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2017-12-02    わびすけ

*昨日は午前中、エッセイ教室にいった。

エッセイ教室忘年会だった。夕方からは居合稽古なのでノンアルコールビールを飲んだ。

近ごろのノンアルコールビールは本物よりうまい気がした。

エッセイ教室忘年会が終わって、道場に行こうとしたが気が変わって八木山に帰った。

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わびすけ                        中村克博


 露地の侘助が咲きはじめている。先週、お茶稽古のときに一枝とって使った。葉を三枚残して一輪を徳利に差してみたが寂しい。色づいたドウダンツツジを添えてみた。映えが強いので燃えるような葉が静まるまで間引いた。侘助の垂れすぎた頭を少し起こすと思ったよりいい感じになった。床の間に花をいけている間に、稽古相手の同年輩の従兄弟は炉に炭を熾していた。

母が茶室に来なくなって随分になる。それまでは杖を突いて自分の部屋から茶室までひと足ひと足歩いて、疲れると途中立ち止まって木の枝をながめたりしていたのだが、石段を上がるのが大変なようで茶庭飛び石を歩くのが見ていて危なっかしくなった。二時間ほどの稽古に姿勢を崩さず同席しているのは無理になった。

炉の茶釜がたぎる音が聞こえ、床の花と掛けられた文字にお辞儀をして、いつもなら母がいる畳に一礼して稽古を始めた。

稽古相手の従兄弟が薄茶を飲み干して、

お茶稽古を始めてもう十年やな」

「もうそげんになるかね 〜」

 従兄弟は客席に正坐して右手の指を折りまげながら、

「うん、来年は九年目バイ、足掛け十年たい」

「俺は、ようまぁ、怒られたな」

「はは、親子やけんな」

「あんたは、覚えが早い、俺はなかなか覚えきらん」

「いやぁ、それでも所作はきれいになったよ」

 茶碗の水を建水にかえして、

「いろいろ聞くと。小癪なこと言わんで言われたとおりにしなさい。ち言われたよ」

「はは、写真撮っても、よう怒られよったな」

 道具の拝見が終わって、今度は僕が客席についた。

 そういえば習い事の心構えとして、肝に銘じておこうと思ったことがある。先週の二十三日は勤労感謝の日で祭日だった。藤田師範が昼から八木山に出向いてくださり居合稽古をした。参加者は僕一人だったので個人指導をみっちり一時間半ほど受けることになった。福岡黒田藩柳生新影流柳心会の基本刀法から奥入りの技まで、丁寧にみてもらった後、休息を少しだけとって、古式の技を数本習った。

藤田さんの居合との出会いは、まだ若いころ、戦後間もない二十代のころ、先代の蒲池宗家から職場仕事の合間に習ったのが始めらしい。藤田さんの職場蒲池宗家と同じところだった。仕事が終わって、倉庫の片隅に木剣を持って出かけて習っていたが、そのうちに正式蒲池道場に入門した。それ以来、木剣と真剣を身近に置いての居合人生が始まったようだ。中年になって自分事業を起こしてからの二十数年は居合道場から遠ざかっていたが、一人でやる個人稽古毎日毎日、欠かさず続けていたようだ。

六十歳をすぎて再度、福岡柳生新影流の道場を訪れ蒲池宗家の跡を継いでいた十四代長岡宗家道場に入門したらしい。二十数年ぶりに道場での稽古を見て、昔と変わっている技があるのに驚いたらしい。自分の知らない技が幾つもあるのにも戸惑ったようだ。当初は教えられる技に納得できずに悩んだこともあったようだが気持ちを替え初心に帰って稽古に励んだようだ。そして今は十四代宗家のもとで免許皆伝を伝授されている。

八木山の藤田道場十四代宗家から特別に認可された柳生新影流の道場で、毎月第二と第四日曜日の午後二時から始まる。福岡の新影流道場で習う技を一時間半ほど稽古した後で休息をする。藤田さんは気兼ねそうにタバコの火をつける。僕は気がねしながら後ろの窓を開けるが煙は窓から出ずに道場拡散する。いろんな話を聞く、口伝とはこんな会話の中にもあるようだ。

一服が終わると古式の技の指導を受ける。今の流儀にはない昔の技や、今の型になった原型のような技を習うのが楽しみになっている。藤田さんの知っている古式の数はそんなに多くはないようだが、これまで僕が習って身に付いた古式の技はまだない。

代々受け継がれる居合の技が時代と共に変化していくのは仕方のないことだと思う。幕末山岡鉄舟若年寄として、攻めてくる官軍陣地に単身おもむき西郷隆盛駿府談判をおこない江戸城無血開城するが、明治五年には宮内侍従として明治天皇に終身御用掛として仕えた。剣豪としても偉傑といわれ剣禅一致を求めたが主要な文言を収録した「剣禅話」のなかに

「吾れ密かに思いらく、世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を斬らんが為の思いなるべし。余の剣法を修るや、然らず。余はこの法の呼吸に於いて神妙の理に悟入せんと欲するにあり」と・・・。

文言はまだまだ続くが、要するに剣は人を斬るための修業ではない、心身練磨の術を積むことだと言っている。戦乱の世、人を斬るための剣が徳川二百五十年のあいだに変わっていたのだろう。

また、徳川家康から秀忠、家光の三代の剣法師範役、柳生宗矩の「兵法家伝書」に、

  「兵法は、人をきることばかりおもふは、ひがごとなり、人をきるにはあらず、悪をころすなり。一人の悪をころして、万人をいかすはかりごとなり。今、この三巻にしるすは、家を出でざる書なり。しかあれど、道は秘するにあらず、秘するは、しらせむが為なり。しらせざれば、書なきに同じ」

また、時代は上って室町初期、世阿弥の「風姿花伝」には、

  「秘する花を知ること秘すれば花なり。秘せずは花なるべからずとなり。この分け目を知ること、肝要の花なり。云々・・・」と。

 

藤田師範は今年免許皆伝を授与されたが、先日、宗家に今年の年末の稽古をもって引退する旨を表明して許されたようだ。八木山での道場継続するらしい。先週の八木山稽古を終えて雑談をしているときに藤田さんが道場での心構えとして僕に言った。

「中村さん、居合稽古はね。あなどらず、おごらず……」

「僕は、そうしてますが、だいいち、いつまでも下手くそやし」と口をはさんだ。

「うん、そうたい。ばってん、まだある」

「なんですか、それは」

「考えず、たい」

平成二十九年十一月三十日

2017-11-27   いけばな展に行った

今月の二十日(月曜日)草月流作品展を観に行った。

写真撮影をたのまれたが、観覧者が多くて三脚が使いづらかった。

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花瓶にいけられていない大作も、やはり、「いけ花」というのだろうか、

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山の中から掘り出した木片と花の組み合わせ、これも「いけばな」なのか、いいもんだ。

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どれも、うつくしい、気分がよくなる作品だ。

ハナママハナママ 2017/11/29 22:10 お流儀に寄って個性が在りますネ。何でも続けるって事は大変だけれど結果が出ると嬉しいです✨✨✨

glucklichglucklich 2017/12/02 22:05 草月流は、作者の思い思いの工夫でのびのびと創作するようですね。
日本古来のいけばなの伝統とヨーロッパの花文化との融合のようですね。
花教室 le-haru のほーむぺーじです。
http://www.hanabito.net/le-haru3/

2017-11-17  居合について書きはじめたが、

午前中、エッセイ教室に、夕方から居合に行った。

エッセイ教室に提出した原稿は、


    居合について書きはじめたが、            中村克博


 日本刀はいつのころから片刃で反りのある形になったのだろう。飛鳥、白鳳、天平時代両刃の直刀だったようだ。聖徳太子と言われる画像にも吉備真備銅像にも腰に下げているのは諸刃の剣だ。坂上田村麻呂征夷大将軍として蝦夷を攻めた平安時代の始め、そのころも諸刃の剣だったのだろう。

蝦夷兵士が使っていたのは蕨手刀といわれる。蕨手刀は柄頭が蕨の若芽のように、くるりと巻いているのでその名がついた。反りのある短い刀で馬上から片手で打ち下ろす。

 京都神護寺蔵の国宝で、頼朝とされる人物と一緒に描かれているのは毛抜き型の太刀といわれる。毛抜き型の太刀蝦夷兵士が使っていた蕨手刀から発展した。反りが深くて長い。毛抜き形の太刀は柄の握りに透かしが入って両手で使うことができる。この細長い隙間によって敵を切りつけたとき自分の手への衝撃を和らげることができる。

剣の短いものに長い棒状の柄を付けたものが鉾だが、このころはまだ槍はなかったらしい。集団戦闘で槍が使われだしたのは鎌倉時代も終わりのころだそうだ。南北朝時代になって南朝九州宮方の中心勢力となった菊池の騎馬軍団がめっぽう強かったのは日本初の槍騎兵の集団突撃によるものだった。信長時代になると火縄銃が出現する。いよいよ刀の出番はなくなるのだが。


そもそも刀はどんな使われ方をしていたのか。ヤフー知恵袋を覗くと、平安時代鎌倉時代の合戦について、次のような設問があった。


平安時代鎌倉時代はまだ、馬上の武士同士が一騎打ちをして勝敗を決する時代だったと思うのですが、

いくつか疑問があります。

対一の一騎打ちで合戦が進行していくのなら、一万人中の50人の精鋭を集めて 結成した部隊で戦をしたほうがいいのではないでしょうか?

このころの武士は剣術を習っていたのでしょうか?習っていたとしても、馬上で戦うのですから、必要じゃないと思うのですが…。

それとも、平安時代鎌倉時代には馬上で戦う為に考案され、始まった剣術の流派があったのでしょうか。

一騎討ちの際は槍や太刀を使って戦う距離まで互いに接近したら、ほとんど馬は動

かさずに、ただ敵の突きを避け、太刀で斬って、避けられ、また敵の突きを避け、太刀で斬って、、、、と繰り返すのでしょうか。

それとも互いに馬を走らせ、すれ違う瞬間に斬るのでしょうか。


ベストアンサーに選ばれた回答

この時代 合戦の主流は弓で、両軍の矢合わせから始まり両軍がぶつかります。この時両軍の名ある武将一騎打ちをしますが、徒歩武者や足軽クラスの兵も戦っているので、一騎打ちだけで勝敗が決まる物ではなく、総大将ともなれば一騎打ちなど応じる事はありませんし、廻がさせません。(大将が討ち死にすれば合戦は負けになりますから)

剣術は習っていません、馬の上から弓を射る 騎射が中心で刀は「打ち物」と言って補助的な武器でした。両軍の将校クラス武将が名乗りを上げ馬を接近させ お互い輪乗り(ワノリ、馬が小さく円を描くように走らせる走法です)をしながら弓を射る戦法で、矢が尽きた時は太刀を抜いて斬り合いますが、この太刀は馬上刀と言って 馬の上から歩兵の頭を斬ることが出来るほど長い刀です、それでも決着がつかないときは「いざ組まん」と組討(クミウチ)に入り相手を組み伏せて、鎧通し(ヨロイトウシ・九寸五分とも言う)と言う小さな刀を抜いて相手の鎧の隙間に突き刺してし止めます。

この時代 槍はまだ使用されておらず、奈良時代は矛が使用されましたが、騎射が中心となったため廃れました。その代わり歩兵が馬の足を斬ることが出来る薙刀(ナギナタ)や長巻(ナガマキ・刀の柄が1mぐらいある物)が使われました。槍が出てくるのは、南北朝時代短刀を使った菊池槍あたりからで 戦国時代のように侍大将が馬上で振り回す事はなかったようです。

大将は弓を使う(今川義元徳川家康街道一の弓取りと言われたのもこの辺から来ています)のが当たり前で、剣術は歩卒足軽などの意味)の技とされた時代です。剣術じたい1400年代、室町中期に念阿弥慈恩念流飯塚長威斉の天真正

香取神道流などが出てくるまで、体系だった剣術はありませんでした。


   ヤフー知恵袋に以上の回答があった。原文のまま引用した。


江戸時代の後期、平戸藩弟九代藩主随筆家でもある松浦静山心形刀流居合を修めていたそうだが自著の「剣談」に居合について述べている。

  居合とは読んで字のごとく、剣を抜くことにあらず、敵と居座り向かい合うとき、「心機に応じて発するところを勝つ神気」をいうのである。その習いの要訣にいわく、抜きて斬る者はその斬ること「鞘の内」にあり、と。敵のチラッと動くや即ち鞘の内にあってこれを斬る、という心づもりをおしえるものである。

また、「宮田流極意」という伝書には、

居というは一心の儀なり。一心居所に居ざれば万事をしること難し。依って、変に合わざるなり。一心居る所に居て変に応ずるを居合といい…。云々と。


居合というものを言葉にするのは難しそうだ。かえって訳がわからんようになる。

平成二十九年十一月十六日

2017-11-13 先週の6日から4日間

東京ディズニーランドに行った。

生まれて初めて東京ディズニーランドに行った。夫婦二人で行った。

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朝の10時から夜の10時まで、よくまぁ歩いたもんだ。しかし楽しいことは疲れない。

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トムソーヤカリブの海賊インディジョーンズを訪ねたいと思っていた。土産屋の帽子を買って被ってから、しばらくするとインディジョーンズになり切っていた。

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朝から晩までメルヘン世界を歩き回った。こんな体験は初めてだった。

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あくる日は八王子高尾山に登った。その前に途中にある武蔵陵墓地でお参りをして出かけた。山頂から富士山が見えた。

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夕食は日本庭園の広大な料亭で鳥料理をいただいた。

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次の日は靖国神社にお参りした。初めての参拝だった。

千葉の熊さん千葉の熊さん 2017/11/15 16:15 小生6日は、福岡→羽田→君津へ真直ぐかえりました。デズニーランドは我が家から電車で1時間のところにあります。あと3年もすれば福井市にいる孫が(2歳と0歳)来ることでしょう。今から楽しみです!次回来るときは、我が家にお泊まり下さい。

かずえとかずおかずえとかずお 2017/11/15 20:44 ディズニーランド12時間もいたんですね(^。^)
羨ましいです…写真インディージョーンズにかと思いました!

glucklichglucklich 2017/11/17 23:44 そうですね、熊さんのお宅はディズニーランドから近いのですね。
お孫さんと出かけるのにも便利ですね。

ディズニーランドには朝の10時ころから夕方まで、
引き続いて6時からはディズニー・シーに行きました。
我が子が小さい頃には、一緒に行けなかったけど、それも思い出…
夫婦二人で、異次元の世界で過ごす体験もすばらしいですね。

2017-11-05   同期会

きのう嘉穂高校の同窓会があった。

総会の後の学年同期会に参加した。

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吉原町の「さち」での同期会には三十人近くが集まって盛り上がっていた。

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久しぶりに、こうして会えるのもいいもんだ。

ドッグサークルドッグサークル 2017/11/06 15:24 昨日はありがとう😉👍🎶
千葉の熊さんも参加されたんですね☺

千葉の熊さん千葉の熊さん 2017/11/08 19:27 三次会は、中学の花岡君・泉君・高校同期の田中意思・小野山君らと納富さんの店に行き40年ぶりに博子さんに会ってきました。

glucklichglucklich 2017/11/13 16:10 熊さんも参加しました。
久しぶりに幼なじみと会えるのはいいもんですね。

2017-11-03 唐津くんち

きのう、唐津くんち、に出かけた。

今日エッセイ教室にもそのことを書いた。

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      「唐津くんち」に出かけた。        中村克博


朝ご飯を食べて終えパソコンに向かった。今日は昼から「唐津くんち」を見に出かける計画だ。明日はエッセイ教室があるのだがまだ何を書いていいのか決まっていない。文化の日で祭日だから休みだと思っていたのだが、いつもの通り第一金曜日なので開催されるそうだ。うかつだった。近ごろ貝原益軒のこと、と言うより益軒が生きていた日本社会の様子に興味が沸いて、そのころの著作資料を目がかすみ腰が痛くなるほど読みふける日が続いている。今回のエッセイにはそのことを書こうと思ったが、これは調べながら書くので時間がかかりすぎる。無理すればエッセイでなく資料のつぎはぎになる。それを「コピペ」というらしい。

それでもやはり益軒のことから書きはじめよう。徳川家では家光が三代将軍を継いで、黒田家は長政の跡を継いだ忠之の時代に益軒は幼少期をすごす。貝原家の知行地があった八木山で四、五年暮らしたそうだが、この地の加藤田氏より平家物語を借用して読んだとある。近いうちに村内のどこの加藤さんか近所のおばあちゃんにでも聞いてみようと思う。

益軒は当時としては長寿で八五歳まで元気に生きていたようだ。元禄をはさんむ徳川綱吉時代はいろんな出来事があった。参勤交代の制定、島原の乱鎖国令の徹底、寛永の大飢饉中国大陸では明が滅亡して満州族の清が進出キリシタンに対しては非常に苛烈弾圧政策、明暦の大火(振袖火事)、生類憐みの令、赤穂浪士事件、深堀事件、伊藤小左衛門事件富士山噴火、江島生島事件などなど、家光の代までの武断政治から綱吉に始まる文治政治への移行期で文藝絵画演劇なども盛んになった。綱吉は「能狂」と言われるほどの執着ぶりだった。おもしろ人物としては、和算の大家、関孝和がいる。漂着したヨーロッパ人にエンゲルベルト・ケンペルがいる。いまは、この二人について本を読んで勉強しているところだ。しかし、椅子に長く座っていると腰が痛くなる。

それで、昨日と一昨日は庭のカシの木の枝切をした。いい運動になる。秋の半ばをすぎて、日差しはいいし風は清々しい。枝のとっぺんまで十メーター以上あるが、もう四、五年も剪定をしていないので登っていっても木の中は枝が生い茂って高みにいる気がしないほどだ。片手用のノコギリで枝を落としていくと少しづつ見晴らしが良くなる。遠くの畑から煙が上っている。その向こうに色づいた山なみが見える。晴れた空に雲が高くて気分がいい。ふと下を見ると高いところにいる枝の上の足元が眼に入り不安になった。一瞬、枝に巻いた左腕の力がぬける気がして頭がもや〜とした。もうやめて下に降りることにした。落とした枝をトラックに積んで焼却する場所に運んだ。雨の降りそうな曇り空で風のない日を選んで火をつけることになる。あまり火が大きくならないように分けて燃やすが、この作業は楽しい。焚火はなぜか心が落ち着く、頭の中が空っぽになるようだ。カシの木は一回に二時間ほど二回にわけて二日がかりで枝を落としたが、危険を感じる高い枝は残したままだ。前回のときは用心して天辺まで切れたのに残念だがしかたない。

ここまで書いてパソコンを閉じた。もうすぐ、お昼になる。つづきは唐津から帰って書くことになる。唐津に出かける準備をしなければならない。妻が軽いお昼を運んできた。餅をかるく炙って干し海苔を巻いたものだ。沢庵と交互に食べて茶を飲んだ。

唐津までの道のり、車がすいていて一時間半ほどだった。天気がいい。都市高速の上から博多湾を横目でながめた。ヨットは出ていないようだ。しばらく山の中を走って唐津湾が見えてきた。沖に姫島がくっきり浮かんでいる。海はいいな〜、と思う。しかしヨットは木の上より危険だ。未練だ。恥じねばならぬ、と頭で思った。

夫婦の自宅に着いた。ちょうど四時だった。お土産に、出がけに買ってきた八木山の新米5?と八木山農家手作り味噌を喜んでくれた。婿殿は仕事でまだ帰っていない。妻と娘の話をしばらく聞いていることになった。そのうち話題が僕のことになった。娘が子供のころから、如何に、どれだけ無理解な親であったか、それに妻が同調して今でもそうだと言う。楽しそうに話す二人の会話を聞いていると、なるほど、そうだったのかと思い当たる節に気づかされた。二人についてではなく、年老いた母に対して僕がいかに無理解だったのか、いや今の現在でもそうなんだと気づかされた。僕をネタに会話する二人には少々腹立たしいが、よかったと思った。人の話は聞くもんだ。もっと昔に聞く耳を持って気づいていたら良かったのにと思った。

七時ころ、婿殿がにこにこして帰ってきた。僕ら三人はすでに娘の手作りの夕食を済ませていたが、一人、そそくさと食事を済ませて祭りでにぎわう唐津に街に四人で出かけた。僕は唐津くんちは初めて、妻は二度目、娘は三度めらしい。娘夫婦は来年は転勤になりそうで唐津を離れるようだ。秋田なら「ねぶた祭り」が見れる。秋田寒いよ。名古屋いいね名古屋にはどんな祭りがあるのかね。山車の通る道には人がいっぱいで歩けないほどだった。人をかき分け歩いた。人の流れに押されて歩いた。次々と山車がやって来た。大勢子供に太い綱で引かれてにぎやかな囃子太鼓や笛の音にのってやって来た。   

平成二十九年十一月二日、いやもう三日の二時だ。

2017-10-31   お宮参り

一昨日の日曜日、箱崎宮に孫のお宮参りに行った。

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雨模様だったが外を歩くときには都合よく晴れ間がでた。

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写真館で記念写真プロ写真の撮り方が少し分かった。

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あとの食事がおいしかった。お宮参りでなくても、たまにこんな食事もいいと思った。

ハナママハナママ 2017/11/02 17:52 おめでとうございます。

我が家の孫も7才、記念の写真も撮りました。
着物を着て大喜びでした。
言われる様に上手にポーズをとっていました。
流石、女の子です。✨✨✨

glucklichglucklich 2017/11/05 21:03 ありがとうございます。
家族であらたまる儀式も食事もいいもんですね。

2017-10-26   リンゴと柿

すがすがしい秋の日になった。

大型の台風が通り過ぎて、秋晴れの日が続くようだ。

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我が家の柿も食べごろだ。

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リンゴ園に行った。「王林」の旬が過ぎて次の「富士」の時期までもう少しだ。

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リンゴ園を歩くと青いリンゴがたくさん下がっていた。

2017-10-20  友人からの電話で、

今日エッセイ教室の日だった。

今日原稿


       友人からの電話で、           中村克博


 昨日の夜八時ころ友人から電話がかった。いま、NHKのBS3で貝原益軒歴史番組があっているので観るようにと言う。BSプレミア二〇一七年十月十八日(水) 午後八時から午後九時まで、六十分のドキュメンタリー歴史・紀行で「養生訓」を扱っていた。著者の貝原益軒は八十四歳で抜けた歯が一本もなく健康そのもの。その秘けつは夫婦旅にあった。益軒の健康長寿の知恵を現代科学の目で検証するそうだ。 

江戸儒学者貝原益軒の記した「養生訓」には「腹八分目」「酒はほどほどに」など今では常識となっている健康の知恵が詰まった健康本だとの紹介があった。益軒が病弱だった妻を支えるため、あらゆる健康法夫婦実践し、その効果を検証したが、それらを現代科学の目で見てみると、カロリー制限が及ぼす「長寿遺伝子」への影響や、夫婦仲と心筋梗塞リスク相関関係など、今の私たちにも役立つ健康のヒントが浮かび上がってくるとの内容だった。

友人は僕が最近、貝原益軒の生きていた時代社会状況を調べていることを知っている。それで、たまたまテレビで益軒のことが眼に留まったので親切に知らせてくれたのだろう。ありがたいことだ。なぜか分からんが、自分が取り組もうとしている課題に、まわりが気にかけてくれるとモチベーションアップにつながるのは不思議心理だ。

ウイキペディアを見ると、

貝原益軒一六三〇年十二月十七日(寛永七年十一月十四日)に生まれて、一七一四年十月五日(聖徳四年八月二十七日)に没した。江戸時代本草学者儒学者筑前国福岡黒田藩士、藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称久兵衛とある。七十歳で役を退き著述業に専念。著書は生涯に六十部二七〇余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』、『菜譜』、『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』、『大和俗訓』、『和俗童子訓』、『五常訓』。紀行文には『和州巡覧記』がある。

また、『大和俗訓』の序に「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」とみえるように、庶民や女子及び幼児などを対象にした幅広い層向けの教育書を著したとあるのだが、手元にある岩波文庫の「大和俗訓」は、開いても小さな字で読みにくいが、読んでも何が書いてあるのか僕にはよくわからない。江戸時代の初めのころ庶民子どもに向けて書いたそうだが、当時の福岡の人はすごいと、ほんとうだろうかとさえ思う。

思想書としては、一七一二年(聖徳二年)の『自娯集』、教義道徳教育等の意見を著した『慎思録』、朱子学への観念的疑問等を著した『大疑録』などがある。辞世の句は「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」。

貝原益軒の生きていた頃はどんな時代だったのかを勉強しているが、益軒そのものを研究しようとか、そんな大それたことは思ってもいない。個人に興味がある訳でもない。たくさんの著作インターネットでも手に入るが、難解で僕には理解できない。

関ヶ原の戦い一六〇〇年、大阪の冬の陣、夏の陣が終わったのが一六一五年、島原の乱一六三七年〜一六三八年(寛永十四〜十五)だから、貝原益軒が世に出た頃は、身近な戦がなくなって五十年から七〇年以上も経過したころで米の収穫が倍増し人口が増えた。ちょうど今の我々と同じように平和が長く続いた時代だった。新田の開発や金銀鉱山の採掘が盛んで、国内商工業が拡大発展して貨幣経済熟成していた。財政が逼迫しているのも今と同じだ。

 インターネットでこのころの江戸を調べると、

1、江戸幕府初の財政赤字

2、貨幣改鋳によるインフレ

3、初期商人の大名貸の行き詰まりと新興商人の台頭

4、大坂海運業の発達。京都から大坂へ 

5、職種の多様化・細分化・組織化の進行

美術では、尾形光琳本阿弥光悦野々村仁清が活躍した。人形浄瑠璃歌舞伎俳諧などが盛んになり、井原西鶴近松門左衛門竹本義太夫坂田藤十郎市川団十郎松尾芭蕉などがいる。学問では儒学が発達し、湯島聖堂設立され、医学・暦学・農書・和算などが普及した。そして、それらを普及させるため商業出版が行われるようになったのもこの頃らしい。 

貝原益軒と同時代に生きた人に松尾芭蕉がいる。生まれは寛永二十一年(一六四四年)没したのは元禄七年十月十二日(一六九四年十一月二十八日)現在の三重県伊賀市出身。病中吟と称して「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」はよく知られている。伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、実はその詳しい月日は伝わっていない。出生は、伊賀土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身の母・梅の間に次男として生まれる。母の父は伊賀流忍者の祖の百地丹波とされ、百地丹波の孫としての忍者説がある。

徳川幕府の隠密として仙台藩の動向を調べるべく、俳諧指導大義名分仙台藩に謀反の兆候がないかを調査していた。豊富な旅の資金関所の通過などは幕府後ろ盾があって可能である。旅当時はまだ四十代であるが健脚で移動速度がとても速い。「奥の細道」の旅の総移動距離は約二四〇〇kmで、総日程が約一五〇日となってる。これらの数値から一日あたりの移動距離を割り出すと二四〇〇割る一五〇=一五kmで、当時の単位に換算すると約四里となる。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日が含まれてる。つまり、一五〇日ずっと移動していたわけではないのだ。そのため、一日で五〇km以上も移動している日があることになる。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは常人では無理があると考えられる。という説がみられる。

江戸時代初期には旧豊臣系大名を中心に大名廃絶政策が取られたために、家康、秀忠、家光の三代の時代外様大名八十二家、親藩譜代大名四十九家が改易された。関ヶ原の戦い以降、江戸時代を通じて外様大名百二十七家、親藩譜代大名二十一家の計二百四十八家が改易されている。大坂の役で豊臣家が滅ぼされて以後、武力抵抗をした大名は皆無であり、全て無抵抗で城と領地幕府へ明け渡している。

福岡黒田藩では黒田騒動というのがある。一六二三年(元和九)藩主となった忠之は、ご法度の外洋軍船鳳凰丸を建造し足軽隊の増強など幕令をはばからぬ行為が多かった。家老栗山大膳はしばしば忠之をいさめたが聞かず。一六三二年(寛永九)大膳は豊後府内藩主竹中采女正とともに江戸にのぼり、忠之に謀反の心ありの旨を幕府に訴え出た事件がある。

また少し後になるが、博多豪商伊藤小左衛門は、寛文二年(一六六二)から、寛文六年(一六六六)の間に七回の密貿易朝鮮への武器の輸出)を行っていた事により寛文七年(一六六七)六月二十五日長崎でとらわれた。この事件で捕らえられた人数は大阪博多長崎で二百七十人あまり、西国一帯を股にかけた大密貿易団だった。

貝原益軒の年譜を見ると、生まれたのは福岡城内の東邸とある。八歳のとき父に従い穂波郡八木山知行所に移り数年を過ごし勉学に勤しんで平家物語、保元・平治物語などを読んだらしい。十一歳のとき父に従い新大工町に移る。百人一首を与えられ暗唱するとある。十五歳のとき薬院に移る。それまでに太平記四書を読み経学に志す。父より医学正伝・医方撰要・万病回春などの医書を授けられる。十八歳のとき小学を読むとある。

十九歳のとき初めて国主黒田忠之近侍する。四人扶持。父に従い江戸に行く。二十歳になり公宅にて元服する。国主に従い海路長崎に赴く。忠之の咎めをこうむり閉居すること十五日、四カ月の謹慎をうける。二十一歳のときに再び忠之の怒りに触れて罷免される。これから数年体調を崩し病がちになる。以後七年におよんで無職となるが、この間、長崎に度々出かけて遊ぶとある。二十六歳のとき、大阪奈良京都をへて江戸に入る。江戸に入る前に髪を剃って柔斎と称する。藩邸にいること一年半、黒田一貫以下の重臣から厚遇される。幕府儒者などと交友する。翌二十七歳のとき父に従い西下し伊勢神宮を拝して京都にいたり福岡に帰る。国主光之に拝謁し仕を復せられる。六人扶持。二十八歳のとき、海路大阪に至り京都に入る。松永尺五、山崎寛斎を訪ねる。三十歳のとき、伏見国主光之に拝謁する。俸禄十石の加増があった。

どうも、なんだか、貝原益軒国主忠之の怒りをかって浪人していた頃、七年ほどが記録の空白だ。徳川幕府の大名お取り潰しの真っただ中のこと、若かりし益軒は病弱を装い黒田の密偵として江戸の様子を探っていたのではあるまいか、もしも、そんな想像ができそうなら、おもしろ空想でしばらくは遊べそうだが・・・

平成二十九年十月十九日

2017-10-09   黒田藩伝居合継承420年

福岡武道館居合演武大会があった。

福岡黒田藩に伝わる柳生新影流兵法、第十四代宗家継承記念演武だった。

黒田家第十六代当主黒田長高様ご夫妻を前にして宗家師範それに門弟が演武をご披露した。

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式典の第一部前半には団体演武や組太刀演武があった。それに僕も参加したので写真は撮れなかった。

そのあとの、師範たちによる模範演武からは写真班になって来賓客に気兼ねしながら撮った。

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黒田公認黒田藩柳生新影流の免許皆伝を取得する藤田氏の斬試は「雲サイ」。刀を振りかぶらずに軽く当てただけで斬り落とす。

アメリカ人の筆頭師範マイク先生居合道習得のために来日して25年が過ぎた。今年、はれて免許皆伝を伝授された。

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式典の幕間のひとコマ、宗家マイク師範と門弟たちの表情がいい。

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宗家マイク師範は、いろんな演武を長年組んでいる。動きが研ぎ澄まされて風にそよぐようだ。

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鹿児島から示現流友情出演してくれた。

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すごい気迫だ。こんな戦士たちが向かってきたら、逃げるしかない。

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演武大会は終盤に近づいて、黒田の殿様にもくつろいだご様子がうかがえた。

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無事、大会成功裡に終了したと思う。黒田の殿様ご夫妻をかこんで記念写真が撮られた。

2017-10-07   ハクビシンのウンコ

昨日はエッセイ教室だった。


    ハクビシンウンコ                 中村克博


 ハクビシンが倉庫の中でウンコをする。いつも同じ場所にする。数日するとウンコが幾つも重なってこんもりしている。クサイし、見て腹が立つ。スコップですくって、砂をまいて、ホウキで掃いて、そのあと石油をかけてニオイを紛らす。これが数か月も続くとハクビシンの鼻と目が時々思い出されて頭に張り付いて離れない。どう対策していいのか分からずいたが、思いついて倉庫の入口に、畑に使っていた古いネットを張ってみた。すると功を奏して、それからハクビシンウンコに来なくなった。これは夏になる前の出来事だった。

 おかげで夏のあいだは倉庫に行っても安楽な日が続いてハクビシンの事はすっかり忘れていた。ところが二三日前、適当な材木を探しに倉庫に行くと、こんもりしたのがある。まだ少し生々しいので乾くのをまとうと思った。天気が続いた昨日のお昼前、干からびたウンコを片付けて、くだんの処理をした。要件があったのだが遅くなった。トラックのエンジンをかけ、左のドアの窓の先を見ると石油をまいた場所が黒く光って満足な気分になった。しかし、次なる対策を考えないとまたヤラレル。

トラックの行き先は高校時代の友人の木工製作所で八木山から飯塚市内を東南東に四五十分ほど筑豊盆地を端から端に横断することになる。晴れわたって天気がいい。青い空を見ていると、いろんなことが頭をよぎった。

「北の正恩さんは次のICBMをいつ発射するのだろう。グアムの方には飛ばないのだろうが、やはり北海道の上を通り過ぎるのだろうか」

ロケットを反対に向ければ、東京より北京のほうが少しばかり近い、たぶんにトランプより習近平のほうがイライラしているはずだ」

日本安倍総理は北の所業をありがたいと思っているだろう。いや、トランプの方がもっと喜んでいるはずだ。憲法第九条改正すれば国軍の頸木がとれる。アメリカイージス艦や最新戦闘機のF15やF22などを法外な価格日本に買ってもらえる」

「この二人は、時どき、北の正恩さんにお願いしているのかもしれない。そろそろ一発ちょいと飛ばしてくれと… 頼もしい援護射撃だ」

「日米のトップ二人が頼もしい助っ人と思うのは、小池東京都知事もその一人だ。どんでん返しドラマティックな展開はおもしろいが、ただそれだけ、その先がない。この演劇脚本は案外にトランプさんの筋かも知れない」

「いずれにしろ、このままでは憲法改正自主憲法の制定に目途がつきそうな雲行きだ」

運転していると、いつもは考えもしなかったことが勝手に頭をかけていくうちに、ふと、流れる景色に気づいて我に戻った。ところが風景の連続性が途切れていて、あれぇ〜、ここはどこを走っているのか咄嗟には分からなかった。右折しなければいけない交差点を過ぎてしまったのかと、どぎまぎした。

木工工作所に着くと、友人が待ちかねていた。さっそくホークリフトで端材の塊を荷台に乗せてくれた。15?角のケヤキ赤身で長さが10?から30?くらいのが二立米ほどもあった。

重くなったトラックを運転しながら、

「いい材料だが、この形状でこのような堅いケヤキのカタマリは僕の木工技術では手に負えそうにない」と思った。

それで、急きょ思い変えて、八木山の自宅近くにある木工工房のおやじのところに持ち込んだ。思いがけない良材の提供にとても喜んでくれた。一個一個堅いケヤキをトラックから降ろして丁寧に積んでいった。終わるころには素手で作業したので手の皮が薄くなってヒリリとしたが、木工作家のおやじのゴッツイ指は何ともないようだった。

「何に使うと…」と聞いた。

「うむ、まだ考えつかん」

「寄木も面白いね。クリ物も良さそうやけど硬いかね」

「うむ、まあ、これから考えるよ」

 家に帰って、倉庫にトラックを入れた。きれいに掃除された床に石油をまいた跡が清々しく思えるのはハクビシンウンコのお陰だ。そうか、ハクビシンウンコをしなければ、こんなに徹底して掃除はしないし入口に古いネットを張ることもないだろう。ネットでダメなら次はホームセンターから金網で出来た捕獲機を買ってくることになるだろう。

北の正恩さんがロケットを飛ばすおかげで憲法第九条改正はやりやすくなる。日本攻撃を受ける、餓えた野獣のような武装兵がなだれ込んで来る、そのあとの凄惨な状況が実感的に想像できれば憲法改正はやりやすくなるのだろうが、しかし、ロケットは飛んでも、まだ実害はない。ハクビシンが倉庫の中をウロウロしているが、まだウンコをしていない状態なのだ。

平成二十九年十月五日

2017-09-28 涼しい風がふいて

秋の彼岸が開けた。

朝降っていた雨が上がって昼から青空が広がった。

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雨上がりのベランダに花が咲いている。

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庭に白い大きな花が咲いている。ミョウガに似ている。紫の丸い小さな花のような実をつけたのは紫式部というらしい。

2017-09-21 秋になった

床の間にネリネとかいう花が活けてあった。

リコリスとも言うらしい。彼岸花もどきかと思った。

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ヒガンバナ科ネリネ族の総称で、南アフリカに自生するらしい。ダイヤモンドリリーとも呼ばれるそうだ。

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庭を歩くと、昔からのヒガンバナが咲きはじめていた。まんじゅしゃげ、ノスタルジックな呼び名もあるが・・・

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柿の葉も色づきだした。

2017-09-16 紙屋町さくらホテル

台風がやってくる。

台風18号屋久島の西約250kmを東北東に移動中

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夏も終わって、大風が吹けば、蒲の穂も黄色い花も飛んでしまうだろう。

八木山の稲はすべて刈り取りがすんでいるが、リンゴへの被害心配だ。

今年は雨が少なくてリンゴの実は小ぶりだが甘味は増していて、すこぶる美味だ。


昨日はエッセイ教室だった。

提出した原稿は、先日の福岡市民劇場の話だった。


紙屋町さくらホテル               中村克博


 福岡市民劇場の今月の演目は、こまつ座の「紙屋町さくらホテル」だった。この日は、一週間続く公演の最終日で、いつもより一時間早い十二時半の開演だった。八木山の自宅を早めに出かけ、お昼を会場の「ももちパレス」のレストランでとることにした。

妻がメニューを見ながら

「なにを食べますか」と問うので、

スパゲッティ」といったらパスタを注文していた。

最近はスパゲティとは言わないようだ。パスタと言うらしい。学生のころ、スパゲティといえば茹で麺をケチャップでからめたトマト色のものだった。そこに、せいぜいハムソーセージの薄切りとタマネギが入っていた。それが、いつしかパスタと言うようになって、それの種類がやたらと多い。

「どれにしますか」と種類を問われても困る。

「白いのを…」と言った。

 いつもは「赤いの」とか、せいぜい「ナポリタン」とか言うのだが今日は白いのをたのんだ。妻は「もう、」と言う表情をして、ホワイトソースの中から何かを選んで決めてくれた。

子供のころは、食べ物を何が食べたいとか、ましてマズいとか、おいしいとかも、表現しないような教育を父からされたような記憶がある。出されたものを押しいただくように米粒一つ残さないように食べる。それも速く食べる。それでも、母は僕が「おいしい」と言えば喜んでくれたし、ときには「なにが食べたいね」と聞いていたような思い出もあるのだが…

 緞帳が上がると小さな机を挟んで長谷川清、元海軍大将とGHQに所属する日本人の取り調べ官が対話している。昭和二十年十二月東京巣鴨プリズンの一室との設定だ。長谷川清が「自分はA級戦犯だ」と自首してくる場面なのだが、この状況は原作者井上ひさし創作だろう。

Webで調べると、長谷川清実在の人で終戦時は海軍大将昭和二十年二月、軍事参議官の長谷川は海軍特命戦力査閲使に任命され、火薬廠・鎮守府・水中水上特攻関係を査察した。六月十二日に海軍の戦備について士気は高いが物資不足で不備であることを天皇陛下に奏上した。昭和二十一年十一月二十一日、GHQによるA級戦犯容疑で約二ヶ月間、巣鴨刑務所に収監された、とあった。

この演劇では広島で慰問活動をしている「さくら隊」に新劇の飛び入り役者として参加する長谷川清が登場する。実際にはそんなことはあり得ないのだが、広島原爆被爆によって「桜隊」が九人の演劇隊員の生命を奪われたのは事実らしい。

舞台の上で「自分はA級戦犯だ」と長谷川清に言わしている井上ひさし天皇戦争責任にも長谷川清の台詞でふれている。しかし、創作と分かっていても、こんな台詞をサラリと挟んでいいのだろうかと暗然となった。

福岡市民劇場会報、潤・S21に、演劇スタッフ井上麻矢の「前口上」と題する一文が載っている。

井上ひさしが本格的な演劇に取り組むようになったのには多くの人の影響があります。そのお一人が本田延三郎氏。演劇プロデューサーとして、井上演劇誕生に一番功績が大きい人です。

(途中省く)

北海道函館出身本田さんはバリバリの左翼戦前からプロレタリア活動に参加し、小林多喜二とは獄中で知り合ったそうです。何度か公安特高に捕まり、三年という長い年月を獄中で送っていた筋金入りの共産党員です。若かりし日、井上ひさしはこの本田さんからそういった実体験を聞いていて、それは作品の骨子を創るのに大きく影響を与えたと私は思っています。

(途中省く)

戦中・戦後責任に対する思いが「紙屋町さくらホテル」には色濃く出ているようです。

長谷川清をWebで調べると、海軍特命戦力査閲使を仰せつけられた長谷川大将は、海軍の戦力を物心両面から調査検閲して六月十二日、陛下に奏上した、とある。

要旨は次のようであったらしい。

「各地、各部隊を査閲した結果、士気は上がっているが、資材は不十分。施設は不完全で製品故障が続出している。特攻兵器は幼稚で、特攻隊員の訓練ははなはだ不足。軍令部計画は紙上プランにすぎない。空襲のため作業力、輸送力はますます低下している」。

アメリカ戦時工業力と比べて、日本の貧弱な工業力はいかんともしがたい段階に来ている」とも奏上した。

昭和天皇は「そうだろう。私にもよくわかる」と言って、沈痛な表情を浮かべておられたどうだ。

ところが、この長谷川海軍大将の奏上の前に、すでに六月八日には、御前会議が開かれ「徹底抗戦、最後の一兵まで」と国策が決定されていたらしい。

しかし、これをきっかけに、昭和天皇お気持ちは和平へと傾いていったと言われている。そうであれば長谷川大将は、日本終戦に持ち込む契機をつくったとも言えるのではないだろうか。そして、アメリカ占領が終わって戦後復興が成った昭和四十年頃、長谷川清は、「一日も早く憲法改正して国防力を持たないと、非常に危険です。生活が豊かになるのは結構ですが、国防に無関心すぎます」と言っていた記録があるそうだ。

表現の自由は結構だし、そうできる社会はありがたいのだと思う。しかし演劇とはいえ、実在した人物事象実名のままで事実と違う表現をして、揶揄また批判をしていいのだろうか、まして海軍大将となれば個人範疇を超え国として公のものだ。従軍慰安婦南京虐殺捏造は我国を棄損させる敵性行為だが、この舞台は深く考えれば、これに類するような演劇表現になりそうで難しいことだと思った。

ところが、井上ひさし言葉に、

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」というのがある。

このことは作文や演劇だけではない、生きる上でも肝に銘じなければと、心がけたい言葉だと思っているのだが、これの実行は難しい。

さらに、「井上ひさしの作文教室」という本ではエッセイを書く人への提言として、

自分にしか書けないことを、誰にでもわかる文章で書く。

前置きなしで、いきなり事件の山場、核心に迫る。

基本的に文章はなるべく短く書く。

「私」とか「僕」といった自分を指す人称代名詞はほとんどの場合、全部削った方がいい。

主語は文の中で使わないほうがいい。

「まだ」「さぞ」「どうも」を効果的に使うと良い。

「〜という」「〜に関して」「〜について」はどれだけ使わないで済ませるかが勝負どころ。

「が」は初めて登場するものに使用され、「は」はすでに登場しているものに対して使われる。

ありがたい教えだと思う。井上ひさし、やはり素晴らしい。

平成二十九年九月十四日

2017-09-12 市立博物館の本屋さん

アテナ銀貨」が福岡市立博物館本屋さんにあった。

福岡市立博物館に立ち寄った友人からイーメイル写真が届いていた。

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思いがけずに目に留まったのだろう。さっそく買ってくれたらしい。

ありがたいです。

福岡市立博物館本屋さんに並んでいるとは、なんだか、うれしいです。

菰田の住人菰田の住人 2017/09/12 21:07 凄いね、これからどんどん読者が増えるんやんない?
楽しみやね!

glucklichglucklich 2017/09/17 02:04 ほんとに、読者が増えてくれれば、うれしいです。
それと、アマゾンにカスタマーレビューを書いてほしいです。
どうぞよろしくお願いいたします。

2017-09-06    黒田藩伝の居合道

黒田藩伝・柳生新影流・宗家継承二十周年記念の演武

いよいよ来月の八日(日曜日)福岡武道館でお昼過ぎから

老若男女、どなたでも参観いただけます。もちろん無料です。

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福岡黒田藩に伝わる柳生新影流は現在の十四代宗家長岡源十郎鎮廣が

十三代宗家蒲池源三郎鎮浪から引き継いで二十年が経過しました。

それを記念して、福岡藩黒田家の第十六代当主黒田長高氏も参観されます。

2017-09-04   昔の飯塚名物、トンちゃん

きのうの日曜日、久保白の山小屋居合の斬試会があった。

天気がよくて、風がすずしくて、蚊やりを焚いて秋の斬試会。

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記念の集合写真のあと、宗家神事に続いて、厳粛だが楽しい斬試会が始まった。

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スエーデンからの留学生宗家マイク師範が真剣の扱い方を指導していた。

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斬試に前に行う作法宗家指導されていた。 太巻きが見事に斬れた。

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高段者の左右袈裟連続斬り。

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つぎつぎに、みんな思い思いの剣さばきが始まった。

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柳心会の最高段者、この日は調子がお悪いようで、いつもの剣筋が拝見できなかった。

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熟練者と若者の刀運びには、どんな違いがあるのだろうか、

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若い師範は小太刀の剣筋の工夫を何度も何度もしていた。

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巻き藁が斬られて、重なりはじめるころ、場が少しほぐれて会話の出てきたころ。

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気持を新たに気を引き締めて、一刀両断の気構えで斬り下す。

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宗家のおほめの言葉指導をいただく。秋の日差しはまだ強い、折れ編み笠ならぬストローハットか。

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高段者のみごとな土丹斬り、若い剣士の鋭い刃筋が光っていた。

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マイク師範の絵に描いたような美しい一連の動作。

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斬った後の納刀までの動作が手抜きなく丁寧になされている。

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みんなが斬り終えた巻き藁の中から、まだ使えそうなのを取り出して、重ねて、

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一回一回を丁寧に、ゆっくり、するどく、謙虚に確実に斬っておられた。

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後片付けが始まった。

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反省会と飲み会食事会の用意ができていた。

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乾杯の後は無礼講飯塚名物藤田流トンちゃんの鉄板焼きが始まった。

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後は言葉にならない。一心に、減っていた腹をみたした。

マイク師範は酒断ちをしているそうだ。来月八日の、黒田藩柳生新陰流宗家継承20周年記念、演武大会への願掛けらしい。

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スエーデンからの留学生、トンちゃんは大丈夫かと思ったら、スエーデンの実家はメルボルン近くの牧場経営、牛の内臓は大好物らしい。

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トンちゃんとは別に、山下さの奥さんから恒例の豪華な特性助六寿司差し入れがあった。ありがたいことだ。

タキタタキタ 2017/09/09 08:02 先日はお世話になりました。
とても久しぶりの斬試だったので心配でしたが、思いのほか斬れたと思います。
皆さんよく斬れていたようですが、古賀くんの姿勢の良さがとても印象的でした。
有意義な時間をありがとうございました。

この日に宗家にお稽古で真剣を使用してもよいか伺い許可を得たので、昨日は人の少ない時間帯に新しい得物で基本の業を試してみました。
なんとも言い難い緊張感ですが、真剣のほうが一振り一振りが丁寧になっていた感じがします。
普通に振り回している先輩方はさすがですね!!

では、お稽古で〜(*'▽')ノシ

glucklichglucklich 2017/09/12 20:52 試し斬りは大切ですね。道場での稽古だけでは刃筋が通っているかわかりません。
形はできていても、刃が通っていないと実際には切れていないのですね。
形の稽古でも真剣を使ってやると、精神にかかわる状態が違いますね。

2017-09-02   洗い茶巾

久しぶりにお茶稽古があった。

一ヶ月休んだが、もう秋の季節になっていた。

いっしょに稽古している従兄弟が屋根から落ちて休んでいた。

いい年して屋根に上るなと言ったその日に足から落ちたらしい。

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従兄弟は先月できなかったのでと、「洗い茶巾」のお点前をしていた。

僕は薄茶点前を二度やった。


昨日はエッセイ教室だった。


なわとび                  中村克博


 十日ほど前、妻と買い物に出かけた。最近できた電気の大型店の売り場を後ろから歩いていた。明るい店内には初めて目にする何に使うのか分からない新製品がいくつも目につく、簡易型のマッサージチェアーがあったので座ってみた。普通の椅子の上に置く簡単な形式だが機能が進化していて、記憶にある昔のより、すこぶる具合がいい。妻が足を止めてこちらを見ている。気持ちいいので試すように勧めると、興味がないのか、ためらいながら座っていた。

いろいろ寄り道して、お目当てのコーヒーメーカーのある売り場にまで、なかなか行きつけない。丸い形のロボット掃除機の進化にも驚いた。カメラが付いていて部屋の間取り障害物を感知して掃除の手順を考えるのもある。電池切れになる前に自分で充電場所に出向くのは当たり前だが、溜まったゴミを捨ててくるのもあるようだ。住人が帰宅すると「お帰りなさい」と会話して迎えてくれるそうだ。そのとき、返事しないわけにはいかないだろうから「ただいま、ありがとう」というのだろうか。

プリンターの売り場にさしかかった。僕の使っているキャノンプリンター写真印刷は綺麗で満足しているが文章の印刷が遅いのが不満だ。エッセイ教室に提出する原稿を両面印刷にして十人分もとなると熱いお茶をいれて来て飲み終わっても、まだガチャガチャ、ビー、ビー、と働いている。それに以前から、頼みもしないのに文字を勝手に斜体にする。それも思いついたように所どころでそうするので、作成者の僕が意識的に手を加えたようになるのが困る。買い替えようかと思うが我慢できないこともないので思いきれない。今日も横眼で見ただけで通り過ぎた。

通路中央の平台に特別処分の小間物が無造作に積まれていた。置時計やラジオ電卓懐中電灯、延長コードなどの中に、なぜか縄跳びの紐が見える。懐かしかったのか何となく手に取った。それを手にしたままキョロキョロ歩いているとコーヒーメーカーの売り場にやって来ていた。豆挽きの機能が付いたコーヒーメーカーを買おうと思っていた。感じのいい、学校出たてのような店員さんの説明を聞いて手ごろで気に入ったデザインのに決めた。

ところで縄跳びだが、家に帰ってさっそく、ベランダコーヒーを飲む前に試してみた。飛べない。一回も飛べない。何度かこころみたが飛び下りた爪先の前に縄が止まっている。そんなはずはないのだが、やっと一回飛べた。そのうち、どうにか二回続けて飛べたときには息が上がっていた。やめにしてコーヒーを飲むことにした。

もともと縄跳びはうまくないのだから、縄跳びのことは二三日忘れていたが思いなおして、毎日、家の中を歩きときも、階段を上り下りするときも、素手でピョンピョンとんでいた。両足でピョンピョン、片足でピョンと跳んでいたら、そのうち、だんだん、爪先から、足首、膝、背骨、首と連動して柔軟に動くようになった。それで、なわとびを出してきて跳んでみると、十回、二十回とどうにかできるようになっていた。年のせいではない、使わない機能は退化するのだと思いなおした。使えばよみがえる。蘇って、よみがえりそうで、よかった。                 

 平成二十九年八月三十一日

2017-08-31   新米が出ている。

新米を買ってきた。

山は稲刈りが平地より一月ほど早い。

今日はいろいろ忙しかった、夕方の帰り道、農楽園で新米を買ってきた。

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縄跳びが少しできるようになった。

あれから、毎日、家の中を歩きときも、階段を上り下りするときも、

ピョンピョンとんでいたら、両足でピョンと、片足でピョンピョンと跳んでいたら、

そのうち、だんだん、柔軟に爪先から、足首、膝、背骨、首と連動して動くようになった。

それで、なわとびを使って跳んでみると、10回、20回とどうにかできるようになっていた。

使わない機能は退化するようだ。使えばよみがえる。蘇って、よみがえりそうで、よかった。

2017-08-22 なわとび

縄跳びをしてみた。

先日、買い物のとき、目に留まった「縄とび」を買ってみた。

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家に帰って、さっそく飛んでみた。うまく飛べなかった。

何度かやってみたけど、できないので、やめにした。

今朝、ふと思いついて、しばらく練習していたら飛べた。

まず二回、そして三回、練習していると、どうにか五回ほど飛べるようになった。


先週のエッセイ教室に提出した原稿は、



ヨガを始めて十年になる ニ、                 中村克博


 退院して家に帰ると愛犬のグリュックが喜んでくれた。短い尻尾をピクピク左右に動かし、どうしていいのかオロオロして体を押しつけクンクン声を出した。大きな体を受け止められなくて僕がその場に屈むと顔をペロペロ舐めてきた。

 あくる日からグリュックとの散歩を始めた。しかし、平坦な道でも五十mほど歩くと頭がボーっとした。休み休み歩いたが数日たっても状態は変わらなかった。それで、車の運転を用心して福岡に出かけて自転車を買ってきた。キャノンディールポリス仕様、高いサドルにまたがったが自転車が進む前に転倒した。左手を擦り剝いてジーンズの膝が破れた。二度やっても三度やっても平衡が保てなかった。子供のころ体得した自転車に乗る機能リセットされていた。

 階段なら駆け足で上り下りできた。しかし、小川のせせらぎを大小の石を踏み分けて上ることはできなかった。階段は高さも奥行きも材質も分かっているが、小川の石は大きさも形も、距離も高さも違う、濡れている石も苔むしている石もある。脳が判断する情報の量が違うのだと思った。座卓のほどの高さなら飛び降りることはできた。しかし机ほどの高さからはできなかった。丸太の棒を縦に落としたように衝撃が直に脳天に響いた。飛び降りる動作には脳への衝撃を体のいくつもの部位で吸収しているのが分かった。足の爪先、足首、膝関節、股関節腰椎胸椎頚椎など骨や筋や筋肉が瞬時に連動して動くのだと改めて、というか初めて認識した。

食事食べ物をゆっくり味わって噛みながら、喉につめないように少しずつ飲み込んでいれば問題なかった。ところが、食事中に母が話しかけてくると、とっさに条件反射で受け答えしようとする。そうすると口の中の食べ物が気管に入りこんできて、それこそ死ぬ思いをすることになる。四苦八苦するが水で飲みくだすことはできない。肺の中に流し込むかもしれない。咳き込みながら目を白黒させながら心配そうな母の顔を見ているしかない。

左半身の感覚がなかった。草刈りなどをして風呂に入ろうとすると左半身だけに小さな傷が幾つもついていた。湯船に浸かって、うっとりしていると湯の中の体がすっかり赤くなっている。おかしいと思いながら首まで湯に入れていると、だんだん気分が悪くなった。風呂から急いででた。適温が感知できない体と言う事を忘れていた。あくる日からは温度計と一緒に入るようにした。

入院中、血圧毎日かかさず朝夕測っていたが異常なしだった。血液もサラサラ、血管も青年のようだと検査士からホメられて得意になっていた。それなのに薬を何種類も飲まされる。納得できないので、こっそり、ごみ箱に捨てていた。看護婦さんが気づいて担当の医者に言い付けたので散歩のときに外のゴミ箱に捨てるようにした。退院して、久しぶりに会社会議に出席した。一時間もすると頭がふらふらして気分が悪くなった。それから、いく日か過ぎて、次の会議にはオムロン携帯血圧計を会議の机の上に置いていた。会議に参加する人たちが怪訝そうにしている。会議がすすんでしばらくすると、やはり頭がくらくらして気分が悪くなった。血圧計に腕を通した。ブーぅ、と腕を締め付ける音がしてデジタルの表示が出始めた。120、140、180、200、僕の横にいた社長の弟が数字を見て「あ、あ〜ぁ」とつぶやいた。デジタル文字は220になっていた。会議は取りやめになった。

それ以来、会議には出ないことにした。命あっての物種だ。それで完全に会社引退することにした。しかし、毎日何をしようかと思った。バイクはとっくに辞めているし、だいいち自転車もろくに乗れないのだから、ヨットは気をつければいいだろうと思って海に出てみたが思うように体が動かなのでおもしろくはない。落水すれば危険だと思った。

そんなとき、長女がヨガをすすめてくれた。それと、自分ブログを始めるようにとの助言をくれた。ブログはすぐに始めたが、ヨガはためらっていると、娘は近所のヨガ教室に勝手に電話して申し込んだ。それで、次の週の決められた日時に出かけていった。教室の窓から覗くと部屋いっぱいに女性ばかりが色とりどりのヨガマットの上で刺激的なポーズをしているのが見えた。とたんに足が前に進まなかった。これは無理だと、そっと引き返して家に帰ってきた。

娘がそれを知って、次の週の土曜日、朝早く帰って来て僕を連れてヨガ教室に出かけた。有無を言わさずヨガ教室の戸を開けて入って挨拶して僕を皆に紹介した。たくさんの笑顔が一斉に僕を見て「どうぞ、どうぞ」と場所を開けてくれた。その日は娘も参加してつきあってくれた。次の週も娘は帰ってきてヨガ教室に付き合ってくれた。一人で出かけるようになって、三カ月ほどすると、損傷していた機能がだんだん回復してくるのが自覚できるようになっていた。

一年もヨガ教室に通っていると、ほとんど後遺症もなくなっていた。バイクヤマハのセローを処分していたが、ヨガを始めて二年後には新しくホンダのFTR220を買った。毎日のように山道を走っていた。ヨットヨガを始めて三ヶ月もすると始めていた。春になると毎月のようにレースにも出ていた。僕は乗っているだけ、舵は元よりロープも握らせてもらえなかったが…。

ヨガ教室には五年ほどお世話になった。体の機能は完全に回復していたがバイクはやはり心配なので処分した。ヨットレースは無理だがのんびりクルージングはできるので機帆走のできるパシフィックシークラフトの31に買いかえた。ヨガのお陰で脳梗塞から復帰した。

 

五年ほどでヨガ教室卒業させてもらい。それからは自分ヨガ教室を開いて友人知人とヨガを続けている。いちおう僕が指導者だが、若い人のようなヨガのポーズはやらない。もっぱら機能回復改善修正と維持のためのヨガをしている。体を、ゆるめる、ひらく、のばす、をもっぱらやっている。


このあと、エクササイズの説明が続くのだが、やはり言葉で書くのは難しいので削除する。

2017-08-14  売れ行きが気になって

本屋に「アテナ銀貨」が並んでいた。

買ってくれた人からの連絡がいくつか入った。

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暑い日が続きますが本屋まで出かけてくださって感謝します。

ネット通販でも買えるけど、本屋でとはありがたいです。

千葉の熊さん千葉の熊さん 2017/08/16 18:06 amazonから、(アテナの銀貨」がやっと手元にとどきました。昔マレーシアに住んだマラッカにも南宋貿易商人もマラッカ海峡を行ききしましたね?

LAKILAKI 2017/08/16 19:14 完読しました。
リアリティのある為朝伝説でのめり込みましたよ。

glucklichglucklich 2017/08/22 13:02 ありがとうございます。
南宋と貿易していた時代、案外と博多の商人はマレーシアや
マラッカ海峡をこえてタイの辺りまで出かけていたのかもしれませんね。
読んでくださった後、意見の交換をしたいですね。

2017-08-08    実り始めた

稲が実っている。

今年は今のところ台風被害もない。イノシシ親子もやって来ていない。

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今年の夏の暑さは格別だ。夏はまだまだ続くが、雨も少ないのに稲は立派に育っている。

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ガマの穂数は少ないが、形はいいのが育っている。

きのう孫の子守で福岡市水族館にいった。

妻と三人で出かけた。

博多湾を船でマリンワールドまで行こうとしたら台風の余波で欠航だった。

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アイランドシティを経由して道路で行った。夏休み水族館はすごい人出だった。

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むかし、来たことがあるが、まったく面影がないほど近代的な水族館になっていて驚いた。

子供だけでなく、大人が楽しめる海の中だった。

LAKILAKI 2017/08/13 21:11 早速届きましたよ、アテナの銀。
読ませていただきますね。

glucklichglucklich 2017/08/14 16:31 ありがとうございます。
初めての出版です。それも初めて書いた小説です。
読んだあとの感想を聞かせてくださいね。

2017-08-05 僕の初めての著作、「アテナの銀貨」が出版された。

僕の初めての著作、「アテナ銀貨」が出版された。

この小説をいつから書きはじめたのだろうと、ブログの日付をさかのぼってみた。

2013年4月19日のエッセイ教室に提出した原稿に「想像で書くのは大変だ」

というのがあった。これを読むと書きはじめの経緯が思い出せた。

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思いかえせば僕にとって、かなり大それたことに取り組んだもんだと思う。

初めのころは書く時間の何十倍もの時間物語の背景を調べることに費やした。

どんな衣服を着ていたのか、食べ物は、食器は、住いの間取りは、屋根は茅か板葺きか、

旅行は徒歩か馬か、街道状態は、特に船の事は詳しく調べた。何しろ九百年前の海洋冒険小説だ。

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書き出して数か月ったったころ、いつものように資料になる書物を読み返して疲れていた。

そうすると夢の中で不思議なことが起こり始めた。登場人物が勝手に動き出して話し始めたのだ。

風が吹いて、海がうねって、帆がはらむ。僕はそれを文字にするだけだった。


書店での発売は今週末からと聞いていたが、アマゾンではすでに発売されていました。

友人、知人、親戚に子供たち、一冊進呈したいのは山々ですが、買ってください。

お願いします。よろしくお願いいたします。そして、アマゾン書評をいただければうれしいです。


昨日はエッセイ教室だった。


ヨガを始めて十年になる                     中村克博


 十年ほど前の十一月も残り少ない、もうすぐ師走になるころだった。後頭部がズキズキと脈打つたびに痛む。それが一週間以上も続いていた。治りそうにないので近場の脳外科専門の病院に出かけた。CTかMRIか忘れたが丸い穴の中を寝台ごと通された。

そのあと診察室で僕と同年輩の医者が頭の中の連続写真を見ながら、

心配ありません。異常は見あたりません」と言った。

「なんで、頭が痛いのですかね〜」

肩こりでしょう」

 あくる日も頭が痛む。どうもおかしいので、もう一度、昨日の病院に行くことにした。自分で車の運転をするのが心配なほどだったので、たまたま家の坂道階段にする工事をしていた左官さんの車で送ってもらった。病院では大勢患者さんが待合室にいたが、順番を待たずに、すぐに昨日の器械にもう一度通された。

 そのあと診察室で昨日の医者が、

「やはり、どこにも異常はありませんね」

「なんで、頭が痛いですかね〜」

肩こりでしょう」

 タクシーを呼んでもらって家に帰り着いた。タクシーから降りると歩きづらくて吐き気がした。左官さんたちが心配そうにしていた。まだ昼前だったが布団で眠ることにした。こんなとき十年前に死んだ妻がいればとは思わないことにしていた。少し眠ったあと、起きて机に座っていた。お茶を飲もうとするが喉を通らない。気管に入りそうになって飲めない。そのうち左肩が下がってきた。左手が動かなくなくなってきた。右手で先ほどの脳外科病院電話した。たしか、そのときは卓上電話だったと思う。例の医者が出た。

「家に帰ると吐き気がして、水が飲めません。だんだん手が動きま…」

 そこまで、言ったとき、受話器が叫んだ。

「うちに来てはだめです。すぐに救急車救急車自分で行ってはダメですよ。いますぐ救急車

「はい、わかりました」

 すぐに「119」に電話して救急車の依頼をした。1、1、9、とボタンを押すのがまどろっこしく感じられた。待つ間もなく、すぐに救急車サイレンが聞こえてきた。部屋を出て靴を履いて歩いて行こうとすると救急隊員が二人、僕を支えてくれた。

「車まで歩けますか、だいじょうぶですか」

「どうも… だいじょうぶ歩けます」

 救急車の中にどうにかたどり着くと、なんと、母が先に乗っていた。杖を突いてベンチに座っている。びっくりした。母は三日ほど前に退院したばかりだった。大腿骨骨折してボルトを入れる手術して一ヶ月以上も入院していたのだが、何とも大正生まれは気丈なもんだ。

救急車飯塚病院救急病棟に運ばれた。若い医者たちが三人ほども待ち構えている部屋に車のついた寝台で運ばれた。すでに看護婦さんが患者用の衣服に着かえさせていたと思う。すでに、光る壁に僕の頭の中の写真がズラッと張り出されていて、医者たちがそれを見ながら意見交換をしているようだった。

「うㇺ、この写真ではわかりませんね」

 離れていて聞きづらいが、こんな会話が聞こえてくる。

 その日の深夜、集中治療室にいた。点滴の瓶が二個ぶら下がっていた。左の腕も手の指も足も動かなかった。鼻と口を覆う青いプラスチックマスクが掛けてあった。しかし嚥下ができないので口から唾液が出てくる。そのため、酸素マスクは外されていた。右手て唾液をふき取るのが面倒だった。呼吸がしにくい、特に吸う息がうまくできない。喉が狭くなっているようだ。右手を動かすと息苦しくなるので口を拭くのを最小限の動きになるようにした。目で見る機能も耳で聞くのも問題はなかった。

 集中治療室は沢山のベットが並んで深夜でも明るかった。大きなガラスで仕切られた隣の部屋に看護師さんたちがいて部屋の様子が見れるようになっていた。僕の枕もとで弟たちと医者がボソボソト話しているのが聞こえる。

「呼んでおいた方がいいでしょうか」弟の一人の声がする。

「遠くにいる方がおられますか」と医者の声。

 どうも、僕の子供たちのことを言っているようだ。僕が死ぬとでも思っているのだろうか、と思った。僕は呼吸がしにくいだけで頭ははっきりしている。右の手足は動かせるし元気も回復していた。ただ、指を少し動かしても息が苦しくなるので動かないようにしているだけだ。あくる朝、目がさめると子供たちの心配そうな顔が並んでいた。

 次の日だった。静かな集中治療室の入口で声がする。

「ここは、入室禁止です。面会できません」と看護婦の声が響く。

「俺はいいと」と聞きなれた声。

「もう、こまります」とあきらめる声。

 僕は白いシーツの毛布で頭から顔を隠して右目だけ出した。腕も右だけ出して肘をL字に力なく立ち上げ手首は曲げて彼の来るのを待った。足音が近づいてきた。僕は目の焦点を白い天井の一点に決めて虚ろを装った。足音が止まって大きな顔が僕をのぞいている。僕は焦点を合わせず天井の一点を見ている。点滴の管や検査機の電線が白いシーツの中に入って、排尿のための管がベッドに下げられたビニール袋に届いている。僕は右手首を力なく横に振るわせて痙攣を演じた。観察する目が驚いたようになったようだ。それを何度か繰り返した。その度に顔を近づけたり離したりしている。シーツの中の口が半分ニンマリしていた。左半分は唇も動かない。友人の驚いた眼が光っているようだった。足音が寂しそうに遠ざかって後ろ姿を見送った。笑いをこらえていたが少し悪い気がした。

おかげで症状は日々良くなって二週間で集中治療室をでて個室に入った。動かなかった左手も、どうにか動くようになっていたが、左半身の触覚がなかった。熱さも寒さも痛みも感じなかった。水はコップからは飲めずゴムチューブを喉に押し込んで飲んでいた。食事も同じように飲む流動食だった。それでも、おいしくない味はわかった。狭くなった喉を拡張するためにチューブを飲んで喉で膨らます治療をくりかえした。夜は寝る前に看護婦さんが体温と脈を測りに来るのが楽しみだった。手首を触れる優しい手を握りかえしたら、「だめですよ」と優しく言われた。担当医は結婚を間近にした青年だった。

僕のヨガのことを書こうと思っていたら、導入部分が長くなってしまった。ヨガの話はこの次になるようだ。

平成二十九年八月三日

菰田の住人菰田の住人 2017/08/06 19:49 ご出版おめでとうございます。
早速、アマゾンで注文いたしました。
先生、今度サインをお願いたします。
届くのが楽しみです。
同期の皆にフェースブックで東京、関西に知らせておきます。
9月の同期のハガキはこのお知らせにいたします。
楽しい、希望にあふれるニュースにほほが緩みます。

LAKILAKI 2017/08/06 20:08 Amazonで予約注文しました。読むのが楽しみです。

上川善信上川善信 2017/08/07 00:20 闘病記を始めて目にしました。大変な経験をされましたね。今ある笑顔は奥様、お母さんや子供さんなど周りの人に安心を与えますね。勿論私もその一人です。これからもお互い健康で長くお付き合いしたいものです。

上川善信上川善信 2017/08/07 00:20 闘病記を始めて目にしました。大変な経験をされましたね。今ある笑顔は奥様、お母さんや子供さんなど周りの人に安心を与えますね。勿論私もその一人です。これからもお互い健康で長くお付き合いしたいものです。

上川善信上川善信 2017/08/07 00:20 闘病記を始めて目にしました。大変な経験をされましたね。今ある笑顔は奥様、お母さんや子供さんなど周りの人に安心を与えますね。勿論私もその一人です。これからもお互い健康で長くお付き合いしたいものです。

glucklichglucklich 2017/08/08 13:51 ありがとうございます。
ほんとに、うれしいです。
本の表紙がよくできて、反応がいいようです。
読んでくれて、ほんとうに、感謝します。

闘病記を書こうとは思いませんでしたが、思わずに、そうなったようだ…
僕流の、ヨガについて書こうと思っています。
機能回復のため、筋肉や筋が硬くならないため、縮まないため、
ほぐす、ゆるめる、のばす、ひろげる、そのための工夫をしています。
みるみる機能が回復するのが実感できますよ。

2017-08-02   花火大会

道崎君からの毎月の絵ハガキが届いた。

今月も高校時代同窓生、道崎君から自作の絵ハガキが届いた。

今月は遠賀川での花火大会の案内だった。明日の夕方、日が落ちて始るらしい。

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僕は幼児のころから高校時代まで吉原町で育った。

家の裏に遠賀川が流れていた。花火大会のときは家の屋根に上って見ていた。

大きな花火の輪が頭の上で爆発していた。すごい音がして花火の燃えカスが落ちてきた。

まだテレビも普及していないころ、近所に映画館がいくつもあったころ、

川原も、土手の上の道路もその下の道も、人でいっぱいだった。

道粼です道粼です 2017/08/02 17:28 拙いハガキを載せて頂いて恐縮です。
年をとると花火大会の感動が年々薄れていくのがちょっと寂しい気がします。
しかし、ボンボンと花火が上がって来ると気持ちが高鳴ります。
この気持ちの高まりは大事にしたいものです。
中村君の吉原町の家の花火は音も花火も凄かったでしょぷね。
嫁さんに花火大会の話をすると『私たちは4時くらいから場所取りに行ってた』と
云ってました。それぞれの思い出の花火大会です。

glucklichglucklich 2017/08/05 17:45 花火大会、天気もよくて賑わったでしょうね。
始る前の現地を通りました。屋台が河川敷に、土手の外にまで店開き、
中之島には仕掛け花火の準備もできて、クレーン車のブームが高く林立していました。
「アテナの銀貨」が出版されました。9月と思っていたら、早くなった。

2017-07-29 夏越祭/茅の輪くぐり

夕方から筥崎宮の「茅の輪くぐり」に出かけた。

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午後六時から茅の輪をくぐる神事が始まるが、祭りは日が落ちてから賑わうようだ。

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茅草(かやくさ)で作られた「茅の輪」をくぐって半年間の罪穢を祓うらしい。

この起源は「蘇民将来神話」によるものらしい、旅の途中で宿を乞うた素戔嗚尊

もてなした蘇民将来に、「もし疫病が流行ったときには腰に茅の輪をつけていれば疫病から

免れる事ができると教えた」との故事に由来しているそうだ。

ハナママハナママ 2017/08/02 15:07 家の辺では1ヶ月前ですヨ〜 実は私も初めて祭事に参加しました。クリスチャンの私は神様に叱られたかもしれませんが...
尤も色々な行事、祭事は1ヶ月遅れでってのはひな祭り、こどもの日とか在りますヨネ。

glucklichglucklich 2017/08/02 16:33 妻に連れられて出かけたのですが、この暑いのに、と、は思いませんよ。
夏は夏の、冬は冬のお参りがありますね。いいですね。日本の夏、、

2017-07-28 劇団昴「ラインの監視」

福岡市民劇場劇団昴「ラインの監視」を観に行った。

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作者リリアン・ヘルマンは反ナチ活動家として有名らしい。

舞台第二次大戦直前のアメリカ1940年春。ワシントン郊外にある大邸宅ファレリー家。

女主人ファニーとその息子、黒人の家政婦のフランス女、それにルーマニアの貴族夫婦が間借りしている。

そこに、ドイツ人に嫁いだファニーの娘が3人の子供と夫を連れ20年振りに帰ってくる。

ナチスと通じるルーマニア貴族、反ナチの地下運動者家の娘の夫が同じ家に暮らすことになる。

昔の思い出に浸るまもなく平穏な家庭に事件が起きる。

タイトルの「ラインの監視」は、19世紀半ばに創られたドイツ愛国歌「ラインの護り」

2017-07-24 人様の靴を間違えて

誰かの靴を間違えて履いて帰った。

妻と買い物に出かけ、駐車場を歩いていて、妻の指摘で気づいた。

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指摘されても、何のことやら分からないほど、違和感はなかった。

外で靴を脱いだのは、先週の金曜日エッセイ教室食事会のとき、

それと、夕方の居合稽古のときだ。

申し訳ありません。。写真誰かさんの靴です。ROCKPORT

心当たりの人はお知らせください。

LAKILAKI 2017/07/26 21:10 Glucklichさん、暑いですがしっかり!(笑)

navynavy 2017/07/27 10:32 Glucklichさんらしくていいですね〜(笑)
なんだかホットしますよ。

久々のヨットでしたね。
私は今セスナの操縦訓練をしていますが、
たまにはヨットも乗りたいですね。
そのうちご一緒させてください。

glucklichglucklich 2017/07/28 12:25 暑い毎日でも、しっかりしていなければ、いけません。

ひさびさのヨットでした。
海はいいですね。空と海しか見えないのがいいですね。
音がないのがいいですね。
空の上はどんなでしょうね。いい気分でしょうね。

2017-07-23   ヨットに乗った。

ヨットに乗った。

友人のヨットに乗せてもらった。何年ぶりだろう、四年ぶりか・・・

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40フィートセンターコックピット、メインセールもジブもファーラーだった。

コックピットの上には屋根がついていた。いい風だったがモーターセーリングで操船は楽だった。

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昼すぎから三時間ほどのセーリングだった。舵を持つと風を感じる。

やはり、海はいいな〜、元気がみるみるわいてくるのがわかる。

ハナママハナママ 2017/07/24 06:14 楽しいと思える事が出来て良いですネ。
私は娘が MBA の卒業が出来て孫に式を見せてやりたいと言う事で付き添いにロンドンに来ました。昨日、式もレセプションも終わって明日、帰帆します。さっき、娘達は夫のまつウイーンに旅立ちました。本来なら彼が来たかったんでしょうが仕事や諸般事情で私が行きました。でも家族が行っているのが当り前で、生まれたてに赤ちゃん、表現が悪いけれど相当なお年寄り迄が息子や娘、はたまた父親等のお祝いに駆けつけていました。何をやってるのか大変な事なのかは是で身を以て知らされました。良かったです。

glucklichglucklich 2017/07/24 19:28 よかったですね。おめでとうございます。
子供から孫へ、世代が受け継がれていくのを体験する立場になりましたね。
いろんなことが、思い出せるでしょうね。
これからも、まだまだ、いろんなことがあるのでしょうね。
ありがたいですね。

2017-07-22 厚いと時には汗をかく

昨日の金曜日は、午前中エッセイ教室、夕方から居合稽古

なんとも暑い日が続くが、エッセイ教室の室内は冷房が効きすぎて寒い

教室で途中からジャケットを重ねた。夏の外出には室内での冷房対策がいる。

夕方の居合稽古では汗が出続けた。持参したペットボトル麦茶を二本飲んだ。


エッセイ教室に提出した原稿は、今回も貝原益軒の資料集めだった。

エッセイらしい文章は、末尾の数行がそれらしい。


貝原益軒のころ                  中村克博


 貝原益軒が生きた期間は、一六三〇年十二月十七日から一七一四年十月五日まで(寛永七年十一月十四日〜正徳四年八月二七日)の八十四年間になる。死にのぞんで「越し方は一夜(ひとよ)ばかりの心地して 八十(やそじ)あまりの夢をみしかな」とよんだらしい。四十五年連れ添った東軒さんは前年に先立っていた。益軒が生きた八十四年と同時代徳川将軍はと調べてみると四人が該当した。

江戸幕府第三代将軍徳川家光

任期間は一六二三年 から一六五一年。生誕一六〇四年八月十二日〜死没一六五一年六月八日(慶長九年七月十七日〜慶安四年四月二十日)。

四代将軍徳川家綱

任期間は一六五一年から一六八〇年。生誕一六四一年九月七日〜死没一六八〇年六月四日(寛永一八年八月三日〜延宝八年五月八日)。

五代将軍徳川綱吉

任期間は一六八〇年から一七〇九年。生誕一六四六年二月二十三日〜死没一七一二年一一月一二日(正保三年一月八日〜宝永六年一月十日)。

六代将軍徳川 家宣、

任期間は一七〇九年から一七一二年。誕生一六六二年六月一一日〜一七一二年一一月一二日((寛文二年四月二五日〜聖徳二年一〇月一四日)。

 

島原の乱が寛永十四年十月二十五日(一六三七年十二月十一日)に勃発している。キリシタンの籠城軍総計 約三万七千人、それを攻撃する幕府派遣軍は九州諸侯増援を得て十二万以上の軍勢に膨れ上がった。寛永十五年二月二十八日(一六三八年四月十二日)の総攻撃原城落城天草四郎は討ち取られ、一揆軍は皆殺しにされて乱は鎮圧された。

 この時期にたくさんの大名がお取り潰しになったようなので、その数を数えてみた。三代将軍、家光の時代に改易された大名は四十八家におよぶ。四代将軍、家綱の時代に改易された大名は二十三家、五代将軍綱吉時代に改易された大名は三十一家、六代将軍、家宣の時代に改易された大名は三家のみ、そのあと明治維新までに改易された大名は十七家、ちなみに二代将軍、秀忠の時代に改易された大名は四十五家だったので綱吉までの百年余りで百四十七家の大名がお取り潰しになっている。

 元禄年間は一六八八年から一七〇四年までの十六年間を指すが五代将軍徳川綱吉の在任中がそれに重なる。

この期間に起きた主な出来事は、

元年一月、井原西鶴が「日本永代蔵」を刊行する。十一月には柳沢吉保側用人就任している。 

二年三月松尾芭蕉河合曾良江戸深川から奥の細道の旅に出て同年の八月には大垣奥の細道の旅を終えている。「捨て子禁止令」なるものが発令される。捨て子が多かったのだろうか。生類憐みの令はこの数年前にすでに発令されている。犬だけでなく牛馬、魚、鳥、亀、イモリまで殺生はおろか大切にするようにとの法令違反すると磔や遠島にもなる厳しいもので世界に先駆けた動物愛護法律だ。

六年十二月新井白石が甲府藩主徳川綱豊(徳川家宣)の侍講となる。七年二月、高田馬場決闘。助太刀をした堀部武庸が評判になる。赤穂浪士堀部安兵衛はこの武士と同一人物らしい。 

八年 十一月、江戸の野犬が中野に設置した犬小屋収容される。一時期には八万頭を超えたら幕府財政にも影響が出るほどだったようだ。

十五年十二月十四日に赤穂事件赤穂浪士の討ち入り)がおきる。五月、近松門左衛門の「曽根崎心中」が初演されている。

 

 そのころ貝原益軒の仕えた筑前黒田藩は、どのような治世であったのかを調べてみると三人の藩主時代が重なる。

筑前福岡藩の第二代藩主黒田忠行、

任期間は一六二三年から一六五四年。生誕一六〇二年一二月二二日〜死没一六五四年三月三〇日(承応三年二月一二日〜慶長七年一一月九日)。

筑前福岡藩三代藩主黒田光之

任期間は一六五四年から一六八八年。生誕一六二八年六月十七日〜一七〇七年六月十九日(寛永五年五月十六日〜宝永四年五月二十日)。

黒田光之長男黒田綱之は、

将軍徳川家綱より偏諱を賜って、長良から綱之に改名するが、延宝三年(一六七五年)突如として廃嫡され、剃髪得度し蟄居を命じられる。代わって、弟の長寛(綱政)が嫡子となった。

筑前福岡藩四代藩主黒田綱政

任期間は一六八八年から一七一一年。一六五九年九月二七日〜一七一一年八月二日(万治二年八月一一日〜正徳元年六月一八日)。


この時期に筑前黒田藩で起きた有名な出来事といえば黒田騒動だろう。二代藩主黒田忠之は、軍船鳳凰丸の建造をはじめ足軽隊の増強など幕令をはばからぬ行為が多く、幕府の大名取りつぶしに口実を与えかねなかった。そのような時期に筆頭家老栗山大膳は、寛永九年(一六三二)、藩主忠之に逆意ありと幕府に訴えた。藩の取りつぶしを防ぐための策略で、大芝居を打ったとの見方もあるがどうだか真相はわからないと思う。  


博多豪商で伊藤小左衛門が起こした事件がある。事件が発覚したのは寛文七年(一六六七年)ころ、朝鮮済州島近海に鄭 成功(てい せいこう、チェン チェンコン)配下の商船が盛んに出没していた。伊藤小左衛門はその商船と禁制の武器を抜荷していたのをとがめられる。たぶん硫黄だろうと言われるが、これにより、全部でおよそ百五十人ほどの者が捕えられた。小左衛門と浅見七左衛門の二人は磔刑となり、四〇数人の者が斬首・獄門などの死刑、同じく四〇数人が在所からの追放に処された。小左衛門の子である二人の男児も縁座させられ、そのうち長崎にあった一人は父と同日に長崎斬首博多にいたもう一人は、長崎奉行から福岡藩に命じ、博多斬首博多高木惣十郎は福岡藩の手で捕え長崎にて処刑。対馬の小茂田勘左衛門は、近江大津で捕えて京都の牢舎に入れ、ついで大坂に廻し、その後、長崎奉行所で磔とする旨の判決を下した上で、対馬で刑の執行が行われた。何とも大掛かりな事件だが意外と知られていない。僕も今回初めて知った。博多豪商といえば島井宗室、神屋宗湛、大賀宗博などが有名らしいが、この伊藤小左衛門はこれらよりも数段規模の大きい豪商だったようだが、知られていない。何故だろうと思う。


成功(てい せいこう、チェン チェンコン、(一六二四年八月二七日〜一六六二年六月二三日))は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃歌舞伎にされ『国姓爺合戦』でこの時代に有名になる。鄭は中国明代の軍人で政治家出身福建省泉州市。新興国の清に圧迫される明を助け、台湾占領していたオランダ勢力を追い払った。鄭成功の功績に隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれた。鄭は日本平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川マツの間に生まれた。鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の恩恵をうけて平戸川内浦に住んでいた。

貝原益軒の生きていた時代江戸福岡おもしろ出来事が満載だ。調べればいくらでも出てきそうだし、奥が深そうだ。ただ、そのような事件出来事が起きた理由が今一つ僕には納得できない。もうかなり前になるが能古島山道を車であちこちと回っていたら集落高台の奥まった林の中が開けていて、キリシタン墓地があった。車から降りて墓石を見てまわるとかなり古いものがあったような記憶がある。福岡藩にも隠れキリシタンがひっそりと住み続けていたのかもしれない。近隣の歴史でも知らないことばかりだ。

平成二九年七月二十日

2017-07-18   海も山も暑いのはいっしょ

昨日の「海の日」、山小屋バーベキューをした。

暑い日だった。海も山も、湖も、暑いのはいっしょ!!

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ひと月おきに行われる同窓生の食事会だが、みんな元気だ。

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木陰を追いかけて食卓が移動する。

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次回は9月17日だそうだ。湖面を見ていたら海が恋しくなる。