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てけらぼ このページをアンテナに追加 RSSフィード

人生ブレまくり

2008-05-20

[]蚕豆丸焼き

megawattさんがよくやっていて、うまそうだったので我が家でもやってみた。

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なかなか美味。惜しいのは、こんなでっかい豆から一鞘あたり3粒くらいしか取れないことだ!

これをたらふくいただこうと思ったらそれこそダンボール一箱くらいいるんじゃない?

[]「居つくこと」が病なら

私はよく知らないのだが、人気blogらしい。ついでにいうと同じ県で生きている人らしい。

内田樹氏のblogをひょんなことから覗いた。

被害者の呪い

中国に対するチベット弾圧に反対する五輪での騒ぎに関して語るつもりはない。私が書きたいのは内田氏が「厭な感じ」と評した内容それこそが「厭な感じ」だったということだ。

Wikipediaには彼に対する簡単な説明があり、護憲派であり、一方でマルクス主義批判、学生運動批判、フェミニズム批判の立場にあることもわかった。その点では私と同舟なのだろうが、この点も酌量しない。

私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。

という内容を含む、毎日新聞に掲載されたコラムに続けてblogは綴られていた。

以前、精神科医の春日武彦先生から統合失調症の前駆症状は「こだわり・プライド・被害者意識」と教えていただいたことがある。

「オレ的に、これだけはっていうコダワリがあるわけよ」というようなことを口走り、「なめんじゃねーぞ、コノヤロ」とすぐに青筋を立て、「こんな日本に誰がした」というような他責的な文型でしかものごとを論じられない人は、ご本人はそれを「個性」だと思っているのであろうが、実は「よくある病気」なのである。

統合失調症などの病態のメカニズム現象学的に描き出すにせよ、多種のホルモンや器官の働きのように唯物的に描き出すにせよ、その症状の発露には必ず周囲からの影響がある。多くは生まれながらにして失調症を病んでいたわけでもなければ自ら好んでそうなったのでもないはずだ。

彼は統合失調症を例に挙げ、「厭な感じ」をここで「病気」に対する嫌悪感と結び付けているように思えるが、正常に対立するものとしての異常、あるいは健常者と対立するものとしての障がい者・・・いわば「健全」を自負するものが「不健全」なものと誰かをレッテル付けして得られる愉悦が見え隠れする。

精神の病にせよ、その背後には彼を取り巻き、彼を追い詰め、彼を発症にいたらせたさまざまな要因とそれにかかわる人たちが居る。だが、病者の周辺に居た彼らのうち彼に刺した針、彼を小突いた指、彼をののしった声のことを自覚している者がどれだけ居るだろうか。ほとんどは彼の発症や境遇を「彼の問題」として突き放している。

一方でうつ病自律神経失調症は特殊な病ではなく、多くの人が生涯のうちに罹病しうる可能性の高い病気でもあるのだ。「今まだ私はそれを経験していない」という人が大多数を占めるに過ぎないのだが、一方で多くの人々が自らの心身の健全さの維持に不安を感じている。誰が貧乏くじを引くか、それが己ではないのかと半ばおびえながら、自分の身の回りにそうした病者が現れたときには、時にあからさまに、時にひそかに、ゆがんだ「健常者の愉悦」を味わいつつ、数多と存在する健康のためのグッズやサプリメントの摂取や健康法の実践に走っているのではないか。漠然とした不安を、誰かが引き受けてしまうのを待ちながら、まるでひとつづつ椅子が取り去られていく巨大な椅子取りゲームをしているようなものだ。この有様もまた病的であると描写するのはおかしいだろうか。

Wikipediaによると先のコラムと似た論調で、内田氏は「われわれ団塊の世代に倫理を求めても無駄だ」とか「「ロスト・ジェネレーション」の内面が「ロスト・ジェネレーション」の問題を創り出している」などと言っているらしいが、そういうのならば「そのような人々の無責任な性向を外界に投影しつづけた結果をわれわれが引き受けているのだ」とロスジェネ達は反論したくなってくるだろう*1。結局どちらも、自分自身の課題として向き合っていない点で同じだ。内田氏の排他的態度も私には「病的」に自らの世代がこの世界にあたえた影響から逃避しているようにしか見えないのだ。

精神に異常や不調を来たした人々が加害者となり、無実の多くの人々が痛ましい事件の犠牲になっている昨今だが、その背後には彼の凶行に対して少しづつ背中を押した数多くの事象や人々が存在する。最後に凶器を手にして犯行に及んだその加害者の背後に、多くの共犯者や教唆者が存在するように私には思える。

確かに、過剰な被害者意識は健全な活動にはなりえず、過去「革命」の背後に病的な被害者意識が横たわっていて、「革命」が成就したあとにそれらの暗い側面が露見する事の多いのは否定しない。しかし、これらの「革命」を起こした「病的なエネルギー」はどこから来たのか。清教徒に対する弾圧であれ、王政に対する民衆の怒りであれ、そこにはいびつになり末期的症状を呈した社会情勢があったのであり、それこそがそもそも「病的」なのだ。「病者は病者である」ということで完結させて決着する話ではなく、「病を生み出すのもまた病んだ者達である」ということではないかと私は思う。だからお互いを「病的」だと断じあい裁きあうのはもうやめにしてほしい。だから、

エンドレスの争いを止めたいと思うなら「とりつく島」は権利請求者の心に兆す、このわずかな自制の念しかない。

権利請求者からのエンドレスな争いを終わらせられるのは本当は誰なのか。彼らでもあるが、彼らだけがその鍵を握っているわけではない。内田氏をはじめとして、この世界を構成し、この世界に影響を及ぼす世界のひとかけらとしての自己の存在を否定して逃避しようとする人たち自身の姿勢が、ことさらに状況を悪くしていく。必要なのは適切な治療法や処方箋であり、それを必要としているのも、それを生み出すのも誰でもない私たちなのではないか。

それに気がつかぬまま「居つくこと」が病であるなら、居つき続けているのはどちらもだ。どちらも病んでいる。

*1:私は心情的にロスジェネの反論の方を支持する、ある世代の残したものを享受することが後の世代にとっては「好条件」にも「制限」にもなるわけで、それは団塊ロスジェネの確執に限らないからだ