇国ノ興廃、コノ一戦ニ在リ。各員一層奮励努力セヨ」という文言が割り当てられていた。

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先頭の「三笠」は約150度の回頭を終え東北東に定針し、バルチック艦隊航路の斜め前方7,000mを浅い角度、約20度で圧迫を始めた。

それに対応するようにバルチック艦隊砲撃を開始、「三笠」に攻撃を集中した。

それから五時間余り激戦が続きバルチック艦隊は戦力のほとんどを失った。

ウラジオストクに到着したのは「グローズヌイ」と、二等巡洋艦「アルマース、駆逐艦ブラーヴイ」の3隻のみ。

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19時10分に「三笠」は砲撃を中止し、後続の各艦もそれに倣い19時20分に砲戦が終了した。

この海戦勝利した5月27日、日本はこの日を海軍記念日と定めた。

   バルチック艦隊艦船の損害は沈没21隻(戦艦6隻)、兵員の損害は戦死4,830名、

   捕虜6,106名、捕虜にはロジェストヴェンスキーとネボガトフの両提督が含まれる。

   連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没戦死117名、戦傷583名、

   大艦隊同士の艦隊決戦として前代未聞の一方的勝利となった。

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奉納演武が終わったので、写真班の僕は解放されて館内を見学して回った。 

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会場の見張りは、昔ながらの目視で注意深く小まめにされていた。

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信号旗の掲揚が始まった。「Z」旗が艦橋の上に掲げられた。

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艦橋上のデッキに船鐘が吊るしてあった。水兵さんに問うと「一度も鳴らしたことがない」そうだった。

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博多湾を出てすぐに回頭して戻りはじめた。 艦橋にある舵輪は、こころもとない、ほど小さい。

日露の戦没者への慰霊の式典がはじまった。

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船尾甲板に下りてくると旭日旗半旗になっていた。

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弔銃が発射された後も水兵の銃卒は式典の間、海に向かって整列していた。

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接岸準備が始まり、タグボートが近づいてきた。 大きなロープが舫われた。岸壁との接地面には毛布が丁寧に巻かれた。

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無事に奉納を終えた柳心会の剣士たち、お疲れさんでした。

2017-05-19 女大学

きょうのエッセイ教室貝原益軒について書いた。

いつものように書き終えて、妻に見てもらうと機嫌が悪くなった。。

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テッセンの花が咲いていた。 二枚目に撮ったのはホワイトバランスの設定がまずかった。

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ベレンダに小さなバラが咲いている。見ていると楽しくなる。


今日出したエッセイ原稿は、

 

    貝原益軒について                  中村克博


 朝起きて散歩に家を出て歩くと旧国道が交差している。車はめったに通らない。二、三年ほど前に八木山バイパスの通行が無料になって、この旧国道は車の量が少なくなった。タヌキやイタチが撥ねられたのを見かけるので夜はイノシシやシカなども往来に利用しているのだろう。この道を横断すると、広くはない高原の田園風景が広がり、今ごろは田植えを終わって間もない一面の水田朝日を映している。すぐに八木山川にさしかかる。旧国道から山麓までの中間地点だ。その橋を渡って農道左折すると間もなく右手に大きな石碑が見えてくる。この四十坪ほどの石垣宅地貝原益軒が八歳から十一歳まで生活した場所らしい。八木山は益軒が幼少の時期、貝原家の知行地だったそうだ。この道は僕が散歩のときによく通るのだが、これまで貝原益軒については、せいぜい養生訓とか「接して漏らさず」とかに思い当たるくらいでそれ以上は考えたことは無かった。  

 戦後七十年たって、日本国憲法改正がこれまでとは違う機運で政治課題になっている。ここに来て国のありかたが、あらためて不可欠な条件として問われているのだと思う。皇位継承について国民の関心が高まっている。民間では後継者問題企業経営危機がしばしば起きている。大企業ニュースになったのだけでも大塚家具ロッテ出光興産セブン&アイホールディングスなどだが全国の中小企業では枚挙にいとまがないだろう。もっと視点を下ろしてみると、親と子それぞれの家庭のありかたや夫婦の関係にまで行きつく。社会が大きく変わるときには国の寄って立つ基本的な条件も変わるのだろう。家庭での秩序や夫婦のかかわりも根本的な考え方が見直されねばならないのだろうが、こうなれば相続税や家族制度との関りも出てくる。憲法だけでなく民法のありようも考えを問われるのかも知れない。

 貝原益軒著述に女大学というのがある。僕は「女大学」という書き物があったのは知っていたが、それが貝原益軒のだとは知らなかった。まして読んだこともなかった。それを今回読んでみて驚いた。四千字ほどの文章だし、わかりやすく簡易なのですぐに読める。

 読んでみて、びっくり驚いたのを幾つか抜粋すると、

出だしの、次の文章などは、まだ良い方だが、

   女子は成長して他人の家へ行き舅姑に仕える者なれば、男子よりも親の教えをゆるがせに(=安易に)すべからず。父母が寵愛して自由に育てれば、夫の家に行って必ず気随(=きまま)に振る舞い夫に疎まれ、また正しい舅の教えを耐え難く思い、舅を恨み誹って仲が悪くなり、ついには追い出され恥をさらす。女子の父母は、自分の教えなきことを言わずして、舅夫が悪いとのみ思うは誤りなり。これみな女子の親の教え なきゆえなり。

女は形(=容姿)よりも心の勝れるを善とすべし。心映えの悪い女は心騒がしく、眼を恐ろしく見出して人を怒り、言葉が荒く物の言い方が悪く、口聞きて人に先立ち人を恨みねたみ、我が身を誇り人をそしり笑い、自分が人に勝ったという顔でいるのは、みな女の道に違えるなり。女はただ和らぎ従いて、貞信(=まこと)に情け深く静かなるをよしとす。

 僕でも、これは、なるほどと思えるところもあるが、

 それでは、この教えはどうだろう、

   婦人は別に主君なし、夫を主人と思い敬い慎みて仕えるべし。軽んじ侮るべからず。総じて婦人の道は人に従うにあり、夫に対するに顔色言葉使い慇懃にへりくだり、和順(=素直に従う)なるべし。おごりて無礼なるべからず、これ女子第一の務めなり。夫の教訓あればその仰せに背くべからず。疑わしきことは夫に問うてその下知(=指揮)に従うべし。夫が問うことあれば正しく答えるべし。その返答がおろそかなるは無礼なり。夫がもし腹を立て怒るときは恐れて従うべし。怒り争いてその心に逆らうべからず。女は夫をもって天とす、返す返すも夫に逆らって天の罰を受けるべからず。

悪しからず先にまいります。

   嫉妬の心、ゆめゆめ起こすべからず。男が淫乱なれば、いさめるべし。怒り恨むべからず。妬み甚だしければ、その気色言葉も恐ろしくすさまじくして、かえって夫に疎まれ見限られるものなり。もし夫に不義、過ちがあれば、自分の顔色を和らげ、声を柔らかにして諫めるべし。諫めを聞かずして怒れば、まずしばらくやめて後に、夫の心和らぎたるときに、また、諫めるべし。必ず気色を荒くし、声を荒らげて夫に逆らい背く事なかれ。およそ婦人の心ざまの悪い病は、和らぎ従わざること、怒り恨むこと、人を誹ること、物妬むこと、知恵浅きことなり。この五つの病は十人に七、八人は必ずある。

そうか…ひょっとして、この時代女性…益軒がこうまで言わねばならないほど奔放自在だったのかもしれない。標語など、およそ人が出来ないことを書いてあるもんだ。では次ぎに、

    女は陰性である。陰は夜で暗い。だから女は男に比べて愚かで、目の前のしかるべき事も知らず、また人の誹るべきこともわきまえず、わが夫わが子の災いとなるべき事も知らず、罪もない人を恨み怒り呪詛し、あるいは妬んで、自分が一人立派と思っても人に憎まれまれてみな我が身の仇となることを知らず、たいそう、はかなく浅ましい。

    子を育てても愛におぼれて行儀悪く、このように愚かだから何事も我が身をへりくだって夫に従うべし。昔の法律に「女子を産めば三日床の下に寝させる」という。これも男は天で女は地を象徴するから、すべてのことについて夫を先立て自分を後にし、よいことをしても誇る心なく、また悪い点があって人に責められても争わず、早く過ちを改め、何度も人に言われないように身を慎み、また人に侮られても腹立ち憤ることなくよく堪えて物を恐れ慎むべし。このように心得れば、夫婦の仲おのずから和らぎ、行く末長く連れ添って家の中が穏やかなるべし。

   右の条文は幼いときからよく教えるべし。また書き付けて折々読ませ忘れることなからしめよ。いまの世の人は、女に衣服道具など多く与えて婚姻させるよりも、この条文を十分に教えることが一生身を保つ宝なるべし。昔の言葉に「人は百万銭を出して娘を嫁がせることは知っていても、十万銭を出して子を教育することは知らない」という。誠なるかな。女子の親たる人、この真理を知らなければならない。

まあ、以上のような論調ですが、

貝原益軒一六三〇年一二月一七日(寛永七年一一月一四日)に筑前国、福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれる。一七一四年(正徳四年)に没するとある。元禄年間は一六八八年から一七〇四年だというから元禄時代の真っただ中に生きた人のようだ。徳川家幕藩体制の基礎を整えて政治の基調が武断政治から文治主義に転換する時期だ。経済農業生産が増大し、貨幣経済が発展し商品流通が急速に拡大していた時期である。江戸大阪京都ばかりか地方の都市も繫栄して武芸を励み軍事にたずさわる武士存在意義が問われ新たな道徳規範が必要になった頃だった。

大阪夏の陣一六一五年(慶弔十九年)に終わり徳川政権になって七十年あまり、現在と同じように長らく平和で豊かな社会が続いたが、いろんな歪みも大きくなって、ここらで新たに社会の仕組み作りが必要になった大転換の時期なのかも知れない。

平成二十九年五月十八日

   

LAKILAKI 2017/05/19 23:51 窮屈な時代だったんですね。現代の若い女性が読んだら機嫌悪くなるどころか冗談だと思って笑うような気がします。おそらく男も理想論があったりして今の若者は「ウザイ」とか「だるい」なんて言うんでしょうね。

glucklichglucklich 2017/05/30 13:25 僕の子供のころは、まだこのような雰囲気が女性にはありましたね。
女性がこんななら、男性は命を懸けて守るでしょうね。

2017-05-16   太陽に虹が…

きのう、妻のご両親が訪ねてくれた。

前日は薬院教室に寄ってくれた。夕食は近くのイタリアレストランに行った。

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今の時期は野の花が少ない。キショウブアザミをとってきた。

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今年はタケノコができない。梅の実とフキを少し採取した。   太陽のまわりに虹がかかっていた。

そういえば、一昨日のイタリアレストランで孫の入園祝いをしていた。

携帯電話で撮っていたのを忘れていた。

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壁の鏡の効用で期せずに全員が写っていた。

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子供は幼年期ほど成長を早く感じる。老齢は月日が早く、いや年月が矢のごとく過ぎてゆく。

ハナママハナママ 2017/05/17 19:09 おめでとうございます。
皆、段々と進化して行くファミリーが楽しみですネ。
我が家は孫が昨日で7歳に成った女の子、1人です。

千葉の熊さん千葉の熊さん 2017/05/17 21:24 小生21日(日)より(ANA247)23日(水)(ANA256便14:15)飯塚に帰省します。22日午前中、93歳の母に会う予定出です。飯塚のニューガイアに宿泊します。昼飯でも食べましょう!?

glucklichglucklich 2017/05/19 15:36 思いかえせば、ブログを始めたのは60歳のときでした。
脳梗塞の後遺症の回復に、娘がヨガとブログをすすめてくれたのが切っ掛けです。
おかげで、その効果があって、運動機能も体力も元通りです。
ありがたいことだった、と感謝しています。

熊さん、
了解です。中学時代の同級生たちが食事会を予定しているようです。
僕も参加します。

2017-05-09   山にはいろんな花が咲く

藤の花が池に浸かっていたので切ってきた。

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枝がない花の房だけを大きな器に入れただけ、

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昨日、夕方の散歩で、アザミの花がたくさん咲いていた。   名前のわからないつる草の花が咲いていた。

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若葉を出してまもないシダの群生があった。 大きく育つとこうなるようだ。

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黄色い花が咲いていた。

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散歩の帰り道、遠くの景色黄砂で煙っていた。

2017-05-07   五月になって

久しぶり、唐津焼 高麗窯にでかけた。

四月二十九日、いい天気だった。

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窯元のおじいさんと話がはずんでいた。 「我一人横に行く」!!   なるほど…と思った。揮毫文字も額装には収まらないようだ。

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話は展示場を移動しながらいつまでも続いた。       おじいさんは話しつかれて、腰をおろした。

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数年前に買った「はないけ」の様子を見てもらった。 器の作者はとても嬉しそうだった。

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五月の一日、僕の友人たちが Le-Haru の新しい教室を訪ねてくれた。晴さんはいつも同じ服装だ。

2017-04-23   刀剣と居合の講演会

[]昨日の22日土曜日、箱嶌さんの刀剣研究会が開催された。

場所は大丸三越のある渡辺通4丁目の四つ角から南東へ300mほど、

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研究会開催の前に柳生新影流、柳心会の蒲池十三宗家を偲んで初期の門弟の対談があった。

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戦後間もない頃、柳心会の道場が再建されて間もない頃、両人が若いころの貴重な話が聞けた。

福岡藩伝柳心会、柳生新影流、免許皆伝の藤田氏と蒲池流の居合道場を開かれた小金丸氏。

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いよいよ、第一回の刀剣研究会が始まった。

日本刀歴史やまつわる文化に興味のある人、居合同好の士、家に刀が伝わっている人など一五人ほど。

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いろんな資料をもとに、箱嶌講師おもしろい話があり、質疑があり、丁寧な応答がなされた。

会も中盤になると笑い顔や気楽な質問もでて、会場がなごみ勉強会は盛り上がっていた。

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時間余りが、短く感じるほど過ぎたが、次回は途中休憩と飲み物の用意があればと思った。

会費は無料だが、次回はむしろ飲み物代と資料代くらいは頂いてもいいのでは、その方がいいのでは、と思った。

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講習会は終わっても、展示してある日本刀を、いつまでも興味深げに手にしたり、写真にしたりしていた。

2017-04-21 放射能の被害

[]きょう、午前中はエッセイ教室

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きょう提出した原稿は、


福岡市民劇場「島」の公演を観に行った。      中村克博


 一瞬の光で命を失うことのないように

 吸った空気で命を失うことのないように、とは原作者堀田清美の言葉らしい。

あらすじを劇場会報から拾えば、

   一九五一年、瀬戸内海小島。二十歳のときに原爆に遭い、九死に一生を得た栗原学は、故郷の島へ戻り教師をしている。島は、前年に始まった朝鮮戦争特需によって支えられ、学の妹・史はアメリカ進駐軍臨時雇いで働き、叔父大浦は、?魚雷ばらし?で儲けている。学の教え子である川下家の次男・邦夫は高校への入学が決まっており、かっての教え子・玲子も学を慕い、よく家にやって来る。のんびりした発動機船の音とハンマーの音が交差する島に、ある日、東京から学の同級生清水が現れて…

終戦から6年が過ぎていた。朝鮮戦争特需に支えられている瀬戸内海の島。呉に近い小さな島が舞台になっている。呉は広島から三〇キロ余り、当時のバスでも一時間はかからない距離だろう。青年教師・学は、二十歳のとき広島被爆していた。いまは母のゆう、妹の史とともに暮している。そんなある日、東京で働く同級生清水が訪ねて来たことをきっかけに、平穏暮らしに変化が始まる。

学は切なく恋している教え子・木戸玲子との将来を考えて?島?を出たいと思いはじめていた。もちろん、母や嫁入り前の妹への思い、長男としての責任自覚している。そこに、被爆のため時折り体調がすぐれない苛立ち、被爆者への差別、GHQと政府被曝実態隠蔽と将来への危惧が重なって悩んでいる。そんな折、隣人で親しくしている、にぎやかな川島キンさんが白血病で急死した。被爆から七年目、このころから白血病で亡くなる人が急に増えていたが国民には放射能汚染原爆症についての実相公表されなかった。

 僕はこの演劇を観るまで、広島長崎原子爆弾投下による被害について詳しい知識はなかった。調べてみようとも思わなかった。毎年、八月になるとテレビの関連する映像を見るくらいだ。この日は防災放送の大きなマイク黙とうの呼びかけをするので、折がよければ起立して一分間ほど目をつむって頭を下げている。しかし原爆について考えたことは無かった。第二次世界大戦日本が戦った大東亜戦争とか太平洋戦争とかで起きた出来事の一つだと思っていた。

第二次世界大戦の人的被害をみると、戦死者は、いろんな統計があるのだが連合国側で、ソ連が二千万人、中国が九百三十万人、ポーランドが五百四十万人、ユーゴスラビアが二百三十万人、インドが二百万人、イギリスが六十八万人、フランスが六十万人、アメリカ四十万人、ギリシャが三十万人、オランダが二十万人。枢軸国側で、ドイツが六百三十万人、日本が二百九十万人、ルーマニアが八十万人、イタリアが六十一万人、ハンガリーが六十万八千人、チェコスロバキアが二十万人、フィンランドが十一万七千人、タイが八万千人、ヴィシーフランスが一万人、全世界推定では、軍人が二千三百万人、民間人が三千万人となるらしい。

一九三一年(昭和六年)の満州事変、一九三七年(昭和一二年)の盧溝橋事件と第二次上海事変から南京攻略戦の日中戦争へ、そして、一九四一年(昭和一六年)の真珠湾奇襲から太平洋でのアメリカとの戦争シンガポールインドネシアビルマでのイギリスオランダとの戦争オランダフランスドイツ占領していた)、それらの大東亜戦争太平洋戦争についての東京裁判史観まやかしは、アメリカイギリスなどの当事者から、それまでとは違う情報が出始めてこれまでの定説が変わりつつある(なぜこの時期にと勘ぐれば彼らの思惑は想像できるのだが)。それよりも近年のインターネットの進化と普及によって、いろんな情報が誰でも手に入ることが歴史真実を暴きだす手助けになっている。新聞テレビに依らないでも、自分情報分析判断ができるのだ。政府による情報操作プロパガンダもできにくい世界になっている。

僕は福岡百道パレスで演劇「島」を観ながら、福島原発事故のことが頭に浮かんでいた。そういえば、二〇一一年三月一一日に起きたあの事故も七年目にはいった。

家に帰って、福島原発事故についてインターネットで調べてみた。

福島県は二〇一六年七月五日までに、東日本大震災東京電力福島第1原子力発電所事故による県内外への避難者数が九万人を下回り、八万九千三百二十三人になったと発表した。

福島原発事故によって福島県内に拡散した放射性物質除染した際に発生した除染廃棄物福島県だけでも最大で二二〇〇万立方メートル…これは東京ドーム約十八杯分にもなる膨大な量、二〇一六年六月三十日は福島県内の放射能に汚染された除染土を日本全国に分散し、道路防潮堤の下に埋める方針正式に決定した。

   第一原発原子炉建屋には大量の地下水が流れ込んでおり、一日約四百トンの汚染水が発生している。東電放射性物質を除去する多核種除去装置「ALPS」を使い、汚染水浄化しているが放射性トリチウム三重水素)は除去できず残る。東電はこの処理水を敷地内のタンク約一〇〇〇基に保管しているが、汚染水の総量はすでに八〇ンを超えるという。

   

児玉龍彦東京大学アイソトープ総合センター長の、衆議院厚生労働委員会での発言日本記者クラブでの質疑の様子をユーチューブで長い時間みていたが、話は難しく僕にはよく理解できなかった。放射能放射線についての専門的な知識がないし、まして、それが及ぼす人体への影響は医学的なその分野での知識がないと、判断ができない。

二〇一五年三月一三日付の? 報道するラジオ“「東日本大震災4年〜福島原発のいま」という映像ユーチューブにあった。京都大学原子炉実験所助教小出裕章という人が聞いてびっくりするような話をしていた。

原子炉が壊れてしまっている訳で、格納容器という放射能を閉じ込めるための最後の防壁も、多分あちこちで穴が開いてしまっていまして、水を入れてもみんな漏れてきてしまうという状態ですので、今でも放射性物質大気中、あるいは汚染水としてあちこちに漏れています」

「これまでに福島第一原発事故放出されたセシウムの量というのは、今までの物と合わせるとどれぐらいになるんでしょう?」

「はい。えー、どこまで正確かよく分からないのですが、日本国政府がIAEA国際原子力機関という原子力を推進する団体に提出した報告書があります。それによりますと、1.5×10の16乗ベクレルという数字が書かれていまして、それは広島原爆がまき散らしたセシウム137に比較すると、168発分に相当しています」

 このあとも、解決のめどが立たない現状の説明がつづいていた。このようなことが事実なら、一体全体、我々はどうするのだろうか。

平成二十九年四月二十日

2017-04-13   刀のお話

[]来週…「日本刀剣歴史文化研究会」が開催される。

初心者講座を四月二十二日(土)十四時より

福岡市中央区渡辺通五丁目14−10 サトウビル601

世話人 箱嶌八郎 092−761−3685

電話でお申し込みください。女性の方もお気軽にどうぞ!! だそうです。

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上記の研究会の案内をしようと、刀を写真にしようとして、

はて、刀掛けに正しく置く方法は・・・と考えた。つまり知らなかった。 抜き身で置くことはないだろうが…

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柄は右左、どちらに置くのだろうか、刃は飢えを向けるのだろう。

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この置き方は、なんだかシックリこないようだが…

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脇差や前差しと置くときには、どうするのだろう。

当日の会場には真剣が数多く展示されるようだ。ガラス越しでなく、触ることもできるようだ。

柄や鞘などの拵えも年代順にいろんな形のものが見学できるらしい。

刀の拝見の仕方、見どころ、それに刀にまつわる小話もたくさん聞けそうだ。

居合の各流派の方々はモチロン、刀に興味のある人なら老若男女とわず、どうぞお越しください。

2017-04-08 雨上がりのコブシ

[]昨日の金曜日、午前中はエッセイ教室、夕方から居合稽古

暖かい一日で、居合稽古は汗ばむほどだった。

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居合稽古が終わって、宗家が柳心会のパンフレットに載せる写真を撮っていた。

ぼくも、ブログ用に横から数枚撮った。

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僕はあいにく一眼レフを持参していなかった。最近はスマートフォンでも、それなりによく撮れる。

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きょうの土曜日、お茶稽古の後すこし休んで雨上がりの花の写真を撮った。

ズームレンズを使ったが手ぶれでうまくいかない。

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雨のつゆが花びらに光って美しかった。

今度は単焦点レンズ三脚を持ってきてスローシャッターで撮ってみよう。

[]昨日、エッセイ教室に提出した原稿は、


アテナ銀貨出版準備中       中村克博


 このエッセイ教室で書き溜めた「アテナ銀貨」を出版することにしました。出版販売の展開を郁朋社さんに依頼して、先月からその作業が始まっています。小説原稿本体とあらすじ、それに著者の経歴をSDメモリーカードに入れて先方に送っていますが一回目の校正が今月中に終了する予定です。それで次に、おもな登場人物を紹介する原稿を送ろうと思っています。

 本を出版するからには多くの人に読んでもらいたいし買っていただきたいです。本屋さんの店頭で、本の表紙が眼に留って手に取れば、まず、あらすじを読み、次に目を通すのが登場人物の紹介だろうか…と思う。

「これはおもしろそうだ」と思える登場人物の紹介をしたい。それで、教室先生や皆さんにそのための助言と指導が頂けると有り難いと思い、お時間拝借しようとしています。よろしくお願いします。 


おもな登場人物(出場順)


栄西

永治元年(1141年)〜建保三年(1215年)香椎宮領家であった平頼盛の援助で南宋遊学するが、平家が滅亡してからは鎌倉と親密になる。源頼朝から寄進された博多の地に聖福寺を、また北条政子創建した鎌倉寿福寺、さらに源頼家創建した京都建仁寺など多くの禅寺を開山する。日本臨済宗開祖とされる。喫茶の習慣を日本に伝え『喫茶養生記』『興禅護国論』などの著書がある。

この物語では、南宋貿易の元締めとなる聖福寺を拠点に、我国のありようを模索しつつ朝廷源頼朝との連絡に京、鎌倉を行き来する。日本国内に宋銭を普及させ、鎌倉による貨幣経済での支配体制作りに勤しむ。為朝と同年配の指南役でもある。 

為朝

保元の乱に破れて伊豆大島に流刑されるが、紀伊熊野に逃れる。当時の熊野三山支配するのは為朝の実の姉であった。平家が滅び頼朝鎌倉を開くと九州に渡り彦山英彦山)に隠れた。その為朝を栄西が訪ねることから物語は始まる。

鎌倉の追及を逃れるため、為朝は栄西のすすめで壱岐島へ逃れる。栄西にたのまれ平家難民琉球へ運ぶが途中でイスラムの船団との海戦を余儀なくされる。そのおり海商マンスール出会う。琉球からの帰途、マンスールが為朝に随行することを願いでる。マンスールから贈られた優美イスラム船で宋銭一万貫を敦賀の海まで運ぶが、朝廷からの密使が急ぎ京に出向くようにとの、みことのりを伝える。

定秀

豊前彦山の修験僧で刀鍛冶保元物語では為朝に従う三町礫の紀平次として登場する。敗れて奈良東大寺千手院に逃れ鍛刀の技を十余年修練した。後に彦山三千八百房、坊舎八百の学頭を務める。豊後国僧定秀作と銘文の太刀が現存する。豊後行平の祖である。

沙羅

定秀の娘。幼い時から兄とも慕っていた行忠の嫁になる。源新宮行忠は為朝の甥であるが栄西のはたらきで夫婦して豊後大友の地に移り住む。これによって彦山鎌倉との和睦がなる。

丁国安

博多居住して交易船数隻を采配する南宋貿易商人、南宋の都、臨安に家族がいるが宗像神社宮司の娘タエを歳の差のある嫁にして恐妻家博多網首である。栄西とのつながりが深く、為朝とともに琉球まで十一隻もの外洋船団を率いて航海するが途中、トカラの海でイスラム船団との海戦に遭遇する。

タエ

宗像神社宮司の娘、幼い時から海と船が大好きで腰には家伝来の小太刀を差している。夫の丁国安の船に乗って航海するのが楽しみの世話女房である。 

チカ

壱岐の国、芦辺の豪族西文慶の娘、海も好きだが馬に乗るのも巧みである。半弓の使い手でもある。アラビアの海商マンスールを婿に迎える。

行忠

第十九代熊野別当行範の息子。叔父の為朝に従い熊野から彦山へ来る。彦山の僧定秀の娘を妻として豊後に移り、名工紀新大夫行平になる。行平は後鳥羽上皇番鍛冶の一人、国宝古今伝授太刀などの名刀を鍛造した。 

惟唯

豊後大神一族の名門、戸次家の嫡男彦山暗殺団を率いて為朝を襲い失敗し負傷する。許されて為朝に従う。為朝軍の将として鬼界ヶ島の陸戦で頭に重傷を負う。のちに平戸松浦の二の姫に婿入りする。 

兵衛

黒崎兵衛、先祖安倍宗任と共に筑前大島に流された蝦夷豪族末裔壱岐芦辺の沿岸帆船の船頭であるが大型の外洋交易船の船長も務まる。海戦での操船も巧みである。海ではいつも為朝のそばにいる。

次郎

高木ノ次郎といい豊前添田地侍の息子である。為朝に従い平戸海戦鬼界ヶ島の陸戦、トカラでのイスラムとの海戦と戦いにくれる。そのおりマンスールと同じ船室で戦傷の養生をして義兄弟の仲になる。高麗海賊との戦いでも重傷を負いマンスールの美しい女奴隷介護を受ける。その二人を嫁にと進呈されて戸惑う。

マンスール

アラビアの海商、十字軍交戦中の本国鬼界ヶ島硫黄を送ることが使命であったが、イスラムエルサレム奪回してキリスト教軍と休戦になりマンスール仕事がなくなった。主人でもあるイスラム盟主サラディーンが死亡したことにもより、為朝に従い壱岐島に渡る。

栄西の密命を受けアラビアの船団を率いて黄海を渡り金国に交易する。その帰途についた夜明けほどなく南宋戦艦に捕捉され壮絶な海戦を展開する。のちに壱岐芦辺の姫、チカの入り婿になる。

イヌブル

マンスールが父から譲られた奴隷マムルーク隊長マンスールの忠実な部下でアラビア船団の指揮を執る。マンスールを迎えに壱岐まで来るが、なりゆきで金国との交易黄海渡航するが往路で高麗海賊に襲われ、帰途には南宋戦艦待ち伏せていた。どうにか壱岐に帰り着き、マンスールから船団を乗組員ごとゆずられアラビアに帰還する。

月読神社の女宮司

京の朝廷から派遣されている壱岐の月読神社の女の宮司、月読神社には為朝の本陣が置かれ、五人の巫女と為朝の身の回りの世話をする。為朝とともにアラビアの船で敦賀の海へ、のどかな航海をしたおり、京でともに暮らそうと誘う。

平戸の二の姫

平戸松浦の次女、平戸水軍の指揮ができる女将、体も大きく髪は潮焼けして茶色であるが和歌をたしなみ教養もある。栄西のとりなしで、戸次惟唯を婿養子にし、その妻となる。これによって平戸松浦豊後大友とは姻戚となるが為朝とのかかわりが、むつかしくなる。

二人の禅僧

聖福寺の若い禅僧で、宋の言葉を上手に話す。武勇に優れている。諸学を学び、交易事務や庶務に明るい。栄西意向を忠実にはたし為朝にいつも随行して補佐している。

2017-04-06 山もあたたかくなってきた

花が咲きはじめた

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桜が咲いている。写真は昨日の朝だが、曇って朝日に輝いてはいない。

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桃の花が咲きだした。

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ボケの花も咲きはじめた。

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今年も、近所のリンゴ農家から伐採した枝をもらってきた。二年もすれば、いい薪になる。

2017-04-02    青春の門

中学校時代クラス会があった。

久保白の山小屋にあつまって、軽いランチの後しゃべった。

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天気は晴れたり曇ったり、アラレが降ったり、風が強かった。 

食事のあと見晴らしのいい小部屋に移動した。コーヒーがなんともうまかった。

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暖炉のたき火や、石油ストーブそれに日なたの暖かさがありがたい花冷えの日だった。

部屋が狭いと寄り添う距離も近くなる。

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同窓会は久しぶりに会っても、すぐに打ち解けて昔のように話がはずむのは不思議だ。

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我々の中学時代五木寛之が描いた青春の門と同じ場所と年代なのだ。 先生は益々お元気!!

2017-03-28   山にも春が来た

久しぶりに堂々としたニワトリを見た。

広い鶏舎の土の上をゆったりと歩いていた。

知り合いの大工さんの作業場に打ち合わせに行くと、動物園のような柵の中に数種類の鳥がいた。

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この雄鶏は四五羽の牝鶏を従えて、ときおりその背中に乗って押さえつけていた。

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春の花が咲きはじめている。

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部屋の床の間も春の花になっている。

菰田の住人菰田の住人 2017/03/30 21:11 鶏を描き続けた伊藤若冲の鶏の様に立派な姿ですね。

glucklichglucklich 2017/04/02 22:35 こんなニワトリが生んだ卵を食べたいね。

2017-03-18   居合の稽古

[]昨日は夕方から居合稽古に出かけた。

午前中のエッセイ教室を終え、八木山に帰って再び出かける。福岡を二往復だが、

しかし、これも今回が最後になる。来週からは福岡にとどまったままで道場に行ける。

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今日も新人が稽古に参加した。毎週のように入門者がふえている。   宗家が刀の持ち方から指導する。基本が肝心だ。

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宗家のあとに、若い師範が何度も、何度もやってみせて指導する。

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宗家が高段者に組太刀演武指導されていた。  入門希望女性道場稽古風景を見学していた。

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高段者も新人も7時から8時半まで、相手との組太刀個人演武稽古を思い思いにやっている。

福岡黒田藩柳生新影流、柳心会は入門者を募集中です。

場所・福岡市中央区大濠1丁目 福岡武道館

道場への入門は、稽古のあっている日に直接おいでになるか、

事務局へお電話下さい。

092-523-6283または携帯090-6299-5289(清水)まで

ホームページは http://www.shinkage.jp/

道場の見学、体験入門は随時自由にどうぞ!!

2017-03-17   昨日、小石原。今日はあまざけ作り

[]昨日、小石原焼き物を買いに行った。

里帰りした金沢の友人夫婦と一緒に出掛けた。

福岡ホテルに迎えに行って、高速道路で60分以内で着く予定が道を間違えて、

鳥栖をすぎ熊本の近くまで行った。山道日田まで戻った。道を誤れば新しい発見があるもんだ。

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いろいろ窯元をまわって、ここに来た。来るたびに斬新な発掘をしたような作品をつくっている。

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窯開きをしたばかりの登り窯を見せてくれた。 なぜか、巨大なスピーカの部屋に案内された。

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道路をはさんで前にある銘木店にいった。黒柿の床柱が並んでいた。びっくりした。一本、400万円とか言っていた。

ここにも、巨大なスピーカーが下がっていた。静かな曲がゆっくり小さく流れていた。大きければいいもんと違うだろうが・・・


きょうは午前中、エッセイ教室だった。


あまざけ作り                中村克博


あまざけを作ることが僕の役割になってひと月になる。二合ほどのもち米を寸胴鍋で炊いてお粥を作る。炊き上がると、ほどよい温度になるまで冷ます。この場合、フライパンに水をはってその中に寸胴鍋を漬け、熱々のお粥しゃもじでゆっくりかき混ぜる。スティック温度計が六五℃になったら寸動鍋を取り出して麹をくわえる。一キロの麹をお粥とよく混じり合うように満遍なく攪拌するが、あらかじめ麹をよく揉みほぐしておいた方がうまくいく。麹をくわえた後には鍋の温度が下がっているので再び火にかけて六五℃になるまで温め直さなければならない。そうして仕込み終えたあまざけの素を発泡スチロールの箱に入れて一晩ねかすと、朝になるのが楽しみになる。

朝になると、発泡スチロールの箱から鍋を取り出して出来上がったあまざけを適量、手鍋に移す。粉末にして乾燥させた生姜の粉をくわえる。それから手鍋を温めるが、我が家ではその前に豆乳を少量注ぎ足すことになる。

まず、母のところにコップ一杯のあまざけをお盆にのせていく、

「そうね、いただこうかね」

 母は炊事の手を休めて椅子に座る。腰の萎えた老猫が母によろよろ近づいてミャー、いや、ミギャ〜と皺がれた声を出す。

コップはテーブルに置かず、お盆から僕が手渡すと、母は、おいしそうに一口飲む。それを見とどけて離れの自分たちの部屋にもどる。

なぜ我が家で、あまざけを作るようになったか思い出せない。僕が自分から作る気になったとは思えないので、たぶん妻が提案したはずだが、そういえば、ちかごろ、あまざけ作りがブームらしい。どうも妻は世間のはやりごとに同調する気風があるようだ。

そういえば、僕の友人にあまざけ作りの名人がいて、彼に我が家まで御足労いただいて妻が教わっていた。そのときに発泡スチロールの箱と麹と小瓶につめた生姜の粉末を提供してくれた。僕はあまり興味がなかったので、ときどき台所に顔を出したが、ほとんど自分の部屋で本を読んでいたのを思いだした。

麹は必要な量を前もって注文して毎週月曜日の二時すぎに飯塚市内の麴屋に買いに行く。一週間に一日だけしか販売しないようだ。妻の車を僕が運転して野菜や肉やコーヒーの買い物のあとに麹屋に着くが麹屋の前の狭い道路交通量が多い。僕は車の中で待っている。愛想のいい麹屋の奥さんが妻に麹を渡しているのが見える。

三回目かのとき妻にたのまれて一人で麹屋に行った。

愛想のいい奥さんはいなかった。麹屋の主人が、

「どれくらいの量ですか」と聞いてきた。

「これくらいです」と両手の指を近づけて大きさを示した。

 主人は了解して麹をビニール袋に入れてくれた。

 家に帰って五〇〇グラムだとわかった。注文していたのは一キロだった。僕もいい加減だが麹屋のおやじにも、こまったもんだ。

 このエッセイを書いているいま、僕が小学生のころ、母があまざけを作っていたのを思いだした。飲ませてもらった味は思い出せないが、あまざけを発酵させるのに、布に包んだ容器を炬燵の中に入れていたのは鮮明に覚えている。それは一辺に二人は座れそうな大きな掘り炬燵だった。僕の前に御嫁入りが近い、きれいなお姉さん座っていた。お店の事務員さんで帳面や伝票を広げ算盤をはじいて仕事をしていた。

部屋の外から母がドアを半分開け顔をのぞかして、僕に炬燵の火を小さくするように言い付けた。僕は炬燵掛けをめくって暗い炬燵の中に息を止めて入った。練炭の赤い穴がいくつも見えて、ムッとする熱さと練炭の燃える臭いがした。七輪の空気調節金具は焼けて触れないほどだった。目が慣れると僕の鼻の前にお姉さんの足があった。かるく閉じられたストッキングの足が燃える明りで色づいて見えた。ひざっ小僧が見える。顔がほてって頭がくらくらして来た。息を吸いに炬燵から出た。お姉さんは先ほどと変わらず鉛筆を指で挟んで算盤をはじいている。

二キロのもち米で作ったあまざけは、かなりの量だが毎朝コップ一杯ずつ飲んで一週間はもたない。ぼくは、妻から教わった通りに、あまざけ仕込みを楽しんでいる。作るのが面白いし、出来上がりが楽しみだし、飲めばおいしいし、体にも良さそうだ。これからも欠かさず僕の役割を続けようと思っている。

この書き終えた原稿を笑いながら読んでいた妻が、私は、はやりごとに同調したりしませんよ。と何度も抗議していた。そうだろう。

麹屋のおやじが、

「麹をいくら作っても足りません」と言っていたのを思いだした。

平成二十九年三月十五日

 

2017-03-08 春の雪

朝から雪が降っている

花開きて風雨多し…

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朝早くは晴れ間が見えたが、その後は雪になった。

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積ることはないようだが、午後からも降っている。

2017-03-07 アラレが降った。

霰が降ってたが、春らしい花がいけてある。

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2017-03-02 春が近い

ベランダ植物に花が咲きはじめた。

今はまだ、夜になる前に防寒シートでくるんでいる。

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午前中は晴れたり曇ったりしていたが、午後からは雷が光って大粒の氷雨が降っていた。

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朝はまだ水たまりが凍ることもあるのに、花は春が近いことがわかるらしい。

ハナママハナママ 2017/03/02 19:00 可愛いお花ですネ。其れにしても早いですネ。
今日はこちらも気の所為か暖かいです。
其処迄、春がやって来てる感じです。✨✨✨

LAKILAKI 2017/03/06 21:07 週末に犬の散歩をしてたらツクシを見つけましたよ。

glucklichglucklich 2017/03/08 14:05 春になって、雪が降る。
そんなことも、ありますよね。

ハナママハナママ 2017/03/08 18:10 真ん中の紫のお花、ローズマリー。コレ、ハーブで肉料理等に使う。
我が家のある香里園の駅に1階にも2階にも歩道にも沢山、植わっている。
家の婿殿は外国人で其れも料理が得意。勿論ハーブにも詳しい。
其のローズマリー(写真のと同じ)を見て「一番、上等なのがどうしてコンナに👀」って言う。
私も2階のは🐶も余り通らないし時折、頂戴する。

ハナママハナママ 2017/03/08 18:15 👀 沢山   👀 犬 が文字化けしちゃった。

glucklichglucklich 2017/03/17 23:54 この写真から2週間過ぎて、今は花がもっと咲いていますよ。

2017-02-23   自分で梅をいけた。

自分で梅をいけた。

静かに降っていた雨が朝には止んで、梅の枝を切ってきた。

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活けてみるように、うながされて気は進まなかったが、やってみるとおもしろい。

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おもむきが乏しいようで、キンカンの枝をとってきた。

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よくできたと、ほめられた。 室町時代のむかし花は男がいけていたらしい。